【話の展開】
◆第一巻・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・【第一巻に戻る。】
序章の【第一話】鵺(ぬえ)と血統
(前置き)・(神の民人)・(身分差別)
序章の【第二話】大きな時の移ろい(神話〜平安へ)
(国の始まり神話)・(飛鳥)・(大化の改新)・(妙見信仰)
◆第二巻・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・【第二巻に戻る。】
本章の【第一話】源平合戦(源氏と勘解由小路)
(平将門と村岡良文)・(八幡太郎と奥州藤原)・(源頼朝・義経)・(北条政子と執権)
本章の【第二話】後醍醐帝(真言立川と南北朝)
(醍醐寺と仁寛僧正)・(南北朝と真言密教)
◆第三巻・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・【第三巻に戻る。】
本章の【第三話】皇統と光秀(信長・光秀編)
(織田信長と鉄砲)・(桶狭間)・(本能寺)
◆第四巻・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・【◆現在この巻です】
本章の【第四話】皇統と光秀(家康・天海編)
(関が原)・(大坂落城)・(天海僧正)・(系図・双子竹千代)
◆第五巻・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・【第五巻に飛ぶ。】
本章の【第五話】維新の大業(陰陽呪詛転生)
(人身御供)・(江戸期と大日本史編纂)・(陰陽占術)・(明治維新)
【陰陽五行九字呪法】
◆皇統と鵺の影人◆
第四巻・本章の【第四話】 皇 統 と 光 秀(家康・天海編)
(関が原)
◇◆◇◆(関が原)◆◇◆◇◆
豊臣秀吉の一族郎党家臣軍団の中には、妻方の武将が多くいた。
秀吉の正室・高台院(おね/ねね)の実家は尾張国朝日村郷士・杉原(木下)家で、養家は浅野家ある。
北政所として知られる秀吉の正妻「おね(ねね)・高台院」の父親・杉原(木下)定利の出自は、桓武平氏・平貞衡流桑名氏の分流・平光平(杉原光平)を祖とする杉原氏で、土着郷士として杉原ともう一つ木下を名乗る事も在った。
家定は、織田信長に使えていた当時は木下定利を名乗り武将と言ってもさして大物ではなかった。
所が、妹の嫁ぎ先である浅野家(浅野長勝・織田家弓衆)に養女と預けた娘・おね(ねね)とややの二人の内の一人、姉の方の「おね(ねね)」を、信長が使っていた小物・藤吉郎(とうきちろう)に木下姓を与えて嫁がせた所、その木下藤吉郎が主君・織田信長に気に入られて目覚しい出世を始める。
ここで疑問なのは、戦国期の氏族娘の常識的な嫁ぎ先は格上を狙う筈が、出自の定かでない格下の小物・藤吉郎(とうきちろう)に木下姓を与えてまで折角格上の浅野家に養女に出して嫁入りの準備をしていた「おね(ねね)」を嫁がせた事である。
あの戦国期に只の恋愛に拠る婚儀など想定の他で、このおね(ねね)の婚礼、実父の木下定利も養父の浅野長勝も認める家格以上の大きな価値を、藤吉郎(とうきちろう)に見ていたからに違いない。
その家格以上の大きな価値こそが、氏族とは違う山窩衆(さんがしゅう)の長者(棟梁)としての藤吉郎(とうきちろう)の出自だったのなら、納得出来る理由ではないだろうか?
結局、おね(ねね)の兄弟・家定を始めその家定の嫡男・木下勝俊(若狭国後瀬山城八万石秀吉死去後改易)二男・木下利房(備中足守木下家)、三男・小早川秀秋(筑前小早川家)、四男・木下延俊(豊後日出木下家)など杉原(木下)家一族の全てが藤吉郎(とうきちろう)に臣従している。
おね(ねね)養父家の浅野家からも、妹・ややが浅野家を継ぎ、その婿養子・浅野長政(安井長吉)は甲斐国二十二万石を与えられ豊臣政権の五奉行筆頭まで上り詰めたが「石田三成と犬猿の仲だった」と伝えられて居る。
実父の木下定利も養父の浅野長勝も認める家格以上の大きな価値を持つ男、秀吉の顔はけして猿顔では無かったし、信長も、「サル」などとは呼んではいない。生家と言われる中村郷も山深い里ではない。
世間から「サル」と呼ばれる由縁は、やはり「その出自に起因するもの」と思われる。
そしてそれを裏付ける証拠が、木下藤吉郎、羽柴秀吉、豊臣秀吉と出世する過程の随所に、その出自故の特殊な事象が顔を出して居るのである。
この国には、古来から人別にも記載されない山窩(サンカ・サンガ)と呼ばれる山の民(非定住民・狩猟遊民)が居る。
この戦国末期に成ると、かなり共生・交流は出来つつ在ったが、先住系のマツラワヌ(祭らわぬ)民、つまり氏上(氏神)を祭らぬ民の末裔集団・山窩(サンカ・サンガ)と呼ばれる山の民(非定住民・狩猟遊民)が増殖して各地に存在していた。
統治部分や土地は氏族が握っていたから、彼ら末裔集団の縄張りは狩猟に拠る自活遊民や土木、物流(荷役や運輸)などの請負(人海労働)を得意として世の中と関わっていた。
秀吉の出自については、この山窩(サンカ・サンガ)出身説があり、彼のあだ名とされる「サル」は、「山猿から来ている」とも言われて居る。
秀吉には氏姓に通じる記録がまったく出ない上に、蜂須賀(小六)正勝など川並(かわなみ)衆と呼ばれ、河川水運を生業とする野武士集団千二百騎の支援を得ている。
蜂須賀(小六)正勝は小豪族の出自とされるが、蜂須賀は地名であり、「蜂須賀村の小六さん」かも知れない。
蜂須賀(小六)正勝は、戦国期から安土桃山期に掛けて木下藤吉郎・秀吉(羽柴筑前守〜豊臣秀吉)に臣従して活躍、秀吉から阿波一国を与えられて国主大名となっている。
蜂須賀氏の出自は、織田信長の父・信秀の本拠地・勝幡城から東に二キロほどの尾張国・蜂須賀郷に屋敷があった国人領主と言われているが、詳細は不明である。
蜂須賀(小六)正勝は、濃尾平野を流れる木曽川の水運利権を握っていた「川並衆」の棟梁である。
川並衆の配下は二千、その内千八百ほどは戦闘能力がある。
どこの領主にも臣従しない在野勢力(野武士)で、規模から言うと三万石から五万石の小大名位の実力がある。
それにしても、あくまで独立勢力として存在していた「川並衆」とその棟梁・蜂須賀(小六)正勝の独立を、何故に織田信秀を始めとする戦国領主達が黙認していたのだろうか?
そこに考えられるのは、蜂須賀氏の「特殊な出自の為ではなかったのか?」と推測が膨らむのである。
蜂須賀(小六)正勝とは義兄弟の契りを交わした仲の前野長康(まえのながやす)は、豊臣秀吉(羽柴秀吉)の古くからの家臣で戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・大名である。
この前野長康(まえのながやす)は俗に言う秀吉の墨俣城一夜城築城に協力した頃からの最古参の家臣だった。
前野は実父の旧姓で、尾張国葉栗郡にあった松倉城の領主である坪内氏の当主・坪内勝定の娘婿になり、坪内長康(坪内光景)とも名乗っている。
秀吉の出世に伴って最終的には但馬国・出石に十一万石を与えられたが、その後関白・豊臣秀次の仕置きに伴って秀吉に改易切腹させられている。
ここで注目したいのは、川並衆の統領・蜂須賀(小六)正勝の実力である。
前野長康(まえのながやす)は小なりとも城持ちの豪族で、蜂須賀(小六)正勝とは縁戚になる尾張国中村・生駒氏(生駒吉乃の生家)も有力豪族であるから、蜂須賀党の頭目・蜂須賀(小六)正勝の実力は城持ちクラスの力がある豪族と互角だった事が伺える。
その蜂須賀(小六)正勝も前野長康(まえのながやす)も木下藤吉郎時代から秀吉の出世に協力し、やがて家臣に納まっている。
伊勢湾の海運に関わる商業都市「津島湊(つしまみなと)」を支配し、港の管理に拠る海運の利権を握って力を蓄えていた織田家と、木曽川河川の海運を握る川並衆に、争うか手を結ぶかの接点があっても不思議はない。
秀吉を重用した織田信長と言い、蜂須賀、前野、生駒と言い、木下藤吉郎(羽柴秀吉)に小才があったくらいでは重用したり家臣として心服はしない筈で、何か特別の血筋でも秀吉になければ説明が着かない謎である。
もし蜂須賀(小六)正勝が、伝えられる小豪族の出自であれば、先祖の氏姓は当時でも公表された筈である。
そして、それだけの血筋と支配する野武士集団があれば、例え枝葉とは言え、当時ろくに部下を持たない小者の木下藤吉郎(秀吉)に助力する必然性は無い。
つまり、川並(かわなみ)衆は山窩(サンカ・サンガ)の集団であり、蜂須賀(小六)正勝はその頭目だった。
そして日吉丸(木下藤吉郎・秀吉)自身も、蜂須賀小六さえ心服させる山窩(サンカ・サンガ)の総領家(先住系の王家)の出自だったのではないだろうか?
血統至上主義の当時に在って、一族の棟梁(武家)が継子を得るのは命題であるから側室・妾は当然の時代で、それでも実子を為せない上杉謙信や豊臣秀吉は「男性精子に欠陥が在った」としか考えられない。
また、殿上人(高級公家)を中心とする血統至上主義社会では、特に虚弱精子劣性遺伝が進んで逆に養子を貰うのが普通の状態に成っていた。
つまり豊臣秀吉は、男性精子に欠陥が在るほどの「第三勢力として名門の出自だった」との推測が成り立つのである。
豊臣秀吉は、氏族系百姓(商人や工業主、鉱山主、船主、村主、庄屋、名主、地主など)と専業武士(統治と武力行使を担当)の間に明確な線引きをして、「太閤刀狩」と言う「身分制度改革」を強力に推進した。
その理由こそが、彼自身の出自が支配階級の血統である氏族系ではなかったからではないだろうか?
つまり豊臣秀吉は、山窩(サンカ・サンガ)説を採れば氏族系百姓でさえ無かった。
だから、古来からの血統を重視した氏族制度を、「太閤刀狩」のその時点でご破算にして、自分やその一党を含め乱世で頭角をあらわした桃山時代当時の専業武士(統治と武力行使を担当)を、その出自に関わり無く「新たな支配階級として確定させる新秩序の確立と言う狙いがあったのでは」と疑えるのである。
何しろ秀吉の直系の家臣は、蜂須賀小六を始め、大半が氏族系の出自ではない事を考えると、「太閤刀狩」の原点が見えるのである。
信長ほどの男が、単に「目端が利く」程度の男を、その才知だけで認めるはずは無い。
日吉丸(木下藤吉郎・秀吉)に、もっと大きな価値があったのである。
つまり秀吉には、氏族には関わり無い特殊な人々の動員力が在った。
それが、信長の認めた秀吉の力量だった。
氏族の草と深い関わりを持ち、彼らを自在に操る明智光秀と氏族には関わり無い特殊な人々の動員力を持つ羽柴秀吉(木下藤吉郎)は、織田信長の天下布武の両輪だったのである。
尾張国中村郷に広大な屋敷を構えていながら「氏素性が無かった」と言われる日吉丸(秀吉)の出自、不都合なら他の武将の様に氏族の系図を買うなり乗っ取るなりをすれば良い。
所が秀吉は、誰にでも解る形で妻方の姓・木下を名乗ってそれ(系図の作文)をしなかった。
木下藤吉郎・・・羽柴秀吉が羽柴を名乗ったのは「織田家の有力武将・丹羽氏と柴田氏から一字ずつ貰う」と言う世間的にも解り易い手段だった。
この事自体も、敢えて「氏素性が無い事」を世間に強調しているようで、「何処かの誰か達に何かをアピールし続けていた」と受け取る方が至極まともな受け取り方ではないだろうか?
考えられるのはただ一つ、「氏素性が無い事」は、秀吉にとって何らかの価値が在った。
つまり、「氏素性が無い者達」の棟梁として君臨し続ける為に、氏族の系図取得は邪魔だったのではないだろうか?
そしてそれは、奉(祭)らわない者として正史には現れない大きな勢力が秀吉の出現で融合される桃山期まで存在していて、そうした出自などに拘らない天才・織田信長がその仕掛け人だったのではないだろうか?
明智光秀には日向の守と言う官位と惟任(これとう)と言う九州名族の姓、丹羽長秀には惟住(これずみ)と言う九州名族の姓を朝廷より与えさせていながら、羽柴秀吉には筑前守の官位だけで姓を与えなかった事も、或いは秀吉が氏族以外の族長(奉(祭)らわぬ者)の血筋だった証かも知れない。
この辺りに、天才織田信長が木下藤吉郎・秀吉を重用した秘密が在り、れっきとした狙いが有った。
日吉丸(木下藤吉郎)召抱え当時の織田家の兵力は、出先の砦まで引っ掻き集めても精々兵五千足らず。野武士集団とは言え兵千二百は、数万石の武将に相当する。
どうせ農閑期に戦をする半農武士ばかりだった時代である。
正直木下藤吉郎を雇った頃のまだ尾張の弱小大名家の織田信長にして見れば、川並衆の武装野武士集団千二百騎は、織田家にとって大きかった。
山岳戦に強く、土木工事、利水工事に強い川並(かわなみ)衆は、信長の戦略上必要な氏姓に関わらない第三の勢力だった。
太閤記で秀吉出世談の一つに挙げられる逸話である墨俣一夜城の迅速な整備も、他の信長配下の武将達が修復の手に余った倒壊した岐阜城々壁の修理を秀吉が木下藤吉郎時代に短期間で成し得たのも、彼がそうした土木職人群の首領だったからである。
実の所、乱世に在ってリアリスト(現実主義者)の織田信長が価値のない者を登用する訳がない。
益してや、明智光秀と羽柴秀吉は、新参でありながら織田家内で破格の扱いを受けている。
つまり織田信長が浅井家と朝倉家を滅ぼした頃には、勘解由(かでの)と源氏の草々に通じ、自在に操る明智光秀と山窩(サンカ・サンガ)衆の棟梁・羽柴秀吉の両名は「信長の左右の腕、車の両輪」とも言うべき存在である。。
どの古文書にも記されてはいないが、織田信長が目を付けた明智光秀と羽柴秀吉の各々が持つ秘められたその特殊な能力は、意外性をも武器として「秘してこそ効果がある」と言うものだったのである。
有能な補佐役・調停役の豊臣秀長は秀吉の異父弟と言われ、母親の名は「なか」で同じだが父親が「竹阿弥」と言う母親の再婚相手で、義理の父になり実父とは違う。
一説には「実の父」と言われて居る木下弥右衛門は百姓とも足軽とも伝えられるが、情報が錯綜していて実は妻のネネ(オネ)の父親で、秀吉(日吉丸)の実父ではない。
すると、実父は何者なのか?
故郷中村の地元に伝わる伝承では、日吉丸の生家は「広大な田地を有していたと伝わる郷士」または「村長級の富裕層であった」と伝わっている。
その謎の秀吉の実父が、山窩(サンカ・サンガ)集団の相当の実力者だった。
長年資金を備蓄した裕福な状態での五万石の大名でも、千五百〜二千騎の兵を揃えるのがやっとである。この時代、川並衆と言い、雑賀、根来、伊賀衆と言い、主を持たぬ独立勢力は、そこかしこに居た。
織田信長は、奴婢(ぬひ)としての記載も無い「治世にまつらわぬ山の勢力」を味方に引き入れる為に、山窩(サンカ・サンガ)の総領家を継ぐ男、日吉丸を召抱え、木下弥右衛門の娘ネネ(オネ)を娶らせて木下姓を名乗らせている。
氏姓に拘らない信長ならではのこの方策が、もう一方の光秀指揮下の影人郷士とともに、信長の天下布武を推進させたのである。
この豊臣秀吉が出自が、天下を取った後の豊臣家と徳川家康との情報戦に大きな影を落とす。
秀吉が雑賀、根来、甲賀、伊賀などに冷たい筈である。
信長は、役に立ちさえすれば出自など拘らなかったが、他の者は拘った。
そしてそれは、どちらか一方ではなく、双方だった。
しかも陰陽修験は、山窩(サンカ・サンガ)川並衆に取って大昔から敵対関係にあった存在である。
つまり、陰陽修験に端を発する光秀指揮下の影人郷士と、先住被征服民族に端を発する山窩(サンカ・サンガ)は、二千年を超える対立の歴史を引きずっていて、志ある陰陽修験系郷士(影人)は、こぞって徳川方に付いたのである。
これは別の面で、血統の争いでもあった。
秀吉は朝廷から関白、次いで太閤(たいこう)と言う官位と、豊臣(とよとみ)と言う賜姓(しせい)を貰い氏族の仲間に入ったが、歴史ある氏族達は腹の中で面白くは無かったのである。
先住系の民・山窩(サンカ)と思しき権力者・豊臣秀吉の出現は、庶民には歓迎されたかも知れないが、氏族には認め難いもので、「猿(さる)」の陰口もその現れだった。
この物語を、最初からここまで読み進めた貴方には、もうお判かりの筈である。
百姓は本来有姓の氏族であるから、秀吉が百姓なら木下の姓など貰う必要は無いのである。
秀吉が、姓を持たない部族の有力者であったからこそ、秀吉は部族仲間の助力で思いも寄らぬ実力を発揮し、天下を手中にした。
しかし彼の死後、徳川幕府成立すると秀吉恩顧の非氏族系有力大名(蜂須賀氏、福島氏、加藤氏等)は次々と粛清され、改易、減封などでその姿を消して行ったのである。
秀吉の戦法に、水攻め、条件諜略などの直接武力に訴えない戦法が多いのは、「武士は戦うもの」とする思考とは些(いささ)か考えを異とするいかにも庶民(山窩感覚)出自の思考の発露である。
味方の損害は極力軽微に抑えるこの戦法、実は弟の木下小一郎(後の大納言秀長)の発案が多かった。
「巡り合わせ」と言えばそれまでだが、秀吉のように出自(氏素性)が定かでない者にしてみれば、闇に生きる影人の存在は不気味過ぎた。
この際、奴らを根絶やしにするのが、豊臣家安泰と考えた。
それでも長い事権力者の奇麗事で刷り込まれた武士の建前を、庶民の感覚(山窩感覚)で理解した武士の立場に、間諜活動は卑怯でさげすむべきものだったのである。
これは明らかに誤りである。諜報機関を持たない権力組織など存在しない。
むしろ秀吉は、彼らを手懐けるべきだったのである。
所がその部分は、お館様が光秀に任せていたから、その重要性について、秀吉には認識が無い。
これが豊臣家滅亡の遠因になる。
暗殺、謀殺を含む諜報戦にからきし弱かったのだ。
小牧・長久手(こまき・ながくて)の戦いを乗り越え、徳川家康を臣従させた羽柴秀吉には次の仕事が待っていた。
羽柴秀吉は、未だ中央を制しただけである。
群雄割拠の戦国末期、豊臣政権が確立する直前の日本列島には夫々の地に下克上を勝ち抜いた群雄達が覇を唱えて夫々に君臨して居た。
早い時期に下克上で地盤を固めた先祖からの世襲の関東・北条氏以外、ほとんどは自分の代で切り取ったもので、何も考えない者にこの位置は在り得ない。
つまり知力と武力を兼ね備えた勝ち残り組みが、秀吉の前に立ちはだかっていたのだ。
東北に覇を唱えた伊達政宗、広大な関東を押さえた北条氏、上越の最強軍団・上杉景勝、四国をほぼ手中にしつつ在った長宗我部元親、中国地方の覇を唱えた毛利輝元、北部九州を抑えながら南部九州の島津義弘に制圧されかかっている大友宗麟など、それらの整理が信長が遣り残した「天下布武」の仕上げの仕事だった。
中国地方の毛利輝元は天下の情勢を様子見をしていたが、千五百八十三年(天正十一年)の賤ヶ岳の戦いの後には人質を送って秀吉に帰順臣従した。
その後起こった四国征伐や九州征伐にも輝元は先鋒として参加して武功を挙げ、秀吉の天下統一に大きく寄与した結果、秀吉より周防・長門・安芸・石見・出雲・備後などの所領を安堵されている。
羽柴秀吉は天下の覇者となるべく千五百八十五年(天正十三年)四国への出陣を決定し、淡路から阿波・備前から讃岐・安芸から伊予の三方向から弟の羽柴秀長を総大将、副将を甥の羽柴秀次と定め四国への進軍を命じた。
讃岐・阿波で次々に秀吉軍の進撃を許し谷忠澄や白地城の重臣達も長宗我部元親に降伏を進言した為、蜂須賀正勝との交渉により元親は降伏し、長宗我部氏は土佐一国を安堵され豊臣政権に繰り込まれ、その他の三ヵ国は没収された。
翌年、千五百八十六年(天正十四年)成ると、羽柴秀吉は九州で大友氏を追い詰めて九州統一を目前にしていた島津氏の島津義弘を相手に九州の役(きゅうしゅうのえき)を起こし、約十ヶ月掛けて島津氏を薩摩領近くの出水、川内まで追い落として降伏させている。
島津氏は九州の大部分を没収されたが、島津義弘に薩摩・大隅の二ヵ国を安堵され九州は平定された。
千五百九十年(天正十八年)に後北条氏の五万の兵が篭城する居城・小田原城を総計二十一万に上る軍勢で包囲し、北条氏政・北条氏直父子を投降させる小田原攻め(小田原平定)を敢行する。
この小田原攻めの時点で東北に覇を唱えた伊達政宗は羽柴秀吉に臣従し、小田原攻めに加わって領地は減封されたが伊達家は大名として生き残っている。
この羽柴秀吉の天下人を確実にさせた一連の小田原平定・四国平定・九州平定、実は作戦参謀役の弟・羽柴秀長の「軍師として発揮した力は大きい」と言われている。
織田信長が天下布武を目指して京の都に上洛を果たし、周囲の有力大名や一向宗の包囲網の駆逐に励んでいたちょうどその頃、奥州の地では伊達政宗(だてまさむね)と言う竜が頭角を現し、盛んに領国を広げていた。
伊達家第十七代当主(仙台藩初代藩主)伊達政宗(だてまさむね)は伊達藤次郎政宗と呼ばれ、伊達家中興の祖と呼ばれる第九代当主・伊達大膳大夫政宗の名に因(ちな)んで正宗を名乗っている。
政宗(まさむね)の伊達家の祖につては、異説もあるが一般的に藤原・山蔭流の待賢門院非蔵人・藤原光隆の息子である藤原朝宗(伊達朝宗/だてともむね)に比定されている。
平安時代末期の武将・伊達朝宗(だてともむね)は中央で官位を持つ藤原流であるとともに常陸国伊佐郡に勢力を張る在地豪族でもあり、源頼朝が挙兵した際には、母方の従兄弟という関係もあってその麾下に馳せ参じた。
奥州合戦に際しては、四人の子息とともに前衛として出陣、敵方の最前線基地である信夫郡の石那坂の城砦を攻略して、大将の佐藤基治を生け捕りとした。
藤原朝宗(伊達朝宗/だてともむね)はこの功によって激戦地阿津賀志山がある陸奥国・伊達郡を賜り、これを契機に「伊達を称した」と言う。
政宗(まさむね)は、千五百六十七年の九月に生まれたとするから、豊臣秀吉とは三十歳、徳川家康とは二十四歳も年下になり、政宗誕生の翌年には織田信長が足利義昭を奉じて大軍の兵を率い、畿内を制圧しつつ上洛している。
千五百七十年(元亀元年)の姉川の合戦が政宗が四歳の時で、千五百八十二年(天正十年)六月の本能寺の変当時でも漸く政宗は十六歳で、つまり遅れて戦国期に生まれて来た不運の名武将だったのかも知れない。
千五百六十七年(永禄十年)出羽米沢の米沢城に生まれた伊達政宗(幼名・梵天丸)は、五歳のみぎり疱瘡(天然痘)に罹り右目を失明する。
当時はまだ天然痘を治す治療方法はなく、死の病であった。
政宗は千五百七十七年(天正五年)に数えの十一歳で元服、二年後の十三歳で仙道の戦国大名・三春城主田村清顕の娘・愛姫を正室としている。
元服から四年、政宗は隣接する戦国大名・相馬氏への侵攻に十五歳で初陣し勝利を収める。
この相馬氏との合戦で見せた政宗の政宗の武将としての素質を見抜いていた父・輝宗は、四十一歳若さで家督相続を伝え十八歳の正宗に家督を譲り伊達家十七代を継承する。
その後正宗は、小手森城主の戦国大名・大内定綱や二本松城主の戦国大名・畠山義継など近隣武将と戦い、反伊達連合軍を形成した佐竹氏・蘆名氏など三万の連合軍を安達郡・人取橋付近で六千に満たない兵力で迎え撃ちかろうじて勝利を納める。
人取橋の戦いに勝利した政宗は正妻・愛姫の実家田村氏の協力を得て更なる侵攻を行う。
千五百八十八年(天正十六年)に安積郡郡山城・窪田城一帯をめぐる郡山合戦にて伊達政宗軍と蘆名義広・相馬義胤連合軍との戦闘で相手国の領土を奪い、現在の福島県中通り中部にあたる地域まで支配下に置く戦国有数の大名となる。
しかし中央では既に豊臣秀吉が天下を掌握しつつあり、朝廷から関白の位を得て関白・豊臣秀吉は関東・奥州(東北)の諸大名、特に関東の北条氏と奥州(東北)の伊達氏に対して私戦禁止命令を発令した。
だが、政宗は秀吉の命令を無視して戦争を続行した。
会津の蘆名氏・佐竹氏の連合軍を摺上原の戦い(磐梯山麓・猪苗代町付近)で破りさらに兵を須賀川へ進め二階堂氏を滅ぼす。
次いで戦国大名・白河義親、石川昭光、岩城常隆、大崎氏、葛西氏を服属させ現在の福島県の中通り地方と会津地方、及び山形県の南部宮城県の南部を領し、南陸奥の諸豪族や宮城県や岩手県の一部を勢力下に置いて支配し、全国的にも屈指の領国規模を築く大々名に成っていた。
だが、政宗には転機が訪れていた。
正宗が奥州(東北)に覇を唱えた頃には織田信長の統一事業を継承した豊臣秀吉が「天下布武」の最終段階に漕ぎ着けていて、秀吉から上洛して恭順の意を示すよう促す書状が何通か届けられる。
その秀吉の恭順を促す書状を当初無視していた正宗も、同盟関係に在った関東に大国を領する後北条氏が秀吉の二十万余の大軍に攻められる(小田原征伐)に及んで、後北条氏に味方して秀吉と戦うべきか秀吉方に参陣して小田原攻めに参加するか直前まで迷っていた。
出した結論が、秀吉に服属し小田原に参陣す事だった。
伊達政宗は戦国の世に生まれて、少なくとも奥州制覇を目論んだ男である。
しかし残念な事に奥州最大の戦国大名に手が届いた頃は、既に中央では豊臣秀吉が関東の後北条氏以西を制覇してその力は強大だった。
引く事も将の器の内で、ここで意地を通すのが必ずしも名将ではない。
圧倒的な秀吉の力を前にして、政宗は伊達家の存続を考えざるを得なかった。
伊達政宗の助勢援軍を頼りに小田原に篭城していた北条氏政・北条氏直親子は秀吉に降伏し、北条氏の滅亡と正宗の服属により残されていた関東と奥州は平定され、秀吉の天下取りは達成された。
関白殿下・豊臣秀吉の兵動員数を考慮した政宗は秀吉との対立をあきらめ服属する事で、会津領攻略は秀吉の令に反した行為であるとされた会津領などは没収されたが七十二万石になった本領を安堵される。
その後政宗は葛西大崎一揆に絡んで嫌疑をかけられ、扇動の書状は偽物である旨秀吉に弁明し許されるが、米沢城から玉造郡岩手沢城に五十八万石に減封されての転封となり、移封先の城名を岩出山城に変えている。
豊臣秀吉が朝鮮半島と中華帝国の平定の野心を抱き朝鮮出兵を決めると、政宗は従軍して朝鮮半島へ渡る。
この朝鮮出兵時に政宗が派手好みの秀吉が気に入るような戦装束を自分の部隊に着させ伊達家の部隊に誂(あつら)えさせた戦装束は非常に絢爛豪華なもので、上洛の道中において盛んに巷間の噂となった。
これ以来派手な装いを好み着こなす人を指して「伊達者(だてもの)」と呼ぶようになって「伊達男」の語源になった。
太閤となり関白職を甥の豊臣秀次に譲った秀吉だったが、その関白・豊臣秀次が秀吉から謀反の疑いをかけられ切腹した時には秀次と親しかった政宗の周辺は緊迫した状況となる。
この時母方の従姉妹に当たる最上義光の娘・駒姫は秀次の側室になる為に上京したばかりであったが、秀次の妻子らと共に処刑されてしまう。
政宗自身も秀吉から秀次謀反への関与を疑われるも、最終的には無関係であるとされ連座の難を逃れている。
いずれにしても、織田軍団相手に不敗を誇った上杉家に直江兼続が在る限りの警戒と同様に、ほぼ奥州を平らげた伊達政宗の力量を秀吉は警戒して事あるごとに牽制していたから、それが正宗にとって忍従の日々だった事は事実である。
秀吉の名軍師として江戸期にでっち上げられた竹中半兵衛や黒田勘兵衛と違い、この両名よりも、大納言豊臣秀長(羽柴 秀長・とよとみのひでなが・はしばひでなが)の方が実質の軍師らしく兄・秀吉の片腕として辣腕を奮い、文武両面での活躍を見せて天下統一に貢献した。
少し横道に逸れるが、大納言豊臣秀長の話しの前に竹中半兵衛や黒田勘兵衛の事を記述して置く。
羽柴秀吉の名軍師として世に有名な竹中半兵衛重治(たけなかはんべえしげはる)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての実在の武将で、羽柴秀吉(豊臣秀吉)の名参謀として同時代に黒田孝高(黒田官兵衛)と並び称される参謀として活躍し、後の小説等では天才軍師と称されている。
しかしこの竹中半兵衛、羽柴秀吉の軍師としては実は日本人が認識しているほど策士として活躍した記録は沢山は無い。
竹中家は、斉藤道三が下克上で手に入れた美濃国・斎藤氏の家臣で、美濃不破郡・岩手城主の父・竹中重元の死去により家督を継いだ半兵衛重治は、美濃・菩提山城主となって父・斉藤道三を討って美濃国主に納まった斎藤義龍に仕えた。
竹中半兵衛が策士として後の世に残ったのは、斉藤義龍亡き後を継いだ主家・斉藤龍興がどうしょうも無い主君だった為に、龍興を諌める為にその居城・稲葉山城(後の岐阜城)を「僅か十六〜七人の手勢で乗っ取る」と言う快挙を成した為である。
竹中半兵衛が男を挙げた稲葉山城(後の岐阜城)乗っ取り劇は大胆と言えば大胆だが、乗っ取られた側からすると半兵衛が「味方の武将」と言う油断もあり虚を突かれた格好で、条件が揃っていなければそう易々とは成功しない。
この竹中半兵衛の稲葉山城(後の岐阜城)乗っ取りを「美濃国攻略の好機」と捉えた織田信長の仕官の誘いを半兵衛は断り、城を龍興に返して浪人となり、一時浅井長政の客分になっていた。
その後信長の侵攻により美濃国主斎藤氏は滅亡すると、信長は秀吉を半兵衛の説得に遣わして再び半兵衛に仕官の誘いをさせるが、結果的に半兵衛は織田家の直参を断り羽柴秀吉に仕えている。
信長の侵攻により美濃国々主斎藤氏は滅亡し、龍興は逃亡して越前国の朝倉家に身を寄せている。
羽柴秀吉に任官後の竹中半兵衛重治(たけなかはんべえしげはる)は、織田信長の越前朝倉家攻めで織田家と浅井家が敵対関係になる。
すると半兵衛重治は、過っての客分時代の浅井人脈を使って調略活動を行い、浅井家側の武将数名を織田方に寝返させる働きをしたが、秀吉に従って姉川の戦いや中国遠征に参加するも宇喜多氏の備前八幡山城を調略によって落城させた以外大した戦功は無い。
それよりも、同僚の黒田官兵衛孝高(くろだかんべいよしたか)が織田信長に対して謀反を起こした荒木村重を説得に行って捕縛され、黒田官兵衛の寝返りを疑った信長に、人質の長男の松寿丸(黒田長政)殺害を命じられたがこれを助けて官兵衛から感謝されている。
同じく羽柴秀吉の名軍師として世に有名な黒田官兵衛孝高/黒田如水(くろだかんべいよしたか/くろだじょすい)は戦国時代、安土桃山時代、豊臣秀吉の側近として仕え、調略や他大名との交渉などに活躍して豊前国中津城主と成った戦国時代〜江戸時代前期にかけての武将・大名である。
播磨国の西播最大の大名・小寺政職に仕えて姫路城代を勤めていた黒田家は、官兵衛の父・職隆の代に主君・小寺政職から「職」の一文字を与えられ養女を貰い受けて小寺の名字を名乗っている。
小寺(黒田)家の家督を継いだ官兵衛は、進行して来た織田方に付く為に奔走して播磨の大半をまとめ、羽柴秀吉を姫路城に迎え入れて城を明け渡し、その与力となる。
その後、羽柴秀吉の幕僚と成った黒田孝高(黒田官兵衛)は、織田信長に対して謀反を起こした荒木村重に対して有岡城へ赴き帰服を呼びかけるが、城内で捕縛され土牢に押し込められてしまう。
黒田官兵衛の寝返りを疑った信長に、竹中半兵衛は人質の官兵衛長男・松寿丸(黒田長政)殺害を命じられたがこれを助けて官兵衛から感謝されている。
一年後に荒木村重の有岡城は落城し、黒田官兵衛は家臣の栗山利安に拠って救出されたのだが、長期の入牢で関節に障害が残り歩行が不自由になって、以後の合戦の指揮には輿を使う始末だった。
この荒木村重を破ったのは、後の織田家の相続会議・清洲会議に四宿老の一人として名を連ねる池田恒興(いけだつねおき)で、恒興はその功に拠り村重の旧領の内摂津有岡十二万石を領して大名の列に加わっている。
高松城水攻めの最中、京都で明智光秀による本能寺の変が起って信長が横死し、羽柴秀吉が中国大返しで畿内に戻る時に黒田官兵衛は毛利輝元と和睦交渉に成功している。
また、黒田官兵衛は羽柴秀吉と柴田勝家の賤ヶ岳の戦いに先立ち、毛利との外交に手腕を発揮して毛利輝元を味方に着けている。
織田信雄、徳川家康連合との小牧・長久手の戦いの頃には竹中半兵衛に助けられた長男・松寿丸が元服して黒田長政を名乗り、秀吉の紀州攻め・四国攻めが始まると根来盛重、鈴木重意、長宗我部元親の兵を破って長政は武将としての名声を上げた。
豊臣(羽柴)秀吉に臣従していた黒田官兵衛、黒田長政親子は、秀吉亡き後力を着けて来た徳川家康に接近する。
つまり、「処世術に長けている」と言う事で、関が原では東軍として参戦している。
黒田家は、関ヶ原の合戦の後に家康から勲功第一として筑前国名島(福岡)で五十二万三千石を与えられ大藩と成ったが、これは官兵衛の知恵よりも息子長政の武勇に拠る所が大きい。
息子の黒田長政が筑前国々主となると、黒田官兵衛(如水)も中津城から福岡城に移り、そこで亡くなるまで隠居生活を送った。
しかし、いずれにしても竹中半兵衛重治(たけなかはんべえしげはる)と黒田官兵衛孝高(くろだかんべいよしたか)が、そこそこの働きこそすれ秀吉に天下を取らせる程の「大きな働きをした名参謀」とするのには無理があり、「その一端を担った」とする方が正しい。
さて、本筋の秀吉の名軍師・豊臣羽柴秀長は幼名を小竹(こちく)、長じて小一郎と言い、秀吉の異父弟(一説には同父弟)とするのが一般的である。
秀長は、秀吉がおね(ねね/高台院)との婚礼後に足軽小頭に出世したのを機会に声を掛けられて臣下となった。
しかし秀長の父・竹阿弥(ちくあみ)は織田信長の父・信秀の同朋衆(雑務や芸能にあたった御坊主衆)で、「武士の心得など無かった」と言われる秀長が、僅かな期間で秀吉の補佐をする武将になったのは稀な才能と言えるのではないか。
秀長は生来の知恵者に生まれたらしく、度重なる兄・秀吉の戦闘作戦には常に傍らに在って指揮を補佐し、「的確な助言に定評が在った」と言われている。
温厚な人柄で、兄を立て兄を助ける補佐役に徹し天下統一に貢献、後には名調整役として各大名からも頼りにされる人格者であった。
千五百八十三年(天正十一年)木下小一郎から羽柴長秀を名乗り、従五位下美濃守に叙任され、翌年には長秀から秀長に改める。
羽柴秀長は、秀吉の天下掌握後は大和国の郡山城に入り、百万石を超える大身となり、千五百八十六年(天正十四年)従三位に昇叙して権中納言、翌千五百八十七年(天正十五年)従二位に昇叙し、権大納言となり大和大納言と呼ばれる。
天下を掌握した秀吉は、その他にも乏しい親族を次々に取り立て、甥の秀次を近江国八幡四十三万石、秀勝を丹波国亀山城主にそれぞれ取り立て、身内で固めて淀の方(茶々)との間に出来た実子の鶴松を後継者と定めた。
この辺りから豊臣家に暗雲が漂い始める。
秀吉の両手とも知恵袋とも評された、豊臣秀吉の弟・大納言秀長の病である。
千五百九十年(天正十八年)に天下統一を果たした翌年から四年の間に、頼りになる弟の大納言秀長を始め、長子の鶴松、丹波国亀山城主の秀勝そして秀長を継いだ秀保が相次いで死んでしまった。
この一連の「秀吉の身内」の相次ぐ死、誰かの呪いが効いているのでなければ、明智(南光坊)と雑賀孫市の仕掛けた陰謀、病死に見せかけた「暗殺ではない」と言う証拠はない。
さて大藩主となった丹羽長秀(にわながひで)の丹羽氏のその後だが、丹羽長重(にわながしげ)の代になって浮沈が激しく何故か歴史の表舞台で華々しい活躍はしていない。
それと言うのも、丹羽長秀の嫡男・丹羽長重は越前・若狭・加賀二郡百二十三万石万石を相続したのだが、百二十三万石は突出して大封の為に羽柴秀吉には長秀の病死を期に丹羽氏の勢力を削ぐ意志が芽生えていた。
千五百八十五年(天正十三年)に父・長秀が没して家督を相続したばかりの長重(ながしげ)に、賤ヶ岳の戦いの後始末・佐々成政の越中征伐に従軍した際の長重の家臣に「佐々成政に内応した者がいた」との秀吉が嫌疑を掛け、越前国、加賀国を召し上げて若狭一国十五万石に減封の仕置きをした。
更に重臣の長束正家や溝口秀勝、村上義明らもヘッドハンティングで召し上げられ、更に二年後の九州攻めの際にも家臣の狼藉を理由に若狭を取り上げられ、丹羽氏は僅かに加賀加賀国松任(現白山市)四万石の小大名に成り下がってしまう。
もっともこの時期、羽柴秀吉は豊臣政権確立の為に盛んに血縁関係の大名を京・大阪の周辺に配置していた為、丹羽氏の百二十三万石はその原資に充てられた匂いがする。
その後丹羽長重(にわながしげ)は、小田原攻めに従軍した功によって、加賀国小松十二万石に加増移封され、この時に従三位、参議・加賀守に叙位・任官されたて小松侍従(小松宰相)と称された。
また長重(ながしげ)は、千六百年(慶長五年)の関ヶ原の戦いでは西軍に与して東軍の前田利長と戦った為、戦後徳川家康から一旦改易の処分を受けている。
その長重(ながしげ)が、三年後に常陸古渡藩一万石を与えられて大名に復帰し、千六百十四年(慶長十九年)からの大坂冬の陣、翌年の大坂夏の陣では徳川方として参戦して武功を挙げ五年後に常陸江戸崎藩二万石に加増移封された。
後日談だが、その後の長重は余程将軍家の覚えが良かったのか、その加増移封の更に三年後に陸奥棚倉藩五万石に加増移封され、更に五年後の千六百二十七年に陸奥白河藩十万七百石に加増移封ぜられて初代藩主となり、白河城を築いている。
天下を統一した羽柴秀吉は、出自(氏素性)が定かでない新興勢力である。
しかし、永い事日本の歴史に物を言ったのは、「お血筋」である。
「お血筋」さえ良ければ世間はその存在を認め、盟主に祭り上げた。
その「お血筋」に関わりの無い人物羽柴秀吉が、にわかに朝廷から豊臣の姓を賜り、「関白だ太閤だ」と、ノサバリ始めた。
当然ながら、「お血筋」を誇る旧勢力は内心不満で、唯一対抗しうる人物徳川家康に期待した。
影のプロジェクトは、影人達の支援を得て、順調に進んだ。
雑賀の女間諜は、当時最強だった。
孫市は、秀吉の紀州(根来衆・雑賀衆)征伐から生き残ったそのほとんどを、秀吉血族の奥向き女房の元に忍ばせている。
相次ぐ秀吉身内の死は、「雑賀、根来の怨念の呪い」と言って良い。
そして、大きな意味が在った。
この親族城主配置体勢が崩壊した事で、明らかに豊臣家(秀吉)の力を削ぐ出来事だったからである。
信長亡き後、秀吉にアドバイスしていたのは千利休と異父弟の大納言・豊臣秀長である。
もう一人の千利休は氏族出自の他人だから、いずれ袂を分かつ工作をすれば形が付く。
「孫市、やはり知恵袋の秀長が問題じゃ。あ奴が居なければ、秀吉など直ぐに事に困る。」
「南光坊、案じるな、既に大和郡山城には手の者を放っておる。奥向きの女性(にょしょう)も二人・・・」
「して、首尾は?」
「病に臥せり、最早(もはや)時間の問題でござる。」
「事が露見せぬ内に、秀保も、同様にのぅ。」
「家康殿は賀茂のお血筋、秀吉は鵺(ぬえ)・土蜘蛛の類、何が関白じゃ、天下は豊臣にはやれぬ。」
「やはり、お主も拘(こだわ)るか?」
「拘(こだわ)らいでか、この国は永い事それでやって来た。光秀を助力するはその為ぞ。」
「そぅよのぅ、どうやら我ら二人、天命を持たされてこの世に居るやも知れん。孫市、まぁ飲め。」
「おぅ、今宵は酒が旨い。」
「秀吉・・・か、奴は足りるを知らぬ男じゃ。」
「如何にも孫市様、しかしながら足りるを知らぬは何処(いずこ)の武門にても同じでござれば・・・」
「光春殿の言もっともじゃが、奴は山猿で武門ではない。皆が秀吉の威光に臆する事なければ良いが・・・」
「それは家康殿に取っても当方に取って吉でござれば、秀吉亡き後、事が起きればお味方する者も多いと存知ますぞ。」
「孫市殿、それにしても秀吉に何時までも生きていられてはのぅ〜。」
「お主も気が短い。わしは抜かりなく僅かづつ盛らして居るわ、秀吉も永くはない。」
「孫市起こるな、飲め。それがわしの生き甲斐じゃで。」
「言われなくても、お主の意向は心得て居るわ。」
孫市も光秀も壷に嵌った酒は底なしで、語りは尽きない。
「実は、淀城の鶴松、丹波国亀山城の秀勝の元にも放っておる。そちらも警備は甘い故、少しずつ盛っておる。」
「そうか、しかし全て殺ってしまっては、明らかに不自然じゃ。」
「それも考えて、近江八幡の秀次だけは、後々噂を流して仲違いささせる積りじゃ。見て居れ、秀吉め自ら甥を始末するぞ。」
「そうよのぅ、秀次は関白じゃが、拾丸(ひろいまる/秀頼・秀吉次男)が産まれたで、近頃は秀吉が疎んでおる。秀吉の周りを時をかけて剥がして行けば、やがて豊臣の血は無くなる。秀吉は諜報には無知じゃで、お主のような怖い相手を敵に廻しおった。」
「いずれ、徳川様の天下になるじゃろぅ。」
南光坊天海(光秀)と雑賀孫市の謀殺謀略は、静かに進んでいた。
豊臣秀次は豊臣秀吉の姉・日秀の子で、当時実子に恵まれなかった秀吉の養子となる。
戦国大名・三好氏の一族・三好康長に養子入りして三好信吉(みよしのぶよし)と名乗っていたが、後に羽柴秀次(はしばひでつぐ)と改名する。
豊臣秀次が、最初、三好氏の一族・三好康長に養子入りして三好信吉(みよしのぶよし)と名乗っていたのは、信長が開始した四国征伐において秀吉が四国に対する影響力を強める為に甥で養子の信吉(のぶよし/秀次)が送り込まれた事に拠るものである。
その秀次が養子入りした名門・三好氏(みよしし)は信濃源氏流れの氏族である。
三好氏は、鎌倉時代の阿波の守護職・小笠原氏の末裔で、室町時代は管領・細川氏に臣従しての阿波の守護代と成っていたが、管領・細川晴元の代に三好長慶(みよしながよし)が臣従したまま勢力を拡大しして主家を上回る 力を着け、細川家は弱体化する。
三好長慶(みよしながよし)は、恐れを為した細川晴元を逃亡させてる下克上で畿内随一の勢力となり、さらに長慶は第十三代室町将軍・足利義輝と戦ってこれを近江に追い、戦国時代には阿波国をはじめ四国の一部と畿内一円に勢力を有する有力な戦国大名となった。
戦国時代初期の一時は、三好長慶(みよしながよし)が都に在って天下に号令した為、実質天下人の役割を担った。
だが、抵抗勢力が強くて政権の体を確立し得ない内に三好長慶(みよしながよし)が死去、また長慶が勢力拡大に力として来た弟達や嫡男・義興を失っていた為に家老であった松永久秀や三好三人衆が三好家内で内乱の勢力争いとなって三好宗家は衰退する。
三好一族は、織田信長が足利義昭を奉じて入京して来た時に抵抗を試みるが敗れて四散し、足利義昭の十五代将軍宣下を許して畿内の勢力を失い、四国の阿波国など地方に勢力を残すのみと成る。
やがて将軍・義昭と信長が対立し、将軍・義昭によって信長包囲網が敷かれると、三好宗家の義継や三好三人衆は義昭方について信長と対立するも呆気無く破れて以後は織田信長に臣従して家名を永らえる者が多かった。
そうした経緯の中、三好一族の三好康長だけがまだ四国・阿波の国で勢力を保っていた為の秀吉の政略だった。
三好家に養子入りした秀吉の甥・三好秀次は、三好氏家督のまま羽柴姓を賜り名として羽柴秀次と改名する。
その秀次は、秀吉の武将として賤ヶ岳の戦いや小牧・長久手の戦いに参戦、武功を挙げたり失態もあったが、紀伊・雑賀攻めと四国征伐で軍功を挙げ近江八幡に四十三万石を与えられ、小田原征伐にも参加してその戦後処理で尾張国と伊勢北部五郡など都合百万石の大領を与えられている。
相次ぐ身内の死で残ったのは小早川に養子に出した秀秋(妻方)と秀吉方甥の秀次だけだった。
関白・秀吉は千五百九十一年(天正十九年)に秀次を後継者と定め関白職を譲るが、全権を譲らず太閤と呼ばれて実質天下人の地位に在った。
その為に、豊臣政権が二重権力化しかけた千五百九十三年(文禄二年)、淀の方(茶々)との間に再び実子・拾丸(ひろいまる/秀頼・秀吉次男)が生まれ、秀吉と秀次の対立は決定的に悪化してしまった。
この対立にも、謀殺計画に雑賀孫市が、諜報活動としての煽動に一枚噛んでいても不思議は無い。
千五百九十五年(文禄四年)、ついに秀吉は秀次を高野山に追放し切腹させ、妻子もことごとく処刑する事になる。
この、実子・(秀頼)可愛さに成功まで大いに力になってくれた弟や甥を追いやり排除する秀吉の心情は、近頃の同族経営会社の後継問題で良く見る見苦しい風情である。
しかし本来の氏族の掟では養子も実子も「子は子」の扱いであるから、やはり秀吉には氏族とは違う庶民感情の血が流れていたのではないだろうか?
経営者が、我が子可愛さに情に流されれば身内の結束は崩壊して企業は貴重な戦力を失う事になる。
この秀次の死で、豊臣本家・拾丸(ひろいまる/秀頼)を補佐する秀吉の肉親は全滅したに等しかったのである。
「徳川殿。お目覚めでござるか?」
女性(おなご)と励んでいた家康は、天井から掛けられた聞き覚えのある声を聞いた。
「何者じゃ。」
大胆不敵にも、断りも無く家康の寝所に入ってくる奴が居る。
「孫市めにござる。光秀の親書携えてまかりこした。」
「孫市か・・・光秀殿からでは仕方ない。大儀じゃ。これに・・」
江戸城本丸、徳川家康の寝所に影のごとく現れる雑賀孫市には、家康も毎度肝を潰す。
これではユックリ女性(おなご)も抱け無い。
庭番・服部半蔵の「手引き」とは言え、気持ちの良いものではない。
「今、お手元に降ろしますれば・・」
薄暗い天井から、油紙に包まれた書状が「スーッ」と舞い降りてくるのを、同衾していた女性(おなご)が裸のまま起き上がり手を伸ばして受け取り、家康に手渡した。
恐れも無く天井から舞い降りる書状を受け取ったその女性(おなご)に孫市は見覚えがある。
同衾していた女性(おなご)は、光秀から家康に献じられたお福だった。
家康は半身起き上がって、それを受け取り、「お前達は下がれ。」と人掃(ひとばらい)して灯明の明かりを近付けた。
書状を開くと、見覚えのある光秀の筆が家康に語りかけて来る。
一通り読み終わると、家康は灯明の火を手紙に移し、火鉢に放り込んだ。手紙が中で燃え上がるのを見届けて、家康は天井を見上げた。
「孫市ご苦労じゃった。光秀殿に、合い判ったと伝えよ。」
「承知仕(しょうちつかま)った。」
「御免!」
もう、天井から人の気配が消えていた。
光秀の計画は、順調に進むかに見えた。
後は、結城秀康が豊臣家を継ぐように仕向ければ良い。
しかし、思わぬ誤算が生じた。
柴田勝家の養女(浅井長政の娘・信長の姪)達の存在である。
中でも、長女「淀」に秀吉が惚れ、側室とした事から、計画は狂い始める。
「淀(茶々)」が、秀吉の子「鶴松」を懐妊するのだ。
一度目の子「鶴松」は、幼逝(ようせい・すぐに亡くなる)するが、二度目の子は育つ。
名は、ご存知「秀頼」である。
元々秀吉は、織田信長の妹市姫に適わぬ化想をしていた。
それが、運命のいたずらで娘の淀姫が手に入った。
処がこの淀君が、年配の秀吉の相手を嫌がりもしない。
むしろ積極的に抱かれたがる。
相手が若い姫だから、秀吉は有頂天になったが、淀君の方は母市の方の遺言で、「浅井家の血を分けた和子(わこ)に天下を取らせよ」と言い含められていた。
従って、秀吉に積極的に抱かれ、そして「秀頼」を設けたのである。
秀吉がお市様に懸想したには、主君信長に対する思慕の想いが有る。
その思慕の想いが、淀君に向けられたのには、氏素性に劣等感を持つ男の、人間臭い思い入れが合った事は否めない。
秀吉に信長程の思考の才能があれば、これは拘る事は無い話だった。
つまり、秀吉は鵺(ぬえ)にさえ成れなかった男である。
当然秀吉は、万難を排しても自分の子・秀頼を世継とする。
「皮肉なり、秀吉。」
光秀は、運命の悪戯(いたずら)を呪った。
この歴史の悪戯(いたずら)は、明らかに信長の血脈破壊の策略に乗じての光秀の天下取りの企てに大きな影を落としている。
今まで、子を成さなかっただけに、急に授かるとは不思議と言えば不思議だ。
これで、光秀の陰謀は謀らずも長期戦になって行くのである。
尚、浅井長政三女お江(おごう)は、徳川秀忠(光忠)の下に嫁いでいる。
山崎の合戦の後、光秀と光春は比叡山の松禅寺に僧侶として隠遁(いんとん・隠れ住む)していた。
光秀は隠遁生活の中で、密かに徳川家康に書状を送り続けながら、帯同した「光春」に徹底して徳川家天下取り後の政権運営について、教え込んだ。
「良いか光春、かならず光忠が天下を継ぐ、お前はその補佐の為に心して学問にはげめ。」
「心得ました。」
見栄や立て前の武士の意地など、光秀にはない。
基本的な心情は勘解由小路党の草に近い。
それ故、身代わり潜行は、作戦の内だった。
それにしてもそこに至るまでに、「止むを得ない」とは言え、多くの親族子飼いを失っていた。
主を失った出城の壮絶な落城が相次ぎ、討ち死が続いた。
寺に籠もって隠遁する間、光秀は彼らの冥福を拝んでいた。
たった一人の相手との出会いで、人生が変わる事が往々にしてある。
それだから面白いのだが、その出会いを掴(つか)むか見過ごすかが人生の大きな分れ目かも知れない。
その出会いの連続が人生なのだから、持つべきは「師と仰(あお)げる友」である。
持つべきは友で、光秀は孫市に教わる事も多かった。
思い出すのは、孫市との伴に戦った日々である。
比叡山松禅寺に隠遁した明智光秀は南光坊と名乗って僧籍にあり、比叡山の僧坊は浮世から隔絶した静寂の中にあった。
それでも光秀は、阿国をはじめとする雑賀衆の繋ぎを得て手に取るように天下の情報を把握し、盟友・徳川家康に親書を送り続けた。
秀吉に「討ち取った」と思われているから、その分警戒されずに落着いて策が練れる。
浮世の己を捨てたからこそ手に入れた、願っても無い黒幕の位置だった。
生活が一変した。
隠遁生活は、読経の声が流れるのどかな日々だった。
天海がたまに寺の境内から外に出ると、抜ける様な青空の下、山間(やまあい)の斜面を利用した何段かのわずかな水田(棚田)も、もう稲刈りが始まっていた。
日本の何処にでもある村里の景色で、変哲とてないありふれた日常の風景である。
見上げると、抜ける様な青空が広がり、天海を優しく慰めてくれる。
こんなに落ち着いた日々は久しぶりで有る。
心静かに日を送り、やがて、漆黒の闇が訪れた。
孫市が光秀への書状を携えて差し向ける繋ぎ役は、大方阿国だった。
何時もながら達筆な文(ふみ)だが、雑賀仕込みの密書仕立てで、常人には判読できない。
阿国が光秀の下を訪れると、何時も酒(ささ)の相手をして時を過ごし、暗黙のうちに光秀の褥(しとね)に滑り込んで一夜を過ごす。
阿国が褥(しとね)に潜る時は素肌で、煩わしい衣類が除かれた柔らかい肌の感触が直接光秀の脳を刺激する。
一時寝物語に孫市の消息などを語った後、阿国は自ら光秀に圧し掛かって来る。
羽柴秀吉、柴田勝家、丹羽(にわ)長秀、滝川一益、皆討ち揃っての軍議の席、信長が発言を求めたのは光秀だった。
その答えを言わぬ内に、その先の情景が、突然無くなった。
結果を知りたかったが、夢の続きなど見れるものではなかった。
どうしても、忘れられるものではない。
光秀が夢に見るのは、決まってお館様・信長だった。
不思議な事に、夢の中の信長はいつも上機嫌で、豪放に笑っていた。
過ぎし時の、胸躍る熱く愛しい日々だった。
夢の中で自分は、信長の命を奉じて敵と必死に戦っていた。
ハッと目が覚めると、嘘であって欲しい現実が、光秀の胸を過ぎる。
討ち取って置きながら、何故か憎めない偉大な男だった。
比叡山松禅寺に隠遁していた南光坊(明智光秀)は、良く織田信長の夢を見た。
「お館様、何故に大それた事を・・・」
光秀の嘆(なげ)きは、彼の生涯に渡って続いた。
信長は常識を破った男ではない、新しい常識を作り出した男である。
光秀も、充分それを理解していた。
しかしこの国には、鬼神の信長を持ってしても、たった一つだけ覆(ひるがえ)す事の出来ない結界がある。
それが、影人に守られた「皇統」なのである。
雑賀孫市に、勿論阿国への愛情はある。
しかし、愛情ほど難しいものは無い。
つまり、愛の形には色々なものがあり、その本質がそれぞれに違うからである。
つまり、形が違わなくても欲する愛の形に拠って、それは否定されたり受け入れられたりする。
性交が「即愛とは限らない」と言う考え方も存在し、孫市と阿国の愛情もそんな所である。
「ゴー」と言う風音が耳に入って、光秀は褥(しとね)から身を起こした。
ふと、傍らに目をやると褥(しとね)に身を横たえて、優しい寝息を立てている阿国が不思議だった。
孫市と言う恋人がありながら、何を思って光秀に身を赦すのか?
