【話の展開】
◆第一巻・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・【第一巻に戻る。】
序章の【第一話】鵺(ぬえ)と血統
(前置き)・(神の民人)・(身分差別)
序章の【第二話】大きな時の移ろい(神話〜平安へ)
(国の始まり神話)・(飛鳥)・(大化の改新)・(妙見信仰)
◆第二巻・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・【第二巻に戻る。】
本章の【第一話】源平合戦(源氏と勘解由小路)
(平将門と村岡良文)・(八幡太郎と奥州藤原)・(源頼朝・義経)・(北条政子と執権)
本章の【第二話】後醍醐帝(真言立川と南北朝)
(醍醐寺と仁寛僧正)・(南北朝と真言密教)
◆第三巻・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・【◆現在この巻です】
本章の【第三話】皇統と光秀(信長・光秀編)
(織田信長と鉄砲)・(桶狭間)・(本能寺)
◆第四巻・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・【第四巻に飛ぶ。】
本章の【第四話】皇統と光秀(家康・天海編)
(関が原)・(大坂落城)・(天海僧正)・(系図・双子竹千代)
◆第五巻・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・【第五巻に飛ぶ。】
本章の【第五話】維新の大業(陰陽呪詛転生)
(人身御供)・(江戸期と大日本史編纂)・(陰陽占術)・(明治維新)
【陰陽五行九字呪法】
◆皇統と鵺の影人◆
第三巻・本章の【第三話】 (織田信長と鉄砲)皇 統 と 光 秀(信長・光秀編)
◇◆◇◆(織田信長と鉄砲)◆◇◆◇◆
いよいよ待望の戦国期〜安土桃山時代に筆を進める。
それにしても、ここまで来るには我輩にして長い道のりだった。
この時代まで下がると「大王(おおきみ)の密命」は、最早(もはや)その当事者さえもそれと知らずに、深く静かに実行されていた。
密命により陰陽修験が仕掛けたシステムが、その目的も知らずに勝手に機能していたのである。
実はこの時代が、皇統最大の危機だった。
表面的には戦国武将同士の覇権争い、それとは蚊帳の外のはずの皇統が「最大の危機」と言うと、にわかに信じ難いかも知れないが、それをこれから証明したい。
物を盗めば泥棒、国を盗めば英雄、人を殺せば殺人者、大勢殺せば偉大な英雄、世の中の「矛盾に満ちた感覚の世界」は、人間の価値観に何をもたらすのか?少なくとも、「善良なお人好し」は英雄には成れない。
何しろ現在の用法と違い、この時代の氏族(武士)が「懸命に生きる」と言う事は、名誉欲、支配欲を武力で勝ち取るのであるから文字通り「命懸け」で生きる事であり、現代の様に甘っちょろい建前の「懸命に生きる」では無い。
つまり時代背景に於いて、「懸命に生きる(命懸け)」は氏族(武士)に生まれた時からの重い宿命で、それ故にその厳しい生き方に共感を覚える現代人も多いだろう。
勿論、大概の人間は平凡な人生を送り生涯を終える。
結局の所、誰にとっても人生明日はどうなるか判らないもので、それ故に人は主人公の刹那刹那の命賭けの生き方に共感し、悲劇のヒーロー悲劇のヒロインに感情を移入する。
確かにその「懸命に生きる(命懸け)」と言う精神的な物には観念的魅力を感じ、歴史ドラマにそれを求める方も多い。
娯楽として痛快な擬似体験ストーリーを望むならそれでも良い。
自分が出来ない生き方に憧れてヒーロー話しに夢を託しても悪いとは言えないが、歴史に登場する人物は人を殺して権力を手に入れ、現実はさほど格好が良いものではない。
ドラマチックな武勇伝や恋愛劇は痛快でロマンチックではあるが、しかしそれは脚本家の仕事で在って「歴史的事実」とは言い難い。
個人の生き方に格好をつけて夢を見るのは勝手だが、凡(およ)そ現実的でない建前ばかり言われても「はぃ、そうですか」とは行かないのである。
人間は何かに拘(こだわ)ると真実が見えなくなる生き物で、我輩に言わせれば建前ばかり言う奴は独り善がりの格好を付けているだけである。
面白味には欠けるかも知れないが、氏族(武士)の首領・棟梁の類が直接切り結ぶ事など滅多に無かったし、この時代の婚儀は家と家との結び付きが一般的だった。
歴史物語は、主役・敵役や敵味方の描写が在って初めて面白くなる。
しかし現実は、双方「ドッチもドッチ」と言う方が正しいのが権力闘争・領地争いの真実である。
「判官贔屓」と言う言葉もあるが、それは民衆の希望的な心情に過ぎず、物語の大半は善玉・悪玉を作って読者を愉しませる事に腐心する。
それで、そうした真実は情緒的な理由で綺麗事に脚色されて今日に伝わっている。
「時代が違う」と言ってしまえば確かに一言で済むかも知れないが、人を殺したり、命令して殺させたりするのは悪い事に決まっているだろう。
「人を殺したら幸せになれない」が人間本来の心ではないか。
しかし、血塗られた殺戮の英雄だけが神に祭られている。
その矛盾に、日本人の二枚舌を感じる。
ばかげた事だが、大量殺戮者のみが業績を讃えられ神になっているのだ。
勿論、歴史は「やり直しが効かない」から神社に祭って、奇麗事にその業績を「誤魔化す気持ち」も判らない訳ではない。
だが一歩間違えれば、松本智津夫(麻原彰晃)のごとき狂信者が現れ暴挙に出ても、まかり間違って国家転覆が成功し権力を掌握すれば良い理屈になる。
英雄に憧れる庶民の心情は、知恵も力も無い庶民が己に出来ない能力を発揮して偉大な事を成し遂げる夢を、代わりに適える事に在る。
基本に在る心情が夢・憧れであるから、現実部分の醜さは切り捨ててしまうのだが、時を経るとその夢・憧れだけが残って歴史の英雄は生まれる。
娯楽としてはそれで良いのだが、冷静に考えると英雄達の評価の影には必ずダーティ(汚れ)な部分が存在する。
殺戮の大王が歴史的英雄なら、戦後六十年間「誰も成し得なかった弱者切捨て」を断行し、在任中五年間に「毎年未曾有の自殺者(毎年三万人以上)を生み出した」信長を信奉する総理大臣も、後の世では「光の部分だけが当たって」、英雄として名を残すのが一般論かも知れない。
とは言うものの、彼の政治は実情を把握しない机上の論理を振り回す学者大臣と組み、非情の確信を持って「弱者切捨て」を図り、経済の立直しを敢行した点で、「特筆すべき罪」とも言える特徴がある。
これで例え経済が好転しても、やり方はけして赦すべき良い方法ではない。
結論は後世に出るだろうが、正確公正な真実を伝えるべきである。
もし、彼らを賞賛する者あれば、その者も自分だけ良ければ他人は考慮しない非情な考えの同類と見て間違いない。
どんな人間の行動にも、「思い」と言うものが込められている。
自らの力量から「自分では出来そうもない」と判断した民衆は、自らの儚(はかな)い夢の思いを、代わり成し遂げてくれそうな英雄に託したがる。
実はそれが間違いで、例えたそうアピールをしていても民衆の思い入れが利用されるばかりで、英雄が民衆の為に替わって行動する事がないのは歴史が証明している。
従って民衆の熱烈な英雄支持は、当る事のない宝くじを、「今度こそは当たる」と、夢を夢として、夢を買う為にするような儚(はかな)いものである。
そう言う民衆心理を、見事に掴んだのが小泉(元総理)氏だった。
鬼も鵺(ぬえ)も、実は人間の誰しもにこっそり住んでいる魔物である。
しかしながら、大半の民(小市民)に住んでいるのは、精々「小鬼」である。
所が、中に大鬼が混ざっている。
ご承知の通り、「大鬼」が密かに心の中に住んでいるのは、官僚や政治家、大企業経営者等の権力者である。
つまり、彼らの心に大鬼が住んでいるからこそ、権力者に成れたのである。
従って、大鬼の冒す罪ほど大勢の犠牲者を伴う大罪を犯す事になる。
何処の国でも同様で有るが、「自分達は優秀な民族である」と言いたがる。
しかし本来人間は、普通に善人で有り、普通に悪人で有る。
それを「誇りを持たせる為」と称して捻じ曲げる所から、胡散臭さは始まる。
歴史に登場する人物の上面だけを「綺麗、綺麗」に物語にして、殺られる方は悪く描き、「さも殺られて当り前」と納得させる。
そして、大量殺戮者が、英雄になる。
まやかしの英雄は、演出が上手である。
そしてある種の神格化を狙う。
拉致も監禁も犯罪だが、これが国家単位だと始末に負えない。
だからこそ、国家を預かる者は品格を持たねばならない。
処が、甘言を弄して国民生活の犠牲を踏み台に、体制維持を図るのが近頃流行りらしい。
良く映画などで、権力者が吐く台詞(せりふ)に「この虫けらめ」と言うのがある。
貴方多分、架空の世界の事で「自分の事ではない」と思っているだろうが、本当にそうだろうか?
現実に影で「この虫けら共め」と舌を出している奴が居そうではないか。
最早(もはや)医療費が払えなくて、統計上は単なる病死になっている生活困窮者の死も、介護費用を捻出できずに心中を選択する老夫婦や親子が増えている現状をイレギラー(特殊事例)の他人事と割り切るのが、政治の在り様と言えるのか?
自殺者数の増加について、僅(わず)か「数千か万の違い」などと考えないで欲しい。本来命は一つでも大切なもので有り、その命に軽重は無いはずである。
昔の戦闘の場合、大将が討ち死にすれば総崩れで、大軍同士の戦いでも数百の死者が出るのは大変な戦だった。
近代の大戦には及ばなくとも、現在の政治に追い詰められたホームレスと自殺者は、大変な数字で有る。
現に、米国対イラク戦の米国の戦死者数(開戦後〜二千六年五月現在まで二千五百人弱)は、日本の年間自殺者に及ばない。
ヒッソリと目立たない個人の死は、誰も振り向かず問題にもしない。
個人が行えば犯罪に成る事でも、国が行えば政策に成る。
それで弱者が切り捨てられても、文句の行き所は無い。
関わり合わない者には関心が無い事だが、当事者には大変な負担になる。
しかしそれが少数だと、声なき声に終わるのは今も昔もさほどの差はない。
人の命の重みは然して変わりは無い筈だが、為政者の論理にすると命には軽重が在るらしい。
そこが、建前と本音の違いで、「痛みに堪えろ」とは良くも言ったものである。
勿論、国家として統治する上で理念は必要であるから、これを「騙している」とばかりに、一方的な非難は言い難い。
しかしながら、統治するには相応の配慮が必要で、権力者側の論理に偏り過ぎると、不幸な民を大量に生み出す失政をする事に成る。
法も秩序も哲学も、人間界には必要だが、どうやら権力者に「情」は不要らしい。
南北朝時代以後、勘解由小路党の面々は二つに分裂する。
醍醐寺が、南朝側に立つ報恩院と、北朝側の三宝院に割れた事によるのだが、両者とも既に統一した動きは出来ず、身内を中心とした各自の組織が、いかに生き残り、いかに勢力を拡大して行くかに腐心する時代となり、中には集団の長として頭角を現す者も増えて行った。
それから百六十年あまり、戦国時代になると、所謂(いわゆる)氏素姓を持つ百姓衆に、半農半武士を生業とする「地侍(じざむらい)」がかなりの数に上り、彼らは田畑を守りながら、領主の要請に応えて出陣するようになる。
賀茂氏本家は室町時代には勘解由小路家(かでのこうじけ)を称したが、「戦国時代に断絶した」とされる。
しかし影・勘解由小路党の支流は草となって全国に散り、その有力な一つが戦国期に登場する美濃国妻木郷・妻木勘解由家(つまきかでのけ)や三河国加茂郡松平郷・松平家(まつだいらけ)である。
そして、その血統の家に生まれた男達の宿命とも言える一瞬足りととも心安らげぬ過酷な人生を、戦国武将達は辿る事になる。
まぁ、元々彼らは武装開拓民の子孫であるから、氏上(うじがみ)にあたる部族長クラスは別にして、枝葉の傍流ともなればこれは当然の構造と言える。
そして鍬(くわ)を捨てた専業の「武士」が主流になるのは、まだこの戦乱が収まった後の事である。
応仁の乱、明応の政変を経て戦国期に入ると、環境の変化で勘解由小路党も本来の存在意義を失い、それぞれが変化を遂げて土着の国人領主や地侍集団として生き残った。
帝の権力護持をその使命として誕生した勘解由小路党の草(土着郷士)達も、もはや帝への忠誠心を希薄化していた。
雑賀(さいが)衆もその中の一つで、紀州雑賀(さいが)郷七万石を集団で領していた。
雑賀衆の棟梁は、雑賀(佐大夫)孫市と名乗る不思議な男であったが、その孫市が率いる雑賀(さいが)衆達も、実に奇妙な地侍集団であった。
雑賀衆(さいがしゅう)は、十五世紀頃に歴史上の文献に現れ、戦国時代に紀伊国北西部の雑賀荘を中心とする一帯(現在の和歌山市)の諸荘園(雑賀荘の土橋氏、十ヶ郷の鈴木氏など)に居住した国人・土豪・地侍たちの結合した土豪集団である。
応仁の乱の後、紀伊国と河内国の守護大名である畠山氏の要請に応じ近畿地方の各地を転戦、次第に傭兵的な集団として成長して行った。
紀ノ川河口付近を抑える事から、「海運や貿易にも携わっていた」と考えられ、水軍も擁していたようである。
種子島に鉄砲の製造法が伝来すると、鉄砲の製造に関わった根来衆に続いて雑賀衆もいち早く鉄砲を武器として取り入れ、優れた射手を養成すると共に鉄砲を有効的に用いた戦術を考案して優れた傭兵軍事集団へと成長する。
十六世紀当時としては非常に多い数千丁単位の数の鉄砲で武装しており、きわめて高い軍事力を持って傭兵集団としても活躍した。
室町時代、堺(港)は南蛮貿易の基地として発達した。
当時の堺商人は、室町幕府の衰える中、だれからも束縛されない自由勝手な貿易で財力を蓄えて、下手な領主など及ばないほど栄えていた。
それと結びついていたのが、同じ自由思想を持つ武士集団、「雑賀(さいが)衆」だったのである。
彼らは地侍の傭兵集団で、戦闘を請け負う事を生業(なりわい)にしていたが、時の移ろいの中で勘解由小路党の修験密教から外れて、熱狂的な一向宗徒になっている。
合戦が有る度に諸国の大名に買われて戦さをし、念仏を唱(とな)えながら人を殺し、その謝礼をもって衣食の道を立てていた。
それだけなら戦国乱世には、他にも似た傭兵集団は在った。
だがこの地侍集団は、突出して強力な戦闘能力を持っていった。
戦国期は、雑賀孫市を党主(棟梁)とするこの地侍集団を、引く手数多(あまた)にしていた。
彼らが新兵器の鉄砲技術集団であ在ったからだ。
この雑賀孫市、実は特筆すべき由緒正しい家柄だが、その正体は、いずれ読者に明かす事にする。
雑賀郷士はおよそ三千余り、大名では無く幾つかの集団に分かれている地着きの傭兵集団で、大名にも仕えてもいないが併せた所領は七万石、兵力にすれば十万石程度の力はあり、郷の若い娘にも手練(てだれ)の者は居た。
所謂(いわゆる)地着きの武装氏郷士である。
哀しい事に、雑賀郷士の家に生まれて生きる為に学ぶ術は、剣術、砲術、忍術、いずれにしても、人を殺す術(武術)である。
そう、殺人マシーンに育てられる事が、自動的に背負わされる氏族の宿命と言える。
雑賀孫市は有力な棟梁で手の者は千三百余り、手が足りない時は郷の仲間内から助っ人を借りる。
雑賀郷は丸々一向宗の門徒で、熱心な信仰をする人々ではある。
所が、矛盾する事に彼らは殺戮(さつりく)請負の傭兵集団である。
雑賀の軍勢は、「念仏を唱えながら襲い掛かる」と言われて、敵対する相手からは恐れられている。
実は、当時の信仰と殺戮請負の傭兵集団は矛盾しないのである。
信仰の原点は「自己に対する現世利益」で、他人の生死は問題ではない。
あくまでも「自らの武運を願うだけ」である。
氏族に生まれた宿命は、所領の拡張だった。
それには、歴史的背景がある。
彼ら氏族が征服部族として日本列島に渡来して以来、その支配地を広げる手段は武力だった。
正に、この勝手に渡来して縄張りを広げて行った氏族の覇権主義が、後の「戦は武士の本分」の原点である。
氏神は氏上であり、氏族の先祖である。
つまり、先祖を崇め、先祖の力を借りる精神的な支えとして氏神信仰は出発している。
それ故、五穀豊穣の実りの神であると同時に、現代はともかく当時は武運を祈る戦(いくさ)神の側面が強かった。
武門に生まれた者は戦(いくさ)が本業で、「戦(いくさ)をする」と成ると、命の遣り取りになる。
まともな人間なら恐怖心を覚えるのが当然である。
特に戦乱に明け暮れた南北朝の内乱から戦国期の大乱の時代は、神社信仰、仏教信仰、キリスト教信仰など各々大名が「得度・帰依」と言った信仰を現世利益に頼り、戦の支えとしていた。
どの宗教も本音は現世利益であり、伝えられる細川ガラシャの例を見ても判る通り、自らの命を絶つ事は禁じても人を殺(あや)める事は禁じては居ない。
人間、結果を恐れるから信仰に走る。
しかし、信仰に結果を変える力など無い事は周知の事実である。
その点で言えば、現世利益を掲げて布教に励む宗教関係者も、それに武運を頼った武将達も正直本音が見えて判り易い。
所が、理解出来ない信仰がある。
間違えてはいけないが、信仰は自信のない部分を精神的に支えるだけだから結果を出すのはあくまでも本人である。
信仰の役割は、生き行く為の心の支えになる事であるのに、その信仰にのめり込み「命を捧げ様」では本末転倒である。
当初は権力者の統治の都合で布教した信仰(宗教)も、やがて庶民の中で育ち、「庶民感覚の信仰」と言う微妙なズレが生まれる。
ここで二種類の人間が顔を出すのだが、信仰を心の支え程度に考え、むしろ上手く利用して生きて行く人間と、盲信して命までささげ様とする人間である。
概して後者の方が心もちは善良なのだが、善良故の盲信は、信じ切ってしまうので正直始末に負えない。
戦後の変身した宗教観で、日本人は誤解していると思うが、信仰はあくまでも自分の利益の為のものだから、同一の神や宗門同士でも拘る事無く、祈りながら戦はしていた。
都合の悪い事だからもう忘れてしまった事だろうが、つい六十年前、戦時中の日本人は「鬼畜米英、武運長久」と神社や寺に祈って戦に出かけた。
信仰の本質(論理)はそんなもので、世界のどの信仰に於いても、基本的には異宗教・異教徒に容赦など有る訳も無い。
異宗教の他者も含め、世界の全てが平和に繁栄する事を願う宗教など、建前以外には存在しないのである。
いずれにしても、全国に八万社とも言われる最多数を誇る鎮守神・八幡神社は、武門の棟梁・源氏流が信奉する戦(いくさ)の神様で、昔の意識では戦いに勝利する事が幸せを呼ぶ事だったのである。
従って、信仰は他人の為には正義ではないから、熱心な一向門徒の雑賀傭兵集団が念仏を唱えながら襲い掛かかろうが、織田信長が幾多の仏教・武装宗門を武力弾圧しようが、何の不思議は無い。
互いに武力と欲望を基にした、単純な「自己に対する現世利益」のぶつかり合いで、「一方的な弾圧」と評するのは、その門徒だけが言える「言い分」である。
足利尊氏が開いた室町幕府は、南朝方の存在と言う不安定な状態が続いたが、足利義満(第三代)の時代になり非常に実力を付け、南北の朝廷を「明徳の和約」で一応の統一決着を果たした。
しかし八代将軍足利義政の頃に起こった「応仁の乱」を境にして次第に、下克上の戦国時代に入って行く。
この戦国時代の出現した訳は「争いを圧さえる為の、圧倒的に強力な力が存在しない」と言う構造的なもので、「ガラガラポン」と次の実力者が現れれば良かったのだが、それが頻繁に起こる下克上で、伝統ある名家の足元が軒並み定まらず、簡単には行かない。
必然的な段取りから言えば、エリアの代表者が凡(おおよ)そ固まった所で「総当たり戦」と言う過程を踏む事になった。
歴史上これほど入り乱れての大乱は、この大和の国(日本列島)では過って経験した事がない。
秩序を司る力は、南北朝並立以後武力的には無力になった朝廷を始め日本中の何処(どこ)も、誰も持ち合わせては居なかった。
強い者は、野望に燃えていた。
四方に、虎視眈々と領土を広げたい領主が居た。
力を失えば滅び行く運命で、日本中の領主が生き残りの為の果てしない戦乱になっていた。
生き残る事は、強い者に従うか戦い勝つ事しか道は無かった。
例え強い者に従ってもその下に組み込まれるだけで、どの道戦わざるを得ない時代だった。
つまり望まずとも、誰もが生き残りを賭けて、実力で戦わずには居れない弱肉強食の時代、それが、戦国期だった。
その戦国期に、各種の異能を修めた地侍集団が真価を発揮し始める。
修験の知識をベースにした土豪集団である。
名のある所で、根来、雑賀、伊賀は紀伊半島の一郭にあり、甲賀は半島から少し外れるが、伊賀の里(三重県)と甲賀の里(滋賀県最南部)は、地域的に隣接している。
つまり、畿内の飛鳥(明日香)から京都までの古都域を取り囲むように修験道の聖地と同一の地域に発達した修験武術が「忍びの術」である。
彼らは修験道の知識をもって、一般的に理解する忍者像以外に漢方治療薬や毒薬、鉱物探索、火薬、鋳造技術、精錬技術を駆使した武器の製造も、常に最先端を行っていた。
その地侍集団の一つが、雑賀孫市が率いる雑賀党だったのである。
時代は一人の強烈な個性の天才武将・織田信長を得て、今、大きく動こうとしていた。
そして何よりも、信長の志(こころざし)は高かった。
尾張の国の一郭、尾張の半国の「守護代家織田家の家老を勤める家柄」から稀代の風雲児・織田信長が現れた。
ここを留意して欲しいが、織田信長の織田家は守護職でも守護代職でもなく、守護職・斯波(しば)氏の尾張国八郡の内四郡の守護代を任された織田家の血縁家老職に過ぎない事である。
つまり、幼名を「吉法師丸」と言った織田信長は、けして大層な家柄の出自では無く、戦国下克上の世でなければウダツが上がらないで終わった程度の家柄身分だった。
しかし織田信長は戦国期を代表する最も有名な武将の一人で、生まれ持った才を如何無く発揮して尾張の弱小大名から天下布武(天下統一)を今一歩の所まで手繰り寄せた男である。
織田信長が父・信秀の病死で家督を継いだ時、彼の家老職織田家は内紛に揺れる弱小国人領主に過ぎなかった。
処が信長は、度重なる下克上で尾張の国主に伸し上がって豹変する。
信長の数代前から藤原の出自を主張していた織田家にも関わらず、突然「平氏の出自」を言い始めるのだ。
織田信長は、武家の棟梁「征夷大将軍の源氏」には目もくれず、或る決断の中で平氏の出自に拘(こだわ)った。
才ある信長は、平氏になる事の歴史的意味を充分に知っていて、自ら好んで「鵺(ぬえ)になった」のである。
信長は希代の天才である。
故に、天下を己のものとする知略が在った。
だが、信長は「突出した天才」故に、何時ももどかしい時を一生涯過ごした。
そのもどかしさが、気短な態度となって、現れていた。
周りが、余りにも「既成概念主義者」ばかりだった。
一度思い込むと、ひたすら「正しい」と思い続ける者ばかりである。
我輩は、平凡な人生をけして馬鹿にする者ではないが、平凡からは何も生まれない。
それ故、戦国の世に平凡な武士武将が多かったのは、織田信長にとって或る種幸運だったかも知れない。しかしそれは、「不幸だった」とも言える。
織田信長は「怒り易い性格だった」と言われている。
しかし怒り易い性格を大別すると二通りの事情があり、一つが愚者の怒りで己が訳が判らなくなって怒りだす場合と、いま一つは知者の怒りで瞬時に理解が及び先まで読んで怒りだす場合である。
勿論天才・信長は後者で、その才に及ばない者達からすると「突然怒り出す厄介な存在」と言う事に成る。
つまり信長には怒る理由が在る訳だが、相手が愚者だと怒られる方には理解できないで信長は只の「怒りっぽい主君」と言う事になってしまう。
詰まる所、非凡な才を持つ織田信長はたった一人の知恵で時代を変えた男だった。
その点では、後の明治維新で見られる勤皇の志士達とは大きく違っていた。
信長にしてみると、己の知略を理解出来ない相手には、「問答無用」で事を進めないと、先が遠くなる。
この信長の考え方は、幼少の頃の経験に基付いている。
彼の周りに居た者は、いずれも「家柄」と言う血筋の秩序から始まる保守的な発想に起因する頭の持ち主ばかりで、既成概念を金科玉条のごとく頑なに守っていた。
それ故、彼の考えを理解する者が、余りにも居なかったからだ。
この抵抗に挑戦し続ける事が、彼の生涯そのものとなった。
吉法師丸(織田信長)に青雲の志を植え付けたのは父、尾張の半国の守護代家・織田家の家老職・織田信秀である。
この織田信秀、戦国武将としては持って来いの強い性格で、守護職・斯波(しば)氏の陪臣の家柄ながら、我が子信長に後を託す頃には実質尾張国主のごとき勢力を保持するに到っていた。
そして父・織田信秀だけは、吉法師丸(織田信長)の才を見通していた。
下克上戦乱の世である。
この頃の織田信秀は・守護代家織田家の家老とは言え既に武力で所領を広げ、武門としての力を着けて主家の支配から脱し、かなり独自に所領を運営していた。
武門に生まれた者は、天下取りを目指す時代だった。
自らが身に染みた下克上戦乱の世に織田家を守りさらに飛躍するには、吉法師丸(織田信長)のような常識外れが丁度良い。
主人公・織田信長の父・織田信秀は、千五百十年(永正七年)、尾張南西部を支配する海東郡・中島郡に跨る勝幡城(愛知県愛西市・稲沢市)の城主・織田信定の長男として生まれる。
織田家の家系は越前国織田庄・劔神社の祠官の系譜をひく尾張守護・斯波氏の被官・織田氏の尾張下四郡守護代に補任された「織田大和守家」の分家にて同家重臣・勝幡城主「織田弾正忠家」である。
つまり信秀の父・信定は尾張の守護代織田氏の一族で、尾張下四郡守護代の「織田大和守家」(清洲織田氏)に仕える庶流として、主家の重臣たる清洲三奉行の一人で在った。
信秀は父・信定の生前である千五百二十七年(大永七年)に十七歳で家督を譲られて当主となる。
家督相続から間も無い千五百三十二年(天文元年)頃、信秀は主家の織田達勝と争ったが、後に和解している。
同年、信秀は三河に進出していた今川氏豊(駿河守護今川氏親の末子。 今川義元の弟)の居城とされる那古野城(名古屋市中区、のちの名古屋城)を奪い、ここに居城を移して愛知郡(現在の名古屋市域周辺)に勢力を拡大した。
千五百三十五年(天文四年)に、三河の松平清康が守山崩れで不慮の死を遂げる。
織田信秀は混乱する松平氏の隙を突いて三河に侵攻し、千五百四十年(天文九年)には安祥城を攻略して支配下に置いた。
その勢いを持って信秀は京都に上洛し、朝廷に献金して従五位下に叙位され備後守に任官、更には室町幕府に参じて第十三代将軍・足利義輝にも拝謁している。
千五百四十一年(天文十年)には、伊勢神宮遷宮の際して材木や銭七百貫文を献上し、その礼として朝廷より三河守に任じられている。
しかし三河・松平氏は今川氏の従属下に入って抵抗し、信秀は今川義元と敵対する事となって千五百四十二年(天文十一年)には第一次小豆坂の戦いで今川軍と戦って勝利し、西三河の権益を保持した。
また、この頃に美濃国主の土岐頼芸が斎藤道三によって追放されたが、信秀は頼芸を保護して斎藤道三とも戦い、一時は大垣城を奪っている。
その後も信秀は、勢力の拡大にともなって千五百三十九年(天文八年)に古渡城(名古屋市中区)、その九年後の千五百四十八年(天文十七年)に末森城(名古屋市千種区)を築いて居城を移して戦国大名の頭角を現し始めている。
しかし織田信秀は、弟の織田信康や織田信光ら一門・家臣を尾張の要所に配置し、主家の尾張守護代・織田大和守家拠りも強大な力を有しながら主家への臣従関係は保ち、主家やその主君である尾張守護斯波氏をも上回る尾張国内の他勢力を圧倒する地位を築いていた。
それでも信秀は、何故か晩年まで守護代家臣に甘んじ尾張国全域を支配する事は出来なかった。
織田信秀は、今川義元と斎藤道三と言う困難な敵と対峙して苦戦し継子・信長と斎藤道三の娘・濃姫を政略結婚させる事で斎藤家とは和睦し、今川家に人質として出る筈の松平竹千代(徳川家康)を横取りで人質にするなどしたが、千五百五十一年(天文二十年)に居城・末森城で流行病により急死している。
父・信秀は新しく手に入れた那古野城に在ったが、信長は織田家の旧主城だった勝幡城(愛知県中島郡)に傅役(お守り役)の平手政秀に見守られて居た。
伊勢湾の潮の香りが風に伴われて渡って来る。
信長の織田家は、父・信秀の代から勝幡城に居た。
その地は尾張と伊勢を結ぶ要衝にあり、織田家は近くの商業都市「津島湊(つしまみなと)」を支配し、港の管理に拠る海運の利権を握って力を蓄えていた。
信長が十歳の頃の事である。
初夏を迎えたある日、彼は庭のもみじの木の根元を熱心に見ていた。
もう一刻ほどになるが、見ていたのは蟻の巣だった。
先ほどから、黒蟻が無数に集って行列を作り、数十倍も大きい蜘蛛の屍骸を運んでいた。
「非力なものでも、一度に懸かれば意外な力になる・・・」
信長の組織戦の原点である。
考える事がそんなだから、付き家老や戦術師範の教えなど信長は頭から「間違っている」と信用しない。
信長は戦国時代の武士の風習を良しとせず、当時としては新しい団体戦法を考えていたのだが、それは配下の武士達の物凄い抵抗に合っている。
例え武士と言えども、戦はしていても元々始めから「死にたい」と思って戦をして居るものは、そう多く居る訳が無い。
本音を言えば、良い思いをしたいからこそ武士はいささか危ない思いをしても戦はする。
そこまで行かなくても、行き掛かりで止むを得ずにする戦も在る。
そう言う訳だから、戦は充分根回しをした謀事で決着をつけるか若い者達の無鉄砲な気力が役に立つくらいで、古参の武士など現代の映像で見せられるように格好の良い戦ぶりは少なく、互いに「こけ脅(おど)し」とヘッピリ腰の合戦が現実だった。
それを「武士道のフェアプレィ精神(尋常に勝負)だ」と綺麗事を喧伝する輩がいるが、命をやり取りする切り合い(殺し合い)にフェアプレィが存在するなど本来おかしな話である。
戦国時代になって特にこの傾向が顕著になったのだが、この事は後に講談師や脚本家、果ては明治維新政府から昭和初期の戦陣訓にまで利用される武士道の精神にまで発展するので明記して置くが、武士道のフェアプレィ精神(尋常に勝負)など建前主義者の嘘っぱちな綺麗事である。
武士道に於けるフェアプレィ精神(尋常に勝負)のルーツをバラセば、実の所「恩賞の確定」と言う止むに止まれぬ事情が在っての事で、何の事は無い、旧勢力にとっては「名乗ってから切り合う個人戦」が、譲りがたい利権だったのである。
その個人戦だった事が良く判るのが、戦場での旗指物の変遷である。
旗指物は、古来より祭事や主に軍事に目印として使われて来た。
平安時代に始まり室町時代までの軍事用の旗は、長い布の一端を棒にくくりつけて風に流した物 (長旗) が多かったが、戦国期に成ると武威を誇張する為に様々な個性豊かな印が戦場で用いられている。
この旗指物、戦場での「敵味方を判断する為」とする簡単な解説が多いが、実はそれだけの解説では不充分である。
何故なら織田信長が歴史の表舞台に登場するまでは、戦が個人戦の集積型だったからである。
戦国期に様々で個性豊かな印が登場した理由は、主に「手柄の確定」だった。
信長が団体戦法を多用するまでは個人の手柄を遠くから視認させる為の物だから、氏名をそのまま書いた物から家紋を用いたものなど、一族郎党単位の武士ごとに他者と細かく区別されるべき小旗を鎧(よろい)の背中にさして戦場で目印とした物だった。
旗印が武将ごとに団体統一されて武将ごとに旗持ちを置くなどと成って行くのは、羽柴秀吉の千成瓢箪のごとく軍団の単位が大きくなって行った織田軍団などの安土桃山期の各武将くらいからで、それも関が原の合戦を堺に旗指物その物が衰退して行った。
従って古い時期の戦国期に、一軍団が統一された旗指物を使っている再現映像は見かけは良いかも知れないが間違いである。
勿論、同時期の事を描いた後の絵師の手に拠る戦国絵巻も、判り易くする為に統一された旗指物が描かれているが事実ではない。
本来、戦場で自分の手柄を公に認めさせる為に始めた「名乗ってから切り合う」は当時の武士の暗黙の了解で、それが「恩賞の決め手」と言う常識なのだ。
それを、団体戦にされると手柄を雑兵に持って行かれる。
つまり織田信長の提案した団体戦は上級武士の利権がらみなのであるから、それで事の是非ではなく旧勢力は頭から抵抗する。
人間社会は群れ社会なので「集団同調性(多数派同調)バイアス」の心理が働くから、中々周囲と違う独自の発想での行動は採り難い。
「皆で渡れば怖くない」や「皆が犯っている」の集団心理の原点が、「集団同調性」であると同時に、「バイアス」は周囲に同調する片寄った考え方の事を指し、周囲を気にする余り要即断の判断を誤まる事である。
そしてその「集団同調性(多数派同調)バイアス」が、「アンカリング効果と一貫性行動理論」、或いは「ロックイン効果」と言う既成概念に基づいたものであれば、新しい事に挑戦するには最悪な事になる。
天才・織田信長の発想は即断即決で、この「集団同調性(多数派同調)バイアス」を真っ向から否定した為に「虚(うつ)け者」呼ばわりされた。
そんな訳で、信長が吉法師と名乗った若き頃より「大虚け(おおうつけ)者」と言われたのは、彼の常識破りな考え方や行動が既成概念と既得権で固まった常人に理解されなかったからである。
何か有れば二言目には「そんな事は決まって居り申ぅす」が、織田吉法師(信長)の周囲の口癖だった。
全てを「決まり事」として疑いを持たず、物事をその「決まり事」に照らして安易に判断し、その事を恥じない。
確かに現状の意識や価値観に迎合して居れば、世間の抵抗も無く気楽にやって行ける。
しかし吉法師(信長)は、それでは進歩が無い事を知っていて内心「使えない奴らだ」と思っていた。
周囲は何時(いつ)も「決まっている」の大合唱だった。
これには参った織田吉法師(信長)だったが、直ぐに「これはイケル」と思い着いて喜んだ。
発想の転換が、新しい物を生み出す事は言うまでも無い。
これだけ既成概念に取り付かれた者ばかりであれば、「それを利用すれば戦に勝てる」と吉法師(信長)は踏んだのである。
この時の閃(ひらめ)きが、織田信長の生涯の武器になった。
人間には「意識と行動を一致させよう」と言う要求「一貫性行動理論」がある。
織田吉法師(信長)の周囲の既成概念で凝り固まった者にとって、自分達の意識と一致しない吉法師(信長)の行動は理解出来ない困りものだった。
才能有る者の感性は凡人には判らない。
「社会性」と言うものとの本質は妥協であるから、「社会性」と「非凡な才能」は中々相容れられるものではない。
その判らない奴が、自分の感性を基準に才能有る者を判断する評価が「織田の小倅(こせがれ)、大虚(おおうつ)け者」の正体である。
彼らは、自分達の意識や価値観と一致しない異端児・吉法師(信長)を「大虚(おおうつけ)者」と呼んだ。
そんな彼らを、吉法師(信長)は相手にしなかった。
時は戦国、繊細で尚且つ豪胆な男で無ければ生きられない時代だった。
織田家の家督を継いだ後も、常識的に物を考える家臣達相手に「新たらしい発想を、迷う事なく実行させる事に腐心する」のは、信長にとって余分な苦痛だった筈である。
そこで信長は、自らで新しい意識や価値観の旗本家臣団を育てる為に、吉法師時代から身分の差など構わない遊び仲間を結集し、それこそ「決まり事」を無視した遊びを繰り返した。
後に御案内する今川義元との桶狭間の一戦も、決まっていた義元と決まっていない信長の戦だったのである。
実は、約束事を壊すのが成功の秘訣である。
約束事は人まねであり、その範囲で物事をするだけなら安全だが注目もされないし進歩も無い。
若干無礼な表現だが、我輩を含め凡人はこの「約束事」に拘(こだわ)ってしまう。
目標に苦悩する事は大いに結構だが、「約束事」に迷っては進歩も成功も無い。
迷う者は、生涯迷い続ける事に成る。
つまり、何をするにしても如何なる事でも、如何に早くその境地に辿りつくかで、その道で大成するかどうかが決まる。
織田信長のように、利巧な人間ほど好奇心が強く何か思い付けば「試そう」と努力する。
そうした人間が進歩するのだが、大概の人間には思考範囲に於いて錨(いかり)を降ろして既成概念化する「アンカリング効果(行動形態学上の基点)」と言う習性が存在し、中々既成概念(錨/いかりの範囲)から抜け出せないので進歩しないのである。
人間には「意識と行動を一致させよう」と言う要求(一貫性行動理論)がある。
つまり何かを出来る出来ないは、意識と一致していないから「出来ない」と言う事で、裏を返せば織田信長のように意識を変えてしまえば今まで「出来ない」と思っている事が出来る様に成るのだ。
これをもう少し深く突き詰めると、「出来ない」事の言い訳をする為に「決まっている」と言う物言いの決り文句があるのかも知れない。
本来、価値観何てものは別に唯一絶対な訳ではない。
所が、何時の時代の人間もアンカリング効果(行動形態学上の基点)と一貫性行動理論(意識と行動を一致させよう)に縛られて、織田信長のように新たな発想をしようとしない。
それは、どう生きようと個人の勝手で、アンカリング効果(行動形態学上の基点)や一貫性行動理論(意識と行動を一致させよう)の範囲で判断した価値観の幸せも、自己満足では在るが本人は幸せを感じる。