先ほどの阿国との嵐の様なひと時など、既に夜の激しい風音の中に掻き消えている。
出雲阿国は、唯の踊り女ではない。
光秀が思い知らされたのは、彼女が、女子(おなご)ながらも、修熟した武芸の練達者だった事である。
或る日、光秀の下を訪れた阿国が、軽い手傷を負っていたのを見咎めて仔細(しさい)を問い質すと、雑賀孫市よりの繋ぎを光秀に届ける道すがら、太閤の手の者と見られる男達と遭遇、「三人ほど倒してきた」と、事も無気に言う。
阿国は手の内は見せた事が無いが、男三人倒して「かすり傷」と言う浅手で済むからには、かなりの手練(てだれ)に違いない。
忘れていたが、彼女は雑賀郷で生まれ育った生粋の雑賀の女だった。
光秀はめぐり合わせで、雑賀孫市、服部半蔵を始めとする、雑賀、伊賀、甲賀、根来、柳生など勘解由小路党にその祖を見出す草達の司令塔、謎の僧侶「南光坊天海」に変身していた。
勿論それが、家康の依頼でも在った。
これで、家康の影の力は、磐石な物に成っていたのだ。
家康は三方が原合戦以来の苦労人で、何事にも注意深く、基本的に待ちが得意だから強引な手法は用いず、何事もジックリ腰を据えて見定めて機が熟するのを待つ。
光秀とは馬が合い、光秀の心の底を見透かした上で信用したのは、老獪な家康だけだったのかも知れない。
光秀には秀才の才に加え、侮りがたい人脈がある。
その人脈が、影で共通していたのが、まさに家康の天下取りには幸いした。
つまり、あらゆる条件が重なって初めて天下に手が届くのだ。
相変わらずのどかな日々が続いた。
遠くを見渡せば、霞の彼方に低い山々が連なってこの盆地を囲んでいる。
南光坊天海(明智光秀)は、ぼんやりと空を眺めていた。
どんよりとした曇り空、紫陽花が見事に咲き誇っていた。
先ほど、家康への書状をしたため阿国に持たせたばかりで、しばらくのんびり出来そうだ。
同じ頃、別の場所でもう一人空を見上げる男がいた。
今にも雨が落ちてきそうなどんよりとした曇り空、そこかしこにぬかるみが点在している。
この季節のありふれた日常の風景である。
今頃河内雑賀郷は、田の泥でも捏(こ)ねているだろうか?
雑賀孫市(鈴木重意・しげおき)は、懐かしそうに故郷を思い出していた。
実は、光秀は信長より六歳ほど年長である。
家康と信長では、更に四歳差が有るから都合十歳ほど違う。
秀忠(光忠)の将来の補佐は、若い光春に任すしかないのだ。
光春は、若き日の光秀と見まがうほど光秀に似ていた。
秀吉に引き合わせたら、さぞかし「光秀がよみがえったか」と「戦慄するであろう」と思われた。
この頃の家康と光秀は、秀吉の死亡か豊臣家の弱体化を辛抱強く待つ事に合意していた。
元々、家康の辛抱強さは万人が認める超一級品である。
秀吉がマスターした信長の知略が、枯渇するのを待っていたのだ。
現実の処、秀吉は信長から戦以外の事はあまり教わってはいない。
それで、九州征伐や、相模の北条を滅亡させて、敵対する者が居なくなると、真価を発揮する処がない。
この頃、北条亡き後の関東七ヵ国に徳川家康は移封になっているが、秀吉の発案ではない。
都から領国が遠退く事で秀吉を安心させる為、光秀の提案をわざと秀吉に言わせた様なものだ。
京から遠退いたが、領地は五ヵ国から七ヵ国に広がった。
領国が遠方故、秀吉の干渉も少ない。
何かあっても、時間が稼げる。
鎌倉幕府の前例も在り、ジックリと力を蓄えるにはもってこいの位置関係である。
南光坊(明智光秀)は、雑賀孫市が持参した家康からの書状に目を通して「解けた。」と叫んだ。
「孫市、小早川(隆景)が大老に登用され居った。これで得心が行ったわ。」
「やはり密約で在ったな。」
「うぅ〜む、わしの誤算は秀吉めが根回しじゃったか。」
「光秀殿、今と成っては申しても仕方あるまいぞ。」
「まさか、毛利の小早川(隆景)が追撃せずの密約するとは思わなんだ。」
「お主の策では、秀吉も当然毛利に張り付き動けぬ予定だったからのぅ。」
「それで毛利と小早川は豊臣重臣の座を手に入れ居った。」
「宇喜多(秀家)も秀吉の側に廻って居った故、お主に運が無かったのう。」
明智光秀の計算では、羽柴秀吉も北陸方面の柴田勝家同様に中国方面の毛利に張り付き動けぬ予定だった。
天下の秀才・明智光秀さえ読み切れずに驚愕した余人では出来ない迅速な中国大返しを秀吉が実行できたのは、川並衆・蜂須賀家と馬借(ばしゃく)・生駒家の輜重(しちょう)力の結果だが、それを可能にしたのは背後の憂い(毛利勢)を二段構えで取り除いた根回しだった。
秀吉と毛利氏との高松城下の講和の際、実は毛利方が知らない事になっている「本能寺の変」が起こって毛利輝元と和睦する時点で、当時毛利方最高実力者だった小早川隆景と追撃しない密約をしていた。
考えて見れば、主君・織田信長が健在であれば秀吉が勝手に毛利勢と和議を結ぶなど出来無い事は知将・小早川隆景に見当が着かない訳は無い。
だが、秀吉は織田新帝国成立宣言の警護の為に、秀吉の軍勢を畿内に引き戻す事を想定した信長から和議の書状を予め持参していた。
それで何とか和議交渉の場は造られたが、それでも血気にはやる毛利勢に拠る追撃の懸念は在った。
追撃の懸念を回避しなければ機内へは戻れない。
そこで秀吉は、隆景に本能寺の変を洗いざらい打ち明けて密約し和議に持ち込んだ。
秀吉は天分とも言うべきか、生来他人の懐に入るのは得意だった。
それで誑(たら)し込まれた武将も数が多いのだが、小早川隆景は秀吉の天分に乗ったのかも知れない。
「本能寺の変」を毛利方が知らない事になっているのは政治判断で、毛利家中を説得する時間も無く事を成す為の手段だった。
そして更に秀吉は、万が一の毛利勢追撃を考えて備前宇喜多勢・宇喜多八郎(秀家)に毛利家の監視役を務めさせ、結果中国大返しは成功し秀吉の天下取りを容易にした。
その結果、小早川隆景は毛利家陪臣の位置に在りながら筑前・筑後と肥前の一郡の三十七万一千石余りを与えられ、周防・長門・安芸・石見・出雲・備後など百二十万五千石の主家・毛利輝元と並んで秀吉から豊臣政権の重臣(大老職)に登用される。
同じく宇喜多八郎(秀家)は備中東部から美作・備前の五十七万万四千石を拝領して豊臣政権の重臣(後世に大老職と呼ばれる)に登用されている。
つまり秀吉の中国大返しは、秀吉の持つ特殊な機動力と小早川密約(こばやかわみつやく)の合わせ技だったのである。
豊臣秀吉が天下を取った後、その甥の「豊臣秀次」が謀反の疑いで流罪・処刑された。
その時、朝廷の 陰陽頭(陰陽師の頭領)土御門家が、秀次の謀反の為に「陰陽術を使った」 と言う罪状で同じく流罪となって、一時土御門家の存続危機を迎えている。
天下人と成った豊臣秀吉に、国内で逆らう者は居なくなった。
傲慢な事に、人間は増長すると何を始めるか判らない。
やがて、戦上手の真価を発揮する処がなくなった秀吉は、案の定「墓穴」を掘る行動に出た。
「文禄・慶長の役(朝鮮征伐)」である。
大陸侵攻については「生前の織田信長の夢」と言う説もあるが、これも証拠は何処にも無いが知恵を付け秀吉を煽り立てたのは光秀、家康ルートのお定まりの策略かも知れない。
ただ、明国や朝鮮への出兵など秀吉が自分で思い付いたかどうかは疑わしく、誰かが知恵を付けた或いは織田信長の夢を実行した可能性は否定できない。
いずれにしても大名の多くが、この実り無き侵略戦(文禄・慶長の役)に駆り出され、勝利の見えない泥沼の戦いの中で消耗して行ったのである。
この時点で、弟の大納言秀長が存命なら、「この無謀な侵略は押し留めた」と言うのが現代での豊臣秀長の評である。
如何なる組織も同舟異夢(同じ仲間として居るがそれぞれに思う所が違う)の集まりであるから求心力が必要で、この国では永い事「お血筋」が求心力の条件に成って来た。
織田信長も、頭角を現すまではその「お血筋」を求心力に後押しをされて戦国の一国を手中にした。
後は働きに応じた恩賞と所領を与える「取り立て」が多くの将兵を傘下に置く求心力だった。
しかし豊臣秀吉の場合は所詮「氏の血筋」と言う求心力も持たない為に、信長の発想の受け売りだけだったので、天下が統一された桃山期に武将達にその恩賞と所領を与え続け、己への求心力を続けるには他国の侵略に手を染めるしかない。
つまり豊臣秀吉が織田信長から学んだ部下の掌握術は覇権を握るまでの途上の事で、領土を切り取り分け与えて臣従させる事だった。
矛盾する事に、秀吉が天下を掌握した時点で切り取る領土は国内には無かった。
天下統一後(天下布武の達成後)の事は、織田信長がどうしょうとしていたのか秀吉は聞いては居無いし、信長が亡くなった後では彼のやる事は見る事も出来ない。
そして、唯一秀吉を諌め導ける弟・大納言秀長は、この世に居なかった。
全て、家康の長生きに賭けた南光坊天海(光秀)と雑賀孫市の注文通りに、事は進んでいた。
豊臣家の身内の大半を無くした淀の方と秀頼など、赤子の手をひねるより優しい。
秀吉は、手に入れたいものを手中にして、守りに廻ってからは、まるで精彩が無い。
不幸な事に、彼は天下と言う失うものが出来て弱気になり、空威張りと猜疑心が秀吉持ち前の才能を消していた。
実は、秀吉本人もその現実を充分に実感していて、その恐怖を打ち消す為に、無謀にも他国に兵を進める道を選んだ。
この傾向、多くの覇王に共通する所であり、一旦転がり出すと中々止められるものではない。
本人は読み切って手を打った積りでも、そう素直に事は運ばない。
結果的に、後悔が先に立つ事が多いのだ。
この起こるべき事を、近隣諸国の歴史書に通じた明智光秀(南光坊天海)は予測していた。
明智光秀(南光坊天海)は家康に長生きを望み、天下掌握の後は拡大政策を取らず、官僚に拠る整理縮小(大名取り潰しや配置換え)で内政をコントロールする方式を考えていた。
従って、全ての責任と権限を自らに集結させず、人に任す術を覚える事が、「秀吉が陥った覇王病から逃れる道だ」と説いていた。
つまり、いたずらに権力に固執する事のおろかさを説いたのである。
この考え方、後に家康の後継者選びに真価を発揮する。
文禄・慶長の役(朝鮮征伐)は、天下人と成った豊臣秀吉が「朝鮮及び中華帝国の侵略」と言う野心を持った事から始まった。
秀吉の「朝鮮及び中華帝国の侵略」と言う野心の背景には、武将達を束ねる為の求心力の確保である。
多くの武将が秀吉に臣従して来た背景にあるのが所領の加増(つまり分け前)で、日本中を統一した秀吉が武将達に分け与える土地を確保するには、無謀で在っても国外に打って出る以外に無かったのかも知れない。
人間は、一度成功するとその成功の記憶に固執する。
そして危険な事に、その条件や環境が揃わなくても、その成功の記憶に頼って無謀な決断を下す。
朝鮮及び中華帝国の侵略を目的とした文禄・慶長の役(朝鮮征伐)の実行である。
或いは織田信長の天下布武の最終ビジョンの中に「朝鮮及び中華帝国の侵略」があり、秀吉はその事を信長から聞いて居たのかも知れない。
千五百九十二年(文禄元年年)、秀吉は子飼いの大名・加藤清正、福島正則、小西行長、黒田長政、浅野幸長らを主力に十六万の大軍勢を編成して朝鮮半島に送り出した。
当時の李氏朝鮮王朝は然したる軍事力を持っては居なかったので、当初遠征軍は勝利を重ねて半島の南部を簡単に制圧占領している。
しかし他国の侵略は、国内の様には簡単ではない。
国内なら戦は氏族同士の争いだが、他国ともなると民族意識が強く容易に屈服はしないばかりか、民族が団結して民衆まで敵に廻る。従って、朝鮮半島進攻軍は泥沼に陥る事になる。
その後朝鮮の宗主国・明帝国の軍勢が南下して来て一進一退の攻防となり、小西行長と石田三成が謀って「明帝国」の降伏を偽り一度講和に持ち込むが、互いに勝利を思い込んだ講和交渉がまとまる訳も無く、決裂して秀吉は千五百九十七年(慶長二年)に十四万の大軍勢を持って二度目の出兵を命じている。
この二度に渡る半島に対する派兵を、第一次出兵を文禄の役、第二次出兵を慶長の役と呼んでいる。
後のベトナム戦争やイラク戦争に於ける米軍の様相で、その苦戦の泥沼に秀吉子飼いの大名達でさえ不満が鬱積して行った。
一方、朝廷から「太閤」の位を得た秀吉は、天下人として栄耀栄華を極める豪華な生活をしていた。
金の茶室、金の茶釜では、詫び茶の千利休と対立しても仕方がない。
秀吉は、こけ脅しに権力をひけらかす事しか、周りを圧する方法を思い付かなかったのかも知れない。
千利休(せんのりきゅう)は田中与四郎(與四郎)と言い、和泉の国堺の商家(屋号「魚屋(ととや)」)の生まれである。
言うまでも無いが、わび茶(草庵の茶)の完成者として知られる大茶人である。
利休の祖父は足利義政の同朋衆だった「千阿弥(せんあみ)」と言い、「その名の姓を取り、千を姓とした」と、利休の曾孫である江岑宗左(こうしんそうさ)に拠り家伝されている。
堺の南宗寺の大林宗套(おおばやしそうがい)から与えられた「利休」と言う居士号を合わせて、「千利休(せんのりきゅう)と号していた」と言われて居る。
千阿弥 (せんあみ)は足利義政・義尚に仕えた同朋衆(どうぼうしゅう)で、千利休の祖父とされる。
同朋衆(どうぼうしゅう)とは室町時代以降江戸幕府時代を通じて明治維新までに、将軍や大名諸藩の当主近くで来客の給仕などの雑務や接待の芸能にあたった武家の職名である。
時宗を起こした一遍上人の下に芸能に優れた者が集まった事が同朋衆(どうぼうしゅう)と言う役職の起源とされ、時宗を母体としているに為に阿弥衆、御坊主衆とも呼ばれ、阿弥号を名乗る通例があるが阿弥号であっても時宗の僧であるとは限らない。
同朋衆(どうぼうしゅう)は剃髪していた為に坊主と呼ばれたが、この物語のそもそも論のごとく氏族のくくりは在っても武士と神官・僧侶は線引きなど無く、同朋衆(どうぼうしゅう)も出家している訳ではない。
おもな同朋衆の芸としては猿楽能の観阿弥・世阿弥、同じく猿楽能の音阿弥 、茶道の毎阿弥、唐物・茶道・水墨画の芸阿弥、唐物や茶道・水墨画・連歌・立花・作庭などの能阿弥と相阿弥、作庭・連歌を得意とした善阿弥、囲碁の重阿弥などが有名である。
大茶人・千利休(せんのりきゅう)、一時は秀吉の重い信任を受けたが突然秀吉の勘気に触れ、堺に蟄居を命じられ追って切腹を申し付かった。
むごい事に利休の首は一条戻橋で晒し首にさせられたが、秀吉勘気の理由は不明で有る。
秀吉勘気の憶測であるが、人がリラックスしたり感動するのは【右脳域】の感性で、災害時に遭遇した人は限りなく優しくなれ、損得の計算を忘れて救助を心掛けその事に人は皆感動する。
文化芸術はその【右脳域】の範疇にある。
茶道に於ける千利休と豊臣秀吉の師弟の例で言えば、千利休は【右脳域】の感性で「侘び茶」の茶道を大成した。
所が、豊臣秀吉は茶道を【左脳域】の計算で扱い、金ぴかの黄金で飾る愚を冒した。
これでは千利休の茶道の本質を否定され、両者が対立しても仕方が無い。
利休の祖父が任じていた同朋衆とは、武将の側近として使えた僧形の武士の事で、この当時は僧体のまま武将でもある者も多くいたが、それとは異なり武ではなく芸能・茶事・雑務・話し相手と、言わば世話係(茶坊主)として仕えていた。
いずれにしても、「阿弥」を名乗る同朋衆の出自は、氏族や有姓百姓である。
そして陰陽修験道を源とする武道や演芸は、「氏族のたしなみ」としての武芸百般の内で、演芸は諜報活動の側面を持っていた。
その事から考えられるとすれば、千利休が出自違いの豊臣秀吉と対立する事も、充分考えられない事は無い。
それにしても、室町幕府最盛期の第三代将軍・足利義満頃に発達した文化芸術・茶道、華道、芸能の家系には、影に諜報員家系の疑いが付き纏(まと)って居る。
当然の事であるが、室町政権に諜報機関が在っても不思議は無い。
それが、文化芸術を隠れ蓑にした同朋衆が、影で負っていた役目であれば、足利義満が力を入れた室町文化、また別の側面が見えて来ないとも限らない。
何しろ、最も平和的に受け取られるのが文化芸術で、何処の屋敷も無警戒に信用される利点があるのだ。
雑賀孫市は、復讐を果たそうと秀吉の命を狙って二度ほど大阪城に潜り込もうとした。
しかし、流石は築城の名手秀吉の作だった。潜り込めても、とても秀吉の許までは近寄れ無い事を知った。
それ故、時間は掛かるが阿国一座に身を潜め、明智光秀(南光坊天海)の策略に絞り、残った配下を使って助力する事にした。
元々諜報機関の大半は光秀と家康が握っている。
影働きなら、孫市の居場所は在った。ただし自由人の孫市には服部半蔵のような人に使われる生き方は出来ない。
この頃にはもう、孫市の心に変化が生じている。
空しいのである。
それで、光秀の事が終わったら「芸能活動に絞って生きよう」と考えていた。
それで、腰の大小は行李(こうり・衣装箱)の奥深く納めた。
町人姿の孫市は、普段大小を腰にする事もはばかられ、身を守るのは、護身用に携帯した二本の独鈷杵(とっこしょ)と言う武器だけだった。
この武器は、元々修験僧兵が愛用したものである。独鈷杵(とっこしょ)は金剛杵(ヴァジュラ・・こんごうしょ)とも呼ばれ、守護神の金剛神(ヘラクレス)が手にしていた。
人間の心の中の悪しき煩悩を撃ち砕き、本来の人間性を引き出す為の法具で、元の形状は鉄アレーの様な物で、球形にあたる部分の両側が杵(きね)の形を成し、真ん中を握る形状をしていた。
その鉄アレーの杵(きね)状の両側部分の杵(きね)を、インドにあった武器、「槍の鉾先」に着け替えたのが独鈷杵(とっこしょ)である。
それがインドから中国に伝わる間に装飾が施され、密教的意味合いをもって修験密教僧を現す為の法具となり、布教と護身を兼ねて独鈷杵(とっこしょ)を携えていた。
その独鈷杵(とっこしょ)武術の使い手雑賀孫市は、間違いなく修験の草である。
諜報活動中、秀吉に付いて居た「こぼれ雑賀者・こぼれ根来者」と遭遇する事があったが、残らずこの武器で始末した。
「こぼれ雑賀者・こぼれ根来者」達は、刃(やいば)を交えた相手が雑賀孫市と知って、驚愕の表情を浮かべながら絶命した。
孫市と確認した一瞬後には額に独鈷杵(とっこしょ)を突き立てられていたのだ。
孫市は、独鈷杵(とっこしょ)武術の名手だった。
独鈷杵(とっこしょ)は真ん中にグリップ(握り手)部分があり、その前後に槍の穂先状の突起が付いた武器で、握って順手で前に繰り出して相手の腹部を刺す。
逆手で振り下ろせば相手の頭部や肩をねらえる。
剣を使えない場所や状況で、特に接近戦で威力を発揮した。
この武器、体術(柔術)と組み合わせて、若い頃修練した術で有る。
正直に言うと、天下人に成った秀吉は、結構孤独感に苛(さいな)まれて居た。
弟の大納言・秀長を失ってからは尚更で、大老筆頭に置いた徳川家康が大きく眩しく見えていた。
家康には人望も在った事から、天下を握った太閤(豊臣秀吉)も扱いに苦慮していたのだ。
人間の欲望には際限が無い。誘惑に駆られると、「上を上を」と求め始め、行き着く所まで伸び上がろうとする。
多くの相手を犠牲にし、自分も多くのものを失って、いざ上がって見ると虚しく孤独な地位なのだが、上昇志向の者ほど、何故かその誘惑には勝てない。
しかしながら、この命題は導き出す答えが難しく、実は平凡な人生に生きる事が最も自分に恥じる事の無い人間らしい生き方なのだろうが、その生き方で生きる事も、結構しんどいのは事実である。
雑賀孫市は豪胆な男で、どんな事態でも沈着冷静、笑って敵を殺す度量が有る。
豊臣秀吉は、それと知らずに厄介な男を敵に廻して居た。
大阪に出かけていた孫市が戻って来て、隠棲先の南光坊(光秀)の宿坊に顔を出した。
「おぉ、孫市、首尾はどうじゃった?」
顔を見るなり、待ち兼ねたように南光坊(光秀)が首尾を聞く。
「永く張っていれば隙は必ず出来るものじゃて。恐らく太閤(秀吉)は、三月か四月の間に、病で一命を落す筈じゃ。」
「それは上々、淀殿の豊臣の体制が固まっては面倒だからな。」
傍らに控えていた光秀の従兄弟・光春が、指示も受けずに既に酒宴の支度をして居る。
孫市が自信満々の顔付きで、南光坊(光秀)の正面に「ドッカ」と座り込む。
「しかしお主も無理を言う。危ない働きじゃ。太閤(秀吉)に毒を盛らせるなど、わしに自害させるに近い事をさせるわい。」
苦情を言ったが、孫市の顔は笑っている。好首尾だった事が、南光坊(光秀)にも伺えた。
「大儀じゃった。これで内府(家康)様も、事を起こし易くなる。」
「何の、我らとて思いは同じじゃった。」
南光坊(光秀)は、こんなに鮮やかな闇働きが出来るのは、天下広(てんかひろし)と言えども、雑賀孫市を於いて他にない事を改めて知らされた。
流れの中で、ごく自然に光春の酌が入って、二人は杯を交わし始めていた。
「内府(家康)様の注文もうるさい。鉄砲やクナイならば造作が無いに、病で仕留めよとはのぅ。」
「後々、疑われるのは内府(家康)様じゃ、謀殺はまずいと踏んだのであろう。」
「光春殿も一杯やれ。飲まぬ者が居ると堅苦しい。」
「しからば、拙者も頂きます。」
「そうしろ、そうしろ、今宵は目出度い酒じゃ。」
やがて、秀吉は病に倒れる。
秀吉は死を前にして、我が子「秀頼」の事を、秀吉は五大老筆頭の家康に質濃く頼んでいる。
秀吉にすると、柴田勝家との清州談判以来、何かと「作戦を耳打ちしてくれた」、頼りになる家康である。
それ故、「恩義に感じてくれるもの」と踏んで、ナンバーツウの大老筆頭として処遇して来た。
秀忠の正妻は、秀頼の母・淀殿の妹、於江与(おえよ・信長妹お市の三女)で、秀忠と於江与(おえよ)の娘千姫を秀頼の正妻に迎えている。
家康にとって、秀頼は孫娘の夫と言う事になる。
病を得た秀吉は、豊臣家の将来と年若い秀頼の事を家康に頼むしかなかったのだ。
「秀頼の事、重ね重ね頼み候。」
しかし、その秀吉の願いは虚しかった。
基より、家康も光秀も真意を隠し、この日が来るのを待っていた。
家康は「長生きした者が勝つ」と、ひたすら健康に気を使い、天台宗、真言宗、修験道秘伝の薬種にも豊富な知識を持ち合わせていた。
この点、天台宗の僧門に隠棲した光秀(南光坊)からも、家康が秀吉に生き勝為に、相当の助言があった筈である。
秀吉は、居ない筈の光秀の手の上で長い事踊らされていたのだ。
念の為解説して置くが、五大老(ごたいろう)とは豊臣政権末期(文禄年間)に豊臣家の家老(大老)として政務にあたった徳川、前田、上杉、毛利、宇喜多の有力五大名を指した言葉であるが、当時は「五大老」の呼び名は無く「五人御奉行」などと呼ばれていた。
しかしながら、江戸時代に所謂(いわゆる)五奉行(こちらは主に「五人御年寄」などと呼ばれていた)と職責地位の解釈が混乱した為、後に便宜上「五大老」と呼ばれる様に成ったものである。
正確には、最初の「五大老」に相当したのは徳川家康(関東に二百五十六万石)、 前田利家〜前田利長(北陸地方・加賀など八十三万石)、毛利輝元(中国地方に百二十万石)、 宇喜多秀家(中国地方・備前五十七万石)、小早川隆景〜小早川秀秋(北九州・筑前三十三万石)で、上杉隆景〜上杉景勝(東北地方・会津百二十万石)は小早川隆景死後に小早川秀秋と入れ替わって就任した。
五奉行(ごぶぎょう)についても当時は「五奉行」などの特定の呼称は存在せず、主に豊臣政権の実務を担う五人程の奉行職にあたる吏僚的人物を指して呼ばれる言葉だが、「御年寄」などと呼ばれていたものを後に便宜上「五奉行」と呼ぶ様に成った。
主な五奉行(ごぶぎょう)は、浅野長政(筆頭・甲斐甲府二十二万石)、石田三成(近江佐和山十九万石)、増田長盛(大和郡山二十二万石)、長束正家(近江水口五万石)、前田玄以(丹波亀岡五万石)を指すが、大谷吉継(越前敦賀五万石)や小西行長(肥後宇土二十万石)など多くの者も場合に依っては吏僚職を担当するなど、組織・職制が余りきっちりしたものではなく、かった。
従って当時を再現するに「五大老の誰々様」や「五奉行の誰々様」は本来史実に合わないが、便宜上が定着しているので不本意ながら使わないと返って混乱するので本書の表記も合わせている。
本来は五人御奉行(五大老)と五〜七人程度の御年寄(五奉行)が豊臣政権末期の政権職だったのである。
この豊臣政権の所謂(いわゆる)五大老任用についても、実は史実から隠されたある秘密が浮かび上がる。
秀吉に重用された小早川隆景は毛利元就の三男で、父・元就に次兄・吉川元春と共に本家・毛利家を支える毛利両川体制の教え受け、長兄・隆元が急死した後、次兄・吉川元春とともに毛利の両川として本家・毛利家を支える。
次兄・元春が九州の陣中で没した後は、隆景一人で本家(長兄)・毛利隆元の遺児である当主・毛利輝元を良く補佐し、終生その姿勢を変える事がなかった。
秀吉に臣従後の隆景は、毛利本家を守りながら豊臣秀吉の天下人を確実にさせた一連の小田原平定・四国平定・九州平定に積極的に参戦し、功績を挙げて筑前・筑後と肥前の一郡の三十七万一千石余りを与えられている。
織田信長健在の頃より中国方面担当として毛利氏と対決して来た豊臣秀吉は、敵であった隆景の人物・実力を非常に高く評価して親任厚く、小早川家が毛利の陪臣分家的な位置にも拘らず秀吉政権下で後に五大老と言われた徳川家康、前田利家、上杉景勝、宇喜多秀家、毛利輝元と並ぶ重臣として小早川隆景を遇している。
この秀吉の小早川隆景厚遇の理由だが、実は毛利方が本能寺の変を知って居て、当時毛利方最高実力者だった小早川隆景が高松城下の講和を容認し、中国大返しを毛利方が追撃しない決断を下して密約し、秀吉の「天下取りを容易にした事に対する謝意と信頼」と考えれば得心が行く。
その隠された史実なくして、毛利氏系から二人も豊臣政権に重臣を登用する理由は見当たらない。
惜しむらくはこの隆景には実子がなく、豊臣秀吉の正室・高台院「おね(ねね)・北政所」の甥にあたる木下家定の五男で豊臣秀吉の養子と成っていた羽柴秀俊(小早川秀秋)を養子として迎え、家督を譲っている。
伊達正宗にとって重石となっていた豊臣秀吉が文禄・慶長の役(朝鮮征伐)の第二次出兵「慶長の役」の最中に病死する。
奥州に大国を領しながら豊臣政権下で大老職にも就けられない冷遇を受けていた正宗にして見れば、継子・秀頼の行く末は秀吉から何も頼まれては居ない。
秀吉と言う重石が取れた政宗は秀吉の遺言を破り、五大老・徳川家康と政宗の長女・五郎八姫と家康の六男・松平忠輝を婚約させ反豊臣色を鮮明にして行く。
千六百年(慶長五年)に徳川家康が会津領主・上杉景勝に謀反容疑をかけ上杉討伐の出陣を行うと、政宗は家康に従軍して上杉の支城白石城を陥落させるなど活躍したが、家康の留守中に五奉行の石田三成らが家康に対して毛利輝元を総大将として挙兵し為、小山まで北上していた家康は急遽反転して西へ向かった。
この際家康は、政宗に上杉景勝を会津に釘付けにさせて置く為に「新たに四十九万石の領土を与える」と言う百万石のお墨付きを与えるが「和賀一件」の策謀を咎められ四十九万石加増の約束を反故にされ、政宗への恩賞は仙台開府の許可と陸奥国刈田郡(白石)合わせて二万石の加増のみに止まっている。
仙台開府の許可を得た政宗は、関が原合戦の翌年、千六百一年(慶長六年)に仙台城と仙台城下町の建設を始め、居城を移して仙台藩が誕生した。
仙台藩・伊達六十二万石については、後に近江と常陸に小領土の飛び地二万石の加増を受けた事で公称六十二万石とされた。
その後の千六百十三年(慶長十八年)には伊達政宗は仙台藩とエスパーニャとの通商(太平洋貿易)を企図してエスパーニャ帝国国王フェリペ三世の使節セバスティアン・ビスカイノの協力によってガレオン船・サン・フアン・バウティスタ号を建造する。
政宗は、家康の承認を得て支倉常長(はせくらつねなが)ら一行百八十余人を慶長遣欧使節としてヌエバ・エスパーニャ(メキシコ)、エスパーニャ、およびローマへ派遣した。
その慶長遣欧使節派遣の翌年、千六百十四年(慶長十九年)には豊臣家最後の抵抗大坂の役が起こり、政宗は大阪城攻めに参戦して家臣の将・片倉重長が後藤基次らを討ち取り、真田信繁(幸村)の攻勢を受けて立つなど大きな功があった。
しかし関東二百五十万石を領した後北条氏との同盟を破り豊臣秀吉に臣従して後北条氏を滅亡に追いやり、徳川家康に乗り換えて豊臣家の滅亡にも加担した伊達政宗の天下への影響力は一流だった言って良い。
伊達政宗は二代将軍・徳川秀忠、三代将軍・徳川家光の頃まで仕え、千六百三十六年(寛永十三年)五月に江戸で波乱の生涯を閉じている。
政宗亡き後の伊達家は外様ながら徳川家とは姻戚関係を結び、東北の雄藩として明治維新まで永らえ華族令施行により伯爵を賜っている。
僧衣姿の光秀は久しぶりに比叡山の宿坊から抜け出し、山腹に居た。
何とした事か、戦から離れて見て心安らぐ日々に本物の「生きてる実感」が光秀には有った。
フト見降ろすと、穏やかな陽光が降り注ぐ背丈の短い草ばかりが生い茂る山裾に、見覚えがある人影がへばり付く様な細道の峠を一つ越えて来る。
その男の姿は見る見る内に大きくなり、顔が判るほどに成った。
「何と言う健脚の男が登り来るとあきれて居ったら、やはり孫市殿か?」
恐ろしいほどの健脚で登り来たのは、生涯の友・雑賀孫市だった。
「おぅ光秀殿、息災か?」
「息災じゃとも、この生活じゃからな。」
「漸く太閤(秀吉)が身罷(みまか)った。次の手をどう致す?」
「承知して居る。大方お主の仕事が上手く行ったのじゃろう。次の思案は次々に湧き出て来るが、隠遁の身はもどかしい物よ。」
「内府(家康)殿の下に行って来たが、相変わらず達者だったわ。」
「また寝所に潜り込んだか?」
「福殿がお相手をしている所を見計らってな。」
「如何にも、ならば口は固い。」
「どうじゃ光秀殿、祝い酒じゃ昼間から一献傾けようぞ。」
「おぅ、お主が相手なら旨い酒になる。」
光秀は答えながらもう宿坊に向って歩き出していた。
「光秀殿の思案、聞いて置かねばわしが動けんからな。」
「お主が居るからわしは此処からでも天下を動かせる。」
「乗り掛かった船だ、今更後には引けん。」
「それだけか?」
「いゃ、本音を申せば天下の秀才がこの世をどう仕上げるのか楽しみでな。」
徳川家康は、最初から天下を取る自信が有った訳ではない。
しかし織田信長と同盟して信長の勢力拡大と伴に力を着け、何時の間にか大勢力を有する五ヵ国(三河・遠近江・駿河と信州・甲斐の一部)近くの大国の国主に成って居た。
そこに天下の知将・明智光秀(南光坊)が付いたのだから鬼に金棒である。
その後家康は関東七ヵ国に国替えに成り、都から遠退いたが所領は他に並ぶべきもない大国に膨れ上がった。
何しろこの時点で徳川家は、豊臣家の蔵入地(直轄地)二百十万石を上回る関東二百五十万石の太守である。
これで力を蓄えれば、豊臣とも充分に対抗できる。
政権奪取構想は、静かに着々と進んでいた。
面白いもので、後醍醐天皇や今川義元、武田信玄や織田信長のように最初から明確に望んで天下を目指した者は上手くは行かず、そう明確に目指した訳ではない源頼朝や足利尊氏、徳川家康にチョットした運が転がって天下の覇権が廻って来た。
つまり明確に天下を望めば手法が強引になり、敵が多くなって挫折する。
「ヒョットして機会があればもうけもの」程度の者が、案外天下取りの秘訣かも知れない。
一五九八年(慶長三年)の豊臣秀吉死去の年に、潜行して闇に行脚する雑賀孫市(さいがまごいち)と旅芸人に身をやつした阿国は「ツンツルテンと表現する丈の足りない子供の浴衣の様な衣装」で妙齢の美女が腿も露(あらわ)に「ややこ(こども)踊り」と言う子供の踊りを踊って爆発的人気を得る。
ツンツルテンはこの時のお囃子(はやし)の音を、阿国のミニ丈(こども)の格好と合わせたものが伝わって「後世に使われた」と言う説が在る。
俗説では坊主頭の事を「ツンツルテン」と表現するが、或いは客席からかいま見えた阿国の秘所に、あるべき黒いものが無かったのかも知れない。
それであれば、観客が大いに沸いても納得する。
客寄せ目当ての「元祖ミニ丈のファッション」と言う事である。
いや、腰を巻く布以外、下着を身に着ける習慣が無い時代だから、元祖ノーパン風俗芸能かも知れない。
いずれにしても、元祖にして最も有名なアイドル歌手兼踊り子で有るから、デビュー前のアイドル歌手や新人女優は、「見せてなんぼ、見られてなんぼの見世物になる」と言う事の覚悟にあやかって、人気が取れる様にお参りして置いた方が良いかも知れない。
秀吉が亡くなると、意味を失った朝鮮征伐は中止され、派遣部隊は続々と帰還するが、何の恩賞も出ない。
多くの部将(大名)が、戦わされ損の目に遇った。
その時、秀吉の傍近くで権力を握っていたのが、石田三成である。
この男、石田三成は太閤殿下に可愛がられ、のぼせ上がって他人(ひと)の気持ちが判らなく成っていた。
そこへ武将達の嫉妬が集中した。
天下分け目の関が原の合戦、東軍・家康陣営に付いた秀吉恩顧の武将達の顔ぶれを見ると、案外男の嫉妬が一番の勝敗の分かれ目かも知れない。
当時の神道や仏教界の「信仰要素」として、稚児(ちご)は男色(衆道)の交わり相手である。
豊臣秀吉の小姓から凡(およそ)そ二十万石の大名に立身した石田三成も、秀吉と出会ったのは寺(観音寺)で稚児小姓をしながら手習いをしていた十五〜十八歳の頃の事で、秀吉が休息に立ち寄って三成を見出した事に成っている。
後の創作ではあるが、この出会いを題材に世に有名な「三献茶」の秀才・三成らしい「気働き」の挿話が残っている。
しかし、石田三成が「稚児小姓」として秀吉に気に入られ、観音寺の僧侶から譲り受けられたのであれば、休息に立ち寄った寺(観音寺)で秀吉に献じたのは三杯の茶では無い事になる。
苦労して外国の戦から帰って見ると、同僚の石田三成が、すっかり幅を利かせて、何時の間にか大きい顔をしている。
豊臣家の大番頭(大官僚)然として、豊臣家を差配していたのだ。
「何じゃ、自分は、太閤殿下の傍で悠々としくさって。」
「そうだ、そうだ、異国で苦労して戦った我々の身にもなって見ろ。」
三成は論理的秀才ではあるが、人心掌握は下手である。
不満が出ても、涼しい顔をしている。
「負け戦に、恩賞などあろうか。」
冷やかに判断して、相手の感情や能力を推し量ろうとはしない。自分の価値観で、押し通す。
この男・・・三成は、自分が利口過ぎて他人(ひと)の気持ちが判らない。
そしてまずい事に、ハナから馬鹿にしている相手だから、理より本能で動く無骨者の男達が案外猜疑心強く嫉妬深い事に思い至らない。
つまり三成とまったく物差しが違う相手に、三成は自分の価値観を押し付け自分の価値観で相手を量っていたのである。
なまじ多少学問が出来たり上手く出世をすると、人間慢心が生まれる。
石田三成もそうした手合いで、秀吉に見込まれて出世を重ねるほど独り善がりなその慢心が強くなり、周りが見えなく成っていた。
それが信長ほどの天才で、相手が認めざるを得ない力量があれば別だが、三成は根が官僚肌でそこまでに至らない。
もつとも厳密に言えば、秀吉の下に統一成って味方ばかりになった国内に、与える領地が無い事もあって朝鮮を狙ったのだから、攻め取れない以上は恩賞の出し様が無い。
正直だけでは生きては行けない時代だった。
石田三成の純粋な生き方には庶民に共感を呼ぶ所はあるが、当時の南光坊(明智光秀)や徳川家康に取っては採るに足らない相手だった。
本人が大して力を持たない癖に周りに指示を出すと「トラの衣を借りる狐」と揶揄(やゆ)される。
もっともこの時代の求心力はあくまでも恩賞としての所領の獲得で、大名を潰してまで再分配するほどの力も、例え関が原で勝利しても豊臣政権の官僚(奉行職)と言うだけで所領が二十万石(十九万四千石)程度と中堅大名の三成には、恩賞を取り仕切れる絶対的な信用は武将達に無かった。
それを三成は、豊臣家の名で同格以上の者にまで強い態度で接し差配した。
人間は、困った事に「信じて居たのに裏切られた」と言う被害者意識を持つが、良く考えて欲しい。
「信じて居た」は、相手に対する一方的な思い込みで、それを持って「裏切られた」と恨むのは「甘えた筋違い」と言うもので、ここで考えて欲しいのは「主体の置き方」である。
即ち一方的に相手を信じて満足するのではなく、「相手に信じて貰える努力をして来たか」と言う事である。
これは夫婦間から仕事仲間までで通じる事だが、例え表面に出さなくても心の内で相手をバカにした時から「裏切られる危険性」は格段に増す。
貴方が嫌いな相手は相手も嫌いが相場である。
以心伝心は「対人関係の基本」で、本人は上手く屋って居る積りでもその本心は態度の端々で相手に伝わるものである。
石田三成の悪い所は、学問は学んで利口になったがそれを絶対視して学問が新しい発想の原点に過ぎない事を忘れていた点である。
つまり理屈は合って居ても、世の中に通用し無い事は多々ある。
それでも困った事に、自らを利口と自覚する石田三成は、「何があろうとも相手が悪い」と言う傲慢な人間になっていた事である。
反面、良く考えて見れば石田三成に人気が無くて当然である。
彼は、豊臣諸大名に高クオリティを要求した。
その手法はワザワザ敵を作るようなもので、当然無骨一辺倒の大多数の現状派は、それを実現する自信の無さも有って反発する。
それを、「彼には人気が無い」と、一言でかたずけてはいささか不憫ではある。
石田三成は、周囲の知恵も無い同僚連中が「這いつくばってでも出世をしよう」としているのを馬鹿にしていた。
無骨で無知な彼らの取り得は、三成には到底出来ない主君・秀吉に人目も憚(はばか)らずゴマをすり、意見具申する事もなくひたすら言う事を聞く事である。
三成に言わせれば、調子が良いだけで中身に誠意は感じられない連中だった。
所が、三成には信じられない事だが世の中は上手く出来ているもので、案外そんな連中が主君に可愛がられて三成と然(さ)して変わらぬ知行地(所領)を得る出世するのだ。
主君・秀吉のそう言うところは三成も苦々しく思っていてが、現実だからし方が無い。
つまり根から正直なのは三成だけで、その調子が良い連中がこの豊臣家存亡を賭けた肝心な時に敵方に廻ったのだから、要は恩義など感じては居ず主君・秀吉への奉公も己の為の処世術だった訳である。
唯、己の才に慢心した石田三成は、同僚の粗(あら)ばかり観ていた。
他人を批判的な目でばかり見ている者は、人間関係を壊し、良い人生は築けない。
当然ながら、そうした悪しき考え方は、言わずとも態度で相手に伝わり、味方を失う。
特に「指導的な立場に立とう」と志す者は、相手の良い所も合わせて評価する度量の心掛けが必要で、その配慮に欠けて批判ばかりして居る者は指導的立場に立った時点で失敗する。
慶長の役の出兵の最中に太閤・秀吉が病死して朝鮮征伐が中止となり、出兵組が引き上げて来ると石田三成が豊臣家を我が物顔で取り仕切っている。
面白くない福島正則や加藤清正、浅野幸長ら七将が共に三成に敵対、前田利家が死去するとこの七将が三成の大坂屋敷を襲撃して石田三成暗殺未遂事件を起すも、三成は事前に察知して佐竹義宣の助力を得、大坂から脱出して伏見城内に逃れ伏見で睨み合う内に徳川家康の取り成しの為に三成暗殺は失敗する。
しかしながら三成は、この騒動の結果、五奉行の職を解かれ、居城・佐和山へ隠居の身となっている。
いずれにしても、石田三成は同僚の恨みを一身に買うが秀才故に敢えて放置してしまう。
これは、家康や光秀には勿怪(もっけ)の幸いである。
家康と光秀は、三成や豊臣(淀君)方がじれる様な仕打ちを繰り返し、米沢の上杉と光成に家康討伐の「のろし」を上げさせる事に成功する。
彼らの企て(作戦)は先ず奥州の上杉が叛乱を起こし、家康が討伐に向かう所を背後から三成が「挟み撃ちにしょう」と言うものだ。
真偽の程は定かでないが、関が原合戦の端緒を開いたのは上杉家・執政・直江兼続の世に言う「直江状」だと言われている。
武将と言う生業(なりわい)は戦商売みたいなもので、命を的にするから知恵や経験が物を言う。
ある程度己に自信がある武将は、まだ出来上がっていない「これぞ」と思う少年に目をかけて己(自分)流の兵法を「一から仕込もう」と言う願望を持つ。
「己の全てを注(そそぎ)ぎ込む」となると、信頼関係が大事だから稚児小姓(衆道)として常に傍(かたわら)に置き、心身ともに愛情を注(そそぎ)ぎながら教え聡(さと)し有能な部下として育てる。
上杉家の天才武将官僚として今直語り草にされている直江兼続(なおえかねつぐ)は若かりし頃、「不敗名将・仁(じん)の人」と謳われた上杉謙信(うえすぎけんしん/長尾輝虎)の稚児小姓(衆道)として育てられ、言わば上杉謙信(うえすぎけんしん)流武将学の継承者である。
豊臣秀吉の要請で越後から合津に移った上杉百二十万石は、上杉謙信から上杉景勝の代になっていた。
上杉景勝は秀吉政権下で五大老の一人として任じられ、その上杉家・執政・直江兼続と豊臣家直臣で五奉行の一人石田三成とは懇意な間柄だった。
この直江兼続と石田三成の二人が連絡を密にして徳川家康に上杉討伐の兵を挙げさせ、家康が東進している間に大阪で打倒家康の兵を三成が挙げ、「挟み撃ちにする作戦ではなかったのか」と、世に兼続・三成の密約説がある。
直江兼続の祖は系図で言うと、遡れば平安末期の武将・中原兼光(なかはらのかねみつ/樋口 兼光)に辿り着く。
中原次郎兼光は木曽(源)義仲の家臣で、義仲の愛妾・巴御前の兄と言う方が判り易い。
木曽(源)義仲敗死後、中原兼光は源頼朝方に降伏するが斬首されるも、その遺児が残って樋口を名乗り、その樋口家末裔の樋口兼豊が上杉景勝の実父である上田長尾家・長尾政景(ながおまさかげ)に臣従する。
樋口家は上田長尾家執事或いは上田長尾家家老とも言われ、樋口兼続は謙信の実姉(景勝の母)の推薦で景勝の小姓近習として五歳と言う幼い頃から近侍していた。
樋口(直江)兼続は、主君・上杉景勝の小姓近習時代に越後の虎と称された国主・上杉謙信の生涯敗れた事の無い戦ぶりと領国経営の生き様に感銘し、生涯その謙信を手本として上杉家を主導するに到っている。
兼続も偉いが、その才能を見込んで任せた主君・上杉景勝の度量の良さも、或いは国主たる者の持つべき才能かも知れない。
上杉景勝は上田長尾家当主・長尾政景の次男として生まれ、兄の死去で一旦は長尾家を継ぐが、生母が上杉謙信(長尾景虎)の実姉・仙桃院だった為に、子供の居ない上杉謙信(輝虎)の養子と成っていた。
千五百七十八(天正六年)、一代の風雲児・上杉謙信が急死する。
その後、家督をめぐって謙信の養子である上杉景勝と相模の北条氏から養子に入った上杉景虎との間で御館の乱が起こり、景虎の自害に拠り兼続の主君・景勝が上杉家を相続し越後国主と成る。
その上杉家内乱の三年後に景勝の側近である直江信綱と山崎秀仙が、毛利秀広に殺害される事件が起き、直江家の血脈が途絶えてしまう。
跡取りの無い直江家を継ぐ事を主君・上杉景勝に命じられた樋口兼続は、その命により直江景綱の娘で直江信綱の妻であった船の婿養子(船にとっては再婚)に入って直江家を継いで直江兼続を名乗り、越後与板城主となる。
直江家を継いで直江兼続と成った兼続は、主君・上杉景勝の信任厚く上杉家を取り仕切る事を任されて、合津国替えの時点では陪臣ながら出羽米沢に六万石の所領が与えられ、景勝より配下に預けられた寄騎の軍勢を加えると、上杉百二十万石の四分の一に相当する凡そ三十万石に相当する軍勢を与えられていた。
その後、関が原合戦の後処理(仕置き)で上杉家が米沢三十万石に減封されると、兼続は自らを五千石の知行に減らして家臣を説得、抱えた家臣を手放す事無く領国経営に力を入れて産品を増やし、石高以上の国力を生み出して後の世まで称えられている。
この計略の事態は、南光坊(光秀)が読み切っていて、石田三成が画策した東北(上杉)、関西(毛利その他)の挟み撃ち作戦は、最初から失敗する運命だった。
家康が選んで編成した対上杉討伐軍は、親徳川軍と、豊臣恩顧の部将(大名)ではあっても、大方は石田三成嫌い急先鋒の部将(大名)達であった。
彼らは、三成に対して先の朝鮮征伐の折の恨みがあった。
加藤清正、福島正則達である。
南光坊(光秀)と雑賀孫市、服部半蔵、過っての勘解由小路党に繋がる者共は、南光坊(光秀)を盟主として、暗躍する。
彼らにすれは、豊臣家と言うまるきり血統の裏付けが無い家が天下人で有る事が、既に異常事態である。
諜報関係を東軍(徳川方)に全て握られていたが、正攻法の正論家・石田三成は気が付かない。
石田三成は庶民の出自で、根が善良である。
その三成が、信義だけを信じて老獪な徳川家康相手に関が原の合戦を挑んだ。
善良な武将など戦に勝てる訳が無い。
善良な市民の悪い癖は、幾ら裏切られても、「お上を信じたがる」幻想を持ち続けている事で有る。
つまりそれは、永い事培われた征服部族の意識操作の影響である。
性善説に立ち、疑って掛かるのが「低俗な事」と、原則論に拘(こだわ)って真実に蓋をし奇麗事に終始する。
気持ちは判るが夢物語で、およそ権力者が奇麗事だけで勝ち上がって来る訳がない。
豊臣家の執政役を任じていた石田三成と上杉家の当主・景勝、そして上杉家々老・直江兼続は生真面目な所が共通している。
世の不条理では在るのだが、その生真面目が権謀術策の世に在って時には邪魔に成る。そう言う意味に於いて、豊臣家を滅ぼすきっかけを作ったのは石田三成の生真面目さである。
天皇家ならともかく、豊臣を奉じての大義名分だけでは他人(ひと)は動かない。
本来、ニ〜三十万石程度の中規模大名である三成がこの戦勝で伸し上がり、過日の秀吉のように主家である織田家を尻目に天下を取り、上に立たれて苦い思いをさせられるのは、自分達は御免である。
そうなると自他ともに実力を認める大々名の家康に付く方が、より現実的で納得が行くのである。
徳川家康は源頼朝と同じ手紙魔で、見方の獲得の為にセッセと手紙を書いて居た。
人はそうした努力には絆(ほだ)されるもので、つまり信頼の獲得にはコミニケーションが大事であるから、その「努力を惜しんでは成らない」と言う事である。
関が原合戦は千六百年(慶長五年)の出来事で、石田三成は千五百六十年(永禄三年)の生まれだから、ちょうど四十歳で男としては盛りであった。
しかし戦に対する周到さは、合戦当時既に五十七歳に成っていた徳川家康の方が遥かに勝っていた。
千五百六十年(永禄三年)の桶狭間の合戦に十八歳で初陣してから、もう三十九年間も事有るごとに戦って負け戦の味も舐めて来た家康にとって、勝ち方は無数にある。
それに引き換え三成は有能な行政官僚ではあるが、賤ヶ岳の戦いでは柴田勝家軍の動向を探る偵察行動を担当、九州征伐の参陣でも輜重(しちょう/後方支援)を担当するなど、まともに大軍を指揮した実戦経験は乏しかった。
石田三成と感情も露に対立した福島正則(ふくしままさのり)は、尾張国(現在の愛知県海部郡美和町)で生まれている。
正則の母が「豊臣秀吉(日吉丸/木下藤吉郎)の叔母だった」と伝えられ、その縁で「幼少より秀吉に仕えた」とされるが、それらは後の記述で詳細は不明である。
織田信長の弔い合戦となった明智光秀との山崎の戦いで軍功をあげ、五百石の知行を与えられ、翌年の織田家中主導権争いとなった柴田勝家との賤ヶ岳の戦いでは、一番槍・一番首として敵将・拝郷家嘉を討ち取る大功を立てて賤ヶ岳の七本槍の中でもその武功第一と賞され、五千石を与えられた。
その後も福島正則は秀吉の主要な合戦の多くに参戦し、九州征伐の後に伊予国今治十一万石の大名に封ぜられている。
やがて日本全国を統一して豊臣政権が誕生すると、千五百九十二年(文禄元年)朝鮮半島・中国大陸に進出する野心を持った秀吉が「文禄の役」を起こす。
福島正則は、文禄の役では戸田勝隆・長宗我部元親・蜂須賀家政・生駒親正・来島通総などの諸将を率いる五番隊の主将として出陣、京幾道の攻略にあった。
この朝鮮出兵の功で、正則は千五百九十五年(文禄四年)に尾張国清洲に二十四万石の所領を与えられた。
この朝鮮出兵最中の千五百九十八年(慶長三年)太閤・豊臣秀吉が病死すると朝鮮での戦闘は中止され、遠征軍が引き上げて来る。
所が武闘派の福島正則や加藤清正は、官僚統治派の石田三成らと朝鮮出兵を契機としてその仲が一気に険悪化していた。
石田三成は正論の徒であり、正しいと思えば誰にでもズケズケとものを言う。
言う方は相手の為を思って言って居ても、図星を言われると腹が立ち相手に敵意を抱く小心者の人間も多く居る。
武闘派の福島正則や加藤清正は一見豪胆に見えるが豪胆に振舞う者ほど繊細な一面が在り、図星に自尊心を傷付けられて恨みを抱く。
いずれにしても「有能な官僚統治派が、有能な指導者とは限らない」と言う事であり、官僚統治派は有能な指導者在っての憎まれ役が相応なのである。
豊臣秀吉没年の翌年に、五大老の一人として豊臣政権安泰に尽力し徳川家康を牽制していた前田利家が病没すると、福島正則は朋友の加藤清正と共に三成を襲撃するなどの事件も起こし、この時は徳川家康に慰留され襲撃を翻意している。
その経緯から正則は家康と昵懇(じっこん)の仲の秀吉恩顧大名の一人となる。
その為、これは諸大名の私婚を禁じた秀吉の遺命に反するものだったが、姉の子で正則の養子になっていた正之と家康の養女・満天姫との婚姻を実現させ、徳川家と福島家は縁戚の体を為すに到っていた。
徳川家康が、難癖ではあるが会津・上杉家の豊臣家に対する謀反を言い出し討伐の軍を編成した時、正則は六千余りの軍勢を率いて従軍していた。
その上杉討伐の北上行軍の途中、上方(京・大阪)方面で石田三成が挟み撃ちを狙って家康討伐を掲げて挙兵する。
この三成挙兵の報を受けて、家康と行軍中の諸大名・諸将はどちらに味方するのかの選択を迫られ去就に窮して動揺する。
その迫られた去就を決定つけたのが、あらかじめ家康の意を受けた黒田長政に懐柔されていた福島正則の談合密約に拠る正則主導の小山評定である。
小山評定では動揺する諸大名・諸将の機先を制して、正則がいち早く家康の味方につく事を誓約した為に秀吉恩顧の正則の姿勢に諸将は一致して同意、反転して西上する方針が決定する。
勇猛を持って知られる黒田長政(くろだながまさ)は、豊臣秀吉の軍師として仕えた事で有名な黒田孝高(官兵衛/如水)の長男である。
父・黒田孝高(官兵衛/如水)が播磨国の西播最大の大名・小寺政職に仕えて姫路城代を勤めていた黒田家は、官兵衛の父・職隆の代に主君・小寺政職から「職」の一文字を与えられ養女を貰い受けて小寺の名字を名乗っている。
小寺(黒田)家の家督を継いだ官兵衛は、千五百七十七年(天正五年)進行して来た織田方に付く為に奔走して播磨の大半をまとめ、羽柴秀吉を姫路城に迎え入れて城を明け渡し、そのまま秀吉の与力となる。
小寺(黒田)家が当初は新参者だった為に、臣従の証として長政は織田信長の人質として、織田家家臣の羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)の居城・近江国長浜城にて過ごして居た。
黒田長政(くろだながまさ)が近江国長浜城に人質に成った翌年、信長に一度降伏した荒木村重(摂津・伊丹城主)が信長に反旗を翻した為、父・孝高は村重を説得する為に伊丹城に乗り込んで村重に拘束された。
信長は孝高がいつまでたっても戻ってこない為、「村重方に寝返った」と考えて長政を処刑しようとしたが、竹中半兵衛は長政を処刑したと偽って助命する。
この半兵衛の機転により、長政は危うい所で一命を助けられている。
その一年後に荒木村重の有岡城は落城し、黒田官兵衛は家臣の栗山利安に拠って救出され裏切りの疑いは晴れたのだが、長期の入牢で関節に障害が残り歩行が不自由になって、以後の合戦の指揮には輿を使う始末だった。
そんな父・孝高(官兵衛/如水)に代わって、黒田長政が秀吉の下で備中高松城攻めに従い中国地方の毛利氏と戦い、将としての才覚を示し始めている。
本能寺の変、山崎の合戦、賤ヶ岳の合戦と秀吉が天下を取る過程に加わって徐々に加増され、九州征伐では長政自身は日向財部城攻めで功績を挙げた。
戦後、父子の功績をあわせて豊前国・中津に十二万五千石を与えられ、千五百八十九年(天正十七年)に父・黒田孝高(官兵衛/如水)が隠居した為に長政は家督を相続し、同時に従五位下・甲斐守に叙任されている。
長政は文禄・慶長の役にも渡海し、主将として三番隊を率いて一番隊の小西行長や二番隊の加藤清正等とは別の進路を取る先鋒隊となった。
秀吉が死去し、三成ら文治派と福島正則や加藤清正ら武断派の対立が起こると、長政は武断派に与し五大老の徳川家康に接近し、家康の養女(保科正直の娘)を正室に迎える。
前田利家の死去をきっかけとした武断派の福島正則や加藤清正らの石田三成襲撃にも参加している。
石田三成襲撃事件の翌年起こった関ヶ原の戦いで黒田長政は兵五千四百を率いて一番の武功を挙げ、筑前福岡藩五十二万三千石を与えられ、福岡藩の初代藩主となった。
秀吉恩顧大名の一人だった長政は、やがて起こった大坂冬の陣では江戸城の留守居を務め、嫡男・黒田忠之に代理出陣させる羽目になったが、翌年の大坂夏の陣では二代将軍徳川秀忠に属して豊臣方と戦っている。
朝鮮征伐の折の恨みが在った大名達は、三成の家康討伐の挙兵を聞くと、こぞって家康側にまわった。
「三成ごときを此処で勝たせて、これ以上大きい顔をされてたまるか。」が、本音である。
ちなみに、この時結城秀康は徳川方の一員として、宇都宮に陣取っていた。
徳川東軍が関が原に向かった際には、上杉軍追撃の押さえと成った為、関が原戦には参戦していない。
徳川家康を総大将とした東軍はふた手に分かれて上方に攻め上る事となり、家康本隊の東海道方面軍と家康長男・秀忠を大将とする中山道方面軍の二隊が夫々の街道を進軍して行く。
東軍・家康方の東海道方面軍が福島正則(ふくしままさのり)の居城・尾張清洲に到達した関ヶ原の戦いが始まる前、福島正則は先鋒を買って出て出陣し、池田輝政と先鋒を争い、清洲から美濃方面に進軍して西軍の織田秀信が守る岐阜城攻めでは黒田長政らと共同で城を陥落させている。
石田三成が西軍(豊臣方)の総大将に据えた毛利輝元(もうりてるもと)は、下克上で大内氏を倒して周防・長門を奪った陶(すえ)氏を倒した毛利元就(もうりもとなり)の嫡男・毛利隆元の嫡男で、言わば毛利家の正統三代目である。
安芸(現在の広島県)に生まれ、幼名は幸鶴丸を称した毛利輝元(もうりてるもと)は父・隆元が急死した為十一歳で家督を継ぐも若年の為、祖父・元就が実権を掌握し、政治・軍事を執行していた。
毛利幸鶴丸は、千五百六十五年に十三代将軍・足利義輝より「輝」の一字を許され十二歳で元服し、輝元と名乗り同年の月山富田城で初陣を飾る。
千五百七十一年(元亀二年)、輝元十八歳の折に周防・長門・長州・安芸・石見をほぼ制した一代の英雄・祖父の元就が死去すると、毛利両川(もうりりょうせん)体制を中心とした重臣の補佐を受け、元就は漸く親政を開始する。
その親政開始の三年後、千五百七十四年(天正二年)には織田信長の助力で将軍職に就いた十五代将軍・足利義昭からの推挙を得て、輝元は朝廷から右馬頭に叙任され室町幕府の相伴衆に成った。
「三本の矢」の逸話の元とも成った毛利両川(もうりりょうせん)体制とは、吉川氏には次男の元春、小早川氏には三男の隆景を養子として送り込み、それぞれの正統な血統を絶やしてその勢力を勢力を吸収するのに成功し、中国制覇を果たすのに大きな役割をした組織体制である。
月山富田城・初陣の後、輝元は中国地方の覇者となるべく各地に勢力を拡大して行く。
祖父・元就の時代からの敵対勢力である尼子勝久や大友宗麟らとも戦い、これらに勝利して九州や中国地方に勢力を順調に拡大し続けていた。
所が、千五百七十六年(天正四年)になって織田信長に拠って都を追われた将軍・足利義昭が領内の備中に動座して来た為、輝元は保護せざるを得ない状況となる。
その上石山本願寺が挙兵(野田城・福島城の戦い)すると輝元が村上水軍を使うなどして本願寺に味方し、兵糧・弾薬の援助を行うなどした事から信長と激しく対立する。
信長軍団と事を構える事に成った毛利輝元だったが、当時織田軍は越後の上杉謙信と敵対していた事もあり兵が手薄で、緒戦の毛利軍は連戦連勝し、第一次木津川口の戦いで織田水軍を破り大勝利を収めた。
その勢いで羽柴秀吉・尼子連合軍との決戦に及んだ上月城の戦いで、羽柴秀吉は三木城の別所長治の反乱により退路を塞がれる事を恐れて上月城に尼子勢を残して転進した為、輝元は上月城に残された尼子勝久・山中幸盛ら尼子残党軍を滅ぼし、信長を歯軋りさせるほど織田氏に対して優位に立った。
しかし上杉謙信が死去、更に第二次木津川口の戦いで鉄甲船を用いた織田軍の九鬼嘉隆に敗北を喫し、毛利水軍が壊滅するなど、次第に戦況は毛利側の不利となって行き、千五百七十九年(天正七年)に成ると毛利氏の傘下にあった備前の宇喜多直家が織田信長に通じて毛利氏から離反した。
織田軍中国攻略の指揮官である羽柴秀吉に拠って、毛利輝元は徐々に追い込まれて居た。
輝元も叔父達と共に出陣するが、信長と通じた豊後の大友宗麟が西から、山陰からも信長と通じた南条元続らが侵攻して来るなど身動きが採れず、羽柴秀吉は播磨三木城を長期に渡って包囲し、持ち堪え切れなくなった別所長治は自害させ、因幡鳥取城も兵糧攻めにより開城させ毛利氏の名将・吉川経家が自害する。
千五百八十二年、羽柴秀吉が毛利氏の忠臣・清水宗治が籠もる備中高松城を水攻めにしていた頃、秀吉は京都本能寺にて本能寺の変が発生し、明智光秀の謀反により主君・織田信長滅ぶの報を聞き慌てて毛利氏の外交僧・安国寺恵瓊に働きかけ毛利氏との和睦を持ちかける。
戦況の不利で和睦を願って居た輝元や小早川隆景らは信長の死を知らずにこの和睦を受諾、結果備中高松城は開城し、城主・清水宗治は切腹して秀吉の中国大返しを許す事になった。
中国大返しで機内に戻った羽柴秀吉と明智光秀の山崎の合戦を経て、中央で羽柴秀吉と柴田勝家が覇権を巡り火花を散らし始めると、毛利輝元は勝家・秀吉の双方から味方になるよう誘いを受けたがいずれが勝利するか確信が持てずに中立を保った。
賤ヶ岳の戦いには協力しなかった輝元は、合戦後に羽柴秀吉を天下人と見定めて接近し、秀吉に臣従し毛利元総(のち秀包)や従兄弟の吉川経言を差し出し忠誠を誓っている。
その後の輝元は、秀吉家臣として四国征伐、九州征伐にも先鋒として参加して武功を挙げ、秀吉の天下統一に大きく寄与して結果、秀吉より周防・長門・安芸・石見・出雲・備後など百二十万五千石の所領を安堵され、豊臣姓と羽柴の名字を許され羽柴安芸中納言輝元と称された。
文禄・慶長の役と呼ばれる二度の秀吉に拠る朝鮮出兵にも輝元は主力軍として兵三万を派遣し、これらの功績から秀吉より五大老に任じられた。
千五百九十八年(慶長三年)の豊臣秀吉死去の際、臨終間近の秀吉に輝元は五大老の一人として遺児の豊臣秀頼の補佐を託されている。
豊臣秀吉死去から二年、千六百年(慶長五年)に徳川家康と石田三成による対立が遂いに武力闘争に発展、徳川家康が上杉景勝討伐に出陣する隙を突く形で石田三成が西軍の総大将として毛利輝元を擁立し挙兵する。
四十七歳に成っていた輝元は、三成らに擁されて大坂城西の丸に入り西軍の総大将として大坂城に在ったが、関ヶ原本戦においては自らは出陣せず、一族の毛利秀元と吉川広家を出陣させるに止まった。
その西軍が関ヶ原で壊滅した後、輝元は徳川家康に申し出て自ら大坂城から退去し決戦を避けている。
一方、毛利両川(もうりりょうせん)の一家・吉川広家は、西軍が負けると判断して黒田長政を通じて本領安堵、家名存続の交渉を家康と行い、関ヶ原本戦では吉川軍が毛利軍を抑える形となって毛利秀元の率いる毛利軍は不戦を結果とした。
それで毛利家は安泰と思われたが、輝元が西軍と関わりないとの広家の弁解とは異なり大坂城で輝元が西軍に関与した書状を多数押収した事から、徳川家康は戦後その本領安堵の約束を反故にして毛利輝元を改易する。
その上で家康は、改めて吉川広家に周防・長門の二ヶ国を与えて毛利氏の家督を継がせようとしたのだが、広家は家康に直談判して毛利氏の存続を訴えた為に毛利輝元は隠居、毛利秀就への周防・長門二ヶ国の安堵となり毛利本家の改易は避けられた。
この家康の仕置きが、まさか二百五十年後に徳川家への「禍根となる」などとは、流石の徳川家康も知る由もない。
毛利氏は所領を周防・長門二ヶ国の三十七石に大減封されて江戸期を凌(しの)ぎ、遠い歳月を経て明治維新の倒幕急先鋒の藩と成ったのである。
かくして、慶長五(千六百)年九月十五日関ヶ原に、東軍八万(家康方)、西軍十万(三成方)が激突する。
一見すると、ほぼ互角か兵力的に西軍有利のようだが中身が違う、本当の親三成派部将は数えるくらいで実質総兵力は二から三万程度、他(あと)は付き合いか様子見で頼りに成らない。
この天下分け目の時、関東七ヵ国を領する徳川家康の手勢・兵三万に対して近江国・佐和山十九万四千石を所領とする石田三成が率いた手勢は僅か兵六千に過ぎなかった。
しかも家康には、未だ未着ながら中山道を登って来る二代将軍・秀忠の軍勢三万五千が西を目指して上って居た。
それでも緒戦は西軍有利に運び、一時は勝機らしきものもあったが、小早川秀秋(秀吉の甥で小早川家の養子)の裏切りに会い西軍、石田方は壊滅的敗北をする。
武将とは一族郎党の一群を率いる棟梁で、その決断能力に一族郎党の命運が掛かっている。
従って、参陣はしたものの関が原戦の当日までどちらに着くか迷う武将が在っても仕方がない。
哀しい事に、本当に石田方として獅子奮迅の働きをしたのは、石田三成の盟友・手勢の兵四千の小西行長と大谷吉継(大谷刑部)の率いた僅か六千に足らぬ兵力だけだった。
関が原の合戦当時、西軍(石田方)に在って本気で戦った小西行長は、石田三成と盟友関係に在った数少ない武将の一人である。
小西行長は羽柴秀吉の家臣として仕え、関が原の合戦当時は肥後の南半国・宇土、益城、八代の二十万石余りを与えられていた。
行長の父親は小西隆佐と名乗る堺の薬商人で、行長はその次男として京都で生まれた。
始め浪人から下克上で伸し上がった宇喜多直家(備前国の国人領主)の家臣として仕えていた小西行長は、織田信長に宇喜多直家が降伏する時に交渉役を務め羽柴秀吉(豊臣秀吉)を通じてその難役を成し遂げる。
宇喜多直家が死去すると、行長は羽柴(豊臣)秀吉の家臣として俸禄千石を以って仕えた。
父親の小西隆佐が早くから外国からの影響を受ける堺の薬商人と言う経歴で解る通りキリシタンで、子の行長もキリシタンだった。
父・隆佐の拠点・堺は水運の盛んな貿易港だった所から、小西行長は秀吉に舟奉行に取り立てられ水軍を率いていた。
紀州征伐などに水軍を指揮して参戦した行長は、その後の九州征伐や肥後国人一揆の討伐にも功を挙げ、文禄・慶長の役(朝鮮征伐)の前には肥後の南半国の二十万石余りを領する豊臣家直臣の有力な大名に成っていた。
所領となった肥後の南半国の運営に取り掛かると、本拠として築城した宇土城普請の事で天草五人衆と揉め事となり、肥後北半国を領した隣国の加藤清正らの助勢も在ってこれを鎮圧、その五人衆の所領・天草四万石も転がり込んで計二十四万石の領主となる。
しかし、この頃から隣国の加藤清正とは次第に確執を深める事態になっていた。
文禄・慶長の役(朝鮮征伐)では、行長は豊臣秀吉の命で主力武将として出陣、文禄の役ではそこそこの戦果を挙げているが明との講和交渉に石田三成と共に携わった事から三成との接近が始まっている。
この文禄の役の講和交渉に、秀吉への報告に虚偽があった事が発覚、講和は秀吉の手で破棄されて慶長の役が始まる。
陰謀を画策した行長は一旦死を命じられるが、前田利家や淀君らのとりなしにより一命を救われ先鋒として再び朝鮮に出陣するが、共に先鋒を命じられた加藤清正とは不仲で作戦をめぐって対立、こうした事が対立相関図となって後の関が原の敵味方対陣の要因と成っている。
千五百九十八年(慶長三年)主君・豊臣秀吉が死去する。
秀吉の命じた朝鮮征伐は中止と成って小西行長も帰国を果たすが、福島正則や加藤清正らと対立する石田三成ら文治派に与し、関が原の戦いに石田三成に呼応し西軍の将として手勢の兵四千にて参戦する。
行長は東軍の田中吉政、筒井定次らの部隊と交戦して奮戦するが小早川秀秋らの裏切りで大谷吉継隊の次に標的となり大谷吉継隊、小西行長隊の順で壊滅する。
敗れた小西行長は関が原を脱して伊吹山中に逃れたが、四日後に竹中重門(たけなかしげかど/竹中半兵衛重治・嫡男)の手勢に捕らわれ、約十日後に京都六条河原において石田三成に続いて斬首され首は徳川家康によって三条大橋に晒されている。
近江国の武士・大谷盛冶と豊臣秀吉の正室の高台院(北政所、おね、ねね)の侍女で、東殿と言う母の間に幼名・慶松(よしまつ/大谷吉継)は生まれた。
大谷吉継は、母の伝で天正初め頃に秀吉に仕官して小姓となり、その律儀さで寵愛を受ける。
千五百八十三年(天正十一年)、明智光秀が起こした本能寺の変で織田信長が落命すると、柴田勝家と羽柴(豊臣)秀吉との対立が表面化し、賤ヶ岳の戦いが起こった時、吉継は長浜城主・柴田勝豊を(勝家の甥/勝家の養子)調略して内応させ、七本槍に匹敵する三振の太刀と賞賛される大手柄を立てる。
賤ヶ岳の戦いから二年後、大谷吉継は従五位下・刑部少輔に叙任され、以後「大谷刑部」と呼ばれるようになる。
刑部少輔叙任の翌年の九州征伐では、石田三成と共に兵站奉行に任じられて功績を立て、その功績などで千五百八十九年(天正十七年)に秀吉から越前国の内で敦賀郡・南条郡・今立郡の三郡・五万石を与えられ、吉継は越前・敦賀城主となった。
大谷吉継は徳川家康とも親しく、淀君のプライドと秀頼可愛さも在って険悪化する豊臣(石田方)と徳川(家康方)との間に入って関係修復に動き奮闘するが、修復に失敗している。
関が原の合戦前には、三成から家康に対しての挙兵を持ちかけられ、吉継は「勝機無く無謀」と説得するが、三成の固い決意を知り、敗戦を予測しながらも病(ハンセン病と伝えられる)をおして三成の下に馳せ参じ、諸大名を味方に取り込む事に腐心して西軍・豊臣(石田方)に与力している。
大谷吉継(大谷刑部)は、むしろ徳川家康の人柄、将たる者の器に心酔していた。
しかし人間には、例え九割、否九割五分心酔している相手にでも、己が信ずる譲れない五分がある。
それは馬鹿正直で不器用、純真を絵に描いたような石田三成の豊臣家を思う真情への共感だった。
病に冒されていた大谷吉継(大谷刑部)にしてみれば、滅び行く豊臣家に憐憫の情を抱いたのかも知れない。
ここに到って、豊家(豊臣家)拠りも徳川家が圧倒的な力を持っている事が、判らない大谷吉継(大谷刑部)では無い。
これは正に、大谷吉継(大谷刑部)と言う男の「生き様」の問題だった。
関が原に於ける戦闘では、吉継は関ヶ原の西南・山中村の藤川台に布陣、東軍・徳川(家康方)の藤堂高虎、京極高知両隊を相手に奮戦の最中、小早川秀秋の裏切りに合い応戦する。
吉継が一万五千の小早川勢と互角に戦って一進一退の所に、脇坂安治・赤座直保・小川祐忠・朽木元綱の四隊四千三百が東軍・徳川(家康方)に寝返り、大谷隊の側面に総攻撃を仕掛けられて総崩れになり、「もはや挽回は不可能」と判断して自害している。
大谷吉継(大谷刑部)は、その関が原の奮戦振りと敗戦覚悟の石田三成への友情に殉じた生き様から、名声を博して今日に語り継がれている。
関が原の戦いは、一万五千名強とも言われる大軍を率いて参加していた小早川秀秋が、松尾山城砦に去就が明らかでないまま西軍として居座って、東軍有利と見るや寝返った為に僅か半日で勝敗の決着がついた事に成っている。
この小早川秀秋の寝返り、秀秋は秀吉の正妻「おネ(ネネとも言う)」の甥で、淀君や石田三成を嫌う「おネ」を通して家康からの内応話や側近への東軍からの勧誘話が漏れ聞えている。
実はこの裏切り話、裏切りにあらず。
始めから家康方と密約が出来て居た話である。
その証拠は、歴史的に大変重要な小早川側近の勧誘諜略話の後日談があり、その勧誘話の功労者が家康に処遇された結果を見れば明らかである。
関ヶ原は濃霧に包まれていた。
合戦は既にその戦端を開き、先鋒の東軍・福島(正則)隊六千と西軍・宇喜多(秀家)隊一万七千が激戦状態に在った。
突然「ドドドー」と言う無数の軍馬のヒズメの音といななき。
無数の矢が「シュウ〜シュウ〜ン」と不気味な音を立てて降り注ぎ来、やがて、「ボーン、ボーン」と言う鉄砲の音も、散見される様に聞こえ始めた。
見ると赤備えの具足の一団が遠目にも鮮やかに見え、血気はやる井伊直政の軍勢が勝手に動き始め福島隊を出し抜いて先鋒の切り込みを開始していた。
両陣から「ワーッ」と歓声があがり、兵馬の距離が縮まって行き、白兵戦に成った。
地を駆ける「ドタドタ」と走り回る足音が敵味方入り乱れて聞え、気合や怒号と共に、刃(やいば)を切り結ぶ「チャリーン」と言う太刀の当たる響きもそこかしこで上がっている。
霧の向こうから、風に乗って合戦のざわめきが家康の本陣まで流れて来る。
この関が原の戦いに於ける徳川家康本陣には、軍師・南光坊(光秀)の他に旗本側近として本多忠勝・等と井伊直政が軍勢を率いて守りを固めていた。
実はこの関ヶ原の東西両軍の布陣、誰が見ても西軍有利で、何故この状態で天下の秀才光秀(南光坊)を軍師に据えた家康が迷う事無く戦端を切ったのか、余りにも無謀だった。
家康本陣が桃配山中腹にあり、西軍・松尾山の小早川隊と南宮山の吉川隊に横腹を晒した布陣だったからである。
石田三成はこの東西両軍の布陣を見て、素直に「勝った」と確信したが、そうは成らなかった。
実は、始めから決まっていた事がある。
「天海、松尾山砦の小早川(秀秋)の小せがれは大丈夫か?このまま攻め掛けられれば持たぬぞ。」
「ご安堵召され、林正成めが秀秋殿の傍に仕えております。南宮山の吉川(広家)殿も間違いはございません。」
「合図は?」
「好機を捉え、松尾山下に忍ばせている配下の雑賀孫市の手の者が、山裾に鉄砲を撃ち掛ける事になっております。それを合図に、秀秋殿が攻め降りてまいります。」
「合い判った。それにしても三成は、敵ながら底抜けに真っ正直な男よ。」
「いかにも・・・」
「三成めは、才走って己ばかり利巧と自惚れておるわ。」
「さよう、我らが易々と不利な陣備えすると、東方を舐めてござるな。」
元々三成は、軍人と言うより学者・官僚の器で、戦も図上での考慮でしかない。
戦は日頃の気配りで、味方作りから始める用意周到なものである。
その時に成って、三成のように「筋が通っているから味方になる」などと勘違いするのが、知に溺れる者の弱点と言える。
合戦の火蓋は切られ、東軍・徳川(家康方)の藤堂高虎、京極高知の両隊は、唯一積極的に決戦を挑んで来た西軍・豊臣(石田方)の大谷吉継(大谷刑部)相手に釘付けの戦闘の最中で、その勝敗の行方を伺う気持ちの定まらない武将達の注目を浴びていた。
家康本陣に居た井伊直政は東軍の先鋒として出撃し、家康の四男・松平忠吉(直政の娘婿)を良く補佐して積極的に戦闘に加わり、島津義弘の軍と戦っている。
井伊直政は、家康に見出され小姓(稚児小姓)として男色(衆道)相手として最も深く寵愛され、やがて側近として育てられた子飼いの武将である。
織田信長に於ける前田利家や森欄丸もそうだったが、この時代誓約(うけい)の概念に於ける男色(衆道)相手の稚児小姓を寵愛し、最も信頼が置ける側近に育てる事は異常な事ではなかった。
この関が原の戦いで獅子奮迅の活躍した猛将・福島正則(ふくしままさのり)は東軍に布陣して居た。
東西両軍が対峙した関ヶ原の戦い本戦では、福島正則は当初石田勢との直接対陣を希望したが手柄の一人占めを憂慮した家康の思惑で結局叶わず、幾多の戦いで先陣を務めたにも関わらず、功を焦った井伊・松平らに抜け駆けされ激怒し、西軍・宇喜多勢一万七千に福島勢六千余りで戦端を開き死闘を繰り広げた。
宇喜多勢に突っ掛かっては見たが、宇喜多秀家隊の前衛を率いた明石全登は音に聞こえた勇将の上に兵は八千で福島勢は劣勢に立たされて押しまくられ、一時壊滅寸前に追い込まれている。
この福島勢壊滅の危機を、正則自身が血相を変えて叱咤し一進一退の攻防を続けている情況で西軍方に配陣していた小早川秀秋が突如東軍方として参戦、それを機に西軍の戦線は次々に崩壊した為に福島正則隊は甚大な被害を受けながらも宇喜多勢を打ち破る事に成功する。
関が原戦大勝利後も、正則は西軍総大将・毛利輝元からの大坂城接収にも奔走して貢献、戦後処理で安芸広島と備後鞆の計約五十万(四十九万八千二百)石の大封を得ている。
その内に、笹尾山の陣から出陣した三成の本隊と、東軍・黒田(長政)隊五千数百、細川(忠興)隊五千余りが戦闘状態に入る。
三成は、中々戦端を開かない味方の軍勢の呼び水にしようと、陣形を壊して攻め込んで来たのである。
見よ、「三成め、業を煮やして笹尾山から出張って来たわ。」
「大殿、そろそろ孫市が合図を撃ち掛ける頃です。松尾山をご覧下さい。」
合戦のざわめきの中、銃声は聞えなかったが松尾山の山腹で無数の小さな白煙が上がった。
小早川隊は、喚声を上げながら西軍めがけて一斉に下山を始める。
過って打ち合わせた通りの、小早川秀秋の行動だった。
松尾山の小早川隊が「西軍に討ち掛かる」と見るや、脇坂(安治)隊、小川(祐忠)隊、赤座(直保)隊、朽木(元綱)隊らの西軍諸隊も小早川軍に呼応し、西軍は総崩れと成って行く。
小早川秀秋は、豊臣秀吉の正室・高台院「おね(ねね)・北政所」の甥にあたる。
おね(ねね)の実家である杉原(木下)家の継子・家定(おねの兄とも弟とも言われる)の五男にあたり、元服時の初名は木下秀俊(きのしたひでとし)と名乗る。
当時、正室・高台院「おね(ねね)・北政所」との間に子が無かった秀吉は数人の養子を迎えるが、その内の一人が妻方の甥に当たる木下秀俊(きのしたひでとし)で、羽柴秀俊(はしばひでとし)と名乗らせて手元に置いていた。
その秀俊が、五年後に同じく養子にして大名にした秀吉の姉「智(とも)・日秀(にっしゅう)」の次男・豊臣秀勝が病死した為に、その旧領・丹波亀山十万石を与えられる。
その後、養父・秀吉の命にて小早川隆景(毛利元就の三男)の養子として小早川家に入り秀秋と改名、小早川秀秋を名乗る。
養父と成った小早川隆景は筑前、筑後・肥前の一部三十万七千石を領する筑前名島城主であったが、秀秋は秀吉の側近大名として勤め、丹波十万石の亀山城主を任じていた所、兄・豊臣秀次事件が発生、それに連座して丹波亀山を没収される。
丹波亀山を没収された小早川秀秋は、同年に養父・隆景が隠居した為にその領地筑前、筑後・肥前の一部三十万七千石を継承して筑前名島城主に収まった。
関ヶ原の合戦時の小早川秀秋の優柔不断な行動から軟弱に描かれる場合が多いが、秀吉が朝鮮半島に出兵した「慶長の役」では全軍を指揮する元帥を務め、蔚山城の戦いでは明の大軍に包囲された蔚山倭城の救援に向かって初陣で自ら槍を手に敵将を生け捕りにするなど勇猛に活躍して居る。
しかし、元帥たる秀秋が守備すべき釜山城を出兵して蔚山倭城の救援に向かった事が「軽率な行動」と批判され、後に筑前名島に復領するが半島出兵中の一時期に領地を召し上げられて越前北庄十五万石へ国替え処分をされている。
秀吉の朝鮮征伐が中止され、半島から帰兵して二年余り、関ヶ原合戦の折に大軍を擁していた小早川秀秋の決断が天下の行方を決したのである。
一方家康本陣から先鋒を務めた井伊直政は、果敢に突撃して島津義弘の本陣を伺い、家臣である敵将・島津豊久を討ち取って居るが、その間島津(義弘)隊は傍観を決め込んで動こうとしない。
島津(義弘)隊が動いたのは、小早川隊が東軍に加勢西軍不利を確認した時で、島津義弘敵前突破を試みている。
島津(義弘)隊の動きを見て追撃に移った井伊直政は、義弘の軍を追撃している際に義弘の軍の鉄砲隊が撃った銃弾が命中し落馬してしまう。
井伊直政はその鉄砲傷が癒えないまま、関が原の戦いから二年後の千六百二年(慶長七年)に破傷風が元で死去している。
敵前突破を敢行した戦闘傍観者の島津(義弘)隊を別にし、西軍部隊は壊滅或いは逃走して、関ヵ原の合戦は東軍勝利の幕を閉じた。
傍観者を決め込んだ島津義弘(しまづよしひろ)は島津家の次男で、薩摩・大隅・日向三ヵ国の島津家国主は兄の島津義久(しまづよしひさ)だったが、関が原合戦当時の島津義弘(しまづよしひろ)は実質的な差配者だった。
戦国期の島津氏は豊後の大友氏をほぼ壊滅させる所まで圧し、一時は筑前・豊前を除く九州全域を制圧したしたのだが、千五百八十七年(天正十五)の羽柴秀吉に拠る九州征伐で、圧倒的物量を持って侵攻して来た秀吉の軍勢に抗し得ずに降伏する。
島津義弘は九州征伐の敗戦処理で大隅一国を安堵され、薩摩安堵の兄・義久と同格の大名に処された。
豊臣政権に臣従したのちは島津氏存続の為に忠勤に励んだ義弘だったが、豊臣政権に反感を持つ兄・義久や家臣団との間に摩擦を起こし、その統制に苦慮している。
五年後の文禄の役に島津義弘は出陣して小西行長や宇喜多秀家らと共に侵攻、晋州城を陥落させるなどの活躍を見せたが、乱れた家中を統制する為に召還され、薩摩・大隅・日向諸県郡のうち太閤蔵入地分などを除く五十五万九千石余が義弘の名義で与えられて島津家の実質的な差配者と成っていた。
その後太閤・豊臣秀吉が病死して徳川家康と石田三成が反目して天下分け目の合戦が始まる。
千六百年(慶長五年)に起こった関ヶ原の役に際しては、当初は徳川家康に与して家康らが会津征伐に出征している間の留守居役として兵・八千にて伏見城の守備に当たる事になっていた。
しかし石田三成らが蜂起すると家康の臣・伏見城将の鳥居元忠は島津義弘の入城を拒否、義弘は石田三成の勢力圏に取り残された形となり、止む無く西軍に属する事に成った。
その後島津義弘は伏見城の攻撃に参加、これを陥落させた。
止む無く西軍に属した義弘だったが、元々親徳川だった義弘は関ヶ原の合戦では合戦が始まっても西軍諸将からの再三の出馬要請にも応じず、一兵も動かす事もなく戦況を見守る。
西軍の敗戦が決定的になると「座禅陣」と呼ばれる捨て身の中央突破を敢行、大打撃を受けながらも堺に辿り着き海路領国薩摩に帰国して、東軍に恭順の意を現わして向島(桜島)に蟄居した。
その後、井伊直政や本多正信に拠る徳川家康への取り成しにより、島津義弘は赦免されている。
関が原合戦に於いて、天下分け目の勝敗を決めた小早川側近の勧誘諜略話には歴史的に大変重要な後日談があるが、それは後ほど明らかになる。
「光秀、どうやら形が着いたようだな。」
「うむ、上々じゃ。だが、細川に嫁がせた娘(玉姫・ガラシャ)も見殺しにしてしもうた。あれは流石に不憫じゃった。」
「光秀、わしら雑賀衆が玉さまをお助けしょうとしたのを、お主は何故止めた。」
「孫市、嫁に出せば細川の妻じゃ。何処から漏れぬとも限らん故、わしが生きて居るとは教えられぬ。」
「おかげで玉さまは、謀反人光秀の娘のまま、逝ってしまわれたは。」
玉は、明智光秀の三女で、十五歳の時に主君織田信長の薦めによって細川藤孝の嫡男・細川忠興(ただおき)の妻に嫁いでいた。
それが、関が原の合戦の折に夫の細川忠興が父の藤孝と共に東軍徳川方に付いた為、西軍石田方の人質を恐れて玉は自害している。
「玉の死は、三成には痛かっただろうな?」
「計算通りには行かぬものよ。あれでまた、大名の多くが三成を見限った。」
「うむ、不憫じゃが玉姫(ガラシャ)を助ければこの企みが為せなんだからな。」
「その通り、じゃからわしも諦めた。」
明智光秀の娘・細川ガラシャ(玉姫)の夫・細川忠興(ほそかわただおき)は、足利氏の支流・細川管領家の傍流の和泉上(半国)守護家である細川藤孝の長男として京都に生まれている。
父・藤孝が将軍・足利義輝に仕える幕臣だった為に、足利義輝の命により同じ一族である奥州家の細川輝経の養子となる。
ただしこの養子縁組は系譜上のもので、細川忠興は養子縁組の後も京都に在って実父・藤孝と行動をともにし、領国・和泉国の上半国も継承した。
三好三人衆(三好長逸・三好政康・岩成友通)と松永久秀らの軍勢によって室町幕府第十三代将軍・足利義輝が京都・二条御所に襲撃され討死した永禄の変の後、父・細川藤孝は尾張・美濃の大名織田信長を頼って義輝の弟・足利義昭を将軍に擁立した。
やがて信長と義昭が対立すると父・細川藤孝は信長に臣従し、忠興本人は信長の嫡男・信忠に近習として仕えた。
細川忠興は、天正五年に起こった紀伊国の紀州征伐に加わり十五歳で初陣を飾っている。
また忠興は、信長から離反した松永久秀(信貴山城の戦い)の武将・森秀光が立て籠もる大和片岡城を父・藤孝やその僚友・明智光秀と共に落として信長直々の感状を受け、さらに天正七年の一色攻めでは、信長の命を受けて父・藤孝や光秀と共に丹後国守護だった建部山城城主・一色義道を滅ぼす功を挙げている。
その年(天正七年)忠興は、信長の仲介を受けて明智光秀の三女・玉姫(細川ガラシャ)と結婚、この時信長の命により九曜を定紋とし、これが細川家の家紋となった。
翌年の天正八年、父・藤孝は功により一色義定領を除く丹後一国十二万石の領主となる。
主君・織田信長の天下布武は目前に迫っていた。
所が、千五百八十二年(天正十年)妻・ガラシャ(玉姫)の父・明智光秀が突如謀反を起こし主君・織田信長が本能寺に討たれてしまう。
この本能寺の変の後、明智光秀と中国大返しで戻って来た羽柴秀吉が山崎の合戦で合間見える時、細川忠興は妻ガラシャ(玉姫)の父・光秀の支援要請に応えず傍観を決め込んで光秀軍を不利にしている。
この後細川忠興は、山崎の合戦に勝利し柴田勝家との賤ヶ岳の合戦をも征して天下統一を推し進める羽柴秀吉(豊臣秀吉)に仕え丹後領有を許され、小牧・長久手の戦いに参加して功を挙げ、翌年従四位下、侍従に叙任し、秀吉から羽柴姓を与えられた。
その後も九州征伐や小田原征伐、文禄の役にも出兵している。
千五百九十八年(慶長三年)、天下人豊臣秀吉が死去すると、武功派大名の一人として石田三成ら吏僚派と対立し、徳川家康と誼(よしみ)を通じ、翌年には加藤清正、福島正則、加藤嘉明、浅野幸長、池田輝政、黒田長政らと共に石田三成襲撃に加わった。
その年、実権を握った大老・徳川家康から豊後・杵築六万石を加増され丹後十二万石と併せて十八万石を領している。
関ヶ原の戦いでは、細川忠興は徳川家康に与して東軍に参加している。
石田三成が大阪に挙兵した時、細川忠興は徳川家康の下で上杉討伐軍に参陣していたが、豊臣恩顧の有力大名である上に、父・藤孝と正室・ガラシャ(玉姫)が人質として在京していた為にその去就が注目されたがいち早く東軍に入る事を表明し、他の豊臣恩顧の大名に影響を与えたと言われている。
この夫・忠興の決断の為に、伏見に人質として留め置かれていた妻のガラシャ(玉姫)は西軍の襲撃を受け、石田三成方の人質となる事を拒んで自害を余儀なくされた。
また、父の藤孝(幽斎)は忠興の留守を守り丹後田辺城に籠城したが、朝廷からの勅命により関ヶ原の戦い前に開城して敵将・前田茂勝の丹波亀山城に入っている。
一方、関ヶ原の戦いに勝利した東軍に付いた細川忠興は、関ヶ原合戦の本戦で黒田長政らと共に石田三成本隊と激闘を演じ、首級百四十ほどを上げその功績から、戦後家康から豊前中津藩三十九万九千石の大藩に加増移封され、その後豊前小倉藩四十万石に移り小倉城を築城する。
その後の豊前中津藩・細川忠興であるが、千六百十四年(慶長十九年)、朝廷から征夷大将軍に任じられた徳川家と豊臣家の間で大坂の陣が起こり、細川忠興は徳川方に付くが三男の細川忠利が参陣し、忠興本人は大坂冬の陣の戦闘には参戦していない。
六年後、忠興は三男の細川忠利に家督を譲って隠居する。
千六百三十二年(寛永九年)、家督を譲った忠利が肥後熊本藩五十四万石の領主として熊本城に移封されると忠興は熊本の南の八代城に入り北の丸を隠居所とし、千六百四十五年に没した。
これは余談だが、この細川忠興/長岡忠興(ほそかわただおき/ながおかただおき)が初代藩主となった細川藩は中々商売上手で、肥後ずいき(随喜・芋茎)を特産品に育てて藩の財政に役立て、その特産品は今に伝わっている。
特産の性具・肥後ずいき(随喜・芋茎)は、江戸時代から芋茎(いもがら)を使ってこけし形に作ったの伝統ある熊本の特産品である。
まぁ何時(いつ)の時代でもこの手の事は熱心であるから、使用すると女性がムズ痒(かゆ)さの為に大いに大胆になる所から大奥で珍重された為、細川藩が徳川将軍家への献上品に定め、「参勤交代のお土産として持参した」と文献に残っている。
随喜(ずいき)とは仏教用語で、大いに感謝したり大いに喜ぶ事である。
その仏教用語が肥後熊本の細川藩で、サトイモなどの茎である芋茎(いもがら)のムズ痒(かゆ)さを使って女性を喜ばす為の民芸伝統性具・肥後ずいき(芋茎)になった。
使用された女性が、ムズ痒(かゆ)さの余りに熱狂して激しく腰を使って性交に及ぶ所から「随喜(ずいき)」と名付けられたこけし形の性具で、ぬるま湯に漬(ひた)して女陰に抽入して使用する。
文献に拠ると芋茎(いもがら)の皮付近に存在する針状結晶のシュウ酸カルシウムが溶解して皮膚に刺さるからムズ痒(かゆ)いらしい。
それを陰茎とカリ首で擦(こす)り、ムズ痒(かゆ)さを和らげようとするから、女性は涙を流すほど激しい抽送を繰り返す事になって「随喜(ずいき)の涙を流す」と言う表現が生まれるほど性交が持続する。
この関が原合戦に際して東軍で活躍した武将・藤堂高虎(とうどうたかとら)に関しては、どうも豊臣秀吉と同じ山窩(サンカ・サンガ)出自の疑いがある。
それは高虎(たかとら)に(山窩(サンカ・サンガ)出自を顕す土木技術や築城術を持つ集団を抱えている特徴と、何よりも豊臣秀吉や豊臣秀長に過分に可愛がられていた点である。
藤堂高虎(とうどうたかとら)は、土豪・藤堂源助虎高の二男として近江犬上郡藤堂村に生まれた。
一介の土豪の出自に過ぎ無い高虎は、北近江の戦国大名・浅井長政に仕えたのを皮切りに北近江の土豪・阿閉氏、磯野氏と次々と主君を代え、次いで織田信長の甥である津田信澄、そして羽柴秀吉へと仕え、最後は豊臣家から徳川家康へと鞍替えを為すなど主家を転々としながら出世を果たした。
当初は仕えた主君に難が在り高虎(たかとら)も不運だったが、羽柴秀長(羽柴秀吉の弟)に仕えてからは何故か秀長に可愛がられて漸く出世への糸口を掴んだ。
羽柴秀長に仕えた時点で、既に高虎(たかとら)はその築城の技術などが認められて三千三百石の知行を拝領して武将の列に入っている。
その後起こった主君秀長の兄・羽柴秀吉と柴田勝家との織田旧主・信長の天下布武(てんかふぶ) の継承権を掛けた決戦・賤ヶ岳の戦いで高虎(たかとら)は目覚しい武功を立てて秀吉の目に留まり、秀吉から直接五千石を拝領する出世劇を得た。
羽柴軍団の将に出世した高虎は羽柴秀長子飼いの中堅の将として仕えて活躍し、秀長の大和国移封にともない一万石を加増されて一万五千石を拝領し小なりとも大名の名乗りを上げるに到った。
その後の秀吉九州征伐への従軍で更なる軍功を立てた高虎は更に一万石の加増を得て二万五千石とし、中堅大名を狙える所まで出世した。
豊臣政権に在って高虎は単に武功によるものだけでなく、実質豊臣政権の屋台骨を背負った豊臣(羽柴)秀長の懐刀として外交や人事、築城と言った官僚技術面でその才能を開花させ、巨大化した豊臣政権の運営には欠く事のできない人物と言う位置を獲得して行く。
豊臣政権が成立して諸大名を抑えての平時の運営に必要なのは優秀な官僚で、その難局に高虎は政治力で良く応えた。
豊臣家ではその高虎の能力を重視し、高虎を従五位下佐渡守に叙任して豊臣家の官僚として諸大名との調整役と言う潤滑油のような役割に使っている。
主君・豊臣秀長が病没し秀吉が文禄の役(朝鮮征伐)を始めると、高虎はまだ若輩の豊臣秀保(秀長の養子/秀吉の姉・日秀の子)を盛り立てて、朝鮮の役に出陣した。
文禄の役では、高虎は水軍を指揮して朝鮮水軍と戦ったが連戦連敗と言う散々な敗北を喫してしまう。
その最中に主君・豊臣秀保が十六歳歳と言う若さで病没、主家である秀長・秀保の豊臣家は解体され行き場を失った高虎は、朝鮮海戦敗退の恥辱と主家の倒壊を嘆いて剃髪して高野山に入ってしまう。
しかし秀吉は、高虎のその才能を惜しみ高虎を召し出して伊予板島(宇和島)七万石を与え直臣とする。
その高虎は、秀吉が没するといち早く次の天下人は徳川家康に成ると予見して高虎は家康に接近した。
この辺りの高虎の行動に、豊臣秀頼の実父・秀吉に疑問を持つ高虎の行動があったのではないだろうか?
徳川家康と石田三成の間で起こった関ヶ原の戦いでは高虎は東軍・家康方に付いて軍功を挙げ、戦後の論功行賞では家康から伊予半国を拝領し二十万石の中堅大名へとのし上がった。
高虎は今治城を居城と定め、外様大名でありながら徳川家康に信任され、その後の政局で活躍して行く事になる。
藤堂高虎はその後も家康に仕えて信任を得、大坂城の豊臣秀頼の備えとして伊賀一国を拝領して伊勢安濃津城への移封となり、二十二万余石の大名となった。
以後、藤堂家は外様大名でありながら、譜代大名の井伊家と並んで徳川家の先鋒を勤める名誉ある家柄となり、大坂夏の陣で高虎は八尾で大坂方の長宗我部盛親と交戦した。
つまり秀吉恩顧の大名と言うよりも早くに親徳川に走った武将だった。
池田輝政(いけだてるまさ)は織田家の重臣・池田恒興(いけだつねおき)の二男である。
織田信長に仕え、輝政(てるまさ)は兄・池田元助(いけだもとすけ)と共に近習として従う。
信長に従って各地を転戦する輝政(てるまさ)だったが、特に頭角を現したのは弱冠十六歳の折の荒木村重の謀叛に拠る摂津花隈城攻めで北諏訪ヶ峰に陣取り、抜群の軍功を立て信長から感状を授けられた。
荒木村重の乱を沈めると、父・池田恒興(いけだつねおき)が信長より摂津国を拝領し、輝政(てるまさ)は父・恒興とともに尼崎城に入った。
本能寺の変が起こり明智光秀に包囲された信長が自刃した後は、輝政(てるまさ)は父・恒興(つねおき)と共に羽柴秀吉に属し、山崎の合戦の後は父・恒興(つねおき)が美濃大垣城主となり、池田輝政は別に摂津池尻城を拝領する。
臣従する羽柴秀吉と織田信雄・徳川家康との間に小牧・長久手の戦いが起こり父・恒興と兄・元助(もとすけ)が討死し、羽柴秀吉と徳川家康の間に和議が成立すると、輝政はその遺領を受け継ぎ美濃大垣城主となり後に美濃岐阜城に移っている。
池田輝政は紀州雑賀攻めや佐々成政征伐の為北陸へ遠征、その後、九州平定戦、小田原征伐、会津征伐と各地を転戦しその功により三河吉田十五万二千石を拝領し、秀吉の命により徳川家康の息女・督姫を娶っている。
実はこの徳川家康の二女・督姫(とくひめ)は再婚で、前夫は後北条家最後の当主・北条氏直である。
この婚姻の経緯であるが、甲斐・武田氏滅亡後の徳川氏と北条氏に拠る旧武田領争奪の和睦として北条氏直が督姫(とくひめ)を娶り、徳川家康が北条氏直の義父となる事で両家間の和平が保たれていた。
ところが、千五百九十年(天正十八年)に、豊臣秀吉が小田原攻めを起こして北条氏は滅亡する。
この北条氏滅亡の時、北条氏直は義父の家康の助命嘆願で秀吉から助命され高野山に流された後に赦免された為、督姫(とくひめ)も氏直の下に赴くも、その翌年に氏直が死去した為に家康のもとへ戻っていた。
その督姫(とくひめ)に目を着けた秀吉が計らい、輝政と再婚させたのである。
文禄・慶長の役(朝鮮の役)では輝政は遠征に参加せず、三河吉田に在って東国警備の任を秀吉に命じられていた。
秀吉亡き後に起こった関ヶ原の戦いでは義父・家康の娘婿として東軍に属し、同じく東軍に属した福島正則と戦功を争った。
関ヶ原戦後、池田輝政は一連の戦功により播磨姫路城五十二万石の大身に出世を果たした。
池田輝政は、千六百十三年(慶長十八年)に姫路城にて急死、死因は中風とされるが当時の見立て故にその精度は定かでは無い。
輝政没後の池田家は、家康二女・督姫の子供達が継ぐ事になり、外様ながら松平姓を許されて徳川家縁者の家格を得ている。
家康は余程二女・督姫の子供達(外孫)が可愛かったのか、池田輝政没後の播磨五十二万石の家督を嫡男・利隆が継ぐのを許した外に二男・池田忠継には備前国岡山城二十八万石、三男・池田忠雄には淡路国洲本城六万石を与えている。
石田三成には、その性格的な穴が在った。
三成もまた、秀才で在った為に他の武将を愚か者と「侮った」のである。
武将達は、三成に恩賞分配の権限が無いに等しい事を見抜いていた。
豊臣家と言う御輿を担ぎ、毛利を名目大将に据えての無理な布陣だったのである。
関が原で敗れた石田三成は伊吹山で捕らえられ、京都六条河原で処刑される。
三成は最後まで、「クールだった」とその人柄は伝えられている。
この天下分け目の決戦だけは、明智光秀もジッとはしておれず、「南光坊」と名乗って家康本陣に出向いて、僧形のまま家康の傍らで作戦に助言している。
この時点では家康方に付いたとは言え、秀吉恩顧の有力大名は多数残っている。
彼らは小利巧を鼻に掛ける石田三成が憎かっただけで、豊臣家まで滅ぼす気はない。
加藤や福島達である。
従って家康の処置は、慎重だった。
三成ら厄介者を除いただけで豊臣家は残すが、家格は六十万石程度の一大名扱いにして力を削ぐに留まった。
しかし、これで完全に天下の実権は徳川家に移っていた。
千六百三年(慶長八年)後陽成天皇が参議・勧修寺光豊を勅使として家康の京都での仮居城伏見城に派遣し、家康を源氏長者・征夷大将軍、淳和・奨学両院別当、右大臣に任命する。
家康は朝廷より、「源氏の長者」と「征夷大将軍」の位を賜ったのである。
「源氏の長者」は公家の最高位であり、「征夷大将軍」は武士の最高位である。どちらも一人で、公家・武士伴に指示監督できる強力な権限だった。
朝廷がそこまで認めては、逆らえば逆賊である。そのうち豊臣恩顧の大名達も、家康を天下人と認めざるを得なくなる。
実は、関が原の戦いに家康も南光坊(光秀)も大誤算が在った。
息子・秀忠が率いた徳川勢主力三万五千が信州上田の真田家の攻略に手間取り、関が原に遅参した事で加藤清正、福島正則ら石田三成嫌いから東軍(家康方)に味方した秀吉恩顧の大名に義理が出来た事に拠る計算違いである。
秀忠は家康の脇に置かれて然したる実戦経験も大軍を指揮した経験も乏しく、真田方に翻弄されたのである。
この件、家康も秀忠の関が原遅参を叱責しては見たが、経験乏しき秀忠に中仙道進軍を任せた反省をする事もしきりだった。
この頃秀忠は秀忠で、一つの謀略を始めていた。
二代将軍・秀忠は、関が原の戦の仕置きが決着し江戸に凱旋する前夜、密かに比叡山へ使いをやり、天海僧正を京の都に呼び寄せて会っていた。
「久しいのう、秀忠殿。」
天下の将軍相手に、天海の秀忠への挨拶は、親し気で無遠慮だった。
「おぅ天海殿、遠路の呼び出し済まんのぅ。」
「なぁに案ずるな、こちらの方が将軍様より身軽じゃで。」
「所で天海殿、やはり幕府を磐石にするには雑賀と伊賀を使わねばなるまい。」
「如何にも、さしずめ前田利長、加藤清正、堀尾吉晴、浅野長政、浅野幸長、池田輝政と言った所か・・・」
「お見通し・・・か。」
「見通さいでか、承知申したぞ将軍・秀忠殿。早速取り掛かるでお任せあれ。」
「この仕儀、大御所には申し上げて無いが。」
「それも承知しておる。闇の仕事はわれら二人の闇の中じゃ。」
源氏長者・征夷大将軍を任じた徳川家康は、翌千六百四年(慶長九年)につかの間の予定で江戸城に戻って来た。
まだ豊臣家の処置は残っていたが、未だ豊臣恩顧の大名は数多く残っていた。
ここからが、「待ちの家康の本領発揮」である。
家康は六十一歳に成って居たが、時の流れが速く感じられるがまだまだ自分には京の都と大阪でやる事が残っている。
その一つは豊臣家の始末で在る。
関が原の合戦から十一年、千六百十一年(慶長十六年)になると、この頃には恩顧大名の当主も息子達に代替わりを始めていた。
秀吉恩顧の有力大名、加藤清正や堀尾吉晴、浅野長政、千六百十三年(慶長十八年)には浅野幸長、池田輝政などが次々と死去、余りに豊臣家が孤立を深めて行った為に徳川方による毒殺説さえもある。
確かに余りにも立て続けなので個々の病死ではなく、秀吉の命に拠る朝鮮出兵(文禄・慶長の役)が何らかの半島の風土病を彼等に感染させ、諸侯の命を短かくしたのではないだろうか?