しかしこの「アンカリング効果(行動形態学上の基点)」は、安全ではあるが別の側面から見れば「平凡で詰まらない人生」と言う淋しいものに成る。
社会の既成概念に従って平凡無難な人生を送り、「一生真面目に生きた」と思うのも本人がそれで良ければ自己満足の幸せではある。
だが、自ら思考範囲を狭(せば)めたアンカリング効果は、周囲を正しく見渡す事を阻害する。
このアンカリング効果(行動形態学上の基点)は、織田信長のように錨(いかり)を上げて自由な思考にしまえば価値判断の範囲も変わるもので、全く違う発想が持てるのである。
一貫性行動理論(意識と行動を一致させよう)においても頑固に既存意識を守ろうとせず、一貫して意識改革をし続ける事自体に行動の基点を置けば良い訳だ。
つまり、この織田信長のようにアグレシブ(攻撃的)な発想を持って、既成概念をぶち破り、知略・戦略おいて「まさか?」と思う事が出現すれば、相手は戦略上対処が出来ない理屈である。
そして信長は天下掌握(天下布武)達成の直前、誰もがその事実を疑う信長流の大胆にして奇想天外なある秘密の策略を試みる。
だからこそ、この物語はその後世に大きく膨らんで行くのである。
晩年の織田信長の家臣団には、相応の秀才が数多くいた。
だが、いずれも常識主義者であり、微妙な所で、信長の才との「ずれ」があった。
究極の所で、信長の真意を理解できた者は、居なかったのである。
それ故信長は、何時もイラ付いていたのだ。
たった一人、世にも稀な「秀才」が居た。
明智光秀である。
光秀だけが、信長の考える処を瞬時に理解する能力を持っていた。
但し、信長の様な天才的な閃(ひらめ)きでなく、あくまでも「論理的に」、である。
この図式は、光秀が信長に心腹している間は最高の組み合わせである。
天才の発想を、論理的に具現化出来るからだ。
だが、信長は天才故の「侮り」の中で光秀を失い、それに気付いた時は本能寺に居た。
発した言葉は「是非に及ばず。」である。
天才信長は相手を明智と聞いて、一瞬に自らの命運を悟ったのである。
「是非に及ばず。」は、光秀を非難した言葉ではない。
「良いも悪いもない」と、光秀を庇(かば)ってすらいる。
自らの「天下布武」の夢が、砕け散った瞬間である。
信長にしてみれば、光秀に裏切られたのであれば、もはや「何も言う事は無かった」のだ。
天才・信長は此処で最後の知略に出るが、これは光秀への置き土産である。
この本能寺の変、凡人であれば「おのれ光秀。」となる。
たまに、信長にこう言う「せりふ」をはかせる小説や台本があるが、凡人の考える稚拙な「せりふ」である。
信長の才能を、凡人の物差し(ものさし)で測っては、何も見えてこない。
信長は、「またやってしまった。」と、自分の侮り(あなどり)をこそ責めたのである。
信長の出自(しゅつじ・先祖からの系統)であるが、現在定説と成っているのが、「織田家の祖は、越前の織田ノ庄の庄官(庄を収める役人)か、織田神社の神官の出である」と言う事で、遡ると藤原姓の枝に辿り着く。
しかし、尾張に来てから先祖が名乗ったのは源氏の血筋である。
源氏の血筋と言っても、その実は相当の枝葉であり、事の真贋も定かではない。
越前国(福井県)丹生郡織田町(織田の庄)が、織田一族の先祖の地である。
藤原姓の枝説、源氏の血筋の名乗りについても、どうやら代々の婚姻関係とその時代を反映したもので、他にも説が多数存在する。
「信長記」によると、平資盛の遺子「親真」が近江国津田で育ち、織田の庄の剱(織田神社)神社の神官をして居た忌部(いんべ)氏の養子になった。
これ「織田氏が平氏の出」と言う伝説の由来であるが、この「信長記」の記述については織田信長本人の強い意思が感じられ、信憑性については、意見が分かれる所である。
一方織田町に伝わる忌部(いんべ)氏の系図では、母は平基度の娘で忌部親澄に嫁いで「親真」を生んだとし、「平氏ではなく忌部(いんべ)氏の方が正統だ」となっている。
忌部(いんべ)氏は祭祀に携わる有力部民(臣王氏族)と言われる古い家柄(藤原氏や蘇我氏などに並ぶ)で、その一支族が、代々織田氏の氏神・剱(つるぎ)神社(織田神社)の神官や織田の庄の地頭を勤めていた。
それが、室町時代になって、越前国(福井県)と尾張国(愛知県西部)の守護職を兼ねる斯波(しば)氏(清和源氏流足利氏系)との結びつきを強めた事から、織田の一族が守護代として尾張に移り、戦国期には勢力を弱めた斯波(しば)氏に代わって勢力を強め、戦国領主化して織田信長を輩出したのである。
面白い事に、武士武将と言う立場の人間は結構信心深い。
どんな豪胆な人間でも、命のやり取りをするのが仕事みたいなものであるから、人並みに恐怖はある。
厳しい世界に身を置く者こそ、「癒されたい」と言う欲求が強い。
それが、命のやり取りが日常となると尚更である。
それで、元を正せば自分達で捏造した神社の信仰を、真面目に頼りにする。
最も彼らにとっては直接の先祖であるから、神と言うよりも先祖に武運を祈っているのかも知れない。
信長も、今川義元との田楽狭間(桶狭間)の戦いに於いての熱田神宮を始め、戦勝祈願を祈って出陣している。
織田神社の神官の出はまんざらな話ではなく、永い事武士と神官には境はなかった。
いずれも氏族の出自(血統)から始まった神職は、永い歴史において氏族の血統として兼業時代があり、言わば氏族の職務選択(業務選択)の主たるものだったのである。
信長の生まれた頃の愛知県西部は尾張の国と言い、守護職が置かれていた。
尾張の国の守護職に任命されていたのは、斯波(しば)氏である。
その斯波氏の代理として守護代を勤めていたのが、二つの織田家で、守護代・織田伊勢守家と、同じく守護代・織田大和守家である。
その一方の守護代大和守家は、尾張の国の八郡の内、海に近い方寄りの四郡を支配していた。
嫡流に対して庶流がある。
この時代、分家して臣下となるか、本家の直臣になるかが、庶流の当り前の身分である。
織田信長の織田家は織田大和守の庶流の家柄であったので、当然ながら身分は織田大和守の血縁の家臣で、家老三家の一つが信長の織田家である。
つまり、弱小の戦国武士団の「頭領」と言う方が実情に近い家柄であり、師団長ではなくその下の「連隊長位だった」と、思えば良い。
それが、信長の祖父の信定の頃から武力で所領を広げ、序如に力を付け、小さいながらも戦国大名として形付けられて行ったのだ。
ちょうど、「下克上」の世の中に入りつつある頃で、家臣が力を付けて武力で主人に取って代わったり、有名無実の立場に押しやって実権を握ったりが全国的に起こっていた。
強い者が、勝手に支配地を広げるのが当たり前の世の中だった。
後北条の伊勢新九朗(北条早雲・伊勢平氏の直方系流を自称)が現れ、駿河の興国寺城をかわきりに、伊豆国、相模国と所領を広げ、室町幕府のコントロールから外れて勝手に戦国大名に伸し上がった頃で、力だけが頼りの時代である。
実はこの伊勢新九郎盛時、正確に言うと存命中に北条氏を名乗った事は無い。
伊勢氏はけして家格が低い家ではなく、京の都に於いてはそれなりの名家であった事から、新九郎盛時は生涯伊勢氏を名乗っている。
第二代当主・伊勢氏綱が父・新九郎の死後、伊勢平氏の直方系流を自称して鎌倉時代の執権家・北条氏を名乗り北条氏綱と名乗った為、初代・伊勢新九郎盛時の号が早雲庵宗瑞だった事から世に北条早雲と呼ばれるようになった。
戦国時代の幕開けに下克上で伸(の)し上がり相模国を本拠地に関東一円に勢力を伸ばした後北条家の始祖北条早雲は、若い頃に伊勢新九郎盛時と名乗り、早雲時代の後北条家は、基はと言えば桓武平氏流れ「伊勢家」である。
室町幕府の政所執事を務めた伊勢氏の出自であり、早雲(新九郎)の父・伊勢盛定は八代将軍・足利義政の申次衆として重要な位置にいた。
早雲(新九郎)の伊勢家は、家格は高いが備中国・荏原郷の半分を領する小領主で、早雲(新九郎)本人もこの「荏原郷で生まれた」とされている。
千四百六十七年(応仁元年)に応仁の乱が起こり、駿河守護職・今川義忠が上洛して東軍に加わった時、今川義忠はしばしば将軍・足利義政の下に参内してその申次を早雲(新九郎)の父・伊勢盛定が務めている。
恐らくはその縁で、早雲(新九郎)の姉(または妹)の北川殿が今川義忠と結婚し、早雲(新九郎)は今川家の縁者に成る。
所が、早雲(新九郎)の姉(または妹)の北川殿の夫今川義忠は、千四百七十六年(文明八年)遠江国の塩売坂の戦いで討ち死にし、為に残された義忠の嫡男・龍王丸に家督を継がせようと言う勢力と一族の小鹿範満(義忠の従兄弟)を擁立して家督を継がせようと言う勢力で家中が二分される家督争いとなった。
これに堀越公方と扇谷上杉氏が介入し、龍王丸派にとって情勢は不利であった為に、早雲(新九郎)は幕府政所執事・伊勢貞親と父・伊勢盛定に命じられて駿河国へ下り、調停を行い龍王丸が成人するまで範満を家督代行とする条件でこの今川家家督騒動を決着させている。
その後早雲(新九郎)は、千四百八十七年(長享元年)に甥の龍王丸の家督継承を磐石なものにする為に兵を起こし、駿河館を襲撃して範満とその弟小鹿孫五郎を殺した。
龍王丸は今川・駿河館に入り、二年後に元服して今川氏親を名乗り正式に今川家当主となる。
早雲(新九郎)は伊豆国との国境に近い興国寺城(現沼津市)と所領を与えられて今川氏の家臣となって駿河へ留まり、駿河守護代の地位を得ている。
興国寺城(現沼津市)を得た早雲(新九郎)は、その地を皮切りに中央「享徳の乱」の政治混乱の中で関東公方足利成氏が幕府に叛いて今川家が関東に出兵した事を機会として、堀越公方が領有していた伊豆国一国を手に入れる。
この伊豆国を足掛かりとして、早雲(新九郎)の跡目を継いだ伊勢氏綱は北条氏(後北条氏)を称して武蔵国へ領国を拡大。
以後、氏康、氏政、氏直と勢力を伸ばし、五代に渡って関東平野部のほぼ全域に覇を唱える大戦国大名・後北条氏と成るのである。
既に室町幕府・足利家が弱体化し、戦国の世に成っていたのだ。
征服部族の遺伝子を持つ彼らは、本能的に「戦って勝ち取る」と言う事が、シンプルに染み付いていたのである。
織田信長の織田家にした所で、守護職・斯波(しば)氏の尾張国八郡の内四郡の守護代を任された織田家の血縁家老職に過ぎない家柄ながら、下克上で力をつけて尾張で勢力を広げている最中だった。
形としては、主家の守護代織田大和守家は清洲と言う所に、城を構えて健在であった。
そこに、本当の守護「斯波氏」の末裔も、力を失って居候の様に仮住まいをしていた。
本来なら彼らの言う事を、信長の家老職・織田家は聞かねば成らない。
だが、既に配下の織田信定、信秀親子の二代に渡る領地の「膨張政略」を抑える力は守護の斯波家も主家の織田大和守家も弱まっていた。
それで、信長の祖父・信定の代くらいから武力を持って勝手に領地を広げていたのだ。
信長の父・信秀の代には、主家の織田大和守家を凌ぐほどの領地を実効支配し、隣の三河の国(現在の愛知県東部)の松平家(後の徳川家)と、或いは駿河の国の(現在の静岡県)今川家の侵略の為の出先勢力(三河に独立した分家で、駿河今川義元の弟)と、勢力争いを繰り広げるに至っていた。
そんな織田家の嫡流、世継(よつぎ・正妻の長子)として信長は産まれた。母は土田氏から嫁に来た処から「土田御前」と呼ばれていた。
もっとも、信長には妾(めかけ)腹の庶兄は二人ほどいたが、正妻の長子の地位は、通常揺るぐ事はない。
余談だが、この三人目の世継ぎは、源頼朝のケースとまったく同じで有る。
そして信長には、同腹の弟も二人いた。
それでも父・信秀は、当初から正妻の最初の子(嫡男)信長を正式な世継として育てる事にしていた。
どうやら、父・信秀だけが信長の才能を見抜いていた様で、頑固に信長を跡継ぎに指名した。
しかし、家中はそうは行かない。
この信長へのバトンタッチを軌道に乗せる前に、父信秀は病死した。
当然の事ながら、跡目争いが起きる。何せ下克上が当たり前の戦国の世である。
あわ良けば「主家を乗っ取ろう」と言う時代で、いざこざは絶えない。
そこに現れた織田信長の強烈な個性は、まさしく平将門、平清盛、北条(平)政子の物で有り、後に平次を自称するだけあって、不撓不屈の頑固さがにじみ出た目鼻立ちが、どこか互いに似ていた。
戦国時代後期に遅ればせに「下克上」で領地を広げ、那古野城主にのし上がった父・織田信秀の跡を信長は継いだ。
言わば、戦国末期の成り上がり領主の家柄である。
そして信長が家督を継いだ時点では、主筋の守護代・織田大和守家は清州城にまだ存在していた。
つまり信長が、「最初から大名家の生まれ」と理解している向きは間違いで有る。
主家を倒し尾張半国を手中にしたのは、信長の代だった。
本来、素性怪しきをもって「何処の馬の骨」と称するのなら、信長も、秀吉も、家康も、「馬の骨」に該当する。
明智光秀の方が、血筋(清和源氏・土岐氏)は遥かに良い。
信長の幼名は吉法師だったが、二歳の時に那古屋城主になって以来長ずるにつけ奇行が多く、吉法師君(織田信長)の傅役(お守り役)・平手政秀の苦労は、並大抵ではなかったらしい。
やがて十四年と言う月日が流れ、その傅役(お守り役・教育係)であった重臣・平手政秀の策により、幼少だった信長も、父・信秀と激しく争った宿敵美濃国の戦国大名、斎藤道三の娘・帰蝶(濃姫)と政略結婚をするのである。
この頃の尾張・織田家の最大の脅威は、三河を属国に従えた駿河・遠江の太守・今川義元だった。
戦国大名としての織田家の規模は隣国今川家の五分の一程度で、常識的には自他共にとても適う相手ではない。
しかし、そこは知略の天才・織田信長である。
信長は、唯一信用出来る傅役(お守り役)時代からの老臣・平手政秀と、既にある謀略を始めていた。
その謀略については、順序があるのでこの章の後半で記述する事にする。
但し関わりがあるので、謀略のヒントとして織田信長と後の徳川家康との初めての出会いを記述して置く。
ご存知徳川家康は、織田信長、豊臣秀吉亡き後天下を手中にして江戸幕府を開いた武将である。
人は努力だけでは為しえない事が多い。
何故に三河の今にも討ち潰されそうな小戦国大名・徳川家康が生き残って天下に覇を唱えたのかには、織田信長の謀略がその切欠だった。
徳川家康は、幸運にも織田信長の謀略に乗った形でその天下取りのスタートに立ったので在る。
松平氏、三河国加茂郡松平郷に土着した賀茂氏系の土豪だが、松平氏は徐々に勢力を広げ、家康の祖父・松平清康の頃にほぼ三河国を平定して戦国々主武将に成り上がっていた。
とは言え当主・松平広忠は、東隣は駿河国(するがくに)、遠江国(とおとうみのくに)を擁する大国・今川家、西は尾張国(おわりのくに)の織田家に挟まれて国主の座を維持するに腐心していた。
家康の父・松平広忠は、勢力を広げつつ在った尾張国の織田信秀に対抗する為に、駿河の今川義元に帰属する決意をし、幼名を竹千代(たけちよ)と称した六歳の家康は人質として駿河国府中へ送られる。
所が、途中立ち寄った田原城城主で義母の父・戸田康光の裏切りにより、家康(竹千代)は尾張・織田信秀の元へ送られてしまう。
ちょうどその一年前の千五百四十八年(天文十七年)織田信長の傅役(教育係)でもあった重臣・平手政秀の奔走により、信長は父の信秀と敵対していた美濃の戦国大名・斎藤道三との和睦が成立すると、道三の娘・帰蝶(濃姫)と十四歳の信長とは政略結婚して居た。
その翌年、家康が戸田康光の裏切りに合い、尾張国・織田信秀の元へ送られた六歳の松平竹千代(たけちよ)は、新婚成ったばかりの信秀の嫡男・織田信長(当時十五歳)と知故を得ている。
信長は、九才年下の家康(竹千代)に目を掛け、目の届く所で遊ばしたりして「可愛がった」と言われている。
実はこの時点で、天才信長は持前の知恵を働かせてある絵図を描いていた。
信長が傅役(教育係)で付き従う平手政秀に在る事を依頼して密かに松平家重臣の本多(作左衛門)重次と鳥居元忠が信長の居城・那古屋城に招かれた。
そこで本多重次と鳥居忠吉(鳥居元忠の実父)は、元服したとは言え小童(こわっぱ)に近い織田家の嫡男・信長から容易ならない策略を聞き、目を剥いて驚きその大胆な話に二人とも「この若き武将に家運を託そう」と心服している。
幸いな事に、信長の策略に応えるだけの条件が松平側には揃っていた。
大胆ながら松平のお家の為には願っても無い申し入れで、松平家重臣の本多(作左衛門)重次と鳥居忠吉は、その策略に合意して以後それを実現すべく内密に動いた。
松平竹千代(たけちよ)は二年余りを尾張の織田信秀の元で過ごし八歳に成っていたが、今川方に捕えられた信秀の庶長子・織田信広との人質交換によって駿府へ移される事に成る。
その時に松平家臣団の本多重次と鳥居忠吉の二人が奔走してその人質交換に動いたのだが、その話は現代の今でも伏されている秘密で在るから、解き明かすのはこの章の最後のくだりで明かす事にする。
信長の「虚(うつ)け振り」も、周囲に警戒されない様に周りを欺く「策略」と解説する見解の方も居られるが、そうは思えない。
単純に、常人が当たり前と思っている「常識」が、怪しいものだと気付いている信長は、当時の常識など意に介さない。
むしろ、積極的に破壊しょうとした。
日頃から異様な風体で城下に繰り出し、若者を集めて奇妙な遊びに興じている。
家臣のいさめなど、問題にしない。
周りの家臣が、信長の行動が枠からはみ出す事を、ルール無視の「虚(うつ)け者としか理解できなかった」と解釈している。
「出る杭は打たれる・・・」
大概の所、世間から突出する者が居ると、周囲の多くが失敗を望んで敵に廻る。
しかしながら世間に迎合していては、道は開けない。
失敗を恐れず、一歩前に出るかどうかで、その人物の可能性は広がる。
しかし、それはあくまでも可能性止まりの話である。
つまり成功の確立が低いからこそ、実は挑戦する事が面白いのである。
どうも悪い癖で、日本人は横並びが好きだ。
変わった考えを持つと、排除したがる。
「普通」だとか、「常識」だとか、考えが一緒でないと安心できない。
マニアル化するのも好きだ。
古典歌舞伎などの芸術的「様式美」は、すばらしいマニアル化で、日本人の得意分野である。
だが、事と次第によっては、これは発展の障害に成る。
最近の若者は、マニアルがないと何も出来ない。
いや、やろうとしない。
それ故に咄嗟の対応が出来ない事になる。
マニアル以外の事には、つまり自分の考えでは何も対処出来ないのだ。
いわく、「マニアルにない。」、「教わらなかった。」、「指示されていない。」つまり余分な事をして責任を持つのを嫌がる。
これの最たるものが、「役人の前例がない」の責任逃れなのだ。
現場のチョットしたアイデアが、生産の合理化や新製品の開発に結びつく事など、もう望めないのか。
こんな事は、マニアルだけでやっていては進歩がないのは当たり前だ。
米国式のマニアル化は、多民族国家故(ゆえ)の効率化を目的としているが、実は日本人気質とも言うべき「出る杭は打たれる」式の横並び意識は、氏族(支配部族)が民(非支配民)に押し付けた究極のマニアル化ではなかったのだろうか?
つまり民(非支配民)から、異質の思考を排除すれば、氏族(支配部族)の統治がし易くなる。
つまりは突出した者の出現を好まない風潮がより好ましいのである。
その目的に集中して、永く民(非支配民)の合意を教育してきた成果ではなかったのか?
だとしたら、それに見事に嵌った民族意識が常識感覚で今ここに成立している事になる。
「何か欠けている」と思い当たった時、人は進歩する。
超感覚による閃(ひらめ)きが信長の武器で、新しい可能性は、常に「常識破り」から始まる。
それが信長の天才たる所以(ゆえん)である。
奇想天外なものを発想したり開発したりするのは、大概の処普段は変人扱いされている人々である。
言い換えれば、変人扱いされるくらいでないと良いものは出来ない。
それなのに凡人は、相手が自分達と変わっているとそれだけで憎しみさえ抱く。
信長は、凡人の「物差し(ものさし)」からすると、「常識外れな事ばかりする。」、家臣が手を焼く困り者だった。
それで、寄って集って何とか枠に嵌め様とする。
しかし、信長はまったく意に介さない。
何かの切欠で闘争本能に火が着くと、それに酔ってしまうのも人間である。
しかし信長は、それが異常とも思えるほど極端だった。
この癇癪(かんしゃく)、普段の信長の周りが、「余程通じ無かった事の表れ」と言って良い。
しかしこの信長の所業を、後に家臣と成った明智光秀だけは恐れるでもなく冷静に観察している。
天才・信長の存在は、凡才の家臣達には理解できなかった。
滅ぼす者と滅ぼされる者の選別時代だった。
頑張れば許されるものではない。
この時代、どの武士も結果を出す事だけが求められていた。
どうにもならないと判ると、今度は廃嫡を画策した。
彼等凡人の家臣達には、枠に嵌らない信長をとても領主として受け入れ難かったのだ。
信長が幼い吉法師だった頃、乳母の養徳院には二歳年下の勝三郎(後の池田恒興)が居た。
この乳兄弟・勝三郎が吉法師付きの小姓(遊び友達)として使え、言わば世間が言う虚(うつ)け無頼な遊びに幼少から付き合続けた最初の家臣である。
しかしこの勝三郎(恒興)、控え目の上に余りにも側近過ぎて織田家中では出世が遅かった。
織田信長は、譜代の重臣を心服させる一方で、勝三郎(恒興)を軸に年齢の近い若者を身分を問わずに採用して組織化し、普段は遊びながらの奇行とも思える奇想天外な戦術実験と訓練をして、若手ばかりの旗本親衛隊を育て持っていた。
一見常識外れに思える信長の奇行は、実は彼なりの発想の「確認実験」だったのだが、凡人の知る由もない。
この織田信長の虚(うつ)け実験の一団にの中に少年・前田利家が居た。
前田利家は、若き織田信長に近習(小姓)として仕え、腹心の一人として出世した男である。
本来、戦場で自分の手柄を公に認めさせる為に、始めた、「名乗ってから切り合う」は、当時の武士の暗黙の了解で、それが「恩賞の決め手の確定」と言う常識なのだ。
しかし、信長にはそんな線引きはない。
勝つ事が、全ての価値だった。
それが家臣の不安と不満の種だった。
戦国時代は、下克上の世の中である。
家臣にしてみれば、「どちらに付いたら将来得か」、それを絶えず考えている。
「おお虚(うつ)け」が親分では、自分の将来が心配である。
後に信長の筆頭家老になる柴田(権六)勝家などもその口で、一旦は弟・信行(信勝)の跡目擁立に動いて、謀反の烽火(のろし)を上げ、信長の軍略に敗れている。
この信行(信勝)擁立謀反の時、父・信秀から幼少期の筆頭付き家老として付き、本来信長を守るべき立場の林秀貞(はやしひでさだ・旧来は通勝・みちかつと解釈されていた)まで信行方に付く惨憺たるものだった。
林秀貞(はやしひでさだ)も古風な考えの持ち主で、柴田勝家同様に信長の奇行に頭を痛めたのである。
勝家同様にこの時は許されるが、この時の信行擁立謀反が後に秀貞(ひでさだ)粛清(しゅくせい)追放の名目に成っている。
「天下布武」と言う織田信長の偉業の原動力が、「母の愛に飢えた息子のあがきだ」と言ったら貴方は信じるか?
織田信長の生母・土田御前(どたごぜん・つちだごぜん)は織田信秀の継室(最初の正室織田達勝息女が離縁の為正室を継いだ)で、「土田下総守政久」の息女とされているが異説もあり実名は不詳とされ、信長以外に信秀の継室として信行(信勝)、秀孝、信包、お市の方らの生母とされている。
この織田家と土田家の縁は深く土田御前の叔母も織田信定(信秀の父・信長の祖父)に嫁いでいる為、土田御前は従兄弟(叔母の子)の所に嫁いで来た事に成る。
また、信長の側室にして信長嫡男・信忠など三人の子を産んだ生駒吉乃の生家、生駒氏と土田氏は縁戚関係にあり生駒家広の娘が土田秀久と婚姻し生まれたのが土田政久、その娘が土田御前で、生駒吉乃の父・生駒 親正(いこまちかまさ)は土田家から生駒家に養子に入った為に姓が違うが土田御前の従弟にあたる。
いずれにしても織田信長は、この生母・土田御前(どたごぜん・つちだごぜん)に愛されなかった男である。
織田信秀は、平手政秀を傅役(お守り役)に就け、武門の仕来(しきた)りに沿って正室長男(嫡男)の信長を幼少の頃より他の子達(嫡男以外はやがて家臣に成る)と離して那古屋城で育てている。
土田御前は、夫・信秀に拠って離されて那古屋城で育った「虚(うつ)け」と評判の長男の三郎信長よりも、永く共に末森城に住んでいた品行方正と評判の次男・勘十郎信行(信勝)を可愛がり、信行(信勝)に家督争いをけしかけてている。
武力を持って「家督争いをけしかけさせる」と言う事は、信長にしてみれば「実母が弟に自分(信長)を殺せ」と言っているようなもので、これほど悲しい事はない。
信長と信勝が家督争い「稲生の戦い」をして信勝が敗れると、両方の実母・土田御前は信長に信行(信勝)の赦免を願い出て一度は赦させた。
しかし土田御前は後にまた信勝(信行)に信長謀殺をけしかけて、終(つい)に信行(信勝)は信長に誅殺される事になる。
それでも信長は、確執は色々伝えられているが決して母・土田御前を憎んでいた訳ではない。
その証拠に、本能寺の変の時点では信長が自らの居城・安土城もしくは城下の屋敷に土田御前を住まわせて面倒を見ていた。
本能寺の変の後は孫の信雄の庇護のもとにあり、「大方殿(土田御前)」と尊称され、「六百四十貫文を化粧料として与えられていた」とされている。
織田信雄が伊勢から改易されると、「大方殿(土田御前)」は織田信包の元(安濃津城)へ移り、文禄三年にこの「安濃津の地で亡くなった」と伝えられている。
息子が引き起こした事が例え「大それた事」であっても、その切欠は案外身近にある悲しみかも知れない。
我輩は、その生母・土田御前に愛されなかった事が、実は信長自身が「虚(うつ)けで無い」と土田御前に認めさせたくて「天下布武に信長を走らせたのではないか」と思えて成らない。
信長は血も涙も無い様に言われるが、最初の謀反決起の時は弟・信行(信勝)も配下の勝家達も殺さずに許している。
自分を殺そうとした相手を、である。
傍目豪放に見えても、繊細緻密でなければ名将には成れない。
ただ正直に豪放なだけで世の中に通用する訳が無いから、表現を変えると、小ずるい演出が出来て初めて名将である。
所が、建前社会の日本ではそれを許さないから、実際には有り得なくても、ドラマ等で演出された名将は、スマートに裏工作なく戦う事になる。
しかし、実母は信長を嫌って、信行(信勝)に家督をついで欲しかった。
母親(土田御前)の常識的「物差し(ものさし)」では、不幸にも我が子信長の才能を理解できなかったのだ。
世間的に出来が良く、良く母の言う事を聞く常識的な信行の方が、可愛かった。
土田御前は、「織田家を守れるのは、この信行(信勝)しかない」と、浅い物の見方で判断をしてしまった。
つまり彼女にとって、「良い子の信行、悪い子の信長」と言う価値判断しか無かったのである。
母の勧めも有り、弟の信行(信勝)は性懲りもなく、また二度目の謀反を企てた。
折角一度は赦した弟の再度の謀反は、またしても母の策謀だった。
「母上、何故に我心通ぜぬ。」
運命とは言え、母に愛されぬ織田信長は天を仰いで母の難(かた)くなさを嘆いていた。
流石の信長も、二度目は赦せない。
それで、信長は家の実権を握るまでには弟さえ殺さなければならなかった。
つまり信長は、その才故に母の「土田御前」に愛されない不幸な息子だったのである。
母に愛されない子は哀れである。
或いはこの心の傷が、信長をして阿修羅の振る舞いをさせた彼の一面を醸成したのかも知れない。
この話、信長に同情の念を禁じえないが、弟に「自分を殺せ」と命じた母「土田御前」を信長は最後まで愛し、生活の面倒を見ている。
この弟・信行(信勝)の配下だった柴田勝家と言う男、古風な考え方の上に頑固だった。
しかし頑固なだけに一度こうと決めれば一直線で、その点では信頼は置けるのだがなにせ戦法も正直過ぎる。
当初弟の織田信勝(信行)側に付いて信長の敵に廻った柴田勝家の出自は「土豪クラスの家の出身である」と考えられて居るが詳細は不明で父親の名前も判からない。
勝家出生に於いては尾張国愛知郡上社村(現:愛知県名古屋市名東区)で生まれたとされるが、千五百二十二年(大永二年)説や千五百二十二年(大永六年)説、千五百二十二年(大永七年)説などが有りこれも定かではない。
つまり、余り古文書に名を連ねるほどの名家では無かったらしい。
柴田勝家は、若い頃から織田信長の父・織田信秀の家臣として仕え、地位は定かではないが信長の織田家継承の頃には織田家での地位は高かった。
主君・信秀が死去すると、子の織田信行(信勝)に家老として仕え、信勝を信秀の後継者にしようと林秀貞と共に画策し、信勝の兄・織田信長の排除を試みる。
しかし千五百五十六年(弘治二年)に信長との「稲生の戦い」に敗れて剃髪し、信長に降伏して助命されて以後柴田勝家は織田信長に心服して行く。
千五百五十七年(弘治三年)に再び母親(土田御前)にそそのかされた信勝(信行)が謀反の計画を企んだ時には、柴田勝家は信長に「謀反を事前に密告した」とされており、信行(信勝)は自刃に追いやられている。
柴田勝家は信行(信勝)の死後、信長の家臣となった。
しかし、信行(信勝)に与力して信長に逆らった影響か織田信長の尾張統一戦や美濃国・斎藤氏攻めでは用いられなかった。
暫らく不遇を囲っていた柴田勝家だが、京への上洛作戦になって再度織田信長に重用され、畿内平定戦などでは常に織田軍の四人の先鋒の内として参加し、信長の重臣として武功を挙げて織田家での地位を固めた。
結果的に柴田勝家、林秀貞等の古参家臣がやっと心服したのは、その内輪の相続争いで見せた信長の戦略上の実力の証明だった。
凡人には思いも付かない新たらしい発想で、「戦い方の古い常識」を塗り替えながら勝利を重ねるに至って、ようやく家臣は主人が只者で無い事を知ったのである。
恐らく凡人には、「目からうろこの類だった」と推察される。
信長にとって幸いだったのは、彼が稀代の天才の上に小なりとは言え一族の統領だった事である。
それで何とか信長は、「天下布武」を軌道に乗せる事が出来た。
これがなまじの才の上に中間管理職的地位だったりすると、嫉妬絡みで周りに嫌われとても頭角を現すまで持たずに潰されてしまう。
現代でも通じる事だが、たまさか少しばかり才が有ると立場も考えずに自分の才に溺れ、周りが馬鹿に見える自惚れから聞く耳を持たず孤立して、敵に囲まれる事になる。
才の持ち主は、聞く耳を持ってこそ成功する。
つまりこう言う人物は、才が有っても勤め先内部に人望がない。
これでは孤軍奮闘しても仲間の支援は得られず、上手く行かないから結果仕事は廻ってこない。
下手をすれば上司や経営者をも馬鹿にするから段々疎まれていくタイプで、それさえ「相手が悪い」と思い込み、転職しても結果は同じで、それを繰り返す人生を送る可能性が強い。
独立するならまだしも、それでも「勤め人で居よう」と言うのはもう己を知らない勘違いである。
その歴史的悪例が、後の豊臣方の西軍大将格・石田三成の日頃から周りに批判的で、敵ばかり作った結果の「関ヵ原の敗戦」で在ったのだ。
比べるに、「世渡り上手も才の内」とでも言おうか、後に土佐藩主になった山内一豊は、豊臣恩顧の大名でありながら徳川有利と値踏むと、いち早く徳川家康に組し、信頼を得る為に豊臣恩顧を払拭する事に心血を注ぎ土佐二十七万石の大々名に大出世をしている。
彼には特段の才も戦功も無かったが、己を知るが故に先を読む目と付き合い上手に長け、周りとも軋轢の無い使い易い部下として重宝されたのが、「結果的に出世を助けた」と言って良い。
今風に言うと常日頃の心掛けが大切で、石田三成と山内一豊の差は、「頭が良いのと利巧は必ずしも一致しない。」と言う典型例だ。
何時の世も、勝ち抜いて行くには情報が肝心である。
しかしここで誤解し易いのは、情報の質なのでる。
その質を見分けるには応分の力量が必要で、理屈では通らない経験がものを言う。
往々にして陥り易いのは、上に行くと現場に遠くなる事で、他人の報告に頼る事である。
現場に行ったら、口うるさく細かい指摘などするよりも、黙ってしっかり見るべきは部下の報告との「整合性」である。
耳触りが良い報告は特に注意すべきで、悪い報告をきちんと出来る部下の報告は信頼度が高い。
それで任せられる相手と、情報の質が判る。
信長は、弟・信行(信勝)を倒し、主筋の守護代・織田大和守家を倒して清州城を攻略、近隣の織田縁(ゆかり)の者達を従え或いは倒して勝ち続け、やがて残りの四郡を治める遠縁の守護代・織田伊勢守家の領地をも従え、待望の尾張八郡を手中にし、戦国大名に伸し上がったのだ。
この辺りが、会社の買収を繰り返して拡大して来た新興企業の手法に重さなる。
力が無ければ相手にされないし、何も出来ない。
後発の企業は、既存企業既得権益の牙城に挑まねばならない。
規模が大きくなれば初めて世間が認め、それでようやく信長の元へ家臣が集まりだした。
ここでも、信長の手法は革新的だ。
信長は、それまでの「血筋を第一とする従来の家臣の登用スタイル」など、最初からするつもりもない。
あくまでも「能力主義」である。
それでないと血縁の身内や古くからの家臣のみがいつも安泰で、「澱んだ沼地の水の様に」組織の活性化など望めない。
現実に、古い大名家の多くには腐っている者も多く、下克上の的になっていた。
信長の人集めの場合は、能力があれば百姓の出自(?)や山窩(サンカ)衆でも、野伏せり野盗の類(たぐい)でも良い。
だから、誰にでもチャンスはある。
後の豊臣秀吉などは、「お館様の言う通りにやれば良い。」と、全面的に信長の「指示を実行した」に過ぎないのではないだろうか。
勿論それを実行できるだけで、相当な能力ではある。
それでも秀吉が行った数々の名作戦などは、「信長の指示、発案であった」と思うのが、自然である。
秀吉についてはこの次の章で詳しく記述するが、その出自に実は特別のものが在った。
確かに氏姓には縁の無い存在だったが、彼には出世の糸口になる相応の裏付けが確り存在した。
それ故早くから信長に認められていたのであって、草紙、講談本の出世物語の類は眉唾である。
織田信長は五歳の頃から進講(勉学の講義)を受けていたが、教わる事柄について信長の発想は少し違った。
論語は正しい教えだが、その実態は表向きの綺麗事に過ぎない事が信長には直ぐに理解出来た。
歴史を教わる信長はその事象の追認に止まらず、そう歴史が動いた背景や動かした者と動いた者、夫々の裏側まで思い至って読む才を持ち合わせていた。
信長は、特にその「動いた者」の存在こそが目的達成の鍵になる事に着目して居たのだ。
ごく一部の信長ごとき天才を除けば、人間、持って産まれた才能に大した差はない。
どちらかと言うとその後の育ち方が大切なのだが、この国では学問も支配意識も長い事氏族の独占だった。
その垣根が、この信長の織田家で幅広い人材登用に拠って崩されそうだった。
木下藤吉郎(豊臣秀吉)は言わばその代表選手で、蜂須賀小六や秀吉の近親者、同郷地縁者の一団が織田家内の勢力として形成されつつあった。
人間、登用されれば経験がものを言う。
何時の間にか、木下藤吉郎にもそれ成りの物が身に着いていた。
この登用、信長一流の計算で旧社会の構造破壊を狙った「思い」を秘めていたのだが、それが後の天下を左右する事になる。
木下藤吉郎(羽柴秀吉)の才能は、武士(氏族)としては異彩である。
そしてその価値をお館様・織田信長は誰よりも知っていて、藤吉郎(秀吉)を可愛がって居た。
これが武士(氏族)の既成概念に囚われた国主なら、木下藤吉郎(羽柴秀吉)の才能は埋もれて終ったかも知れない。
経営者の資質で一番必要なのは、部下の登用能力である。
ここで肝心なのは、部下の能力を単純評価するのか分類評価するのかの経営者の思考基準である。
会社経営で肝心なのは、出来るだけ「質」の違う才能を集め穴を埋める事で、経営者好みの「質」の同じ者を揃える事ではない。
本来なら、「質」の違う才能を見出し、登用して行くこそ経営者の資質である。
しかしながら大方の経営者は、この「質」の違う才能を理解出来ずにみすみす失い、「同質」ばかりのバランスの悪い経営をする事に成る。
兎角間違え易いのは、成果を期待する余り才能は有るが「質」の違う部下を単純に一線に並べ、「手柄を煽って競争させる」と言う稚拙な手段を取る事である。
所が、こうした稚拙な手段は、「質」の違う才能がある部下ほど「その手に乗るか」と通用しない。
部下に経営者の資質を見透かされ、「付いて行けない」とあきれられるからである。
経営者本人は単純に「競わせれば業績が上がる」と思い込んでいるが、それではそれに乗る単純な才の者しか集まらない。
経営者が自分の理解の範囲(同質)の者でその企業を固めると、世間では通用しない「極端な企業論理」が会社を支配し危機管理がおざなりに成って行く。
凡そ企業が馬鹿げた失態を起こすのは、この簡単な理屈のパターンである。
従って経営者は、自分が理解出来ない或いは理解し難い才能を如何に登用し、自らの足り得ない所を補わせるかが、命題である。
企業が相手をする世間は、不特定多数の多様な思考の持ち主達であるから、「同質」が集まっての経営は破綻し易い。
織田信長はワンマンと思われ勝ちだが、多くの家臣の個性と能力を見極めて使いこなし、この点に特に優れていたのではないだろうか?