或いは、徳川家の命を受けた闇の仕事師(忍び)が、暗躍したのだろうか?
時の流れに抗すべくも無く、前田利長、加藤清正など豊臣家が力と頼む有力武将が、櫛のはが欠ける様に次々と病死して行く。
中でも加賀の大身・前田利長亡き後は豊臣家を支える大々名の部将はいなくなる。
前田利長(まえだとしなが)は、加賀藩祖である父・前田利家と母・芳春院(篠原一計の娘・篠原まつ)夫婦の長男(嫡男)として生まれるが、まつの母親が高畠直吉と再婚した為に、高畠まつと言う記述も残っている。
利長が成長した頃は、ほぼ豊臣秀吉が天下を手中にした頃で、若き前田利長は父の軍勢よりも豊臣秀吉・旗下の直臣の将として転戦し、秀吉恩顧大名の内に数えられていた。
賤ヶ岳の合戦に勝利した羽柴秀吉は天下をほぼ手中にすると、前田利家に佐久間盛政の旧領・加賀の内から二郡を与え、二年後には利家嫡子・前田利長に越中が与えられ加賀、能登、越中の三ヵ国の大半を領地とした加賀・前田藩百三万石の大藩が成立、利家は豊臣政権の五大老の一人となる。
その父・利家亡き後の五大老職を嫡男・利長が継いで居たのだ。
(大坂落城)
◇◆◇◆(大坂落城)◆◇◆◇◆
豊臣秀吉死後、着々と強大な影響力を着けた五大老筆頭・徳川家康討伐を目指し、佐和山へ隠居していた元五奉行の石田三成らが毛利輝元を総大将に担ぎ蜂起した関ヶ原の戦いで、三成ら西軍は家康の東軍に撃破される。
この西軍敗退を期に実権を握った徳川家康は戦後処理や論功行賞の主導権を握り、意のままに処して既に天下は家康に移っていた。
関が原の合戦の後、天下の形勢は勝利した徳川家に大きく傾き、朝廷は徳川家康を征夷大将軍に任じて武門の長と認め、関白・豊臣家の天下への影響力は急速に衰えつつ在ったのだ。
この関ヶ原戦の戦後処理の際、家康は豊臣家の力を削ぐ為に二百十万石在った蔵入地(直轄地)を処分、豊臣家の所領は摂津・河内・和泉の約六十五万石程度まで削ってしまう。
また家康は伏見城で征夷大将軍に就任、江戸幕府を開き、徳川家を頂点とした長期的かつ安定した政権をつくる為に江戸城を始め普請事業を行うなど政権作りを始める。
この時徳川家康は、豊臣秀吉の武将達の扱いを反面教師として学習していた。
秀吉は配下の武将達に大盤振る舞いをして、五万石、十万石、半国、一国と分け与えている。
挙句に、豊臣家直轄領は徳川家より少ない二百十万石で、配下の有力大名の武将達に異心あらば危うい情況も生まれて来る。
つまり家康は、江戸幕府を磐石なものにする為に圧倒的な直轄領八百万石を有する事で他大名に異心を起こさせぬ方策を、その後採る事になる。
徳川家康はこの時既に天下の実権を握っていた。
天下の実権が豊臣家から徳川家に移る過程のこうした時に、旧主筋として別格的存在となる豊臣家への対処を家康は迫られる事になる。
諸侯を心服させ安定した政権を造る為には、徳川家に豊臣家が服属するか処分するかの二つに一つしか道は残されていなかった。
そうした情況下で、秀吉の遺言に基づき徳川秀忠の娘である千姫が豊臣家二代当主・豊臣秀頼に輿入する。
将軍家と成った徳川家康は、幕府を開く為に戻っていた江戸から千六百五年(慶長十年)正月に再び上洛する。
続いて徳川家継子・徳川秀忠が、天下人が徳川家である事を示す様に十数万の兵と伊達政宗ら奥羽の大名を従え率いて上洛する。
家康は天下の実権を徳川家で世襲継承して行く意志を示す為に、将軍職を辞して将軍職を秀忠に譲り大御所となる。
しかしこうした家康の腐心にも心配事は在った。
徳川家の働きかけに応じず、豊臣家は徳川家に服属する姿勢を見せずに頑なな態度を取り続けていた。
そこで問題なのが世間に知らしめる官位の序列である。
慣例に拠る朝廷での豊臣家の官位は最高位・関白であり、豊臣秀頼も順調に昇任を重ね、徳川秀忠の将軍就任時の官位が内大臣で在ったのに対し秀頼は右大臣に成っていた。
つまり秀吉の子として元服を前に関白就任への可能性を残す豊臣秀頼は、徳川家にとって依然無視出来ない存在だったのである。
豊臣秀頼に関白になられてはどちらが上位なのかの問題が生じる。
それを阻止するには豊臣家を徳川家に服属させる以外に策はない。
大御所・徳川家康は、高台院(北政所/おね・ねね)を通じて秀頼の生母・淀殿に、秀頼に対して臣下の礼を取るように要求するなど友好的対話を求めたが、淀君がその会見を拒否した為両者の関係は悪化し家康が六男・松平忠輝を大坂に遣わして融和に努め沈静化を為している。
家康は、関が原の戦いに勝利し軍師として参陣した南光坊・天海(光秀)との別れ際の会話を思い出していた。
決着が着いた南光坊・天海(光秀)が「比叡山松禅寺に戻る」と暇乞いにやって来たのだ。
「おぅ天海殿、これでどうやら先が見えたな。」
「大御所、やはり大阪をお潰しに成り申すか?」
「止むを得まい。淀には不憫じゃが、豊家(豊臣家)を残せば後の天下大乱の元じゃでな。」
「仰せの通りでござる。」
「今ひと働きせねばなるまい。」
「これを最後になされませ。」
「その積りじゃで、お主も知恵を絞ってくれぃ。頼みもうしたぞ。」
「もとより、心得てござる。」
家康はこの時点で、いずれ決意する時が来る事は覚悟していたのである。
千六百十一年(慶長十六年)、御所では後水尾天皇が後陽成天皇の譲位を受けて即位する。
この即位に際して上洛した家康は豊臣家に秀頼の上洛を求め、二条城での秀頼との会見を要請する。
秀頼が二条城に出向いて家康と会見すれば天下に豊臣家の服属を示す事になる為、豊臣家内では反対もあったが、加藤清正や浅野幸長ら豊臣家恩顧の大名らの取り成しもあり会見は何とか実現する。
この年から徳川家康は江戸に将軍・秀忠の幕府を置いたまま、二条城を居城に二元政治を始め、家康は在京の大名二十二名を二条城に招集させて「幕府の命令に背かない」と言う誓詞を提出させている。
その翌年(慶長十七年)になると東北・関東などの大名六十五名からも同様の誓詞をとっている。
この時点で、家康は豊臣家の討伐を選択していたのだ。
これから話を進める大坂の役(おおざかのえき)は、千六百十四年(十九年)の冬から千六百十五年(慶長二十年)夏に掛けて、徳川家の江戸幕府が豊臣宗家(羽柴家)を滅ぼした戦いである。
一般にそれは「大坂の陣(おおざかのじん)」とも呼ばれ、大坂冬の陣(おおざかふゆのじん)と大坂夏の陣(おおざかなつのじん)をまとめた呼称である。
加藤清正や浅野幸長らの助力で秀頼が二条城に出向いて家康と会見する二条城の会談が実現し、両者の緊張は緩和したものと思われた。
だが、二条城の会談直後の慶長十六年には浅野長政・堀尾吉晴・加藤清正が、慶長十八年に成ると池田輝政・浅野幸長が、そして慶長十九年には家康に次ぐ大老として豊臣家の後ろ盾となっていた前田利家の前田家を継承した二代・前田利長が亡くなる。
関ヵ原では東軍に参陣した浅野幸長(あさのよしなが)は、近江国浅井郡小谷(滋賀県湖北町)に浅野長政の長男として生まれる。
父・浅野長政は豊臣秀吉の正室おね(高台院)の義弟で、幸長も豊臣秀吉の直臣として功績を積み、父とともに甲斐国二十二万石を与えられて豊臣政権では五奉行家の内の一家となっている。
しかしこの浅野家は順調には行かず、秀吉と淀君の間に思わぬ実子・秀頼が誕生した為、実子・秀頼の天下人後継を策す秀吉の粛清により、関白・豊臣秀次(養子)の失脚事件が起こり、浅野幸長はそれに連座して能登(石川県東部)に配流された。
この時は、正室・おね(高台院)や前田利家・徳川家康ら五大老のとりなしもあって幸長はまもなく復帰が適っている。
秀吉没後、幸長は文禄・慶長の役の折に朝鮮でともに戦った加藤清正・福島正則ら武断派に与し、五奉行の文治派・石田三成らと対立し、前田利家没後には福島・加藤らと共に石田三成を襲撃している。
翌年起こった関ヶ原の戦いでは、浅野幸長(あさのよしなが)は兵六千五百を率いて徳川家康率いる東軍に属し、南宮山付近に布陣して毛利秀元・長束正家などの西軍勢を牽制した功績で、関ヶ原の戦の戦後に家康から紀伊国和歌山に所領三十七万六千石を与えられている。
大々名に出世した浅野幸長は豊臣恩顧大名でありながら余程家康の信用が厚かったのか、与えられた紀伊国は南から大阪を睨む位置にある。
しかしこの加増から僅か二年、浅野幸長(あさのよしなが)は和歌山で死去する。
この幸長の死、暗殺とも朝鮮から持ち帰った性病とも言われている。
浅野幸長に男子が無かった為に弟の浅野長晟(あさのながあきら)が浅野宗家の家督を継いだのだが、幸長の死の翌年から大坂冬の陣が始まり、その後の夏の陣を経て千六百十五年(慶長二十年)に豊臣家は徳川家康により滅ぼされた。
この大阪の役(大阪の陣)に於いてこの弟・浅野長晟(あさのながあきら)は多くの戦功をたて、浅野長晟(あさのながあきら)の代に安芸国広島藩の福島家が改易されたに伴い、浅野家は安芸国広島藩(四十二万石)に加増転封されている。
百万石の大々名・前田利長が亡くなると、秀吉恩顧大名の主力のほとんどが代替わりと共に徳川家に臣従するか改易減封になって頼るべくも無く豊臣家は孤立して行く。
「あの無礼な狸おやじめ。」と言ったかどうかは判らないが、徳川家の主家としていた淀殿のプライドはズタズタだった。
人間は、怒りを覚えても深呼吸一つで気分が変わる生き物である。
だが、この深呼吸が中々出来ない。
しかし怒りに任せてはろくな事に成らないのも事実である。
ただ大阪城の金蔵には、太閤・秀吉が溜め込んだ莫大な軍資金が在った。
孤立に焦った豊臣家は、資金を使って幕府に無断で朝廷から官位を賜ったり兵糧や浪人を集めだして幕府との対決姿勢を前面に押し出し始める。
実はこうした緊張状態を、誰よりも待っていたのが家康である。
勿論家康も戦の準備は怠らず、大阪城攻略の兵器として国友鍛冶に大鉄砲・大筒の製作を命じると共にイギリスやオランダに対し大砲・焔硝・鉛(砲弾の材料)の注文を行っている。
準備は整えつつ在ったが、家康はきっかけを探していた。
今後諸侯の上に立つ将軍家の立場として、主家筋である豊臣家を討つ事は秩序の否定に繋がり跳ね返って来ないとも限らない。
もはや「きっかけ待ち」だった家康は、主家筋である豊臣家を討つ事の倫理的な問題をどう解決すべきか苦悩していた。
そのきっかけとして目を着けたのが、「方広寺鐘銘事件」である。
方広寺鐘銘事件(ほうこうじしょうめいじけん)は、誰かの入れ知恵で徳川家康が最初から書いた筋書きである。
豊臣家は過って羽柴秀吉が建立し地震で倒れたままになっていた東山方広寺の大仏殿を、徳川家康の勧めにより豊臣秀頼が再建する事になった。
そしてその東山方広寺の修営が終わり梵鐘の銘が入れられた時、家康はその文言に重大な言いがかりをつけたのである。
梵鐘の銘「国家安康」という句は家康の名を分断したものであり、「君臣豊楽、子孫殷昌」は「豊臣を君として子孫の殷昌を楽しむ」と解釈を為し、「徳川家を呪って豊臣の繁栄を願うものだ」と激怒して見せたのである。
無理に解釈した家康の言い掛かりに過ぎないが、これを受けた豊臣家は駿府の家康の下に片桐且元を弁明の為に派遣する。
ところが、使者に立った且元は家康に目通りも許されずに狼狽する。
漸く本多正純や(金地院)崇伝といった家康の側近から、且元は「淀殿を人質として江戸へ送るか、秀頼が江戸に参勤するか、大坂城を出て他国に移るか、この内のどれかを選ぶように」との内意を受け大阪城に持ち帰る。
しかしはその全てが仕掛けた策謀で、今一人豊臣家の使者として駿府へ立っていた大蔵卿の局(淀殿や豊臣秀頼の乳母・大野治長の母)の持ち帰った証言に拠ると、「家康は機嫌良く会い、鐘銘の事には少しも触れないばかりか、秀頼は将軍・秀忠の娘婿でもあるのでいささかの害心もない」と明言したと言う。
この報告の違いで家康に直接会った大蔵卿の局の報告を信じ、淀君は片桐且元の裏切りを疑った。
片桐且元の持ち帰った三ヶ条は、且元が「徳川家臣と示し合わせて豊臣家を陥れようとするものに違いない」と信じ込んだのである。
もし、それでなくとも且元の持ち帰った三ヶ条は徳川家康の「実質的宣戦布告」と受け取れる内容で、容認なら無い。
しかし和平派の片桐且元はその三ヶ条に妥協してでも交戦を避けようとする。
淀君は怒り狂って且元をなじり、結果、淀君の信頼を失った豊臣家の忠臣・片桐且元は大坂城を退去するに至っている。
この「方広寺鐘銘事件」のきっかけになった東山方広寺再建の家康の助言からして、秀吉の遺した軍資金を大な再建経費で消費させる事が目的であり、言い掛かりをつけた上で三ヶ条を提示し、それを持ち帰った片桐且元を放逐した事は「幕府に対する反抗意志である」と断定する口実を与えた。
大坂城攻撃を決定するに至る、描いた筋書き通りに事が運んだのである。
こうした状況下で、西国大名五十名から「幕府の命令に背かない」と言う誓詞をとって家康のもくろみは着々と進んでいた。
片桐且元・貞隆は大坂城を退去し、相前後して秀頼に近侍していた織田信雄、石川貞政なども退去するに到って期が熟すと、いよいよ家康は諸大名に大坂城攻撃を宣言し、大坂冬の陣が始まっている。
豊臣家では戦争準備に着手し、旧恩ある大名や浪人に檄を飛ばして兵を募った。
また兵糧の買い入れを行うとともに、大坂に在った徳川家をはじめ諸大名の蔵屋敷から蔵米を接収した。
秀吉の遺した莫大な金銀を用いて浪人衆を全国から集めて召抱えたが、諸大名には大坂城に馳せ参じる者はなく、著名な浪人として真田信繁(幸村)、長宗我部盛親、後藤基次(又兵衛)、毛利勝永、明石全登(彼らは五人衆と呼ばれた)、塙直之、大谷吉治などがいた。
天下の知将・真田信繁(幸村)は豊臣家に請われて大阪城に入ったが、残念ながら豊臣家にはこの一代の知将を生かす術を持たなかった。
真田信繁(幸村)が戦の作戦を立案しても、豊臣首脳は信繁(幸村)の進言のほとんどを却下した。
真田信繁(幸村)が縦横無尽にその力を発揮するには、豊臣首脳はその戦の全てを知将・信繁(幸村)に任せて置けば良かったのだが、度々信繁(幸村)を統制しに掛かって彼の能力を封じてしまった。
つまり豊臣首脳は、信繁(幸村)の知力よりも自分達の面子を重んじる愚を犯して、戦をより不利なものにしてしまったのである。
浪人を併せた豊臣方の総兵力は約十万、浪人達は歴戦の勇士が多く士気も旺盛で、徳川家への復讐に燃える者、戦乱に乗じて一旗上げようとする者などだったが、いかんせん寄せ集めに過ぎない為に中々統制が執れず、結果、実際の戦闘では作戦に乱れが生じる元ともなっている。
その寄せ集め浪人衆の一人真田信繁(さなだのぶしげ/幸村・さなだゆきむら)は二段構えの作戦を主張し、まず畿内を制圧して近江国の瀬田川まで軍を進め、ここで関東から進軍して来る徳川軍を迎え撃って足止めしている間に諸大名を味方につけ、その見込みが無い時には初めて城に立て籠もって戦う策だった。
ところが、豊臣家宿老の大野治長を中心とする家臣達は二重の堀で囲われさらに巨大な惣堀、防御設備で固められた大坂城に立て籠もり、徳川軍を疲弊させて有利な講和を引き出そうという方針で籠城を主張していた。
同じ浪人衆の後藤基次・毛利勝永も真田案を元に伊賀国と大津北西にも兵を送り「敵を足止めすべし」と主張して豊臣家宿老の大野治長を中心とする籠城派と対立した為に豊臣軍内部は二つに割れていた。
しかし大評定の末に大野治長ら豊臣家臣の籠城する作戦案で落ち着き、周辺に砦を築き防衛線を敷いて幕府方を迎え撃つ事になる。
一方の幕府方であるが、徳川家康は豊臣方が戦の準備を始めた数日後に軍勢を率いて駿府を出発し、その家康の軍勢が十日ほどの行軍で二条城に入る頃、二代将軍・秀忠が六万の軍勢を率い江戸を出発している。
家康は二条城に入城二日後には作戦を開始し、藤堂高虎・片桐且元を呼び先鋒を命じている。
籠城を決めた豊臣方は、水も食料武器弾薬も豊富に備蓄していた事から、大坂城を浮城にしようと淀川の堤を切って大坂一帯を水没させ様としたが幕府方の本多忠政・稲葉正成などにより阻止され、幕府方の被害は行軍に支障をきたす程度に止まっている。
幕府方の動員した兵力は約二十万に上ったが、豊臣家恩顧の福島正則や黒田長政が豊臣方に寝返るのを恐れて江戸城留め置きとし、その子達を大坂に参陣させている。
二条城入城から三週間後の幕府方がほぼ大阪を囲むように結集した頃、家康は二条城を出発して奈良経由で大坂に向かい、茶臼山陣城にて先着していた秀忠と軍議を行っている。
千六百十四年(慶長十九年)十一月十九日、大坂冬の陣(おおざかふゆのじん)の戦闘の火蓋は木津川口の砦に於いて切って落とされる。
その一週間後には鴫野・今福で、三日後には博労淵、野田・福島に於いて激しい戦闘が行われるが、数ヶ所の砦が陥落した後、豊臣方は残りの砦を破棄して大坂城に撤収する。
豊臣方が籠城した大坂城を幕府方は約二十万の軍で完全に包囲した頃、家康は方広寺の炉で作成させた鉄盾を各将に配布し、茶臼山を皮切りに各将の陣を視察し各将に仕寄(攻城設備)の構築を命じている。
各隊は竹束・塹壕・築山などの仕寄の構築を行いつつ大坂城に接近して行く。
この接近時に包囲戦における最大の戦いである真田丸・城南の攻防戦が豊臣方の挑発に乗って始められ豊臣方が幕府方を撃退、幕府方諸隊に大きな損害を与えた。
信繁(雪村)の「敵をおびき寄せて叩く」は、父・真田昌幸(まさゆき)譲りの真田家得意の戦法だった。
家康はこの大阪城の攻撃には慎重で講和を策していたが、岡山に着陣した秀忠は家康が講和を策している事を知り家康に総攻撃を具申する。
家康は敵を侮る事を戒め「戦わずに勝つ事を考えよ」とこれを退け、住吉から茶臼山に本陣を移して新たに到着した部隊にも仕寄の構築を命じている。
家康は、予め前の月から淀川の流れを尼崎に流す長柄堤を、伊奈忠政・福島忠勝・毛利秀就・角倉素庵に命じて建設していた。
その長柄堤が茶臼山に本陣を移した翌日辺りに竣工し、大和川がある為に淀川が干上がる事はなかったが川の深さが膝下まで下がった為に大和川の塞き止めも行い、家康はいよいよ大坂城に対する城攻めを本格化させる。
また、茶臼山に本陣を移した翌日辺りから諸隊に命じて毎夜三度(酉・戌・寅の刻)、鬨の声を挙げて鉄砲を放たせ、敵の不眠を誘い、大坂城総構への南方からの大砲射撃も本格化し、幕府方の仕寄は堀際まで松平忠明隊は二〜三十間、藤堂隊は七間に近接している。
しかし、此処に到って家康は多くの難題を抱えていた。
まずは兵糧不足で、豊臣方の買占めに拠る深刻な兵糧不足の上に真冬の陣でもあり、幕府方の士気が落ちていた。
それに、豊臣を攻め滅ぼすは良いが、戦後処理も頭の痛いものだった。
家康が思案悩むそこへ、天海(光秀)の下へ使いにやった服部半蔵が帰って来た。
「おぅ半蔵か、比叡まで大儀じゃ。天海(光秀)殿は息災じゃったか。」
「ハァハァ〜、面妖な事に天海(光秀)様のお声は若返って聞こえ申した。」
「無理も無いわ。天海(光秀)殿に取っては豊臣家討伐は宿願じゃで、わしも気が若返って折るわ。」
「仰せの通りでござる。」
「して半蔵、守備は如何に?」
「大御所様の仰せの通り天海(光秀)様に逢うて知恵を授かりもうした。」
「この大軍勢じゃ、大阪は力押しで押さば落ちるであろうが、その後の味方の加増が難儀じゃ。その仕儀、天海(光秀)殿の知恵如何に。」
「天海(光秀)様応えるに、如何にも大御所様仰せの通り今や豊臣家の所領は高々六十五万石、この大軍勢に分け与えるには少な過ぎまする。」
「そちはこの義、天海(光秀)殿から何を申し受けては居る?」
「如何にも大局を見通す天海(光秀)様故、事後の心配はしておりましたが、名案これなく、まずは一度豊臣方と休戦して時を稼ぐが一手かと。」
「一度決着を先送りすると申すか。無い袖は振れぬからな。」
「されば、今回の諸将の手柄は棚上げ、時を稼ぐ内に福島など恩顧大名を一つ二つ減封または改易に処して空き領を捻出せねばとても足りませぬ。」
「さようか、しかしそれでも足らんようじゃが。」
「今一つ天海(光秀)様からでござるが、今回はお身内の加増は控えめされ。」
「息子や孫共には加増は無しか。」
「如何にも、ならば諸侯も加増の高に物申す事、憚(はばか)りましょうぞ。」
「合い判った。流石に天海(光秀)殿じゃ。しかし申し付けておる大阪の城落としの妙案がまだじゃが。」
「実は、それも在っての和議の薦めでござる。」
「何、この和議が城攻めの妙案も兼ねていると・・・。」
「天海(光秀)様に大御所様からの伝言を申し伝えた所に依りますと、流石城攻めの名手秀吉の築いた大阪の城落とすのが難儀じゃで、和議を持ちかけてその条件で堀を埋めてしまえば如何かとの言上にござります。」
「その和議、淀が乗るかな。」
「もはや旗色は明白なれば、藁をも掴みましょうぞ。」
「半蔵、大儀じゃ。天海(光秀)殿にわしが礼を申して居ったと伝えい。」
「ハァハァ〜、早速伝えまする。」
この目算を為す手立ては、まず豊臣方を疲弊せねば成らない。
家康は投降を促す矢文を射て(送り)、尚且つ甲斐や佐渡の鉱夫を動員して南方より土塁・石垣を破壊する為の坑道掘削を始め、更に船場の堀の埋め立ても命じている。
そして投降を促す矢文から六日目、幕府方全軍より一斉砲撃が始められる。
北方の備前島(都島区網島町)方面だけで大筒百門と石火矢が本丸北側の奥御殿に発射され、南方の天王寺口(茶臼山)からは本丸南方の表御殿千畳敷に目標を定めた砲撃が和議締結まで打ち込まれ続けた。
この砲撃では国友製三貫目の大砲が用いられており、またイギリスより購入したカルバリン砲四門やセーカー砲一門、つい最近兵庫に到着し漸く間に合ったオランダ製四・五貫目の大砲十二門も含まれていた。
この砲声は京にも届き、「その音が途切れる事はなかった」と伝えられている。
徳川方が奥御殿や表御殿を砲撃する為に接近して来たので、豊臣方はその近接する徳川方に激しく銃撃する。
当初、寄せての防御が竹束のみだった為にその銃撃で徳川方に三〜五百の死傷者が出たが、徳川方が築山・土塁を築いた為に豊臣方の鉄砲の効果は激減している。
豊臣方はこの幕府方の激しい砲撃に対抗して砲撃したり、塙直之が蜂須賀至鎮に夜襲をしかけ戦果をあげたたりしたが、以前劣勢を覆す事ならず、評定の結果、投降を促す幕府方の矢文に応じて和議する事を決する。
戦闘の経過で豊臣方は兵糧に加え弾薬の欠乏が進み、また徳川方が仕掛けた心理戦と今までの常識を超える飛距離を持つ輸入したばかりの新型大砲に拠る砲撃で櫓・陣屋などに被害を受けて将兵は疲労し、士気は衰えを見せていた。
特に豊臣家で主導的立場にあった淀君は、幕府方の本丸への砲撃で身近に被害が及び、頑なだった態度を軟化させて和議に応じる気に成た。
淀君は、大筒(大砲)のドーンと言う轟音と、ヒュ〜ンと言う不気味な音ともにドンガリガリと城の屋根を貫通して落下して来る砲弾の恐怖に縮み上がったのだ。
織田有楽斎(長増・ながます/織田信長の実弟)を通じて豊臣方との和平交渉が始まり、有楽斎と治長が本多正純、後藤光次と講和について書を交わしている。
交渉を始めて十日余り、淀君が人質として江戸に行く替わりに篭城浪人の為の加増を条件とした和議案が豊臣方より出されるが、和議は一時の時稼ぎである考えの家康はこれを拒否する。
徳川方の京極忠高の陣に於いて、家康側近の本多正純、阿茶局と、豊臣方の使者として派遣された淀君の妹である常高院(京極高次の正室/浅井初)との間で行われた和議交渉の場で家康が提示した講和の条件は、絶妙だった。
幕府方は豊臣秀頼の身の安全と本領の安堵と城中諸士についての不問を約し、その代わり大阪城は本丸を残して二の丸、三の丸を破壊し、外堀を埋める城割(城の破却)が主たる条件で、「今後の抵抗は無い」と形にする事である。
また秀頼・淀殿の関東下向を免じ、淀君を人質としない替わりに「大野治長または織田有楽斎より人質を出す事」として和議は成立している。
成立した和議の条件に乗っ取って、大阪城の一部破却が始まる。
和議条件の内、城の破却と堀の埋め立ては二の丸が豊臣家、三の丸と外堀は徳川家の持ち分と決められていた。
この城割(城の破却)に関しては古来より行われているが、大抵は堀の一部を埋めたり土塁の角を崩すといった儀礼的なもので在ったが、徳川側は家康の命を受け徹底的な破壊を実行する。
講和後、味方した諸将も国表に帰らせ、家康本人も駿河の居城(駿府城)に引き上げた。
駿府に帰る道中に家康は埋め立ての進展について何度も尋ねている。
城割(城の破却)はその年の末から美濃の諸将を率いる松平忠明、重臣・本多忠政、重臣・本多康紀を普請奉行とし、家康の名代である本多正純、成瀬正成、安藤直次の下、攻囲軍や地元の住民を動員して突貫工事で外堀を埋め。
翌年の一月より二の丸も埋め立て始める。
二の丸は本来豊臣方の受け持ちの為豊臣方は抗議するが、幕府方は「工事が進んでいないので、手伝う」と強引に進め、二の丸の門や櫓も徹底的に破壊している。
約していなかった二の丸まで「だまし討ちで幕府方が埋め立てた」は後の作家の手に拠る俗説で、二の丸の埋め立ては当初からの和議の内なるが、幕府方が受け持ちを逸脱して二の丸の埋め立てに関わったのは事実である。
二の丸の埋め立てについては幕府方も相当手間取ったらしく「周辺の家・屋敷を破壊してまで埋め立てを強行した」と伝えられている。
此処で新たな問題に成ったのが、豊臣方が召抱えていた浪人達である。
幕府方は浪人達の仕置きこそお咎め無しにしたが雇った浪人衆は七万人以上に上り六十五万石の豊臣家には相応せず、まさかそのまま豊臣家が召抱えるなど思いも依らなかった。
和議で一部解雇はしたものの、豊臣家はまだ都合八万ほどの兵力を維持したままで、とてもこのまま収まるとは思えない情勢だった。
家康は和平成立後京都から駿府へ戻り、秀忠も伏見に戻ったが、一方で家康は国友鍛冶に大砲の製造を命じるなど、再戦の準備を行っている。
そうした中、京都所司代・板倉勝重より駿府へ大坂に浪人の乱暴・狼藉、堀や塀の復旧、京や伏見への放火の風聞と言った「不穏な動きがある」とする報が届く。
幕府方はその報告を受け、浪人の解雇と豊臣家の移封を要求し、その二週間後には畿内の諸大名に大坂から脱出しようとする浪人を捕縛する事、小笠原秀政に伏見城の守備に向かう事を命じた。
三日後、家康は徳川義直(家康の九男)の婚儀の為と称して駿府を出発、名古屋に向かう。
その道中の途中で、大野治長の使者が来て「豊臣家の移封は辞したい」と申し出る。
もはやこれまでの回答に、家康は常高院を通じて「其の儀に於いては是非なき仕合せ(そう言う事ならどうしようもない)」と豊臣方に伝え、すぐさま諸大名に鳥羽・伏見に集結するよう命じている。
六日間ほど費やして家康が名古屋城に入った頃、秀忠も早々に江戸を出発していた。
その頃豊臣方では和平交渉の当事者・大野治長が城内で襲撃される事件が起き、内部の混乱が露呈していた。
名古屋城にて徳川義直の婚儀が行われ、家康はその足で上洛し二条城に入った。
この頃、関が原の遅参の失敗経験を持つ二代将軍・秀忠は藤堂高虎に対し、自分が大坂に到着するまで開戦を待つよう藤堂からも「家康に伝えてくれ」と依頼している。
四月下旬に、関東の軍勢を従えた秀忠は無事二条城に到着し、家康と本多正信・正純父子、土井利勝、藤堂高虎らと軍議を行った。
此度の情勢は、前回の大坂冬の陣(おおざかふゆのじん)と比べ遥かに有利である。
大坂城は本丸を残して丸裸であり、兵力も二万ほど減っていて八万弱と篭城戦など出来る状態ではない。
家康は集結した十五万五千の軍勢を二手に分けて、一方は河内路から、いま一方は大和路から道路の整備と要所の警備を行いながら大坂に向かう事を命じた。
この二手の他、紀伊の浅野長晟(あさのながあきら)にも南から大坂に向かうよう命じている。
交渉が決裂し、再びの開戦は避けられないと悟った豊臣方は、丸裸にされた大坂城では籠城戦は不利と判断したとされ、積極的に討って出る作戦を採用している。
豊臣方は大野治房の一隊に暗峠を越えさせて、筒井定慶の守る大和郡山城を落とし付近の村々に放火その二日後には徳川方の兵站基地であった堺を焼き打ちする。
この大野治房勢、一揆勢と協力しての紀州攻めを試みるが、先鋒の塙直之、淡輪重政らが単独で浅野長晟(あさのながあきら)勢と戦い討死してしまう。
その後、大野勢は浅野勢と対峙しつつ、堺攻防戦を続けている。
五月に入って戦闘が本格化し、幕府方三万五千が大和路から大坂城に向かって来るところを豊臣勢が迎撃した道明寺・誉田合戦が起ている。
しかしこの迎撃、寄せ集めの軍勢である豊臣方は緊密な連絡を取る事が出来ずに、後藤基次隊二千八百が単独で小松山に進出してしまい、伊達政宗、水野勝成ら二万以上の敵勢に集中攻撃を受け、奮戦するも基次は討死し隊は壊滅する。
次いで到着した明石全登・薄田兼相(すすきだかねすけ)ら三千六百の豊臣方も、後藤基次隊を壊滅させて小松山を越えた幕府方二万と交戦し、薄田兼相らが討死した。
この小松山の戦闘に、更に遅れて真田信繁(幸村)、毛利勝永ら一万二千の豊臣方が漸く到着し、真田隊が伊達政宗隊の先鋒片倉重長隊の進軍を押し止める。
そうした小松山道明寺・誉田合戦の激戦の他、八尾・若江合戦が起こっている。
河内路から大坂城に向かう徳川本軍十二万を、豊臣方・木村重成の六千と長宗我部盛親、増田盛次ら五千三百の兵が迎撃している。
まず長宗我部隊が霧を隠れ蓑に藤堂高虎隊五千を奇襲し、藤堂一族その他多数の首を獲ったが、幕府方の援軍に阻まれ後退中に追撃を受け長宗我部隊は壊滅する。
木村重成も藤堂隊の一部を破った後、井伊直孝隊三千二百らと交戦に入り激戦の末に重成は討死した。
いずれにしても幕府方は大軍で、豊臣方は意地を見せたが大勢は幕府方優勢で戦闘は推移している。
真田信繁(幸村)、毛利勝永ら一万二千の豊臣方は、小松山で幕府方大和路隊三万五千を押し止めていた。
しかし豊臣方は八尾・若江での敗戦の報を受け、後藤隊・薄田隊の残兵を回収して後退を余儀なくされ、大坂城近郊に追い詰められている。
この豊臣方の撤退を、幕府方も連続した戦闘に疲弊した為に追撃を行わなかった。
大坂城近郊に後退した豊臣方は、最後の決戦の為に現在の大阪市阿倍野区から平野区にかけて迎撃態勢を構築する。
天王寺口は真田信繁(幸村)、毛利勝永など一万四千五百、 岡山口は大野治房ら四千六百、別働隊として明石全登三百、全軍の後詰として大野治長・七手組の部隊計一万四〜五千が布陣する。
これに対して幕府方の配置は、大和路勢および浅野長晟(あさのながあきら)四万を茶臼山方面に、その前方に松平忠直一万五千が展開し、 天王寺口は本多忠朝ら一万六千二百、その後方に徳川家康一万五千が本陣を置き、 岡山口は前田利常ら計二万七千五百、その後方に近臣を従えた徳川秀忠二万三千が本陣を置いた。
豊臣家滅亡を画していた徳川家康の野望は、正に大詰めを向えていた。
戦国最大にして最後の戦いとなる大阪攻め、大激戦となった天王寺・岡山合戦は正午頃に開始された。
果敢に攻め込む豊臣方の真田信繁(幸村)・毛利勝永・大野治房などの突撃により、幕府方の大名・侍大将に死傷者が出て幕府方徳川家康・秀忠本陣は大混乱に陥る場面も在ったが、兵力に勝る幕府軍は次第に混乱状態から回復し態勢を立て直す。
この果敢な攻撃に豊臣方は多くの将兵を消耗し、流石の真田信繁(幸村)も松平忠直の越前勢に討ち取られて午後三時頃には壊滅状態に陥り、唯一戦線を維持した毛利勝永の指揮により豊臣方は城内に総退却した。
城内に総退却をしてみたものの、大坂城は本丸以外の堀を埋められ裸同然となってもはや殺到する徳川方を防ぐ術が無い。
真田隊を壊滅させた松平忠直の越前勢が一番乗りを果たしたのを始めとして徳川方が城内に続々と乱入し、遂には大坂城本丸内部で内通者によって放たれた火の手が天守にも上がり、秀頼は淀君らとともに籾蔵の中で毛利勝永に介錯され自害し大坂城は陥落した。
豊臣秀頼に嫁していた徳川秀忠の娘・家康の孫・千姫は落城寸前に大阪城を脱出、秀頼の子の国松は潜伏している所を捕らえられて処刑、また娘の奈阿姫は僧籍に入る事で助命された。
この大坂の役は言わば戦国生き残り合戦の最終章にあたる。
この戦い、殺傷力が強い史上最多の最新銃砲火器に拠る交戦だった事から、過っての弓矢・槍・太刀と言った武器に依る交戦と違って死傷者も多く、また相手の選別には不向きな武器の為に大阪城に立て篭もる女子供・町人なども無差別に攻撃を受ける悲惨なもので、つまり死屍累々の地獄絵図が繰り広げられた戦だった。
戦後の大坂城には松平忠明(奥平松平家初代)が移り、街の復興にあたった。
幕府は大坂城の跡地に新たな大坂城を築き西国支配の拠点の一つとした為、以降大坂は将軍家の直轄地となり、「天下の台所」と呼ばれる大商業都市となる。
大坂復興が一段落すると、松平忠明は大和郡山十二万石に加増移封された一方、松平忠輝(家康の六男)は総大将を務める天王寺合戦で遅参した事が理由の一つとなり翌年に改易となった。
また松平忠直(結城秀康の長男)は、予(か)ねて家康が腐心した「無い袖は振れない」を読めずに大坂城一番乗りの褒賞が大坂城や新しい領地でもなく茶器・「初花肩衝」と従三位参議左近衛権中将への昇進のみであった事を不満としていた。
松平忠直(まつだいらただなお)は越前・松平藩の第二代藩主である。
徳川家康に取っては孫に当たる。
家康の次男・秀康が豊臣秀吉の養子となり、その後結城家に養子に入って結城秀康(ゆうきひでやす)を名乗る。
この結城秀康が千六百一年(慶長六年)に関ヶ原の戦いの功により父・家康から越前一国六十八万石を与えられ、松平の姓に復して国持ち大名と成る。
所が、秀康の嫡男・松平忠直は勇猛な武将で、大坂の陣で敵将・真田信繁(幸村)らを討ち取り大坂城一番乗りの戦功を立てながらも、その褒美が大坂城や新しい領地でもなく茶器・「初花肩衝」と従三位参議左近衛権中将への昇進のみで在った事に不満を持つ。
その後も二代将軍・徳川秀忠に認められなかった事から次第に幕府に反抗的態度を取るようになり、病を理由に江戸への参勤を怠って正室・勝姫(徳川秀忠の娘)の殺害を企てたり、軍勢を差し向けて家臣を討つなど乱行がエスカレートして行く。
幕府に反抗的態度を取るとなると、如何に将軍の兄の家・越前・松平藩と言えども、秀忠にとっては甥に当たろうと天下に示しが着かない。
千六百二十三年(元和九年)越前国々主・松平忠直は、乱行を理由に廃されて豊後大分に配流される。
隠居を命じられた忠直ではあるが、この忠直の行状の伝聞が果たして正しいのかは謎で、正統松平・親藩・御家門(ごかもん)家格の血を継ぐ越前・松平藩の松平忠直と、何故か微妙に存在する二代将軍・徳川秀忠との確執の裏に、公表できない何かが存在していた可能性は否定出来ないのだ。
真田家と徳川家の間には、徳川氏と後北条氏の平和交渉の過程で出た代替領地案を真田家に蹴られた因縁と二代将軍・秀忠が信州・真田家の抵抗に合い秀忠の中仙道軍の関が原到着を遅参させた因縁がある。
その真田信繁(幸村)を松平忠直(まつだいらただなお)は討ち取る功績を挙げたのである。
忠直にしてみれば、得心が行かなくても当たり前だったのかも知れない。
真田氏は清和源氏の発祥で、信濃国小県郡(現在の長野県東御市)の海野棟綱あるいは海野頼昌の子とされる海野幸綱(真田幸綱/幸隆)が小県郡真田郷を領して以後に真田姓を名乗ったとされる。
だが、本家となる海野氏が滋野氏嫡流を名乗っているので真田氏の清和源氏とする出自は信憑性に欠ける。
とにかく真田氏は、山地の谷あいに在る真田郷の在地の小豪族として歴史に登場する。
時代が下がった戦国期になると、真田氏は武田家臣として武田晴信(武田信玄)に仕え、所領を安堵されて勢力基盤を築き、武田家中に於いて信濃先方衆の有力武将として重用される。
しかし、織田信長の軍勢と対峙した長篠の戦いで武田方軍勢として参戦した真田家当主・信綱と次男・昌輝が討死すると、武藤喜兵衛と称していた三男・昌幸が真田姓に復して家督を相続し、武田氏が滅んだ後には真田昌幸は織田信長に恭順した。
その後、本能寺の変で明智光秀に反逆された織田信長が横死すると、真田昌幸は本拠地として上田城の築城に着手しながら、混乱する信濃に在って主家を転々と変え、真田家の勢力維持に奔走する。
名将・真田昌幸が最初に天下に名を轟かせたのは、徳川氏と後北条氏が甲信を巡って対陣したその後の和平に於いて代替の領地は徳川で用意する条件で真田領の北条氏へ明け渡しが決定された事に抵抗、徳川軍兵七千の攻撃を受けるも僅か二千余りの城兵で上田城を守り切り、独立した大名として世に認識される。
真田昌幸(まさゆき)は「敵をおびき寄せて叩く」作戦で、数に勝る徳川軍を相手に見事な勝利を収めたのである。
信州で生き延びた真田昌幸は、やがて豊臣秀吉が天下を取るとその臣下に入り、秀吉の命で徳川家康と和解の後、徳川氏の与力大名とされた事から、嫡男・真田信幸と家康養女・小松姫(実父は本多忠勝)との婚姻が行われた。
これらの過程で真田宗家は、名目上は徳川氏の与力大名だが実際は豊臣の家臣である真田昌幸と次男・信繁(上田城)と、名目上は昌幸領の一部だが実際は徳川の与力大名である真田信幸(沼田城)のニ家が夫々に主を頂く体制となる。
この二家体制が、後に真田氏を二分させて戦う事態となる。
五奉行の石田三成らが五大老の徳川家康に対して挙兵した関ヶ原の戦いが起こると、真田昌幸と次男・信繁(幸村)は西軍に、長男信幸(信之)は東軍に分かれる。
真田昌幸と次男・信繁は上田城にて二代将軍・徳川秀忠率いる約三万の軍勢を僅か数千で迎え撃ち秀忠軍の足止めに成功、秀忠軍が関ヶ原の戦いに間に合わなかった原因と言われた。
この時も真田昌幸(まさゆき)と次男・信繁は「敵をおびき寄せて叩く」作戦で、数に勝る徳川軍を相手に見事な二度目の勝利を収めたのである。
しかし戦いそのものは東軍・徳川方の勝利となり、戦後に真田昌幸と次男・信繁(幸村)は紀伊の九度山に蟄居となり、代わって嫡男・真田信之(信幸改め)が上田領を引き継いでいる。
処分はされたものの、二度も徳川の大軍を退けた名将として昌幸・信繁(幸村)親子の名声は高まっている。
紀伊の九度山に蟄居中の真田親子に、孤立無援になりつつある豊臣家から要請があり、真田信繁(信繁・のぶしげ/幸村・さなだゆきむら)は警戒中の紀伊国和歌山藩・浅野幸長(あさのよしなが)の軍勢の目をかいくぐり九度山を脱して大阪城に参じている。
やがて起こった大坂の陣では、真田信繁(幸村)は大坂城に豊臣方として戦い、冬の陣に於いて一時は茶臼山の家康本陣まで迫る戦ぶりを見せるが、夏の陣で討死している。
一方、徳川方として参陣した嫡男・真田信之(信幸改め)戦功を上げ松代藩十三万石へ加増移封となって真田の家名を残している。
「この勝負、秀吉が明智殿と孫市殿を敵に廻した時点で、既に勝負が着いて居ったわ。」
家康は、しみじみと言った。
他家の人質の身上から、名実共に天下を手中にしたのである。
万感迫る思いが、家康の胸中に去来していた。
勿論、福島正則や盟友・加藤清正等の徳川家康に組した原因は、石田三成との確執ばかりではない。
福島正則・加藤清正共に豊臣秀次や小早川秀秋等と同様に、若い頃から北政所「おね(ねね)」の世話に成り、北政所を母の様に慕っている。
その長年連れ添った北政所(おね/ねね)は勿論の事、多くの側室に子が為せなかった主君・秀吉が、淀君(よどぎみ/浅井茶々)にだけ二人(一人は夭折)も子を為した事には疑念を持ち、豊臣秀頼が秀吉の実子で有る事には最後まで得心が行かなかった事も、東軍・家康方に組した要因だった。
福島正則(ふくしままさのり)は、関が原の戦いで東軍側に立ち石田三成の率いた西軍を打ち破る大功を立てたが、それでも秀吉恩顧大名の側面も残していて豊臣家存続に腐心している。
もはや家康の時代になっているのに未だ豊家主筋を主張する淀君を、加藤清正や浅野幸長とともに説得して二条城での会見に豊臣秀頼の上洛を実現させた。
この二条城に於いての家康と秀頼の会見直後に、不思議な事が起こる。
加藤清正や浅野長政・幸長父子、池田輝政といった朋友の豊臣恩顧大名が相次いで死去し、正則自身も体調を壊して隠居を願い出るが許されずに飼い殺しの状態に置かれている。
この豊臣恩顧大名の相次ぐ死、徳川方の放った忍びの仕業とも大陸から持ち帰った風土病とも言われているが、何故か有力豊臣恩顧大名の当主が多かった。
大坂の陣では大阪方・秀頼に加勢を求められても拒絶したが、正則の恩顧大名の心情を疑われ東軍への従軍も許されず江戸留守居役を命じられた。
大坂の陣で豊臣氏が滅亡し、それを機に正則はひたすら幕府への恭順を余儀なくされ、家康死後間も無くの正則居城・広島城の応急修理に「武家諸法度違反」の難癖を付けられ、咎められて安芸・備後五十万石を没収、信濃国川中島四郡中の高井郡高井野藩と越後国魚沼郡の四万五千石に減封される。
その後嫡男・忠勝が早世した為、正則は幕府に二万五千石を返上して僅か二万石を残すのみになるが、その二万石も正則の死去に際して遺体を幕府の使者が到着する前に火葬した事を咎められ没収され改易、福島家の後を継いだ正則の子・正利は三千石の旗本として家名を継ぐ事になる。
福島正則(ふくしままさのり)の盟友・加藤清正(かとうきよまさ)は、どうやら我輩の推察する所の豊臣秀吉=山窩(サンカ・サンガ)説の立証をしてくれそうな人物である。
智勇兼備の名将として知られている加藤清正(かとうきよまさ)だが、武将の側面として特筆すべき能力を備えていた。
清正は、藤堂高虎(とうどうたかとら)と並び称される築城の名手としても知られているが、この辺りにその謎解きのヒントがある。
清正は、重臣に登用した飯田覚兵衛、大木土佐らと穴太衆(あのうしゅう/石工衆)を用いて熊本城や名護屋城、蔚山倭城、江戸城、名古屋城など数々の城の築城に携わっている。
また清正は肥後国領内の治水事業にも意欲的に取り組み、その土木技術は非常に優れており肥後の領国(熊本県内)には現在も清正による遺構が多数存在して四百年後の現在も実用として使われている。
その清正の築城・土木技術は何処から来たのだろうか?
加藤清正(かとうきよまさ)は、鍛冶屋を営む父・加藤五郎助(清忠)と母・伊都の子として尾張国愛知郡中村(現在の名古屋市中村区)に生まれた。
この母・伊都が問題で、秀吉の生母である大政所の「従姉妹(あるいは遠縁の親戚)で在った」とされ、つまりは清正が秀吉とは血縁関係にあるところから同様に土木技術を持つ集団の長の一族だったのでは無いだろうか?
千五百七十六年(天正四年)、豊臣秀吉が丹羽長秀と柴田勝家から一字ずつをもらい受けて木下姓を羽柴姓に改め織田家内で頭角を現した頃、加藤清正は秀吉の遠戚として秀吉に仕え、百七十石を与えられている。
秀吉の土木技術はつとに有名で、備中国に侵攻し毛利方の清水宗治が守る高松城を水攻めに追い込むなど、三木の干殺し・鳥取城の飢え殺しと城攻めの名手・秀吉の本領を存分に発揮しているのだが、この中に若き日の加藤清正の姿が在ったのである。
千五百八十二年(天正十三年)明智光秀が本能寺の変を起こして織田信長が死去すると、秀吉の弔い合戦・山崎の戦いに清正も参加して光秀に圧勝する。
その翌年、柴田勝家と秀吉の雌雄を決する賤ヶ岳の戦いで「敵将・山路正国を討ち取る」と言う武功を挙げ、秀吉より「賤ヶ岳の七本槍」の一人と並び称されて、三千石の所領を与えられている。
その後も秀吉の命に従い各地を転戦して数々の武功を挙げ、千五百八十二年(天正十三年)に秀吉が関白に就任すると同時に従五位下・主計頭(かずえのかみ)に叙任され、翌年の九州征伐の後に肥後の半国・十九万五千石を拝領して熊本城主となる。
肥後(熊本)の領国運営に力を入れ治水以外に商業政策でも優れた手腕を発揮していた清正だったが、秀吉の野心から朝鮮及び中華帝国の侵略を狙った文禄・慶長の役(朝鮮征伐)が起こり、清正は二番隊主将となり鍋島直茂、相良頼房を傘下に置いて朝鮮へ出兵する。
清正は戦果を挙げつつ半島内部に進行し目覚まし働きをした清正は、その勇猛振りから朝鮮の民衆に「犬、鬼(幽霊)上官」などと恐れられた。
所が、清正は三番隊・小西行長と作戦面で対立、またこの朝鮮出兵の頃から元々肌が合わなかった文治派閣僚の石田三成との確執が明との和睦をめぐって顕著なものとなり、その対立が元で秀吉の勘気を受けて一時は京に戻されている。
この辺りの確執が、後の関が原で石田三成・小西行長vs福島正則・加藤清正の関が原対峙の芽と成ったのである。
慶長の役の出兵の最中に太閤・秀吉が病死して朝鮮征伐が中止となり、清正が引き上げて来ると石田三成が豊臣家を我が物顔で取り仕切っている。
面白くない清正は五大老の徳川家康に接近し、家康の養女を継室として娶って三成に敵対、前田利家が死去すると福島正則や浅野幸長ら六将と共に石田三成暗殺未遂事件を起こして家康の取り成しの為に失敗した。
しかしその翌年、三成が家康に対して挙兵した関ヶ原の戦いに清正は九州別動隊として東軍に参戦、西軍・小西行長の宇土城や立花宗茂の柳川城を攻め、また蝶略して九州の西軍勢力を次々と破り、戦後の論功行賞で肥後の小西行長旧領を与えられ、加藤清正は肥後一国など都合五十二万石の大々名となる。
加藤清正もまた、主君・秀吉の正室・北政所(おね/ねね)は勿論の事、多くの側室に子が為せなかった主君・秀吉が、不思議な事に淀君(よどぎみ/浅井茶々)にだけ二人(一人は夭折)も子を為した。
つまり秀頼の実父は別人の可能性があり、加藤清正は秀頼の出生に疑念を持ち、秀頼が秀吉の実子で有る事には最後まで得心が行かなかった事も、東軍・家康方に組した要因だった。
関が原戦後の清正は、旧主・豊臣家の存続にも腐心して忠義を尽くし、福島正則とともに二条城における家康と豊臣秀頼との会見を取り持つなど和解を斡旋した清正だったが、帰国途中の船内で発病し居城・熊本城で死去している。
清正の死後、家督は子の忠広が継いだが、加藤家が豊臣氏恩顧の最有力大名だった為に幕府に何か難癖を付けられて幕府の命により改易になっている。
さて、豊臣家恩顧の大名は二代・徳川秀忠の代に大半が改易となるのだが、ただ一家だけしぶとく生き残った恩顧大名家がある。
阿波徳島藩・蜂須賀家である。
蜂須賀家は、尾張の国海東郡蜂須賀郷の独立系の小国人領主であって、勿論夜盗の棟梁ではない。
豊臣家恩顧の大名、それも秀吉が織田家で頭角を現す手助けをした有力な最古参の家臣だった蜂須賀家でありながら、唯一徳川家の粛清を逃れ生き残る離れ業を成し遂げた。
この事には、蜂須賀小六正勝の長男・蜂須賀家政の存在に負う所大である。
蜂須賀小六正勝は、嗣子・家政の正室には先祖からの縁戚である生駒家、生駒家長の娘を娶合わせている。
つまり蜂須賀家と豊臣家とは、縁戚でも有った訳である。
にも拘らず、豊臣秀吉の最古参臣・蜂須賀家が大々名になったのは意外に遅く、千五百八十五年(天正十三年)になった頃である。
蜂須賀小六正勝は四国征伐の後、播磨国龍野(二万石)を領していたが、秀吉の天下統一における戦争に従軍し戦功を挙げていた。
雑賀攻めの後に行なわれた四国征伐では、阿波木津城攻め、一宮城攻めなどで武功を挙げ、四国征伐後その戦功により秀吉より阿波国を与えられた。
しかし蜂須賀小六正勝は、高齢を理由に嗣子・家政に家督を譲り、長男・蜂須賀家政が阿波国の大半を賜った。
現代でも言える事だが、人生なんていずれにしても運否天賦である。
一歩間違えれば野垂れ死にしたかも知れない異能の者共が豊臣秀吉の所に集まって来て、主君・秀吉の出世と伴に頭角を現し、それなりに五万石、十万石、二十万石の所領を得てひとかどの武将になっていた。
人間の能力何てそんなに差がある訳ではないから、石田三成、福島正則、小西行長、加藤清正、黒田長政、浅野幸長、大谷吉継など皆「従う相手が当たりだった」と言うべき幸運の持ち主だった。
となれば、秀吉が漸く信長の下で頭角を現した頃から従っていた蜂須賀小六正勝にして見れば、後輩の石田三成、小西行長、加藤清正、福島正則らに所領で追い抜かれた不満は在ったのかも知れない。
厳密に言うと、この入封当時に賜った石高は十七万五千石で、板野郡の一部が他領であり「正身の阿波一国ではなかった」と伝えられている。
その蜂須賀家は、千五百九十八年(慶長三年)に秀吉が死去し、翌年に前田利家が死去すると豊臣家内も混乱し、石田三成嫌いの蜂須賀家政は福島正則や加藤清正、浅野幸長らとともに官僚派の石田三成に敵対し、嗣子の蜂須賀至鎮(よししげ)と徳川家康の養女の縁組を結ぶなど、典型的な武断派・親徳川家康派の大名として活動している。
秀吉最古参の幹部である蜂須賀にして見れば、後からのし上がった石田三成に指図されるのは面白くなかった事は容易に想像できる。
その上佐和山城主・石田三成の石高は、徳島城主の蜂須賀家政よりも二万石ばかり上である。
千六百年(慶長五年)に到って石田三成主導の豊臣家と徳川家が対立を強めると、蜂須賀家政は否応なしの生き残りの選択を迫られる。
豊臣秀頼への忠誠という石田三成の掲げる大義名分と現実の徳川家康の力との板ばさみとなり、蜂須賀家政は領地を豊臣秀頼に返納し出家の上、高野山に入り表面上は中立の立場を取りながら、旗色を鮮明にしない。
豊臣家と徳川家の対立が決定的に成り関ヶ原の戦いが起こると、豊臣氏恩顧の大名である蜂須賀家政は病気として出馬せず、西軍に対しては軍勢だけを送り大坂久太郎橋・北国口の警護を担当して関が原への出兵を避けた。
しかし、家康の上杉景勝征伐に同行させていた家政の嗣子・至鎮(よししげ)は、至鎮の妻が小笠原秀政の娘で徳川家康の養女(万姫)である事を理由に関ヶ原の本戦で東軍として関が原戦に参加して武功を挙げた。
この時点では、蜂須賀至鎮(よししげ)は所領失領の浪人状態で、蜂須賀家郎党を率いて家康の東軍に参加していた事になる。
この策謀が功を奏し、関が原戦後に家政の嗣子・至鎮(よししげ)は、家康から旧所領・阿波一国を安堵されるが、家政は西軍についた責任を取る形で剃髪して蓬庵と号し、家督を子・至鎮に譲って隠居する。
この辺りの蜂須賀家の動きを見ていると、秀吉は最古参の臣・蜂須賀家の処遇を誤ったのではないだろうか?
人間は成功によって慢心すると己だけの才覚と思い勝ちで、苦しい時に手助けした古参の部下の恩義を忘れ勝ちである。
前田家ほどとは行かなくても、せめて五十万石ほど家政に与えて秀頼の行く末を頼んでいれば、風向きは変わったかも知れない。
しかし秀吉は、腹違いの弟や甥を優遇して大身の大名として周囲を身内で固め、最古参の臣・蜂須賀家を中途半端に処遇して家康に取り込まれてしまった。
すっかり家康の傘下に入った蜂須賀至鎮(よししげ)は、千六百十五年(元和元年)の大坂の陣での活躍めざましく、二代将軍徳川秀忠より七つもの感状を受ける働きをした。
この武功に拠り至鎮(よししげ)は、淡路一国八万千石の加増を与えられ、都合二ヵ国二十五万七千石を領する大封を得て徳島藩・蜂須賀家が成立したのである。
家祖・蜂須賀小六正勝の子、蜂須賀家政が阿波の国を与えられて以来、徳島は十四代に亘って蜂須賀家に治められて来たのだが、蜂須賀家は一貫して領内の運営に力を入れ、中央の政治には色気を出さずに家を守る生き方をした。
領内の産業育成に力を入れた徳島藩では吉野川流域での藍の生産が盛んで、吉野川流域の水上運輸や海運も盛んで諸国との交易は隆盛を極め、山窩(サンカ・サンガ)川並衆出自の面目躍如である。
特に十代藩主・重喜の時代になると徳島の藍商人は藩の強力な後ろ盾により全国の市場をほぼ独占するに至った。
藍商人より上納される運上銀や冥加銀は藩財政の有力な財源となり、阿波徳島藩は石高二十五万七千と言われるが、阿波商人が藍、たばこ、塩などで得た利益を合算すると四十数万石相当の江戸期においては群を抜く富裕な藩だった。
政争、政治的野心を戒めた阿波徳島藩は幕末の狂騒とは無縁のまま、蚊帳の外で王政復古(明治維新)を迎えた。
千八百七十一年(明治四年)徳島城は廃藩置県とともに徳島県なり、城郭が取り壊されて石垣と庭園とわずかに鷲の門が残されているのみである。
しかし、蜂須賀家の産業育成政策は徳島の繁栄を成し、江戸期には人口四十万人と屈指の大都市に成長し、廃藩置県後に成立した阿波商人達の私銀行も大阪や東京に次ぐ大資金量だった。
千八百八十四年(明治十七年)蜂須賀家は侯爵となり華族に列して家名を永らえている。
前述で秀吉恩顧大名の生き残りは「蜂須賀家だけ」と言ったが、実はもう一家芸州(安芸)広島藩・浅野家が残っている。
但しこの浅野家、開祖にあたる浅野長政と藩祖にあたる長政嫡男・浅野幸長親子共に徳川家康と親しく、秀吉恩顧大名の中では異色な立場に在った。
浅野幸長は母が信長の乳母であり信長とは乳兄弟になる尾張織田氏・織田信長重臣の池田恒興(いけだつねおき)の娘を正室に迎えている。
この池田恒興(いけだつねおき)の次男・池田輝政(いけだてるまさ)は、浅野幸長同様に徳川家康に可愛がられ、関が原の戦いでは家康方東軍に与して播磨国姫路五十二万石に加増移封され、池田家は姫路城主として明治維新に至るまで生き残っている。
浅野家(浅野長勝・織田家弓衆)は、豊臣秀吉の正妻・「おね(ねね・高台院)」の父親・杉原(木下)定利の妹の嫁ぎ先で、おね(ねね・高台院)を養女として預けた家である。
「おね(ねね・高台院)」はこの浅野家の養女時代に、主君・織田信長が使っていた小物・藤吉郎(とうきちろう)に木下姓を与えて嫁がせた所、その木下藤吉郎が主君・織田信長に気に入られて目覚しい出世を始める。
木下藤吉郎が織田軍団の中で頭角を現して羽柴秀吉を名乗る武将になると、信長の命で浅野長政は秀吉にもっとも近い姻戚として秀吉の与力と成る。
千五百七十三年(天正元年)の近江国・浅井長政攻めで活躍したのを皮切りに織田信長の直臣ながら秀吉の与力として有力武将の地位を固めて行く。
本能寺の変が起こり主君・織田信長が明智光秀に討たれると、信長の死後は秀吉に仕え賤ケ岳の戦いや九州征伐などで武功を挙げ、秀吉が天下を掌握して本格的に豊臣政権が誕生すると、九州征伐の功により若狭国小浜八万石の国持ち大名となった。
また浅野長政は行政手腕にその卓越したものがあり、京都所司代を務めたり太閤検地を主導して行うなど実務面でも力量を発揮、文禄・慶長の役と呼ばれる朝鮮出兵でも武功を挙げて、秀吉より甲斐国二十二万石を与えられ、豊臣政権下の東国大名の取次役を命じられている。
浅野長政は、豊臣秀吉の晩年には徳川家康の他、毛利輝元、上杉景勝、前田利家、宇喜多秀家、小早川隆景らの五大老に次ぐ豊臣政権の五奉行に、石田三成、増田長盛、前田玄以、長束正家らと共に任じられて政権運営に参画し深く関わっている。
長政は、嫡男・浅野幸長に家督を譲って隠居した。
この隠居に際して長政は、隠居料として常陸国真壁に五万石を与えられた事が、後の大事件「元禄・赤穂事件」に繋がるのである。
秀吉没後の関が原の戦いでは、長政は恩顧大名でありながら家康の嫡男・徳川秀忠に属して徳川方に参軍し、長政嫡男・浅野幸長は徳川家康率いる東軍に属し、南宮山付近に布陣して毛利秀元、長束正家などの西軍勢を牽制し、戦勝に貢献している。
その功により浅野幸長は、家康から紀伊国和歌山に三十七万六千石を与えられ初代紀州藩主となるが、子供の居なかった浅野幸長の弟・浅野長晟(あさのながあきら)が紀州藩浅野家の跡を継いで、福島家の改易に伴い浅野家は芸州(安芸国)広島に加増転封され四十二万石を拝領する。
浅野長政・浅野幸長親子が東軍・徳川方に参軍した事については石田三成との不仲説もあるが、小早川秀秋同様にその出自が淀君よりも「おね(ねね・高台院)」に近かった事がその動機ではないだろうか?
天下分け目と言われた関が原の戦いでは、豊臣家は一大名に縮小されかろうじて生き残ったが、この豊臣家の衰退の遠因は「明智光秀と雑賀孫市を敵に回した事にある」と我輩は思いを馳せている。
明智光秀は、信長新帝国の宰相に擬した男である。
表向きには然したる活躍はしなくても、信長は孫市を「百万石に相当する」と、その力量を買っていた。
その両者を、秀吉は気付きもせずに敵に回していた。
そんな豊臣家に先は無い。
秀吉は、目先の天下に目が眩んだのである。
千六百三年(慶長八年)後陽成天皇が参議・勧修寺光豊を勅使として家康の京都での仮居城伏見城に派遣し、家康を源氏長者・征夷大将軍、淳和・奨学両院別当、右大臣に任命する。
この春慶長八年、応仁の乱以来長く続いた戦乱の世が、徳川家康のほぼ天下統一で、やっと落ち着こうとした時「かぶき踊」は生まれた。
徳川家康が征夷大将軍に任じられ江戸幕府が成立 、次いで豊臣秀頼が内大臣に任じられた年、旅芸人「出雲の阿国一座」が京の都で「かぶき踊り」を踊った事に、歌舞使の歴史は端を発する。
勿論雑賀孫市率いる雑賀党の残党一行の隠れ蓑だった。
今にも雨が落ちてきそうなどんよりとした曇り空、そこかしこに泥濘(ぬかるみ)が点在している。
「ゲコゲコ」とおなじみの泣き声も、うるさい程に聞こえてくる。
この季節のありふれた日常の風景である。
うっとうしいが、この季節があるからこの島国は緑が豊かなのだ。
豊富にあると、当然の様で有難味が湧かない。
つまり水の貴重な国の気持ちが判らない。
今頃河内雑賀郷は、田の泥でも捏ねているだろうか。
それとも、もう苗を植え始めているのか?
雑賀孫市にはもう帰る処は無かったのに、懐かしそうに故郷を思い出していた。
名古屋まで出張って、阿国踊りの幕間(まくあい)だった。
阿国は「かぶき踊り」を始めた当時、三十路近くのまさに女盛りに成っていた。
阿国はその時代の流行歌に合わせて、踊りを披露し、また、当時のカブキ者(傾いた者)の衣装やふるまい格好を取り入れた男装をして茶屋の女「おかか」のもとに通うさまを見せ、当時最先端の演芸を生み出した。
この美女が男装、相手役の男性を女装させると言う異様な出で立ちで舞い踊る「かぶき踊り」のうわさはたちまち京の都中に広がり、大ブームを起こす。
阿国かぶきの出雲の阿国は、雑賀孫市(さいがまごいち)率いる雑賀党の手の者で、孫市の女である。
言うまでも無く雑賀党の出自は在地の勘解由小路党の草であり、阿国の裏の顔は、「全国を股にかけた女諜報員」と言う訳である。
美女が男装で歌い踊るのが観客に珍しく、たいそうな評判を呼んだが、相手役の男性を女装させる事で、「阿国かぶき」と呼ばれた。
阿国は孫市の女で有り、女装と化粧は孫市が世を忍ぶには都合が良かったのだ。
出雲の阿国は、出雲大社所属の鍛冶方「中村三右衛門の娘」と言われている。
確証はないが、歌舞伎の名門・中村屋はここから来ているのかも知れない。
この中村三右衛門の仕事・鍛冶方が曲者で、元々鍛冶師・踏鞴(たたら)師は修験の出身であり、雑賀や根来とは深い関わりがある。
勿論、雑賀者の女諜報員阿国には本来の出自とは違う創作の公式プロフィールが用意される。
一説には、阿国は出雲大社の巫女をしていたが、出雲大社修繕の為に諸国を勧進し、浄財(寄付)を集める手段として「巫女姿で神楽舞や念仏踊りを舞い踊る様になり、やがて男装で踊る様になって、歌舞伎踊りと呼ばれた」とされる。
また一説には「阿国は、河原者であった」とも言われるが、定かな事は明らかではなく、今日までその「いずれかが事実」と信じられ、まさか雑賀の女諜報員とは見抜く者も居ない。
勿論、笛太鼓の音曲に拠る歌と舞踊りの「歌舞の女性」を歌舞伎(かぶぎ)と言うが、かぶきは「傾ぶく」で、常識外れを意味する。
阿国のかぶきは、実を言うとかぶいては居ない。
原点にあったのは、「かぐら(神座・かみくら)踊り」であり、勘解由小路党の「白拍子」衣装の進化形だった。
公家武家社会には馴染みの「白拍子の男装姿」が、後の阿国の時代の「特に庶民」には異様に見え、相当傾ぶいて受け取られたのである。
上流社会の歌舞音曲から見世物小屋の軽業に至るまで、実は修験道武術がルーツであり、その当初の主なる目的は密偵だった。
従って現代歌舞伎に於ける見顕(みあらわ)し、仏倒(ほとけだお)れ、引き抜き、早替り、トンボ(を切る)、戸板倒し、宙乗(ちゅうの)り、荒事(あらごと)などの大技も、修験武術の流れを汲む忍び術の名残と言える。
旅回りの小屋掛け興行が原点だから、観客席は野っ原にムシロ敷きになる。
それで別名を、「芝居」と言った。
この頃は阿国の歌舞伎踊りも、同じ修験諜報員の仲間である能舞台などで行(おこな)われており、歌舞伎座の花道は「下手側が本花道、上手側が仮花道である事」なども、「能舞台の造りから来ている」と考えられる。
芝居の演目も、長期に渡り重要な民意誘導手段である。
従って「草紙作家、芝居作家」も、勘解由小路党の諜報術の一つだった。
歌舞伎の演目、「勧進帳安宅関」も、元を正すと伊勢(三郎)義盛から父吉次への文に拠る報告書が脚本のネタ基だった。
つまり後の世に「悲劇のヒーロー義経」の人気を世に知らしめ、頼朝を悪役に仕立てたのは、そうしたメディア・コントロール・プロジェクト組織の仕業だったのである。
これがしばし反幕府・反体制の演目に成るのは、時の権力が必ずしも皇統を優遇していないからである。
昨日までどんよりと曇っていた花曇の空が、今日はスッキリと晴れ渡っている。
比叡山松禅寺の南光坊(明智光秀)の宿坊にヒョッコリと孫市が現れ、久しぶりに顔を合わせた南光坊(光秀)と孫市は取り留めない昔話に花が咲いた。
「野心と言うものは、棄てて見ると安堵するものよ。」
「如何にも、世を棄てるもまた善しじゃ。」
静かな時が流れている。
「最後までお館様には勝てなんだ。」
「信長公か・・・たまげたお人じゃった。」
今はもう二人とも修羅場からは遠退いたのだが、何とした事か、その平和な日々に本物の「生きてる実感」が有った。
雑賀孫市からも、織田信長に対する恩讐は消えていた。
「所で、阿国殿は息災か?」
「あれも年齢(よわい)を重ねたわ。」
結局この時の顔合わせが、最後になった。
阿国と旅をして、かれこれ十二年になる。
孫市は、旅先の越前で臨終の時を迎えていた。
従う一座は三十名ほどだった。
いずれも雑賀の手錬(てだれ)ばかりで、今は天海(光秀)の手先をしている。
最早故郷の雑賀郷に帰り住む事は適わない。
権力におもねる事無く、「誰にも飼われていない」と言うのが、雑賀孫市率いる雑賀党の誇りだった。しかし、どうやらこの自主独立精神が通用する時代は、自分の代で終わっていた。
天海僧正(光秀)と、頭(かしら)にした孫三郎重朝(しげとも)に、雑賀衆の行く末は託していた。
重朝(しげとも)には、自主独立には拘らず天海の伝手(つて)で然る所に仕官せよ」と命じてある。
激動の時代だった。
雑賀孫市は、一生を修羅に生きた。
平穏で温々(ぬくぬく)とした、違う世界が有る事は知ってはいたが、修験郷士の雑賀孫市に、そうした卑怯な生き方は出来なかった。
哀しくも、雑賀の頭領家に生まれた者の定めである。
孫市が生きていた時代の事は、何があったか全て把握していた。
それが影人、雑賀の頭領・雑賀孫市の仕事だった。
二人の思惑は一致していた。
これほど頼れ充てに成る者を友に得る事は、それ自体幸運以外の何者でもない。
彼の存在は、天海僧正(光秀)に取っても、優に百万石の味方に相当する存在だったのである。
考えてみれば、引き寄せられる様に二人は出会った。
それも、勘解由(かでの・妻木)家の娘が「光秀の妻だ」と言う。
雑賀孫市(鈴木重意・しげおき)は初めて明智光秀に会った時、何故か懐かしさを感じた。
血統が呼び合うのか理屈抜きに気を許せ、孫市は知らぬ内に光秀を助ける仕事をしていた。
金でも宗教でも無い。
ただ湧き上がるような血の思いが、使命感としてそれをさせていた。
孫市の生涯は自主独立・反権力を貫き、その信念を曲げる事は無かった。
ただ、友情の相手と見込んだ「義」の為に、光秀だけには勝手に尽くしていた。
ふと、立ち止まって人生を振り返ると、暗たんたる思いが湧き上がって来る。
既に一族の大半を失っていた。
歳月と言うものは、人間の思惑などは関わりも無く流れて行くもので、時には残酷でさえある。
思えば、この血生臭い一生は何の為だったのか?
孫市が、雑賀郷に自由の楽園建設の夢を信じるが故に走り続けた結果が、この有様だった。
本来男は戦いの場(仕事)を生きる動物で、それを失ったら急速に生命力を失って行く。
覇王病に陥る権力者は何時の時代でも後を絶たない。
しかし「自由の楽園」は夢でしかないのである。
何が男達を駆り立てるのか?勿論それは自分を確かめたい衝動に突き動かされての、「挑戦する事」そのものである。
度胸一つで伸し上がる絶好の機会、下克上の戦国期だった。
支配地の拡大も一国一城の国取りも、天下取りも、男達は群れのボスを目指す本能で「挑戦する事」に駆り立てられる。
だが、全ての武士が同じ思考を持っているとは限らない。
そこが人間の面白い所だが戦国期に在って一国一城の主(あるじ)に相応の実力を持ちながらも、それとは別の思いで生きようとする者もいる。
雑賀孫市は、最後までこの乱世を自由に生きたのである。
今、漸く雑賀孫市に、御国との安らぎの日常が訪れていた。
戦国の乱世を己の信ずるままに、もう充分に生きたから悔いは残らない。
既に自分の入る余地のない処で時代は動いていたが、此処に到って孫市の心境には心残りはない。
雑賀孫市の人生は波乱に満ちていたが、それも、もう終わりでこの世に未練はなかった。
「孫市は居るか?」
ふと、縁側から孫市に明智光秀の声が聞こえた。
「光秀か、久しいのぅ。」
孫市は、薄れ行く生気の床で光秀と話していた。
「お主も息災か、孫市?」
「馬鹿を申せ光秀、この有様じゃあの世へ旅立つのも長くは無いわ。先に行くぞ。」
「おぅ、気が向いたら尋ねる故あの世で待って居よ。」
この期(ご)に及んで、信長との初見の情景が懐かしく浮かんで来る。
孫市は「あ奴ほどの男は、二度と出まい。」と呟いた。
傍に居た阿国が聞き咎め、「何をおっしゃったのですか?」と尋ねたが、孫市はもう事切れていた。
後世に成って見ると、ただ「魅力」と言う点なら織田信長の存在は恐ろしく魅力的である。
明智光秀も雑賀孫市も、信長の毒のある鮮烈な魅力にはとても叶わない。
家康など格好悪くただひたすら子造りと長生きに励んだだけで有る。
ただし、信長のその魅力は、高みの見物に拠る「敗者の事に思いを馳せない」と言う片手落ちな前提を持っての事である。
気楽な物語として捉えれば、織田信長の生き方は、胸が空くような格好が良い事だが、現実は大量殺戮者である事には間違いない。
徳川の天下が確立したこの頃には、家康は既に将軍職を秀忠に譲って大御所を名乗っていた。
余談だが、豊臣秀頼に嫁いだ千姫は秀忠と於江与の子であるが、落城の際に助け出されている。
大阪冬の陣の講和条件である堀の埋め立てなど、光秀のアドバイスであった。
阿国歌舞伎は人気をはくし、世に受け入れられた。
しかし、人気故に新興の遊女たちの間に、いち早くより色気の多い模倣が普及し、官能的な歌舞伎が出現して「遊女歌舞伎・女歌舞伎」と呼ばれるように成った。
折りしも幕府は、儒教・儒学(朱子学)を統治の指針に採用した。
そう成ると、いかがわしい出し物「遊女歌舞伎・女歌舞伎」は容認できない
その為、千六百二十九年(寛永六年・三代将軍・徳川 家光の頃)に、本家の阿国の女歌舞伎諸共「風紀を乱す」として女性を舞台に上げる事を、幕府に禁止されてしまった。
やがて、美少年を中心とした「若衆歌舞伎(男色の風俗を増長させるとして禁止)」の時代を経て、「野郎歌舞伎」と呼ばれ、女形(おがた)と呼ばれる女装の男性が出演する現代歌舞伎の形式が定着して行った。
江戸期に入り世の中が安定して来ると、歌舞伎・猿飼などは「河原者」と呼ばれて差別され、士農工商以下の身分へと落とされて行く。
そこには、体制から外れた彼らの「裏の顔を封じ込めよう」と言う、幕府の思惑があったに違い無い。
織田信長の兄弟で、気性激しく個性的な信長と上手く行っていた弟は織田信包(おだのぶかね・信秀の五男)只一人である。
母は兄・信長と同腹の土田御前で、お市の方(秀子)も同腹と伺える。
織田家臣団の中では信長も認める有能な武将で、唯一織田一族の重鎮として各地を転戦し厚遇されている。
信包(のぶかね)は兄・信長に対して一定の発言力もあり、浅井長政の近江・小谷城を包囲、浅井長政の自害により妹・お市の方(おいちのかた)と長政忘れ形見の茶々、初、於江与の三姉妹を引き取り手元に保護している。
織田信包(おだのぶかね)は北伊勢の支配を目論む兄・信長の命で北伊勢を支配していた藤原南家出自・鎌倉有力御家人・工藤祐経(くどうすけつね)の三男・祐政(すけまさ)を始祖とする長野(工藤)氏の養子として入り、長野(工藤)氏の第十七代当主となって一時長野姓を名乗ったが、同じ兄の命で長野氏を見限り織田姓に復帰している。
その後千五百七十五年(天正三年)の越前一向一揆や千五百七十七年(天正五年)の雑賀党攻めに参戦している。
千五百八十二年(天正十年)の本能寺の変の時点では兄・信長の長男・織田信忠の補佐を任されていたのだが、兄・信長も信忠も討ち死に失っている。
本能寺の変の後に明智光秀と羽柴秀吉(後に豊臣秀吉)が雌雄を決した山崎の合戦に、織田信包(おだのぶかね)は羽柴方に付き、豊臣秀頼・大阪方西軍の石田三成と東軍の徳川家康の合戦、関ヶ原の戦いに際しては西軍に属して戦っている。
信包は関ヶ原敗戦後も家康の温情で罪を問われず、その後も信包は秀吉の嫡男・豊臣秀頼を補佐し続けたが、千六百十四年(慶長十九年)大坂冬の陣直前に豊臣家滅亡を見る事無く大坂城内で急死した。
大乱の戦国期(安土桃山)に在って、しかも織田信長の弟でありながら討たれたり断罪されたりする事無く、七十二歳と言う当時としては長寿を全うした所に、織田信包(おだのぶかね)の誠実無欲な人柄を感じる。
夫・浅井長政の近江・小谷城落城と長政の自害後、助け出されて兄・織田信包(おだのぶかね)に茶々、初、於江与の三姉妹と伴に保護されたお市の方(おいちのかた/秀子)は、兄・信長の命により近江・小谷城(現在の滋賀県)の浅井長政と結婚している。
織田家と浅井家はお市の方(おいちのかた)を要(かなめ)として同盟関係にあったが、信長が浅井氏と関係の深い越前(福井県)の朝倉義景を攻めた為に浅井家が朝倉方に付いて浅井家と織田家の友好関係は断絶する。
その後姉川の戦いで勝利した織田勢が攻勢に出て長政の小谷城は落城、長男の万福丸は捕われ殺害次男の万寿丸は出家させられ、浅井家は幼い長政忘れ形見の茶々、初、於江与の三姉妹を残して滅亡する。
近江の戦国大名・浅井長政と織田信長の妹・市との間に出来た三姉妹の長女が、通称淀君(よどぎみ)と呼ばれる女性である。
この通称・淀君(よどぎみ)の本名は浅井茶々(あざいちゃちゃ)、朝廷よりの賜名は浅井菊子(あざいきくこ)、官位は従五位下とされ、淀君(よどぎみ)または淀殿(よどどの)は後の江戸期に便宜上呼ばれる様になった名である。
賜名の菊子(きくこ)は公文書の署名のみで、普段は生涯茶々(ちゃちゃ)で通している。
つまり茶々(ちゃちゃ)本人は淀君(よどぎみ)の名を使った事も呼ばれた事も無い。
織田家に保護されたお市の方(おいちのかた)と三姉妹は、織田信包(おだのぶかね)の下、厚遇されて九年余りを尾張国で平穏に過ごしている。
お市の方(おいちのかた/秀子)は、本能寺の変で兄・信長が明智光秀に討たれた後、織田家の権力をソックリ乗っ取ろうと言う秀吉に対し織田信孝(信長の三男)を立てて織田家存続を唱える織田家重臣の柴田勝家と、三姉妹を連れ子に再婚する。
しかし羽柴秀吉と柴田勝家の緊張関係が長くは持たず、夫・柴田勝家が羽柴秀吉と武力対立して賤ヶ岳の戦いで敗れ、その後勝家と共に居城・越前・北ノ庄城に篭城したが持ち堪えられずに、茶々、初、於江与の三姉妹を逃がして後、勝家とお市の方(おいちのかた)は城内で自害した。
この数奇な運命の三姉妹、その後も波乱含みの人生を送り、豊臣秀吉側室・淀殿(淀君/浅井茶々)・京極高次正室(常高院/浅井初)・徳川秀忠正室(崇源院/浅井お江与)に納まったが、豊臣秀吉の側室・淀殿(淀君/茶々)に到っては息子・豊臣秀頼を押し立てて徳川家康と対立、大阪城で三度目の落城に合い息子・秀頼と伴に自害している。
秀吉と茶々(ちゃちゃ)との間には、秀頼の前に長男・鶴松が居たのだが病で夭逝している。
秀頼は、秀吉の二男に当たるのだが、疑問が残るのは秀吉と茶々(ちゃちゃ)との間に出来た二人の子供・捨(鶴松)と拾(秀頼)が「本当に秀吉の子だろうか?」と言う素朴な謎である。
長年連れ添った正妻・北政所「おね(ねね)」との間だけでなく、数多く居た側室(そばめ)との間にもいっこうに子を為せなかった秀吉が、茶々(ちゃちゃ)を二度も懐妊させ得たとは到底考えられない。
それに捨(鶴松)と拾(秀頼)の本当の父親を大野治長とする説、また石田三成とする説が有力で、片桐且元説も在る。
秀吉本人もその事は承知で、それでもなお茶々(ちゃちゃ)の母・市に憧れていた事や、茶々(ちゃちゃ)の産みし捨(鶴松)と拾(秀頼)が、即ち主家織田の血を引く事で、世継ぎとして満足していたのかも知れない。
この捨(鶴松)と拾(秀頼)の父親別人説を豊臣恩顧大名達が百も承知していた為に、関が原の合戦の折、大阪冬の陣・夏の陣に多数の恩顧大名が「東軍(家康方)に廻ったのではないか」と言う見方も在り、正妻・北政所「おね(ねね)」が豊臣家滅亡を黙認してまで身内の子飼い大名達を東軍に廻らせた事も、父親別人説に信憑性を持たせている。
まぁ血統至上主義の世に在って、豊臣秀吉は徳川家康との子「作り合戦に負けた」とも言えるのである。
さて、お福のその後であるが、家康が関ヶ原の戦いに勝利し天下を掌握して征夷大将軍に任じられる頃に、暫(しば)らく家康の寵愛を得ていたお福にやがて転機が訪れ、家康の勧めで林正成(はやしまさなり)と言う武将に嫁ぐ事に成った。
この婚儀で、お福の運命が大きく変わる事になるのだ。
お福の相手は、林正成(はやしまさなり)と言う武将で、実は浪人していたのだが、家康がある事で恩義を感じ心に止めていた男だった。
そのある事とは、林正成(はやしまさなり)が、関ヶ原の戦いの折に平岡頼勝と共に徳川家康と内通し、小早川秀秋を東軍に寝返らせさせる事に成功し、東軍(家康方)勝利に貢献した男である。
その功労者・林正成(はやしまさなり)が、小早川氏が幕府に処分され、家が断絶すると、浪人となって不遇を囲っていた。
義に厚い家康は、その林正成の身の振り方を考えていたのだった。
織田信長の直臣だった美濃国・国人領主・稲葉一徹と徳川家康には、姉川の合戦以来の親交がある。
家康の意向もあり、お福は美濃国の稲葉重通の養女となる。
この稲葉家養女は林 正成(はやしまさなり)を引き立てる手の込んだ複線で、養女と成ったお福が正成(まさなり)を稲葉家の婿に迎える。
お福の斉藤利三(さいとうとしみつ)家と美濃・稲葉家は奇妙な縁があり、斎藤利三の後室は稲葉一鉄の娘・お安(あん)で、斎藤利宗、斎藤三存、それに末娘のお福(春日局)らを産んだ。
お福(春日局)は斉藤利三とその後室・稲葉安(あん)との間に出来た娘である。
斉藤利三は一時稲葉家の家臣に成っていた事が在り、稲葉(一鉄)良通と父・斉藤利三の代で喧嘩別れしていたのだが、稲葉家の当主・稲葉貞通は家康の依頼を受け入れて林正成(はやしまさなり)の大名家を稲葉姓で起こす手助けをした事になる。
林正成は稲葉正成を名乗り、家康の命により旧領の美濃国内に一万石の領地を与えられ小とは言え大名に列した。
福は母方の伯父・稲葉重通の養女となり、江戸幕府の第三代将軍・徳川家光の乳母となって権勢を誇ったのだが、この稲葉家とお福のその後の数奇な運命は、後ほどタップリと披露する事になる。
(天海僧正)
◇◆◇◆(天海僧正)◆◇◆◇◆
現在世間で判り得る天海僧正は、徳川家康が江戸に幕府を開く時期に突如歴史の表舞台に登場し、瞬く間に徳川家の「知のブレーン」となってしまう。
そして不思議な事に、天海僧正と徳川家康の過去には、ほとんど接点が無いのである。
いったい如何なる経緯で、徳川家の知恵袋・天海僧正は徳川家康に見出されたのであろうか?
そこで天海が、「家康とは旧知の間柄ではなかったのか」と疑いを持たれるのである。
徳川家康は天海僧正の助言で関東に所領を移し、秀吉を安心させて着々と力を蓄え、その後大阪の陣で豊臣家を滅ぼすと鎌倉幕府に習って朝廷と距離をおく関東の地に幕府を開いた。
そして徳川家の行く末を睨んで家康は、千六百五年(慶長十年)に将軍職を辞するとともに朝廷に三男・徳川秀忠への将軍宣下を行わせ、将軍職は以後「徳川家が世襲して行く事」を天下に示した。
徳川家康が幕府を開いた土地、「江戸」と言う地名の由来であるが、江戸氏と言う氏(うじ)名から来ている。
この江戸氏、桓武平氏の平良文(村岡五郎良文)の「ひ孫」にあたる平重継(江戸重継)が始祖である。
江戸と言う地名の発祥は、村岡五郎良文(平良文)の孫・平将常が武蔵守となり秩父に住んで秩父氏を称して居たが、その孫・平重継が分家をして江戸(入り江の入り口(戸)と言う意味)の荒川河口の高台・日比谷入り江の小高い丘・江戸に館を構え「江戸氏を称した事に拠る」と伝えられ、広域に通用する江戸の地名が出来た。
つまり、桓武平氏流・秩父氏から出た江戸氏の本拠地は、「武蔵国豊島郡江戸郷之内前島村」と言う土地である。
江戸の呼称については江戸城を築いた室町期の武将・武蔵国守護代・太田(源)道灌(関東管領上杉氏系流)が、一般的には祖としては余りにも有名だ。
だが、江戸氏を名乗り江戸館を築いた江戸重継、重長、親子こそ江戸の祖とも言うべきで、平(江戸)氏の 江戸館の跡に大田道灌が江戸城を造り、その跡に家康が江戸城を築いて幕府の本拠地と為し、その二百六十年後の遷都に拠り帝の宮城になったのである。
この平(江戸)重継の継子・平重長は、当時絶大な権力を持っていた平家の平清盛に臣従していたが、石橋山合戦の後に源頼朝の味方に加わり、後に鎌倉幕府の御家人となっている。
江戸重継の嫡男・江戸重長は、源頼朝が伊豆で旗揚げした時点で、平家(清盛平氏)に信頼された関東の最有力武将だった。
石橋山の合戦に破れた源頼朝は、海路、房総半島に逃れ、その安房の地で豪族、上総(かずさ)広常や千葉常胤などの助力を得、再び勢力を盛り返して武蔵国へ入ろうとするが、それを江戸重長が関東武士を招集して一旦は頼朝の進軍を阻止する。
しかし秩父氏一党は、元々頼朝の父源義朝の勢力下に在って恩を受けた過去がある為、その後、江戸重長をはじめ畠山重忠・河越重頼ら秩父平氏一族は、長井渡まで出掛けて源頼朝に一時平家(清盛平氏)に加担した事を詫び、服従を誓って源頼朝勢に加わって平家(清盛平氏)打倒に貢献すると、後に鎌倉幕府の御家人と成った。
その後鎌倉幕府の滅亡、南北朝の戦乱、戦国期を経て江戸氏は勢力を衰退させ、江戸期を迎える頃には後北条に属して喜多見に五百石を領する小土豪と成る。
徳川(江戸)幕府が成立すると、江戸氏は所領の喜多見氏に改姓し、徳川氏の旗本となる。
五代将軍綱吉の側小姓と成った喜多見重政は側用人となり、千六百八十五年(貞享二年)に出された「生類憐みの令」の積極的な推進者となり、出世して二万石の大名となる。
出世した喜多見(江戸)重政は御犬様総支配に任じられ、世田谷にも「お犬様御用屋敷」が立てられて江戸氏も一応の再起を見るが、その後身内の不倫沙汰から発生した刃傷事件により改易に遭い、江戸氏の末裔は没落している。
天下を取った後、家康は光秀に会うべく千六百十二年(慶長十七年)に比叡山に使いを出す。
関東に呼び寄せては見たが、大阪の豊臣家の始末もあり、いたずらに日を送って、気がつくと、関東天台の総禄司に天海僧正を据えてからでも早三年余りの月日が経っていた。
ほとぼりも充分に冷めた頃である。
晩秋の江戸だった。
「光秀殿は息災だろうか?」
比叡山の山肌も、赤く色付いている事だろう。
光秀(天海)殿とは、関が原合戦以来の再会に成る。
天守からは、埋め立てさせた掘割(八丁堀)の先に海が臨める。
遥か武蔵野台地を掠めて富士を望む天守に立てば、茅原が茂る低湿地帯に平川の流れがあり、その河口は湾の入り江にいたって海に注いでいる。
江戸城近くまで海の入り江が迫って直ぐ眼下に見え、天守には潮の香りも漂っている。
家康は江戸川の湿地帯を埋め立て、陸地を作って城下とした。
これからは江戸の町も繁盛させなければならない。光秀の助言を心待ちにしていた。
今日は朝から落着かない家康で、時折気が付いて何度か苦笑をしていた。
とても家臣には見せられない図だ。
公にはしないものの、光秀を呼び寄せても遠慮する相手は既に何処にも居ない。
永く待たせたが、豊臣家を滅ぼして、漸(ようや)く光秀殿を傍(そば)に寄せる時が来ていた。
家康は、まず川越中院の「豪海僧正」に命じて比叡山から光秀を江戸近くの星野山喜多院の二十七代住職として入山させる。
その上で、天台宗の総禄司として格を上げ、「将軍目通り」をさせる事にした。
面倒だが、格付け次第で目通りを許すなど、幕府の権威付けの形式も整いつつ在ったのだ。
天海僧正の生涯年齢から二代目と思われる天海が北院の住職となったのは、千五百九十九年(慶長四年)と言う事に成っているが、これは天海を急に上席に引き上げるに当たってのアリバイつくりで、言わば経歴詐称である。
実際に天海(二代目)が関東に呼ばれたのは千六百十二年(慶長十七年)の事で、無量寿寺北院の再建に着手し、寺号を喜多院と改め、関東天台の本山としている。
その後は急ピッチに家康の信任をえて、大阪の役(大坂冬の陣・大坂夏の陣)の起こる前年・十四年千六百十三年(慶長十八年)には、日光山貫主を拝命し、本坊・光明院を再興している。
千六百年(慶長五年)の関ヶ原の合戦後から始まった徳川家の豊臣家への圧迫に豊臣家が抵抗し、十四年千六百十四年(慶長十九年)から翌十四年千六百十五年(慶長二十年)、大阪の役(大坂冬の陣・大坂夏の陣)が起きている。
豊臣家壊滅のシナリオを書いたのはこの二代目天海であったが、時機を考え直接の目通りは控えて今日まで来ていた。
しかし大坂落城をもって徳川家の天下は不動のものと成り、世の局面が変わった。天才軍師・天海(光秀)が再び世に現れたのである。
六十九歳に成っていた徳川家康は、江戸城に「目通り」に来た光秀を見て、家康は驚いた。
光秀殿にしては「いかにも若い」
その若い光秀は、平伏して言った。
「家康様が驚くも無理なし。実は先代の光秀は関ヶ原の少し後に身まかり(亡くなり)申した。」
「真(まこと)か・・・・。」
絶句する家康に、若き僧侶は平伏したまま口上を続けた。
「先代の指示とは言え、永く成りすまして家康様を謀り居りました事を、おわび申し上げます。」
光秀は一度面(おもて)を上げ、また平伏した。
聞いていた家康は、目頭が熱くなった。
「何の、主は光秀殿に間違いは無い。二度に渡る大阪城攻めの、あの見事な知略は、正しく光秀殿じゃった。」
家康の声は、震えていた。止めようにも、熱いものが胸の内から湧き上がって来る。
感極まりながら、先代光秀との思い出が湧き上がる。
「そこ元、光春であろう、今日より秀忠の良き知恵袋に成ってくれ。」
「基より、先代光秀より左様に言い付かって居ります。」
「迂闊じゃった。光秀殿より便りの文があるので息災とばかり思って居ったが、そう言えば光秀殿はわしより十五歳も年上じゃった。」
「如何にも大御所様、叔父が生きて居ればとおに八十歳を越えまする。」
「そうよなぁ、わしも齢(よわい)七十に手が届く年じゃで、無理も無い話じゃ。しかし光秀殿が若返ったのなら、めでたい事じゃ。これで徳川の幕府も安泰じゃわ。」
「恐れ入ります。」
「そう申せば、半蔵が天海の声が若返ったと申していたが、すると大阪の役での進言は全て光春殿じゃったのか。何の疑念も無いほどに見事な進言じゃったぞ。」
「ハァハァ〜、恐れいりました。」
この僅かな会話で、家康は、二代目光秀に全幅の信頼を置いた。
二代目光秀は僧籍に在って「天海」と法号を名乗る天台宗の僧侶となっていた。
そして天海(二代目光秀)は、二代将軍・秀忠の従兄弟だった。
初代明智光秀(南光坊天海)は、影人に徹した。
「俺も俺も」と言う人間は結構居るが、彼の哲学は今少し知的で、出過ぎた処は無い。こう言うナンバーツウを得た者が、「成功するのが道理」と言うものであるが、大概の所、それを見抜き育てるナンバーワンは少ない。
安土桃山時代から江戸時代初期に跨るミステリーの一つに明智光秀=天海僧正説が在る。
天海、光秀説の傍証は枚挙に暇が無いが、それは正解であり正解でない。
天海僧正には謎が多く、徳川家康が天下を取り息子の徳川秀忠が二代将軍に任じた頃、突然の家康の引きで歴史の表舞台に躍り出た。
そして天海は、幕府に対する大きな影響力を持ちながら三代将軍・徳川家光の代まで、なんと百八歳とも百三十五歳とも言われる生涯を生きた。
それにしても、明智光秀=天海僧正説では百歳を遥かに越える長寿はとても説明出来ない。
もし光秀が天海で在ったなら、家康より十歳も年上の光秀が徳川家三代に渡って仕え、「百八歳とも百三十五歳とも生きた」とされるカラクリが必ず在る筈である。
そこで将軍家の相談役を任じた大僧正・天海の素性が何者だったのかを検証すると、確かに明智光秀と明智光春と言う二人の人物に行き当たる多くの事実が存在した。
天海僧正についてはさまざまな妖力の噂が付きまとうが、その最たるものが長寿である。
天海は、家康、秀忠、家光の三代に使え、没年齢は百八歳とも百三十五歳とも言われているが、これは常識的に眉唾である。
いくら長生きでも、安土桃山から江戸時代初期にかけての事で、二代将軍・秀忠と同年代の生まれなら長生きして家光に任えるのも判る。
しかし天海は、江戸に召された段階で相当の年齢(よわい)を重ねていなければ百八歳とも百三十五歳とも言われる長寿の計算が成り立たない。
我輩が思うに、二人分の生涯が、「ダブって計算された」と見るのが妥当である。
そこで思い到るのが、明智光秀に付き従っていた年下の従兄弟・明智光春が「天海(光秀)の後を継いで二代目に納まったのではないか」と言う推測である。
この辺りも、残された文献を盾に頑として「光秀(或いは天海)は長生きだった」と主張する方も居られるが、書いてある文章を読めるのと中身を読み解くとには明確な違いが有る。
徳川秀忠が明智光忠であるなら、その後の事の説明は付き易い。
天海僧正が明智光春なら更に説明が付く、何しろ幼少の頃の明智城落城より光秀に付き従い、寝食、生死を伴にして来た「従弟同士」である。
それを、親代わりの天下の秀才明智光秀が、心血を注いだ知略で天下の秀才に育て上げて、歴史が再び二人を江戸で引き合わせたのであれば此れ程強い信頼の絆はない。
この事が事実であれば、天海がいきなり幕府で重用されるに「もっとも自然な理由」と言える。
再会を果たした時、人払いをして二人は抱き合って泣いた。
二人は互いに見詰め合っていた。特に、秀忠(光忠)は、晩年の光秀の様子は知らない。
二人に、万感の思いが走った。
初代光秀、つまり初代天海は、病に臥せった最晩年、臨終の床の中で天下が秀忠の物に成るのを確信していた。
「光秀、お主とは夢の掛け違いじゃった。」
空耳か、懐かしい信長の声が聞こえた様な気がした。
ようやく、「お館様(信長)を乗り越えた」と安堵したのだ。
死に顔は、安らかであった。
家康は、天台宗の関東の全権を握った二代目天海に、喜多院の寺領として日光山の一帯を贈っている。
天海は家康の死後そこに東照宮を建て、その一帯を「明智平」と命名する。
天海が明智に縁無き者なら、謀反人明智の名を寺領に使うのは説明が付き難い。
増してや、本能寺の変当時の、伊賀超えの家康「逃避行が茶番」でないなら、命を狙った明智の名の寺領命名など、家康が許す訳がない。
この明智平の地名は、今に日光に残っている。
天海が家康の為に神号を取るのは、感謝と尊敬の念による。
その神号がすごい、東照大権現(とうしょうだいごんげん)である。
天照大神(あまてらすおおみかみ)は、日本の最高神である。
それに準じる様に、東を照らすと来て、「現れになった神」と来た。
家康は天海の一世一代の仕事で、神君(しんくん)となり、日光東照宮に鎮座している。
この日光東照宮の銘々に、我輩はいささか異論がある。
本来、徳川家康が東照宮の宮(ぐう)を名付けられるのはいささか問題がある。
本場中国では、神様と言っても実在の人物が祭られるのは廟(びよう)である。
つまり、日光東照廟が正しい。
それは、他の実在する人物の神社も同様である。
独自文化と言えばそれまでだが、都合により核心部分を曖昧にするのは、日本列島の専売特許みたいなものである。
秀忠は、相談相手として天海を江戸に置く為に、上野に寺を造営する。
東の比叡山の意味で、「東叡山(とうえいざん)寛永寺」と言う。
寛永寺は、徳川将軍家の菩提寺でもある。
風水学に長じた天海の助言で、徳川と江戸の守りの位置に、「寛永寺」は在る。
天海の江戸幕府運営は、「光秀の悲願」でもある。
朝廷の壊滅なしに国家運営が出来る事を、何としても、亡き信長に立証しなければ、本能寺の変が意味を成さないからだ。
「お館様、光秀が知略ご照覧あれ。」
光秀は、死してなお、信長の亡霊と戦っていた。
天海(光秀)の夢に出てくる信長は、いつも笑っていた。
「わしの苦労を、光秀、そちが背負(しょう)て、くれおった。」
見事やり応さないと、冥土で、お館様に「光秀ではやはり無理か?」と笑われる。
それを天海が、ひとつひとつ構築して行ったのである。
まず、都は京にそのままにして、行政府は鎌倉幕府に倣(なら)い遠く離れた関東に置く。
朝廷を、実際の国家運営の蚊帳の外に置く狙いが在った。
時代は少し遡るが、大阪冬の陣、夏の陣での豊臣家滅亡以前から、その足場は着々と固めつつあったのである。
天正十八年の冬、秀吉による北条攻めが迫った頃だった。
居城を、浜松城から駿府城へ移して居た家康の寝所に、不意に影が忍び寄って来た。
何時も、突然現れる男の来訪だった。
「お久し振りでございます。徳川様ご壮健で何よりでござる。」
「孫市殿か、光秀(南光坊・天海)殿がまた何か申したか?」
「御意。」
「申して見よ。」
「此度の戦(北条攻め)が終われば、坂東(ばんどう・関東)八州が空きまする。」
「予に、坂東(ばんどう・関東)に移れと申すか?」
「御意。徳川様には力を蓄えられよと光秀(南光坊・天海)殿のお申し入れにございます。」
「何故じゃ。」
「光秀(南光坊)殿が申しまするに、平泉、鎌倉が長く持ちましたは帝のおわす都より遠く、万が一、帝を奉じての寄せ手起こりしも、力さえ蓄え置けば、迎え撃つ為の時が稼げ間する。」
「何と光秀(南光坊・天海)殿は、都近くに構えれば地方にて力蓄えし者に脅かされると申すか。」
「御意。今は坂東(ばんどう・関東)に在って力を蓄えるが肝心かと。」
「さよう申すからには、光秀殿(天海)に何か格別の策でもあるか?」
「同時に伊達の減封とその跡に上杉の奥州国替え策を秀吉進言為されませ。後々伊達は徳川殿のお味方に成りましょうぞ。」
「なるほど如何にもじゃ。わしが伊達と上杉は関東で抑える故、上杉を奥州へ国替えせよと秀吉を焚き付けるか。」
「お館様(信長)が徳川殿を東の備えに置きました故事も在りますれば、秀吉も納得するかと。」
「なるほど、良し秀吉には信長様の時と同じで予が豊臣様の為に、東の押さえに廻るとでも申そう。」
「如何にも、徳川殿の領国が都から遠逆かれば、秀吉は目先安堵します。」
「これは、光秀(南光坊・天海)殿も長期戦と見て居るな。」
「天下をお取りに成りし後も、坂東(ばんどう・関東)より都を睨むが宜しかろうと。」
「合い判った。」
光秀(南光坊・天海)の策略は当たり、表向き秀吉の命令として、徳川家(家康)は、駿河・遠江・三河・甲斐・信濃の五ヵ国から、北条氏の旧領である武蔵・伊豆・相模・上野・下野・上総・下総の七ヵ国に移封された。
これは百五十万石から二百五十万石への大加増である。
秀吉は、家康を都から遠避ける為に、「他に手が無い」とは言え、家康を超別格の大々名にしてしまったのである。
家康が、秀忠に早々に将軍職を譲り、自らは、駿府(静岡市)に隠居したのも、徳川将軍家の世襲を既成事実化する為である。
勿論、事がトントン拍子に進んだ訳ではない。
ほんのチョットした成り行きが、思わぬ事態に発展する切欠になる。
徳川家康が大御所として駿府(静岡市)に隠居した頃は、まだ西国に秀吉恩顧の大名が多く残っていた頃で、江戸への守りを固める意味が有ったのは言うまでも無い。
これは関が原の戦いに、息子・秀忠が率いた徳川勢主力三万五千が信州上田の真田家の攻略に手間取り関が原に遅参した事で、加藤清正、福島正則ら石田三成嫌いから東軍(家康方)に味方した秀吉恩顧の大名に義理が出来た事に拠る計算違いだった。
この時期、武家諸法度、禁中公家諸法度などを制定して、幕府の統制力を増して言ったのも、天海(二代目光秀)よりの、書状の知略に負う所が多かった。
神社、仏閣などの統制をも強化する。
神仏混合政索、参勤交代、貿易の制限、キリスト教の禁止などなどである。
三代将軍家光は、秀忠の嫡男である。
秀忠の男児は他に、忠長(徳川忠長)と正之(保科正之)がいる。
忠長は、秀忠の子と言う事に成っているが、実は家康最晩年の子である。
いやはや、元気な爺だ。
秀忠は忠長誕生の際、家康に乞うて自分の子とした。
秀忠なりの腹積もりで、次の代には将軍を家康の血統に戻すつもりでいた。
もっとも、家康の方は単純で、「万一の世継のスペアー」くらいに考えて、それほど重要な事には考えていなかった。
ちなみに秀忠の女児は、五人いた。長女は前述の「千姫」で、五女「和子」は後水尾天皇の下に入内(天皇に嫁ぐ)して「東福門院和子」となった。
明智光秀には、徳川幕府成立前後に活躍した「名僧・天海僧正と同一人物ではないか」と言う噂が付きまとって久しい。
これは、その明智光秀=天海僧正説の一つの検証になるのかも知れない重要な要件の一つである。
光秀の側近(腹違いの兄弟とも言われている)に、「斉藤利三(としみつ)」と言う者がいた。
この斉藤利三、明智所縁の「斉藤」と名乗るからには、油売りから身を起こした斉藤道三入道に名跡を乗っ取られた美濃国守護代家の斉藤家の枝が、主家である土岐家の枝、明智家と婚姻関係にあって存続していたのではないだろうか?