織田信長が編み出した天才的な戦略知略は、当時としては画期的な発想で、織田信長は典型的な【左脳域】の「論理の天才」と言える。
つまり、【左脳域】の「論理の天才」と言う事は、【右脳域 】の感性である「情」には薄い事になる。
その事が信長の業績に影を落とし、結果的に命取りにもなってしまった。
織田信長は、当時の近代兵器・鉄砲を積極的に取り入れた先進的な武将である。
戦国の乱世を力でねじ伏せ、天下統一(天下布武)の先駆けとなった織田信長と鉄砲の間には、恐るべき男の存在が在った。
弱小戦国大名の尾張・織田家に多くの鉄砲を購う手段は無かったが、それを可能にする方法が在った。
一人の男を金で雇う事である。
その男の存在こそが、鉄砲を持って織田信長の野望を「軌道に乗せた」と言って過言ではない。
その恐るべき男・雑賀孫市は、自由な生き方を望み一国一城の仕官の誘いにも己の天下取りにも興味が無かった。
日本初の鉄砲傭兵軍団を率いた雑賀孫市こそが、本物の乱世の英雄かも知れないのである。
織田信長が九歳の千五百四十三年(天文十二年)、新兵器の鉄砲は島津領・大隅国(鹿児島県)種子島・西之浦湾に漂着した中国船に乗っていたポルトガル人によって種子島に伝えられた。
種子島々主(種子島領主)である種子島恵時・時尭親子がそのうち二挺を購入して刀鍛冶の八板金兵衛に命じて研究を重ね複製作りに成功する。
鉄砲を初めて使用したのは薩摩の戦国大名・島津貴久で、伝来から六年後の千五百四十九年(天文十八年)に「城攻めに使われた」とされている。
その頃種子島に在島していた泉州・堺の商人・橘屋又三郎(鉄炮又)と、楠木氏一族の末裔を名乗る紀州・根来寺の僧兼武将で根来衆(ねごろしゅう)・津田算長(かずなが/さんちょう)が本土へ持ち帰り、根来西坂本の刀鍛冶・芝辻清右衛門妙西に複製を命じてこれに成功している。
芝辻清右衛門妙西は泉州・堺に移住して本格的に鉄砲製造に取り掛かり、隣接する雑賀郷の雑賀衆棟梁・雑賀孫市ら傭兵集団もこれに注目、早くから「三千挺を所有していた」とされている。
六年後の千五百四十九年(天文十八年)の頃には、近江国の鍛冶師・国友も鉄砲作りに成功していて、鉄砲に目をつけた十五歳の織田信長が五百挺の鉄砲を国友に注文した記録が残っている。
千五百五十三年(天文二十二年)織田信長は正室・帰蝶(濃姫)の父・美濃国主の斎藤道三との四年越しの初対面の行列に、雇い入れた雑賀衆の鉄砲隊で水増しした大鉄砲隊を引き連れて行き、道三が掴んでいた情報の五百挺を遥かに凌ぐ隊列に「道三の度肝を抜いた」と言う逸話が残っている。
その後の千五百七十三年(天正元年)、越前・朝倉義景とのいざこざに織田信長(おだのぶなが)の妹・市(おいちの方)との婚儀により義兄弟の同盟関係と成ったにも関わらず朝倉方に組した近江・浅井長政を滅ぼした信長は、鉄砲鍛冶匠・国友の支配権を手に入れて鉄砲の大量生産を命じている。
鉄砲を大量に手に入れた織田信長は、千五百七十五年(天正三年)の長篠の合戦で三千五百挺の鉄砲を使用し、武田軍に圧勝している。
雑賀孫市は、豪放豪胆な男だった。
我輩が魅力を感じるのは、権力の野望に固執せず、純粋な信念の美学を生き甲斐にする男達で、この時代に我輩にとって魅力的生き方をしたのがこの男、雑賀(佐大夫)孫市である。明智光秀も捨て難いが、「自由に生きよう」と言う生き方の魅力では孫市には勝てず、次点である。
雑賀(佐大夫)孫市は、七万石相当の独立領地「雑賀(さいが)郷・五ヶ荘」を保有する勢力、雑賀衆七万人の郷士集団に認められた統領の一人だった。
孫市は、かなりの戦闘能力を持った雑賀衆を束ねていたが、彼には天下取りの野心も無く、増してや、仕官して他人に使われるなど思いも及ばない。
そこそこの収入さえ得られれば、己も付き従うもの達も「自由人として楽しく暮らせば良い」と考えていた。
従って、差別感の無い一向宗(正式には浄土真宗・じょうどしんしゅう)に傾倒していた。
それが最後は裏目に出た。
詰まる所、それを赦す権力者はこの世にいなかったのだ。
雑賀(佐大夫)孫市が織田信長に会ったのは、信長に「美濃のまむし」と呼ばれた戦国大名・斉藤道三の娘「帰蝶(濃姫)」との縁談が有った時だった。
傭兵軍団を生業として雑賀衆を率いて戦闘を請け負っていた雑賀(佐大夫)孫市に、奇妙な仕事が舞い込む。
尾張・織田家からの要請で、戦う必要がないが鉄砲一千挺をもって「美濃への旅の警護をして欲しい」と言うのだ。
「行列に加わるだけ」と言いながら、多額の金子(きんす)が提示され、「虚(うつ)け殿は、見栄に大金を費やすものだ」と呆れたが、割が良い仕事で手勢千三百、鉄砲一千挺を以って出かけると、織田家では既に自前で五百挺ほど鉄砲が揃えてある。
後で考えると、こけおどしの為だけに、今で言えば短期レンタルの鉄砲隊を雇った事になり、信長一世一代の「見栄」だった。
千五百五十三年(天文二十二年)、信長は「木曽川の辺にあった」と伝えられる正徳寺(聖徳寺) で初めて義父の斎藤道三と会見する。
当時としては最新の鉄砲千五百挺を並べた強力な鉄砲隊の行列が、斉藤道三の肝を冷やしたのだ。
道三は、新式の種子島(鉄砲)千五百挺の隊列を見て「う〜む」と唸った。
「はて?織田の小倅(こせがれ)にあんな兵力があるとは・・・はぁは〜雑賀か。面白い。油断の成らない若造じゃ。」
信長の行列を見た斉藤道三は大いに信長を気に入り、上機嫌で愛姫「帰蝶(濃姫)」を、本気で信長の嫁に出す事を即決している。
「あの織田の小倅(こせがれ)、とんでもない虚(うつ)けじゃ。じゃじゃ馬には似合いじゃろうて、後悔せずに奴にくれてやるわい。」
「美濃のまむし」と言われたその男・斎藤道三は、凄まじい下克上で主家を次々に滅ぼして伸し上がり美濃一国の国主に上り詰めた男だが、それだけに観察力は鋭く人を見る目はある。
その道三が、「虚(うつ)け者」と評判の織田信長と言う尾張の若い盟主が気に入った。
「ワシは姫(帰蝶/きちょう・濃姫)を嫁がせる事に決めたぞ、尾張の婿殿は中々に油断が成らぬ婿殿じゃ。」
「父上がそう申されるなら、尾張に行きましょうぞ。して、何時(いつ)頃尾張に攻め入りますか?」
「何を申す。見る所、尾張の婿殿はワシでも容易には攻め切れぬわ。」
「ならば兄上(斎藤義龍)の代には、ワラワがこの美濃を婿殿の為に奪ってしんぜましょう。」
「ワハハ、姫が申すと戯れには聞えぬのぅ。」
「ホホホ、ワラワは美濃のまむしの姫故、戯れなど申しません。」
「それも、あるやも知れぬ。あの殿、虚(うつ)けがワシより一枚上手やも知れぬでな。」
実はこの斎藤道三の決断で、織田信長と明智光秀の運命は決まっていた。
それ所か、江戸・徳川幕府成立の遠因かも知れない。
運命の為せる業は、人間の想像を遥かに凌(しの)いでいた。
この成功に、信長は雑賀衆に祝儀まで出して、以後の助力を要請した。
気前が良い雇い主は、雑賀孫市にとっても良い客だった。
その後孫市は、この若き戦国武将の奇妙な要求には度々驚かされたが、何度か雇われて戦闘に加わるうち、信長の才に非凡な物があるのを感じていた。
その内に、かねてより親交があった土岐源氏の明智光秀が信長騎下に加わって来て、孫市は光秀を窓口に仕事を貰う様になる。
勘解由小路(賀茂)の血は、雑賀孫市に天性の人懐こさを与えていた。
この男雑賀孫市は、剛胆な中にも繊細な気配りの出来る人物だった。
それ故、彼には人望があった。
棟梁の役目は、眼前の危機に対する答えを、自分の中で見つけ結断を下す事だった。
「いかに苦悩をしても、決断は自分でやらねばならぬ。」
孫市は、棟梁として自分にそう言い聞かして生きて来た。
つまり戦乱の世で、組む相手を見誤れば「雑賀党の命取り」と言う事である。
彼が最後まで恐かったのは、自分の判断が「確かなものであった」かを、雇い相手の戦闘で確かめる時だった。
その点では信長の自軍掌握術、戦闘指揮術は申し分ない。
信長の軍団が、強かったのは「常設軍」だったからである。
この常設軍は、この時点では「画期的」な事だった。
信長、天才の由縁である。
当時、どこの大名も常設軍は持たず、家臣に所領を与え、そのまた家臣は土地(耕作地)を与えられてそれを運用していた。
つまり土地を媒介とする事で自活させ、日頃の支給金などの負担を逃れていたのだ。
勿論そんな制度だったから農業従事者(後に言う百姓)と武士にさしたる違いは無い。
武士も「農業従事者(後に言う百姓)をしていた」と言う事に成る。
領地、知行地がこの時代の基本であり、懸命とは「命を懸ける事」であるから、一所懸命は所領を「命ち懸けで守る事」が当時の武士に課せられた唯一の疑いない価値観で、「一所懸命」は此処(ここ)から来ている。
小領主、郷士、地侍など普段は経済的に独立していて、作地をして土地を運用し、生計を立てているのだ。
そして、いざ「事ある時」に召集されて軍団を形成する。
運良く勝てば、新たに領地がもらえる。
敵が攻めて来れば、自分の土地を守る為に領主の下に結束する。
あくまでも、土地(領地)を取られない為の共同作戦である。
それで、相手との間に「領地安堵」の密約があれば、「一所懸命」に合致し、裏切る事も有る。
「自明の理」である。
この時点で大事なのは「土地」で、主従関係では無い。
言わば「傭兵契約」の様な関係であった。
それで、「どちらに付いたら徳か」と言った召集される側の「値踏み」もあり、本音の所では、あてにし難い形態だった。
この事が、信頼のおけない裏切りの芽を育たせ、「下克上」を育生んだ。
例え武士と言えども、戦はしていても元々始めから「死にたい」と思って戦をして居るものは、そう多く居る訳が無い。
本音を言えば、良い思いをしたいからこそ武士はいささか危ない思いをしても戦はする。
そこまで行かなくても、行き掛かりで止むを得ずにする戦も在る。
そう言う訳だから、充分根回しをした謀事で決着をつけるか若い者達の無鉄砲な気力が役に立つくらいで、古参の武士など現代の映像で見せられるように格好の良い戦ぶりは少なく、互いに「こけ脅(おど)し」とヘッピリ腰の合戦が現実だった。
武将がそんなだから、雑兵はもっと充てには出来ない。
雑兵は、各々の領主が領地の百姓を半ば強制的に駆り出して来る。
本気で命のやり取りをするのは出世志向一部だけで、後は仕方なしの参加だから氏族の大将が殺られれば、「わーっ」と蜘蛛の子を散らすように逃げ出す。
そして雑兵は、農閑期しか駆り出せない。
だから、田植えの時期と稲刈りの時期は、「戦闘は起きない」と言う暗黙の了解があった。
百姓(雑兵)も武将も農作業が急がしいと集まらないのだ。
それでは、作戦を立て難い。
「そろそろ稲刈りの時期でござる。」
「致し方なし、兵を引こうぞ。」
日本の信仰精神からすると、稲作は神事である。
つまり、田植え稲刈り時期に戦をしない暗黙の了解には、食糧問題だけに止まらない精神的なものが在ったのである。
所が、その信仰精神そのものを屁とも思わないのが信長の思考だった。
武田信玄と上杉謙信が「川中島」で何度も剣を交えながら、決定的な勝敗が付かなかった事も、この特殊な事情からである。
農作業の時期が来ると、互いに兵を帰している事実がある。
この長く続いた「家臣団の土着性」を、信長はある策略で壊して行った。
これも、天才信長ならではの手法である。
信長は自身の本拠地を次々と変え、家臣団を定住させなかった。
那古野、清州、小牧、岐阜、安土と移って、その都度家族を同伴させている。
これでは、家臣も付いて歩くしか無い。
信長は、本当の目的を一々説明する事無く、合理的に家臣の土着性を改めたのである。
単純な話、相手が兵力を整え難い時期にすばやく軍団を編成して攻め込むには、「常設軍」が必要なのだ。
この差は歴然であった。
その強力な織田信長軍団に、雑賀孫市の鉄砲傭兵軍団が雇われて加われば無敵で有る。
信長の編み出した多重構えの鉄砲戦術も、チームワークを訓練した団体戦法で弾込めの空白時間(ロスタイム)と言う弱点を補う工夫をしたものである。
今でこそ、何でも無いような事でも、当時の常識に囚われて、他の大名は旧泰然とした荘園〜守護時代の体制を改めなかった。
当時の守旧派にすれば、確かにルール違反であり、「文化に馴染まない」物だったのではあるが、その事に「何の説得力がある」と言うのか?
そう言う見苦しい言い分を平気で口にするから、知恵が無い者は始末に負えない。
つまり、今の子供が聞いたら「ばかだねー」と言う事でも、「普通」或いは「常識」に囚われていたばかりに、攻め滅ぼされてしまったのだ。
統制の取れた団体戦型の常設軍の活用。
それで、信長軍団は勝ち続けた。
相手には、始めから利益で動く「寄せ集め」と言うハンデがあったのだ。
不利になったら「寝返る」なり、逃げるなりすれば良い。
帰って、「自分の土地」で百姓仕事に精を出せば良いのだ。
つまり、所領と言う半農の拠り所があった。
信長の専業武士団は「戦いだけが本業」で、帰る所は無かった。
土地は所有(所領)していても、百姓に任せているのだ。
武士、侍(さむらい)と言う、俸禄(ほうろく)、扶持米(ふちまい)をもらい、主君に滅私奉公する戦闘専門の「常設軍事組織」ができたのは、信長以降の安土、桃山時代からの事である。
信長が天下を臨むに、もうひとつ大きな要因がある。
信長に経済力が伴っていたからからこそ、「常設軍」を形成出来のである。
その一つは、前述の父・信秀の代から居た勝幡城の存在である。
その地は尾張と伊勢を結ぶ要衝にあり、織田家は近くの商業都市「津島湊」を支配し、港の管理に拠る海運の利権を握って課税して力を蓄えていた。
いま一つは、所領の豊かさに有る。
濃尾(のうび)平野は、美濃・尾張を跨ぐ広大な平野で、当時は本州最大級の作地面積を誇り、木曽三川(木曾川・長良川・揖斐川)により形成された沖積平野の為、土壌は肥沃であり気候に於いても積雪が少ない好立地で在った。
肥沃の地は優良耕作地で石高の収量も多い。
つまり尾張を手中に置いた信長の織田家は、支配地の大きさの割りに裕福だった。
当時の税収の基本は米である。
信長が尾張・美濃を平定した時点で、この広大な濃尾(のうび)平野全域を手に入れ、財政的には他国の戦国大名より遥かに有利な条件に成って居た事も忘れてはならない。
即ち尾張・美濃は、近隣の朝倉、今川、武田、上杉などの有力戦国大名の所領より遥かに平野部が多く、耕作可能地が群を抜いていたのである。
士農工商の呼称に付いて「農」の序列が工商より上席な事を、「米(食料)と言う大事な生産をするから」と解説されるが、そんな事ではなく、元々戦国末期までは下級の郷士と農民の間は、どちらにも成れる線引きの薄いものだった。
その事実が身分の序列に反映したに過ぎない。
その下に、被差別階級としての賤民(せんみん)「河原者、穢多(えた)、非人」が中世の頃から顕著に見られ始め、近世を通じて存続し、千八百七十一年(明治四年)の解放令まで残っていた。
人民は、一般に良民と賤民(せんみん)に分けられ、賤民(せんみん・卑しい身分とされた人々の総称)の原点は中国から渡来して取り入れられた「律令制」における「奴婢(ぬひ)」と言う奴隷階級の制度で有る。
この制度は朝鮮半島を経由して日本にもたらされたから、半島の国家にも永く近代まで残った。
日本の奴婢(ぬひ)制度は、律令制における、良民(自由民)に対する賤民(自由のない民)の中の位置づけの一つである。
奴(ぬ)は、男性の奴隷で婢(ひ)は女性の奴隷を意味する。
奴婢(ぬひ)は、一般的に職業の選択の自由、家族を持つ自由、居住の自由などが制限されており、一定年齢の年齢に達した場合その他の条件で解放される場合も在った。
奴婢は、大きく公奴婢(くぬひ)と私奴婢(しぬひ)に分けられ、公奴婢(くぬひ)は朝廷に仕え、私奴婢(しぬひ)は地方の豪族が所有し、基本的に家畜と同じ所有物扱いであり、市場などで取引されていた。
従って当然ながら「婢(ひ)」の身分の女性奴隷は所有者の性奴隷でも在った事は否定できない。
この身分設定に付いて確たる根拠がある訳ではなく、大方の所、権力者の都合で「成行きで成ったか、その身分の家に生まれたから」とかの、理不尽な理由に拠る制度で有る。
言うまでも無く、この身分の上下は人間の値打ちにまったく関わりはなく、その出自を恥じる必要もない。
反対に、出自が良いからと威張る意味もない。
先祖の実力はあくまでも先祖のもので、本人の実力ではないからである。
ちなみに太閤秀吉が、刀狩をするまで、百姓と下級の侍(足軽)とではたいした境目はなかった。
兼業者の様なものだった。
太閤検地と刀狩は、恐らく信長のあの世からの「指図であった」と考えられる。
つまりあらかじめ信長から聞いていたのだ。
秀吉が秀才の仲間とすると、それは信長の知略のパターンを、上手に使いこなす事が出来た事だ。
その証拠に、柴田勝家により、一向宗対策もあり秀吉天下以前に領国の越前で刀狩はなされていた。
しかし、天下を取った後の事は、さして信長から聞いてはいなかった。
この事は、秀吉の仕事が「天下を平定する所まで」と言う事を意味していた。
秀吉は信長の「知恵の遺産」を食い潰して、晩年はただの哀れな老人だったのだ。
その証拠に、晩年には発想に切れがなくなり、天下に何の有効な指示も出来なかったのである。
信長の発想は、当時としては奇想天外なものである。
だが、時が過ぎると是が常識となり、普通になる。
信長は「天下の虚(うつ)け者の」つまり常識外れであった。
しかし、その時その時代の常識が、必ずしも「正しい」とは限らない。
傅役(お守り役)の平手政秀は、信長の奇行が治らない事から織田家の前途を悲観し、「信長を諌めて自刃した」と伝えられているが真相は不明である。
もっとも、信長の奇行は確信犯だから、傅役(お守り役)の政秀が自刃しても、一向に収まっては居ない。
一説には、政秀の嫡男との「馬をめぐるトラブル」とも伝えられているが、我輩は、余りにも常識的思考の平手政秀の存在そのものが、信長の織田家運営に、傅役(お守り役)上がり故に「邪魔だったのではないか」と、推測している。
これは可能性の問題で、かなり無理な推測かも知れないが、織田信長のとてつもない野望を最初に知ったのは、傅役(お守り役)の平手政秀ではなかったのだろうか?
それ故、「自らの命を賭(と)してその野望を諌めた」としたら、劇的である。
何故か平手政秀の自刃と、信長が平氏の末孫を名乗る時期が符合しているのである。
平手氏は「尾張諸家系図」によれば、三代遡ると清和源氏新田氏の一族・千三百八十五年(至徳二年)南朝・宗良(むねなが)親王に属して信濃浪合の合戦で戦死した世良田有親の子・義英に始まるとされている。
その曾孫を政秀とし、つまり、皇統護持を旨(むね)とする源氏の血筋である。
主君「信長の野望」を座して見るに忍びなかったのかも知れない。
近年この「尾張諸家系図」に拠る平手氏の清和源氏新田氏の一族説には疑義を唱える説が存在する。
しかし平手政秀(ひらてまさひで)が茶道や和歌などに通じた文化人と評され織田信秀の重臣として主に外交面で活躍、信秀の名代として朝廷に御所修理費用を献上するなど、織田家の朝廷との交渉活動も担当していた。
この平手政秀(ひらてまさひで)自刃後、織田家の朝廷との交渉活動を担当したのが、同じく清和源氏土岐氏一族・明智光秀である。
明智家は、源頼国が美濃守として赴任し、居住した土地の名「土岐」を取って名乗った源氏の守護大名・土岐氏で、土岐一族の本流の別れが美濃の国・明智郡に居を構え小城を築いて明智姓を名乗った事に始まっている。
つまり織田家は、朝廷公家との付き合いにはそれ相応の出自の者にその任に着かせているので、平手政秀(ひらてまさひで)にはその任に堪える出自と教養が在ったと見るべきである。
この平手(源)家、やがて嫡男も戦死して平手嫡流が途絶え、傍流も改姓して平手姓を名乗らなくなっているのだが、後日談が大きなミステリーに成った。
どう言う訳か、隣国の松平元康(徳川家康)が、三河国と遠近江国の二ヶ国平定後、平手家と同じ祖、名門・新田(にった)源氏・世良田系「得川家」を突然名乗り始め、朝廷に願い出て「徳川」と改姓し、三河・松平家は征夷大将軍の有資格家・源氏の傍流に収まっているのである。
この松平氏の徳川(源)家改姓に、平手家の存在は関わりが無かったのだろうか?
その話は、いずれ徳川家康の出自の話の中で「詳しく述べる」としよう。
千五百二十八年(享禄元年)、父は明智光隆、母はお牧の方の間に幼名を桃丸(明智光秀)と言う運命の男がこの世に生を授かる。
もう一方の主役は、その桃丸(明智日向守光秀)である。
若い頃は、明智十兵衛光秀と名乗った。
光秀の人生最大の決断は、本能寺に信長を討った事である。
天下の秀才・明智光秀が何故謀反を抱き、何故あの時期に「本能寺」に攻め入ったのか、疑問は多い。
諸説あるが、いずれも決め手に欠ける。
何故なら、光秀ほどの秀才に「全体の状況把握が出来ていない」とは思えないからだ。
しかし、光秀の血統と歴史の必然を考えれば、それはおのずと納得できるのである。
天下奪取の野望なのではけしてないのだ。
「輪廻転生」と言おうか、若き明智光秀の利発そうな顔が、護良(もりなが)親王の優しそうな面影に瓜二つだった。
この顔立ちは野心など無く、盟主を支える事が似合っていた。
問題なのは、例え光秀が信長を本能寺で殺害しても、家臣の柴田勝家も羽柴筑前守(当時の秀吉)も丹羽長秀も織田の実子の大名達も健在でいる事である。
つまり、信長軍団は幾つかのユニットで、それぞれ大軍が健在なのだ。
同盟軍の徳川家康も居る。
徳川家康も、どちら側に回るか判らない。
もっとも家康は、光秀軍の追撃をかわし、「伊賀越え」で取り逃がした事になっている。
だが良く調べて見ると、表向きまだ伊賀や伊勢まで光秀の通達が行っていなかった事になって明智方の郷士の所領も難なくすり抜けている。
いずれにしても、信長を本能寺で葬っても四方に信長の軍団が健在で、光秀はそれらの大軍を相手に何度も戦をしなければ成らない。
そのリスクを負っても成し得るべき、意外な理由があるに違いない。
僅かな供回りを連れて、本能寺に泊まった「信長だけ」を討つのには、確かにチャンスだが、その後の天下の行方に確信は掴めなかった筈である。
本来、光秀はそんな安易な賭けに出るほど、愚かではない。
そう考えると、損得ずくでは無い何かが・・・そう、緊急性のある「或る事」が、裏に在った筈だ。
少なくともその時点では、「彼は、天下を望んだ訳ではない」と考える方が、自然である。
あの時点での彼の目的は、「信長暗殺」この一点に在ったのだ。
その後の事は、不本意でも成行きで良かった。
光秀をもってしても、後の事を考える余裕が無かったのである。
事実、「三日天下」(実際には十三日間)と言われるくらい、あっけない結末だった。
「用意周到に事を起こした」とは思えない光秀の行動と、「希代の秀才」との評価のギャップに、後の人は「逆上による発作的行動ではなかったか?」と、およそクールな光秀には似合わない事さえ言う。
光秀は或る事が証明できないまま、ただの謀反人とされてしまった。
それほど、「計算度外視」で光秀が動いたのは何の為か?
もし、それが計算度外視の「重要な大義」だけで光秀が動いたのなら、それはそれで、立派なものだ。
光秀の出自(しゅつじ)を紹介して置こう。
明智家も源氏の出である。
光秀の方が、同じ源氏や藤原でも血筋的には信長より確かで、少し上だ。
美濃の国(今の岐阜県の南部)に、土岐と言う町(市)がある。
土岐と言う名は、清和源氏(摂津源氏)の流れを汲む守護大名の土岐氏の名である。
言うまでも無いが、源氏は皇統守護の血筋で有る。
源頼国が美濃守として赴任し、居住した土地の名、「土岐」を取って名乗った源氏が、守護大名土岐氏の始まりである。
この土岐一族の本流の別れが、美濃の国明智郡に居を構え、小城を築いて、明智姓を名乗った。
つまり光秀の方が、信長よりはるかに源氏の本流に近いのである。
言わば、バリバリの血統書付きだった。
名家の出ではあるが、光秀は不遇だった。
美濃一国を支配していた明智本家の守護大名土岐氏は、配下の斉藤道三の下克上に合い、支配する領地、美濃の国を乗っ取られていた。
明智一族も、本家土岐氏没落後は、斉藤道三に従っていた。
実を言うと明智家は、斉藤道三に大事にされていた。
土岐氏を排除したものの、美濃の国運営には、土岐の血筋は都合が良い。
しかし斉藤道三は、嫡男の「斉藤義龍」に討たれてしまった。
斉藤道三が、嫡男義龍よりも他の子供を可愛がった事から、「危機感を抱いての親殺し」と言われている。
但しこの嫡男、後ほど詳しく記述するが「道三の子ではない」と言う疑惑もある。
斉藤道三は、信長の舅(しゅうと)で義父に当たる。
信長は、道三娘「濃姫」をもらっているのだ。
急を聞いて信長が美濃に援軍を率いたのだが、道三は既に討たれてしまっていた。
その騒乱の中、明智の当主光安は、一族の小勢で明智城に立て籠もり、義龍に抵抗して落城、討ち死にしている。
その時光秀は、明智家再興の為に、従弟の「光春、光忠」など、一族の若手を連れて城を抜け出している。
光秀は、幼い従弟二人を預かり、斉藤利三と言う明智家血筋の武将を伴い、御家再興を念じて旅に出る。
斉藤利三は、美濃守護職土岐家の守護代であった斉藤家の庶流を継いで居た。
嫡流家は乗っ取りの斉藤道三利政(山崎屋庄五郎・西村勘九朗・長井新九朗利政)に継がれて、斉藤利三は本家を失っている。
帰る地を失った光秀一行は、諸国を巡り、長い事あちらこちらに身を寄せる、流浪の身に在ったのだ。
その後、経緯は定かではないが、光秀たち明智一族は越前(福井県)の「穴馬」の地に辿り着いて、そこに落ち着く。
若手の中で年長者の為、一族のリーダーとなった光秀は、勉強の為に更に諸国を回り、地形や大名達の情勢などの見聞を広めていた。
雑賀孫市と光秀が、自由都市「堺」で知り合ったのは、この諸国めぐりの途中で、正に歴史を刻む運命の出会いだった。
孫市が、同じ匂いを嗅ぎ付けて、生涯にただ一人だけ、外部の相手に気を許したのが、光秀である。
孫市にすれば、他の武将がかもし出す領地拡大や天下取りへの脂ぎった野心を光秀には感じなかった。
光秀は、孫市同様己の信念に対する美学を信条にして居たのだ。
織田信長が漸く尾張の国支配を手中にした頃、隣国美濃の斉藤家で骨肉を争う異変が起きていた。
実はまだ信長の尾張支配はその緒に就いたばかりで、磐石の支配体制とは言い難い時分の事だった。
戦国期の美濃国々主・斉藤家第二代・斉藤義龍は初代当主・斎藤道三の嫡男として生まれた事に成っているが、実父は斎藤道三が美濃を乗っ取る前の「美濃守護職・土岐頼芸」と言う噂が在り、「当時この噂は信憑性を帯びている」とされている。
その理由として、斎藤道三・正室の小見方は道三が土岐家々臣時代に土岐頼芸の側室だった小見方を弓の掛け試合で勝ち拝領した経緯が在り、道三が小見方を拝領した時には既に「頼芸の子を身篭っていた」と言うのである。
また、義龍の母は土岐頼芸の側室から道三の側室と成った深芳野とも言われているが同じく頼芸の実子説が在り、その噂が事実かは不明ながら道三と義龍の仲は「義龍幼少の頃より悪かった」とされる。
ただし道三は、この義龍実父・土岐頼芸の噂を巧みに逆用して旧土岐氏の家臣団を斎藤氏に組み込む事に成功したようである。
しかし千五百五十四年(天文二十三年)道三が隠居し、義龍が家督を継いで稲葉山城主になると道三と義龍の不仲が抜き差し成らないところまで発展する。
家督を譲ったものの道三は義龍を忌み嫌い、次第に弟の孫四郎や喜平次らを寵愛して義龍の廃嫡を試み弟の孫四郎を嫡子にしようとした為に、叔父とされる長井道利と共謀して道三を追放し、道三が寵愛する弟の孫四郎や喜平次らを殺害する謀反を起こした。
追放された道三は兵を起こし長良川にて義龍と対戦するが旧土岐氏の勢力のほとんどが義龍支持に回った為に、「美濃のマムシ」と異名を取った道三も流石にこの兵力差は如何ともし難く討ち果たされてしまう。
この道三・義龍親子の「長良川の戦」の知らせを聞いた尾張の織田信長は道三の娘・帰蝶(濃姫)を正室としていた為に援軍を仕立てて道三の救援に向かったが、義龍軍は大軍で織田方の戦況不利のまま「道三が戦死した」との報を受け尾張に撤退した。
父・斎藤道三を討ち美濃の支配者となった斉藤義龍は中々の武将だったらしく、室町幕府第十三代将軍・足利義輝にもその実力を認められて治部大輔に任官し、翌年には幕府相伴衆に任じられ、また家臣にも恵まれてその後何度かあった織田信長の美濃攻めを撃退している。
そこで問題なのだが美濃第二代国主・斉藤義龍を室町幕府が治部大輔に任官し、さらに「幕府相伴衆に任じたのか」と言う事である。
その背景に、やはり斉藤義龍が「源氏の血を引く土岐頼芸の子」と言う前提を認めていたのではないだろうか?
しかし斉藤義龍は父・道三から美濃を奪って僅か五年、享年三十五歳で急死してしまい、後を子の龍興が継いで斉藤家第三代国主となった。
さて美濃国々主は第三代・斉藤龍興が跡を継いだ。
その斉藤龍興が、結果的に国主の器には程遠い人物だったらしい。
美濃国第二代国主・斎藤義龍は、近江の半分を領する戦国大名・浅井久政の養女(近江の方/近江局)を正室に迎えている。
第三代国主・斉藤龍興の生母は定かではなく、龍興は義龍の庶子として生まれるとされるが、生母が近江の方(近江局)と言うのであれば義龍正室の子となり嫡子となる。
龍興・生母と目される近江の方(近江局)方には、「久政の父・浅井亮政の娘ではないか」と言う説が有力とされ、それならば近江の方(近江局)は浅井久政とは兄妹の関係になる。
その斉藤龍興は、千五百六十一年(永禄四年)に父・義龍の急死により家督を継ぎ稲葉山(岐阜城)城々主となる。
所が、龍興は余りにも素行が悪く、道三や義龍と比べ凡庸で年若く領国運営より遊びに熱心で家臣の信望を得るに至らない。
そうした斉藤家の動揺に乗じて、尾張の織田信長は度重なる侵攻を試みる。
その間に、撃退こそしたものの信長との「森辺の戦い」に於いて重臣(斎藤六宿老)の日比野清実、長井衛安などを失い、有力家臣であった郡上八幡城主の遠藤盛数も病没する。
龍興は美濃侵攻を試みる信長に対処する為、生母・近江の方(近江局)の実家、近江の浅井長政と同盟を結ぼうとした。
しかし織田信長に機先を制されて長政は信長の妹・お市を娶り、信長と同盟を結んで逆に浅井長政までもが美濃を狙って侵攻するようになる。
この時は義龍の時代から同盟を結んでいた六角義賢が浅井領に侵攻した為、長政は美濃攻めを中止して撤退している。
それでも最初の内はまだ有力武将が残っていて、再度侵攻した織田信長と新加納で戦い、家臣の竹中半兵衛重治(たけなかはんべえしげはる)の活躍もあって織田軍を破っている。
しかし事件が起きる。
中々行状を改めようとしない龍興に不満を抱いた美濃三人衆の一人・安藤守就(あんどうもりなり/重治の舅)と竹中半兵衛重治(たけなかはんべえしげはる)に拠って僅かな手勢で居城の稲葉山城を占拠され、龍興は鵜飼山城さらに祐向山城に逃走した。
この時は安藤守就(あんどうもりなり)と竹中重治(たけなかしげはる)が龍興に稲葉山城を返還したので龍興は美濃の領主として復帰出来たが、この事件により、斎藤氏の衰退と龍興の統率の無さが世間に知れ渡ってしまう。
そうこうしている内に織田信長は着々と美濃侵攻の圧力を強め、小牧山城築城により圧力が掛かった東美濃に於いては織田氏の縁戚となる遠山氏がなどの影響力も在り、有力国人領主である市橋氏、丸毛氏、高木氏などが織田氏に通じるように成って行く。
決定的だったのは、西美濃三人衆の稲葉一鉄や氏家卜全、安藤守就らが信長に内応し、頼みだった大叔父の長井道利も逐電(死去説も有り)するなどの悪条件も重なった中、遂に稲葉山城を信長に拠って攻め落とされ、龍興は伊勢長島へと逃亡する事になる。
その後龍興は、美濃斉藤家の再興を図って一向宗と共闘したり、越前・朝倉氏を頼って居候をするなど流浪を重ねたが、再び大名として美濃に返り咲く事も無く朝倉軍が織田軍に敗れて刀禰(根)坂戦い(とねざかのたたかい)で追撃を受けた際に戦死している。
(桶狭間)
◇◆◇◆(桶狭間)◆◇◆◇◆
この頃、桶狭間の決戦が起きている。
桶狭間合戦に於いて織田信長が今川義元を討ち取った時、まだ越前・朝倉家に居た明智光秀は三十三歳、信長は二十七歳、木下(羽柴)秀吉は二十四歳、今川義元の属将だった松平元康(徳川家康)は僅かに十八歳で、まだ夫々がバラバラの別の立場に在った。
今川義元の今川家は、室町幕府将軍家足利氏の庶子・吉良氏を祖とする源氏流の名門である。
今川氏の系図を紹介すると、鎌倉幕府の有力御家人である鎌倉期の武将・足利義氏(清和源氏義家流)の二男・足利有氏の子・足利国氏が、三河国・吉良と三河国・今川の両荘を領した足利長氏の養子となる。
足利国氏は、養父・足利長氏の所領の内今川荘内の数郷を受け継ぎ(伝領)、今川太郎または今川四郎と称した。
これが足利流・今川氏の始まりである。
やがて今川氏第二代・今川基氏(いまがわもとうじ)の時、後醍醐天皇が鎌倉倒幕運動をはじめて鎌倉幕府が倒れ、建武の新政が始まる。
すると、北条時行(鎌倉幕府第十四代執権・北条高時の次男)による中先代の乱が起こり、基氏の長男・今川頼国は足利尊氏に直属して遠江小夜中山の合戦で北条中先代軍の将・北条邦時を討ち取る大功をたてたが直後の相模川渡河戦で戦死し、この時三男・今川頼周も戦死している。
基氏の五男・今川範国は建武の新政から足利尊氏に直属し、尊氏蜂起の時は一時南朝方に在ったが直ぐに足利尊氏に臣従して室町幕府の成立に貢献した功績で駿河・遠江両国の守護職に任ぜられ、頼国の遺児頼貞が因幡・但馬・丹後三国の守護に任ぜられた。
この駿河・遠江両国の守護・今川範国が駿河今川氏の初代である。
上洛(都に上る)途中のついでに「かたずけよう」とばかりに、信長を侮って攻め込んで来た駿河、遠江、三河三ヵ国の太守、守護大名の今川義元の大軍を、千五百六十年(永禄三年)五月十九日、桶狭間の奇襲戦で、織田信長が見事破ったのである。
兵力差じつに十倍強の相手で在った。
千五百六十年(永禄三年)、今川義元は駿府を立ち、二万五千の大軍を率いて三河、尾張を目指して東海道を西進、織田方の丸根砦、鷲津砦を重臣の朝比奈泰朝と松平元康(のちの徳川家康)が率いる三河衆に落とさせ、義元自身は本隊を率いて信長の居城清洲城を目指した。
信長は丸根砦、鷲津砦を捨て駒にして今川の油断を誘ったのだが、味方を「捨て駒にする」などと、家臣に口に出しては言えない。
沈黙を守って寝たふりをする。
この時点で、義元の耳に入るのは連戦連勝の戦勝報告で有る。
大軍に臆したのか、どうやら信長は清洲城に籠もって味方の砦を見捨てている。
「織田勢恐れるに足りず」
今川全軍の緊張も次第に緩んで来る。
西進する義元の本隊が桶狭間(田楽狭間)に差し掛かる頃、突如視界が悪くなる程の豪雨が降り、行軍を止めて休息する事になった。
一方、丸根砦、鷲津砦の陥落、今川軍の清洲接近の報を聞いても動かなかった信長は、清洲城内に在って横になって居た。
戦に臨めばあらゆる事が勝つ為には必要で、当時の戦は敵状も然る事ながらその戦場の地形や天候、陽光と風の方向も勝敗を決する要素になり、それが戦略の一部でもある。
信長は、悠々と放った物見の知らせを待っていた。
信長がウトウトとまどろんでいると、何処からとも無く声がする。
声はすれど姿は見えない。
「お館様、駿府(義元)殿は間違い無く例の狭間へ向かいます。」
「さようか。ならば出陣じゃ。」
信長はガバッと跳ね起き、明け方に突如陣ぶれを発して僅(わず)かな従者のみを連れて軽装備の「当世具足」で居城の清洲城を出立する。
出陣に間に合ったのは旗本親衛隊(馬廻組)の僅かな手勢だけで、兵力は少ないが動きは機敏だった。
出立した信長は熱田に到着、軍装備もそこそこに、慌てて追いかけた軍勢(旗本親衛隊二百騎その他)を集結させて熱田神社に戦勝祈願を行い、今川軍の迎撃に出発した。
元々、捨て身でなければ勝てない兵力差だった。
信長にしてみれば、家臣がこの期に及んで甲冑などの重軍装に拘る様では機動力を失い、動員出来る二千を動かしては足手まといで到底不意打ちなど出来ない。
双方対陣しての合戦なら兵を集結させるのが筋だが、これは源義経ばりの奇襲戦で、二千の兵はそれでも多過ぎて足手まといである。
この桶狭間の合戦に於いて、天才・織田信長は自他の兵力の差などは関係なく勝ちに行った。
要は今川義元の首級さえ挙げれば良く、戦合議など重ねていれば勝機を失う。
信長は、ゴチャゴチャと五月蝿(うるさ)い老臣共を振り切って、はなから二百騎の旗本親衛隊(馬廻組)だけで決着を着ける積りでいた。
まず、信長は善照寺砦に入り物見の報告を待つ。
やがて桶狭間の方面に今川軍の存在を察知し、東南への進軍を開始しする。
付き従う旗本親衛隊(馬廻組)の顔ぶれは、滝川一益、前田利家、服部小平太、毛利新助ら、信長が織田家の当主に成った十九歳の時から共に遊び学んで育てた面々である。
信長親衛隊・赤母衣衆(馬廻組)の進軍に、他の織田勢が続々合流を始めて、漸く今川迎撃の機運が高まっていた。
戦国時代に始まった新形式の甲冑を「当世具足」と言う。
「鉄砲伝来」による戦闘形式の変化、集団戦闘の激化、戦闘行為の頻度の向上などに配慮し、防御部分の増加や西洋甲冑からの影響もみられる様式で有る。
駿河の太守今川義元は伝統ある大鎧、星兜と言った重装備で堂々と尾張に進攻して来たが、桶狭間で休息を取って紐を緩めたり外したりしていた。
それに引き換え織田軍は、急な出立に追っ取り刀で信長を追った者どもで、先祖伝来の自慢の甲冑は間に合わず、軽武装の当世具足(軽量化、堅牢化)と身が軽い。
これが勝敗を分けた。
豪雨降りしきる中、桶狭間の丘に達した織田信長は、今川義元の本隊に忍び寄るように接触する。
眼下の谷底のいくらか広いくぼ地に義元の本営が在った。
「殿、天はお味方ですぞ、正しく駿府殿(今川義元)が本陣、」
脇に控えた赤母衣衆・親衛隊長(馬廻奉行)・滝川一益が、兜から垂れる雨雫を払いながら、信長に囁いた。
「駿府(義元)め、我らを清洲に篭城と読んで居ると見える。」
「駿府殿(今川義元)が手勢、僅かと見ます。」
大軍を擁しての油断か、義元の本営は呑気に雨宿りの休息を取っていて、供廻りは僅か三百程度と見て取れた。
「滝川(一益)、奇襲を掛ける。前田(利家)、服部(小平太)、毛利(新助)それぞれが兵五十を持って合図を待て。一気に義元を圧し包む。討ちもらすな。」
「承知。」
雨が止んだ直後、織田軍親衛隊・赤母衣衆(馬廻組)二百が、油断して気の緩んだ今川義元の本隊に「ワー」と時の声を上げ切り込みを掛ける。
陣構えなど有ったものではない、いきなり総掛りで一斉に突撃して攻撃を開始した。
兜を脱いでくつろいでいた今川本隊は、織田方の急襲に浮き足立つ。
大軍の今川軍も織田領各地に広範囲に散らばり、本隊はそれほど大きな兵力をもっていなかった為、小勢とは言え一団となって突撃して来た織田軍の猛攻に拠って混乱し、突然の襲撃に劣勢を悟った義元は退却を命じ輿に乗って逃げようとするが、既に遅く、直ぐに織田方に取り付かれて輿を降り斬り合いになる。
「駿府殿お覚悟を。」
双方の大将が徒歩立ちになって刀槍をふるう乱戦となり、終(つ)いには今川義元の旗本部隊に織田信長の旗本親衛隊が突入し、義元は信長の馬廻の一人、服部小平太に斬り掛かられるものの、逆に返り討ちに斬って服部を負傷させた。
しかし、服部との格闘の間に迫って来た新手の毛利新助と乱戦になり、義元はついに毛利新助によって討ち取られてしまう。
義元の戦死によって今川軍本隊は壊滅し、合戦は織田方の大勝利に終わった。
一番槍の服部(小平太/一忠)も、討ち取った毛利(新助/良勝)も、この桶狭間の戦いで武勲を立てたが、政治力は無かったと見え、信長の旗本止まりの出世だった。
服部(小平太/一忠)は織田信長亡き後も秀吉に使え、一応二万五千石の大名に成ったが、秀吉甥の「豊臣秀次」が謀反の疑いで流罪・処刑された事に連座し改易されて切腹している。
毛利(新助/良勝)は、「本能寺の変」のおりに信長の長子・信忠に随行して京都に居り、信忠を守って二条城に篭り明智勢相手に戦って信忠諸共討死している。
駿河・遠近江・三河三ヶ国の太守・今川義元は「尾張を手中に納め、上洛しよう」と行動を起こす。
迎え撃つ尾張守・織田信長は総兵力僅か三千、守備を残すと動員出来る兵力は二千強がやっとだった。
しかし動員出来る事と、指揮出来る事は違う。
今川義元は二万五千の大軍を率いていたが、自身これだけの大軍を率いたのは生涯初めてで在った。
つまりこれだけの大軍を動かした経験が義元には無かった。
当然指揮系統はバラバラに成り、兵は広域に分散していた。
一方織田信長は、日頃から目を掛けて育てた若者ばかりの親衛隊を持っていた。
これも、意のままに成らない父・信秀以来の重臣より充てに成る子飼いの部下を育てる事に腐心していたからだ。
その、広域に分散した烏合の義元の大軍と充てに成る信長の親衛隊の接点が、狭い桶狭間の地に限定ではワンポイントの局地戦となり、義元の供廻り(護衛隊/馬廻組)三百余りが、急襲した信長親衛隊二百余りを防ぎ切れなかったのが真実である。
つまり信長方も、全兵力三千が桶狭間戦に実戦参加した訳ではないのである。
丸根砦、鷲津砦を二つ落とされても、織田信長は出張って来るどころか援軍も寄越さない。
信長の奴、「今頃は清州の城の中で震えて居るか、良くて篭城の準備でもしている」と今川義元は踏んでいた。
何しろ兵力差が大きくて、常識的には篭城くらいしか戦い様が無い。
いずれにしても今川義元は大軍を擁していた事で篭城戦と決めて掛かり、まさか織田信長が反撃に出る事に「考えが至らない」と言う驕(おご)りが有ったのではないのか?