斎藤利三(としみつ)は、美濃国守護土岐氏に仕えてその守護代を勤めた美濃斉藤氏の流れで、土岐氏流れの明智氏とは代々濃い縁戚関係に在った。
斎藤利三が生まれた頃は、美濃国守護代・斉藤家はその名跡を斎藤道三に乗っ取られ、利三は道三の嫡子・斎藤義龍に使えていたが、西美濃三人衆の一人・稲葉一鉄が尾張・織田氏の織田信長(おだのぶなが)の下へ寝返ったのを期に稲葉一鉄に従って織田家の陪臣となる。
その後利三は稲葉一鉄と袂を分かち、同じ織田家の臣となっていた六歳年上の腹違いの兄弟とも従兄弟とも言われる明智光秀に臣従して家老的な立場となる。
この利三の娘に「お福」と言う名の者がいた。
利三が腹違いの兄弟なら、「お福」は光秀の姪に当たる。
そう、光秀が信長の命をうけて家康に献上したあの濃姫付きのお端(おはし・端女)・お安(あん)の娘・「お福」である。
この「お福」が、何時の間にか、お世継ぎである「家光」の乳母に納まっていた。
お福と結婚する為に稲葉家に婿入りした林 正成(はやしまさなり)は稲葉姓を名乗り、徳川家康から一万石の大名に取り立てられる。
その後お福は、二代将軍・家光に召されて長男・徳川家光の乳母となり春日の局を名乗る。
偶然は在り得ず、隠された強力な縁故が在ったに違いない。
そう勘繰られても、仕方がない歴史的事実である。
このお福が、後に大奥で権勢をふるった春日局(かすがのつぼね)である。
こうした筋書きからすると、秀忠(光忠)、天海(光春)、春日局(お福)は、従弟(従妹)同士と言う事になる。うまく行くのは当たり前である。
お福は、家康の命により美濃の稲葉重通の養女と成り、林 正成(はやしまさなり)を稲葉家の婿に迎え二人の男子を設けていたが、一族再興と子供の出世を願って、夫の稲葉正成と離婚までして家光の乳母「春日の局」に成った。
息子の稲葉正勝は家光の小姓に登用され、長じて老中に昇進、千六百三十三年に加増を得て小田原八万五千石を所領し、小田原城主となっている。
それだけではない。
次章「維新の大業」で詳しく記述するが、この春日の局(つぼね)の実の息子稲葉正勝の歴代の子孫が幕府老中などを務めるほど優遇されて後、下総国佐倉藩主などを経て山城国(十万二千石)に移封、山城国淀藩・稲葉家は、幕府内では代々京都所司代や大阪城代、老中職と言った要職を歴任して幕末まで続いている。
言わばこの淀藩・稲葉家は、「山城国(現在の京都府南部にあたる)」と言う日本の政治的に最も重要な地域の幕府の押さえである。
そうした稲葉家の封領配置からして、単に春日の局(つぼね)の息子と言うだけではなく、非公式ながら「徳川家当主と血縁関係にある」と考えられ、これこそ、実は徳川政権内部が「明智の血縁に乗っ取られた」と言う一連の証拠である。
稲葉家の事もそうだが、細かく調べて行くと「明智光秀、そして光春が天海僧正ではないか」と言う前提がないと、説明し難い事例はまだ有る。
この章で記述した光秀所縁の豪族に対する徳川家の処置も不可思議なのである。
この事も、明智光秀=天海僧正説の一つの検証になるのかも知れない事実である。
漸く天下を手中にした徳川家にして見れば、唯でさえ強固な幕藩体制を固めたい時である。
家康に従って天下取りに貢献した直参旗本でさえ数千石の知行がやっとなのに、徳川家・直臣でもない直ぐにひねり潰せそうな地方郷士の妻木家や遠山家が、何故か大名格領主として生き残った。
光秀の言わば血縁・地縁の重なる土地柄に所領を有する妻木家や遠山家は、明智家や斎藤家とは「閨閥を形成していた」と考えられる。
光秀の正妻・明智煕子(ひろこ)の実家・妻木家や親戚の遠山家も同様だが、名門の外様領主として所領の禄高が大名(一万石以上)ではない為に、特例の外様旗本の格式家「交代寄合(大名待遇格)・参勤交代を課せられた家」として旗本格内に置かれていた。
妻木家は明治維新まで、美濃国・妻木郷七千石の徳川幕府・旗本として、親戚の遠山家(美濃国・明知郷六千五百石余)と共に永らえている。
この妻木(勘解由)家や遠山家が、徳川家の本当の旗本ではない外様の小領主(所領の禄高が一万石以上の大名ではない)にも関わらず、参勤交代(大名待遇)を課せられた「交代寄合」格として旗本格内に置かれ、江戸期を通じて格式と体面を守られた事は、何か特別な理由が無ければ説明が着き難い。
「交代寄合」格・旗本扱いの優遇を得た背景理由が、秀忠(光忠)・天海・春日局トリオの身内ならではの計らいに拠るもので、光秀・天海説の密かな符合なのではないだろうか?
徳川幕府成立後の処置として普通に考えれば、両家共に名門ではあるが幕閣にあって潰すに惜しいほどの役に立つ家ではない。
その程度の小領主が、破格の扱いを受けている。
大身の外様旗本並待遇それ自体が特例である。
その特例の上に、大名の格式を与えている。
この例外の「交代寄合(大名格)」、他にもあるが全国で僅(わずか)二十家に満たず、二〜三千石程度が多数である。
この光秀所縁の両家に対する徳川家の配慮の裏に「何かある」と考えるのは疑い過ぎだろうか?
世の中不思議なもので、権力を握って甘い汁を吸う奴が居ると、必ずそれを「ひっくり返そう」と言う奴が現れる。
本当の事を言うと、権力争いなど相当にカッタルイ事であるが、中々それに気がつかず、欲が深いのが人間である。
光秀にはその権力にまるで気がないから、それを判った家康だけに加勢していた。
しかしその仕事にも、何時か終わりは有る物で、そんな場面も巡って来る。
二代目天海が江戸城に呼ばれるかなり前、関ヶ原の合戦で決着がついたちょうど三年後の千六百三年(慶長八年)の事だ。
光秀(初代天海)は、最早(もはや)全身から気力が脱け落ちて、自らの死期を悟っていた。
冬季には珍しく、陽光うらかな日だった。
「光春、最期に言い残したい事がある。」
比叡山・延暦寺の別院で臨終の時を迎えた光秀(初代天海)は、光春を枕元に呼び寄せ、家康に与える最期の策を伝え、一通の書付を手渡した。
それは、徳川幕府の為に、「裏陰陽組織に似たる物を構築せよ」と言う伝言だった。
「棟梁には、家康殿の落胤・一蔵殿をお据え申せ。」
「確とお伝えします。」
「最早(もはや)家康殿に遺す事なし。」
天下の秀才・明智光秀の、安堵の表情を浮かべた往生だった。
この光秀の遺言に近い話は、光春の脳裏に深く刻まれていた。
聡明な光春には、その遺言に秘める光秀の深い企みには、驚嘆して居さえいる。
家康に目通りの機会があれば、最良のタイミングで、この事は伝えねば成らない。
徳川幕府の「要」とも言うべき知略で、正に「百年の大計」と言うに相応しかったのである。
光秀の死から歳月が流れて、二代目天海(光春)は、駿府城本丸にあって家康の傍近くに居た。
余人は人払いを済ませ、見渡せば、大御所・家康、二代将軍秀忠(光忠)、春日の局(お福)四人だけの密談だった。
「大殿、先代天海(光秀)より授かりし策がござります。先代の書付(書状)もござりますれば。」
「何!光秀殿の策とな?申してみよ。」
「諸国の動静をば観察する諜報を隠密でする為の新たな組(織)案です。」
「新たな組案とな!」
「実はカクカクシカジカにござります。」
「おぅおぅ、いかにも名案じゃ。幕府直轄ではいかにもじゃで、常陸国に所領を与えた水戸の頼房の所でやらせようぞ。」
「ならば、雑賀の頭・一蔵殿をお召し抱えねがいます。」
勿論徳川家康は、雑賀孫市の養子・鈴木一蔵(後の鈴木孫三郎重朝)が竹千代時代の自らの落胤である事を承知している。
明智光秀と雑賀孫市は、家康落胤・鈴木一蔵(後の鈴木孫三郎重朝)を雑賀党の棟梁に仕立て、やがて「家康の役に立てよう」と画くしていたのだ。
「雑賀には、光秀殿との事で世話になった。光秀殿の申し置きならば是非もなかろう。そちに任せようぞ。秀忠、早速にな!」
「心得ましてござる。」
家康の十一男・徳川頼房の水戸で、新たな企てが始まろうとしていた。
この初代天海(光秀)の策、歴史に残る奇想天外な策だったが、その種明かしは、次章に譲る。
いずれにしても、秀忠と天海僧正、春日の局は、仲良し従弟トリオだった。
唯一度、この三人が思惑の違いから、三代将軍の世継(よつぎ)問題で意見が分かれる。
基より、家康に恩義を感じ、徳川に血筋を戻すつもりの秀忠は、忠長を三代目にするつもりでいた。
日頃、何かとそのそぶりを見せていた。
それに危機感を抱いたお福が、天海に相談を持ちかける。
「天海殿、どうやら秀忠様は忠長殿に将軍職をお譲りの意志と見えまする。」
「それはまずい手本になる。それを成せば筋違いで、昔の親兄弟の争いの時代に戻ってしまう。」
天海の意見は、血筋論では無い。
政権を維持担当する為の「筋論」である。
公式の嫡男が廃嫡になれば、悪しき事例が出来る。
世が乱れる基である。
天下を治める徳川家は、あくまでも世に「規範」を見せねば成らない。
そこで、当時既に駿府(静岡市)に隠居していた大御所「家康」に、天海の書状を持参した春日の局が、出向いて直訴に及ぶ。
家康は、秀忠を隠れ養子に受け入れた時から、とっくに血筋に拘(こだわる)ってはいない。
書状を読んだ家康は「天海の言い分もっともである。
秀忠の予を思う心情は察するが、此度は天海の言い分を取ろうぞ。」と、結論は直ぐに出た。
「お福(春日局)殿は、何もかも承知じゃでな、言う事を聞かんと恐ろしゅうわ。」
家康は上機嫌で、冗談を言った。
「まぁ、何を仰(おっしゃ)ります大御所様。」
「何の!何の!ところで、正勝(稲葉)は元気か?」
「正勝(稲葉)殿は御聡明で、心身健(すこ)やかに育ちましてござりまする。」
「頂上至極じゃ。秀忠に申し付けて、いずれは城持ちにするでな。」
「それは有難うございまする。秀忠様もお喜びに成ります。」
「正勝(稲葉)は、家光の良い相談相手に成ろうぞ。」
「流石に大御所様、先の読みは相変わらずでございます。」
「明智(天海)殿の仕込みじゃでな。しかし、お福(春日局)とも永い年月じゃ・・・」
「大御所様とのお引き合わせも、光秀様でした。」
「お福(春日局)、結局天下を取ったのは明智殿かも知れぬのぅ。信長殿の血筋の破壊の目論見、ものの見事に利用しおった。」
家康は、しみじみとした口調で在りし日の光秀の顔を思い浮かべた。
「ほんに、光秀様らしい知略でございますね。」
春日局も、同様の思いに駆られていた。
将軍家は、嫡男世襲の範を示さねばならない。
「平手の爺、鳥居の爺、数多(あまた)の者の命と引き換えに平定した天下じゃ、血筋に溺れるは乱を招く。」
家康は、来し方を懐かしんで感慨に胸を熱くしていた。
秀忠は、信長様の置き土産だった。
信長在っての今日の自分で、信長様が「血統に拘るな」と言うのならその意志を守らねば成らない。
「どれ、秀忠には予が直接言い渡すとしょうぞ。誰かあるか、江戸に文をしたためる故支度をせい。」
女中が一人、フッ読んで来て、慌しく支度を始めた。
家康は早速秀忠を駿府に呼び、「世襲は嫡男からが順である。」と宣言する。
秀忠は、感激の涙ながらに平伏した。
言葉こそ少ないが、義父の心情に感極まったのである。
家康が、秀忠(光忠)に耳打ちしたには、「我が志、叶えしは光秀なり、我が志、継ぐはそなたの子・家光なり。」家康はその人物を見抜き、家光に将来を託したのである。
この時家康にはふたつの判断材料があった。
単純な話、流れに逆らうと大混乱する「既成事実」が、体制として既に成立していた。
この体制は、徳川幕府成立に腐心した光秀の十重二十重の知略によって構築されたもので、大御所家康と言へどもこれを犯す事は出来なかった。
秀吉が亡き信長の意思に逆らい、結城秀康を跡取りにせず、跡継ぎを実子の秀頼に固執した事で豊臣家が滅ぶのを目の当たりに学習した。
もし、結城秀康(家康次男)を跡継ぎにしたら、少なくとも豊臣の家名が残ったかもしれない。
信長の知略は、深く根付いて居たのだ。
この一件を経て、三代将軍家光が誕生する。
この、世継ぎに血統を拘らない家康の考え方には、自分の出生に関わる或る秘密があったのだが、それはこの章の最期に明かす事にする。
春日局の呼び名の謂れで有るが、明智光秀は、織田信長の命で丹波国(兵庫県)春部(かすかべ・後の春日・現丹波市春日町)の黒井城を落城させ、一時守城役に、懐刀といわれた斉藤利三を配した。
お福の父親が「初めて城持ちとなった謂れのある土地」と言う訳で、出自を少しでも良く見せる為に、朝廷に「丹波国春日黒井城主娘」と 届け出た事から、「従三位春日局」を朝廷から授かった。
その、「丹波国春日黒井城主斉藤利三の娘」が、お福(後の春日局)生誕の地と曲解された様である。
家光を「将軍」に押し立てたとして、春日局は大奥に在って絶大な権勢を誇るようになる。こうした隠れた事情が、家康が他界し、名実伴に家光の代になると噴出してくる。秀忠(光忠)の息子三兄弟のうち将軍職についた家光以外の二人兄弟の明暗である。
まず「保科正之」であるが、秀忠(光忠)の庶子と言う事になっている。
確かに正妻の子ではないが、紛れも無く家光の兄弟である。
それを二代将軍秀忠(光忠)は、家康に遠慮して、信州高遠の保科家に養子に出す。
本来なら此処で、小大名で終わる筈である。それが三代将軍家光(保科の異腹兄弟)の引き立で、家康死後に徐々に出世を始め、最上山形城主を経て、合津松平藩の初代に落ち着く。
合津四群、二十四万石の太守である。
どう見ても、兄弟愛が見て取れる。
保科正之は、家光没後四代将軍家綱の叔父としてこれを補佐し、徳川政権の安定に尽くした。
余談だが、明治維新前の動乱の京都守護が、この保科正之の子孫、松平容保(まつだいらかたもり)である。
「新撰組の雇い主」と言う方が、判り易い。
保科正之の徳川本家大事の存在が、遠く二百数十年後の会津、飯盛山の白虎隊の悲劇に通じているのだ。
一方、徳川忠長は、秀忠の子ではない。
秀忠とお江(おごう)の二男と言う事に成っているが、秀忠が血筋を戻そうと、家康から貰い受けた子だ。
当初秀忠は、家康の恩義に報いる為に甲斐の国甲府に二十三万石、ついで二万石加増して二十五万石、駿河・府中藩を加えて五十五万石の太守にするが、本人は満足しない。
「本来なら、予が将軍である。おのれ、家光め。」荒れて駿府の居城で刀を振り回し腰元を殺傷に及ぶなど、粗暴な振る舞いも多々あり、二代将軍秀忠もかばい切れず、ついに忠長に甲府蟄居を申し渡す。
翌年秀忠が没すると、三代家光は、忠長に上州高崎藩の安藤重長にお預けを命じた。忠長は幽閉されたあと、自刃している。
忠長には、自分が将軍に成れなかった事に、不満と、「それなりの言い分があった。」とは、考えられないか。
光秀と家康が「何故裏で結び付いたのか?」、その謎を解き明かすには、日本の長い歴史を掘り起こさなければなら無い。
それは、役小角(えんのおづぬ)を祖として、天台宗の本山派(天台山伏)、真言宗の当山派(真言山伏)と言った陰陽道(修験道)の系図の結び付きだった。
実は、神武東遷(東征)記・(神武初代大王・神武天皇)の東征伝承において、賀茂家と鈴木家はその関わる内容に重複が見られる。
すなわち熊野から大和に入る険路の先導役が八咫鳥(やたがらす)であり、その正体を「賀茂健角身命(カモタケツのミのミコト)である」としているが、その熊の権現が、神職として藤白鈴木氏の祀(まつ)る御神体・牛頭天皇(スサノオ)であり、その使いが八咫鳥(やたがらす)である。
葛城・賀茂氏の系図に、通説で天照大神の弟とされる、牛頭天皇(スサノオ)の名が記されているのも事実で、すると賀茂健角身命(カモタケツのミのミコト)を祀る山城国一宮・上賀茂・下鴨の両神社と、紀州・熊野権現社は同じ葛城御門(葛城朝)からの出自が想起されるべきである。
藤白鈴木家に伝わる系図には、饒速日命(ニギハヤヒのミコト)の子孫、千翁命(チオキナのミコト)が神武天皇に千束の稲を献上したので穂積の姓を賜った。
そして、この時榔(ナギ)の木に鈴をつけて道案内をしたので後に穂積国興の三男・基行が鈴木を称するように成り、その鈴をつけた椰(ナギ)は御神木となった。
ヒョットすると賀茂家と鈴木家が同族で、その元になった「葛城家と物部家も同族」と考えるとその辺りの謎が全て解ける事になる。
つまり葛城御門(葛城朝)から、職掌としての武器を管理する物部氏(もののべし)と神事・呪術を管理する賀茂氏が別れ出た。
しかし物部氏(もののべし)も元は葛城氏族であるから、その一部が紀州・熊野の地で穂積・鈴木氏として武士兼神主になったのではないだろうか?
熊野・鈴木氏は、熊野水軍の棟梁家としても有名で、伊豆・賀茂葛城氏族の海の民とも符合し、その交流も時の政権とは関わりなく相互に永く続いている。
「家康殿の家紋、賀茂家の葵紋と見ましたが。」
「いかにも、三河松平は賀茂葵でござる。」
「それがし明知の紋は、土岐桔梗でござれは、互いに密教修験のお血筋と言う訳ですな。」
「なるほど、それは上々、互いに近しくせねばなるまい。」
戦国時代の戦乱は「領主同士の国の取り合い」と言う様な単純な物ではない。
宗教戦争の意味合いもあり、支配者の血統と非血統の争いでもあった。
それらが絡み合いながら、覇権を争っていた。
畿内、伊勢、紀州、の山々は、古来の深山霊場であり、修験者(山伏)の庭だった。
そして、山岳独特の風土が育っていた。
伊賀の(里)国から難波の国にかけて、悪党と呼ばれた楠木正成以来の独立独歩の風土が存在した。
伊賀衆、甲賀衆、雑賀衆、根来衆、などと呼ばれた領主を持たない修験系郷士の独立武装組織である。
後の徳川将軍家の兵法指南役、柳生新陰流で知られる剣豪・柳生の里は奈良市の東北部にありその先は隣の伊勢の国伊賀甲賀に続く自然豊かな山里である。当然の事ながらこの多くの山里は、武術の里々で、そのルーツが修験者にある事は間違いない。
この独立組織の紀伊半島の独自の支配は、「天下布武」を目指す信長にとって目障りな存在だった。
彼らが領主を持たず一地方を運営し、傭兵としてどちら側にでも味方をする封建制度に於いて無秩序な存在だったからである。
しかし一方では、彼らの並外れた諜報能力と戦闘能力を自在に操る明智光秀を重用した。
信長が認めた光秀の隠れた能力は、すなわち光秀の源氏に繋がる血筋の顔の広さで有るが、表は朝廷・公家・足利将軍家であり、裏は根来衆・雑賀衆・甲賀、伊賀の傭兵国人集団戸の繋がりだった。
この光秀の人脈の強みに、秀吉は出世合戦で絶えず遅れを取っていたのだ。
天正九年(千五百八十一年)九月、伊賀国人の掃討を目論んだ織田信長は、凄まじい勢いで伊賀国に攻め込んだ。
信長軍は伊賀の六ヶ所の入口から四万の大軍で攻め、伊賀の国人衆達は必死で抵抗したが、多勢に無勢で次々と敗れ二週間で伊賀全土は平定された。
この伊賀攻めに拠って、伊賀国は七堂伽藍に至るまで、全ての施設が焼き払われ、灰燼に帰していた。
しかし明智光秀は、密かに伊賀の残党を援助し、助けている。
家康の伊賀越え(本能寺の変後)は、その翌年の出来事である。
徳川家の歴史書には便宜上「神君伊賀越え」と称されているが、それらには源氏の末裔を名乗った徳川家の表向きに対する「嘘」が存在した。
また、密約で影に廻った明智光秀の事を抹殺する必要があったからだ。
天台宗と徳川家(三河・松平家)には実は切っても切れない関係があった。それが、天台宗の本山派(天台山伏)の存在だった。
その天台宗の僧侶として、徳川家が重用したのが南光坊・天海僧正で有る。
明智光秀は山崎の合戦後、天台宗の比叡山・延暦寺に逃れ、南光坊と名乗り隠棲する。
天台宗の祖は伝教大師 最澄である。比叡山・延暦寺は、天台宗の総本山である。
京都の鬼門にあたる北東に位置する事もあり、比叡山は王城鎮護の山とされた。
その後、円仁、円珍の活躍により、密教が極められ、現在の天台宗の形が完成する。
明智光秀(南光坊・天海僧正)と徳川家康には、実は長い宗教的歴史に於いて、庶民の出自である秀吉などには、預かり知らない繋がりがあった。
そして、天海僧正は風水学などの方位に通じ、密教の諸学問を修めていた。
真言密教の本拠の一つに、高野山・根来寺がある。根来寺は、平安末期の千百三十二年、興教大師覚鑁(こうぎょうだいしかくばん)上人が、高野山に大伝法院を建てたのが源流である。
上人は二十歳の頃に高野山に入りたが、その名声や地位が高まると、元々高野山にいた僧侶の反発を招いた。
上人は争いを避け、当時の地位をすべて弟子に譲って根来の地に移り、千百四十三年に世を去った。
妙見信仰と真言宗及び天台宗の僧兵や陰陽師修験者が習合して、山伏が生成され、その教理を全国津々浦々に運んで行く。
その本拠の一つが、真言宗の根来寺であり、その僧兵から名高い根来衆が生まれた。
根来衆は「忍者」と解されるいるが、修験道の山伏(僧兵)が正しい。
布教と、民を祟り病から救う呪詛の業、そして修験者根来衆の別の顔は、山師(鉱脈師)であり、踏鞴を用いる鉄精錬師である。
当然の事ながら、全国の情報も集ってくるから、諜報能力もある。
新義真言宗総本山、大治元年に建立された根来寺は、室町時代になると、九十八院、僧坊二千七百坊、寺領七十万石、僧兵数万となり、紀伊・和泉・河内に一大勢力を誇った。
ちなみに後の織田信長が、尾張を平定、岐阜城を斉藤氏から攻め取った段階の尾張、美濃二ヵ国の合計が八十万石程度である。
根来寺を本拠地とする根来衆がいかに強大な勢力で有ったかが判る。
どうも現代の映像の作り手にすると、一目で見る側に説明が付き易いので、安易にお決まりの衣装を決めているが、よく知られる僧兵の根来衆は、一般的なイメージの頭巾(ずきん)と黒装束の忍者姿ではなく、実際はザンバラ髪で兜や鎧を着けていた。
昼間から忍者姿で行動するなど、奇妙な事はありえない。
もっとも、完全に寺を護持する僧兵は頭巾(ずきん)をし、僧形の衣を身に着けていたのを戯作者が意図的に混合したらしい。
現実には、平服で市井に溶け込む方が余程正体は判り難い。
伊賀衆、甲賀衆、などもこの類で、平常「私は忍者です」みたいな服装をする訳は無く、彼らは武術の修行を積んだ山里の国人武士である。
彼ら山里の国人武士が、天台宗の本山派(天台山伏)、真言宗の当山派(真言山伏)と習合して呪術(呪詛)を含む多くの技と知識を駆使していた事を「忍術」と評したのであろう。
根来寺の僧兵は、種子島から鉄砲生産の技術を得て、新兵器鉄砲をいち早く取り入れた強大な武装勢力であった。
鉄砲については、根来寺にいた杉之坊が、津田監物(けんもつ)を種子島に遣わして鉄砲を入手し、根来坂本の鍛冶師「芝辻清右衛門に作らせた」との伝承がある。
つまり当時の渡来近代兵器「鉄砲生産基地」が、それこそ根来衆の別の顔、山師(鉱脈師)、踏鞴鉄精錬師、鍛冶師の範疇で「国産化された」と言う訳である。
根来衆は、この鉄砲生産技術を独占化して自らも武装するとともに、兵器産業として大きく稼いでいた。
この渡来近代兵器「鉄砲および砲筒」に目を付けたのが、雑賀衆と虚け者(かぶき者)の織田信長で、早くからこの鉄砲および砲筒の威力に目を付け、雑賀衆の本拠地、堺から鉄砲を購うと同時に、戦闘に際して「鉄砲傭兵集団・雑賀衆」をしばしば雇っている。
処が、「織田信長」が「一向宗」の総本山である「本願寺(家)」 と対立、「織田家」と「本願寺」は全面戦争に突入する。
雑賀衆 にはこの 「一向宗」 の門徒(信者)が多く、一向宗 のお寺も数多く建てられており、本願寺の本拠地である 大阪(石山) にも近かった為、本願寺とは友好的な関係にあった。
その為、「雑賀衆」 は 本願寺 の要請を受け 織田信長の軍勢と戦う事になる。
この時、鉄壁を誇った「雑賀衆」と「根来衆」の連携が一時的に分裂する。
「根来衆」が、実は「根来寺」と呼ばれる 「真言宗」と言う仏教のお寺を中心とした宗教勢力だったからだ。
つまり、「一向宗」である本願寺と宗教的には別の仏教な訳で、つまり「ライバル」だった。
この為「根来衆」は織田側を支援、この影響で根来衆に近かった雑賀衆の幾つかの小勢力も、織田家に味方する事になる。
信長の奇想天外な勝つ為の知略例に、鉄鋼船がある。千五百七十年(元亀元年)信長は逢坂の本願寺攻略を始める。
しかし、本願寺攻めに絡んで敵対した瀬戸内海最強の村上水軍(村上源氏の枝)の海上支援に手を焼いた信長は、伊勢水軍の九鬼義隆に、当時の常識を翻して鋼鉄の装甲を施す事を命じた。
その時代、「鋼鉄船が海に浮く」と言う考え方は世界中に無かった。
千五百七十八年(天正六年)、その鋼鉄船六艘が二百艘の村上水軍を破り、本願寺は攻略された。
織田信長の没後、天下統一を進める羽柴秀吉の約十万の兵による紀州攻めにより、根来寺は全山が炎上する。
信長には好意的であった根来衆も、言わばその権力の継承者である筈の秀吉には、何故か反抗的な態度をとる。
しかしこれには理由が在った。
根来衆が信長側で有った訳は、明智光秀との縁が深かったからで、農民の出自である秀吉など縁も所縁も無い。
根来寺は、紀伊のみならず河内や和泉の一部にもその勢力を及ぼしていたのだが、秀吉がこれらの利権を認めず「取り上げようとした」為である。
更に、天正十二(千五百八十四)年三月に秀吉方と徳川家康・織田信雄連合軍との間で行われた「小牧の戦い」の直前には、南光坊(光秀)の政治工作によって太田党を中心とした根来衆・雑賀衆が家康に加担していた。
これが紀州(根来衆・雑賀衆)征伐の一番大きな原因だったのかも知れない。
この家康に対する根来衆・雑賀衆の加担には、南光坊(光秀)の知略もさる事ながら、松平一門に対する修験道の血脈の裏付けがある。
伊豆の国(静岡県)賀茂郡以外にも賀茂(加茂)をかざした郡(こおり・ぐん)は別に四ヵ所ほど、愛知県加茂郡、岐阜県加茂郡、新潟県賀茂郡、広島県賀茂郡 として全国に存在した。
その事が、「賀茂一族の広がりを示している」と考えられる。
しかし平成の大合併で全ての郡が消滅している。
その一つが三河の国(愛知県)加茂郡で、三河松平家(徳川家)発祥の地である。
何度も言う様だが、元々神社は氏族の祭り神であり、上下の賀茂神社も葛城(賀茂氏)の氏神で、宮司(神官)と武士に境はなかった。
賀茂社の神紋は、賀茂祭の別名「葵祭」でも知られるように「葵」である。
そこから、賀茂神社の氏子や当社を信仰する家々の家紋として用いられるようになった。
江戸幕府将軍家である徳川家の祖は三河松平氏を名乗り、「賀茂神社の氏子であった」と言う。
言うまでも無いが、この氏子は「氏の子つまり子孫」と言う意味である。
また、近世大名本多氏(徳川・三河松平傍流の家臣)も「賀茂神社の神官と関係があった」と伝え、いずれも葵紋を用いている。
つまり、修験道の祖「役小角(えんのおづぬ)」と三河松平家は祖先を同じくしているのだ。
この関係は、本能寺の変当時の家康の伊賀山中突破が、実は根来衆・雑賀衆・伊賀衆の連携支援に生かされる。家康は、信長の招きで僅かな供回りを連れ、五月に安土城を訪れた後、堺(雑賀衆の本拠地)に滞在した。
六月二日朝、本能寺の変の報を聞き、山城・近江・伊賀の山中を通って伊勢へ抜け、伊勢湾を渡って本国三河に戻った。これを後に「神君伊賀越え」と称される。
後年「神君のご艱難」と称される家康最大の危機であるが、光秀の息が掛かった伊賀超えの山中を小人数の供回りで出突破した事は、多分に怪しい。
実はこのエリア、明智方の郷士が乱立する地域だったのである。
その後の「小牧の戦い」に於いて、光秀と縁が深かった根来衆・雑賀衆が家康に加担した事からして、「光秀と家康の密約の結果だった」と言う疑いを感ずる話で有る。
「殿、明智殿より早馬で密書が参りました。」
堺に逗留していた家康の前に、光秀の親書を携えて来たのは伊賀の棟梁、服部半蔵であった。
「何、これは大事、急ぎ三河に戻るぞ。」
「殿、何れの道を戻りますか?」
「明智殿が手配の伊賀超えじゃ。」
この時、家康の苦難の伊賀越えに協力したのが光秀の命を受けた伊賀衆である。
その際の伊賀の棟梁、服部半蔵の功で江戸城に「半蔵門」が作られている。
「違い矢」「並び矢」など、矢紋の家紋を広めたのは服部氏である。
服部は伊賀国阿拝郡服部郷が苗字(名字・なえあざ・知行地の古い呼び名)の発祥地で、俗に言われる諜報を目的とした忍術の祖ある。
弓矢の歴史は古く、狩猟や戦場の武器として利用されて来た。
岡崎市に伊賀町と言う地名がある。
その東郷中(ひがしごうなか)に三河松平氏の祈願神社、伊賀八幡宮がある。
つまり三河松平氏は、伊賀とは元々強い関わりがあるのだ。
経緯を言えば、松平第四代親忠が、武運長久と子孫繁栄を祈願する氏神として、伊勢の国伊賀郷から八幡神社を移設した。
松平氏が賀茂神社の氏子と言う修験道の血脈が、この移設を可能にしたに違いない。
第九代の松平元康(家康・初代徳川)にしてみれば、伊賀は先祖代々の所縁の地である。
伊賀山中突破の「神君のご艱難」は、大げさな手柄自慢では無いだろうか?
いずれにしても、その後天下を取った秀吉の手法は信長の武力圧制政策をなぞっていた。
興味深いのは、小牧・長久手の合戦が、周知の理解として「あくまでも秀吉と家康の間のものとして捉えられている」と言う事である。
これは他の資料もそうで、本来の一方の主役は家康では無く「信長の息子信雄」のはずなのだが、根来衆・雑賀衆(紀州)側も世間も、家康が主役と見ているのである。
つまり家康の手が、これ以前から「太田党を含めて根来衆などにも伸びていた」と考えられる。
この裏には、源平合戦時に三河の国足助に家を興し、その後三河松平氏に従った鈴木家の存在を忘れてはならない。
江戸幕府では旗本衆に残ったこの鈴木家は、元は熊野の雑賀衆鈴木党総領三郎重家が、源義経の身を案じて吉野山中より従い討ち死にした時の身内が三河鈴木党として郷士化して小城主になったものだ。
いずれにしてもこの鈴木家、家康の配下として、吉野熊野伊賀に強い関係があったのは言うまでもない。
そして天正十三(千五百八十五)年三月、秀吉は紀州(根来衆・雑賀衆)征伐に向かった。
「先に根来寺を焼き払い、続いて太田城と小雑賀中津城を攻めよ」の号令の下、十万の大軍が紀州勢に攻めかかった。
当時の根来衆全体の統率者は、河内国交野郡津田城主で楠木正成の末裔を自称していた津田周防守正信の長男算長(かずなが・監物)を頭とする津田一族だった。
同年同月、僧兵大将津田監物、杉ノ坊照算などが討ち死にする。主将の討たれた根来寺にもう余力はなく、二〜三の堂宇を除いてほとんどが炎上、焼失した。
この炎と共に、戦国をその優れた鉄炮軍団をもって駆け抜けた傭兵集団・根来衆も滅び去ったのである。
泉識坊など一部の僧兵大将はかろうじて脱出し、「土佐へ落ちて行った」と言う。
秀吉にとって、根来、雑賀、甲賀、伊賀は、明智方の勢力であり、明智亡き後、徳川と結び付くのを最とも恐れた相手だったのである。
南光坊天海は、徳川将軍三代に渡る知恵袋である。
そして、突如歴史の表舞台に姿を現す。
天海、光秀説は、随所に光秀生存(正史では山崎の合戦で、土民に竹やりで討たれた事に成っている。)を思わせる証拠が数多く残されているからだ。
天海僧正には「千里眼の超能力があった」と言う逸話がある。千里眼とは、言うまでもなく遠方の出来事を見通す事のできる能力だ。
天海の別名「慈目大師」の由来ともなったのが、この千里眼である。
天海はほとんど喜多院に住んでいたが、江戸城中で起こった事や家康のいる駿府城(静岡市)の出来事を事ごとく知っていた。
時折半眼になって、そうした事を納所坊主に話して聞かせたが、後で確かめてみると、「全て天海が言った通りだった。」と言うのである。
読者にはもうお分かりだろうが、天海が光春(二代目・光秀)であり、伊賀衆の諜報機関、服部半蔵以下を操れるからこその能力では無いだろうか?
天海僧正が明智光秀ならば、光秀は妻・妻木(勘解由/かでの)煕子(ひろこ)の縁もあり、織田家の諜報組織の全てを受け持っていた今で言う情報局長官みたいな立場だった経歴の持ち主で、天海僧正の「千里眼」は容易に納得でき不思議な事ではない。
その光秀の諜報組織を、光春(二代目・光秀)が「ソックリ受け継いで居た」とすれば千里眼など造作もない。
伝わる奇跡の正体は大方そんなものであるが、正体を知らなければ恐ろしい能力を持つ「大師・大僧正」と畏怖され、信仰されるようになる。
そして明智光秀=天海僧正説最大の疑惑の象徴が、明智平に在る日光東照宮の存在だった。
前述した様に天海は、家康没後、一旦駿府の久能山(東照宮)に鎮座させた家康(大権現)を、日光山に移している。
日光の位置も、風水上の江戸の要であると同時にその建設には、いざ江戸落ちに際しては要塞と化す工夫がなされていた。
つまり日光は、徳川幕府にとって誰も否定出来ない極めて重要な施設である。
その日光東照宮を守る陽明門(日の当たる明智の門?)の、木造の武士の紋は、明智の家紋「桔梗紋」である。
近くの鐘楼のひさしの裏にも、おびただしい「桔梗紋」が見受けられる。
徳川の墓所であるのに「葵紋」以外に、いたる処に「桔梗紋」が隠されているのは何を意味するのか。
また、日光東照宮造営に先駆けてテスト造営され、「家康が寄進した」とされる秩父神社の社殿と言うのがある。
この秩父神社・本殿の、東照宮に負けない豪華な極彩色の彫刻の中に、何故か「桔梗紋」を着けた僧侶の姿が掘り込まれている。
この秩父神社の、創建は古く、知々夫国造・知々夫彦命(県主)が先祖の八意思兼命を祭った。
秩父妙見宮、妙見社などと呼ばれて、実は関東妙見信仰の中心的役わりを担っていた。
その秩父神社に、天海僧正が東照宮建造の予行演習的社殿を家康の為に造営している処からも、家康と天海の宗教的DNAが、密かに山岳(山伏)信仰にある事が推測される。
家康が漢方に通じていた所も、陰陽師(修験山伏)の出自(子孫)らしいではないか。
秩父神社の近くにも、慈目寺や明智寺が存在する。
これは多くの謎である。
「明智平」の命名と言い、天海が明智に関わりがあり、しかも秀忠が日光陽明門の「桔梗紋」を容認している所が、今日の歴史好きたちの想像意欲を、掻き立てるのだ。
そしてこれも明智光秀=天海僧正説の一つの検証になるのかも知れない重要な要件なのだが、光秀が「匿まわれていた」とされる比叡山松禅寺には、光秀没後三十三年目の年に「願主・光秀」つまり「光秀が寄進した」と彫りこんである石灯籠が存在する。
大阪岸和田に、「本徳寺」がある。
この寺の開基は、年号的には光秀没後三十一年目である筈が、この寺を寄進したのが光秀本人となっていて、肖像画も残されている。
江戸城(現皇居)の門の中に桔梗門(別名、内桜田門)と呼ばれる門がある。門の瓦に太田道灌の家紋「桔梗」が付いていたので、「桔梗門と言われた」とする説があるそうだが、天海僧正の明智光秀説が証明されれば、もう一つ説が浮上する。
桔梗門は江戸城三の丸の南門にあたり、大門六門の一つとして厳重に警備され幕府の要職者が登下乗する門だった。
つまり、天海僧正は、この門を利用していた事になる。
門の前には桔梗門橋が架かっていて、門前の掘割は桔梗濠と呼ばれている。
天守閣が明暦の大火(千六百五十七年・振袖火事)で焼失した後、幕府の財政難などの理由で再建されなかった為、この桔梗門の富士見櫓が天守閣の代用とされた。
天海の別名「慈目大師」の名を持つ京北町周山の慈目寺には、光秀の位牌と木造が安置されている。
それらは、おびただしい光秀の亡霊だが、今となっては、生き延びた本人なのか、一族の誰かの手に拠るものかは、特定できない。
しかしながら、天才信長に挑み続けた、天下の秀才がいた事は、事実である。
これらを検証し、光秀の知略に思いをはせる時、我輩には光秀渾身の天下取りが浮かんで来る。
大逆転である。
天下を取ったのは、人知れず清和源氏の末裔「土岐流れ明智一族」と言う事に、なるのかも知れ無い。
徳川四代将軍・家綱と五代将軍・綱吉に共通する「綱」の字についても、明智光秀の父「明智光綱の名から取った」と言う説があるが、それとて明智光忠が二代将軍・徳川秀忠と同一人物であれば至極判り易い話なのである。
この物語で重要なポイントになる、明智光春、明智光忠について、少し書く。
明智光春(あけちみつはる)は、明智光忠同様に織田信長に重用された明智光秀の家臣で、こちらの方は確り記録があり明智光秀の叔父に当たるとされる「明智光安の子である。」とされているが、明智光春には現在二つの説が有る。
一つは明智光安の子で、光秀の従弟、一つは三宅弥平次と言う名で、光秀の娘婿となり、明智の姓を名乗ったとする説である。
この二つの説から選ぶのが通常なのだろうが、何しろ戦国の世で、これが始めから二人居て謀略の為にそれぞれ入れ替わり、しかるべきに収まったのなら辻褄が合うのだ。
つまり、この明智光春も謎の多い人物で、「明智軍記」などの物語にのみ登場する人物であり誰かをモデルに作られた可能性はあって実在の人物かは確証がない。
伝えられる所に拠ると、明智嫡流だった光秀の父・が早世した為、光春の父・明智光安が後見として明智・長山城主を務めていたのだが、斎藤道三と斎藤義龍親子の争いに敗北した道三方に加担した為、義龍方に攻められ落城する。
光安は自害するが、光春は光秀や光忠らとともに城を脱出して浪人し、年長・明智嫡流の光秀を盟主として一族で行動する。
盟主・光秀が織田信長に仕えると光春は光秀に従って各地を転戦し、武功を立てて丹波国に五万石を与えられた。
光春の妻は光秀の次女で、荒木村重の嫡男村次に嫁いでいたが村重謀反の際に離縁され、光春と再嫁した。
光秀が織田信長を討った本能寺の変では、光春は先鋒となって京都の本能寺を襲撃し、変事の後は安土城に回ってこれを占拠し守備につくが、羽柴秀吉との山崎の合戦で光秀が敗死すると「坂本城に移って自害した」とされるが、替え玉が容易な時代でこれも確たる自害の証拠は無い。
巷に流れる光秀生存説を採れば、野に下った光秀に光春が最後まで従った可能性も否定出来ない。
明智光忠(あけちみつただ)は織田信長に重用された明智光秀の家臣で、明智光秀の叔父に当たる明智光久又は明智光安の子であるとされるがどちらの子か定かではない。
丹波国八上城主とされる戦国時代の武将で、光春と同様に妻は光秀の娘を娶っている。
光忠は、織田信長の陪臣時代に丹波過部城攻めの功績で織田信長より感書を下される手柄を立てている。
千五百八十二年(天正十年)の本能寺の変では、信長の息子の織田信忠らが篭る二条御所を攻撃し、その際に鉄砲で撃たれ重傷を負い知恩院で療養していたが、同年山崎の戦いで主君・光秀が羽柴秀吉に敗れ討ち死にした事を知ると「自害して果てた」と伝えられている。
明智光忠にも次郎四郎、次右衛門、などの名前がある。
この明智光忠(あけちみつただ)は実在していたのは事実であるが、しかし「自害して果てた」と伝承されているだけで墓も残っておらず、光忠の事自体公式記録や一級資料にも残っていない。
最後は、丹波八上城(周山城)主であったが、これも早い時期からの身代わりとも考えられる。
彼にも従弟説と娘婿説が存在し、結論がでないのだ。
それどころか光忠は、明智光久(又は明智光安)の子では無く「美濃の百姓の出自」と言う異説まで存在する。
そこで考えられるのが、明智光忠は途中で入れ替わっており、前期の光忠は確かに明智光久(又は明智光安)の子で光秀とは従兄弟だったが、後期の光忠は「美濃の百姓の出自」と言う可能性も出て来る訳で、それなら本物の明智光忠が徳川秀忠に化ける筋書きに信憑性が出て来るのである。
かりに、江戸初期の天海僧正が、疑われているように明智光秀または明智光春などの明智の者であれば、伝記は、「いかようにも書ける」と考えられ、そこに秘匿すべき物があれば然るべく書き表されてのである。
つまり信長の、血統至上主義を破壊して織田新帝国を成立させる構想は明智光秀に阻止されたが、その目論見の残滓(ざんし)が江戸幕府の中枢に信長の怨念のごとく残ったのかも知れない。
そしてこの事が、二代将軍・秀忠と怪僧正・天海、大奥筆頭・春日局の三人が密かに同じ明智一族に繋がる血統の持ち主と言う疑惑を生み出したのである。
(系図・双子竹千代)
◇◆◇◆(系図・双子竹千代)◆◇◆◇◆
遅くなったが、徳川家の出自について少し触れる。
と言っても、松平家そのものにはたいした物は無い。
ただ、徳川家初代・徳川家康の前半生と、その家康が突然清和源氏流を名乗った事には謎が多い。
徳川家が三河の一土着豪族だった頃に名乗っていたのは松平姓で、本来は枝のまた枝の賀茂氏の出自で有る。
三河松平氏は、室町時代に興った三河国加茂郡松平郷(現在の愛知県豊田市東部)の在地領主の小豪族だった。
発祥の地名が加茂郡で、家紋は賀茂神社と同じ葵紋である。賀茂氏と関わりがあるのは明らかである。
しかし、徳川家(松平)については、信長式の平家系図の捏造的な物と同じような話しで、さして松平家との脈略は認められないが、新田源氏・世良田系の系図があるだけである。
つまり、松平・氏(まつだいら・うじ)賀茂朝臣・姓(かもあそん・かばね)が本来の氏姓(うじかばね)であるが、賀茂朝臣(かも・あそん)では武門の棟梁にはなれない。
松平元康(家康)は、「三河の守」を名乗るにあたり、源氏一族の新田氏支流の世良田氏流の「得川氏の子孫」と称して「徳川」を名乗るが、決定的な証明は為されていない。
それでも、賀茂朝臣・姓(かもあそん・かばね)松平・氏(まつだいら・うじ)は、棟梁に値する旗頭である。
それなりの血筋に産まれたばかりに、源頼朝同様に多感な時期を人質の身として過ごした松平元康(徳川家康)は、周囲に味方無く、孤独の中で心傷付き育った筈である。
その松平元康(徳川家康)に、織田信長は彼特有の閃(ひらめ・感)きで「何か」を見ていた。
その信長の感は、不幸な結末では在ったが、浅井長政を見出した時も同じだった。
三河・松平家は、けして新田源氏・世良田系などではない。
家康が、ひたすら漢方を頼って、執念で秀吉より永く生き延びたのは、正しく賀茂家の修験秘伝を受け継ぐ者だったからに、違いない。
三河・松平氏(まつだいらし)は初代家康が創設した徳川氏の旧姓で、室町時代に興った三河国加茂郡松平郷(愛知県豊田市松平町)の在地の小豪族である。
この加茂郡と言う地名と言い、賀茂神社に繋がる「三つ葉青いの紋」と言い、賀茂氏の出自と見る方が妥当である。
賀茂氏は室町時代には勘解由小路家(かでのこうじけ)を称したが、総本家は「戦国時代に断絶した」とされる。
しかし支流は草となって全国に散り、その有力な一つが美濃国妻木郷・妻木勘解由家(つまきかでのけ)と三河国加茂郡松平郷・松平家(まつだいらけ)である。
承久の乱の後に三河守護に任命された足利義氏(鎌倉幕府)が、矢作東宿(岡崎市明大寺付近と推定)に守護所を設置したと推定されている。
松平氏が土着居住した三河国は室町幕府時代末期は細川氏が守護職だったが、守護大名・細川成之(ほそかわしげゆき)は阿波国・三河国・讃岐国の守護を任じていた為に守護代を置いていた。
千四百七十八年(文明十年)以後、文献に拠る明確な三河守護は不明となり、三河の支配権は混沌とする。
記録によると松平氏は応仁の乱頃には室町幕府の政所執事を務める「伊勢氏の伊勢貞親に仕えた」と言われ、額田郡国人一揆が起きた際は伊勢貞親の被官として松平信光の名が見え、伊勢貞親は松平信光とその縁戚にあたる戸田宗光(全久)に国人一揆を鎮圧させている。
三河松平氏の第三代当主・松平信光は賀茂朝臣を称していた三河国の土豪かつ被官で、応仁の乱頃には室町幕府の政所執事を務める伊勢氏の「伊勢貞親に仕えた」と言われる。
この松平氏、三河国加茂郡松平郷に土着した賀茂氏系の土豪だが、松平氏は徐々に勢力を広げ、家康の祖父・松平清康の頃にほぼ三河国を平定して戦国々主武将に成り上がっていた。
とは言え当主・松平広忠は、東隣は駿河国(するがくに)、遠江国(とおとうみのくに)を擁する大国今川氏、西は尾張国(おわりのくに)の織田氏に挟まれて国主の座を維持するに腐心していた。
そこで広忠は、織田氏に対抗する為に今川氏を味方につける事を策して継子・松平竹千代(後の徳川家康)を駿河へ人質に出す事を決した所から、松平竹千代の波乱の生涯が始まるのである。
織田信長との清洲同盟が成って勢力と後ろ盾を得た家康が、三河統一の後に朝廷より「三河守」任命と「徳川氏」を名乗る事を認められている。
この任官の時と征夷大将軍に補される時に、源氏出身でないと武家としての叙任の慣習に添わないので「便宜上系図を作った」と言うのが、もっぱらの説である。
いずれにしても源氏の後裔は自称程度の話で、松平家の出自は定かではない。
しかし徳川家が天下統一後長く太平の世を維持し、日本の平和に貢献した事に何の代わりは無い。
江戸幕府を開いて「天下人」と成った実力者・徳川家康の幼少期、松平竹千代(まつだいらたけちよ/徳川家康)には、大久保(彦左衛門)忠教によって書かれた「三河物語」ではまるで説明が着かない不可解な史実が随所に存在する。
大久保忠教の「三河物語」は、「他の文献の事実と食い違った記述も多い」と評価されているが、それを単なる「手前味噌の脚色」として安易にかたずけて良い物だろうか?
家康の生い立ちから「天下人」に成るまでの過程が、余りにも「奇想天外であった」とすれば、それを表ざたには出来ない「三河物語」が他の文書との辻褄が合わなくて当たり前ではないだろうか?
竹千代(家康)は千五百四十二年(天文十一年)十二月、父を三河松平家当主・松平広忠、母は正室・於大(おだい)の方の間に出来た嫡男として産まれた。
実はこの出産、三河・松平家にとって密かに「大事件だった」のである。
難産の末この世に産まれ出た嫡男に続いて、半刻に満たず今一人男子が生まれてしまった。
立ち会っていた重臣・本多家と鳥居家の女房の二人は震え上がって主君・松平広忠にその儀を伝えた。
松平広忠は直ぐに決断した。
永く血統主義にあるこの国では後継騒動を恐れて忌み嫌われる双子だが、二人とも愛しい我が子である。
片方を密かに始末するは余りにも酷(むご)い。
「作左と忠吉(鳥居元忠の父)をこれに呼べ。」
「負かり越しました。無事御嫡男誕生との事慶賀の至り、お館様にはおめでとうござりまする。」
呼ばれた重臣の本多(作左衛門)重次と鳥居忠吉(鳥居元忠の父)が、何事かとはせ参じる。
「めでたい。めでたいが作左、困る事が起きた。」
「さて、お館様がお困りとは如何なる事でござりましょう。」
「作左、忠吉(鳥居元忠の父)、世継ぎが一度に二人に成った。」
「世間では不吉とされますで、それは確かに困りましたな。」
「予は一人を影預けにして二人とも育てたい。」
「合い判り申した。しからばもう一人の方は、この鳥居元忠にお任せを・・」
「それで良いか?」
「影様にも、この松平のお家の役に立って頂く時もありましょう。」
「如何にも、如何にも、この作左も同意でございます。」
「合い判った。嫡男の傅役(お守り役)は作左衛門(本多重次)に、今一人は(鳥居)忠吉に影預けをする。良いか、この仕儀他言無用ぞ。」
「心得ました。家中にも洩らしませぬ故、御安堵めされ。」
唐突な話であるが、血統を特に大事にしていた長い氏族の時代でも、双子(一卵性双生児)が生まれる事があった。
これが当時としては、信仰上も氏族社会の構造に於いても、いや、血統至上主義であるからこそ、お家騒動の火種になる。
双子誕生は、占い吉凶の卦として不吉と忌むべき「タブー」とする一大事で、世間に知れたら大変な事になる。
ましてや一端(いっぱし)の大名家、武門の旗頭の嫡男として「二人同時に産まれた」としたら、密かに処理するしかない。
それで松平家では、片割れの一人を密かに家臣の鳥居家(鳥居忠吉)に預けて、傅役(お守り役)とし内密に育てさせている。
その傅役(お守り役)こそは、後に石田三成との関が原の合戦に於ける前哨戦・伏見城の戦いで、家康の命令に進んで捨て駒となり、伏見城を守って討ち取られた、あの徳川家忠臣・鳥居元忠の父である。
この双子の片割れを「密かに育て様」と言う内密の傅役(お守り役)は、この時代別に不思議な事ではない。
時代背景を考えれば、双子に生まれた者に対する当然の処置だが、何しろ棟梁家の嫡男である。
御家の為には、もしもの時のスペアーとしては双子の嫡男は最良の存在で、存在を隠しながらも粗末には出来ない。
それ故、もっとも信頼の置ける家臣にその実子として預けるのが一般的だった。
嫡男が無事に育てば、もう片方はそのまま「その家臣の子として」本家に仕えさせれば良い。
何しろ影武者には「うってつけ」なのだ。
つまり後に名を挙げる鳥居元忠とは、一時期兄弟の様に育った可能性もある。
もう一人の家臣の鳥居家(鳥居忠吉)に影預けされた竹千代の方には、不思議にも影のように付き纏(まと)う男達がいた。
最初は、松平広忠の「密命を帯びているのか」と思ったが、そんな生易しいものではなかった。
この戦乱を収めるエースを育てる為に、畿内、東海の影人達が一斉に、密かに動き出していた。
日本の永い歴史の中で、当時誰もが無条件で納得出来るのは「血統」で、もう一人の竹千代は賀茂族の末裔として、帝王に育てられる宿命を負っていたのである。
群馬県太田市に「徳川町」と言う地名がある。長く上野国新田郡「得川(えがわ、或いはとくがわ)郷」と呼ばれていた。
新田義重の四男義季が、得川郷の領主となって新田次郎と称し、父義重から新田郡世良田郷(太田市世良田町)も譲られ、その嫡男・頼氏が世良田郷を継承して世良田氏を興し、世良田頼氏称した。
その時得川郷は、世良田頼氏の庶兄・頼有が継承し得川(えがわ)四郎太郎と称して得川(えがわ)家を起こした。
「得川」は本来は「えがわ」と読んでいたが、後に「とくがわ」と読むようになり、系図上では新田氏系得川氏の末裔と言う事にされていて、系図上徳川将軍家の前身世良田・得川氏「発祥の地」と成っている。
ちなみに、家康の墓所・東照宮廟は、この近くの日光山に天海僧正の手に拠って祭られている。
得川頼有は、娘の子である岩松政経に得川郷を含む所領を譲り、これにより得川郷領主の得川氏は女系の岩松氏に代わった為に父子二代で消滅していたのだが、それが突然三河国で復活した事になる。
この系図のカラクリをどう読み通したら、合理的な説明が着くのだろうか?