所が不幸な事に相手の織田信長の自由な発想は、今川義元のような平凡な発想を覆(くつがえ)す事にその真髄があった。
近頃の研究で、今川義元が都の公家文化に傾倒して軟弱だったのではなく「立派な武将だった」と言う説が主流を占めているが、武将の才能にも二通りあり、源義経と源頼朝兄弟、徳川家康と徳川秀忠親子のごとく歴然と違いが有っても不思議は無い。
もっとも家康は、おせじにも戦上手とは言えないが・・・・今川義元の領国経営は際立って良かった点では、源頼朝や徳川秀忠タイプの武将として有能だったのではないだろうか?
織田家に忠誠心の厚い猛将・柴田(権六)勝家は、戦に強く所領の治政にも優れていた。
惜しむらくは、その頑固さ故の融通の無さで、何事にも正攻法を得意とし、謀事は苦手である。
従って信長の信頼は厚かったが、知将系の信長家臣団に在って実直な勝家とは意見の合わない武将が多かった。
柴田勝家は、信長の家督相続時の混乱で弟信行擁立に動き、信長に敗れて心服、信行を裏切り謀殺に加担した。
信長に寝返った柴田勝家だったが、その後プッツリと勝家の動向を示す資料はなくなり、桶狭間の戦いで今川義元を討ち取った時の記録にも、柴田勝家の名は無い。
桶狭間の合戦に柴田勝家の姿が浮かばないのは、主君・織田信長が出陣に際して明け方に突如陣ぶれを発して、僅(わず)かな従者のみを連れて軽装備の「当世具足」で居城の清洲城を出立したからで、出陣に間に合ったのは、旗本親衛隊(馬廻組)の僅か二百騎余りの手勢だけだったからである。
信長は、家臣がこの期に及んで甲冑などの重軍装に拘る様では機動力を失い、動員出来る二千を動かしては「到底不意打ちなど出来ない」と踏んで、旗本親衛隊(馬廻組)だけの奇襲戦で決着を着ける積りでいたからの証明である。
再度、柴田勝家の武勲が記録に出て来るのは、信長が足利義昭を奉じて上洛して以後からである。
木下藤吉郎(羽柴秀吉)が頭角を現したり、明智光秀が仕官する以前の事であるから、柴田勝家の名が桶狭間の戦記資料に見えなければ、桶狭間の決戦は「天才、信長一人の仕事であった」と考えられる。
実は、桶狭間とも田楽狭間とも言われるこの合戦の実際の場所は、四百五十年を経た現在でも諸説在って特定されていない。
つまり織田信長の急襲隊が、休息を取っていた義元の本陣と特定出来ないその付近で遭遇した事になる。
これを考えるに、信長の放った物見の者が、「そこまで先導して来た」と言う事か、或いは義元がそこで休息するように取り計らった「内通者が居た」とも言える。
織田信長が清洲城で潰していた時間は、何だったのだろうか?
一撃必殺の一瞬に賭ける為の「知らせを待っていた」と考えるのが妥当で、充ての無い時間潰しは考えられない。
この時の勝敗は、「情報戦或いは諜報戦」の重要性を重視した信長の決断の結果と言える。あえて言うと、大軍を擁した義元は信長を侮り、情報収集を怠って敗れたのだ。
この桶狭間の合戦に於いて、今川義元を討ち取った毛利(新助/良勝)の武勲が霞むほどの情報をもたらした何者かが居た事になる。
この勝利の勢いをそのままに、尾張の国内の反信長勢力を掃討し、信長は漸く尾張の国全八郡を手中にした。
織田信長と同盟関係を築くのも桶狭間合戦「今川義元討ち死に」の余波である。
今川家の人質として育った三河の松平元康が突然態度を変えて今川の下を離れ、独立して三河に入国し、岡崎城に入って織田方と連絡を取り始める。
そして、以前から打ち合わせが出来ていたがごとくに手際良く今川氏を見限り、独立を果たした松平元康(のちの徳川家康)は信長と同盟、織田家と松平家の「清洲同盟」が成立する。
ここまでは御承知の通りだが、この同盟関係(清洲同盟)には重大な秘密がある。
実は織田信長と松平元康(徳川家康)の間に特別な経緯が有るのだが、その経緯は後ほどのこの物語の徳川家康の出自に関わるエピソードの中で詳細を明かす。
東に脅威が無くなった信長は、隣国美濃・斉藤氏攻略を始め、有力大名への道を歩んで行った。
流浪していた光秀は越前朝倉家に仕官の誘いを受け、応諾して一族で越前に居を構える事になる。
ようやく光秀は仕官が叶い、一応の俸禄を得て世に出る足がかりを掴んだかに見えた。
この朝倉家も織田家同様に、元は斯波(しば)氏の家臣(守護代)で在った。
守護代だった朝倉家も他家と同じような経過を辿り、比較的早くから戦国大名として力を持っていた。
当初、光秀の出自と見識は、上流社会好みの当主朝倉義景に大いに喜ばれ、重用されていた。
越前の大名・朝倉義景に仕官した光秀は、多方面に才覚を発揮する。
しかし、「一族の仇敵」斉藤義龍の子龍興が信長に敗れ朝倉家を頼って逃げて来た頃、光秀は朝倉家に有って不遇だった。
聡明過ぎる光秀は、他の家臣からすると嫌味な存在に映る。
他の歴代家臣の嫉妬交じりの甘言により、主君・義景からも徐々に疎まれていたのだ。
そうなると、新参者だけに意見も無視されて朝倉家中に居場所が無い。
その上、龍興が朝倉家に頼って逃げ込んで来た。
一族の「憎き敵」なのに、主君の客では手が出せない。
光秀は、忸怩(じくじ)たる思いで在ったろう。
そこへ、あつらえた様に信長の招き状が送られて来た。
信長は美濃の斉藤龍興を越前に追い、二ヵ国を有する太守になっていた。
尾張、美濃を治めるには人材が要る。
特に美濃は信長にとって新たな領土で、地元の人心を抑えるには正統な土岐の一族の血筋が欲しい。
光秀こそが、もって来いだった。
この話に、光秀は乗った。
戦国時代、「信長は有望株」と光秀には映っていた。
光秀は世間の評判と、なしえた見事な戦略から、信長の天才性を見抜いていたのだ。
視点を変えて物を見る。立場や観点を変えてものを考える。
こうした事がきちんと出来る人間は意外と少ない。
まるで頑なに意固地な事が、「格好が良い」とでも思い込んでいる。
その点信長は、物の本質を自在に吸収して、出した結論に対して頑固だったのであり、世間の中身の無い頑固さとは質が違う。
世間の常識を、そのまま「正しい」と思い込んでいる人間は、楽には生きて行けるが何も成し得るものはない。
より酷いのは、感情的に「私は思った」と主張する事である。
その思った事に対して如何程の考察が伴っているのかが問題である。
一方光秀にすれば、朝倉に居ても累代の家臣が利権がらみの厚い壁を作っている。
家中で一人浮き上がり、微妙な立場だった光秀は願い出て、朝倉家に「暇請い(いとまごい)」を許され、信長の下に向かったのである。
朝倉側でも、諸般の事情で知将「光秀」の存在は手に余っていたのだ。
此処から、「運命の道程が始まった」と言って良い。
信長も、引き抜きとは言え光秀の値踏みは、光秀に会うまではせいぜい五千石も与え、侍大将の端にでも加えれば「破格の扱い」と高を括っていた。
何しろ、戦に破れて流浪の末、朝倉家でくすぶっていた男である。
お濃の口添えもあるから、少し優遇してやれば尾を振る筈だった。
しかし、その胸算用があっけなく変わる。
初めて光秀が目通りした時、信長は何時もの様に「光秀の力量を量ろう」と常人が返答に困る様な意地の悪い質問を試みた。
信長は性格が性格だから、相手を試す質問は押して知るべしである。
信長の質問は鋭く、普通なら言葉に窮する者が多い。
処が返って来る返答が、子飼いの諸将より一枚も二枚も上手だった。
それどころか、信長の真意を見透かしたような返答が返って来る。
「この男尋常にあらず。」
内心そう思ったが、頭(ず)に乗られないように、信長は感動を押し殺して居た。
実は、信長が思い描いていた上洛のビジョンを、光秀は寸分狂う事無く言い当てていた。
この場合の上洛とは、首都を制圧、天下を掌握するする事を意味する。
驚いた事に、細部に渡ると光秀案は信長案を補足してさえいた。
軍略の発想が、信長の気に入るものだったのである。
興奮して、予定を遥かに過ぎるまで光秀と問答を繰り返し、信長はある確信に達していた。
「捜していたのは、こ奴だ。」
決めれば、早いのが信長である。
信長にしてみると、光秀は思いの他の拾い物である。
自分の言う事が、楽に通じるのだ。
「あやつ、予の言う事を即座に飲み込む、思いの他、利口者よ。」
孤独な信長は感動を覚え、嬉しくさえあった。
まず血統が良く、美濃で明智は大いに通用する。
その上、明智光秀の妻は煕子(ひろこ)と言い、美濃国の「妻木(勘解由)範煕(のりひろ)の長女」と言われている。
正確には当時の夫婦は別姓であるから、妻木煕子(つまきひろこ)が正しい名乗りである。
あの有名な細川ガラシャなど、光秀の子は全て煕子(ひろこ)との子である。
彼は「生涯妾を持たなかった」と言われる愛妻家だった。
明智光秀には、妻木(勘解由)煕子(ひろこ)を娶る前にもう一人妻が居たらしいのだが、詳細は判らない。
この物語の第一巻からの読者なら、妻・煕子(ひろこ)の旧姓を聞いてピンと来る筈である。
そう、明智光秀の妻の旧姓名は、妻木(勘解由)煕子(ひろこ)である。
あの勘解由(かでの)党の直流にあたる妻木家だった。
現代の世間では余り気付かれて居ないが、勘解由(かでの)・妻木氏には謎が多い。
妻木氏(勘解由/かでの・妻木氏)は、美濃の国妻木郷に妻木城を構えた郷士武将の家である。
天下の秀才・明智光秀が、所謂(いわゆる)閨閥(けいばつ)造りの相手に選ぶには一見地味過ぎる小郷士の相手に見える。
だが妻木氏(勘解由/かでの・妻木氏)は、その外見からは想像出来ない隠れた力を保持していたのである。
この妻木家、実は源氏土岐氏庶流・明智家の枝とされているが、本姓を名門の勘解由(かでの)と名乗り、朝臣(あそみ)は三河松平家(徳川家)と同じ賀茂朝臣(かもあそみ)である事を見逃している研究者が多い。
すなわち妻木家が土岐氏庶流であれば本姓は源(みなもと)と名乗り、朝臣(あそみ)も源朝臣(みなもとあそみ)の筈であるが、妻木(苗字/名字)勘解由(かでの・氏/ウジ)賀茂朝臣(姓/カバネ)由左右衛門範熙(そうえもんのりひろ・名/名前)が正解で、源姓は名乗っては居ない。
明智光秀の妻・煕子(ひろこ)の実家・妻木氏は、賀茂朝臣(かもあそみ)勘解由(かでの)で、三河松平家とは「同じ賀茂朝臣(かもあそみ)」と言う事になる。
どうやら妻木家が、土岐・明智の強い土地柄に在って血縁も深かった為に「源氏土岐氏庶流・明智家の枝」とされたようである。
ここが肝心のところで、賀茂朝臣(かもあそみ)・勘解由(かでの)を、以前よりまともに理解しているかこの物語を最初から読んでいなければ、江戸期以後の徳川幕府体制の為に創作された文書(もんじょ)に踊らされて、妻木氏出自について大きな間違いを起こす事になる。
明智光秀は、妻・煕子(ひろこ)ともに、勘解由(かでの)・妻木氏の持つ勘解由(かでの)小路党の諜報能力を手に入れたのである。
その妻木家は、明智光秀が南光坊として作戦参加した関が原で東軍(家康方)に属して戦国の世を生き残り、明治維新まで、美濃国・妻木郷七千石の徳川幕府・旗本として、親戚の遠山家(美濃国・明知郷六千五百石余)と共に永らえている。
婚儀がまとまり、光秀が婚礼の打ち合わせで妻木家に挨拶に伺うと、当主の妻木(勘解由)範煕(のりひろ)が、目出度い席に似あわぬ浮かぬ顔で応待した。
明智光秀二十二歳、妻木(勘解由/かでの)熙子は十六歳、時は千五百四十九年(天文十八年)の秋だった。
「いゃ、明智殿には良くお来し頂いた。」
範煕(のりひろ)の挨拶の声も、心なし沈んでいる。
どうした事かと、光秀が問い質した。
「妻木殿、何か当方にご不審の点でもお在りでござるか?」
妻木範煕(のりひろ)は、恐縮して話を切り出した。
「あ、いゃ貴殿方の事ではない。実は・・・明智殿、娘・煕子(ひろこ)との婚儀の儀でござるが、娘・煕子(ひろこ)が病を患い致しましていささか顔が見苦しゅう成り申した。かく成る上は娶られるのは妹の方では如何か?」
「何の妻木殿、男が一旦娶ると決めた娘子なれば娶った後に病を患いしを捨てるも同然、そんな浅き絆では永く添い遂げるは叶わぬが道理、一向に移り気は致して居り申さず。」
「流石に才の誉れ高き明智殿、道理を通されるに拙者感服いたした。良き婿殿に成るは。ワッハハ。」
縁談がまとまった後、煕子(ひろこ)は疱瘡(ほうそう)の病に患り、婚礼前に顔にアバタが出来たのであるが、「それでも光秀は嫁にした」と伝えられている。
当然の事ながら、煕子(ひろこ)の実家・妻木家の婿・光秀への評価は高いものになる。
光秀の男気に惚れて、一族を挙げ光秀を支援しても不思議はない。
事実、明智熙子(ひろこ)の実父・妻木範熈の長子(継子)・妻木範賢、次子・妻木範武、三子・妻木範之などの熙子(ひろこ)の実弟達は一族を率いて義兄・明智光秀に合力、光秀の出世と伴に次第に臣従して光秀の戦略や合戦に参加し役目を果たしている。
表立っての戦闘はそう多くは無いが、妻木家が勘解由(かでの)小路党であれば、得意の諜報工作では大いに力を発揮した筈である。
この物語を第一章からお読みの方には良く判るが、名前の通り妻木家の本姓は「勘解由(かでの)」で、名門・勘解由党の、それもかなり正当な枝である。
言わば草の世界の人脈は計り知れない。
この辺りに、愛妻家・明智光秀の秘密があるのかも知れない。
妻木(勘解由)家の発祥は、岐阜県土岐市妻木町である。
光秀の言わば血縁・地縁の重なる土地柄で、妻木家や遠山家は、明智家や斎藤家とは「閨閥を形成していた」と考えられる。
明治維新まで、美濃妻木七千石の徳川幕府・旗本として、親戚の遠山家(美濃明知六千五百石余)と共に永らえ、維新後も新政府の官僚に納まっている。
この妻木(勘解由)家、実は徳川家の本当の旗本ではない。
名門の外様領主ではあるが所領の禄高が大名(一万石以上)ではない為、親戚の遠山家も同様だが、参勤交代(大名待遇)を課せられた「交代寄合」格として旗本格内に置かれていた。
明智光秀の正妻・明智煕子(ひろこ)の実家・妻木家は、関が原で東軍(家康方)に属して戦国の世を生き残る。
妻木家は、名門の外様領主として所領の禄高が大名(一万石以上)ではない為に、特例の外様旗本の格式家「交代寄合(大名待遇格)・参勤交代を課せられた家」として旗本格内に置かれ、明治維新まで美濃国・妻木郷七千石の徳川幕府・旗本として永らえている。
いずれにしても、信長は上機嫌だった。
「お濃、あ奴思わぬ拾い物じゃ。」
余程気に入ったのか、思わず光秀の顔を思い出す信長から笑みが洩れている。
「光秀をお気に召しましたか。よろしゅうございました。」
その夜、興奮した信長は濃姫を荒々しく抱いた。
嬉しい事、腹の立つ事があると、信長は濃姫の寝衣を剥ぎ取る。
「濃、予はあ奴を気に入った。」
言いながら、信長は濃姫の寝衣の帯紐を「スルリ」と抜き取っていた。
前が肌蹴て裸身が覗くと、濃姫が息使い荒く絡み付いて来た。
もう、二人の会話は途切れて、激しい息使いだけが寝所に響き渡っていた。
信長の正妻「濃姫」は斉藤道三の娘で、明智氏とは縁戚にもなる。それに、明智光秀の表裏に跨る豊富な人脈は、尋常ではない。
異例な事だが、いきなり美濃の国の安八郡一帯を、所領として与えている。
郷ではない。
与えたのは群で、これは五〜六万石に相当し、いくら信長が美濃・尾張百万石の太守と言へども、二十分の一は破格である。
光秀が、最初に朝倉家に仕官した時のおよそ十倍の条件でそれは古参の家老並みの待遇だった。
留意して欲しいが、戦国大名が武将を召抱えるに行き成り何千・何万石と、とてつもない俸給条件を提示する事があるが現代に比して驚かないで欲しい。
これは一族郎党を一括召抱えるようなもので、現代の個人採用とはその趣(おもむき)がかなり違い、それなりの郎党(兵力)を持って臣下と成り傘下に入るのである。
単身で召抱えられても、然(さし)したる働きが出来ないのが戦国の世だった。
明智光秀は、自分を即座に認めた信長を喜ぶより「恐い」と思った。
朝倉は光秀の人脈の重さに気が付いては居なかったのだ。
光秀には「心して掛からない」と、信長には「全て見通される」様な気がしたのだ。
だが、信長は上機嫌である。
「光秀、光秀」と、何かにつけて声を掛けた。
使える(役に立つ)者に信長は気前が良い、見る目も確かだ。
以後、信長天下取り戦略の重要な場面に光秀は常に傍(かたわら)に居た。
この頃明智光秀は、岐阜城で信長に雑賀孫市と引き合わされて二人が旧知の間柄と信長に知れ、最初からその腹積りだったらしく、「それは、益々好都合じゃ」と、織田家と雑賀の傭兵契約の窓口を任じられる。
光秀が信長に召されて指示を仰いでいる所へ、見覚えがある懐かしい顔の珍客がヒヨッコリ入って来た。
相変わらずの堂々たる態度で、信長相手に臆する所は無い。
「孫市めにござる。お召しにより、参上つかまつり申した。」
ひょいと見上げた目に、光秀の姿が映ってかすかに笑い軽く会釈をした。
光秀の織田家仕官は、情報網を持つ孫市は既に承知していた。
同席する者の顔を見て、孫市には突然信長に呼び出されたのがどうやら「光秀と引き合わせる為」と察しが付いた。
「孫市か、ちょうど良い、今度お濃の伝手(つて)で仕官した明智光秀と申す者じゃ。」
「あっいや、それがし明智殿は既に存知居り申す。」
信長は、意外そうにその孫市の言を聞いた。
そして、益々光秀の顔の広さを知った。
「何、既に存知居(お)りか、それは上々。こ奴、出来るので美濃に一郡与えた。」
「それは賢明なご処置でござる・・・」
孫市は平伏して、信長の意向に賛意を表した。
「処で、のぅ孫市、お主も光秀同様わしの所へ来んか?」
「その儀ならば、ご容赦を賜りたい。拙者、主持ちの堅苦しいのは性に合いませぬ。」
雑賀孫市は生き方も傾(かぶ)いていた。
富を生み出すのが土地で、土地を支配する事が権力だった。
土地の支配が価値観の基本と成っている武士にとって、所領を広げるのは生き甲斐であり、その遥か向こうに望むのは「天下取り」と言うのが、氏族と生まれた武門の本懐だった。
しかし雑賀衆を率いて傭兵軍団を生業とする孫市の雑賀党には、所領を広げる意志は無い。
その代わり、如何なる力にも屈しない自由な生き方を標榜していた。
つまり孫市は、織田信長とはまた違う価値観に生きていて、信長に仕官する気など最初から無かった。
孫市に断られた信長は、有り有りと失望の色を浮かべて「惜しいのぅ、お主なら一国与えても良いに、まったく強情な奴め。」と言った。
「いぇ、信長様、一国与えても惜しくないのはそこな光秀殿でござる。」
孫市が頭を下げたまま応える。
孫市の信念には、巷に氾濫するような野望は無い。
戦はワクワクさせる飯の種であり、一族が自由に生きる事に使命感を持っていて、楽しく暮らせばそれで良い。
「よう言うわ、致し方無し、光秀、孫市とのつなぎ、以後そちが致せ。」
一瞬の内に、信長は決断していた。
「御意。」
光秀に、逆らう理由は無い。
直(ただ)ちに、信長の命に応じている。
人間誰しも「他人が同じ考えを持つ」などとは思わない方が良い。
価値観は皆それぞれで、他人に押し付けられるものではない。
孫市にしてみたら、孤独な権力者の立場など真っ平だった。
欲をかけば、「底知れない孤独」と引き換えになる。
権力者同士の友情など諸刃の剣で、絶えず天秤棒の先で損得を計っている。
いくら出世しても、そんな詰まらない人生は御免だ。
だから孫市には、たとえ能力があっても元々天下取りなどに興味がない。
実は、明智光秀と雑賀孫市は織田信長に介されるまでもなくこの時既に親友だった。
付き合う相手に自らの才能とは別の光る物を見出して、「この男の力になってやろう」と思う相手に恵まれる人生は、愉快で幸せな事である。
若かりし光秀が、浪々の「諸国見聞旅のみぎり」に、鉄砲を見に堺へ立ち寄って、ヒョンな事から孫市と面識が出来た。
それが、光秀の素性が、「明智(源)」と知ると、孫市はその偶然を大いに喜んだ。
孫市から強引に河内国・雑賀郷に招かれて、光秀は半年ほどの長逗留をしている。
特に、光秀の妻が、「妻木(勘解由)範煕(のりひろ)の長女」と知ると、雑賀孫市の態度はまたも一変した。
半島全域が、修験霊場とも言える紀伊半島の郷里、雑賀、伊賀、根来、柳生、そして甲賀に在って、子々孫々受け継いだ影人の心得は、孫市達の世代でも生きていた。
光秀は、幾重にも影人の棟梁の血筋を保持していたのである。
これは神の導きである。
たまたま堺の町で道に迷った光秀が、「道を尋ねた相手が孫市」と言う真にヒョンな切欠だったが、とても偶然とは思えない。
孫市は砲術のあらましと射撃術を、「まるで何かの義務感に駆り立てられているのか」と思うほど、熱心に教えている。
人間同士の付き合いなんて、どこでどう始まるかは誰にも判らない。
「喜び」や「楽しさ」、そして「哀しみ」でさえ、うまく噛み合ない所に本当の気を赦した付き合いは発生するのだ。
それは、直感的なもので、「馬が合う」と言う奴だった。
しかしこの「馬が合う」は、並みのものではなかった。
正しく天下を左右する組み合わせだったのである。
この時、光秀の雑賀郷逗留の世話をした娘が、阿国と言う十二、三歳の歌と踊りを修行中の娘だった。
まだあどけなかったが性技も修行中とかで、持て成しの積りか孫市の指図で光秀の寝屋にも通って来た。
それが余程仕込まれたのか、十二、三歳とは思えない男の喜ばせ方を心得ている。
もっとも、当時のこの年齢は嫁に行く年では在った。
様子から孫市の女らしかったが、阿国は光秀と寝る事を気にする様子も無い。
その阿国が、後に阿国歌舞伎で一世を風靡した当時の女性大スター・出雲阿国(いずものおくに)だった。
孫市の本拠地・雑賀の里に、光秀が案内された夜の事である。
孫市といささか酒を過ごし、談笑に疲れた光秀を見て孫市が「長旅じゃった故、そろそろ休まれぃ。」と声をかけた。
言われて見れば、確かに夜もふけている。
雑賀の若い郎党の一人が、孫市に申し付かって屋敷の離れまで案内する。
光秀が離れに案内されて横たわると、直ぐに、「スーッ」と襖(ふすま)が滑って女姓(にょしょう)が寝床の中に潜り込んで来た。
手を伸ばすと、女姓(にょしょう)は既に裸身で、「クニャリ」と、柔らかい肌触りが、光秀の指先に伝わった。
「孫市め、・・・気を利かせた積りか?」と、光秀から苦笑いがこぼれていた。
「誰か?」
「光秀様、先程の阿国でございます。」
「阿国か、孫市から申し付かったか?」
「はぃ、お慰めせよと申し付かって来ました。お情けを頂かねば叱られます。」
暗闇で面(おもて)は定かに確かめられないが、先程、酒や肴の世話を甲斐甲斐しくしていた阿国なら、まだ十ニ〜三の少女の筈だ。
所が、光秀が阿国の顔を思い出した頃には、光秀の夜着の帯紐は阿国に「スルリ」と抜き取られ、下腹部にある印は阿国の手に握られてしごかれていた。
光秀の下腹部が反応すると、「スルリ」とそれを受け入れ、阿国は覆い被さってふくよかな胸の膨らみを光秀に押し付けてきた。
「あぁ、光秀様・・・」
耳元で、阿国の荒い息使いがしている。
雑賀の里の娘の場合は、初潮或いは数え年の十三歳を節目として成人と見做され、おはぐろ祝い、またはコシマキ祝いが開かれ、暫くして日を選んでと「水揚げ」となる。
この「水揚げ」、親が雑賀の棟梁に依頼する事が多かった。
「水揚げ」後も娘の相談相手になれる後見人として、雑賀の棟梁なら申し分が無い。
そうした「水揚げ」の儀式を通して里娘の適正を見るのも、雑賀の棟梁の重要な役目だった。
阿国は、雑賀孫市のめがねに適って、傍に留め置かれていた。
その水揚げを経る事によって、その娘に対する里の者の「夜這い」が解禁となる。
その里娘に、閨房術(けいぼうじゅつ・床技・とこわざ)の修行をさせる事を目的としているから、「夜這い」は相手構わずで拒めない。
その内に女雑賀者として、必要があれば誰の相手でも一向に気に成らない働きをするようになる。
つまり、雑賀の里娘であれば勿論の事、殿方を喜ばせる目的での女の閨房術(けいぼうじゅつ・床技・とこわざ)は、永く大事な生きる為の武器(能力)だった。
光秀はこの阿国とも、以後長い付き合いになるのである。
人と人の出会いは、ある種奇蹟に近い。
孫市が光秀に会った時、実は孫市は、内心「上手くない」と思った。
何故か、余計な世話を焼きたくなる奇妙な感情に駆られたからで有る。
それに抗し切れず、雑賀郷に誘い、何時の間にか最愛の阿国まで自然に宛がっていた。
もっとも、愛情と独占欲には微妙な違いがある。
孫市は愛情と独占欲を分けて考える人種だった。
雑賀孫市は、信長から雑賀党丸ごとの仕官を再三求められていたが、孫市が自主独立を貫いていた為、信長が、せめて親近感がある知人の光秀を窓口に選任した様である。
信長としても孫市は手放せない。
ならば、意志疎通が容易な人物を選任するのが得策で、この事が後の光秀には大きな財産となった。
戦(いくさ)となれば命を投げ出す武士・武将の強固な主従関係心理は、何故成立するのだろうか?
武士・武将の主従関係は、一種の相互ロックイン効果(惚(ほ)れる。気に入る。)である。
互いの「使い易さや任せて安心の信頼度」と「精勤に対するリターン」が合致すれば、主従の関係に相互ロックイン効果が成立する。
但し損得の関係には例外も在って、「男心が男に惚(ほ)れる」もこのロックイン効果で、雑賀孫市は明智光秀の知的な人柄と才能に惚れていた。
広義のロックイン効果は、フアン心理に象徴されている。
つまり、広義の意味で「惚(ほ)れる。気に入る。」がロックインで、芸能スターやスポーツ選手へのフアン心理から特定メーカー(ブランド)への支持心理、特定のお気に入り店舗(スーパー)などがロックイン効果である。
つまり夢中になるフアン心理の根源がロックイン効果であるが、これにアンカリング効果と一貫性行動理論が結び付くとそれは他の者が理解出来ないほどの最強のフアン心理となる。
言わば「人気」と言う事だが、これは政治や宗教などあらゆる分野の指導者にも求められる事であり、天下を取った徳川家康などロックイン効果を操る天才だったのかも知れない。
元々の「ロックイン効果」と言う考え方の始まりは、顧客(ユーザ)がある商品を購入すると、その商品から他社の製品への乗り換えが困難となり顧客との継続的関係が維持され易くなる効果である。
ソフトウェアなどがその典型で顧客は一度あるソフトウェアを利用してしまうと、他のソフトウェアに乗り換えるにあたって「使い方を再度学習しなければならない」と言うスイッチングコスト(乗り換えコスト)を払わなければならない為、最初に利用したソフトウェア及びそのバージョンアップ版を使い易くなる。
これを芸能スターやスポーツ選手へのフアン心理に置き換えると、フアン故にその芸能スターやスポーツ選手を「良く知っている」と言う安心感がいっそうのロックイン効果を高め、また特定のお気に入り店舗(スーパー)は商品配置などを熟知している為に他店より買い易い感が働いていっそうのロックイン効果を高めて行くのである。
企業間取引でも「ベンダ・ロックイン」と言う現象が発生する。
ベンダ・ロックインとは、特定メーカー(ベンダー)の独自技術に大きく依存した製品やサービスシステム等を採用した際に、他ベンダーの提供する同種の製品、サービス・システム等への乗り換えが困難になる為、俗に「気心が知れた」と表現する取引関係にロックイン効果が成立するのである。
戦国武将の主従関係に限らず、現代の上司と部下の関係でも「使い易さや任せて安心の信頼度」と「精勤に対するリターン」が合致すれば、それは一種の相互ロックイン効果「惚(ほ)れる。気に入る。」の成立である。
勿論そうした関係を解消するにはスイッチングコスト(乗り換えコスト)を払うリスクも生じる為、一度ロックインしてしまうと中々離反の決断は着け難い。
戦国期などの同盟関係もその根底に在るのがベンダ・ロックインではないだろうか?
明智光秀が織田信長に召抱えられた頃、信長の小者(使い走り)の中に妙に調子の良い木下と言う男が居た。
三十三歳に成っていた明智光秀が後に生涯のライバルとなる木下藤吉郎に最初に会ったのは仕官間もないこの頃で、木下藤吉郎(秀吉)は若干二十四歳のまだ士分と言えるかどうかの信長付きの小者に過ぎなかった。
光秀よりは凡(おおよ)そ十歳ほど若く、小姓上がりでは無い所を見ると元々は士分の者では無いらしい。
周囲の者にそれとなく聞くと、尾張中村の産で「おね(ねね)」と言う木下家の娘を嫁に貰って「その姓を名乗っている」と言う。
この実際には九才年下の木下藤吉郎(秀吉)の存在は、光秀には「奇妙な若者」と映ったが、当時二十七歳だった信長は手元に置き、光秀にも「あ奴は気が利くで外向けの用事を申し付けて重宝している」と紹介している。
只、信長には「藤吉郎、藤吉郎。」と何かにつけて用を言い付かって、可愛がられていた。
木下藤吉郎(秀吉)の才は、戦国に在っても勇猛な武人の才ではない。
その藤吉郎は小才が利く事から、やがて勘定方の士分に取り立てられて今で言う総務・庶務・会計係のような雑事を岐阜城で一手に引き受けて、士分に有り勝ちな気取りも無い「如才ない仕事」をして織田家中で少しづつ頭角を現している。
つまり彼が秀でていたのは「人と金の使い方」・・・マネージメントであり、その才覚をもって築城術、土木工事術、また輸送能力に優れ、現場での作業人員確保に優れて、水攻めなど彼独特の戦のやり方で信長の負託に応えていた。
また、何故か藤吉郎(秀吉)には妙な人足の動員力が在り、人足仕事を任せると無類の能力を発揮した為、何時の間にか作事奉行の任にあり付いて幹部に名を連ねている。
奇妙な事に、その木下藤吉郎と名乗る若い男は、小者(使い走り)には凡そ似合わない自前の武士団を配下に従えている。
その木下藤吉郎が、年々取り立てられ何時の間にか信長子飼いの武将の中でも頭角を現していた。
明らかに他の武士には無いタイプだが、確かに木下藤吉郎は実行力に優れ、配下の武士団を操って信長好みの奇想天外な手法で築城やら戦をして成果を挙げて、やがて羽柴秀吉を名乗る武将として光秀のライバルに成長して行く。
血筋を重んじる時代に、出自不詳の男が天下を取ったのだから大衆受するのは当り前で、勿論秀吉は超級の才能の持ち主だった。
しかし彼の場合天才信長の指示があり、それを実行する事に拠って学習し、習得したものだったと考えられる。
また、秀吉(藤吉郎)が信長に見出され、重用された事には、「秀吉には元々力があった」と言う隠された出自(血筋の裏付け)に関する立派な理由がある。
しかし、その話はひとまず置いて、後に解明する事にしよう。
いずれにしても信長家臣団の重臣達はひとかどの武将では在ったが、発想に於いて信長には遠く及ばなかった。
思うに、信長の家臣団は、柴田勝家を始め、丹羽(にわ)長秀、木下藤吉郎(秀吉)など明智光秀を除く大半の武将は、お館様(信長)に育てられ鍛えられて、芽を伸ばしたのではないだろうか。
誰かが「誰かに付いて行く」と言う事は、その人物に惚れる事である。
「誰かに付いて行く」と言うその背景の「夢の中身」は色々でも、付いて行けば夢の達成への可能性が見込めるからで、何も無いのに「付いて行こう」と言う事は世間では在り得ない。
織田家の家臣団も、大なり小なりそれぞれの夢の為に信長に付いていた。
そして織田信長自身にも、未だ口には出せない大きな夢があった。
この頃突然、信長は清盛平家の末裔を自称している。
そして、傅役(お守り役)の平手政秀の自刃が、起こった時期でもある。
平氏は、桓武天皇(第五十代)の第五親王・ 葛原親王(かずらわらしんのう) が賜名「平」を 賜り、桓武平氏・平高望へ続いたのだが、何しろ桓武天皇は、歴代天皇の中でも有数なリーダーシップを有した強烈な性格の天皇だった。
桓武平氏流・平将門、平清盛、北条政子などの末孫が、武力的に度々最高権力者に上り詰めるにおいては、 葛原親王(かずらわらしんのう) が桓武天皇の強烈な性格を、一番強く継いで居たのかも知れない。
あえて「その血筋を名乗ろう」と言う信長に、如何なる野望が潜んで居たのだろうか?
織田信長ら戦国武将が生まれた頃、帝のお膝元である京の都や畿内周辺部は戦乱に明け暮れていた。
細川晴元は応仁の乱(おうにんのらん)終息後の下克上(げこくじょう)時代、室町幕府末期の管領職に在った人物である。
応仁の乱(おうにんのらん)の一方の旗頭・細川氏は、室町時代の守護大名、室町幕府の管領、三管領のひとつである足利氏族・細川家嫡流・京兆家の当主の家系だった。
細川氏は元は三河国・額田郡細川郷発祥の清和源氏足利氏流であり、足利将軍家の枝に当たる名門で、一族を挙げて足利尊氏に従い室町幕府の成立に貢献、歴代足利将軍家の中枢を担って管領職、右京大夫の官位を踏襲していた。
細川氏が任じていた「管領(かんれい)」職とは、室町幕府の最高の職で将軍を補佐して幕政を統轄した役職で斯波氏・畠山氏・細川氏の三家が任じて居た官職である。
侍所頭人の山名氏が勤めていた「侍所頭人(さむらいどころとうにん)」は軍事指揮と京都市中の警察・徴税等を司る侍所の長官で、四職(ししき/ししょく)と呼ばれ、守護大名の赤松氏、一色氏、京極氏、山名氏の四家、イレギラーで美濃守護の土岐氏も任じていた。
この室町幕府(むろまちばくふ)の有力守護大名の斯波氏・畠山氏・細川氏の管領職三家と、侍所頭人に任じられた四家(赤松氏・一色氏・京極氏・山名氏)は、合わせて「三管四職」と呼ばれ、各家が嫁のやり取り養子の出し入れで縁戚となり幕府内で勢力争いをして応仁の乱を引き起こしていた。
その応仁の乱が収まると、今度は細川家で跡目争いの内紛が勃発する。
細川家嫡流・京兆家は、細川政元が妻を持たず子がなかった為に、澄之・澄元・高国と三人の養子を迎えたのだが、この三人がそれぞれに足利将軍やその候補を立て味方になったり敵に廻ったりの争いを続けた。
その応仁の乱のメリハリの無い終息と細川家の内紛で混沌とした時代の千五百十四年(永正十一年)に、細川晴元は細川澄元の子として生まれる。
六年後、父・澄元が阿波で死去し、細川晴元は僅か七歳で細川家嫡流・京兆家の家督を継承した。
晴元十三歳の時、配下の三好元長(源・小笠原氏流れ)らと共に挙兵して父・澄元の義兄弟にあたる細川高国を攻め、千五百二十七年(大永七年)に細川高国が第十二代将軍・足利義晴らとともに近江へ落ち延びると、晴元は足利義維(あしかがよしつな)と共に和泉国堺を本拠とし足利義維(あしかがよしつな)を将軍(堺公方)と成した。
しかしこの将軍擁立の大仕事、いくら細川氏の若棟梁とは言え僅か十三歳の細川晴元には荷が重い為、推測するにこの頃から実質的に力を擁して大仕事を主導したのは三好元長と見て間違いは無い筈である。
三好氏は信濃守護である小笠原氏の流れを汲む一族で、三好之長の時代に管領・細川勝元、細川政元に仕えて勢力を拡大したのが、三好氏畿内進出の契機となる。
そして、三好元長の代に細川晴元に仕えて細川高国を討つという武功を挙げ、三好氏は細川氏を実質的に補佐する重臣にまで成長する。
千五百三十一年(享禄四年)、十七歳になっていた晴元は三好元長に命じて世に「大物崩れ」と呼ばれる事を起こし、高国を摂津の広徳寺で自害させた。
その翌年の天文元年、晴元は三好一族の三好政長の讒言を信じて三好元長と対立をはじめ、本願寺証如や木沢長政らと手を結び、一向一揆を扇動して元長を堺で殺害する。
主君・細川晴元(ほそかわはるもと)に堺で殺害された三好元長には、当時十歳の嫡男・三好長慶(みよしながよし/ちょうけい)が居たのだが、晴元はこの長慶(ながよし/ちょうけい)に三好氏の継承を許し引き続き家臣として手元に置いている。
その後細川晴元は、堺に擁立した将軍・足利義維(あしかがよしつな・堺公方)とも不和となって将軍職を追放し、細川高国らと落ち延びていた十二代将軍・足利義晴と和睦し、この頃から実質幕政を支配する管領職の第一人者として本格的に細川政権を軌道に乗せた。
しかし内乱状態は収まらず、晴元はまるでもぐら叩きの様に「味方に付けては勢力が伸びて来ると潰す」と言う手法で勢力バランスを取りながら権力を維持する芸当を見せる。
そしてこの頃に、美濃国で明智光秀(千五百二十八年)、尾張国で織田信長(千五百三十四年)と豊臣秀吉(千五百三十七年)、三河国で徳川家康(千五百四十三年)など戦国期の主役達が続々と誕生していた。
細川晴元に将軍(堺公方)職を追放された足利義維(あしかがよしつな)は一向宗と対立した状態が続き、一向宗は堺公方を襲撃するなどした。
だが、一向一揆が大和国に侵入するに及んでも対立宗派の法華宗と協力して法華一揆を誘発させ、領内で一向宗の活動に苦慮していた近江の六角氏とも協力して山科本願寺門跡八世の顕如(れんにょ)を攻め、一向宗の本拠地山科本願寺を焼き討ちにした。
すると今度は法華衆が京都で勢力を伸ばした為に、晴元は千五百三十六年(天文五年)「天文法華の乱」と呼ぶ軍事行動を比叡山延暦寺(天台宗)僧兵や佐々木氏(近江源氏)嫡流の近江国守護職・六角氏と連合して法華衆勢力を壊滅させる。
その後も細川晴元は管領職として七年ほど勢力を振るったが、千五百四十三年(天文十二年)になると、細川高国の養子・細川氏綱が晴元打倒を掲げて挙兵し、その氏綱に畠山政国や遊佐長教が呼応、三年後には前将軍・足利義晴が実子・義輝に将軍職を譲った期を持って細川氏綱を支持し、細川晴元と敵対を始める。
この頃、あの三好長慶(みよしながよし/ちょうけい)は長じて智勇兼備の武将に成長し、細川氏の家臣として木沢長政討伐をはじめ、細川氏綱や遊佐長教らとの戦いで多くの武功を発揮し、河内など畿内十七ヶ所の代官職を与えられた晴元配下の最有力重臣にまで成長していた。
細川晴元は、敵対する前将軍・足利義晴らを近江国坂本へ追放し細川氏綱らと戦い続けるのだが、臣従していた最有力重臣の三好元長の長男・三好長慶(みよしながよし/ちょうけい)が一族の内紛で三好政長の討伐を要請して晴元に断られたので、長慶(ながよし/ちょうけい)が遊佐長教と和睦してその娘を正室に迎え、氏綱側に寝返ってしまう。
千五百四十九年(天文十八年)、細川晴元は寝返った三好長慶(みよしながよし/ちょうけい)らと摂津国江口で交戦するも敗北を喫し、三好政長・高畠甚九郎ら多くの配下を失った。
その為晴元は、将軍・義輝や義晴と共に近江へ逃れ、将軍・足利義輝を擁し、香西元成や三好政勝などの晴元党の残党や六角義賢や畠山高政など畿内の反三好勢力の支持を受け三好長慶と争うが敗北し続け、将軍も管領も政権の体を為さない時代が続く。
細川晴元は、千五百六十一年(永禄四年)に六角義賢の仲介を受けて長慶と和睦、剃髪し摂津富田の普門寺に隠棲するも二年後に死去している。
ここに細川政元以来の管領職・細川政権は崩壊し、実質三好長慶(みよしながよし/ちょうけい)に拠る将軍不在・畿内周辺だけの三好政権が成立したのである。
そして四十歳の三好長慶(みよしながよし/ちょうけい)が畿内周辺に君臨する頃には、既に十二歳年下の織田信長の勢力が着々と京に迫っていたのである。
室町幕府の将軍・義輝公が三好義継の謀反に合い、殺されて空位になる中、弟義昭公に声をかけられ助力を頼られた時、使者に「平清盛の庶流二七代目」を名乗っている。
是は、もっぱら「捏造説」が有力である。
しばらく前まで藤原(源)姓を名乗っていたのだから・・・。
信長が系図まで作って、「平家の末裔になりたかった」のは何を意味するのか、賢明な読者は「既にお判り」だとは思うが、追々明らかにしたい。
織田、斉藤、明智にまつわる女性達の血脈を介した繋がりを紹介する。
それが、信長と光秀の人生を決定付けた事であったからだ。
織田信長の妻は「濃姫」と呼ばれているが、これは美濃の国から嫁いで来たからで、本当の名前は「帰蝶(きちょう)」と言う。
一般的には「濃姫」の方が通りが良いので、「濃姫」で通す。
濃姫(帰蝶・きちょう)が、美濃の国主斉藤道三の娘で有り、信長の妻として輿入れしたのは、大方の日本人で有れば先刻承知の事である。
この縁組の事を、「政略結婚」と言われているが、果たしてそうだろうか?確かに美濃と尾張は国境をはさんで紛争が絶えなかった。
元の国主美濃守護職土岐頼芸が道三に追われ、信長の父信秀に援助を要請した経緯などが在る事は在る。
しかし信長の織田家は、格から言えば守護代家の家老相当格で、まだ弱小領主だから、娘を嫁がせてまでの政略結婚の理由としては説得力に欠ける。
何故なら、斉藤道三は凄まじい下克上を経て、美濃一国を手に入れた男で有る。
信長に、斉藤道三が「何か」を見たからこその、縁談ではなかったのか?
それで無ければ、息子を差し置いて信長の手元に、道三からの美濃一国の「譲り渡し状」など残る訳が無い。
信長はこの道三の「譲り渡し状」を根拠に、美濃の豪族へ「味方に寝返るよう」書状を送り、実父・道三を討ち、美濃の国主に納まった斉藤義龍と対峙、度々美濃に攻め込む。
木下藤吉郎(秀吉)の「黒俣一夜城」は、この時のエピソードである。
長良川西岸、犀川が合流する所に墨俣(すのまた)と呼ばれる土地が在る。
言わずと知れた、「豊臣秀吉の出世城が在った」とされる所である。
内陸に在った美濃国にとって、水運の要衝・墨俣(すのまた)に砦を築かれる事は、戦略上、交通上重要な拠点ではあった。
秀吉の墨俣(すのまた)一夜城の舞台であるが、実はこの話は江戸中期になって捏造(ねつぞう)されたものである。
墨俣(すのまた)城に関しては中世からその存在の痕跡があり、築城主は不明とされていて「木下藤吉郎(秀吉)の手による築城」と言うよりも、山窩(サンカ・サンガ)系独立集団の土豪・蜂須賀小六率いる「川並衆」の勢力下に在ったものを、藤吉郎(秀吉)への忠誠の証として形式上「信長に献上した」と言う可能性が高い。
千五百六十一年(永禄四年)織田信長が美濃侵攻を画したのは梅雨時期だった。
木下藤吉郎(豊臣秀吉)は長良川の東岸の日置から、墨俣(すのまた)の砦を眺めていた。
優しい雨が降っていた。それでも長良川は濁りを増し、これから半刻もすると濁流に変わる恐れが在った。
長良川は大河で在るが、冬の渇水期なら対岸に渡る浅瀬もある。
しかし、生憎今は長良川が穏やかとは言い難い梅雨の季節だった。
お館様・織田信長が本格的に美濃国攻略を決意した時、織田勢としては足掛かりになる砦が美濃に欲しかった。
軍儀で「何か策は無いか?」と問われて、藤吉郎は「恐れながら」と末席から名乗り出た。
藤吉郎は、独立集団・蜂須賀小六が率いる「川並衆千五百」とその本拠地・墨俣(すのまた)砦を「傘下に引き入れて見せる」と言上し、信長から「成功したらそのまま守将に任じさせる」と約を取り付けていた。
砦の主は藤吉郎に旧知の蜂須賀小六正勝で、話を着ける自信は充分にある。
藤吉郎(秀吉)は長良川の水嵩(みずかさ)が増す前に浅瀬を見つけ、河を渡って墨俣(すのまた)の砦に辿り着いた。
そして藤吉郎がどんな手を使ったのかは定かでないが、蜂須賀小六以下蜂須賀党をことごとく口説(くど)き落として傘下に入れている。
木下藤吉郎(豊臣秀吉)は蜂須賀小六を口説(くど)き落として傘下に入れると、墨俣(すのまた)砦を突貫工事で整備して城の体裁を整えている。
この墨俣の織田方小城の存在が美濃・斉藤勢に取っては厄介この上ないもので、美濃・斉藤家臣団に大きな動揺を与えたのは事実である。
それにしても蜂須賀小六正勝は、何故か当時まだ「織田家家臣の末席に在った」と思われる木下藤吉郎の口説(くど)きに易々と乗り、まるで以前からそうであったがごとく臣従しているのは謎であるが、その話は後ほど解き明かす事にする。
父である美濃国々主・斉藤道三を追い出し、その後討ち取って国主の座を手に入れた斉藤義龍は、追い出された道三からの美濃一国の「譲り渡し状」を受け取っていた織田信長と対立し、両者は再三小競り合いを繰り返している。
その後斉藤義龍は病死、息子龍興が十四歳で家督を継ぐが、若輩の当主の為に斉藤家は求心力を失い、道三の「譲り渡し状」が勿怪(もっけ)の理由と、家臣の寝返りが激しくなって、美濃は信長の手に落ちたので有る。
明智光秀の父は明智光綱と言い、その妹が織田信長の妻「濃姫」の母「小見の方」である。
つまり、「濃姫」は光秀の従妹にあたる。
この「小見の方」は、美濃の国領主となった斉藤道三の妻とも妾とも言われているが、この「小見の方」は美濃国の旧領主・土岐頼芸から「お下げ渡しで拝領した」と伝えられている。
そうした経緯から、異説では「小見の方」が道三の下に来た時、既に妊娠していて、その子が「道三を討った長男の斉藤義龍だ」とする説もある。
つまり、斉藤義龍の実の父は土岐頼芸で、「義龍は親の仇を討った」と言う説である。
道三は、下克上で国主になる以前に、仕えていた主君土岐頼芸の側室「小見の方」を弓試合いの掛けで拝領したのだ。
斉藤道三(長井左近大夫規秀)の祖父は松波基宗と言う御所の警護をする「北面の武士」の家柄に生まれ、若い頃の名を松波峯丸と言ったのだが、戦国期に入り朝廷も幕府も権威が落ち、御所の警備どころか日々の生活にも事欠く様になり松波家は没落して農業に帰農した。
そこで、祖父・松波基宗は息子・新左衛門尉を京都妙覚寺に預ける。
新左衛門尉は日蓮宗妙覚寺で「法蓮坊」を名乗り学問を積んで頭角を現すが、やがて法蓮坊は還俗する。
ちなみに「北面の武士」とは、白河上皇の院中に創設された上皇の親衛隊で京都の御所域に設けた北部の地域、一条地区の裏を北面と言い、そこに居住していた御所の警衛の為の朝廷直属の武士団で、西面の武士も存在する。
還俗した法蓮坊は「山崎屋庄五郎」と名乗り、京都周辺で油屋を営み油の専売権で財を成す。
その財を生かして、当時美濃の国を支配していた美濃国守護職の土岐家の重臣長井家・長井弥二郎に、妙覚寺時代の弟子・南陽坊を介して目通りを得て仕える様になる。
山崎屋庄五郎(松波新左衛門尉)はこれを足掛かりに、長井家の推挙で美濃国守護大名「土岐政房」の弟・土岐頼芸に仕官する。
その後、松波新左衛門尉こと松波(山崎屋)庄五郎は長井家の重臣・西村家の家督を継ぎ西村新左衛門尉を名乗る。
長井家と西村新左衛門尉は主君・土岐頼芸を擁して主家の守護職・土岐盛頼を攻め、主君・土岐頼芸に守護職を奪い取らせ、その功に拠り新左衛門尉は美濃国・本巣郡を与えられて領有する。
この政変で恩人・長井利安は守護代に出世したのだが、西村新左衛門尉は長井利安と対立、西村新左衛門尉は長井家当主・利安と妻を殺害、家系を横領して美濃守護代・長井新九朗利政を名乗る。
一言断って置くが、現代風の解釈で商人(油屋)の山崎屋庄五郎(斎藤道三の父・新左衛門尉)が「武士に成り上がった」と言う解釈は安易である。
何度も記述しているが、元の法蓮坊時代を含め、神官・僧籍も商人も農工業・海運業も徳川幕府成立期までは氏族(武士)の兼業、または業種選択の範囲であり、国主級の大名以外は大概別の生業(なりわい・多くは農業)をしていたのが事実である。
この頃、長井左近大夫規秀(道三)は主君土岐頼芸の側室、美濃一番の美女と謳われた「小見の方」を弓の手慰めの賭けで勝、お下げ渡しの拝領をする。
この経緯だが、実は斉藤規秀(道三)が密かに「小見の方」に懸想(けそう・惚れる)し、それを察した主君・土岐頼芸が面白がって、競い弓矢の勝負に拠る賭けを仕掛けた事に始まる。
当初は主君の戯れに、「それがしには恐れ多い事でござれば・・・」とその賭けを辞退した規秀(道三)だったが、返って頼芸がむきに成り「規秀は小見では不足か」と言い出した。
規秀(道三)が言葉に窮していると、「小見の方」を呼び寄せ、「余の者は下がれ。」と人払いをして、「小見、規秀(道三)にそなたの品定めをさせる。衣を除いて身体を残らず見せい。」と肌を晒す事を命じた。
戦国の世の習いで、「お下げ渡し」は珍しくない。
「かしこまりました。」と、小見の方は、逆らうでもなく「殿のおおせのごとく。」と立ち上がり、スルスルと帯を解き始めた。
見る見る肌が露になり、仕舞いには目を瞑って腰の物も落として顔を両手で覆い、「勘九朗様特とごらんなさりませ。」と、庭先の縁で裸を規秀(道三)に見せ付けた。
たおやかな両の乳房が露わになり、下半身に茂る若草が風になびいて、規秀(道三)はその美しき裸身に息を呑んだ。
戦国の世、封建時代である。
「小見の方」にすれば、命じられた通りにしなければ出身の明智家にまで咎めが及ぶ。頼芸は面白がって「どうじゃ、規秀(道三)よう見て小見を確かめい。」とたたみ込んだ。
「あぃや、判り申した。けして不足ではござりませぬ。小見様、早く着物をお召しくだされ。」
規秀(道三)は「小見の方」に肌を晒させるのが忍びなく、弓勝負の賭けを受けた。
そこで手加減すれば良かったのだが、規秀(道三)にはそれが出来なかった。
主(あるじ)の機嫌を損ねても勝ちに行った。
「規秀(道三)、小見を持って行け。」
頼芸にすれば、戯言(ざれごと)で家臣をカラカウ事を面白かっただけで、約束した以上いささか惜しい女体(からだ)だったが小見の方を規秀(後の斎藤道三)に下げ渡さざるを得無かったのだ。
こうした無理無体は、領主として服従度を確かめる為にしばしばある事で、けして頼芸が特異な事ではない。
主君・土岐頼芸は、長井規秀(後の斎藤道三)を小見の方「お下げ渡し」で忠誠心を試し、規秀(後の道三)に恩を売ったのである。
この戦国期の氏族(武士)社会には、それなりのいささか残酷で都合の良い男社会の制度が確立していた。
血筋がものを言う氏族(武士)社会では、血筋を残す事が最優先の了解事項だから言い分として妾は正当な存在で、正婦人は言うに及ばず妾に到るまで勢力維持・拡大の具として「閨閥(けいばつ)」の対象に成る。
領主同士の婚姻関係は軍事同盟を意味し、出世を望む家臣(部下)は我娘を領主の妾に送り込み、領主は見込みのある家臣(部下)に妹や娘を下し置いて頼りとする。
氏族(武士)社会の主従関係には特殊な家臣(部下)を試す制度が存在し、家臣(部下)に娘が居るなら「召し上げ」て妾にし、忠誠心を試す。
独身男性の場合は「お下げ渡し」と称してお上(殿)の手の付いたその女性を娶る事を求められ、その家臣(部下)の忠誠心が試される。
家臣(部下)が結婚していて妻がいるなら、「お召し上げ」と称してその妻を差し出させ、暫らく寝屋を伴にしてから「宿下がり」と称して夫に返し、夫が自分のお手付き後でもその女性を大事にするかどうか試される。
敵対危惧関係や敵対関係と目される相手との場合はまた別で、「人質」と言う事になる。
これらは全て古代に在った誓約(うけい)の進化系で、 家臣(部下)の忠誠度や相手との信頼関係を試す手っ取り早く具体的な手段だった。
そして戦乱期、こう言う女性の閨閥(けいばつ)的価値観の扱われ方は、何の疑いもなく信じられた氏族(武士)の女子として家名のお役に立つ為の当然の役目だった。
このチョットした戦国女性の運命、小見の方「お下げ渡し」は、廻り巡ってその後の安土桃山期から江戸期に入るまでの勢力情勢に大きな影響を与える「或る出会い」の演出をする事に成る。
その「小見の方」が濃姫の母であり、明智光秀の叔母にあたるからである。
氏族は、長い事「支配地(所領)の取り合い」と言う現実的な世界で生まれ育って来ていた。
新天地を求めて荒海を越えて来た征服部族である氏族の基本的な感性は、「戦い取る」と言う戦闘的な【左脳域】思考が強いDNAを持ち合わせている。
厄介な事に【左脳域】は、論理・理性の他に原始本能として「闘争本能(戦うか逃げるかの判断)」の部分を受け持っくらいだから、誓約(うけい)の概念も含め婚姻ほ価値観は現在と大きく違った。
氏族の女性にとってもその【左脳域】の価値観は染み渡っていて、婚姻の側面は「女性の戦いの場」だったのだ。
つまり斉藤道三は、「小見の方」を、主君・土岐頼芸から賭けで手に入れた事になる。
小見の方が道三の正妻かどうかは、判らない。
守護職・土岐盛頼を攻め滅ぼして盛頼の弟・土岐頼芸を守護職に押し上げて本巣郡を領有する国人領主と成り、美濃守護代・長井新九朗利政を名乗って土岐頼芸の重臣と成っていた長井新九朗利政(松波新左衛門尉)の継子・長井左近大夫規秀(道三)は、その能力を認められ土岐頼芸に可愛がられた。
いずれにしても土岐頼芸の下で力を着けた長井左近大夫規秀(道三)は、土岐頼芸の家臣として出世の糸口を掴んだのだが、そこからがまた凄い。
その後長井左近大夫規秀(道三)は、もう一つの守護代家・斉藤家の惣領を討ち殺し、斉藤家の諸職を奪い取って名家・斉藤家を長井左近大夫規秀が継ぎ斉藤右京太夫道三を名乗る。
そして斉藤道三は着々と力を着けると、最後には主君土岐頼芸を武力を持って追放し美濃一国を手に入れる。
その、親子二代に渡る激しい下克上に、斉藤道三は「まむしの道三」と恐れられるのであった。
鎌倉期でも記述したが、当時の氏族社会では、「何々氏の娘」と言う氏の家に属する考え方の意識が強い強かった。
昔の氏族社会では源頼朝と北条正子の夫婦のように夫婦別姓で、織田信長の正妻・帰蝶(きちょう/濃姫)の場合も斉藤道三の娘・斉藤帰蝶(さいとうきちょう)が正しい名乗りである。
そう言う価値観だったから、実家にとって「頼もしい人物」が正妻として嫁いだり妾に上がったりする条件だった。
それでも生活を共にして情が通い合えば、充分に愛し合えるの男女の仲である。
この庶民には姓が無い時代の氏族社会の夫婦別姓は、明治維新後の千八百七十二年(明治五年)に編製された壬申戸籍 (じんしんこせき)が発効されるまで続いていた。
つまり今は当然に思える夫婦同姓は、明治維新後の高々百三十年ほどの歴史しかないのである。
存在を「只存在」と記憶する学問には限界が有り、何故それが存在するのか疑問を持たなければ真実は見えて来ない。
夫婦同姓の規定は、千八百七十一年(明治四年発布・翌五年発効)に明治新政府発布の戸籍法・通称「壬申戸籍 (じんしんこせき)」に拠って明治維新政府が国民皆兵政策の一環として言わば総氏族化(総武士道精神化)を図った際の知恵である。
夫婦別姓論に異議を唱え、「普通は夫の姓に改姓するものだ」と主張される方は、二千年の歴史に於いて僅か百三十年程の期間の規定を然したる歴史見識も無く「普通」と主張している事になる。
夫婦別姓論に異議を唱え、「普通は夫の姓に改姓するものだ」と主張される方は、二千年の歴史に於いて僅か百三十年程の期間の規定を然したる歴史見識も無く「普通」と主張している事になる。
濃姫(帰蝶)が信長と婚姻したのは千五百四十九年(天文十八年)二月と言われている。
信長十六歳、濃姫十五歳だった。
当時としては、大名豪族の縁組としてはさほど早くは無い。
御年頃としては似合いの年恰好で有る。
読者の期待に応えて、二人の夫婦生活を想像する。
世間一般の俗説に拠ると、織田信長は「サド的なセックスを好んでいた」と言う。
恐らくは、阿修羅のような信長の、その過激な生き方から想像したものであろうが、否定する材料も無い。
この件では、数名の作家が二人の夫婦生活をかなり大胆に激しいエピソードを描いているが、「さもあろう」と考えられる背景が揃っていて、作家なりの見当が付くのだ。
日本民族には、欧米のキリスト教文化と違い昔から「閨房術(けいぼうじゅつ/性行為の技)」と言う姫方・女房方が積極的に殿方を喜ばせる性技が在った。
殿方を喜ばせる性技「閨房術(けいぼうじゅつ)」は、姫方・女房方にとって大事な積極的に習得すべき心得だったほど、性に対しておおらかで積極的な考え方を日本民族は持っていた。
と言うのも、実は殿方が姫方・女房方の性技に喜ばされて操られる事は珍しくない為、「閨房術(けいぼうじゅつ)」に平和な武器としての価値が認められていた。
当然ながら勢力を競う氏族(貴族や武士)の子女は、誓約(うけい)の概念の元に所謂(いわゆる)「閨閥(けいばつ/婚姻による家同士の連携)」創りの役割を果たす為に世に生まれて来た様なものだった。
その時代を生きるには、その時代なりの気高い女性の生き方が在った事に成る。
日本史に於いては、基本的に婚姻関係が神代から続く「誓約(うけい)の概念」をその基本と為していて、氏族社会(貴族・武家)では正妻・妾妻と言う変形多重婚社会の上、家門を守り隆盛に導く手段として「政略婚」や父親や夫からの「献上婚」などが当たり前であり、おまけに主従関係を明確にする衆道(男色)も普通の習俗だった。
日本古来の「閨房術(けいぼうじゅつ/性行為の技)」の発祥は不明だが、考えられる推測としては他の武術同様にその発祥を諜報活動を担っていた陰陽修験に見られる可能性が強い。
だとするならば、弘法大師・空海や伝教大師・最澄が日本に持ち帰った密教・インド・ヒンドゥー教の神や祭祀に関する経典の、女神・サラスヴァティー(弁財天・観世音菩薩)やシヴァ神(破壊神)、女神・シュリー.ラクシュミー(吉祥天)、ダキニ天(荼枳尼天)などの性愛術を参考にしたのかも知れない。
以後、修験組織が関わって成立した諜報組織「白拍子(しらびょうし)遊技制度」の「床技」などで発展、戦国時代の武家の間で戦略的に子女を持って利用されて「術」として確立された。
この「閨房術(けいぼうじゅつ)」、「術」と言う範疇(はんちゅう)に入るからには、修練を積んでその「術」を自在に操れる様になる事が要求される。
つまり大げさに言えば、「閨房術(けいぼうじゅつ)」と言う性技が、氏族の女性に課せられたひとつの習得すべき積極的な技(わざ)だった。
殿方が武勇を競って領地を広げるなら、女性(にょしよう)の戦場(いくさば)は寝所(寝屋)だった。
寝所(寝屋)での事に、正妻と妾妻の分け隔ては無く「如何に殿方を喜ばせるか」の性技勝負の場に成る。
大胆かつ濃厚な性技で殿方を極楽浄土に導き、子種を授かるのが女性(によしょう)の勤めで「手柄」である。
時代により女性の性に対する価値観も違って当り前で、血統を唯一の特権の証明として受け継いできた氏族の女性にとって、この理屈に疑いなどある訳がない。
まず、当時の社会では性技は花嫁の必須条件で、十五歳と言えば嫁入りの時に性技の心得は充分に教わる。
何人もの妾妻を持つ事が普通の世界だったから、「閨房術(けいぼうじゅつ/性行為の技)」を駆使して殿方を喜ばせ、殿方に気に入られる事から寝所(寝屋)での戦は始まる。
どちらかと言うと正妻は政略結婚で、妾妻は殿方に気に入られての事であるから、実は正妻ほど「閨房術(けいぼうじゅつ/性行為の技)」を駆使して殿方を喜ばせないと、この勝負は気に入られている妾妻に負けてしまうから切実なのである。
そして当時の氏族社会は極端な「血統主義社会」であるから、殿方の種を受け入れ世継ぎを懐妊・出産する事が女性(にょしよう)の勝利だった。
現在の解釈など通用しないのが、歴史である。
氏族の娘にとって「閨房術(けいぼうじゅつ/性行為の技)」は勝つか負けるかの真剣なもので、殿方の武芸武術に相当する手段だった。
恋愛は精神的もので、当時の肉体的接触は、かならずしも恋愛とは一致しない手段である事が常識で、その事を現代の女性に「昔の女性の扱いは悪かった」と同情される謂われも無い。
現代では、女性の肉体を目的達成の手段にするなど、理解され難い事だろう。
しかし親子兄弟でも領主の座を争い、たとえ叔父甥の間柄でも、隙あらば領土拡張の的にする氏族の価値観である。
「殺し合いをしても領土を手に入れる」と言う究極の価値観に生きる者達には、女性の肉体は「領土拡張の道具」と考えられても不思議な事ではない。
つまり、殺し合いも女性の色香も目的達成の手段で、当時は異常な考え方ではなかったのである。
そこの価値観の違いを分けて懸からない事には当時の女性の心情は理解出来ないし、奇妙な現代風の恋愛時代劇が成立してしまう。
しかし良い加減なもので、恋愛時代劇が成立してその物語を楽しみ、女性の敵かのごとくに拘(こだわ)る筈の妾妻と主人公の殿方との恋愛を美しく描いて楽しむ矛盾もロマンチックに受け入れてしまう。
「閨房術(けいぼうじゅつ/性行為の技)」も含めて男女の仲は添ってから育むもので、精神愛まで達した仲が本当のゴールである。
本来一致させるのが難しい精神愛と性愛を、現代女性の願望を満足させる為に金儲けでロマンチックに歴史が歪められるのはいかがなものか?
さて、織田信長と濃姫の「閨房」における夜合戦であるが、当時、殿方の心を繋ぎ止めるのは、「女性の閨房術の腕次第」と言う事になっていたからその心得をもって濃姫は織田家に嫁ぎ来た。
つまり「気が強かった」と言われる濃姫の方は、その為の覚悟を持って嫁いで来ている。
そこに持って来て相手は「天下の虚(うつ)け者(常識の破壊者)」信長である。
何事にも創意工夫実験好きが信長像であるから、その二人の行為が「かなり奇抜であった」と想像に難くないが、いかがか?
血統第一だった当時、血統に弱い者が「能力以上の成果を上げたい」と思えば、「縁」に頼るしかない。
女性(にょしょう)には妻に成るなり妾に上がる成りの誓約(うけい)の「縁」があるが、男性には身内の女性を介しての「間接的な縁」でしかないのでは誓約(うけい)としての「縁」が弱過ぎる。
誓約(うけい)の概念に置いて、絶対服従の具体的な証明は身を任す事である。
そこで室町期から戦国期に掛けて君臣間の誓約(うけい)衆道(同性愛)が盛んになった。
そう言う意味において、「稚児小姓」として権力者の寵愛を受ける事は、むしろ武士として「潔(いさぎよ)い行為」なのかも知れない。
若き織田信長に近習(小姓)として仕え、腹心の一人として出世し、加賀百万石(加賀藩百十九万石)の太守に成った前田利家も、織田信長の男色(衆道)寵愛を受け信長側近から出世した男である。
前田利家は尾張国海東郡荒子村(愛知県名古屋市中川区)の土豪・荒子前田家の当主である前田利昌(利春とも)の四男として生まれ、幼名を犬千代と言った。
千五百五十一年(天文二十年)に十四歳で織田信長に近習(小姓)として仕え、元服して前田又左衞門利家と名乗った。
この二年前に織田信長が十六歳で濃姫(帰蝶)を娶っているから、利家が織田家に出仕した頃の信長は利家より四歳年上の血気盛んな十八歳になる。
この頃前田利家は、信長とは衆道(同性愛)の関係にあり、「武功の宴会で信長自らにその関係を披露された」と加賀藩の資料「亜相公御夜話」に逸話として残されている。
つまり、信長の濃姫(帰蝶)との新婚生活と近習(小姓)・前田利家との衆道(同性愛)関係は同時進行していた事になる。
「傾(かぶ)く」は、言わば現代の若者にも通じる奔放主義の事である。
若き日の主(あるじ)織田信長が「虚(うつ)け者」として傾(かぶ)いて居た頃で、従う近習・前田利家も「相当に傾(かぶ)いて居た」と言われている。
これはあくまでも推測だが、何事にも探究心旺盛な信長の事であれば、濃姫(帰蝶)との新婚生活と前田利家との衆道を合体させた今で言う三P(三人プレィ)何て事を、奔放にしていたともにいなかったとも言い切れない。
何しろ濃姫(帰蝶)と利家の支配者が、何事にも研究熱心な大虚(おおうつ)けの織田信長だったからである。
濃姫(帰蝶)について、余り文献が無い事から「早くに亡くなった」とか、「病死した」とかの説があるがそうは思えない。
濃姫の血縁があっての、この物語の成立と思えるからだ。
元々女性の事は書き残してこなかったのが日本の文献の実態で、資料が少ない事に不思議は無い。
しかしながら、信長の美濃攻略成功後、濃姫が母方従弟の明智光秀の存在を信長に紹介したのが、「二人を引き合わせたきっかけ」とするのが自然で有る。
他に、越前朝倉家に居た明智光秀をわざわざスカウトする「接点は無い」と思われる。
江戸期以前は、戦乱が永く続いた事や男系重視で男性主導の社会環境(女性には奥ゆかしさが求められていた)に置かれていた事もあり、女性を書き残した文献は少なく、名さえ判明しない事も多々あり、誰々の女(娘)、誰々の室(妻・妾)と言った表現が多く、その日常や消息を伺い知る手がかりは少ない。
か、と言って、彼女達が男の只々言う事を聞いていただけの存在ではけしてない。
その時代の生活様式に乗っ取っただけで、男の行動はすべからく女性に影響を受けているからである。
明智光秀は、自分で売り込んだのではなく、信長に書状で召し出されている。
その事から、濃姫は健在で有り「安土殿」と呼ばれた女性が、濃姫の事ではないだろうか?
その「安土殿」は本能寺の変以後も生き延び、千六百十二年(慶長十七年七月の初旬)に七十八歳で逝去、「養華院殿要津妙玄大姉」という法名で大徳寺総見院に埋葬されている。
槍の又左衞門、槍の又左などの異名をもって呼ばれた前田利家は信長近習として萱津の戦いに十五歳で初陣、織田家の権力闘争である稲生の戦いでも功績を上げ、加増を受けて信長・親衛隊「赤母衣衆」となる。
加増により家臣を召抱えるまでに成った前田利家は、二十一歳の時に身近から嫁(正室)を娶る。
前田利家の正室は篠原一計の娘・篠原まつである。
母が利家の母の姉である為、利家とは母方の従兄妹関係にあたり、母が尾張守護斯波氏の家臣高畠直吉と再婚すると、まつは母の縁で利家の父・前田利昌に養育される事になる。
千五百五十八年(永禄元年)、まつは養育先の荒子前田家・利昌の四男・前田利家に数えの十二歳で嫁ぐ。
この二十一歳の頃十二歳のまつを娶った前田利家だったが、その翌年に同朋衆の拾阿弥と争いを起こしてこれを斬殺、罪を問われて出仕停止処分を受け、二十四歳までの二年間浪人暮らしをする。
その間に出任停止されていたにも関わらず「桶狭間の戦い(永禄三年)」で信長に断りもなく合戦に勝手に参戦して功績を上げたが、信長は帰参を許さず、更に一年浪人をさせ「利家の忠誠心を試した」と言われている。
衆道(男色)関係は戦国期の忠実な主従関係の信頼性を担保する誓約(うけい)の習俗で、支配・被支配の思慕感情を育成する事から、若い頃の前田利家(まえだとしいえ)が罪に信長に問われ、城を追われ二年間浪人暮らしをしても、主(あるじ)・信長への思慕交じりの忠誠心は揺らがなかった。
漸く帰参を許された前田利家は、永禄十二年(千五百六十九年)に信長の命により前田氏・長男である兄・利久が継いでいた家督を継ぐ事になる。
前田利家は織田信長の「天下布武」に従い、姉川の戦い、長島一向一揆、長篠の戦いなどに母呂衆や馬廻り役の本陣親衛隊として参戦しているが、攻めての役ではなく大きな武功も立てる機会が無かった。
前田利家の正室まつは、羽柴秀吉(豊臣秀吉)の正室おね(ねね/北政所/高台院)とは懇意の間柄であった事は有名である。
利家の方が秀吉より二歳ほど年下だったが、元々前田家の本拠地・尾張国荒子と秀吉の生家・尾張国中村は近接地で地縁者も多く、互いに出世した安土城々下に住んでいた頃は、屋敷の塀を隔てた隣同士に秀吉・おね(「ねね」とも言われる)夫妻が住んでおり、秀吉婦人・おねと利家婦人・まつは毎日のように「どちらかの屋敷で話し込んでいた」と言う間柄だった。
当然亭主同士も懇意になり、この事が後の賤ヶ岳の戦いで兵五千を布陣していた前田利家の突然撤退、羽柴軍勝利を決定づける下地になっていた。
本能寺の変で信長が家臣の明智光秀により討たれ、清洲会議において羽柴秀吉(豊臣秀吉)と柴田勝家が対立した時、柴田勝家に与力して従った前田利家だったが、旧交があった秀吉との関係にも苦しんだ利家の決断が、後の加賀百万石を産んだ事になる。
夫・前田利家の没後、まつは芳春院を名乗っている。
濃姫(帰蝶)尾張輿入れの際、美濃の国からおよそ三十人に余る女性(にょしょう)が身の回りの世話をする為に付いて来た。相談相手と護衛を兼ねるお女中衆に加え、お端(おはし)と言われる使い走りの少女達である。
このお端(おはし)の中に、後に日本史の表舞台に躍り出る「お福」の母、「お安/あん」と言う七〜八歳の美少女が居た。
利発な娘で、明智党の流れを汲む美濃国・国人領主稲葉一鉄の娘で有った。
これから後、この稲葉安(あん)の娘・福がこの物語に重要な役回りで登場するので覚えていて欲しい。
それは、後ほどのお楽しみで有る。
明智に関わる地名は美濃には二ヵ所ある。
一つは現・岐阜県可児市である。
可児市は戦国時代明智の庄(荘)と呼ばれ、一族の本拠地明智城はここにあった。明智城主明智光安が、斉藤義龍に攻められ、十五歳の光秀が従弟二人を伴い、落城寸前に落ち延びたのはこの城からで有る。
もう一つは恵那市の明智(合併前・旧恵那郡明智町)である。
双方とも明智光秀生誕の地を謳っているが、決め手に欠ける。
他に所縁(ゆかり)があるのは、織田家仕官の折与えられた光秀最初の所領、美濃の国安八郡(味蜂麻郡・現神戸町)だろうか?