この謎に取り組むと、三河松平家と世良田・得川氏に、たった一つだけ心当たりの「接点」が浮かび上がった。
松平元康(幼名・竹千代)は幼少(五〜六歳の頃)のみぎり、松平家の勢力が衰えた事から今川家の勢力に圧迫された父・松平広忠は尾張国の織田信秀に対抗するため駿河の今川義元に帰属し、竹千代は忠誠の証として今川義元の下へ人質として駿河国府中へ送られる。
所が、その旅の途中、途中立ち寄った田原城城主で義母の父・戸田康光の謀略により浚(さら)われ、今川家の反勢力である尾張の織田信秀の元へ送られる。
送られた尾張で当時十四歳の信長と知り合い、竹千代(たけちよ)は八歳までの幼少時代の一時(二年間)を織田家に在って弟分として過ごし人質ながらも信長と「竹馬の友」で育った事に、表向き成っている。
その時二人を見守っていたのが、信長の傅役(お守り役)・平手政秀である事は容易に思い当たる。
この人質が、種を明かせばそもそもスペアーとして密かに鳥居家にて育てられて居たもう一人の影・竹千代だったのである。
この平手家が、名門・新田(にった)源氏・世良田系だった事から察するに、松平家が、「得川家」を突然名乗り始め、朝廷に願い出て「徳川」と改姓し、三河・松平家は征夷大将軍の有資格家・源氏の傍流に収まったには、どうやら平手政秀の存在が、「その企てに在ったのであろう」と、我輩は推察する。
「お館様、お申し付け通り、家康殿(竹千代・徳川家康)の得川の系図を作らせましてござる。」
信長の傅役(お守り役・教育係)であった重臣・平手政秀が報告に来た。
織田家で密かに育てられたもう一人の松平影・竹千代は、今川家に在る松平竹千代が元服して松平元康を名乗る頃には、平手家養子として平手家康を名乗っていた。
「出来たか爺(平手政秀)、重上じゃ。これで三河衆も味方に付く、長い事爺(平手)の家に預けて居った事が生きるわ。」
「これで役目が片付いた」と安堵した平手政秀は、ここで傅役(お守り役・教育係)として育てた信長から、容易成らない陰謀を聞いた。
「しかしながらお館様、何故平手家康殿(竹千代・徳川家康)に世良田・得川を名乗らせまいる?」
「知れた事よ爺(平手政秀)、家康(徳川家康)には源氏を名乗らせ征夷大将軍にするわ。」
家康(徳川家康)に源氏を名乗らせ、「征夷大将軍にする」となれば織田信長の椅子が無い。
「はて・・・面妖な。してお館様はいかがなされます?」
「わしか、わしは帝(みかど)じゃ。」
信長に「わしは帝(みかど)じゃ」と聞かされて平手政秀は顔色を失った。
「何と、お館様は天子様をいかが致しますか?」
「爺(平手政秀)、天朝も公家共も新しき世には不要じゃ。」
「恐れ多き事を・・・天朝様を・・・それは成りませんぞ。」
驚いた政秀は、即座に信長を諌(いさ)めに掛かった。恐ろしい事に、自分が傅役(お守り役・教育係)として育てた信長が、モンスターに育っている。
「爺(平手政秀)は不服か?良いか爺(平手政秀)、良く聞け。元康(徳川家康)はわしの外様臣下として征夷大将軍を名乗らせる。お主達内々の者は、左大臣、右大臣はもとより新しき公家になるのじゃ。」
「それはいけませぬお館様。この国は天子の国ですぞ。」
「爺、何を古き事を愚だ愚だと。わしに逆らうとあれば、爺とて容赦はしないぞ。」
「お館様、この爺が皺腹かき切ってお諌(いさ)め申しても聞けませぬか?」
「黙れ爺、腹かき切れるものなら、かき切って見よ。」
口論の勢いで言った信長の言は、育ての親を自認しているからこそ、重臣・平手政秀を本気にさせていた。
傅役(お守り役・教育係)から後見人を任じていた重臣・平手政秀にすれば、「天朝に弓引く」など、到底認められる事ではなかったが、誰よりも信長の気性を知るだけに、戯言(ざれごと)と捨てては置けなかったのである。
「承知仕った。腹かき切ます故、天朝様に弓引くはお止まりくだされい。」
「爺(平手政秀)はまだ左様にわしを縛るか、勝手にせい。」
平手政秀は所領の志賀城(現在の名古屋市北区平手町)へ立ち帰り、見事腹かき切って果ててしまう。
これには流石の信長も、政秀の死後に沢彦和尚を開山として政秀寺を建立し、菩提を弔っている。
この国は、余りにも永く血統主義が続いて居て、その価値観が氏族の全てだった。
同じ板ばさみの事態が、後に歴史的大変事として「本能寺の変」が起こるのだが、まさしくこの平手政秀の切腹はその予兆であった。
平手政秀は、新田源氏に連なる「後胤貴族の末裔と言う武士の誇り」と自らが育てた破壊モンスター(怪物)・織田信長との板ばさみに苦慮し、自らの命を絶ったのである。
その後の経緯だが、松平家の「双子の嫡男」の片割れ松平元康(竹千代)が、人質に出した駿府・今川家で育ち、今川義元の姪にあたる関口親永の娘・(築山殿)・を娶(めと)っている。
この時期、今川家の支配下で育った三河領主・松平元康(竹千代)は、遠江国磐田見附宿の宿の娘・某と愛人関係にあり「初の庶子と言われる男児(一蔵)まで設けた」と言われている。
さて、ここで問題なのが、今川家の血族(関口親永)の娘(築山殿)と夫婦(めおと)に成った属将とは言え、当時の松平元康(竹千代)に「それほど奔放な事が出来たのか?」と言う疑問である。
当時今川家の本拠地・駿府(静岡)に在った松平元康(竹千代)は、属国扱いで人質上がりの三河領主なのだから、当然今川家臣団の目が光って居るのである。
駿府近郊ならいざ知らず、領国三河に近い遠江国磐田見附宿までの遠出が易々と出来る環境には無かった筈である。
それでは、三河、駿河を股に掛けて、奔放な生活をしていた若者は誰だったのか?
この条件で考えられる事は少ない。
この事は、松平元康(徳川家康)の双子入れ替わり説の一つの検証になるのかも知れない重要な要件である。
つまり同時進行で、織田家の手元で育った別の松平元康(影・竹千代)が存在した。
そう、今一人の影・竹千代が「密かに平手家の手で育てられていた平手家康」としなければ、辻褄が合わないのである。
つまり今川義元の討ち死直後に早々と岡崎城に入城し、迷わず独立を宣言する家康の人物像が、今川家で育った松平元康(竹千代)以外の双子の片割れでなければ「納得」として見えて来ないのである。
そして、筋書きが出来て居たような余りにもスムースな織田、松平両家の提携(清洲同盟)が、誂(あつら)えた様に待っていた。
或いは三河国在地の徳川家臣団と織田信長との間に密約が在っての事であれば、「桶狭間決戦での奇跡」も、もう少し違う見え方をするかも知れない。
松平元康(家康)は、その後躊躇いも無く幼少よりの知人ばかりの筈の今川氏と戦って三河東部に進出し、三河国を統一している。
世良田を名乗ったのは、この三河統一の時だった。
信長とは「竹馬の友」かも知れないが、温厚な知識人と言われる今川義元も松平元康(竹千代)にとっては育ての親のごとき存在で、自分の姪を家康に嫁がせ、自分の名から「元」の文字一字を与えて「元康」とし、教育係として護国禅師の太原雪斎をつけるなど、竹千代個人に対して、それほど酷い人質扱いなどはしていない。
むしろ新しい親族として可愛がり、期待していた事を考えると、それが「コロッ」と変わって独立を宣言、岡崎城に入城した松平家嫡男が、正当な「嫡男の資格を有する別人ではなかったのか?」と疑って見たのである。
この竹千代(たけちよ)尾張人質時代に、父・広忠は死去し三河松平家(岡崎城)は義元の派遣した城代により支配されていた。
その後、今川方に捕えられた信秀の長男・織田信広との人質交換によって竹千代は駿府へ移され、駿府の義元の下で元服し、義元から偏諱を賜り次郎三郎元信と名乗った事になっている。
千五百六十年(永禄三年)桶狭間の戦いで今川義元が織田信長に討たれた際、松平元康は一番割りの悪い先鋒別働隊として今川本隊とは別働で尾張攻略最前線の大高城(尾張国)にあった。
元康は桶狭間で「義元が討ち取られる」の報を聞くと、すぐさま攻略中の大高城から撤退して祖父・清康の代で確立した三河支配権の回復を志し、今川軍が放棄した三河の岡崎城に入ると今川家からの自立を宣言、西三河の諸城を攻略して三河を手中にする。
三河物語では、駿府の築山御前の元に帰ろうとした元康(家康)を家臣の本多達が止め、岡崎城に入った事に成っているが、岡崎に入城した時の元康(家康)は、もう一人の方の竹千代だった。
今川義元の討ち死にを期に三河松平独立を元康に進言したのは本多達三河(松平)家臣団とされている。
双子のもう一人が入れ替わるタイミングは攻略中であった大高城の本陣と推測され、岡崎城に入城する時は既にもう一人の元康(平手家康)だったのではないだろうか?
元々人間の運命など、確かに先の事は判ったものではない。
人生、これだから占いやら信仰が流行(はよる)のかも知れない。
この時の松平元康(徳川家康)の行動手順が問題なのだ。
計算すると、千五百六十年(永禄三年)、桶狭間の合戦で今川義元を破った時点で織田信長は二十六歳、徳川家康は十八歳と言う事に成る。
つまり若干十八歳の若武者が即断で「松平家の行く末を賭けた」と言う事で、家臣達の織田方との内応デキレースで無い限り、松平家臣団がまとまる決断とは思えないのである。
如何に心はやって三河支配権の回復を志そうが、形としては今川から離れた松平元康は下手をすれば織田と今川に挟まれて危険な賭けに出た事に成る。
これは織田信長の立場にして見れば、三河一ヵ国手に入れる絶好の機会で、本来なら武将である松平元康に何らかの確信がなければ、この危険な賭けは「余りに無謀な行動」と言える。
しかしながら直前まで今川方の武将として戦っていた織田方の出方を、元康はまったく配慮の他で、まるで織田信長と密約でも在ったような疑惑を感じるのは我輩だけだろうか?
現に織田信長は三河に攻め込む事も無く、いずれ厄介な存在になるかも知れない松平元康(徳川家康)の三河再平定を悠然と見守っている。
二年後の千五百六十二年(永禄五年)、松平元康(徳川家康)は義元の後を継いだ今川氏真と断交し信長と同盟(清洲同盟)を結び、翌年には義元からの偏諱である「元」の字を返上して元康から家康と名を改めている。
今川軍が放棄した三河の岡崎城に入ると、祖父・清康の代で確立した三河支配権の回復を志し、西三河の諸城を攻略して今川家から自立する。
二年後の千五百六十二年(永禄五年)、義元の後を継いだ今川氏真と断交し信長と同盟(清洲同盟)を結び、翌年には義元からの偏諱である「元」の字を返上して元康から家康と名を改めた。
その後家康は、苦心の末に三河一向一揆の鎮圧に成功して西三河を平定し、岡崎周辺の不安要素を取り払うと、対今川氏の戦略を推し進める。
東三河の戸田氏や西郷氏と言った諸豪を抱き込みながらも軍勢を東へ進め、千五百六十六年(永禄九年)までには東三河・奥三河(三河北部)を平定し、三河国を統一した。
この年、家康は三河国主として朝廷から従五位下、三河守の叙任を受け、徳川に改姓した。
この改姓に伴い新田氏系統の源氏である事も、朝廷に願い出て公認させた。
松平元康の清和源氏の名乗りには、時の関白・近衞前久(このえさきひさ)の助力に拠る所が大きい。
その朝廷斡旋の根拠として考えられるのは、清和源氏新田氏一族の平手政秀(ひらてまさひで)が影養子として松平元康を迎えて継嗣としたのであれば、時の関白・近衞前久(このえさきひさ)が松平の苗字を徳川に改める事と、家康に対する従五位下三河守叙任について朝廷に斡旋し、それを成し遂げられても筋が通っているのだ。
藤氏長者は藤原氏の棟梁の事である。
戦国の世に在ってほぼ織田信長と同世代に生きた公家・藤氏長者は、近衞前久(このえさきひさ・藤原前久)である。
近衞家・第十六代当主が信長の二歳年下で生まれた近衞前久(このえさきひさ・藤原前久)で、細川晴元や三好長慶などが引き起こした畿内の動乱や戦国時代・安土桃山時代を帝の側近公家として従一位・関白左大臣・太政大臣を務め政治への積極参加をした。
近衞前久は、帝の側近公家だった為に動乱期を摂津国大坂の石山本願寺、河内国若江の三好義継、丹波国黒井城の赤井直正、薩摩国鹿児島の島津義久と流浪を余儀なくされた人生を生き抜いた。
近衞前久(このえさきひさ)は、関白在任中の千五百六十六年(永禄九年)松平家康の松平の苗字を徳川に改める事と、家康に対する従五位下三河守叙任について朝廷に斡旋し成し遂げている。
平手政秀(ひらてまさひで)が茶道や和歌などに通じた文化人と評され織田信秀の重臣として主に外交面で活躍、信秀の名代として朝廷に御所修理費用を献上するなど、織田家の朝廷との交渉活動も担当していた。
この平手政秀(ひらてまさひで)自刃後、織田家の朝廷との交渉活動を担当したのが、同じく清和源氏土岐氏一族・明智光秀である。
織田家の朝廷工作役の平手政秀(ひらてまさひで)が自刃して三年、後任に明智光秀にその役が廻って来た頃と近衞前久(このえさきひさ)が関白に任じられた頃が、時期的に符合している。
どうやらこの頃から近衞前久(このえさきひさ)は織田家の朝廷工作役の明智光秀とは接触があり、織田信長の意向を伝えた光秀との親交、家康の三河守叙任運動を通して徳川家康との親交も育んで居たようである。
藤原氏の嫡流の五摂家の文化人である近衞前久(このえさきひさ)は、和歌・連歌に優れた才能を発揮し青蓮院流の書をたしなみ、更に「馬術や鷹狩りなどにも抜群の力量を示していた」と伝えられている。
この前久(さきひさ)、反足利義昭、反二条晴良だった為に一時信長と敵対するが義昭が信長によって京都を追放され、一方の晴良も信長から疎んじられるようになると、前久(さきひさ)は「信長包囲網」から離脱し以後は信長との親交を深めている。
信長が攻めあぐみ中々決着が付かなかった信長と石山本願寺門跡・顕如との「石山合戦(一向一揆)」を調停し、顕如を石山本願寺から退去させる事で和議に持ち込んだのも前久(さきひさ)である。
近衞前久(このえさきひさ)は流浪の関白だったが、この国は官位の任命権を朝廷が握っていてそれが武将達の権威を裏付けるものだったから、織田信長の要請を受け九州に下向、薩摩国守護の島津義久の下に逗留して九州安定の為に豊後国・大友氏、日向国・伊東氏、肥後国・相良氏、薩摩国・島津氏の和議調停を図っている。
前久(さきひさ)と信長との関係は良好で、三官推任問題で難しい問題も在ったが密約説もあり「本能寺の変」がなければ前久(さきひさ)の命運は変わっていたかも知れない。
一時は織田信孝や羽柴秀吉から明智光秀謀反の共犯を疑われ、徳川家康を頼って遠江浜松に下向している。
それでは、二人の竹千代は何処で入れ替わったのか?
入れ替わりの絶妙のタイミングは、一度だけ在った。
織田家の人質だった影・竹千代は、今川方に捕えられた織田信秀の庶長子・織田信広との人質交換によって、引き換えの形で駿府へ移されている。
しかし、実際に駿府へ行ったのは、織田家に居た影・竹千代ではなかった。
三河の家臣団と織田家が密約、信長の「竹馬の友」である影・竹千代は、傅役(お守り役)・平手政秀の遠縁にあたる三河国愛知郷の郷士に匿(かくま)わせている。
平手政秀の三代前にあたる世良田義英は、三河国愛知郡に平天城を構えていた。
それ故愛知郡には平手家縁者の郷士がいた。
織田信長の命を受けた平手政秀は、息子の平手久秀を伴わせて、影の竹千代を暫し尾張国よりは遥かに遠江国寄りの三河国愛知郡に預けている。
平手家から三河の平手縁者に預けられた方の影・竹千代は、事を秘していたから、誰も松平家の「世継ぎの片割れ」とは思わない。
それを良い事に、血気盛んな若者・平手家康(影・竹千代)はかなり自由奔放な生活を送っていた。
それで、近隣の浜松在や、遠出をして駿府城下まで足を伸ばし、投宿した遠江国磐田見附の宿の娘との間に「一蔵」と言う子まで成している。
この時に後の徳川家康となる平手家康(影・竹千代)を三河国愛知郷に住まわせ、彼に浜松近在の磐田目付宿辺りまで遠出させたのは、信長の「竹千代に三河・遠近江で良く遊ばせておけ。」と言う命が在ったからである。
それは、信長が平手家康(影・竹千代)を西の備えにする為の深謀に拠る布石だったのだが、奔放な青春時代を過ごした家康は、これ以後土地勘の在る遠近江に浜松城を本拠地とし、老後も駿河府に隠居するなど現在の静岡県を生涯愛して居た。
駿府で人質として育って行動に制約の在った正・竹千代に、御落胤は似合わないのである。
この一蔵を始め、「元康(家康)落胤」と噂される者が七人も出たのには、正に竹千代が二人いた事で、片方が自由な時間を謳歌し落胤の量産に繋がったのではないだろうか?
そしてこの時、交換に使われ駿府に送られた替え玉が本来嫡男として岡崎城内で育てられていた方の、正・竹千代だった「のではないだろうか?」と、思い到るのである。
すると、この大胆な企ての唯一の織田家側の証言者である平手政秀親子は、「徳川系図」の為に謀殺された恐れもある。
戦国時代らしいそれぞれの思惑が重なって、奇妙な構図が出来上がっていた。
今川家は、三河平定後の三河家臣団を懐柔する為に、嫡男の元康(竹千代)を身内にした。
同じ理由で織田家は、三河家臣団合意の上、もう一人の嫡男を平手(得川)某として育てている。
三河家臣団にして見れば、今川、織田いずれが勝っても嫡男が生き残る「虫の良い方法」だったが、それも戦国を生き抜く為の弱小大名家の家臣供の知恵だった。
双子の松平竹千代は、弱小大名の悲哀の中で親今川派と親織田派の双方に分かれて育てられる運命だった。
その安全装置が働いたのは、桶狭間の決戦で織田信長が今川義元を破った時である。
正直、三河家臣団は「織田方の方が、幾らかましだ」と思っていたから、桶狭間の信長軍奇襲、三河家臣団の内応も充分に可能性がある。
その片方、親今川派の正・竹千代(松平元康)は、今川家の当主今川義元が織田信長に桶狭間の合戦で破れるに及んで運命が決まった。
「本多(重次)殿、最早今川は、見限らねば成らぬ。」
「いかにも、鳥居(元忠)殿がお育てした若(もう一人の元康/得川某)を担ぎ出し、盟約を急がねばなるまい。」
つまり、三河松平家に必要なのは、親織田派の方のもう一人の影・竹千代(松平元康=徳川家康)に成って、親今川派の正・竹千代(松平元康)は、三河家臣団の何者かに闇に葬られたのである。
早速三河家臣団は、平手(得川)某として育ていた方の嫡男(影・竹千代)を、松平元康として岡崎城に迎え入れる。
これは、平手(政秀/織田家重臣)と鳥居(忠吉/松平家重臣)の密約の筋書き通りであるから、三河松平家の当主元康(得川某)は、早速「清洲同盟」を締結、織田方に付く事に成ったのである。
只、駿府に在った元康の家族には、この双子のもう片方(影・竹千代)、背格好や顔は似て居ても騙し負うせる訳が無かった。
主君入れ替わりを内密にしたい松平家臣団の本多の働きで、築山殿(瀬名姫/せなひめ・駿河御前/するがごぜん)は駿府から岡崎城に呼び寄せられる。
夫婦は互いの無事再会を喜び、新たな日々が始まる筈だった。
元々好き者の元康(家康/影・竹千代)である。居れ代わったのを幸いに兄弟の嫁・築山殿を寝間に誘い抱いた。
流石の元康(家康/影・竹千代)も、双子の兄弟の嫁を抱く、しかも相手は「夫と思い込んでいる」と成ると興奮は隠せない。
手荒く築山殿に襲い掛かり、弄り責めるがごとく抱いた。
抱かれた築山殿は驚いた。
夫・元康がまるで別人である。
「あれ、殿はまるでお人が変わったような為され様・・・」
「予も、晴れて三河の国主成り、今までのようにそちを抱くに遠慮はせぬ。」
夫はそう応えたが、幾ら国主に成ったとて、人の性癖がそう簡単に変わる訳が無い。
築山御前(関口瀬名)が、久振りに岡崎で会った松平元康は雰囲気がスッカリ変わっていたが、最初は「義元が討たれて今川から解き放たれ、三河に独立を為した為だ」と思っていた。
だが、性癖や姓技まで激変する訳は無い。
如何に双子とは言えどうしても個性が出る物で、築山御前(関口瀬名)は松平元康を名乗る男に抱かれながら直ぐにそれを悟った。
連れ添った夫婦には、慣れ親しんだ行為の手順がある。
その片鱗も無い全くの「別人の行為」と成れば、夫では無い事は明白だった。
「作左衛門(本多重次)あの者殿にあらず、何者ぞ?」
築山御前は、血相を変えて本多(作左衛門)重次に食って掛かった。
「はて、お方様(築山御前)は暫らく殿に遠退いて居た故、殿をお忘れか?」
「黙れ作左、わらわは昨夜あの者に抱かれて気付いたわ。」
「お方様、松平家の為ですぞ、口を閉じてご辛抱願います。」
本多重次は、あの男が今川の武将として育った元康の「双子の兄弟だ」と築山御前に告げる。
「作左はわらわに、黙ってあの者に抱かれて居れと申すか?」
「いかにも松平家中の者の総意でござれば、お方様(築山御前)にはご辛抱の程を・・・」
「作左、ようも酷(むご)い事を・・・」
一度は運命と諦めて見たものの、入れ替わった元康に毎晩呼び寄せられて弄り責められて、他人に肌を許す事が築山御前にはどうにも我慢が成らない。
さりとて、今の元康を「夫の偽者」と言い出せば、この時代に自分(築山御前)や長男・松平信康の命の保証さえない。
「作左、わらわにはこのままあの者と夫婦(めおと)を続けるは無理ぞ・・・」
「信康様の世継ぎの儀もござれば、お方様(築山御前)にはご辛抱成りませぬか?」
「成らぬ、あの者の異成る事は秘して口にせぬが、わらわは一緒には居れぬ。」
「判り申した。近くの尼寺(惣持寺)にお移り願いまする。」
長男・松平信康を持つ身成れば、築山御前は、岡崎城の外れ菅生川の辺に在る惣持尼寺に別居するのが、この不幸な運命への精一杯の抵抗だった。
「作左衛門、予に抱かれて居れば良かったものを傍(そば)に仕えぬとあらば、不憫じゃが、お築の口は閉じねば成らぬぞ。」
「承知つかまった。」
元康(家康・竹千代)、信康親子の不仲説や築山御前確執の要因は、案外こんな所かも知れない。
その後、家康の命令により築山殿は小藪村で殺害され、信康は二俣城で切腹している。
今川義元の軍勢に拠る織田領内進行で、揺れる織田家々中の混乱を他所(よそ)に、信長は、平手政秀を呼んで「或る策謀」を確認していた。
「政秀(平手)、元康を入れ替える策は進んで居るか?」
「ははぁ、既に雑賀殿(孫市)を通して本多殿に・・・・」
「本多からの義元の動きは正確か?」
「雑賀殿(孫市)の知らせと合って居りますれば、間違いないかと心得ます。」
「良し政秀、これで予が勝った。軍儀は、暫らく寝た振りをする。」
この密談を経て、織田信長が桶狭間(田楽狭間)に今川義元を急襲、討ち取って勝利を収める。
間髪を入れず、三河家臣団による元康入れ替えプロジェクトは作動を始めた。
全ては、信長の意向に沿った形で、本多、鳥居、鈴木、などの大半が加担して居た。
信長は、今川撃破後の三河家臣団懐柔策まで取って居た事に成る。
それにしても、運命なんてどっちに転ぶか判らない。
ほんの弾みのようなもので、もう一人の竹千代(元康)の運命は決まった。
その「義元、桶狭間討ち死に」のドサクサに紛れて、元康(家康)は入れ替わったのである。
駿府の築山御前の元に帰ろうとした元康(家康)を家臣の本多達が止め岡崎城に入った事に成っているが、岡崎に入城した時の元康(家康)はもう一人の方の竹千代だった。
元々人間の運命など、確かに先の事は判ったものではない。
人生、これだから占いやら信仰が流行(はよる)のかも知れない。
そんな話、「とんでもない奇想天外な説だ」と思うかも知れないが、固定観念に囚われないで感性を働かせて欲しい。
謀(はかりごと)は「有りそうな事」では誰でも直ぐに見当が着き、謀(はかりごと)とは言えない。謀(はかりごと)は、「まさか?」と言うもので無ければ成功しないのである。
織田と今川に挟まれた弱小大名の松平家にとって、「竹千代が二人居た事」は、幸いだったのかも知れない。
この元康別人説が本当なら、築山殿との不仲別居、同盟関係維持の為に長男・松平信康を殺害など、「口に出しては言えない」身内の葛藤があっても不思議は無い。
幾ら一卵性双生児とは言え、正室の築山殿を「寝屋」で騙す事は出来ない相談である。
この松平元康と築山殿の不仲別居の理由が、夫が今川から寝返った事ではなく、夫が別人に成っていたのなら幾ら戦国の妻でも、そのまま夫婦を続けるには余りにも許容の範囲を超えて居たのだ。
徳川家康天下取りの長い道程に於いて「唯一の汚点」と言って良いのが、家康が決断した正室・築山御前の殺害と嫡男・松平信康の幽閉・切腹の事件である。
松平元康(徳川家康)の正妻・築山御前(つきやまごぜん)の本姓名は関口瀬名(せきぐちせな)である。
瀬名(せな)の母は今川義元の妹で、つまり瀬名(せな)は義元の姪にあたるので、夫・元康(家康)を今川に味方させたい心情が在って当然と言える。
家康は日本史上長い事、織田信長の命で正室・築山御前を殺害、長男・松平信康を切腹させた事にされていた。
この事件、忠誠心を確かめる為に徳川家康に長男・松平信康の「殺害を迫った」とされて、織田信長にはとんだ迷惑な濡れ衣だったが、信長のその強烈無慈悲な生き方から、疑いもされずに「信長が命じた」と世間に信じられたのは自業自得なのかも知れない。
所が最近の研究では、この時期の織田信長は相撲や蹴鞠見物に興じていて、同盟者である家康にこのような緊張関係を強いていた様子は「伺えない」とされ、信長は築山御前と松平信康の殺害など命じては居ず、殺害原因として「家康と信康の対立説」の方が有力視され始めている。
それにしても子煩悩な家康が、殺害まで決断する「家康と信康の対立」の裏には何があったのだろうか?
この事は、松平元康(徳川家康)の双子入れ替わり説の一つの検証になるのかも知れない。
その対立の原因が、双子の家康(元康)の入れ替わりであったなら、築山御前・松平信康親子にとつては家康(元康)は別人で、対立は確実に修復不可能なものであった事に成る。
入れ替わった家康(元康)に本当の子供が出来たのが、千五百六十二年(永禄五年)の清洲同盟以後と考えると、側室・於万の方の胎になる結城秀康の次の三男・秀忠からであれば、信長の命による殺害説よりも、近年言われ始めた家康と信康の対立説の方が遥かに説明が着くのではないのだろうか?
築山・信康親子が松平元康(徳川家康)の入れ替わりを容認しないのであれば、公表出来ない双子の入れ替わりの秘密を守る為には口を封ずるしかない。
家康は築山・信康親子の処断を決断し、まず築山殿を二俣城への護送中に佐鳴湖の辺(ほと)りで殺害させ、更に二俣城に幽閉させていた信康に切腹を命じた。
それにしても、三河物語にはそんな事は書いていないし書ける筈も無い。
幸いな事に、三河物語に記述する頃には一方の当事者・織田信長はこの世に居なかった。
世論が性善説を好む所から、家康が妻子を殺したのは「信長に忠誠心を疑われて泣く泣くてを下した」と言う、「お涙頂だい」のストーリーを後の人々が生み出したが、どうやら希望的憶測から産まれた事になりそうである。
駿河・遠近江の太守・今川氏(いまがわうじ)の本姓は源氏で、家系は清和源氏のひとつ河内源氏の流れを汲む足利氏一門・吉良家の分家にあたる日本の武家で、代々駿河守護職を継承した足利一門・別格嫡流ある。
今川氏(いまがわうじ)の地位は斯波家や畠山家をはじめとする他の足利一門庶流諸家とは別格で「御所(足利将軍家)が絶えなば吉良が継ぎ、吉良が絶えなば今川が継ぐ」と言われ、吉良家とともに足利将軍家の連枝であり足利宗家の継承権を有していた名門守護職である。
その今川家は、駿河守護職・今川義忠(駿河今川家六代当主)の代に応仁の乱が起こり、将軍・足利義政の下に東軍に加わって知り合った将軍申次を務める伊勢盛定と知り合い、その盛定の娘・北川殿と今川義忠に嫁いだ事で伊勢氏と今川氏は縁者となった。
その事で、北川殿の兄または弟にあたる伊勢新九郎盛時(北条早雲)が将軍家の代理として今川家の家督相続に介入、北川殿が生んだ龍王丸(今川氏親/駿河今川家七代当主)の相続に成功する。
今川氏親の相続に成功した伊勢新九郎は駿河守護代の地位を得て沼津・興国寺城主を皮切りに伊豆国を奪取、後に南関東一円を支配する戦国大名・後北条氏のスタートを切る事に成る。
桶狭間の合戦で織田信長に敗れた今川義元は、今川氏親(龍王丸)の五男にあたり駿河今川家九代当主であるが、兄の第八代当主・氏輝の急死により相続争いに勝利の末に家督を継いでいた。
今川義元は桶狭間の合戦であっけなく討ち取られた為に凡将と思われ勝ちだが、三河松平家を属下に置くなど、東三河・遠近江・駿河などを領国とするなど、駿河今川家を最大の戦国大名にしたのも義元の代だった。
今川義元が桶狭間の合戦で討ち取られ、嫡男・氏真(うじざね)が家督を継ぐが大名家として弱体は免れず、隣国の武田信玄と徳川家康に侵攻され氏真(うじざね)は逃亡して戦国大名・今川家は滅亡する。
結果、今川家の所領・駿河国は武田家、遠近江国は徳川家が分ける形で領有する。
その後今川氏真は後北条家や京都の旧知・姻戚の公家などを頼って生き延び、やがて天下を取った徳川家康に召し出されて五百石の旗本に抱えられ、その後五百石を加増されて都合千石の高家に処遇されて家名は残った。
いずれにしても徳川家康は今川家の衰退に乗じて遠近江国を手に入れ、二ヵ国の太守となって天下人への幸運な一歩を踏み出したのである。
長男・松平信康と正妻・築山御前(つきやまごぜん)の次は次男の話である。
越前・松平藩の藩祖(宗祖/そうそ)は、松平(結城)秀康である。
実は徳川家康(とくがわいえやす)二男とされる結城秀康(ゆうきひでやす)には、本人も知らない一つの疑惑がある。
徳川家康の長男・信康もまだ存命の頃の事だが、幼名を於義伊(於義丸/義伊丸)と名づけられた秀康は、父・家康に嫌われて「満三歳になるまで対面を果たせなかった」と伝えられている。
家康がまだ意思表示も出来ない自分の幼子を嫌う理由は、いったい何だったのだろうか?
家康二男・秀康は、織田信雄・徳川家康陣営と羽柴秀吉(後に朝廷から豊臣姓を賜る)陣営との間で行われた戦役、小牧・長久手(長湫)の戦い(こまき・ながくてのたたかい)の後、和議の証として豊臣秀吉(とよとみひでよし)の養子に出され、秀吉の命で関東八家として鎌倉以来の名門・結城(ゆうき)氏の名跡を継いで結城(ゆうき)秀康と名乗る。
豊臣秀吉(とよとみひでよし)の養子となった結城(ゆうき)秀康は、本来は徳川家康(とくがわいえやす)二男で、長男・信康切腹の後は徳川家の跡取りにもなれる血筋で、易々と秀吉の養子に出して手放した事は大きな謎である。
家康の二男の結城秀康は豊臣家に養子に入ったのだが、秀吉亡き後起こった関ヶ原合戦には実父家康の東軍に付き、上杉軍追撃の押さえとして西軍との分断に働き息子として武功をあげている。
しかし、豊臣家滅亡後も徳川家に復する事なく、越前(福井県)に松平家を興し、明治維新の幕臣側立役者の一人、松平春嶽へと続いて行くのである。
江戸時代、松平を名乗った大名は多数いが、家康の十一人の男子のうち、後の世にまで子孫を残すのは結城秀康、秀忠(本家)、義直(御三家・尾張家)、頼宣(御三家・紀伊家)、頼房(御三家・水戸家)の五人だけで、この中で「松平」を名乗ったのは何故か越前藩主・松平(結城)秀康だけで、扱いが軽かった。
結城秀康は豊臣家に養子に入ったのだが、秀吉亡き後起こった関ヶ原合戦には豊臣家とは決別して東軍に付き、上杉軍追撃の押さえとして武功をあげて漸く家康・二男として越前に六十八万石の処遇を得ている。
秀康は加賀藩(百十九万石)、薩摩藩(七十五万石)に次ぐ六十八万石の大藩・越前福井藩主(越前松平藩)となる。
当然と言えば当然だが、本来なら、いかに一度養子に出たとは言え長男亡き後の徳川家二男で二代将軍・秀忠の兄である。
だからそれなりの処遇は当然で、その後徳川家康が征夷大将軍として天下の実権を握ると、越前福井藩は「制外の家」として「別格扱いの大名」とされている。
しかし、徳川家康が幼少の於義伊(結城秀康)を顔も見ずに嫌い、越前福井藩主となっても松平と徳川の家名の使い分けが為された事に「謎」の読み方がある。
実は秀康が越前藩主として「松平」を継いだ時には、最後まで家康本来の姓である「松平」を伝えたのが秀康の血統だけだった所にもっと重い意味の謎が隠されていたのではないか?
つまりこの辺りに家康双子説の煙が立ち、征夷大将軍として江戸幕府を開いた徳川家康が、本当に結城(松平)秀康の実父で在ったかどうかの疑惑である。
長男・信康を切腹させて失った家康が、二男・秀康を易々と秀吉の養子に出して手放した事は大きな謎であるが、この結城(ゆうき)秀康が徳川家に復さず越前松平家を起こす経緯」には、織田信長(おだのぶなが)の隠された新帝国構想に拠る意志が働いていた可能性が在る。
しかしながら、この信長の思考は異端であり、光秀や家康の先祖からの「氏(血統)の思想」とは合致しなかった。
あるいは、二代将軍・秀忠が明智光忠であったなら、別格「松平嫡家」として家康の血筋を残すと同時に、徳川(明智)家安泰の為、不安要因としての越前松平藩を微妙に扱い続けたのではないだろうか?
この疑いを持つ根拠のひとつに、秀忠が明智光秀の従兄弟・明智光忠であれば判り易い。
後世になると、徳川本家と御三家・御三卿また松平各藩の間で養子のやり取りが頻繁になり、この徳川(明智)、徳川(松平)の血の問題は、現実的に混沌の中に消えて行った。
そして元康(家康)が、歴史の場面場面で遭遇した数々の誘惑にも負けず、一貫して信長との臣下に近い同盟関係を堅持した理由が、この双子元康(家康)入れ替わり説に拠る織田信長への「恩義」なら大いに説得力があるのだ。
平手政秀の仲介で若き頃の織田信長から本多重次と鳥居元忠が那古屋城那古屋城で聞かされた謀略話は、大胆極まりないものだった。
「予は平姓を名乗って桓武帝の末裔として帝に納まる。ついては竹千代を政秀(平手)の養子と為し、そなたらの主君を源氏としてわが織田帝家の将軍と為せ。」
幸いな事に、信長の策略に応えるだけの条件が松平側には揃っていた。
つまり三河松平家嫡男の双子の一人が源氏系新田氏流の平手家に継養子として入ったのであれば、血は松平嫡流で三河家臣団に領主と受け入れられ、御家は何しろ平手家に継養子として入っいて新田氏流系図に成るのだから「得川」にちなんで「徳川」を創設しても朝廷からはスンナリ「源家の出自」と認められる。
さらにもうひとつ、家康には清洲同盟を堅固なものにした信長を慕う幼い頃からの思いがある。
つまり影・竹千代が織田家の庇護のもと成長して信長の思惑通りに松平家を継ぎ、頼れる同盟関係を成立させたのである。
朝廷から三河国主と認められ三河守・徳川家康を名乗って二年、千五百六十八年(永禄十一年)には今川氏真を駿府から追放した武田信玄と手を結ぶ。
同年末からは、今川領であった遠江国に侵攻し、曳馬城を攻め落とす。
遠江で越年したまま軍を退かずに、駿府から逃れて来た今川氏真を匿う掛川城を包囲して攻め立てる。
籠城戦の末に開城勧告を呼びかけて氏真を降し、遠江の大半を攻め獲った徳川家康は、三河・遠江二ヵ国の国主となって千五百七十年(元亀元年)、本城を岡崎から遠江国の曳馬城に移し、その地に改めて浜松城を築いた。
この頃に、鳥居忠吉の嫡男・鳥居元忠が何時も家康の軍勢の主力の一人として戦っている。
同じ年(永禄十一年)盟友の織田信長が松永久秀らによって暗殺された室町幕府十三代将軍・足利義輝の弟・足利義昭を奉じて上洛する。
この信長上洛に際して、家康は上洛軍に援軍を派遣するとともに、三河・遠江に在って後方の抑えを任じ、周囲の反信長勢力を浅井長政とともにけん制している。
さて下克上、天下取りの乱世で、本来なら二ヵ国の太守に成った徳川家康が、この辺りから次の一段高い欲を出しても不思議がない。
現に足利義昭は、天下の実権をめぐって信長との間に対立を深め、反信長包囲網を形成し、家康にも副将軍への就任要請を餌にして協力を求めて来る。
ところが、家康はこうした誘惑を黙殺し、朝倉義景・浅井長政の連合軍との姉川の戦いに参戦して信長を助けている。
徳川家康が「清洲同盟」に心情的思いを抱いてこれだけ織田信長を信頼し慕っていた理由はいったい何んだったのだろうか?
織田信長の才能に心服していた事もあろうが、今ひとつ両者の間に心情的な深い繋がりがあったのではないだろうか?
そう考えると、在る事が浮かんで来る。
井伊直正は、千五百七十五年(天正三年)徳川家康に見出され井伊の姓に復し、家康の小姓(稚児小姓)として閨で夜伽の相手をする男色(衆道)として最も深く寵愛され、家康子飼いの本多忠勝や榊原康政と肩を並べるように成る。
この徳川家康の男色(衆道)は、何時(いつ)どこで覚えたのだろうか?
或いはこの事が、徳川家康が同盟相手として最後まで織田信長について行った理由のひとつかも知れない。
稚児小姓(衆道)の習俗については、当時は一般的だったが現代の性規範(倫理観)ではドラマ化し難いから、お陰で誠の主従関係が「互いの信頼」などと言う綺麗事に誤魔化して描くしかない。
しかし現実には、稚児小姓(衆道)の間柄を持つ主従関係は特殊なもので、主の出世に伴い従が明らかにそれと判る「破格の出世」をする事例が数多い。
氏族の支配者の心得として、男色(衆道)は一般的だったのかも知れない。
織田信長が濃姫(帰蝶)と婚姻したのは千五百四十九年(天文十八年)二月と言われている。
信長は十六歳、濃姫は十五歳で、当時人質として尾張織田家に居た竹千代(後の家康)は八歳だった。
前田利家、森欄丸と相手がいた織田信長にとって、人質としてやって来た八歳年下になる松平竹千代を「深く可愛がっている」となれば、ただの年下の弟分で「済まされた」とは思えない。
男色(衆道)の繋がりなら、信長と家康の間に深い信頼関係があっても不思議は無い。
ただし人質として居た竹千代(後の家康)は当時八歳かそこらの童子で、信長がその童子に手を出したとは考えられないから、手を出したと思われる時期には今川家に人質交換で竹千代(後の家康)を奪還されてていて、この男色(衆道)疑惑は本来なら辻褄が合わない。
ところが、人質交換で今川家に行ったのが正・竹千代で、織田家にいた影・竹千代はそのまま織田家中の平手政秀の養子として「信長の手中に在った」と考えれば、この難問は解決する。
そして影・竹千代が平手(源)家の養子であれば、系図上は世良田・得川(源)氏を名乗る事はまんざら捏造の系図とは言い切れない。
どうやらこの徳川家康の信長への忠誠心を推し量るに、平手氏の源氏流新田氏系を継いだ松平竹千代の影の方は、今川氏の人質と成った松平竹千代の正の方とは双子の別人で、そのまま平手氏の養子として信長の「衆道相手を務めていたのでないか」と疑えるのである。
また、家康二女・督姫の娘婿として徳川家康に可愛がられ、播磨姫路城五十二万石の大身に出世を果たした池田輝政(いけだてるまさ)の父は、織田信長の乳兄弟・遊び友達として虚(うつ)け無頼な遊びに付き合っていた池田恒興(いけだつねおき)の次男であり、家康が織田家人質時代に七歳齢上の池田恒興と接点が在った事は充分に考えられる。
つまり家康にすると、輝政は「可愛がってくれた兄貴分の子供」と言う気分だったのかも知れない。
公式記録では、二代将軍・徳川秀忠は徳川家康の三男として遠江・浜松に生まれ、乳母・大姥局によって養育される。
徳川秀忠の母は家康側室の西郷局(お愛の方)、実家の西郷氏は九州の名家・菊池氏一族で三河国へ移住した者の末裔と伝えられ、室町初期には三河守護代をつとめた事もある三河の有力な国人武家であった。
長兄・信康は秀忠の生まれた年に切腹して死亡、庶兄(家康次男)の秀康は豊臣秀吉の養子に出されて後に結城氏を継いだので、母親が三河の名家である秀忠が実質的な世子として処遇され、十四歳で中納言に任官し「江戸中納言」と呼ばれる。
この三河国人・西郷氏の九州本家の末裔が、遥か後世の明治維新で活躍した西郷吉之助隆盛だあるが、その西郷隆盛の話は後ほど第四章に記述する。
秀忠の同母弟とされる家康の四男・松平忠吉が、実は側室の西郷局が産んだ家康の三男で、三男とされたのが明智光忠である。
松平 忠吉(まつだいらただよし)は、関が原の初陣において島津豊久を討ち取った功により戦後、尾張国清洲に五十二万石を与えられたが、悪性の腫れ物に冒され享年二十八歳で死去している。
勿論、「母親が三河の名家であるから後を継がせる」は口実で、織田信長の嫡男入れ替え策の結果であるが、いずれにしても豊臣秀吉は、家康の三男・秀忠が明智光忠と入れ替わったなどとはつゆ知らない。
それで秀吉成りの閨閥計画を実行している。
徳川秀忠の最初の正室は織田信長の次男・信雄の娘・小姫である。
小姫は豊臣秀吉の養女を経て、実父・信雄と養父・秀吉の戦に家康が信雄に加勢した「小牧・長久手(秀吉対家康の直接戦)の戦い」の終結後、上洛した徳川秀忠と結婚した。
この結婚、豊臣と徳川の友好関係を再構築する目的で、一説には、この時の二人は「秀忠十三歳、小姫はまだ年端も行かない六歳であった」と言う。
この小姫は、翌年初夏に僅か七歳で死去している。その後継室として迎えたのが、浅井長政・三女「お江(おごう)もしくは於江与」だったのである。
徳川家康が、今川家の人質時代の松平竹千代(松平元康)とは「別人では無いか」と推測される理由の一つに家康が門徒となった「仏教の宗派が予測と違う」と言う疑問がある。
松平竹千代(松平元康)は今川人質時代に今川家・軍師の臨済寺・雪斉和尚(臨済宗妙心寺派)から手習いなどの勉学指導を受けている。
雪斉和尚(太原雪斉)の本拠・駿府(静岡)の臨済寺は、臨済宗の宗祖臨済義玄(中国唐の僧)の名に由来する今川氏の菩提寺で、静岡浅間神社の境内から連なる賤機(しずはた)山麓に在って今川館(現在の駿府城)の北西に位置する現在の静岡市葵区大岩にある。
当然ながら、松平竹千代(松平元康)は幼少期に教えを授かった臨済宗妙心寺派の門徒となる筈である。
所が、成人して三河国主になった徳川家康が突然熱心な門徒となったのは、幼少時から慣れ親しんだ臨済宗ではなく法然上人を開祖とする浄土宗で、江戸・芝の増上寺が菩提寺になっている。
確かに三河安祥(安城)以来松平家は浄土宗であるが、松平竹千代(松平元康)は幼少期を臨済宗の中で過ごし、雪斉和尚から教えを受けてている。
松平家は「先祖からの浄土宗門徒だ」と言ってしまえばそれまでだが、三河国愛知郡の地元で浄土宗に親しんだ別の人物の存在もその可能性を否定出来ない。
存在を「只存在」と記憶する学問には限界が有り、何故それが存在するのか疑問を持たなければ真実は見えて来ない。
これはもしかして、松平元康(徳川家康)の双子入れ替わり説の一つの検証になるのかも知れない重要な要件ではないだろうか。
家康は、徳川家の隆盛に伴い浄土宗総本山・智恩院(ちおいん)に寄進などする一方、智恩院(ちおいん)を京での政治工作の足場(投宿場所)にした位の関係を築いている。
また、家康が晩年駿府に隠居すると、上清水村(現静岡市清水区)に在った引接院・善然寺を駿府に移転させて手元に置き、そこが城の拡張で敷地内になったので現在の静岡市葵区新通に移設、特に徳川家から朱塗りの門を許されて引接院・善然寺は現在でも「赤門の寺」として有名である。
それにしても、江戸の守りをも考えた隠居地として家康が駿府を選んだ事でこの別人疑惑を見事に打ち消し、家康駿府育ちを印象着ける妙手は誰の手に拠るものだったのか?
この経緯を知っていたのは松平の古くからの重臣・本多家と鳥居家だけで、外部では只一人きり、密約相手の明智光秀だったのである。
徳川家康の天下取りには、最もな理由が存在する。
源氏の長者・征夷大将軍・徳川家康誕生の遠因となった最初の秘密は、三河(松平)家臣団の結束である。
そしてその事が、「後の全てを決した」と言って過言ではない。
負け戦の経験で学び、慎重に成ったのは源頼朝も徳川家康も同じだが、両者には決定的な違いがある。
頼朝は猜疑心の塊だったが、家康は家臣を信頼し「情」が在った。
それは生い立ちの違いで、家康は影・竹千代の時代でも家臣の「情」に囲まれて育っている。
事実、織田・今川共に三河松平を「平定しょう」とは思わなかった。
根底にあったのが三河(松平)家臣団の結束で、織田家、今川家共にその結束が無視できず、嫡男・竹千代を取り込む作戦に出た。
下克上の時代に、ある意味特異とも言うべき三河(松平)家臣団の存在こそ、家康の運命を感じさせるものだったのである。
家康の才能は、類稀な「御輿に担がれ名人」である。けして、部下を無視して自らが身を乗り出す事はしない。
そして家康は、秘密の養子・秀忠(光忠)を信長から押し付けられてもさして抗わなかった。
それは、家康の生き方そのものである。
彼自身が、影武者同然の数奇な運命に翻弄された半生を送って来たからで、それ故、避けては通れない事は逆らわず受け入れて、ジックリ生き残る事を自身の信条として覚えたのである。
当然ながら父・松平広忠、母・於大(おだい)の具体的な肉親の愛情に触れる機会は少なく、世話に成った家臣への「情」に比べ我が子に固執する心情に家康は疎(うと)かった。
我輩思うに、徳川家康(竹千代)はその出生の秘密の為に、双子の「影」として、織田家の人質として織田家・平手政秀に育てられたり、雑賀孫市(鈴木「佐太夫」重意)の庇護を受けたりと、父(松平広忠)の愛を知らずに育っている人物である。
その当時に、家臣を始めとする人の情けを知ったが為に、この時代の棟梁に珍しく常に家臣に気を配って人望を集め天下取りに成功している。
品格を持たない指導者が陥る手法に「競わせる」がある。
企業経営では重要な事だが、何かを鼻先にぶら下げて部下を「競わせる」と言うこの方法は、即効性が有るかも知れないが「部下の品格」は育たない。
この【左脳域】志向である「競わせる」の裏に育つのは、「手段の為には何でもあり」の悪しき感性である。
こうした状況に陥ると、結果、内部での足の引っ張り合いが始まり組織としての結束は崩れる。
徳川家康は当時の武将としては珍しく、この「競わせる」の手法を取らなかった。
それで結果的に、家臣の方が勝手に競ってくれた。
家臣を納得させる為には、棟梁は辛抱強く成らなければ成らない。
人生不幸な事に見舞われても、学習すればそれが将来の肥やしに成るもので、若い時の苦労は家康を辛抱強くさせ、家臣の人気を高めて天下取りの原動力に成った。
現代にも通じるが、部下は信頼して伸び伸びとやらせた方が成果を出す。
怒鳴りや小言ばかりで威嚇しては萎縮するばかりで、尚更失敗を重ねたり、隠し事をするように成る。
その点、織田信長型の強烈な棟梁は、余程の才能が無い限り通用はしないのだが、少しばかりの幸運に恵まれると、自惚れて直ぐに威張り散らす己をしらない者が多く、面従腹背の部下ばかりに成って良い結果は出せない。
何故双子の疑いが有るのかの条件をここで検証すると、その第一がおよそ家臣思いの家康とは思えない三河譜代の家臣への扱いが有るからである。
例えば幼少のころより家康に仕え、駿府今川家の人質時代には傍近くで苦労を共にした安部正勝(あべまさかつ)と言う家臣が居て、天下を取った家康が、その安部正勝(あべまさかつ)に与えた褒美が武蔵の国・市原の、たったの五千石の領地だった。
同じく三宅康貞(みやけやすさだ)は関東入国時、武蔵瓶尻(熊谷市)に五千石、大久保忠世(おおくぼただよ)は 関東入国時に小田原城四千石を与えられているが、いずれももっと厚遇されてしかるべき三河松平時代からの旧臣達をその程度に処置した事である。
考えられる事は、今川義元桶狭間討ち死に後に岡崎城へ入場した松平元康が、安部正勝(あべまさかつ)に「大して世話に成っては居なかった」と言う事で、つまり駿府今川家の人質時代の松平元康が、今川義元桶狭間討ち死に後に岡崎城へ入場した松平元康と別人ならば、そこら辺りの説明がつく話である。
実は鉄壁を誇った三河家臣団に、松平元康が徳川家康に名を改めた頃から微妙な動きが始まっていた。
それは三河安城・古参家臣団の一部が、生き残りを賭け必死の戦働(いくさばたら)きに走った事である。
徳川四天王に数えられる酒井忠次(さかいただつぐ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての三河の武将であり、酒井氏は、三河・石川氏と並ぶ松平氏(徳川氏)三河安城・最古参の重臣である。
絶妙のタイミングで入れ替わった正・竹千代(松平元康)が今川義元への人質として駿府に赴く時、正・竹千代(松平元康)に従う家臣団の中では最高齢者として同行したのが酒井忠次(さかいただつぐ)だった。
つまり、三河・松平家に在って酒井忠次(さかいただつぐ)は正・竹千代(松平元康)方の親今川派だった事が、影・竹千代の方の(徳川家康)には拘りが残ったようだ。
酒井忠次(さかいただつぐ)側も同じで、家康の嫡子・松平信康の件で大久保忠世とともに安土城へ助命の口添えの使者に立て、信長に無視されて居る。
桶狭間の戦いの後、今川氏から自立した家康より、家老として取り立てられた酒井忠次(さかいただつぐ)だったが、徳川四天王筆頭とされその後の戦働(いくさばたら)きに大功あるも、千五百九十年(天正十八年)に家康が関東に移封された時、酒井家・嫡男の酒井家次に宛がわれた所領規模が僅か三万石しか与えられなかった事に関して抗議している。
同じ徳川四天王に数えられながら井伊直政十二万石、本多忠勝、榊原康政の両者は十万石と厚遇されたに比べ、酒井家だけが三万石だった差に謎が在り、表向き相応な理由が見当たらない。
駿河・今川家人質時代に正・竹千代(松平元康)の随行武将だった事が、影・竹千代(徳川家康)の拘りであれば、この事が理解出来るのである。
本多忠勝(ほんだただかつ)は松平氏の三河安城・旧譜代家臣・本多氏の一族で、徳川四天王に数えられ、千五百八十二年(天正十年)本能寺の変が起きた時、家康は本多忠勝ら少数の随行とともに堺に滞在して居り、忠勝は「伊賀越え」の指揮を行って居る。
忠勝は家康の関東に移封に際し上総国大多喜(千葉県)十万石を賜って、榊原康政(さかきばらやすまさ)と同列に直臣家臣団の二位に序せられている。
しかし徳川政権が確立するに従い、古参譜代家臣の本多忠勝(ほんだただかつ)は次第に江戸幕府の中枢から遠ざけられ、その晩年は不遇だった。
この本多家、その後転封を繰り返して姫路藩などを経由し、三河岡崎藩五万石に落ち着いたが、幕閣の要職には恵まれなかった。
榊原康政(さかきばらやすまさ)も徳川四天王の一人であるが、父の榊原長政は松平氏三河安城・旧譜代家臣の酒井忠尚に仕える陪臣であった。
榊原長政の次男として三河国・上野郷に生まれた榊原康政(さかきばらやすまさ)は、幼くして松平元康(徳川家康)に見出され、小姓に任用されてる。
康政(やすまさ)の「康」の字は元康の「康」を与えられたもので、同年齢の本多忠勝とともに旗本先手役に抜擢され、今川家属将時代の松平元康(徳川家康)側近の旗本部隊の将として活躍している。
桶狭間の合戦の後、松平元康(徳川家康)が駿河の今川氏から独立し尾張の織田信長と同盟を結ぶと、姉川、三方ヶ原、長篠など数々の戦いで戦功を立て、家康が関東に移封されると上野国館林城(群馬県館林市)に入り、本多忠勝と並んで徳川家臣中第二位の十万石を与えられて居る。
関ヶ原の戦いに於いては、徳川家の継承者・徳川秀忠軍に軍監として従軍するが、信濃国上田城(長野県上田市)の真田昌幸に足止めされ、秀忠とともに合戦に遅参している。
この榊原康政(さかきばらやすまさ)、関ヶ原の合戦の後に老中となるが家康から遠ざけられ所領の加増は無く徳川政権が確立するに従い、本多忠勝(ほんだただかつ)と同様に冷遇されている。
徳川主力軍の軍監として中山道を進みながら関ヶ原合戦に遅参した事が原因か、若い頃から正・竹千代(松平元康)の側近を務めていた事が遠因かは判らない。
この徳川四天王の処遇を持って、直臣に厳しくして「外様の不平・不満をかわした」とする解説もあるがそれは間違いで、他に家康としては殊更に優遇したくない「何かが在った」と見る方が自然である。
それでなければ、優遇されている井伊家や稲葉家、そして今から紹介する鳥居家など存在しない。
こうして三河以来の譜代に冷たかった家康だが、何故か鳥居家にはまったく態度が違った。
鳥居元忠は、幼少の頃から徳川家康に仕えた三河松平氏以来の老臣である。
その鳥居元忠の父・忠吉は岡崎奉行などを務めた松平氏の老臣で、元忠自身も家康がまだ「松平竹千代」と呼ばれていた頃からの幼い側近の一人である。
桶狭間の合戦に拠って今川義元が討ち取られたドサクサに、主君・家康が三河の本領に戻って三河を統一し独立した領国運営を始めると、元忠は旗本先手役となり旗本部隊の将として戦う。
父の死により家督を相続した元忠は、三方ヶ原の戦いや諏訪原城合戦で足に傷を負い、以後は歩行に多少の障害を残す。
元忠は、頑固一徹に「家康の絶対的忠臣であった」と言われている。
幼少の頃から徳川家康に仕えて幾度となく功績を挙げたが、元忠が感状を貰う事は無かった。
家康が感状を無理に与えようとしたが、元忠は感状などは別の主君に仕える時に役立つものであり、家康しか主君を考えていない自分には「無用なものである」と答えた。
家康が豊臣秀吉に帰服して関東に移封された時、元忠は家康から下総矢作に四万石を与えられ、家康の右腕として精勤する。
天下人となった豊臣秀吉からの官位推挙の話が度々あったものの、「主君以外の人間から貰う言われはないと断った」と言う逸話も残っている。
しかしお茶目な一面も在り、武田氏の滅亡後、重臣である馬場信房の娘の情報が家康に届き、元忠に捜索を命じる。
元忠は娘は見つからないと報告し、その捜索は打ち切られるのだが、それが暫くして「馬場の娘が元忠の本妻になった」と言う話を聞き、家康は「高笑いで許した」と伝えられる。
天下人・秀吉死後の豊臣政権に於いて、五大老と成っていた家康が会津の上杉景勝の征伐を主張し、諸将を率いて出兵する時、元忠は後を任されて伏見城を預けられる。
その家康らの出陣中に五奉行の石田三成らが家康に対して挙兵すると、伏見城は前哨戦の舞台となり、元忠は最初から玉砕を覚悟で僅か千八百の兵で立て籠もる。
ここで見せた鳥居元忠の行動には二つの謎がある。
一つは死を覚悟してまでの忠勤に、元忠の家康への想いの深さはいったい何だったのか。
やはり二人に、幼少時からの深い縁が在ったのではないだろうか?