その後の明智光秀の出世は目覚しく、伊勢、近江、丹波攻めなどの戦の武功により、四十歳代半ばにして、めでたく近江志賀郡に十万石を与えられ、千五百七十一年(元亀元年)に大津城に入城、後、近江・坂本城城主となる。
この三年後の天正二年、光秀は従五位下日向守、翌天正三年には惟任の姓を与えられ、丹波国領主に任じられ、これより独力で丹波制圧戦を開始する。
その傍ら、信長の多忙な戦略の応援で、長篠合戦、安土城築城、石山本願寺攻略、松永久秀征伐などにも参加している。
実は、明智光秀が従兄弟でお福の父親・斉藤利三(さいとうとしみつ)を明智家の家老職に迎えたのは漸く国持ち大名に成ったこの頃である。
斉藤利三(さいとうとしみつ)は斉藤道三の息子・斉藤義龍(の子とも言われる)に臣従していたが、西美濃三人衆の一人・稲葉一鉄が織田氏へ寝返ると、それに従い、稲葉氏の家臣となったのだがその一鉄と喧嘩別れし、明智光秀との縁戚関係から光秀に仕えるようになった。
稲葉(一鉄)良通は、始め美濃国主・土岐氏に仕え、それを乗っ取って継承した斉藤道三の斉藤氏三代に仕えて、三人衆として最も有力な家臣団だった為、一鉄が信長の美濃攻略で斉藤龍興を見限って信長に寝返った事は、道三の斉藤氏の滅亡を決定的にし、その功績で稲葉一族は織田家に仕えた。
実は、稲葉(一鉄)良通が美濃国主・斉藤龍興(さいとうたつおき)を見限り信長方に寝返ったには、帰蝶(濃姫)付きのお端(おはし・端女)として織田信長の傍近くに使えさせていた娘・稲葉安(あん)からの報告に拠る所が大きい判断材料だった。
お安(あん)からの報告を見る限り、我侭放題で凡庸な主君・斉藤龍興(さいとうたつおき)に比べて尾張国主・織田信長は駿河の太守・今川義元を桶狭間奇襲で破るなど容易ならざる逸材である。
それに道三の娘・帰蝶(濃姫)は信長に嫁し、美濃明智党一族は明智光秀と共に信長に臣従している。
道三の斉藤家は、元々の守護代斉藤家を乗っ取り、守護職・土岐氏の美濃国を乗って下克上で国主に納まった相手で、美濃国人領主・稲葉家としては現在の美濃国主・斉藤龍興(さいとうたつおき)に家運を掛ける義理はなかったのだ。
その後美濃・稲葉家は、織田家、豊臣家、徳川家に仕えて激動の時代を生き抜き、息子・稲葉貞通の代に徳川家康の依頼で斉藤利三の娘・福(春日局)の養父となり、林正成(はやしまさなり)を養子に迎えて、斉藤福(春日局)を大名婦人として三代将軍・徳川家光の乳母に送り出している。
千五百七十八年(天正六年)には、光秀は丹波の大半を攻略、天正八年には正式に信長から丹波一国を与えられる。
つまり近江志賀郡十万石拝領からわずか九年後には丹波一国を加増され、亀山城、福智山城を築城、光秀は亀山城主になり、坂本をあわせて、実に三十二万石の大名に伸し上がっていた。
光秀はこの加増で、腹心の斉藤利三に丹波国(兵庫県)春部(かすかべ・現丹波市春日町)一郡五万石を与え、黒井城々主に据えている。
この時の光秀は、近畿地方の織田大名である丹後の長岡(細川)藤孝、大和の筒井順慶らの指揮権をも与えられ、信長家臣団の中でも上に一段抜けた立場になっていたのである。
天才信長の人物評価の才能は、類稀(たぐいまれ)である。
見出した秀才も数多く、それらの登用も見事である。
その能力は若手の同業者(戦国大名)にも及び、近隣の大名の事も倒すべき相手と味方につけて残していく相手を選別していた。
この事は、義父の斉藤道三が、当時小勢力の自分(信長)を選んで、娘「濃姫」を嫁に与えた関係に学んだのかも知れない。
道三は尾張に放った間諜の報告で、尾張の「虚(うつ)け者」が、「面白い若造」と、早くから目を付けていた。
「その小童(こわっぱ)ひょっとすると、大物じゃ。」油売りから美濃一国の太守に伸し上がったと言われる斉藤道三もまた、常識、習慣に囚われない、革命の士だったのだろう。
道三は、才を認めた信長を、本心で愛でて居たのだ。
同じ様に信長は、政略的に利用する部分はあるにしろ、その時の力関係で倒す事が容易な相手でも、能力を認めれば、積極的にアプローチし、味方とした。
代表的な例が、三河(愛知県東部)の徳川家康と近江(滋賀県)の朝井長政である。
オーナー経営者は今も昔も孤独で、増してや、天才信長には周囲に理解されない孤独が加わる。
その心の隙間を埋めてくれる様な相手を求めて、模索していたのかも知れない。
最近の若手経営者も何かと群れているが、表面だけの付き合いなら止めた方が良い。
少なくとも、「一緒に発展しょう」と言う真の同志でないと、ただの遊びで意味がない。
信長は、同志を募った。
その「大失敗例」と言えるのが、近江の浅井長政である。
浅井長政は、織田信長の妹・市(おいちの方)との婚儀により、縁戚を結んだ戦国大名である。弱小領主の悲哀で幼少の頃より人質に出るなど、その境遇は徳川家康に良く似ている。
確かに信長の領国から京に上る道筋に当たる浅井家は、重要ポイントである。
それを指摘し、単なる「策略説」を採る方も多い。
しかしながら、信長の感性からすると、不必要な者相手に「手間隙かける」事など考えられない。
信長は、「イエス、オア、ノゥ」を高圧的に相手に迫るのではなく、自分の評価で対応を決めるタイプで、相手の態度次第で「不要な者を残す事」を嫌った。信長の性格からすると、政略、戦略の都合でなく、掛け値なしに浅井長政の人物、才能を愛し、弟に欲しかったのだ。
気分的には不甲斐ない実弟達より、選べる義弟に良い相手が欲しかったのである。
近江・浅井家は、琵琶湖の東側に位置した戦国大名である。
元を正すと、他の多くの戦国大名と同様に成り上がりで、信長の織田家と同じ様に近江を支配する守護職、京極家の配下にあった豪族小領主、長政の祖父・浅井亮政が京極家の跡継ぎ争いに乗じて独立し、勢力を広げて北近江一帯を支配するに至る。
それは、南近江を支配する六角家との支配地争奪の争いを意味していた。
弱小勢力の浅井家は、六角家に対抗する為に越前・朝倉家を頼り、その支援を受けて六角家との対抗を続けた。この越前・朝倉家を頼って居た事が、後の近江・浅井家の命運を決める結果になっている。
浅井家の当主が長政の父・久政の代になると、盛り返してきた京極家と六角家の挟み撃ちに合い、久政は滅亡を恐れて六角家に投降し、その支配下に甘んじる。
この浅井家屈辱の時期に長政は生まれ、六角家支配の下で育った。
長政のこの経緯は、三河の徳川家康(当時、松平元康)が、今川家の支配下で育ったのに、余りにも似ている。
成長した浅井長政は六角家の配下である事を嫌い、独立戦を始める。
この独立戦で、戦力で倍する六角軍を破り独立を勝ち取ると、父・久政を隠居させ、長政は正式に浅井家の当主となった。
その後、京極、六角を攻め立て支配地を広げて、長政は有力戦国大名に伸し上がって行く。
その戦国大名としての資質、浅井長政の才能に目を付けたのが、信長である。
「浅井長政(あざいながまさ)は中々の男じゃ、仲良うに、したいものよ。」
信長もまた、義父・道三同様に間諜を放ち、近隣を探らせている。
それで、長政の才能の事も掴んでいた。
浅井領が、信長京都上洛の為の経路にあたり、戦略としての地理的条件は否定できないが、やはり、それだけでない信長の人間性を感じる手法である。
信長は、積極的に売り込んでまで、美女と評判の最愛の妹「お市」を嫁がせ、義兄弟の同盟関係を結んだ。
その後、信長が斉藤竜興を滅ぼし、美濃一国を奪取する。
尾張、美濃二ヵ国の太守となった信長に、流浪の足利義昭(足利将軍家・継承者)が頼ってきたのをきっかけに、信長は期が熟したのを感じ取り、上洛(じょうらく・京に上る)を決意する。
尾張、美濃の太守になっていた信長は、上洛(じょうらく)を決意すると、美濃国・立政寺に前将軍足利義輝(十三代)の弟、足利義昭を迎える。
幼くして出家、興福寺一乗院に入り、「覚慶」と名乗っていた足利義昭は、千五百六十五年の永禄の変で、将軍であった兄・義輝が松永久秀や三好三人衆によって暗殺されていた。
弟で鹿苑院院主であった「周嵩」も松永や三好三人衆によって誘殺され、義昭自身も久秀の手によって奈良に幽閉されるが、幕臣である細川藤孝や和田惟政らに助けられて脱出している。
「覚慶(足利義昭)」は、幽閉先から脱出後、還俗して義秋、暫らくして義昭と名乗る。
その義昭が流浪の末に、将軍家再興を目指して信長に助力を要請し、頼り来たのである。
目の前の上座に、足利義昭が精一杯虚勢を張って座って居た。
「わらわは将軍に成りたい。信長殿、わらわを警護して都に上っておじゃれ。」
「御意、信長めがお供仕り申す。」
頭を下げた信長は、内心ほくそ笑んでいた。
「これで、上洛の口実が出来たわい。」
この時だけは、信長が最も嫌う古ぼけたブランド、「足利」を使わざるを得なかった。不本意だが、旧態然とした思考の周囲を納得させるには、早道だったのである。
同盟関係の浅井家の永年の敵六角家は、信長上洛の経路にある。
織田・浅井連合軍は、足利義昭を奉じて大義名分とし京に向かう。
同盟軍は浅井家永年の敵、六角家を一気に攻め滅ぼして畿内の諸勢力を制圧して上洛を果たし、洛中(京の都)の勢力を制圧して朝廷に奉じ、足利義昭を将軍(征夷大将軍)に据える。この時の勢い、「信長に敵無し」である。
都の町を洛中(らくちゅう)と呼ぶ。
千五百六十八年(永禄十一年)、大軍の兵を率い、畿内を制圧しつつ足利義昭を奉じて上洛した織田信長は、馬上で感慨に耽っていた。
「ようようここまで来たか・・・。」
この年(永禄十一年)、明智光秀は四十一歳、織田信長は三十五歳、木下(羽柴)秀吉は三十二歳、徳川家康は若干二十六歳だった。
大軍勢を率いて、信長初めての上洛だった。
馬上から遠くを見渡せば、低い山々が連なってこの盆地を囲んでいた。
眼前を見上げると、あかね雲が浮かんでいる。
織田信長は、優しげな眼差しでそれを眺めていた。
日常の、見慣れた夕刻の風景であったが、行く手に広がるのは千年の都だった。
馬上から眺める都(京)の街並は、流石に寺社の大きな建物が多く、町並みは整然と碁盤の目には整えられていたが、度重なる戦火で所々にみすぼらしさも目立っている。
今は、「信長の軍勢を見よう」と路端には、都の者供が群れ並んでいた。
その都人の群れのそこかしこから、感嘆のどよめきが上がっている。
この為に信長は、自らの衣装を始め、軍勢もきらびやかに飾り立てて、都人の度肝を抜く積りでやって来ていた。
「これが、京の都か・・・・」
打ち続く戦乱は、漸く上洛を果たした信長の目に都の街並さえも荒廃させて映っていた。
信長が戦乱を勝ち抜いた覇王として始めて京の都を見た時、都は見る影も無く疲弊し中には、焼け落ちたまま朽(く)ちている屋敷さえ散見される。
御所も公家共の屋敷も、修理の手を入れる訳でもなく、見る影は無い。
公家内と思しき者や町屋の者共が、噂に聞く阿修羅の武将を一目見ようと大路の左右に群がっている。
この豊かな国を治めるには、朝廷は余りにも非力で役立たずだった。
信長の気性では口うるさいばかりで役に立たない者共の相手は、性分として苦手だった。
わしは・・・足利義昭公のお守りだけでもウンザリじゃ。
信長は、この先の難題に思いを馳せ、傍らの明智光秀に声を掛けた。
「光秀、都の公家どものお守りはそちがやれ。」
「はっ、承知つかまった。」
眼前を見上げると、あかね雲が浮かんでいる。
その焼ける様な空の色が、やがて薄らいで青白くなり、灰色となって間もなく闇が訪れる。
その頃の「朝廷は」と言うと、千五百五十七年(弘治元年)後奈良天皇の崩御に伴って正親町(おおぎまち)天皇(第百六代)が践祚(せんそ)するが、天皇家の財政は落ちぶれた室町幕府同様に逼迫して即位の礼を挙げられず、権威も地に落ちかけていた。
毛利元就などの献金を受けてようやく即位の礼を挙げたほど逼迫していたのである。
しかし、千五百六十八年の織田信長の上洛によって、この朝廷の資金難の状況が変わってくる。
信長の後ろ盾で、いくらか朝廷の面子は保たれ始めたのである。
日本列島で初めて非権力者達が、大規模な信仰(宗教)上の意志を掲げた争いが、「一向一揆」である。
その最大で最後の一向宗 と織田信長の全面戦争が、織田信長と雑賀孫市の中を裂いた「石山合戦」だった。
第二章の平安時代末期から鎌倉初期の所で前述でしたが、政情不安定な歴史の変革期に、宗教界では新しい仏教の一派が天台宗から分かれて芽吹いていた。
後に一向宗(浄土真宗)の基となった親鸞(しんらん)の師、浄土宗の法然(ほうねん)が現れ、精力的に布教を始めている。
この教えが、権力者より民衆を救い、「拠り所」とする為の教えだったので、庶民の間で急速に広まって行った。
この法然(ほうねん)の存在は、血統を重んじた当時の氏族支配体制には恐ろしく異端であった。
しかし、次第に民衆の中に浸透して行った処を見ると、庶民はけして体制に甘んじていた者ばかりでは無かった事になる。
辻説法から始まった法然(ほうねん)の教えは、法然を師と仰ぐ親鸞(しんらん)によって民衆に支持される一向宗(浄土真宗)へと昇華して、やがて来る南北朝の混乱、戦国期の混乱を経て、正面から氏姓制に対抗する庶民の大信仰勢力に育って行く。
そしてその教えが、戦国期には「一向一揆」と言う形で一大反抗勢力となるのである。
それは、氏族を否定する事を意味していた。
一向宗は、言わば庶民の宗教だったので、権力者はこれを認め難かったのだ。
すなわち、一向宗の教えが、「仏の前では皆平等」であったので、布教が広まれば「為政者の権力を否定され、政権の安定は難しい」と考えたからに違いない。
その軋轢が、独立勢力の雑賀に降り掛かる。
雑賀孫市他数名の棟梁が率いる雑賀郷士・三千余は、主筋を持たない独立自由集団であるから、一向宗(浄土真宗)の権力に屈しない精神的教えが、「ピタリ」と嵌ったのである。
反対に、雑賀衆のような主君を持たない独立武装勢力には、支持されて当然だった。
この一向宗(いっこうしゅう/浄土真宗・じょうどしんしゅう)が戦国時代には大きな信仰勢力と成り、武装僧兵を抱え、信者の土豪武士屋民衆をも味方に付けて各地で一揆を起こし、戦国大名と対峙して一定の宗教自治区を勢力下に置いていた。
中でも千四百八十八年に加賀国(現・石川県)に起こった加賀一向一揆では、加賀国の守護職・富樫政親を滅ぼして広大な宗教自治区を擁していた。
畿内及びその周辺の国々で守護大名または戦国大名と一揆を繰り返していた一向宗(浄土真宗)は、細川晴元に攻められて本拠地・山科本願寺を焼き討ちで失った為に、本願寺門跡八世の蓮如(れんにょ)がその本拠地を摂津国大坂御坊(石山御坊)と定め石山本願寺とする。
石山本願寺は現在の大阪城の位置に在り、小高い丘陵や河川に囲まれ守りに適した地形の湿地帯に築かれた寺院及び宿坊で、さながら城砦の堅固さを擁していた。
一方、天下布武を掲げる織田信長に取っては、為政者の権力を否定される一向宗(いっこうしゅう/浄土真宗・じょうどしんしゅう)信仰勢力の存在は邪魔なものでしかない。
足利義昭を擁して上洛に成功した織田信長は、次第に信長との関係が険悪になったその義昭と一向宗(浄土真宗)石山本願寺勢力が反信長で密約、阿波国をはじめ畿内一円に勢力を有する戦国大名・三好氏(信濃源氏)と結束して信長打倒の動きをはじめる。
庶民の信仰・一向宗(本願寺門徒)は、次第に領主権力と対立を深め、やがて戦国諸将との争いに参画し、千五百七十年(元亀元年)以後十一年間にわたる本願寺と織田信長の争い(石山合戦)へと拡大して行く。
千五百七十年(元亀元年)本願寺門跡の顕如(れんにょ)上人は「信長は本願寺を取り潰す仏敵である」として本願寺門徒に檄を飛ばし、三好氏攻略の為に摂津福島に陣を敷いていた織田軍を突如攻撃した。
その石山挙兵とほぼ同時に伊勢国長島願証寺で一向一揆が発生(長島一向一揆)し、信長の弟信興が守る尾張の小木江城を滅ぼすなどして公然と信長に敵対するようになる。
織田信長は石山挙兵と長島一向一揆を抱え、それでも派兵して優勢に戦うが、三好、朝倉、武田、上杉などの反信長勢力の動向も抱えて攻め切れず、三年間ほどにらみ合い休戦状態が続いている。
千五百七十三年(元亀三年)になって漸く、織田信長は朝倉氏(朝倉義景/あさくらよしかげ)と浅井氏(浅井長政/あざいながまさ)を相次いで滅ぼし越前国と近江国浅井領を手に入れるが、越前一向一揆が起こりせっかく得た越前を一向宗に奪われてしまう。
これにより本願寺勢力は、長島・越前・石山の三ヵ所で信長に敵対していたが、信長はまず伊勢長島の一揆に大軍を動員して包囲降伏を赦さず殲滅している。
越前一向一揆に対しては、織田信長が千五百七十五年(天正三年)に武田勝頼を長篠の戦いで破り余裕が出来たところで越前に派兵を決定、織田軍は連戦連勝で瞬く間に越前一向一揆を制圧しその勢いで加賀一向一揆にまで兵を進め、加賀の南部に攻略拠点を築いている。
越前一向一揆の制圧の翌年(天正四年)、顕如(れんにょ)上人は毛利氏に庇護されていた将軍・足利義昭と与して三度目の挙兵、これに毛利氏、雑賀衆、村上水軍が与力して信長と対峙する。
織田信長の鉄甲船(てっこうせん)は、信長軍団に包囲された一向宗・石山本願寺を海上支援した村上水軍に手を焼いた結果、この補給ルートを打ち破る為に建造された。
鉄甲船(てっこうせん)は安宅船(あたけぶね)に鉄の装甲を施したもので、安宅船(あたけぶね)は室町時代の後期から江戸時代初期にかけて日本で広く用いられた軍船の一種別である。
千五百七十三年、織田信長は琵琶湖周囲を全て自領として内海となった琵琶湖に、長さ三十間(約55m)、百挺立ての大型・安宅船(あたけぶね)を建造した事が知られる。
木造の安宅船(あたけぶね)でも巨体で重厚な武装を施している為速度は出ないが、戦闘時には数十人の漕ぎ手に依って推進される事から小回りがきき、またその巨体には数十人から百数十人の戦闘員が乗り組む事が出来た。
その二年後、信長は京に近い琵琶湖に面した安土の山稜の地に、居城・安土城を築城し始めている。
信長が鉄甲船(てっこうせん)のアイデア実現を命じたのは安土城が完成する一年前の千五百七十八年当時で、折からの一向宗の本拠地・大阪・石山本願寺攻めで毛利氏や村上水軍、雑賀衆の水軍に悩まされていた信長は、配下の水軍を率いる伊勢の部将・九鬼嘉隆に命じて伊勢で六艘の鉄甲安宅船を建造させた。
「鉄は浮かばない」と言う当時の先入観による常識に囚われない天才・信長の面目躍如であるが、鉄の装甲は当時の軍船としては世界的に見てもまだ珍しかった。
この鉄甲大安宅船を実見した宣教師・ルイス・フロイスの書き残した証言によれば、各船は「前面と左右に一門づつ三門の大砲と無数の大鉄砲で装備していた」と言われ、大阪湾に回航されて村上水軍や雑賀衆の水軍との戦いに活躍する。
鉄張り堅牢で充分に戦闘に優位な信長の鉄甲船(てっこうせん)は、当時最強と謳われた村上水軍を打ち破り、大阪湾の制海権を抑えて石山本願寺の補給路を断って顕如(れんにょ)上人に、石山本願寺引き渡し調停に同意させている。
その信長の鉄甲船(てっこうせん)の噂を聞いて書き残した興福寺の僧侶の記録「多聞院日記」によれば、その規模は横七間(幅約12.6m)、竪十二〜三間(長さ約24m)で在った。
これが有名な信長の「鉄甲船」で、「多聞院日記の通りだ」とすれば全長が寸胴(ずんどう・短い)過ぎる為、「実際には二十数間〜三十間(約55m)ほどの規模であった」と考えられている。
織田信長はこの石山合戦に二年ほどの歳月をかけ、時の関白・近衞前久(このえさきひさ)の調停を得る。
千五百七十八年(天正六年)に石山本願寺引き渡しを条件に正親町天皇(おおぎまちてんのう)の「勅命講和」と言う方式での講和を為し、門跡の顕如(れんにょ)上人が石山本願寺を嫡子で新門跡の教如に渡し紀伊国鷺森郷の地に退去した。
新門跡の教如も、石山本願寺を織田信長に引き渡して雑賀郷に退去し石山合戦は終結する。
織田信長は明智光秀を介して朝廷の資金を援助し、見返りに天皇の権威を利用し、その敵対勢力に対して度々講和の勅命を出させている。
朝倉義景・浅井長政との戦い、足利義昭の戦い、石山本願寺との講和はいずれも時の関白・近衞前久(このえさきひさ)の調停を得た正親町天皇(おおぎまちてんのう)の勅命に拠るもので在った。
金品を贈られ、漸く帝の権威を取り戻した正親町(おおぎまちてんのう)天皇は、信長の言うがままに「勅命」を出していた。
しかし、「喉元過ぎれば・・・」と言う事で、少しずつ天皇としての自我が出て来る。
千五百七十三年(元亀四年・天正元年)に、足利義昭を京都から追放した織田信長が、朝廷の権威を凌(しの)ごうと公卿や朝廷を通じて改元させる事に成功する頃から、信長は正親町(おおぎまち)天皇の存在を疎むようになり、度々譲位(退位)を要求する。
しかし、正親町(おおぎまち)天皇はそれを最後まで拒んだ。
軍勢を持たない「将軍足利義昭」は、誰の目にも信長の傀儡(かいらい)と映る。
信長の戦力と言う「後ろ盾」有ってこその将軍で、本人は抵抗しても言わば信長の操り人形である。
ここで各地の大名達が、足利義昭の招請に応じ将軍就任の挨拶に参内(さんだい)すれば、事実上信長の風下に立つも同然だった。
これに反発したのが、越前朝倉家の義景である。
戦国の動乱期、越前の国主は朝倉義景(あさくらよしかげ)だった。
朝倉家も、織田家同様に元は斯波(しば)氏の家臣(守護代)であったのだが、他家と同じような経過を辿り、守護代だった朝倉家も比較的早くから主家の斯波(しば)氏を排除して独立、戦国大名として力を持っていた。
その朝倉義景(あさくらよしかげ)が、織田信長の「天下布武」の前に立ちはだかる。
「予は尾張の田舎者に頭など下げん。放って置け。」
朝倉家は早い時期に下克上に成功し、どっぷりと名門意識に浸かっていた。
鼻息は荒かったが、朝倉家の当主朝倉義景は武将と言うよりは文化人で、今で言う「ボンボン」の典型である。
義景は「売り家と、唐様で書く三代目」ならぬ、朝倉五代目だった。
この上洛を果たした頃の織田信長の勢力は、尾張、美濃、三河、畿内五州、伊勢、等十二ヵ国二百四十余万石、兵力六万強と恐ろしく膨張していた。
それに同盟国が遠江、駿河、等六十四万石の徳川家康と近江半国の江北三十九万石の浅井長政を加えると、石高三百四十三万石、兵力約十万の大勢力になる。
つまり、逆らった越前八十七万石朝倉義景は、ただの感情論による無謀な判断をした事になる。
朝倉義景は、下克上で伸し上がった武家でありながら公家貴族生活に憧れ京風文化に憧れた文化人で、おごり極まりない生活を送っていた。
プライドだけが高く、世の変遷(世の中の変わりよう)に鈍感だった。
朝倉義景(あさくらよしかげ)が凡将だった事は、折角臣従した明智光秀の並外れた才能を見出せなかった事で証明できる。
この保守的文化人が、最も嫌うのは、信長タイプの革新的発想の具現者である。
正に朝倉義景は、この時最悪の領主(経営者)と言えた。
このタイプで、成功した大名(経営者)は居ない。
彼らは守りに入って、結果的に革新的発想の前に滅びている。
余談ながら、秀吉も晩年この誘惑に囚われて豪華絢爛を好み「侘(わ)び寂(さ)びの茶」、千利休と確執を起こしている。
朝倉家は、将軍家(裏に信長)からの再三の上洛参内命令を無視する朝倉義景に堪り兼ねた信長は、朝倉攻めを決意する。
しかし大きな問題があった。
同盟軍、浅井長政の存在である。
浅井家には祖父の代からの、朝倉家との長年の協力関係の歴史がある。
信長は、これを充分承知していた。
「朝倉攻めはしない」が、織田・朝井同盟時の盟約であったのだ。
しかし、この期に及んで朝倉を放っては置けない。
選択した手段は、浅井家を関わらせない事で、対面を保つ方法だった。
具体的には、浅井家に何も知らせないで信長は朝倉攻めを始めたのだ。
信長にすれば、「長政なら判ってくれる」と信じたかったのだ。
冬から春先にかけて美濃国・尾張国の濃尾平野には「伊吹颪(いぶきおろし)」と言う強風が吹く。
濃尾平野の西方向にそびえる伊吹山の頂上空から、伊勢湾に向かって吹き抜ける寒気を伴った強風は濃尾平野を厳しく舐めて行く。
若狭湾から琵琶湖を経て伊吹山の麓の関ヶ原に至る回廊状の地形が存在し、日本海側の冬の季節風がこの回廊を通って吹き込んで来るのである。
正にこの回廊状の季節風の通り道が、尾張から越前への朝倉攻めの道筋である。
信長は兵を起こし、越前・朝倉攻めに向かった。
この知らせを聞いて、浅井家中や浅井長政は苦悩する。
浅井家にとっては同盟国同士が戦をするのであり、事が起こった以上戦国大名が傍観者ではいられない。
ましてや、浅井家にとって両者伴に同盟相手同士の争いである。旗色を鮮明にしないと、武門の名折れになる時代だった。
浅井家中の意見も、揺れ動いた。
隠居の父・久政は、永年の朝倉家との同盟の恩義を主張した。
朝倉家の永年の御を忘れては、浅井家の武門の義は立たぬ。
父・久政は、強行に「朝倉方にお味方せよ。」と迫った。
長政も最後は「義」をとって、朝倉方の加勢を決断する。
「父上の仰(おっしゃ)る事、御もっともである。各なる上は、朝倉殿にお味方仕りましょうぞ。」
せめて、「傍観者でいてくれ。」の信長のメッセージは、浅井長政には遂に届かなかった。
姉川の合戦に到った年、明智光秀は四十三歳、織田信長は三十七歳、木下(羽柴)秀吉は三十四歳、徳川家康は二十八歳、浅井長政は二十六歳と言う。
若い長政は、情勢判断より人情を優先した父の意向に逆らえずに、みすみす落城の憂き目に会う事になる。
長政もまた、古い常識的発想に囚われていたのだ。
この姉川の合戦の折、徳川家康は織田方から加勢に回してもらう武将に「たって」と請い、猛将と誉れ高い美濃国・国人領主・稲葉一徹とその家臣団を指揮下に加えている。
この長政の決断は、朝倉攻めをしていた信長を窮地に立たせる。
前後を敵に囲まれる最悪の事態で、退路もなくなる。
この、浅井家の動きを信長が察知したのは、「お市方から贈られた小豆(あずき)袋の、両端を縛った袋のとじ方」と言われているが、これは出来過ぎた話だ。
両結びの小豆(あずき)の袋の逸話は、お市の方が織田家に出戻り易くする為の「創作」と考える方が自然である。
当然万一に備えた「物見の報告」と思う方が、自然なのだ。
この頃信長は、光秀を通して伊賀・甲賀などの傭兵を活用していたから、情報も迅速だったので有る。
形勢不利と判断した信長は、軍勢に大きな犠牲を払いながら、美濃の本拠地岐阜城に逃げ帰る事になる。この時、殿(しんがり/見方を逃す為の捨て駒)を買って出て、成功したのが「木下(羽柴)秀吉」と言われている。
この金ヶ崎の退き口で、自ら手を挙げて殿(しんがり)軍を引き受けた木下秀吉(羽柴秀吉)は敵の猛追撃に苦戦をするが、同盟軍・徳川家康の非公式な援軍と馬廻衆を率いて参加した黒母衣衆(くろほろしゅう)の佐々成政(さっさなりまさ)らの活躍でその任を成し遂げ、織田軍団での地位を確立する切欠に成っている。
佐々成政(さっさなりまさ)は、尾張国春日井郡比良城に拠った土豪・佐々氏、佐々成宗(盛政とも)の三男に生まれたが、兄二人が相次いで戦死した為に家督を継いで比良城主となり、織田信長が今川義元を桶狭間の戦いで破った頃に使えて馬廻衆となる。
成政(なりまさ)が勤めた馬廻衆の役目は、戦場で主君の本陣を構成して戦闘の他に護衛・伝令と言った役割を果たすものである。
織田信長に近侍する家臣組織にはこの本陣要員の馬廻衆と日頃信長に近従して身の回りの世話から政務の取次ぎなどを勤める小姓衆の二つが在り、小姓衆の内から選抜された赤母衣衆(あかほろしゅう)も同じく十名ほどで構成され、この黒母衣衆(くろほろしゅう)と赤母衣衆(あかほろしゅう)が、信長の側近中の側近と言う事になる。
ちょうど主君・信長が美濃国の斎藤氏を滅ぼした頃、幾度の戦で戦功を重ねて頭角を表した成政(なりまさ)は、馬廻衆の中でも特に選ばれた十名ほどで構成する黒母衣衆(くろほろしゅう)の一員に抜擢され出世の糸口を掴む。
その後佐々成政は、信長が起こした越前朝倉氏・朝倉義景を攻めた時、同盟を結んでいた信長妹・市の方の嫁ぎ先である北近江浅井氏・浅井長政(あざいながまさ)の裏切りに合い、撤退戦となった金ヶ崎の退き口で殿(しんがり/主君撤退の時間を稼ぐ防衛戦)を勤めた木下秀吉(羽柴秀吉)の殿(しんがり)軍に馬廻衆を率いて参加し、秀吉を救援し活躍した。
その越前朝倉氏・朝倉義景と北近江浅井氏・浅井長政の連合軍と織田信長、徳川家康連合軍が戦った長篠の戦いでは、佐々成政は同じ黒母衣衆(くろほろしゅう)の野々村正成や赤母衣衆(あかほろしゅう)の前田利家・福富秀勝・塙直政らと共に鉄砲隊を率いて戦っている。
ここで信長を討ち洩らし、本国に帰らせては浅井長政に打つ手はない。
しかし討ち洩らした。
岐阜に逃げ帰った信長は、浅井、朝倉を討つべく軍団を編成する。
兵力二万八千、援軍(徳川軍)六千、合計三万四千の大軍である。
「挟み撃ちにする」と言う千載一遇の好機に、信長を討ち漏らした事が長政の命運を決定付ける。
同盟して迎え撃つにも織田・徳川同盟と浅井、朝倉同盟とはその国力に大きな差があり、正面切っての戦での力関係は明白に不利だった。
雑賀孫市も明智光秀に懇請され、鉄砲千丁を揃えて雇われこの戦に参戦している。
「信長来る。」の報を聞き、朝倉も兵を出して浅井・朝倉連合軍を結成するが、朝倉義景は此処でも「ボンボンぶり」を発揮して代理を大将に送り、自分は出陣をしない。危機意識がまるで無いのだが、強敵相手に領主が出陣しないで味方の勢いが上がる訳が無い。
この時の主戦場が、姉川だった。世に言う「姉川の合戦」である。
元々、雑兵や家臣の方の戦の目的は、手柄を立てて立身出世をする事である。
それ故、直接盟主に戦働きを見てもらえる方が遥かに気合が入る。
その盟主が出張って来ないでは、士気が上がる訳が無い。
都の文化に凝って、貴族化した朝倉義景にはそうした家臣の心理すら思い至らない。
「尾張の無骨者など相手に、予が出張る程の事もないわ。」と、貴族化した自分の方が「高級」と思い込んで代理を大将にして居た。
これは現代の企業や政治にも言える事で、現場任せの経営者はいずれ思わぬ失態に巻き込まれ得るし、言い分ばかり言って庶民の現実に直接耳を傾けない政治家が、良い政治をする訳が無い。
現場を見、現場の言い分を聞いて判断するのが良い企業経営者であり、庶民の言い分を聞いて判断するのが良い政治家である。
現代の官僚、政治家、企業経営者は、自らを「高級」と思い込ん貴族化してはいないだろうか?
この「姉川の合戦」は、織田、徳川連合軍の大勝利と言う事になっているが、多分に怪しい。
一度の戦に負けはしたがその後も浅井、朝倉には一定の勢力が健在で、京の信長残留守備隊を攻め、これを討ち破って一時京を制圧している。
千五百七十三年(天正元年)七月、信長は三万の軍を率い再び北近江に攻め寄せる。
時折木漏れ日の陽光が降り注ぎ、原生林が風にザワザワとざわめく街道を織田信長と徳川家康の大軍勢が粛々と行軍する。
物見の知らせは逐一入って来ていたが、浅井長政は各要衝に小軍勢を裂き本隊は早々と篭城を決めて朝倉勢の援軍を待っていた。
暫し小谷城で織田勢の攻撃を持ち堪え、朝倉勢の援軍を待てば勝機もある。
浅井長政は義景に援軍を要請、朝倉義景は二万の軍で駆けつけるが織田の軍勢が北近江の出城を落とし始めると、義景は交戦意慾を失いまともに交戦もしない内に越前に撤退を始めた。
好機と見た信長は篭城を決め込む浅井勢を後回しにして、逃げる朝倉勢を追撃して越前一乗谷城へ兵を進めた。
義景が近江から逃げ帰った時、朝倉勢の敗走を知った一乗谷城は既にも抜けの殻で、家臣は余りのボンボンぶりに義景を見限って逃げ出していた。
逃げ帰って一乗谷城に在った朝倉義景も支え切れないと見て東雲寺、賢松寺と逃げ回るが家臣(従兄弟の朝倉景鏡)の裏切りにあって自害し、朝倉家も滅亡する。
信長の軍勢は、逃げる朝倉勢を追撃して越前一乗谷城の戦いで滅亡させた後、軍勢を近江に返し浅井氏攻めに取り掛かった。
頼みの同盟相手朝倉勢の滅亡に、もはや浅井長政に反撃の手段は無い。
為す術も無く信長の大軍によって一方的に勢力範囲を削られるのみで、徐々に追い詰められて行く。
ついに本拠の小谷城(滋賀県湖北町)が織田軍に囲まれる。
しかし信長は一気に小谷城を攻撃せず、不破光治、木下秀吉なども使者として送り何度も降伏勧告を行っている。
信長は長政を高く評価していたようで、降伏した後は「大和へ新領地を与える」とまで破格の条件を出している。
その信長の配慮も虚(むな)しく長政は断り続け、最終勧告も決裂して長政は正室の市を子供達と共に織田陣営に帰還を命じ、その安全を見届けてから父の久政と共に自害している。
お市の信長の陣営帰還に際しては、浅井・織田の両軍ともに「一切の攻撃をしなかった」と伝えられている。
結果的に、浅井家との婚姻は政略結婚の形になったが、我輩は信長が浅井長政を、「本気で弟にしたかった」と信じたい。
それが、信長だからである。
信長は、姉川の合戦から浅井長政の小谷城陥落まで、三年を要している。
この間に宗門・一向宗と雑賀衆の反抗にも信長は手を焼いている。この浅井、朝倉、一向宗の混乱は、「将軍足利義昭の陰謀が招いた」とする説が有力である。
室町幕府最後の将軍・足利義昭(あしかがよしあき)は、織田信長の助力により漸く流浪の身から脱して京に上り上洛を果たす。
朝廷・時の正親町天皇(おおぎまちてんのう)から将軍宣下を受けて第十五代将軍に就任、烏丸中御門第(からすまるみかどだい)を整備し室町幕府の再興を果たした。
しかし足利義昭(あしかがよしあき)は、直ぐに本当の実力者の織田信長と対立、武田信玄や朝倉義景らと呼応して信長包囲網を築き上げ、一時は信長を窮地に立たせる事もあった。
だが義昭は、やがて信長によって京都から追放され、朝倉家も武田家も織田・徳川連合軍に敗れて滅亡、足利義昭は毛利家を頼って亡命し事実上室町幕府は滅亡した。
将軍・足利義昭が頼った毛利輝元は、「三本の矢」の逸話の元とも成った吉川氏と小早川氏の毛利両川(もうりりょうせん)体制を擁する周防・長門・長州・安芸・石見など中国地方の国々の大半を領する武門の棟梁だった。
「三本の矢」の逸話の元とも成った毛利両川(もうりりょうせん)体制とは、祖父の毛利元就が吉川氏には次男の元春、小早川氏には三男の隆景を、養子として送り込み、それぞれの正統な血統を絶やしてその勢力を吸収するのに成功し、中国制覇を果たすのに大きな役割をした組織体制である。
安土桃山時代で最も有名な女性の一人は、織田信秀の娘つまり織田信長の妹の「お市の方」である。
越前浅井家の長政に嫁ぎ、嫁家を兄・信長に攻め落とされ、三人の娘を連れて柴田勝家と再婚し、二度目の落城に遭遇する悲劇の女性である。
お市の方忘れ形見の三人の娘長姉の「茶々」はその後の歴史を左右する豊臣秀頼生母・淀の方(秀吉の妾妻)、次姉の「初」は京極高次正室、三女「お江(おごう)もしくは於江与」は、織田信長の甥(おい)に当たる佐治一成と従兄妹同士の結婚の後に、離婚させられて三代将軍徳川家光生母・於江与の方(二代徳川秀忠正室/継室)と派手な立場の生涯を送っている。
於江与の方を「継室(後妻の正室)」と書いたが、徳川秀忠の最初の正室は織田信長の次男・信雄の娘・小姫である。
小姫は豊臣秀吉の養女を経て、実父・信雄と養父・秀吉の戦に家康が信雄に加勢した「小牧・長久手(秀吉対家康の直接戦)の戦い」の終結後、上洛した徳川秀忠と結婚した。
この結婚、豊臣と徳川の友好関係を再構築する目的で、一説には、この時の二人は「秀忠十三歳、小姫はまだ年端も行かない六歳であった」と言う。
この小姫は、翌年初夏に僅か七歳で死去している。
実は、余り目立たないがお市の方以外にもう一人、信長の妹が居た。
そのもう一人の目立たない妹は「お犬の方(おいぬのかた)」と言うのだが、お市の方の姉または妹と言う両説がありどちらかは確定していない。
このお犬の方(おいぬのかた)が、血筋が織りなす彩(あや)の中で微妙な光を放って、戦国期の歴史に存在を残している。
お犬の方は、兄・信長の命で尾張国大野城主佐治為興(後に信方)の妻として嫁ぎ、大野殿・大野姫とも呼ばれ佐治家嫡男・佐治一成を産んだ。
信長が妹・お犬の方(おいぬのかた)を尾張国大野城主佐治為興(後に信方)の妻として嫁がせるには相応の理由が有る。
織田家は、父・信秀の代から海に近い勝幡城(源・愛知県中島郡平和町)に居た。
その地は尾張と伊勢を結ぶ要衝にあり、織田家は近くの商業都市「津島湊」を支配し、港の管理に拠る海運の利権を握って力を蓄え、武将としての実力の資金源としていた。
その時分から絶えず気になる存在が、大野城主佐治為興(後に信方)だった。
佐治氏は代々知多半島(愛知県)の大半を領した大豪族で、伊勢湾海上交通を掌握する佐治水軍を率いていた為に、「津島湊」の支配を資金源にしていた織田家にとって、佐治水軍が敵になるか味方になるかで非常に重要視されていた。
織田信長が父信秀の死によって家督を継いだ頃は、佐治家はまだ織田家とほぼ対等な大豪族勢力と言えた。
その佐治家が、桶狭間の戦いに織田信長が大勝利した事を期に、佐治為興(後に信方)は信長の才能に心服し臣従する。
織田信長は、武平氏の系図を望んでいた所から、知多半島を領し佐治水軍を率いる尾張桓武平氏系豪族・佐治氏の臣従は戦略的にも血統的にも大歓迎である。
佐治為興(後に信方)は妹・お犬の方を妻に与えられ信長の字を拝領されて「信方」と改名するなど、義弟として待遇は織田一門衆並みであった。
尾張一国に加え、斉藤竜興を滅ぼし美濃一国を手に入れた織田家の順風な隆盛に伴い佐治家も順風で、嫡男・一成、次男・秀休にも恵まれたお犬の方は幸せだった。
所が、人生そう上手くは事が運ばないもので、お犬の方は戦国武将の妻の悲哀を味わう事に成る。
伊勢長島攻めの折、夫の佐治信方は信長の嫡男信忠に与力して伊勢長島攻めに加わるが、ここで討ち死にしてしまう。
この時、佐治信方は僅か二十二歳の若さであった。
お犬の方は、夫の佐治信方が戦死すると兄・信長の命で管領細川晴元の嫡男で山城国槙木島城主の細川信良(ほそかわ のぶよし/後に昭元)に嫁ぐ事に成った。
細川氏は元は三河国・額田郡細川郷発祥の清和源氏足利氏流であり、足利将軍家の枝に当たる名門で、一族を挙げて足利尊氏に従い室町幕府の成立に貢献、歴代足利将軍家の中枢を担って管領職、右京大夫の官位を踏襲していた。
しかしこの頃は、往年の細川氏の繁栄は今は昔の没落振りだった。
この細川信良(ほそかわ のぶよし/後に昭元)は戦国時代の細川氏の本流である「京兆(けいちょう/右京大夫の官途を踏襲)細川氏」の末流で、管領・細川晴元の子である。
京兆(けいちょう)細川氏は名門ではあるが、戦国期の戦乱の中勢力が衰えた頃に細川信良は生まれ、千五百六十一年に父・細川晴元が有力な重臣だった三好長慶(みよし ながよし)との京都霊山の戦いで敗れ、和睦した際に細川信良は三好方に人質に出されている。
細川信良(ほそかわのぶよし/後に昭元)は、隠居、病没した父・晴元の跡を継ぐものの勢力は取り戻せずにいた。
そこへ将軍・足利義昭を伴なって織田信長が上洛、細川信良は臣従して織田信長の軍団に属し、このころ義昭より一字拝領を受けて「昭元」と名乗ってる。
織田信長にすると、細川信良は室町幕府対策として利用存在で、細川昭元を名乗らせて右京大夫に任じ、京兆家を継がせると翌年には信長の妹・お犬の方を嫁がせている。
細川昭元は、武将としての才能には乏しかったらしく、千五百七十二年には摂津で本願寺の僧侶僧兵)下間頼龍(しもつまらいりゅう)・下間頼純らと交戦して大敗している。
お犬の方は、本能寺の変の千五百八十二年(天正十年)に、兄・信長と年を同じくして死去している。
本能寺の変後、お犬の方に先立たれた細川昭元は羽柴秀吉に属して豊臣政権に参加したが、然したる功績も上げられず細川氏の勢力挽回には到らなかった。
細川昭元との間には、お犬の方は嫡男細川元勝(頼範/おきあき)・長女(秋田実季正室)・次女(前田利常の正室の珠姫の侍女)の一男二女をもうけた。
お市の方と比べて地味な存在だったお犬の方の生涯は、二人の夫の地味な働きにあったのかも知れない。
佐治信方とお犬の方の佐治家嫡男・佐治一成は、織田信長の甥(おい)に当たるのだが姪の於江与(お市と長政の三女・従兄妹同士に当たる)と結婚し、本能寺の変後天下を手中にした豊臣秀吉には従わず徳川家康に与した。
その経緯から「小牧・長久手の合戦」後、秀吉に拠って佐治氏は改易となり、その後離婚させられた於江与(お市と長政の三女)は二代徳川秀忠の正室(継室)と成っている。
細川昭元とお犬の方の細川家嫡男・細川元勝(頼範/おきあき)は、父・昭元の代から豊臣氏に属して豊臣秀頼に仕え、大阪の役で戦い敗れている。
浅井長政の小谷城落城から程なく、一乗谷城に在った朝倉義景も家臣の裏切りにあって自害し、朝倉家も滅亡する。
家臣は、余りのボンボンぶりに、義景を見限ったのだ。
結果的に、浅井家との婚姻は政略結婚の形になったが、我輩は、信長が浅井長政を、「本気で弟にしたかった」と信じたい。
それが、信長だからである。
日本には、大和朝廷の昔から奇妙な形式が存在する。
その時代時代で実質的権力者が居ながら、天皇を頭にいただき、「実務は実力者が遂行する」と言う形式を取って来た。
古くは和邇(わに)、大伴(おおとも)、物部(もののべ)、蘇我(そが)藤原(ふじわら/中臣)氏であり、その後は平氏、源氏、北条氏、足利氏、豊臣氏、徳川氏と続く。
彼らは、実質的権力者でありながら、自ら天皇を名乗る事は避けて、形式上は天皇の家臣となり権力だけはふるった。
実質と形式は、現代にも通じる「奇妙なもの」である。
現在の日本国において、法律上、国で一番の主権者は誰だ。
形式的には「国民」である。
だが、実質たいした権限はない。
株式会社で、法律上一番の権利者は誰だ。
形式的には「株主」である。
だが、実質さしたる権限は無い。
全て、「遂行者」に運用を委託する形式を取っている。
実は、実質的権力者は「遂行者」である。
この「遂行者」の失敗は、形式上の最高主権者の責任である。
一番上の人が下の者の失敗の責任を取る。
現在の一番上は、国民である。従って、歴代総理の借金(赤字国債)は、国民が取らされる。うまく出来たものである。
日本の長い歴史を見ると、その時代ごとに奇妙な二重構造に出会う。
それが、実質と形式である。
それは、「皇室(朝廷)」と言う存在が、全ての秩序の基本になっていたからである。
これは、他国(外国)の人間からすると非常に判り難い構造である。
例えば江戸時代、国外から見ると、どう見ても徳川家が「独裁王朝」である。
大名取り潰しなど、掛け値なしの絶対権限を有していた。
処が、徳川家も形式的には朝廷から官位をいただく天皇の臣下である。
例え朝廷が、武力の後ろ盾のない「形ばかりの物」であっても、である。
その他の大名も、徳川家の支配下にありながら、それぞれに朝廷から官位を授かって、形式上は天皇の臣下である。
武士の身分も氏族であるから、国主(藩主)並の上位の官位を貰えば、朝廷の貴族並に列せられた事になる。
鎌倉、室町、江戸と、歴代の幕府が現実の統治を担当するそれぞれの時代、言わば朝廷の仕事は、建前社会における「お墨付き(権威の裏つけ)」である「官位の発行元」である。
この二重構造が、たとえ建前のものでも時たま威力を発揮する。
「勅命(ちょくめい)」である。
明治維新は、勅命が大きく働いた。
つまり、実質的権力者の支配下にありながら、別途に朝廷の臣下と言う「側面を持ち合わせていた」のが、地方実力者(この時代は大名)達の立場なのだ。
これは、平安の昔から変わりはない。
まさに大王(帝)が居て、分かれた国があり、臣王(おみおう)が居てその家臣が居るのは、古代統一王朝の制度を引きずっているからで有る。
この部分を解説すると、中国の中華思想様式の影響が残っている。
中国大陸では、「歴代皇帝」が国々を束ね、国々には「国王」が居る。
日本列島の大和朝廷は、属国扱いを嫌い、中国の皇帝から独立し同等の立場を取る為に、この様式に習って「天皇」が国々を束ね、国々には「国主(くにぬし・こくしゅ・後には少し細分化し藩主)」を置いた。
その慣習が残って、各大名は将軍や太閤などに統括されていても、朝廷から官位を授かり、形式天皇の臣下でもあった。
従って、同様の理由で、明治維新による廃藩置県まで、各地の呼称も「何々の国(例・伊豆の国、土佐の国)」と言う具合に使用していた。
逆説的に言えば、武力を持たず官位の任命権だけを持っていたからこそ、朝廷と天皇制は永らえて来た。
つまり日本列島において、武力を持って他を圧した本当の権力者に、「権威」を与える役割を担い続ける便利な存在だった。
これは、周辺諸国の王と形式的に冊封(さくほう/さくふう)関係を結び「国際秩序」の形成を図る中華思想のコピー(写し)である。
古代の倭の国小国家群を統一して「秩序」を形成する為に列島の皇帝として大王(おおきみ/天皇/大国主)を置いた制度が永く機能し、江戸期における国主(藩主)に到るまで「権威」を与える役割を担い続ける存在だったのである。
明智光秀についても、小説など、物語の設定の立場で諸説がある。
それによって、実は「誰々の家臣であった。」と、自説を構築する小説やら、文献やらあるが、是は二重構造の文化が、下の方まで広がっていたからだ。
たとえば、後に大名になる蜂須賀小六は秀吉の家来である。
しかしながら、間接的には、信長の家来(陪臣)でもある。
この形を取って行くから、光秀が、「足利義昭の家来説」、「天皇配下の下級公家説」などを基本とした小説が書ける。
これはいずれも正解である。
形式的に見ると、光秀のお館様「信長」は、自分が合力して復職させた「将軍義昭」の配下の形式になり、光秀もその陪臣になる。
遡れば、将軍義昭も朝廷から将軍職を任命された、朝廷の臣下である。そう言う、過去からの形式的こだわりが、日本の世の中を長く支配していたのだ。
光秀ならではの真価を発揮したのは、何と言っても「京都奉行」としてであろう。
朝廷、公卿、寺社などの勢力がひしめく京に在って、光秀の深い学識と怜悧な行政手腕以外、織田家に適材は居なかった。
信長が、その能力、見識、血筋から、形式と気品を重んじる朝廷、将軍家との交渉役として、「秀才光秀を使った」としても不思議はない。
光秀にとっても、もとより得意分野である。
人材豊富な織田軍団に有っても、これに変え得る存在は無い。
勢い、その仕事は光秀の独断上になる。
信長の意を呈しながらも、光秀がその接触の過程で、朝廷、公家に知顧(ちこ)や親近感が生まれても仕方が無い。
人は接すれば、心情が湧く。善意か、悪意である。
光秀に取っては、それが親近感であった。
所謂肌が合うと言う感覚で、光秀には公家朝廷と、接触出来たので有る。
或る時期、光秀は新(信長)と旧(朝廷・将軍)のせめぎ合いの場に身を投じていた。
これが、「光秀に少なからぬ影響を与えた」としても、止むを得ない。
その後、この親朝廷派の光秀外交が、弊害にならんとする時、信長はわざと後任の京都奉行に百姓育ちの粗野な秀吉を登用させて、京都の公家供を、思う存分に煙に巻かせている。
秀吉には氏姓(うじかばね)への拘りも価値観も無い。
朝廷は秀吉に翻弄されたのである。
実質と形式、この二重構造は、時として都合の良い選択の基準になる。
上のまた上からの命令遂行は、一概に「うらぎり」とも言えないからだ。
こうした事例は、かなりある。
昔から都合良く「大義名分」として時代の切れ目には必ず登場し、多くの殺戮を呼んだ。
朝廷からの「院宣」や「勅命」は、謀反を打ち消す大義名分に成るのだ。
光秀が「信長暗殺」を決意した時、「信長の意志」ではあったが、光秀は朝廷から正式に官位を授けられていた。
惟任(これとう)日向守(ひゅうがのかみ)である。
これは、形式的なものではあるが、以前だったら日向守護職に当たる。
光秀が朝臣を主張しても、何の不思議も無いのだ。
将軍空位の時期、変わって皇室(朝廷)を守るのが、守護職の務めである。
足利義昭は既に信長に追われ、中国地方の大名毛利家を頼って、匿まわれていた。
その毛利家も、信長の配下秀吉に攻められ、防戦にあえいでいた。
もはや朝廷の誰しもが、信長の天下取りは「完結に近付いている」と認めていた。
本来なら、信長が最高官位の「征夷大将軍」を取って、足利家に代わる。
その方が、刃向かう者が減り「効率的に天下人」になれるのだ。
事実信長は、主だった家臣に、朝廷から官位を授けさせている。
彼らの労をねぎらい、日本人的出世欲を満足させる為だ。
処が奇妙な事に、信長本人は平氏を名乗る以外、自分から全ての官職を離れて無官となり、朝廷の臣下では無くなっている。
織田信長は、千五百七十八年(天正五年)末に右大臣に就任するが、翌年春に半年足らずで右大臣・右大将の職を辞任している。
この頃になると、信長は自分の力、自分の発想に並々ならない自信を持つようになる。
人間、その立場になって初めて「理解できる事」もあるし、その立場になると「麻痺してしまう」のも人間の悪い所である。
毎度の事だが、相手に意志が通じない苛立ちは信長を激高させ、それが周囲には阿修羅化身に見えていた。
天下布武は、織田信長の天下武力統一の野望である。
信長には「天下布武」の終着点が見え始めていた。
早いものであれから幾年経ったのやら、戦に続く戦の日々が続いた。
ようやく近隣に敵の姿は消えた。
主導した「楽市楽座」が当って、安土の城下は賑わいを見せていた。
「見ろ、知恵と平穏を与えれば商いは盛んになる。」
信長は、自らの治政に自信を持って居た。
この「楽市楽座」に拠る経済振興政策の原点は、織田家の旧主城だった勝幡城(愛知県中島郡)近くの商業都市「津島湊」での自由商業都市の経験と堺の賑わいを生かしたもので有る。
たまに馬を駆って安土の町から外に出ると、抜ける様な青空の下、もう稲刈りが始まっていた。
ありふれた日常の風景である。
ふと見上げた空、霞が掛かったような薄曇りの下を、鳶が悠々と弧を描いている。
何処にでもある見慣れた里山の景色だった。
さわやかな風が、湖面を渡ってくる。
肌寒いほど涼しくなった近江の湖畔を、十騎程の供廻りを連れて駆け抜ける。気が滅入ると、信長はときたまこの行動を取った。
何時も疲れ果てるほどの遠乗りだった。
織田信長は、永く打ち続く戦乱に憤慨していた。
考えると腹が立つ。
己の考えと、何かが違うのだ。
気が付くと、戦闘のプロである筈の武士が、既成概念と形式に囚われて、百年間思考を停止していた。
そう思い始めた時に、「自らの力を試したい」と言う野心が、信長の頭脳に赤い炎を燃やし始めていた。
「面白い。良い機会じゃ。朝廷が世を治められぬでは致し方ない。」
朝廷や将軍が出来なければ自分がやるしかない。メラメラと信長に、高揚感が湧き上がって来ていた。
この「生きてる実感」を伴った、メラメラと燃え上がる野心は何なのか?
これこそ信長が、持って生まれた天性の性(さが)かも知れない。
実の所、誰にも教わった訳ではない。
成長とともに、湧き上がるように自然に育って来た野心だった。
信長は、「泥沼の戦乱の世そのもの」と戦っていた。
目の前の敵など、もう眼中に無い。
目指すは、「天下布武」だった。
「無責任な・・・・、大切にすべきが何なのかを、誰も考えない。」
信長は呟いていた。
「今、この国には責任を負う者がいない。それを、わしがする。」
織田信長には生まれ持っての謀略と戦好きの才があった。
信長の場合、「権力欲にかき立てられる」と言うよりも、己の才を立証する事が快感だった。
或いは母に愛されなかった事が、信長に飽くなき己の才を立証させる行動を取らせたのかも知れない。
信長の「天下布武」とは、役立たずを除く事だった。
あと一歩まで来て、信長は朝廷の「決定的権威」を利用しない。
是は、恐ろしい事である。
武門の最高権力者が朝廷(天皇)の家臣でなければ、例外の事態である。
臣下でなければ、指示命令が出来無い。
朝廷とすれば、最高実力者が「無官」では、朝廷の存在が否定された様なものなので、秩序が維持できない。
朝廷と光秀の問答が、何日も続く。
光秀には信長の考え、見当が付くが口に出しては言えない。
朝廷はほとほと困ったのである。
それで、「三官推任(関白、太政大臣、征夷大将軍のうちから好きなものを選んでくれ)する」と言う他の者なら飛び付きそうな条件で、信長の説得にあたる。
それをせせら笑って、信長は受諾の返事をしない。
こうした朝廷と信長とのせめぎ合いの最中にも公家の中でただ一人、関白・近衞前久(このえさきひさ)だけは鷹狩りなどして親密に交際している。
この前久(さきひさ)の行動が、「信長の機嫌取りだった」とばかりに推測されず、「両者の間に密約が在った。」と言う説が絶えない。
織田信長が皇位簒奪後に「一ヵ国与えて厚遇する」と言う密約説も在る位に関白・近衞前久(このえさきひさ)を懐柔している。
その事から、我輩が推察する織田信長の新帝国の構想では、自らが新皇帝を名乗り関白に藤氏長者(藤原氏の棟梁)・近衞前久(このえさきひさ)、征夷大将軍に源氏の長者(源氏の棟梁)・徳川家康、左大臣に源氏流・明智光秀と言う構想を描いて居たのかも知れないのである。
信長の前例や常識にとらわれない発想からすると、これは、他人の作った秩序など、「実力で変えうる事」を証明する良い機会である。
そのつもりだから、放って置く。
「公家どもめ、肝を冷やして居るわい。」
朝廷の慌てぶりは、信長にとってさぞかし愉快であったろう。
朝廷側もここに至って、信長による皇位簒奪(こういさんだつ)の不安を覚える。その後の五年間が、織田軍団の最も忙しい時期で有る。
こうした朝廷危機の事態は過去に都度、都度あった。
実効支配者が臣下の最高の地位に着くのも、一つの道理ではある。
それが就かないとなれば、残された道はひとつしか無い。
日ノ本の国(大和)始まって以来の大変事が起こる事になる。
この辺から、光秀の変事の行動に、公家との共同謀議説が浮上する。
一部の公家の、日記改ざん説なども証拠として提唱されている。
変事の直後に、光秀の「征夷大将軍」就任説もある。
だが、それにしては、変事の後に「光秀体制維持の勅命」が公に存在しないのはおかしい。
朝廷主導なら、もう少し朝廷から有力武将(大名)達に働きかけ、光秀をバックアップしても良さそうではないのか?
いくらかの公家との疎通は在ったものの、光秀「単独行動説」を採りたい。
実は朝廷も、突然の出来事に混乱していた節がある。
朝廷主導であれば、準備万端、もっと朝廷の対応は迅速な筈である。
恐らくは、後の世に「たとえ」と成った、後の秀吉小田原城攻めで北条氏重臣の「小田原評定(永遠に結論が出ない)」のごとき「けんけんがくがく」の対策論議の最中に山崎の合戦が起こり、「先に決着が付いてしまった」と言うのが真相だろう。
この事変に限り、朝廷はさしたる参加はしていないのだ。
火急を要する時、光秀が悠長に朝廷の結論を待つなど、する訳が無い。
前々からの折衝で、散々に煮え湯を飲まされた経験を持つ光秀である。
「わし、一人でやらねば・・・・。」
光秀、苦渋の選択であった。
人の一生の選択は、めぐり合わせで瞬時に決まる。
その時点で、運不運を嘆くのは早計である。
分岐点の選択処は、繰り返しやって来る。
諦めなければ、一つの不運が次の幸運を導き出す事も多いのだ。
反対に、幸運が次の不運を導き出す事もあるので、人の一生など終わって見なければ判らない。
価値観に拠っては、誰も殺す事なく、子供一人、孫の一人でもこの世に残せただけで、政策で非情に人を殺す輩よりは遥かに幸せである。
繰り返すが、信長は、希代の天才である。
彼は、まず「既存のもの」に疑問を抱く事から思考を開始する。
そして、残して良いものと破壊すべきものをふるいにかける。
けして破壊一辺倒の男ではない。
天才と秀才の決定的違いは、思考にある。
「閃(ひらめ)き」と「積み重ね」の違いではないだろうか?
つまり、同じ答えに至るまでのプロセスの違いである。
例えて言うなら、信長には一瞬で閃(ひらめ)き、既に答えが出ている事を、光秀は、相応の知識と情報から論理的に導き出す。
だが光秀のそれは、信長家臣団の中で最速だった。
故に信長は光秀を寵愛し、ほとんど右腕として傍(かたわら)に置いていた。
信長は誰にも言わなかったが、天下統一後の国家運営など、「天下布武」を打ち出した時には既に決まっていた。
天下布武は、織田信長が美濃攻略後に井ノ口を岐阜と改名した頃からこの印を旗印として用いている。
天下布武の意味する所は、織田信長の天下取の政策を表したもので、「武力を持って天下を取る」または「武家の政権を以て天下を支配する」と解釈されるが、信長はキリスト教の宣教師(イエズス会)・ルイス・フロイスを通して西欧文明の事情に接していたから、信長自身で帝国を起こす野望を抱いた事も充分に理解できそうである。
それは、当時の普通の日本人なら、驚愕に価する考え方だった。
だが、天才信長にしてみれば、それは「至極当然の答え」としか思えなかったのだ。
これを書いている我輩は、天才でも秀才でもない。
それでも、やはり答えが既に出ている事に、あれこれともどかしい論議を強いられる場面には、しばしば合う。
大概の所、古い習慣だったり、既成概念だったりする。
まあ簡単に数学に例えて言うと、既に分母が変わっているのに、かたくなに古い分母で計算を続けようとする、「現在の年金保険制度」の様なものだ。
その裏に垣間見えるものは、権力者や役人の保身と利権である事には、今も昔も変わりない。
信長は、それを根底からひっくり返す事を考えて居た筈である。
そうした信長の考え方は、当時大きな勢力を持ちおよそ宗教家とはかけ離れて堕落していた僧門にも及ぶ。
本能寺の変から遡る事十年、元亀二(千五百七十二)年九月十二日信長は南近江の守山・金ヶ森を攻めた信長軍は突如湖水を渡り、対岸の坂本にある天台宗の総本山、比叡山延暦寺を攻撃した。
延暦寺の不意をついた信長軍は山上山下に次々に火を放ち日吉社の山王二十一社や延暦寺の根本中堂など一宇残さず焼き払う。
世に言う、比叡山焼き討ちである。
この攻撃に、佐久間信盛と明智光秀の指揮下で甲賀出身の山岡氏の配下にいた「伊賀・甲賀衆が参加した」と言われ、光秀の伊賀・甲賀衆との結び付きが伺える。
この攻撃の最中、光秀は経典や高僧を「独断で助けた」と伝えられている。
叡山焼き討ちの収まった頃、孫市が光秀の下を尋ねて来た。
見るからに不服そうな顔付きだった。
孫市の言いたい事は判っている。
それでも光秀は下女に酒盛りの支度をさせ、二人で呑み始めた。
「信長公の叡山皆殺しは酷過(むごす)ぎる。何故にあのような仕打ちを?」
「お館様は、わざと鬼神の噂が広まる事を目論んで居る。」
「なるほど、自らを鬼神と恐れさせて戦意を奪うお積りか。それにしても酷(むご)いぞ。」
「わしもそう思って、お館様には図らず密かに幾らかは救うた。」
「あのお方は何を考えて居る。光秀、お主に判るか?」
いつもながら、優しい笑顔とともに光秀を見据える孫市の瞳は曇りなく澄み、慈愛に満ちて迫って来た。
「わしはお館様に何故平氏を名乗るかと聞いた事がある。」
「信長公は、何故か応え申したか。」
「この乱世を、無力な朝廷では収まらない。わしには将門公の心情が判るとお館様は言われた。」
「将門公の心情・・・。」
「多少の犠牲に目を瞑っても、早く乱世を収めねば成らぬと申された。」
「判らんでも無いがのぉ・・・、やはり割り切れん。」
「孫市堪えろ。坂本をわしが拝領するで、叡山はわしが再興させて見せる。」
やがて明智光秀が坂本城主に成ると、領内となった比叡山延暦寺を手厚く保護している。
こうした光秀の信長の目を盗んでの支援には比叡山側も感謝し、その事が後々光秀の命運に跳ね返る事になるが、その話はやがてこの物語で明らかに成って行く。
信長の「叡山焼き討ち」を解説するに、多くの作家が書き著している表現が、「僧侶の腐敗」に対する怒りである。
しかしこの解説、我輩には異論がある。
「僧侶の腐敗」に対する怒りは、「坊主性善説」に乗っ取った今時の先入観から生み出された安易な発想で、時代考証を全くしていない事になる。
時代背景的に見て、当時の信長が坊主に品行方正など求める訳がない。
元々神と仏の「現世利益」のせめぎ合いが、信長と叡山の争いで、双方どっちもどっちのなのだから、信長の焼き討ち行為を狂気とするのもおかしな話である。
間違えてもらっては困るが、「現世利益」にしても「来世利益」にしても、詰まる所は「自らの利」である。
つまり、信心深い人間は「欲が深い」のである。
信仰にしても占いにしても、夢中になる事は最も人間らしい行為であるが、それは「煩悩(欲が深い)が深い」と言う事である。
つまり、当時の僧侶と戦国武将の抱く「現世利益」に、さしたる違いはなかった。
それで無くとも神官の家系から続く織田家の棟梁で、けして信仰が奇麗事では無い事を、天才信長は知っていたからこそ仏罰を恐れなかったのである。
織田信長の同盟者、徳川家康にも、源頼朝の「石橋山合戦」に良く似た命からがらの敗戦経験がある。
千五百七十二年(元亀三年)の甲斐源氏・武田信玄と戦った「三方ヶ原合戦」である。
命広いしたその後の二人の生き方に共通するのは、自らの力押しは控え、慎重に事を進める所だ。
この任せた相手が、それぞれに義経や範頼だったり、兄貴分の織田信長に付いて行く事だった訳だ。
千五百七十二年 、武田信玄は将軍・足利義昭の命を受け、大軍を率いて京都への上洛(京都への進軍)の準備に取り掛かる。
北条氏との同盟締結により背後を衝かれる心配のなくなった信玄は、手始めに、予(か)ねてよりの念願だった遠江を手中にすべく千五百七十二年(元亀三年)十月、甲府を出発した。
この時武田信玄が率いた軍勢は二万五千騎と言われる。
この大軍が信濃国の高遠から飯田、さらに青崩峠および兵越峠を越えて遠江国に侵入した。
武田信玄が、遠州(遠江国)と信州(信濃国)の国境を、二万五千騎の軍勢を率いて越境を開始した。
行く手には織田・徳川連合軍の領土と軍勢が待ち受けている。
今度は、明らかに上洛を狙っていた。
今川家亡き後、甲斐源氏・武田家は、征夷大将軍に最も近い男の筈だった。
何としても、それを掴み取らねばならない。
彼・武田信玄が動いたのは、患っている持病が悪化しつつあり時間が無かったからである。
行く手には織田・徳川連合軍の領土と軍勢が待ち受けている。
対峙する徳川家康は、武田信玄にとって見れば上杉や北条と比べ、打ち破るに造作もない相手の筈である。
三河、遠江二ヵ国の太守に成ったとは言え、長い事今川家の人質上がりの属国の将だった男である。
今また徳川家康は、織田信長の属国の将もどきに従って、三河、遠江二ヵ国の太守に成りあがっただけで、百戦錬磨の信玄に取っては戦国を生き抜いてきたキャリアが違う。
前々年の千五百七十年(元亀元年)に漸く浜松引馬城を居城とした徳川家康の勢力は、最大動員してもせいぜいが八千騎であった。
家康は信玄の出陣を知るとすぐに同盟者の織田信長より援兵を派遣してもらったが、その兵も三千騎ほどで、徳川・織田両軍の兵をもってしても武田方の半分にも満たない兵力であった。
信長の方でもあちこちに出兵しており、その状況下では三千騎を捻出するのが精一杯だったのである。
しかし、そこは天下の天才織田信長である。
ある秘策の元に、兵二千騎に匹敵するある者供を内密で送り置いていた。
この事は、後に成果となって現れる。
浜松引馬城に在った徳川勢は五〜六千騎、信長の援軍三千騎を入れても、一万騎にはとても満たなかった。
三河、遠江の徳川領内には二俣城や高天神城など、武田勢との接点と成っている城もかなりあり、総勢の一万一千騎全てを浜松城に集結させる訳には行かなかったのである。
家康は、始めから浜松引馬城に籠城するつもりだった。
籠城が長引けば、そのうちに信長が後詰として出馬し、「信玄を挟撃出切る」と考えていたのである。
さらに、年が明けて雪が解ければ越後の上杉謙信も「甲斐国を窺うであろう」と言う期待も持っていた。
十月中旬、徳川方の支城・只来城が攻め落とされ、とうとう両軍の戦いとなった。
信玄は馬場信房らに兵をつけて天竜川左岸より浜松方面を押さえさせた上で、自らは二俣城攻めに向かい城攻めを始めた。
所が「鎧袖一触(簡単に攻め落とせる)」と思われていたこの二俣城が容易に落ちず、終(つい)に信玄は天竜川の上流から筏を流し、城の水の手を断ち、ようやく開城に追い込んでいる。
城将・中根正照らが降参して来たのは一週間後の事で在った。
その後一旦二俣城に集結した武田軍は、浜松引馬城に向けて進撃を開始した。
三日後、信玄の本隊は合代島のすぐ南の神増辺りで天竜川を渡り、浜松引馬城へと向かう気配を見せた。
所が有玉辺りで急に進路を変えると西に向かい始め、そのまま三方ヶ原の台地に上がってしまったのである。
始めから信玄の方は浜松引馬城を攻める意思はなかった様である。
病魔に侵され始めていた信玄にとって、時間を要する城攻めは得策ではなかった。
そこで家康の軍勢を誘(おび)き出し、野戦で「一気に方をつけよう」と考えたのである。
「家康は若造じゃ、無視すれば必ず打って出る。」
守勢の徳川家は、浜松引馬城に在り籠城の態勢を取っていた。
所が武田軍は、家康の引馬城を、「無視して通り過ぎよう」とした。
拍子抜けな事に、武田の大軍が、しゅくしゅくと遠下かって行く。
天守から様子を見ていた家康は、武田軍が浜松引馬城に見向きもしないで素通りしていった事で焦った。
相手にされなかったと言う事は、武士としての面目を潰されたも同じ事である。
それに、みすみす無抵抗に素通りさせたとあっては、盟友の織田に顔向けが出来ない。
それが「信玄の策略である」と言う事を考える余裕もなく、すぐ追撃に転じたのである。
「このまま遠江を通しては武門の名折れ、予は打って出るぞ。」
「皆の者、殿のおおせじゃ、信玄を追え。」
家康にしてみれば、敵は二万五千騎で味方は一万一千で騎あるが、三方ヶ原を過ぎればその先には祝田という坂が在るので、そこを過ぎてから襲い掛かれば坂の上から攻め落とせる形になるので「勝機有り」と見込んだ。
武田軍は、坂から転げ落ちて、総崩れになる筈だった。
「家康の奴め、掛りおった。祝田の坂の手前まで良く引き付けてから討て。」
所が、家康が城から出て来ると、信玄は祝田の坂にかかる手前で全軍を停止、突然そのまま向きを後ろに変えたのである。
「しまった、誘(おび)き出されたか。」
最初からの作戦だった。
つまり、家康は浜松引馬城からまんまと引っ張り出されてしまったのである。
武田軍の先陣は小山田信茂と山県昌景、第二陣は武田勝頼と馬場信房、三陣が信玄率いる本隊で、後陣が穴山信君と言う布陣であった。
戦いは午後五時頃から始められた。
小山田信茂の三千騎の兵と石川数正率いる一千二百騎の兵との戦いが口火となり、すぐさま全面展開となった。
旧暦の十二月二十二日の午後五時と言うと、既に薄暗さが近づいている時間である。
「ワー」と、夕暮れの三方ヶ原に両軍の時の声が上がった。
戦いの開始は夕方であっても、合戦そのものは夜戦であった。
武田軍は密集突撃型の魚鱗の陣形を組み、それに対する徳川軍は展開包囲型の鶴翼の陣形で攻めた。
しかし兵数の差があり過ぎた為、武田軍を「押し包む事が出来なかった」と言う。
両軍対峙すればまず鉄砲が放たれ、次に矢が放たれて槍隊による槍武須磨の攻撃、切り結ぶか、行き成り馬で突入して、敵陣に攻め込むのが野平戦である。
武田には、勇猛果敢で音に聞く騎馬戦の軍団、赤備えと呼ばれる赤い武具で揃えた武田家自慢の武田騎馬軍団が在る。
その武田騎馬軍団が、二百騎〜三百騎と群れをなし、風林火山の旗指物を翻して縦横無尽に駆け周り、劣勢の場所をカバーしてしまう。
相手がほころびを見せぬでは、徳川方は為す術が無い。
合戦は信玄の思惑通りに展開し、二倍以上の兵力を持つ武田軍が押し気味に戦いを進め、ついに徳川方は浜松引馬城を目指して敗走を始めた。
この合戦では武田軍の武田軍の強さが際立ち、徳川方は随所で負けを重ね、信長からの援兵の将・平手汎秀は戦死、徳川方の犠牲者は一千人を超えた。
本来なら、この三方ヶ原で家康の命運が尽きても不思議ではなかった。
その恐怖に家康自身が晒された戦だった。
しかし幸運な事に、家康はこの敗走を辛くも逃げ切って浜松引馬城に逃げ帰った。
壮絶な乱戦だった為に、武田方でも徳川軍を追撃して浜松引馬城近くまで迫った時に「犀ヶ崖」と言う断崖から落ちる者が多数在った程である。
この戦いが、実は三河(松平)家臣団の特異性を如実に著している。
この合戦の最中、敗走する途中に家康の身代わりと成って死んで行った武将の名前が伝えられているのだ。
一人は夏目次郎左衛門吉信で、「我こそは・・」と家康の名を自ら名乗る事で囮となり、武田勢を引き付けて置き、その間に「家康を逃がした」と言う。
また、家康の着ていた朱色の鎧が敵に目立つからと言って、自分の鎧と着せ替え家康を逃がした松井忠次、敗走途中に家康の采配(軍配)を強引に奪って、家康の身代わりを勤めた鈴木三郎と言う武将も居た。
この時登場する鈴木三郎と言う武将は、この章の物語の一つのポイントであるので、記憶願いたい。
これら三河武士の固い忠誠心によって、家康は九死に一生を得たのである。
「三方ヶ原合戦」は徳川方の完敗であった。
この時家康は、緊張と恐怖の余りに「馬上で脱糞した」事にも気付かないままに浜松城に逃げ帰り、以後、事に当たって用心深く、慎重な天下取りの為、「戒めの為にその姿を絵にして残した」と言う逸話とその絵が残っている。
命からがら逃げ帰り、切羽詰まった家康は心理の裏を書き浜松引馬城の城門を開け放ち明々と篝火(かがりび)を焚かせた。
本音の所は、城門を閉じてしまえば徒歩(かち)で遅れて逃げ込んで来る後続の味方の兵を城に収容出来なく成ってしまうからだが、武田方ではこの所作を「何か計略があっての事」と疑いを持つ。
「殿、引馬城の城門が開いております。一気に攻め落としましょうぞ。」
「面妖な、罠やも知れぬ。待て攻め込むでない。皆の者共にも、深追い無用のふれを出せ。」
奇跡は起こった。
武田方の追撃は、ピタリと止んだのだ。
敗戦に追われて逃げ込みながら城門を閉めないとは余りに常識外だったからで、武田信玄は深読みで警戒し、終(つ)いに城門を開け放った浜松引馬城を攻めなかったのである。
「殿、城門をお閉め下され。」
「ならぬ。虚(うつ)け者め、門を閉めれば遅参する者が入れぬ。」
「しかし殿、これでは武田方にどうぞ攻め落とせと申して居るようなものですぞ。」
「何を言うか、家臣有って家康なるぞ、予に大事な家臣を見捨てよともうすか。」
「殿、殿が居らねば、家の再起は出来ませぬ。」
閉める閉めないの問答の間も、散っていた味方、手傷を負った者達が徒歩(かち)で三々五々辿り着いて来て居た。
「黙れ、予だけ生き残って何の家ぞ、門を閉める事はならぬ。篝火(かがりび)を焚いて一人でも多く城に入れい。」
「者共、殿は我らを見捨てぬと言われる。かく成る上は殿と諸共じゃ。城門を開け放ち、篝火(かがりび)を焚き、敵襲に備えよ。」
「おぉ、我らが殿は我らの誇りぞ、共に死に申そう。」
この徳川家康、良く言えば慎重、悪く言えば臆病な性格で、勇猛な武門の将とはイメージが少し違う。
だが、勇猛なだけでは天下は取れない事を、源頼朝が証明している。
幾ら勇敢でも、死んでしまえば勝利には成らない。
「臆病」と言われるほど慎重に事を運ぶ者が、決着は遅くても勝利に結び付く事が多いのである。
関が原の戦いでもそうだったが、戦いの勝利と共にその前後の対処が彼の天下を握る過程を有利にして居る。
その臆病な家康が城門を開けて居たのには、彼の運命をも決定つける「彼の性格があった」のである。
天下を取るには、時代に乗り遅れない先進性と地の利、部下に忠実で勇猛なのが沢山居ればそれで良い。
まぁ、「しぶといのと長生きも才能の内」と言う訳である。
家康には、その条件が全て揃っていた。
とにかく部下に恩義を感じ、戦国の将としては珍しく家臣を大事にした点では、右に出るものは少ない。
彼の性格に臆病さが感じられたり部下を大事にするのは、彼の出生に秘密があり、その為に数奇な育ち方をした事が大いに関係していそうだが、その話は後の機会にとって置く。
ここで家康の心情であるが、浜松引馬城に逃げ帰るまでに身を捨てて自分を守った部下達を見捨てられなかったのだ。
それ故、戦場から落ちてくる部下を、ギリギリまで救おうとして城門を開け続け、結果その事が自分を救う事になったのである。
当然ながら、家康の家臣思いの心情は戦場(いくさば)において掟破りであるが、家臣には「信頼するに足りる棟梁」と、思いが通じる。
戦国期に合ってこそ互いの信頼がいかに大切なのかを、家康はこの一事に教えられる。
この経験は家康生涯の宝となり、家臣や盟友織田信長を信じてチャンスが有っても裏切る事は無かった。
また、後の盟友を信じる生き方と時々の決断の糧として、大いに生かされ、盟友に導かれて、天下取りに進んで行く事になる。
この徳川家康と三河家臣団の結び付きが、後の徳川幕府成立後に武士のあり方の手本となり、江戸期の「べき論」として「武士道の精神(さむらい魂)」が、成立する。
つまり「武士道の精神」は、僅(わず)か江戸期の約二百五十年間に、それも国民の十パーセントにも満たない武士と言う名の「奉職役人・官僚」身分の者の間だけに在った精神である。
徳川家康と三河家臣団の結び付きは、首領(武家の棟梁)である家康の家臣に対する気配り思い遣りが前提に在っての新しい信頼関係で、徳川幕府成立以前の武士には江戸期における「武士道の精神」などはなく、下克上(げこくじょう)の世界だった。
それ故、この「武士道の精神」もって「日本人の心」と言い張るのは、いささか格好の付け過ぎであり、この幻想を利用して国民を戦地に送った大戦が、ほんの一世代前に在った事を忘れてはならない。
一方の信玄はこの上洛の途上の行軍の無理が祟り、持病が悪化して体調が悪くなってしまう。
そして翌 千五百七十三年、死因は定かではないが、武田信玄は、上洛途上の三河、尾張を攻略中の陣内で病没してしまう。
持病のせき(肺結核、或いは胃癌、若しくは食道癌と言う説あり)による病死説が有力であるが、この病死、只の病ではなかった。
信玄の死因は、「狙撃され負傷した傷が原因だ」と言う説である。
この説によると、武田信玄の病状の悪化を圧して出陣した武田軍が、三河国・野田城を攻囲中、城中から聞こえる笛の音(ね)に武田信玄が惹かれてやって来た。
敵味方無く、一時の風流が辺りを包んでいた。
その風流を切り裂くような「ダァ〜ン」と言う音が、一度だけ聞こえて、有ろう事か、一発の鉄砲弾が野田城中から飛来して武田信玄を貫き、信玄は崩れ落ちた。
「予とした事が・・」
銃声と同時に、「ガッン」と身体に衝撃を受け、気が付いたら倒れていた。
近習が駆け寄った時、信玄は痛みに耐えながら、笑っていた。
見事、城方にしてやられたのだ。
「予に、戦場(いくさば)を忘れさせる笛の音色は、何者だったのか?それにしても、月明かりで予を射止めるとは・・」
即死では無かったが、手傷を負ってますます持病を悪化させるには充分だった。
享年 五十二才、一代の風雲児・武田信玄は、大望を果たす事無く旅立って行ったのである。
武田信玄は今わの際に「三年間は死を隠せ」と遺言するが、家臣が密かにお経をあげている姿などが偵察され、その死はすぐに周辺に知れ渡ってしまった。
これでは、信玄以後の武田家が体制を整え直す間が無い。
「おぉ、孫市・・か、して首尾は如何に?」
「月明かり故仕留められませんが、手ごたえは充分に・・・恐らくき奴に深手を負わせ申した。」
「でかした、信玄めは患っておる。深手ならば長くはもたぬであろう。」
「いかにも武田方は、帰り支度を始め申した。」
暗闇で敵将を射止めるほどの鉄砲の名手は、雑賀孫市を於いて、他に数人を数えるだけである。
その雑賀孫市が、笛の名手阿国を伴って三河に下った目的は、ドラマチックな事に、信長の信玄狙撃命令だった。
敵将を討ち取れば、戦は勝敗が着く。
信長にとっては効率の良い戦で、信玄さえ除けば武田家は一枚岩とは行かない。
旧制度の一所懸命意識が強い家臣供が、それぞれの思惑でばらけた所を潰せば良い。
「孫市、信玄を亡き者(殺った)にしたのはお主だと、お館様が上機嫌で申して居ったぞ。」
光秀は、友の手柄を手放しで喜んでいた。
討ち取ったのなら数万の兵の働きに匹敵する。
光秀にしても、武田信玄は居ないに越した事は無い。
所が、帰りがけに光秀の所へ寄った孫市は、手柄の恩賞に預かったのに、浮かぬ顔をしていた。
「うむ、流石は光秀、もう信長公より聞いて居ったか。」
「笛は阿国か、あれなら信玄も聞き惚れる。」
眼の前に広がるのどかな田園風景と、それを取り囲む里山が浮かんで来る。
長逗留の慰めに、阿国が吹き聞かせに及んだ雑賀郷での笛の音色がよみがえって来た。
確かに、人の心をも盗む笛の名手だった。
「雑賀の女は、歌舞音曲は技としてたしなむ。阿国は、雑賀の傑作じゃ。」
「それにしても、討ち洩らしたならともかく、首尾良く行ってその顔は何じゃ、お主らしくもない。」
「一万貫の恩賞に目が眩んで、手の内を見せてしもうた。この手はもう信長公には使えん。」
「おぃ、お主、物言いに気を付けろ。命を失うぞ。」
「お主にも今に判る。信長公は目的が全てに優先する。」
「ならば、何故手を貸した。恩賞だけの事ではあるまい」
「今般は、家康殿を助ける気になった。家康殿をむざむざ信玄に討たせては、次の手が無く成るやも知れぬでナ。」
「家康ならば良いのか?」
「家康殿には情がある。信長公は家康殿とは違う。冷たい男じゃ。」
いずれにしても武田家は、早晩張子の虎になる。
信玄を勝ち戦の連続で油断させ、警戒を緩めさせるには三千騎位の増援がちょうど良い按配だったのである。
信長が、彼の閃(ひらめ)きの中で「行ける」と踏んで、「天下布武」を打ち出したのは、彼が平次(平家)をむりやり名乗った時からである。
彼の手元には、当時としては超近代化した軍団が育っていた。
それは、武具だけではない「システムの近代化」なのだ。
最強の騎馬武者軍団を率いる武田信玄が、病死して、「信長は助かった」とする作家の説もあるが、我輩は信長の名誉の為に言いたい。
最強故に、近代化の遅れた旧式正攻法の騎馬軍団、武田軍は、果たして新式戦法の信長に勝てただろうか?筆者には疑問である。
しかし、無かった戦は何とでも言える。
織田信長を覇権に突き動かしていたのは、いったい何んだったのだろうか?