そして今一つは、せっかく共に篭城してまで味方をしようとした島津義弘(しまづよしひろ)率いる八千の軍勢の伏見城入城を拒否した事である。
元忠は島津勢の裏切りを嫌ったのか、或いは玉砕覚悟の元忠が島津勢まで巻き込みたくは無かったのか?
関が原合戦の戦勝後、家康は忠実な部下・元忠の死を悲しみ、その功績もあって嫡男・鳥居忠政は後に山形藩二十四万石の大名に昇格しているが、これは三河譜代の他家と比べ、三河譜代の家としては異例の厚遇である。
つまり鳥居家と家康の間には、他者が入り込めない隠された絆が在ったのではないだろうか?
尚、元忠の子一人・鳥居忠勝(水戸藩士)の娘が赤穂藩の家老大石内蔵助良欽に嫁いでいる。
その夫婦の孫が元禄赤穂事件(忠臣蔵)に於いて主君に忠死した大石内蔵助良雄であった。
徳川四天王の一人井伊直政(いいなおまさ)は、今川氏の家臣である井伊谷の国人領主・井伊直親の長男として、遠江国井伊谷(現在の静岡県浜松市北区引佐町井伊谷)で生まれる。
父の井伊直親は、直政の生まれた翌年、千五百六十二年(永禄五年)に謀反の嫌疑を受けて今川氏真に誅殺され井伊氏は井伊谷の所領を失い、まだ幼かった直政も今川氏に命を狙われる事情となる。
一時、生母の再婚相手松下清景の松下姓を名乗るが、千五百七十五年(天正三年)徳川家康に見出され井伊の姓に復し、家康の小姓(稚児小姓)として閨で夜伽の相手をする男色(衆道)として最も深く寵愛され、家康子飼いの本多忠勝や榊原康政と肩を並べるように成る。
井伊直政(いいなおまさ)は、本多忠勝と同じく本能寺の変に於いて家康の伊賀越えにも従って居た側近中の側近の一人で、将に成っても軍の指揮を取るよりも戦闘に加わる激しい性格の為、戦の都度大きな戦功を立てている。
井伊軍団の軍装・井伊の赤備えは有名で、直政(なおまさ)本人も「井伊の赤鬼」と恐れられた。
関ヶ原の合戦に東軍(徳川方)が勝利した後、石田三成の旧領である近江国・佐和山(滋賀県彦根市)十八万石を与えられたが、その後彦根の地に本拠地を移して彦根藩とする。
江戸時代には、譜代大々名の筆頭として江戸幕府を支えた近江国・彦根藩の藩祖と成り、井伊家は明治維新まで存続している。
つまり、酒井忠次(さかいただつぐ)、榊原康政(さかきばらやすまさ)<、本多忠勝(ほんだただかつ)の三人は「徳川四天王」と呼ばれ、徳川幕府成立の功績第一の身でありながら、桶狭間(今川氏から独立)以後側近に成った井伊直政(いいなおまさ)を除き、今川人質時代を知る三人が徐々に遠避けられ揃って冷遇されている事は謎である。
人は一人では何も出来ない。成功も、周囲の協力が有っての成功である。
現代にも通用する事だが、オーナー経営者の陥り易い悪癖は「全てが自分の力で遣った」と自惚(うぬぼ)れる悪癖で、この意識が強くなると優秀な右腕を失う羽目になる。
徳川家康は、他の有力武将大名と比べ周囲の恩義に報いるタイプで人気が高かった。
現に織田信長には最後まで忠実だったし、関が原合戦の影の功労者・林(稲葉)正成(はやし/いなば/まさなり〕もワザワザ呼び出して手厚く処遇している。
所が、三河以来の古参家臣の扱いは余りにも冷たい。
この余りにも家康の性格とかけ離れた三河以来の古参家臣の扱いを見る時、考えられるのは只一つ、家康は彼等に「何の親近感も恩義も感じなかった」と言う事である。
彼等三河松平の古参家臣は、もう一人の正・竹千代の家臣で有って織田家重臣・平手政秀(源家・徳川を名乗れる)を養父に育った自分の家臣ではない。
つまり天下を取った方の家康にして見れば、松平古参家臣も感覚的には新参者だったのではないだろうか。
それにしても、江戸徳川幕府成立後の徳川四天王の内の三人を始めとする旧・三河松平家臣団の冷遇は得筆に値する。
この辺りの、本来なら幕府成立の永年の功労者である旧・三河松平家臣団の処遇には疑問が残る所であるが、松平元康(徳川家康)の双子入れ替わり説と、そして徳川秀忠=明智光忠説、明智光秀=天海僧正説、春日の局(斉藤福)の明智トリオが徳川本家を乗っ取ったとしたら、旧・三河松平家臣団を冷遇した事に説明が着くのである。
本多俊正の子として三河で生まれた本多正信(ほんだまさのぶ)は、徳川家康の側近として活躍し武将と言うよりは吏僚(官僚)として才が在った。
徳川家康の家臣としての本多正信の経歴は特に変わっていて、三河一向一揆が起こると正信は一揆方に与して家康と対立し一度家康とは袂(たもと)を分かっている。
そして一揆衆が家康によって鎮圧されると徳川氏を出奔して大和の松永久秀に仕え、久秀には重用された様であるが、やがて久秀の下も去って正信は諸国を流浪する。
その流浪の間、正信がどこで何をしていたのかは定かではないが、有力説では加賀に赴いて石山本願寺と連携し、織田信長とも戦っていたともされている。
その諸国を流浪した末、正信は旧知の大久保忠世を通じて家康への帰参を嘆願し、忠世の懸命のとりなしに拠って姉川の戦いの頃もしくは本能寺の変の少し前の頃に、無事に徳川氏に帰参が叶っている。
本能寺の変が起こって信長が横死した当時、堺の町を遊覧していた家康は領国・三河に帰る為に伊賀越えを決意するのだが、この時に正信も「伊賀越えに付き従っていた」と言われている。
その後、本多正信は主君・徳川家康に実務能力を認められて、家康が旧・武田領を併合するとその地の奉行に任じられて甲斐・信濃の実際の統治を担当している。
本能寺の変から中国大返し、山崎の合戦、賤ヶ岳の合戦、小牧・長久手(ながくて)の戦いを経て天下が羽柴秀吉でまとまると、主君・徳川家康が豊臣家に臣従し、小田原征伐後に家康が豊臣秀吉の命令で関東に移ると、本多正信は相模玉縄で一万石の所領を与えられて大名となる。
千五百九十八年(慶長三年)、豊臣秀吉が死去した頃から本多正信は家康の参謀としてその能力を発揮し大いに活躍する。
主君・徳川家康が豊臣家から覇権奪取を行なう過程で行なわれた千五百九十九年(慶長四年)の前田利長の謀反嫌疑の謀略など、家康が行なった謀略の大半はこの正信の献策に拠るものであった。
順風だった正信だが関ヶ原の戦いで徳川秀忠の軍勢に従い、信濃の上田城で真田昌幸の善戦に遭って関ヶ原本戦に遅参する失態を犯している。
この時本多正信は秀忠に上田城攻めを中止するように進言をしたが、「秀忠に容れられなかった」と伝えられている。
関が原の勝利後、本多正信は主君・徳川家康が将軍職に就任する為に朝廷との交渉で尽力し、二年後に家康が将軍職に就任して江戸幕府を開設すると、正信は家康の側近として幕政を実際に主導する様に成る。
また、前法主教如と法主准如の兄弟が対立していた為、本願寺の分裂を促す事を家康に献策し、本願寺の勢力を弱めさせる事に成功している。
千六百五年(慶長十年)、徳川家康が駿府隠居して大御所となり徳川秀忠が第二代将軍になると、正信は江戸にある秀忠の顧問的立場として幕政を主導し、秀忠付の年寄(老中)にまでのし上がった。
しかし余りに本多正信が権勢を得た事は本多忠勝、大久保忠隣ら武功派の不満を買う事と成り、幕府内は正信の吏僚派と忠隣の武功派に分かれて権力抗争を繰り返す様になる。
それでも家康の信任が変わる事は無く、五年後の千六百五十年(慶長十五年)には年寄衆から更に特別待遇を受けて、正信は大老のような地位にまで昇進し大きな権力を振るった。
本多正信は、大坂の陣でも家康に多くの献策をしているが、最晩年は病気に倒れて身体の自由がきかなくなり、「歩行も困難であった」とされている。
徳川家康に重用され権力を振るった本多正信だが、領地は最後まで相模玉縄に二万二千石(一説に1万石)しか領していなかった。
余談だが、徳川家の直臣に、南北朝時代に世良田氏と共に「南朝方として活動した」という伝承を持つ井伊氏や奥平氏が存在する。
しかし彼らは三河安城・松平家旧譜代の家臣ではなく、井伊氏は遠江国井伊谷に在って今川氏に仕え、奥平氏は遠江国で独立した小領主であったが、一旦武田信玄に臣従の後、信玄没後に徳川(家康)氏に仕えた。
いずれにしても、井伊氏や奥平氏が徳川家臣に納まったのは、家康が世良田庶流を名乗り始めた頃と合致している。
或いは影・竹千代が、正式に平手政秀(源家・徳川を名乗れる)と養子縁組をして、気分は源家の家系だったのかも知れないのである。
その後のこの両家に対する徳川幕府の扱いを見る限り、かなり突出した待遇である所から、少なくとも「南朝方末裔」と言う世良田系図のアリバイ工作的な意味が在ったのかも知れない。
奥平氏は幕府重臣として松平姓を名乗る事を許され、井伊氏は幕府重臣として老中・大老職を務めるなど、厚遇されて維新まで続いた。
その経緯から推測するに、影・竹千代(徳川家康)や二代将軍・秀忠に古参家臣団を敬遠する「何らかの必要が在った」と考えられるのである。
そこが歴史の面白い所だが、竹千代双子説の全ては状況証拠の積み重ねでその場に臨場した訳では無いから確証は無い。
しかし「その場に臨場した訳では無い」となれば、否定する事もまた確証は無いのである。
明智光秀の尽力で、天下を我が物にした徳川家康は、漢方を自ら調合するほど身体に気を使い、史上稀に見る性豪・艶福家としても知られている。
家康は、神(東照神君)に成る為に老いてなお性交に励み、相手をした女性(にょしょう)数知れず、多くの子を為し、親藩、譜代、外様、の別なく婿、嫁に出して、各地の大名と血縁関係を築き、藩幕体制を確立した。
この手法、遠い過去に須佐王(スサノオウ)が八人の子を為し、各地に送って当時支配の中心と成した神社を配置、「神として治めた手法」と酷似している。
「誓約(うけい)」と言う故事を学んだ光秀の助言だったのかも知れないが、表向きの仕事以外、家康の最も大事な天下取りの仕事は、何と「性交に励む事」だったのである。
徳川家康は艶福家である。
記録に残る正室・築山殿(清池院) 、継室・朝日姫(南明院) 、他に寵愛を受け、子を為して側室に収まった者は十八名を数え、為した子供は十一男・五女、落胤と目される男は七人に及ぶ。
そして亡くなったのは七十三歳強と、当時としては長生きをした。
十一男・徳川頼房(千六百三年生まれ)、 五女・市姫(千六百七年生まれ)は、いずれも家康六十歳代の子供である。
家康は平均寿命が五十歳代と言われた時代に、六十歳代で子を為している。
元気だったから六十歳代で子を為したのか、六十歳代でも側室相手に励んだから元気だったのか?
まぁ人間の脳は、必要性の信号波を受け取ればそのような対処の指令を身体中に出すような構造になっている。
反面的に言えば、必要性を感じなくなれば老いが進むのであれば、この家康の子創りの執念が家康の若さを保ち長生きをさせた原動力かも知れない。
性ホルモン・テストステロンは、男性の性的機能に影響する内生的・性ホルモンである。
当然ながら、生体の体内で自然生成されている。
しかし近頃の研究では、この生体に有効なテストステロンが低濃度に成ると、「身体活動能力や気力の低下が見られる」と言う。
家康は、現代で言えば年甲斐も無いスケベ親父である。
しかし環境が許さなければ、六十歳代で子を為すスケベ親父では通らない。
性的興奮は、テストステロンを活性化し、「性欲増強の働きがある」と言われている。
性ホルモン・テストステロンの生成は自然の要求に拠るものだから、或いは脳が刺激を受けてテストステロンの生成をするには、必要性を要する可能性があり、それであれば色気が元気の源かも知れない。
加齢と伴に減少する固体のテストステロン濃度は、老人の無気力化を促し、「鬱病状態との相関性が見られる」と言う。
当然ながら、テストステロン濃度の減少は、認知症などの疾患の発生に影響がある可能性がある。
性ホルモン・テストステロンは、老人の無気力を「改善する可能性がある事を示唆する」と言うテスト結果を出している。
古来から伝わる経験学的な「若さを保つ秘訣」は、まんざらホラではない。
つまり、加齢に逆らって若さを保つに必要なのは色恋沙汰と性的興奮である。
徳川家康のごとくに元気でいるには、体内のテストステロン濃度を上げる事である。
正に「性は生に通じる」が、脳の働きなのかも知れない。
しかしながら、あらゆる社会的制約は、こうした生理的な事情よりも、「良い年齢をして、見っとも無い」などと言う奇妙な感情が支配している。
いずれにしても、徳川家康はこの量産した子供達や孫、養子・養女を加えて有力大名と親戚・縁戚関係を築き、数代後には、そのDNAが大半の国主(大名)にねずみ算式に広がって行ったのである。
そこから先の広がりは、大名家の御落胤までは追い切れないので、四百年以上が経過した今、もしかしたらこれをお読みの貴方にも、家康の血の「カケラ」くらい入り込んでいるかも知れないのである。
家康の信条は、ギアチェンジ(変速)である。
企業も同じだが、およそ物事を運ぶに「行け行けドンドン」の勢いが必要である。しかし「それで上手く行ったから」と言って、絶えず勢いだけで行っては、加速し過ぎてコントロールが効かず、思わぬ落とし穴に落ちる事になる。
つまり上手く行った事が、そのまま未来まで上手く行く保証は何もない。
そこで、減速しながら次の加速時期を伺う。
事を成すには確かめる時間が必要なのである。そのしぶとさ(臆病さ)が、家康の武器だった。
天下取りに長寿が必要だった家康は漢方薬の知識に優れ、材料を取り寄せて自ら調合していた。
家康が天下を取るには、歳月が必要だったのである。
ギアチェンジ(変速)のタイミングを決定するのは正確な情報である。
ここで必要なのは、盟主に媚びない信頼のおける相手で、「イエスマン」ではない。
所が、往々にしてこの相手は、部下として扱い難いから盟主は避けたがる。
家康はそこが決定的に違って、絶えず部下に感謝しながら御輿の上にいた事が、ギアチェンジ(変速)を容易にしたのかも知れない。
この条件にピッタリあって冷静に広範囲に情報を拾い、的確にアドバイスをしたのが天海僧正(明智光秀)だったのである。
この物語を最初からお読みの方にはお判りだが、徳川家康が漢方薬に優れていたのは、松平家(徳川)が代々賀茂流(陰陽師)の血筋であった事を言外に物語っている。
家臣の加納家も加茂郷の出自であるから、恐らく賀茂流(陰陽師)の血筋である可能性が高い。
千六百年(慶長五年)に関が原の戦いで勝利し、豊臣家を六十万石代の大名規模に縮小させてほぼ天下を手中にした徳川家康は、服部半蔵に命じて比叡山に隠遁する南光坊(光秀)に使いを出し、雑賀孫市に預けていた庶長子・鈴木(一蔵)重康を「召し抱えたい」と告げている。
その家康不遇時代の落胤・鈴木(一蔵)重康は雑賀孫市に育てられ、雑賀衆残党の棟梁を継いでいた。
翌千六百六年(慶長六年)に、孫市の兄弟とも子とも言われる鈴木(一蔵)重康は雑賀鉄砲衆の鉄砲頭として鈴木孫三郎重朝(しげとも)を名乗り、徳川家康に召抱えられて徳川氏に仕えた後に、二代将軍・秀忠の命により家康の末子・頼房に附属されて水戸藩に移り、水戸藩士・鈴木家となる。
この一連の落胤・鈴木孫三郎重朝(しげとも)召抱えは家康の我が子への愛情であるが、水戸藩士・鈴木家は徳川一門に於いて古代史・葛城家に於ける賀茂(勘解由小路)氏のごとき立場に組み込まれて行く物語は、次の巻の「大日本史編纂」の下りで披露する事になる。
雑賀孫市や明智光秀が活躍していた頃の戦国期の九州で、この物語の趣旨としては我国初まって以来の異変が起こっていた。
異変の経緯をザッと紹介しておく。
中央で室町幕府が成立、懐良(かねなが)親王を奉じた「九州南朝政府」が崩壊し、室町幕府の管領の細川頼之が九州探題として派遣した今川貞世(了俊)により懐良親王と菊池氏は大宰府を追われる。
貞世の罷免後に九州探題に渋川満頼が派遣されると、菊池武朝は少弐氏と同盟して渋川探題を奉じた大友氏時ら大内氏と対立するが、後の戦国時代に大友氏により菊池氏の主力は滅ぼされ、幾つかの枝が九州各地に残る事と成った。
その後、およそ百八十年の歳月が流れ、戦国末期の九州では、室町幕府の弱体と共に菊池氏を滅ぼした大友氏が頭角を顕していた。
そして、我が国の神話の発祥の地・日向国に、とんでもない事態が生じた。
まったく別の神が、神話の地に降臨したのだ。
その土地の名が、「無鹿(むしか)」と言った。
無鹿(むしか)の地名の命名者は、九州北部の戦国大名・大友(藤原)宗麟である。
この日本の近代史に繰り返し登場する土地の名「無鹿(むしか)」は、名の付く以前は、「何と言ったのか。」名さえ知らない。
大友宗麟は、その覇権拡大能力で最盛期九州六ヵ国を治めた一代の英雄的戦国武将である。
無鹿(むしか)の地を大友宗麟が始めて見た時は、小さな丘に囲まれ川(北川)の流れる穏やかたたずまいの「ススキの原だった」と言う。
音からして、日本では使い慣れない。初めて耳にした時「ムシカ」と聞いて「うーん。」と思い、我輩は「無鹿」と字を確かめた。
無鹿(ム・シ・カ)は、ラテン語(イスパニア語)で「音楽の事だ」と言う。
なるほど大友宗麟は、洗礼名を持つクリスチャンである。本来、宗麟の元の名は義鎮(よししげ)で、入道(出家)して仏の道に入り、宗麟と名乗った筈が、キリシタンとしての洗礼名は「ドン・フランシスコ」である。
大友(藤原)家は、鎌倉時代初期に大友能直が豊後国守護職に任命され着任、南北朝時代は北朝に属し、以後、豊後、筑後に勢力を伸ばして一円の守護大名となり、以後、室町時代を経て戦国大名なり、宗麟の祖父、義長の代には戦国大名として活躍する。
鎌倉幕府の御家人を派遣する「守護・地頭制」によって赴任してきたのは、この豊後・大友(藤原)家だけではなく、日向・工藤(藤原・伊東)家や薩摩・島津(源?)家などで、特に大友家と島津家は、後に有力守護大名を経て戦国大名として生き残って行く。
島津家の祖は忠久(ただひさ)と言い、工藤祐経(くどうすけつね)と同じように源頼朝に命じられて、薩摩の国の地頭職として赴任した。
初代島津忠久は薩摩国・大隅国・日向国の三国の守護に加え、越前国守護にも任じられている。
島津忠久は、秦氏の子孫で九州の名族「惟宗(これむね)忠安」の子と言う事に成っているが、昔から、「源頼朝の落胤」説が付きまとっている。
いずれにしても島津家は、鎌倉幕府の命で中央から薩摩に赴任して来たのである。
こう書くと薩摩において島津家は「よそ者」の様に見えるが、実は、源氏そのものが隼人の血を引く一族らしい。
大友能直(近藤氏)と島津忠久(惟宗氏/これむね)に共通している事は、共に後の九州を代表する一族の祖でありながら、彼らの出自がはっきりせず、いずれも「母親が頼朝の妾であった事から、頼朝の引き立てを受けた」と伝承されている事であるが確証はない。
あの烈女・北条正子を正妻に持つ頼朝が、妾を持てたのだろうか?
しかし、日ノ本国を治めるには信頼出来る者を多く造らねばならない。
案外その辺りの誓約(うけい)の概念で、頼朝が妾を持つ事を正子が許したのかも知れない。
確実なのは、島津忠久の出とされる惟宗(これむね)氏も、大友能直の出とされる近藤氏も、この時代に至っては勢力を失い古いだけでさしたる一族ではなく、頼朝による抜擢がなければ「無名のまま歴史に埋もれていただろう」と言われる点である。
惟任(これとう)惟宗(これむね)なども呉族系九州隼人の血筋で、鎌倉期以前は中央の朝廷に地方役人として出仕しているに過ぎなかったのである。
九州・豊後国(現大分県)を本拠とした大友氏(おおともし)は、元は相模国に在って近藤氏を名乗っていた。
治承のクーデター・寿永の乱が起こって鎌倉幕府が成立すると、その近藤氏の当主・近藤能成(こんどうよしなり)に、源頼朝の妾を勤めていた相模国足柄上郡大友郷を領する波多野経家(大友四郎経家)の三女・利根局が嫁して来て能直(よしなお)を儲ける。
大友氏初代・大友能直は相模国愛甲郡古庄郷の郷司で在った近藤(古庄)能成の子として生まれ、最初は古庄を名乗るも父・能成(よしなり)が近藤を名乗るに際して同じく能直(よしなお)も近藤を名乗っている。
父・近藤能成が早世した為、近藤能直(初代・大友能直/おおともよしなお)は母・利根局の生家の波多野経家(大友四郎経家)の領地の相模国足柄上郡大友郷を継承して大友能直(おおともよしなお)と名乗る。
大友能直(おおともよしなお)は十七歳で元服、母・利根局が源頼朝の妾で在った縁で頼朝の寵愛を受け、源頼朝の内々の推挙に拠って官位・左近将監に任じられて頼朝の近習を務め、鎌倉有力御家人の一人として平家方が多かった九州の抑えに豊後国(現大分県)の守護職に任じられる。
大友能直は、豊後守護職拝命後も中央の官僚として鎌倉館に常勤し、「富士の巻き狩り」で勃発した曽我兄弟の仇討ち事件の際、近習として頼朝の傍近く本陣に在って弟の曽我五郎時致(そがのごろうときむね)の乱入に頼朝を警護している。
大友能直(おおともよしなお)については、母・利根局が頼朝の妾を勤めていた事から頼朝の落胤説を唱えるものも在るが、その事実に信憑性は無く、むしろ頼朝には能直(よしなお)が恋人の連れ子の様な気分だったのではないだろうか?
もし能直の頼朝落胤が事実なら、頼朝没後に我が子を含む頼朝の血族を根絶やしにし、執権家として鎌倉幕府の実権を握った北条正子が、大友氏を無傷で放って置く訳が無いからである。
能直以降の大友氏は代々豊後国大野荘を中心に九州で勢力を伸ばして鎌倉期から南北朝並立期、室町期を乗り越えて戦国期を迎え、戦国時代には大友義鎮(大友宗麟・二十一代当主)が活躍して豊後・筑前・筑後など北九州を支配した戦国大名に成長している。
大友宗麟は、「二階崩れの変」と呼ばれる自分の家の混乱の折、父・義鑑に対する部下のクーデターに乗じて、大友家の第二十一代当主に納まった。
千五百五十一年(天文二十年)イエズス会宣教師フランシスコ・ザビエルの知己を得、領内での布教活動を保護し南蛮貿易を行う。
大友家としては、当初は貿易目的の為にキリシタンを保護して居たのだが、次第に宗麟自身もキリスト教の教義に惹かれるようになり、千五百七十八年(天正六年)にキリスト教の洗礼を受け、ポルトガル国王に親書を持たせた家臣を派遣している。
大友宗麟は、ある種、織田信長に共通する奔放さと、強引さ、先進性を兼ね備えていたのかも知れないが、成功しても後が続かない所まで、良く似ている。
希代の英雄に、「有り勝なパターン」と言えるのだ。
大友宗麟は、他人の気持ちを考えない性格であり、家臣の妻を略奪したり、キリスト教をめぐり、宇佐八幡宮の別宮・奈多八幡宮の神官・奈多鑑基を父に持つ妻と離婚したり、酒色に耽るなど、キリスト教の洗礼を受けたとは思えない横暴な君主としての記録も残っている。
大友宗麟の再婚相手(正妻)に選ばれたのが、奈多八幡宮の大宮司、奈多鑑基(なたあきもと)氏の娘である。宗麟、二十五歳くらいの時の事だ。
奈多鑑基(なたあきもと)は、宮司ではあるが、武士にも成っていて、娘の奈多を宗麟に嫁がせた事で、大友家の重臣として勢力を為していた。
宇佐神宮には、朝廷からた度々の寄進が有る。
奈多八幡宮は、「宇佐別宮」とも言われる宇佐神宮の摂社(せっしゃ)の別格で、宇佐神宮に「朝廷」から新しく「御神宝」が寄進されると前の御神宝は「奈多八幡宮に納め直される」と言う、ほとんど同格に近い宮である。
その奈多家からの嫁(名も・奈多)が、キリシタンに帰依する夫を認める訳がない。
奈多は三十年宗麟と連れ添い、六人の子を設けるが、宗麟の改宗問題(キリスト教帰依)で離婚している。
勿論、腹心の奈多鑑基との主従の中も壊れてしまった。
それが家臣や一族の反乱を引き起こした要因となっている。
その大友家は、大友宗麟の最盛期には宗麟の指揮下、九州北部、東部の豊前、豊後、筑前、筑後、肥前、肥後の六ヵ国と日向と伊予のそれぞれ半分に及ぶ大勢力を誇った。
キリシタン大名の大友宗麟は、千五百八十一年(天正九年)に「宇佐神宮焼き討ち事件」を起こしている。
戦国の世とは言え、日本古来の最高神がおわす宇佐神宮である。
そして、比売大神(ひめのおおみかみ)は、戦いの神様であるから戦いの神を敵に回して勝てる訳がない。
原因が「宇佐神宮側の裏切り行為だ」と言う歴史家も居るが、異なる宗教に傾いた宗麟に、神社やその氏子がそのまま付いて行くものか。
己の力を過信した宗麟の「おごり」の結果ではないだろうか。
この「おごり」は、現在の権力者にも常に現れる。
政財界のドンの専横である。
「罰当たり」としか、言い様がない。
人間、「慣れる」と言う事は恐ろしいもので、権力を握る者ほど発想が身勝手に成る。
本来、歴史の在る「信仰の象徴」を焼き打つ事は、部下の心や民心を離れさせるので、君主として最も「禁じ手」の筈だ。
つまり、日本の信仰である神仏双方を敵に回した大友宗麟は、信長以上にハチャメチャな人物である。
大友宗麟は、豊後の国(今の大分県)を中心に活躍したキリシタン大名で、晩年息子の義統に家督を譲ってからは、無鹿(むしか・宮崎県延岡市内)にキリシタンの理想郷建設を夢見、その事業に着手したそうだ。
その大事な天孫降臨の神の地に、宗麟はキリスト教という異教の王国を作ろうとして、島津家に敗れたのだ。
「無鹿理想郷」建設の途に着いたばかりの事である。
それも、十倍以上の圧倒的に有利な大軍を率いていたにも関わらず、少数の島津軍に敗れている。
兵力ではない何かの強い力が、人知れず働いていたのかも知れない。
大友宗麟は、信長と同じ間違いをした。それも因果な事に、神の国・日向に新たな神の国を「打ち立てよう」としたのである。
長い歴史を持つこの国で、宗麟は多くの保守勢力を「力だけでねじ伏せよう」とした。
それで宗麟の敵は、妻や多くの家臣にまで広がった。
そして、大友宗麟が信じた神・キリストは、けして彼の勝利をもたらしはしなかったのである。
大友家は勢力を弱めつつも豊臣秀吉の九州征伐に便乗、秀吉の庇護で生き残ったのだが、キリシタン大名が災いして息子の代で秀吉に改易され、再起を図って関が原で西軍側に参戦したが敗れている。
無鹿(むしか)は、キリシタン大名大友宗麟の理想郷の名で、実は、大友宗麟が無鹿の地を知ったのは、工藤祐経(くどうすけつね)の子孫、日向・伊東氏の案内であった。
その大友宗麟が理想郷建設に燃えた無鹿の地を踏みにじり、大友宗麟の夢を打ち砕いたのが、紛れもなく薩摩・島津家である。
大友宗麟は、この戦いに敗れた後、急速に勢力を衰えさせて行く。
無鹿(むしか)から海、或いは海岸線を行けば、北浦の地に達する。
北川の地と高千穂の地は、無鹿(むしか)からそれぞれの川ぞいを行けば達する。
つまり無鹿(むしか)の地が、古代からの交通の要衝で在った事は容易に想像できる。
だがつい近世の宗麟の時代まで、大きな集落を形成した事実はなさそうだ。それ故、無鹿(むしか)以前の古い地名はない。
それでも、神の結界(けっかい)の様なものが存在し、人知れず何かの妖気で、争いを呼び寄せているのだろうか。
そんな事から我輩は、無鹿(むしか)を「ある種の神の霊域」ではないかと考えている。
延岡市(県の庄)の中心から北へ三キロ、五ヶ瀬川の三角州を形成する支流の一つ北川のほとり、今だに静かなたたずまいを見せる延岡市無鹿町である。
無鹿(むしか)は永い眠りに付き、明治の御世になって、再び国の転換期の舞台となるのである。
神代の時代から、無鹿(むしか)を通って、或いは無鹿(むしか)から、「歴史が創られている」のかも知れなかった。
今にして思うと、徳川二百六十年は、「信長の侮りから生まれた。」と言っても過言では無いのかも知しれない。
信長が侮ったのは歴史と言う名の怪物なのだ。
その歴史の根幹を成すのが、伊都(いと)国に端を発し、修験道の祖「役小角(えんのおづぬ)」に始まる勘解由小路党の存在だったので有る。
この物語に、エントリーする主要登場人物で、本当の意味で出自が源氏とはっきりしているのは、明智氏だけである。
織田も、徳川(松平)も、血統からすると枝の枝であり、豊臣(足軽・百姓の出?)などは、先代以前に歴史が無いので、系図を捏造する事すら出来ない。
ばかげた話だが、戦国の混乱の世を沈める為に、この世に現れた隼人族の末裔は、明智光秀ではなかったのか?
隼人であれば、朝廷に仇なす信長を見過ごす事は出来ない。
しかしまた、難局に陥った日本を一度壊して、新たなる時代の端緒を開けるのもスサノウの化身である筈だった。
光秀が隼人なら、自らの存在を抹殺してまで知略を尽くして太平の世を実現したのもうなずける。
人間、結果を恐れるから一歩が踏み出せない。
それでは、部下が何かにチャレンジなど出来る訳は無い。
停滞は敗北に繋がるから、部下に結果を恐れさせないのがリーダーの資質である。
そこで重要な見極めは、部下に対しての「任せる範囲の設定」で、その能力に長けた者が、結果勝利を得る。
つまり、マネージメントの上での繊細さは必用だが、それは部下に一々小言を言う事ではない。
繊細に部下の能力を判断しながら、大胆に仕事を任せる事である。
その辛抱強さが無ければ、最初からリーダーなどやるものではない。
織田信長は、その才には秀出(ひいで)ていた。
彼の場合致命的だったのは、彼の考え方が当時としては飛び抜け過ぎていて、その一事が当時の氏族社会では突飛過ぎた事である。
織田信長が人間としての思い遣りより覇権を優先した点では、後醍醐天皇と同じだった。
その凄まじい覇権への思いは、時として過酷な決断を下す。
覇権への思いが強くなるほど味方は減り、孤独に成って行くのが権力志向への代償である。
確かに強い意志は最大の武器だがこれは方法論の問題で、人間には個性があり例え腹心の部下でも「ものの価値観が同じ」と思う事は錯覚に過ぎず、明智光秀さえも敵に回してしまった。
織田信長の宿敵、明智光秀(天海僧正)は誰よりも信長の理解者であり、彼は織田信長を全否定したのではなく、氏族社会との妥協点を見出して修正し、徳川家康の幕府成立に結び付けている。
その辺りの事は、明智光秀(天海僧正)ならでの才能で、それを認めていたところが家康の凄さである。
俺が、俺がの感違いリーダーにはけして出来ない芸当で、徳川家康成功の秘訣がこれで、その精神が次代・秀忠を支える譜代の家臣団を形成した。
そもそもこの戦国の大乱は、室町幕府成立に端を発している。
後醍醐天皇の呼びかけに応じ、足利尊氏や、新田義貞が鎌倉幕府を滅ぼし、後醍醐天皇が「建武の親政」(天皇の直接統治)を行うが、失敗する。
足利尊氏と後醍醐天皇(大覚寺統)が皇統問題で対立し、経過は割愛するが、後醍醐天皇方が敗れて吉野に逃れる。
足利方は、光巌上皇―光明天皇(持明院統)を立てて室町幕府を成立させるが、吉野に逃れた後醍醐天皇方はこれを認めず、南北二つの朝廷が並立して、四十五年に及ぶ武力対立が続いた。
これを、南北朝時代と言う。
この騒乱のなかで、有力部将が力をつけたり失ったりしながら、入れ替わって行き、後の守護大名の成立に辿り着いて行く。
やがて守護大名は、勝手に領地争いを始め、幕府の統制は利かなくなる。
しかしながら、この入れ替えの学習が、その後の「下克上」に形を変え、戦国大名の割拠する時代を作り出してしまったのである。
この戦国時代の幕開けを告げるのが「応仁の乱」であった。
つまり時の権力者が、朝廷に手を入れて、意のままにしょうとする時、或いは、天皇が自らの意思で、直接統治をしようとする時、日本中が混乱に巻き込まれるのだ。
それは、歴史が物語っている。
この事態を知る二人の英雄は、それぞれ異なる選択をした。
信長は根底から取り除こうとし、光秀は温存して象徴化した。
皇室の存続を守り、江戸二百六十年の太平を築いたのは、誰あろう明智光秀だったのである。
しかしながら、光秀には名誉は無い。
彼は影に徹して、目的を遂げた。
この話、今風に簡単に言ってしまえば、「保守抵抗勢力が勝った」と言う事である。
勘解由小路党・所縁(ゆかり)の修験道の拠点、紀伊半島がいかに重要なのかは、徳川幕府成立後の藩の配置政策に見える。
高野山寺領を除く紀伊国全域および伊勢国南部が含まれる広域に、家康の十男徳川頼宣(よりのぶ)が入国し、紀州徳川藩(御三家)五十五万万五千石を領した。
残りの伊勢の国北部は、家康の異父弟、松平(久松)定勝が、桑名藩十一万石で入り、その後松平(奥平)氏、松平(久松)氏と徳川親藩で押さえたのである。
他国に興った各種の宗教同様、わが国の原始宗教及び古代国家のリーダーである呪術者、占術者に取って、音曲(音楽)は「表裏一体の重要なアイテム」だった。
音曲(音楽)は、人の心を安らぎに導いたり興奮させたりの、心地良い心理的効果をもたらす。
つまり脳に好影響の刺激を与え、健康改善の為の音曲(音楽)効果もあるそうで、信仰心と音曲効果が相まって、神の奇蹟をもたらす事例はある。
しかし冷静に考えると、それらの奇蹟は科学的解明が進み「説明できない神の力」とは現在では言い難いものになりつつある。
だが、永い事「理解できない信仰の効果」と人々に解されて、信仰を集める為に効果を発揮した。
そうした音曲(音楽)が雅楽や神楽(舞)となり、神社や陰陽修験に取り入れられ、信仰を具現化する手段となる。
やがてそれらは時代とともに特化発展して、芸能の分野になった。
中でも、芸能と陰陽修験の諜報活動は相乗効果を狙える事から密接な形で始まり、密接なまま発展して江戸初期まで続いた。
観客が涙した義経の美談も、実は原作が勘解由小路党の草の仕事である。
言うなれば歴史の転換期及びその後の民意誘導に、大きく寄与するのが世論をコントロールする事で、今で言うマスコミ操作は芸能を握っていた勘解由小路党の独占だった。
従ってこうした芸能には、必ず或る意図があり、必ずしも正確なものでは無い。
神楽舞に始まる奉納の祭り舞、歌舞伎、能、全てその脚本には、観客に対するメッセージの意図があった。
江戸期に入り、幕府が大衆芸能を統制するまでは、帝の為か勘解由小路党と組する者に有利な演題だったので有る。
それ故、芸能が特化するまでは、武術の達人が芸能の達人でもあった。
芸人に身をやつして情報収集に当たると同時に、情報操作もしていた事になる。
雑賀孫市は、阿国の歌舞技(かぶき)小屋の用心棒をしながら、結局余生を安穏に過ごす日々の選択をした。
もう、誰かの野望や政争に巻き込まれるのはまっぴらだった。
従って、復讐の狼煙(のろし)を上げる事も無く怠惰に生きていた。
用心棒と言っても、酔客を小屋からつまみ出すくらいで、平和なものである。
そこで始めて、日々の愛しさを孫市は知った。
「もう、わしは疲れた。後の事は、頭(かしら)にした孫三郎重朝(しげとも)を使ってくれ。」
雑賀孫三郎(重朝)は、孫市に次期・雑賀衆鉄砲頭を任された男だが、光秀にも彼が孫市の兄弟なのか子なのかも判らない。
孫市に孫三郎重朝(しげとも)を託された天海僧正(明智光秀)は、関が原の合戦の後に徳川家康に推挙、その後秀忠の命により、家康の末子・頼房に附属されて水戸藩に落ち着き、水戸藩士・鈴木家となって大仕事をするが、その話は次章に譲る事にする。
全国に散らばる穂積姓系鈴木氏は本家筋とみなされ、熊野三山信仰と関係が深い。
穂積姓鈴木氏は熊野新宮の出身で、元来は熊野神社の神官を務める家系である。
平安末期から江戸初期の歴史に登場する鈴木氏は、穂積姓系鈴木氏の流れを汲む藤白系鈴木氏と言われ、紀伊国藤白(現在の和歌山県海南市)に移り住んで王子社の神官となった鈴木氏で、源義経に郎党として仕えた鈴木三郎重家・亀井六郎重清の兄弟、雑賀(さいが)鈴木氏も三河(みかわ)鈴木氏もいずれも藤白の鈴木氏の分家とされている。
藤白鈴木氏から出た鈴木三郎重家については陸奥国衣川戦死説と、脱出、秋田土着して帰農の鈴木氏(秋田県羽後町)が後裔して残り、北陸加賀国(石川県鳥越)にも三郎重家の子重満の後裔と言う鳥越鈴木家の伝記が存在する。
実は、義経の都落ち(逃亡)後、新たに伊勢で加わった鈴木(三郎)重家を秋田(秋田県羽後町の鈴木氏)に逃がしたのは、伊勢(三郎)義盛である。
与えた使命は、頼朝陣営撹乱の為の「義経生存説」の流布だった。
鈴木重家は、秋田で帰農するまでに強行軍を行い、東北全域から北海道の一部まで落人の義経一行を演じて見せた。
これが見事に嵌まって、後に義経生存「チンギス・ハーン転身説」まで登場する。
安土桃山期の雑賀鈴木氏は、紀伊国十ヶ郷(現在の和歌山市西北部、紀ノ川河口付近北岸の和歌山市平井)辺りを本拠地としていた土豪で、紀ノ川対岸の雑賀荘を中心に周辺の荘園の土豪達が結集してつくっていた雑賀衆の有力な指導者の家系である。
通称雑賀孫市は鈴木孫市が本当の名であったが、複数説があり、「孫一」と言う者も存在し、こちらは雑賀を裏切り「秀吉に従った。」と言われている。
雑賀(鈴木)孫市の子孫(しそん)・鈴木重朝は伊達藩で砲術指南役として一流派を興し、水戸徳川藩(御三家)に三千石で召抱えられている。
いよいよ次章で、古代葛城(賀茂)王朝が未来に仕掛けた陰陽師の使命「大王(おおきみ・天皇)の密命」の謎解きをする。
そこで、この章の余談だが、ちなみに全国一位の佐藤姓は平安期に全国に散った藤原氏からきている。
全国二位の鈴木姓は、「穂積姓から分かれた姓」と言われ、修験道の聖地で始まった。
この雑賀鈴木党の枝が、吉野・熊野・伊勢の神社の使いとして、室町末期から江戸期にかけて、全国に散り、主に各地の神社の神官を任じて土地に根付き、広がった。
御輿に担がれる事に長けていた家康は、禁じ手を知っていた。
「お前は仲間に人気が無い。」は、人材を失う事が多い三成型の「上に立つ者」の禁句である。
つまり仲間に人気がある者は同じ位置に群れる者達で、総合的に判断すると、組織に於いて貴重な存在は仲間内で「人気が無い」が、独自の見解を持ち迎合しない人物である。
家康の我慢は、家臣の行動にも及んでいて、独自の思考を容認する能力に長けていた事である。
各々の夢のかけ方は、各々の考え方で多様な方法が出現する。
戦国期に登場した雑賀孫市は、限りなく自由人を標榜し、明智光秀は己の夢の為に存在を抹殺した。
面白い事に、表舞台で覇権を争った織田信長、豊臣秀吉、徳川家康の三人は、全く別の性格を持ち合わせていて、天下取りに「定型が無い事」を示している。
「定型が無い」と言う事は、「データー的な判断が出来ない」と言う事で、姓名判断も生年月日判断も「気休め事」になる。
あえて拘るなら、そうした判断要素の全てが、総合的に「大吉」でなければ、天下人など成れないのである。
現代でもそうだが、こうした夢を標榜する覇権心理の背景には、「自己顕示欲」が存在する。
この「自己顕示欲」が有るからこそ、人は未知に挑戦する。
それに、偶然の未知が重なって、未来が刺激的に始まる。
その偶然の未知に運命を感じるからこそ、人は占術や呪術で「何とかしよう」と試みる。
しかしながら、たとえ占術で「何か一つの要件を満たしたから」と言って、それだけで総合的に要件が満たされる事は無い。
企業の活力や危機管理を担うのは人材である。
所が、現在の企業の大半は「利益優先主義」の身勝手な企業論理が幅を利かせて、正しい人材の育成を成していない。
利益優先主義の人材だけ育成して、本当に企業を「守り発展させて行ける」と思っているのだろうか?ひいては、この方向で国の将来を正しく導けるのだろうか?
所が、そうした正しい人材意識が経営陣に欠落しているから、本当に事(資金意外の経営危機)が起こった時「何だろう?」と、自覚さえないのが現状である。
実はこの部分の本質が取引先や下請け先に対しても同じで、利益に拘って無形の財産を捨てて来たのが最近の日本経済界で、指導しているのが、頭でっかちな経済学者と政府官僚であるから、「何をか言わんや」である。
それ故日本の産業は、磐石さに欠け、厚みのない不安定なものに成っている。
形振(なりふ)り構わない経済界と官僚や政権政党の強引な大企業優遇策・・・学校の教育を言い立てる前に、範となるべき大人達の醜さ、口を拭って居て良いのであろうか?
本質を冷静に見る目は、仲間内に「人気が無い」が、独自の見解を持ち迎合しない人物が、持ち合わせているのである。
織田信長、豊臣秀吉、徳川家康、一見まったく異なる性格の指導者だが、一つだけ三人に共通した成功の秘訣が在る。
その秘訣はトップが現場で自ら確認する事であり、そして三人ともそれぞれに、当時の社会で「異質な人物達」だった事である。
組織が大きくなると、現場を知らない本部が、机上の計算で末端に指示を出す。
これが今で言う本部マニアルであるが、現場に言わせると無駄が多く「改良点が山積だ」と言うのである。
信じる道をひた走って、漸く奇跡的に天下人に上り詰めながら、子孫の行く末を心配した点で、豊臣秀吉は平清盛に共通している。
恐らく、本人の存在が強烈過ぎて、存在感が発揮出来ずに居る嫡男・世継ぎとの権力の引継ぎが遅れた点では、織田信長を含め「自分を信じ過ぎた為」の失態と言える。
まぁ、世継ぎにしたくても向いていない場合もあるから、子孫の適正も考慮する必要はあるが、実は、世継ぎに帝王学を施し、バトンタッチの支度を早くからしておくのが経営手腕で、怠ると「一代限りに成るのが世の常」と言う事に成る。
信長の、いつでも戦える常設軍の整備や秀吉の水攻め戦法など、戦術面だけを考えるとユニークな発想で「なるほど」と思わされ、評価され得るものである。
人間は、基本的に目先の短絡的感動を欲する思考回路が優先的に働くプログラムに成っているから、彼らの活躍には一定の満足感を得られる事であろう。
しかし、膨らんだ英雄視の思いに水を挿す様で悪いが、これらの戦法は「勝つ為に手段は選ばない」と言う庶民にとっては禁じ手で、知恵としては余り品挌のある方法ではない。
つまり彼らは、他の武将達が持ち合わせていた神の領域(五穀豊穣)を「ぶっ壊した」のである。
庶民は、目先の短絡的感動で満足し、事を「可」と済ませては成らない。
視点を変え、覚めた目で英雄達の手法を検証し見る必要があるのだ。
物事は常に天秤の上で作用するものであるから、良い事が有れば必ず悪い事も付いてくる。
常設軍の整備は、武力行使には有利だが「作付け」と言う食糧生産の機会を潰し収穫時期をも配慮しない。
水攻めで潰された水田は、復興するに相当な労力が必要な筈である。
つまり、安土地・桃山期の英雄達の権力掌握手段は、非権力者(庶民)には非常に迷惑な側面を持っていた事を忘れてはならない。
こうした言わば権力者の論理は、必ずしも非権力者(庶民)の利に適うものではないのだが、どう言う訳か、夢を託すがごとく非権力者(庶民)はこうした権力者の活躍に胸を弾ませ、英雄視する。
日本人が考える英雄像は、粗方(あらかた)そんな短絡的感動を満足させるものである事が実は問題なのである。
現代に於いても、この権力者の論理や非権力者(庶民)の心理は発揮され、結果的に「庶民の生活をぶっ壊した」劇場型人気政治の総理大臣と学者大臣の人気は高い。
その人気の影で権力者の論理は進行し、庶民が気付いた時はあらゆる面で格差が広がり「弱者高負担時代」が着々と形成されつつある。
織田信長は、「神に成ろう」とした男である。
豊臣秀吉は、神を「利用しょう」とした男である。
そこで真打の登場だが、徳川家康は「神にして貰った男」である。
この違いが、実は政治や経営のヒントになる。
要約すると、「神にして貰った男」の生き方は、身内の結束に努め、部下に感謝して大事にし、優秀な補佐役に恵まれるべく生きた事である。
この生き方が、企業経営者の指針に成ってしかるべきである。
その論理で行くと、刺客を送ってまで身内の代議士を締め出し、本物の身内(離婚)を追い出し我が子に会おうとさえせず、日本国の政治に強権独裁を貫いた織田信長を信奉した総理の晩年が、恵まれたものでは理屈に合わない。
信長を信奉する総理は、枠組みを壊そうと言う精神だから、近隣諸国の感情など眼中にない。
つまり、破壊する事を心情としていて彼に崇高な哲学などない。
それ故、彼が本格的に「織田信長を信奉する」と言うのなら、理屈では皇統をも壊す事になる。
しかし本家・信長は、そんなまがい物ではない。
何が信長を「天下布武」に走らせたのか、その答えは簡単である。
信長の天才性の根本にあったのは、既存の物を鵜呑みにはしない「限りなく純粋な心」で、それこそが彼の発想の原点だった。
この時代に、その「純粋な発想」を追ったからこそ、信長は戦国を終わらせる切欠を造り得たのである。
だいぶ小粒にはなるが、明治維新を成し遂げた勤皇の志士達に共通したのも、「純粋な発想」である。
現代の政治家に欠けているのが、この「限りなく純粋な心」ではないだろうか?
織田信長の唯一の失敗は、自らの思考と価値判断が充分に彼ら二人に伝わって、「意を同じくしている」と錯覚して慢心していた所に有る。
多くの権力者に共通する事だが、「相手が言わないから良い」と思っているのが間違いで、相手を知るには問答無用で押し付けずに日頃から相手に言わせるべきである。
これは人を使う権力者に有り勝ちな間違いで、実は我が子と言えども思考や価値感には違いが有る。
信長は迷わない生き方をした。
光秀は何時(いつ)も迷いながら生きて来た。
生き方は同じではないが、それぞれが逃げないで精一杯生きて結末を迎えている。
織田信長は古い秩序の破壊者で明智光秀は古い氏族の血を誇りとし、豊臣秀吉は氏族外の代表だった。
この三人、同じ船に乗りながら別の夢を見る同舟異夢の関係だったのである。
いや信長は、少なくとも明智光秀だけは「意を同じくしている」と信じたかったのかも知れない。
風雲の中に身を置いて命をすり減らして生きた英雄達と平凡だが平穏に暮らした民人達と、果たしてどちらが幸せな生涯を送ったのだろうか?
いずれにしても、双方そんな生き方しか出来なかったのかも知れない。
驚いた事に、過去の様々な出来事がこれから先、まるで吸い寄せられる様にある一点に向かって続々と集中して行くのが我輩には見えていた。
その符合には、戦慄さえ覚えるものが有った。
【陰陽五行九字呪法】
◆皇統と鵺の影人◆
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作者本名・鈴木峰晴