全ての既存勢力を破壊する勢いで、行動は一直線に迷いが見られない。
信長は、彼の理想とする、まったく新しい国造りに執念を燃やしていたのである。
「天下布武」に信長が確信を持ったのが、国外からの情報だった。
この当時、信長ほどキリスト教宣教師(ポルトガル)を通じてヨーロッパの王家変遷情報を聞いていた人間は少ない。
宣教師側には、新王朝の設立を促す事で布教をし易くする打算があったのだろう。
神道を基本とする当時の皇統は、邪魔な存在だったのだ。
信長がヨーロッパ文明を知る為に目を掛けたのは、千五百六十三年(永禄六年)に、ポルトガル王の命で来日したポルトガル人宣教師イエズス会)のルイス・フロイスである。
千五百六十九年(永禄十二年)信長と対面してその保護を受け、以後信長の勢力範囲である畿内を中心に活発な布教活動を行った。
ルイス・フロイスは、リスボン生まれのポルトガル人宣教師である。
故郷リスボンにて十六歳でイエズス会に入会したルイス・フロイスは、当時のポルトガル領インド経営の中心地であったゴアへ宣教師見習いとして赴任し、そこで日本宣教の養成を受ける。
インド駐在中の二十九歳の折にゴアで司祭に叙階され同地に於いて日本宣教の命を受け、日本での布教活動の為に三十一歳で日本の長崎に来日、当時の日本の首都「京」に向うが、足利幕府が弱体化して布教許可の相手として心持たない。
誰を相手にしたら「布教の力添えを得られるのか」と困って居た所に、織田信長が実質的な最高実力者として台頭して来た。
知識欲旺盛な信長に西欧文明を伝えて信長の信任を獲得したフロイスは畿内での布教を許可され、グネッキ・ソルディ・オルガンティノなどと共に布教活動を行い多くの信徒を得ている。
フロイスはその後半生三十五年のほとんどを日本で費やし、日本におけるキリスト教宣教の栄光と悲劇、発展と斜陽を直接目撃し、戦国時代の様子を知る貴重な資料としてその貴重な記録「日本史(イエズス会)」を残す事になった。
こうした宣教師の任務は単なる布教活動に止まらず、植民地拡大をもくろむ母国の為に、表向きの宣教活動とは別にある種諜報活動を行っていた。
陰陽師が布教を伴う諜報員なら、当時の宣教師は布教を伴う諜報員兼現地工作員である。
そうした目的を内包していたからこそ、母国・国王の庇護や支援が宣教師に対してあった。
従って、ルイス・フロイスとヨーロッパ文明に対し、知識欲旺盛な織田信長は、互いの利益が一致して接近したが、所詮本音の部分では、騙し合いも多かった筈である。
宣教師に、母国に対するある種諜報活動の目的を有していた事から、ルイス・フロイスの執筆による「日本史」における制覇王・信長の描写は、「信長の人物像を良く表すもの」として知られている。
五亡星の文様は晴明桔梗(安倍晴明文)の文様で有る。
この花弁が開くと、何と源氏流土岐氏の桔梗紋となる。
言わずと知れた明智家は土岐一族で、光秀の家紋は当然桔梗紋になる。
名門明智家には、修験道(陰陽師を祖とする)と何らかの縁があっても不思議ではない。
後述するが、その明智光秀が山崎の合戦後、天台密教の本拠比叡山に隠棲する。
戦国時代の戦乱は「領主同士の国の取り合い」と言う様な単純な物ではない。宗教戦争の意味合いもあり、支配者の血統と非血統の争いでもあった。
それらが絡み合いながら、覇権を争っていた。
畿内、伊勢、紀州、の山々は、古来の深山霊場であり、修験者(山伏)の庭だった。
そして、山岳独特の風土が育っていた。
伊賀の(里)国から難波の国にかけて、悪党と呼ばれた楠木正成以来の独立独歩の風土が存在した。
伊賀衆、甲賀衆、雑賀衆、根来衆、などと呼ばれた領主を持たない独立武装組織である。
この独立武装組織の紀伊半島の独自の支配は、「天下布武」を目指す信長にとって目障りな存在だった。
彼らが領主を持たず一地方を運営し、傭兵としてどちら側にでも味方をする封建制度に於いて無秩序な存在だったからである。
しかし一方では、彼らの並外れた諜報能力と戦闘能力を自在に操る明智光秀を重用した。
信長が認めた光秀の隠れた能力は、すなわち光秀の源氏に繋がる血筋の顔の広さで有るが、表は朝廷・公家・足利将軍家であり、裏は根来衆・雑賀(さいが)衆・甲賀、伊賀の傭兵国人集団との繋がりだった。
この光秀の人脈の強みに、秀吉は出世合戦で絶えず遅れを取っていたのだ。
或る日の夕方、光秀に処へ孫市がわざわざ尋ねて来た。
最近は信長と距離を置いている孫市だが、光秀とは話が別で、久しぶりに「一緒に飲もう」と言うのだ。
その顔を見て、孫市に何か含む処があるのを光秀は感じていた。
「光秀、貴公は何故織田公に付いておる。」
二人だけの時、孫市は為口だった。光秀にとっても、孫市は気を許せる相手だった。
「お主も承知じゃろう。今の世は、ああ言う才の人物が必要じゃ。」
「しかしのぅ、ここだけの話し、あれは己(自分)をも傷つける切れ過ぎる剣じゃ。」
「何が言いたい。」
「見極めが大事と言うものじゃぞ、光秀。」
「孫市、何を誘って居る。天下は取るまでが面白い。取ってしまえば、嫌でも汲々として天下を守らねばならぬ。」
「お互い天下を汲々と守るは、性に合いそうもないのう。」
「ならば、誰ぞに天下を取らせて知恵袋で居る方がましじゃでな。」
「左様か。如何にも光秀らしい思案じゃ。しかしなぁ、織田公は気性が激し過ぎるわ。」
孫市は、信長の危(あやうさ)に光秀の未来を気使っていた。
織田信長と言う男は孫市を感嘆させるほど才に溢れていて、そこに期待しても居た。
しかし、彼はその閃きの為にはトコトン冷酷になれる男だった。
「やがて信長が天下を取るやも知れない。」
孫市はその可能性も認めていた。
しかし、信長のような破壊する男に、安定の建設は期待できない。
彼の気性が激し過ぎるからだ。
「家康殿ならば、神仏上手く共に生きる道をお作り下さる筈じゃ。」
「如何にも。それがしも同意じゃ。」
「信長公は余りにも気性が激し過ぎる。」
「判らんでもないが、坊主共も欲ばかりでおとなしゅうはして居らんからなぁ〜。」
「・・・・・坊主共も野心ばかりじゃからな。」
「叡山焼き討ちの折は、わしも辛かった。お館様は良く申してござった・・・・。」
光秀の脳裏に在りし日の信長が浮かんでいた。
信長は狡猾な宗門の抵抗に長い事苦しめられ、勢力拡大の為に暗躍し、理屈に合わない行状をする僧門の指導者を嫌っていた。
「あの坊主共、一皮剥けば欲の為に謀(たばか/詐欺)りばかり申すペテン師よ。」
「しかし、門徒も多くござれば・・・・」
「光秀、戦は武士がするものぞ、あの坊主共は謀(たばか/詐欺)りばかり申して民の門徒・女子供まで巻き込みおる。申して聞かねば誅(ちゅう)すのみじゃ。」
「さすれば、誅(ちゅう)するは悪(あし)き坊主共のみになされませ。」
「坊主共の欲に乗せられて謀(たばか/詐欺)られた民の門徒も、愚か故同罪じゃ。」
「お館様。民の愚かは致し方ござい申さず。」
「愚か過ぎるわ。何が良うて、田畑耕すも忘れて戦を仕掛け居る。口車に乗っても良き思いをするのは坊主ばかりじゃ。」
「それは、謀(たばか/詐欺)る坊主共が悪しき故・・・。」
「光秀、甘いの〜。愚か故厳しく処さねば坊主共の欲に乗せられる己の愚かが判らんのだ。」
「しかしのぅ〜光秀、民はそれを唯一の生き甲斐にして居るから、認めてやっても良かろう。」
光秀は、孫市の声で我に返った。
「仏門にも良き差配が必要か?」
「そうよ、お主なら申し分ないがのぅ〜。」
「わしがか?」
「後胤源氏の血筋故、真言や天台ならば座主に登り詰めるも適うじゃろうて・・・」
「孫市、お主はわしに出家を薦めるのか?」
「いゃ、フト思っただけじゃ。」
「それにしても、お館様は気性が激し過ぎる。わしも着いて行くにはキツイ。」
「それ故、見極めろと申しておる。」
二人とも、信長の気性は骨身に滲みていた。
だが、この時はまだ、光秀に謀反の芽など微塵もなかった。
この時点では、光秀はお館様(信長)の才には心服していて、自らが信長を討ち取る破目に成るなどとは考えが及ばなかった。
「見極めのぅ。」
杯を交わしながら、孫市の腹の底を解しかねていた。
後で考えると外から距離を置いていた分、孫市の読みが当たっていた事になる。
昔から、権力を手中にした者が手始めにする事は決まっている。
必ず権力の誇示を象徴する建造物を建てるからである。
織田信長の場合、それが千五百七十六年(天正四年)丹羽長秀を普請奉行に命じて築城の「安土城」だった。
着々と天下統一を進めていた織田信長は、京に近い琵琶湖に面した安土の山稜の地に天下統一事業「天下布武」を象徴する居城を作る事を丹羽長秀に命じた。
滋賀県蒲生郡安土町下豊浦に、織田信長最盛期の居城安土城跡はある。
当時の安土山は琵琶湖に突き出た岬状の地形だった。
「長篠の戦い」に於いて武田軍を破った翌年の築城で、その数年前には、ほぼ信長の天下取りは決定的だったのである。
三年後に完成した山城は、五層七重の天主閣を抱く眩(まばゆ)いばかりの城郭群だった。
五層七重とは、つまり外観は五層だが内部は地下一階地上六階の七重造りの 天守閣である。
安土城本丸は都の帝御所を模した御所造りで、信長の並々ならない野望の一端が伺える。
信長の居城・安土城を見たイエズス会の宣教師=フランシスコ・ザビエルは、故郷への手紙に「ヨーロッパにもこれほどの城は存在しない」と、書き送っている。
この「安土城」、世にも絢爛豪華(けんらんごうか)な和洋折衷(わようせっちゅう)風の建物で、信長にとっては皇帝の居城だった。
折衷(せっちゅう)風にしたのは、世界に通ずる皇帝の心意気を示し、征服王織田信長の尊敬の神話はこれから創造すれば良いのである。
安土城の天守閣五階には仏教の世界観が金箔と朱漆塗りを背景に、釈迦説法図などが絢爛豪華に描かれていた。
その上の天守閣六階(最上階)は吹き抜けになっており、当時の最高の技術と芸術で織田信長の壮大な宇宙観が凝縮して創り上げられ、信長しか入った事がなかった空間がある。
最上階の吹き抜けについては、防火対策上「城郭建築に於いては考えられない」と異論を唱える学者の意見もあるが、天下人たらんとする信長には自らの居城が「炎上する事には成らない」と言う絶対の自信が有ったのではないだろうか?
織田信長ほどの男である。
ただ豪華なだけの築城などする訳が無い。
朝廷が驚愕して皇位簒奪を恐れる、織田信長自身が自らを「神である」とする何かが、そこに祀られていた。
つまり天守閣六階(最上階)は、織田信長が神をも恐れぬ恐ろしい男なのか、神仏をでっち上げて既得権で甘い汁を吸っている当時の宗教関係者が怪しいのかの、そのせめぎ合いの象徴だった。
織田信長の織田一族の先祖の地は越前国(福井県)丹生郡織田町(織田の庄)で、織田神社(剱神社)の神官(神主)が出自である。
土地の氏神が民を守る事と土地の氏上(うじがみ)が土地と民を守る事は、その到達の意味合いが重なっている。
氏族が先祖を神に祭り上げる事は、子孫である自分達の権力の正統化に繋がる事であるから奇跡現象などの労はいとわなかった筈で、純朴な民がそれを信じても仕方が無い。
その辺りの歴史的経緯を承知しているからこそ、信長には祖先がした事を真似ているだけの意識しかなく、安土城天守閣に自分を神とする神座(かみくら・かぐら)を設けて居たのである。
織田信長の宿敵、甲斐源氏・武田氏が滅んだのは、千五百七十五年(天正三年)の「長篠の戦い」に織田・徳川連合軍が勝利し、その後武田家臣団が結束が崩れて、織田・徳川方寝返る武将が出たからである。
この長篠の戦の四年後になる千五百七十九年(天正七年)明智光秀の三女・玉姫(細川ガラシャ)は、信長の仲介を受けて光秀の同僚・細川藤孝の嫡男・忠興に嫁いでいる。
玉姫(細川ガラシャ)が嫁いだ細川家は足利氏の支流・細川管領家の傍流で、細川藤孝は将軍・足利義輝に仕える幕臣だった。
その藤孝が、足利義輝が京都・二条御所に襲撃され討死した永禄の変の後に擁立に尽力した義輝の弟・足利義昭と実力者・織田信長が対立すると信長に臣従し、嫡男・忠興は信長の嫡男・信忠に近習として仕えていた。
織田信長に臣従した細川藤孝は何故か光秀とは信長の命で行動を共にする事が多く、手柄を共同で挙げるなど織田家中では光秀の気心の知れた僚友として存在していた。
長篠の戦いに敗れて以後の武田家中は、武田(源)勝頼(たけだ・みなもとの・かつより)の求心力の衰え、軍費負担の不満から投降、寝返りが続出、最早戦国大名家の態を維持出来なくなって、勝頼自信家臣を頼って身を寄せ歩いて居た。
千五百八十二年(天正十年)武田氏所縁(ゆかり)の地である天目山近くの合戦で力尽き、嫡男の信勝や正室の北条夫人とともに自害し、甲斐源氏・武田氏は滅亡した。
ここに、武田(源)信玄が標榜した人の石垣も人の城も脆(もろ)くも崩れ去り、源頼信以来五百年間続いた甲斐源氏・武田家も滅んだのである。
武田最強騎馬軍団について、織田信長は「恐れていた」とか信玄の急死に「たすかった」とか言われるが、我輩はそうは思わない。
元々戦(いくさ)は、戦術情報宣伝に拠る撹乱戦(神経戦)を含んでいる。
最強騎馬軍団も、そうした戦術(兵法)のひとつとして相手の戦意を失わせる目的を持って喧伝されたものであり、本当に最強であれば、モタモタと上杉謙信との川中島戦の決着が長引くのは理屈に合わない。
織田軍団の近代化は、武田方を遥かに凌(しの)いでいた筈で、信長は充分に武田方の戦力や戦術(兵法)は把握して居り、勝利する準備は出来て居たのである。
その辺りの時の流れに武田軍団は取り残され、「過去に勝ったから戦術(兵法)に間違いではない」と言う根拠に成らない既成概念を拠り所に、「近代化が遅れていた」と推測できる。
後世の歴史家や小説家が、過去の栄光を根拠に近代化が遅れた武田軍団を、当時の武田家首脳と同じ理由で武田軍団を最強騎馬軍団と評価するのは、素直過ぎて「いかがなものか」と考える。
困った事に一度定説イメージが出来ると、中々別の見方が出来ない事が、歴史を狭めている。
武田騎馬軍団の武士の意識は、当時の旧態然とした一対一の斬り合いの集積だった。
それに対して、織田軍団は雑兵まで有力な戦力として使えうる団体戦の戦術(兵法)訓練を浸透させ、組織的に鉄砲を使った。
つまり、織田軍団と戦う武田軍団は、想定外の戦いを強いられる計算になる。
千五百七十五年の長篠の戦いに於ける織田方の「鉄砲の三段構え戦法」について、最近では否定的な意見が多い。
三段連射は「技術的に難しい」と言うのだ。
もっとも、鉄砲の三段構え戦法所か武田騎馬軍団の存在さえ否定的な意見がある。
そもそも、織田軍・武田軍の兵力数、織田軍の手持ちの鉄砲の数さえ、異説があり、千丁〜八千丁と幅が大きい。
しかし織田軍の鉄砲の威力が、戦闘の勝敗に影響を与えた事には、違いが無い。
何故なら、織田方の武将の損失は軽微なのに、武田方の信玄以来の名将であった顔ぶれが多数戦死してしまったからである。
織田方の鉄砲軍団の主力が、熟練の鉄砲軍団、雑賀孫市が引き入る傭兵軍団・雑賀衆の三千丁ならば、三段連射の照準合わせは「技術的に可能」ではないのか?
寄せ手の武田騎馬軍団の武士の意識は、当時の旧態然とした武士の兵法、一対一の斬り合いの集積だった。
騎馬軍団と言っても、騎馬は将官クラスだけで、残りは徒歩(かち)で追いかけて来る。
将官クラスが一斉に騎馬姿で攻め寄せては来るが、そこから先は個人戦の戦法だった。
その寄せ手を柵で防ぎながら三段構えの鉄砲がローテーションしながら火を吹いた。
騎馬姿の将官クラスは、一段高い位置に在って良い鉄砲の的だった。
「ダァダァ〜ン、ダァダァ〜ン」
一斉射撃が合間無く放たれる。
寄せ手の武田騎馬軍団は、織田方の防御柵を超えられぬ内に、バタバタと撃ち落され、或いは馬を射られて落馬した。
一説には、武田騎馬軍団は、馬が織田軍の鉄砲三千丁にの銃声に混乱をきたし、馬のコントロールが出来ずに「統制を失ったのが敗因」とも言われている。
武田軍団の布陣は、絶対的な自信を持つ翼包囲(の陣)を狙った陣形である。
武田軍団は幾度となく劣勢な兵力で優勢な敵を破った例があり、武田勝頼は、兵力的に劣勢でも自軍勝利に自信を持っていた事に変わりは無い。
つまり勝頼の自信は、過去の結果をその拠り所としているだけで、確証がある訳ではなく、現実には根拠に乏しい事だった。
たとえ当初の目的が威嚇撹乱(いかくかくらん)戦(神経戦)から始めた戦術情報宣伝、無敵騎馬軍団流布であっても、時を経て代が変わると、まるで当事者までもが信仰のごときに盲信される事例は数多い。
武田勝頼は有能で勇敢な武将だったが、哀れ世間知らずの坊ちゃま大名の側面を持っていた事になる。
千五百八十年(天正八年)、信長の天下布武は伸ばせば手の届きそうな所に来ていた。
此処まで来るのに、信長は誰の手助けも、誰の支援も受けていない。
まったくの独力でのし上がって来た。
それ故、血統の出自にあぐらをかき、何かと言い訳ばかりする重臣共が我慢できなかった。
人生運不運は付き物で、信長は家臣団引き締めの見せしめに、二人の子飼いの重臣を選んだ。
林秀貞(はやしひでさだ・旧来は通勝・みちかつとされていた)と佐久間信盛(さくまのぶもり)である。
信長の発想は単純で、この粛清(しゅくせい)は役に立たない者をふるい落とし、同時に最期の役に立たせる事だった。
それは、居並ぶ重臣達の眼前で、予想外の出来事として突然起こった。
織田家譜代の重臣・佐久間信盛に対して、五年間も何ら功績も挙げていないその無策をなじり、かつて信長と尾張国の平定から辛苦をともにしてきた信盛を、実子・信栄とともに高野山に追放する。
ついで、信長幼少期の筆頭付き家老時代からの織田家譜代重臣・林秀貞(はやしひでさだ)を、何と二十四年前の信長弟・信行擁立謀反の罪を蒸し返して、身一つで追放してしまう。
これには、柴田勝家、丹羽長秀、滝川一益などの織田家家中の重臣は震え上がり、信長の心を計りかねてギスギスと軋(きし)みを見せ始めていた。
とくに、北陸で苦戦していた柴田勝家は必死だった。
二十四年前の信長弟・信行擁立謀反の罪は自分も同罪で、北陸平定に失敗すれば、林秀貞(はやしひでさだ)の追放、明日は我が身である。
よく、この古参重臣達の心理的動揺を、明智光秀や羽柴秀吉にも当て嵌める物語が多いが、それは少し違う。
新参者や軽輩の立場からのし上がって来た明智光秀や羽柴秀吉は、充分に戦力になり、戦功や功績を挙げ続けていて、この時点で同じ憂き目に遭う話のものでは無かった。
余談だが、滝川一益(たきがわかずます)が登場したので、言って置きたい事がある。
織田家の家臣・滝川一益について、近江国甲賀の土豪出身と言われ、出自に決定的な証拠に成るものが無かった為、俗に「鉄砲の名人で在った」と伝えられている。
その事から、この一益、甲賀忍者の出自肯定説と、単なる憶測に過ぎないと否定する説があるが、そうした発想は、現代の既成概念に囚われた無駄な論議である。
この物語で一貫して言っているように、そもそも、そうした線引きは「修験武術全般の一部である忍術」の認識に合わず、現代の発想に拠る専門業務的な「忍・武分離」の安易な線引きは禁物である。
柳生一門もそうだったが、その発生の経緯により、武術も忍術も修験武術全般の一部であったから、一益がその両方を修めていても不思議ではない。
武田家滅亡の前年に、織田信長は伊賀攻めも敢行している。
天正九年(千五百八十一年)九月、伊賀国人の掃討を目論んだ織田信長は、凄まじい勢いで伊賀国に攻め込んだ。
信長軍は伊賀の六ヶ所の入口から四万の大軍で攻め、伊賀の国人衆達は必死で抵抗したが、多勢に無勢で次々と敗れ二週間で伊賀全土は平定された。
この伊賀攻めによって、伊賀国は七堂伽藍に至るまで、全ての施設が焼き払われ、灰燼に帰していた。
しかし明智光秀は、信長に隠れ密かに伊賀の残党を援助し、助けている。
家康の伊賀越え(本能寺の変後)は、その伊賀攻めの翌年(天正十年)の出来事である。
藤原か源氏を名乗っていた織田家の信長が、突然「平次(平家の傍流)」を名乗った事の意味に、我輩は着目した。
実はこの時代まで下ると、婚姻関係が複雑化して、何代か遡って脇を見れば多岐に亘る血筋の系図があっても不思議は無い。
しかし、それを穿り出してまで平家筋を名乗る者は、この時代になると本来ありえない。
従って信長のその目的は、「かなり明確なものを持っていた」と断定せざるを得ない。
信長が、在る時から平家の血筋を名乗ったのには、源平合戦の頃に遡る「壮大な計画」が在ったからである。
その狙いは、恐れ多くも当時の天皇家を否定する事にあった。
ご存知の方も多いと思うが、平家が滅亡した壇ノ浦の戦いで、平清盛の血を引く幼帝安徳天皇(八歳)は、二位の尼(祖母で、清盛の妻)に抱かれて入水、崩御(ほうぎょ)されている。
異論もあろうが、あの時点で「三種の神器」を奉じて、天皇を名乗っていたのは明らかに清盛孫、安徳天皇である。しからば、源氏は賊軍ではないのか・・・。信長は、あえてその清盛平家の流れ、「平次」を名乗ったので有る。
勝てば官軍である。
理屈は後でいくらでも付けられる事を、証明した様なものだ。
その時点では至近の、「南北朝並立時代」ではなく、源平まで遡れば平家の末裔を名乗る信長に一理屈出て来る。
天皇家の正統問題と、勝てば官軍の事例である。
つまり、「平次(平家)の世に戻す」と言う信長流の名目である。
そんな古い事を持ち出されても、誰も良く知らない。
それが、狙い目である。
信長の「閃(ひらめ)き」の答えは簡単で、朝廷は不要だった。
破壊すべき対象なのだ。
有力な源氏流、武田勝頼率いる甲斐源氏の武田家も、既に殲滅していた。
畿内の近郊に、浅井、朝倉、六角と言った有力な敵は既に居ない。
全て信長机下の武将を大名に取り立て、配置していた。
その時が、刻一刻と近付いていたのだ。
信長が光秀に寄せる信頼関係は、抜群である。
光秀こそ自分を理解できる「唯一の存在」と信じていた。
残念な事に、独立させて大名に据えた三人の我が子さえ、その才は無かった。
才と人脈に於いて、一に明智、二に明智である。
まぁ、三、四が無くて五に秀吉程度だった。
「本能寺の変」当時の信長軍団の、全体の動向を見ると、それが良く判る。
傍に居たのは、兵力一万三千の光秀指揮下の明智軍だけである。
信長自身は、「数百騎」と言う僅かな供回りしか連れていない。
明智軍こそは、「信長旗本軍」であり、親衛隊代わりに信長が位置付けていたのだ。
それこそ信長は、「裏切られる」などとは、露の先も考えては居なかった。
東国方面には同盟軍の徳川家康、(ただし本人は京に在って不在)対北条と戦闘中。
北国方面には柴田勝家が対上杉勢と戦闘中で、この柴田勝家の属将として、かっての「稚児小姓」前田利家も一軍を率いて与力していた。
前田利家は越前・一向一揆の鎮圧(越前一向一揆征伐)に与力、平定後に佐々成政、不破光治とともに府中十万石を三人相知で与えられ「府中三人衆」と呼ばれるようになる。
その後も前田利家は、信長の直参ながら主に柴田勝家の属将として与力を続け、上杉軍と戦うなど北陸地方の平定に従事して「本能寺の変」の頃には能登二十三万石を領有する大名とって成いた。
小姓衆から赤母衣衆(あかほろしゅう)そして大名に出世した前田利家と並ぶ柴田勝家の与力武将として双璧を為すのが馬廻衆から黒母衣衆(くろほろしゅう)、そして大名に出世した佐々成政である。
織田信長は、千五百七十五年(天正三年)に越前を制圧し、その北陸方面の軍団長とし筆頭家老の柴田勝家を置き与力として佐々成政・前田利家・不破光治(美濃国土豪で斉藤氏から織田氏に仕えた)の三人(府中三人衆)に越前府中三万三千石を共同で与え、一万一千石の大名格と成った佐々成政は小丸城を築いて居城とした。
北陸方面・柴田勝家の与力とは言え佐々成政・前田利家・不破光治の府中三人衆はあくまでも織田信長の直臣であったから、織田軍の遊撃軍として佐々成政も石山本願寺攻めや播磨平定、荒木村重征伐などに援軍として駆り出されている。
千五百八十年(天正八年)成政は主君・織田信長に命じられ、追放されて信長の下に流れ来て仕えた元・越中富山城主の嫡男・神保長住の助勢として対一向一揆・上杉氏の最前線にある越中平定に関わる事に成る。
その越中平定の功に依り翌年に成政は越中半国を与えられ、翌年の長住失脚により一国守護として富山城に大規模な改修を加えて居城とした。
千五百八十二年(天正十年)、明智光秀が引き起こした本能寺の変の時、佐々成政(さっさなりまさ)は北陸方面の戦いに在り柴田勝家と共に上杉軍の最後の拠点魚津城を攻略に成功した。
その勝ち戦をしたばかりの成政は、変の報が届いて各将がそれぞれ領地に引き揚げた為に上杉軍の反撃に遭い、成政はその防戦で身動きが取れなかった。
柴田勝家も中国大返しを成し遂げた羽柴秀吉に先を越されて明智光秀を討たれてしまい、丹羽長秀(にわながひで)ら織田家臣団の主力の支持を秀吉に持って行かれてしまう。
羽柴秀吉の明智光秀征伐後、清洲会議に於いて柴田勝家と羽柴秀吉との織田家の実権争いが勃発すると成政は長年の与力関係から柴田方に付くが、その後起こった賤ヶ岳の戦いには上杉景勝への備えのため越中を動けず、叔父の佐々平左衛門に兵六百を与えて援軍を出すに止まった。
柴田勝家が越前・北庄城敗死し、秀吉方に寝返った前田利家と上杉家の勢力に挟まれた佐々成政は娘を人質に出して剃髪する事で秀吉に降伏し、秀吉から越中一国を安堵されている。
この越中一国安堵は、秀吉にして見れば過ぐる日の金ヶ崎の退き口での殿(しんがり)働きの折の「助勢の借り」を成政に返した積りかも知れない。
この時信長は、四国方面に我が子・神戸(織田)信孝を、四国で伸張著しい長宗我部との戦闘に、副将として家老の丹羽長秀を付けて送り出す準備をさせている。
長宗我部氏の本姓は秦の始皇帝を祖とする「秦河勝(はたかわかつ)」の血筋と伝わる秦氏である。
土佐は伊豆半島から移って来た賀茂系の伊豆神社が多い所であるから、この秦氏の存在は符合する。
「土佐国式社考」で伊豆田神社の伝承を著した谷重遠(秦山)は岡豊八幡の神職の三男として生まれたが、土佐・岡豊は戦国期に四国の大半を制した長宗我部氏の本拠地であり、長宗我部元親の忠臣・谷忠澄(たにただすみ)は「元は土佐国の神官で在った。
それが、長宗我部元親に見出されて家臣となり、主に外交方面で活躍した」とされる所から、谷忠澄(たにただすみ)の末裔が江戸末期の学者・谷重遠(秦山)だろうと推測される。
長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)の生まれは、織田信長より五歳遅い千五百三十九年(天文八年)で、長宗我部氏第十九代当主で土佐の国人領主・長宗我部国親の長男として岡豊城で生まれる。
長宗我部元親の初陣は遅く、千五百六十年(永禄三年)の織田信長が今川義元を桶狭間の戦いで破った二日後、元親・二十二歳の時に土佐郡朝倉城主の本山氏を攻めた長浜の戦いに於いて初陣、「自ら槍を持って突撃する」と言う勇猛さを見せたが、翌月父の国親が急死した為家督を相続して第二十代当主となる。
二年後の千五百六十二年(永禄五年)に元親は土佐国司で幡田郡中村城を中心に影響力を持ち中村御所と呼ばれていた公家大名一条氏と同盟し、再び朝倉城攻めを行う。
千五百六十三年(永禄五年)、元親は母が美濃・斎藤氏の娘だった縁で、斎藤氏から正室(石谷光政の娘で斎藤利三の異父妹)を迎える。
五年後の千五百六十八年(永禄十一年)に元親は宿敵の本山氏、翌年には東土佐の安芸郡を支配する安芸国虎を八流の戦いで滅ぼした。
千五百七十一年(元亀二年)に成ると、元親は一条氏の家臣・津野氏を滅ぼして三男の親忠を養子として送り込み、三年後に一条氏の当主一条兼定を追放して土佐をほぼ制圧に漕ぎ着けている。
元親は土佐統一後、その勢力を広める為に中央で統一事業「天下布武」を進めていた織田信長と同盟を結び、畿内から阿波・讃岐に掛けて勢力を持つ三好氏の阿波や讃岐、そして伊予へ侵攻して行く。
やがて三好氏が織田信長に敗れて衰退し、讃岐(さぬきの)の十河存保(そごうまさやす)や阿波の三好康長ら三好氏の生き残りによる抵抗が在ったが阿波・讃岐方面への侵攻が進んで千五百七十八年(天正六年)には次男の親和を讃岐の有力豪族・香川氏の養子として送り込み、二年後には阿波・讃岐両国をほぼ制圧した。
長宗我部元親が阿波・讃岐両国をほぼ制圧した千五百八十年(天正八年)、信長は元親の四国統一を良しとせず、土佐と阿波の所領安堵のみを認めて臣従するよう迫るが元親がこれを拒絶した。
その為、信長の助力を得た十河存保らの反攻を受けるなど信長と敵対関係になり、千五百八十二年(天正十年)には信長の三男・神戸信孝を総大将とした四国征伐軍が編成されるなどの危機が迫った。
そこに明智光秀が信長を急襲した本能寺の変が起こり、信長の自刃で信孝は征伐軍を解体して撤退し、明智討伐に向かったので元親は危機を脱した。
西国方面を担当していた羽柴秀吉は、難敵・毛利氏と対峙していた。
毛利氏に関しては、その中興の歴史と毛利両川(もうりりょうせん)体制を説明して置かないと、何故力を着けて中国地方を制覇する戦国大名に伸し上がったのかの説明が着かない。
中国地方を制した毛利元就(もうりもとなり)が家督を継いだ時、毛利氏は安芸国の一介の国人領主に過ぎなかったが、一応安芸国人領主の盟主的な役割を担っていた。
そして周囲には、周防国を本拠とする守護大名から戦国大名に成長した周防・大内氏や出雲国の支配権を奪取し山陰地方に勢力を伸ばした出雲・尼子氏(あまごし)が備前国まで手を伸ばし始めた圧力が在った。
この分では安芸国は大内氏や尼子氏(あまごし)に蹂躙されると恐れた毛利元就は、安芸国人領主の結束を訴え腐心するが当時の毛利氏は安芸国の国人領主の盟主的な地位に在ったものの、彼らを力づくで支配するだけの政治・軍事力は備わって居なかった。
そこで元就は謀略に拠って有力国人領主を取り込み、軍事組織と政治組織を確立して行く。
その組織が毛利両川(もうりりょうせん)体制で、元就嫡男・毛利隆元を残し毛利氏と同格の国人領主だった吉川・小早川両氏に二男・元春と三男・隆景を養子として送り込んで夫々の勢力を吸収するのに成功する。
毛利・吉川・小早川が血縁同盟をした事で力を着けた毛利元就は厳島の戦いで陶晴賢を倒し、更に大内氏を滅ぼして安芸の完全支配を確立し、中国地方制覇に乗り出して行く。
千五百五十七年(弘治三年)、毛利元就の嫡男・毛利隆元は弟達である吉川元春・小早川隆景が毛利氏の運営に参画して自分を補佐する事を条件とし家督継承を承諾する。
その際元就は、三人の実子隆元・元春・隆景に対して有名な「元就教訓状」を出し、毛利の家名を存続させる事を第一として、他名(吉川・小早川)は当座のものである事、兄弟が協力して毛利家中を守り立てる事を説いた。
これが毛利宗家を中心として吉川・小早川両氏がこれを支える「毛利両川」体制である。
以後、毛利氏当主・隆元を高齢の父・元就が後見し、吉川元春・小早川隆景がこれを補佐する三兄弟体制で臨んだ毛利氏は、尼子氏を制圧して山陽・山陰地方の大半を制圧し、隆元の早世、元就の病没後には隆元の遺児である毛利輝元を毛利氏当主として押し立てる事によって、中国地方の覇者・毛利氏の基礎を築いたのである。
しかしこの婿養子作戦がまさか豊臣秀吉に拠ってそっくり真似をされ、秀吉の正室・高台院「おね(ねね)・北政所」の甥にあたる木下秀俊(きのしたひでとし/羽柴秀俊)を小早川隆景の養子として送り込まれ、小早川氏が乗っ取られるとは夢にも思わなかったかも知れない。
この時小早川氏に送り込まれたのが、後に関が原の合戦で勝敗を分ける鍵と成った小早川秀秋(こばやかわひであき)だったのである。
東国方面には同盟軍の徳川家康が対北条勢と戦闘中。
北国方面には柴田勝家が、佐々成政・前田利家らの与力を得て対上杉勢と戦闘中。
中国方面には羽柴秀吉、対毛利兵力三万と戦闘中。
四国方面には我が子、神戸(織田)信孝、対長宗我部との戦闘に、副将として家老の丹羽長秀を付けて送り出す準備をさせている。つまり四方同時に攻めているのだ。
常識的に見て、只相手を倒すのが目的なら、これだけ強引に戦線拡大しなくても兵力を集中して攻め、一つ一つ倒した方が結果効率が良い筈だ。
そうしない所に、信長の真の目的が見え隠れして居るのである。
四方同時に攻めさしているには、信長流の読みがある。
あえて信長のミスを言うなら、この時「息子可愛さ」に、本来畿内地区の押さえ担当である丹羽(にわ)長秀を、信孝の四国攻めに付けて、近くを明智軍だけにした事か。
この一事を見る限り、信長にも肉親への愛と言う平凡さはある。
それにこの無警戒は光秀への信頼の現れであり、巷で言われる様な、信長の「光秀いじめ」が在ったなら、それほど無警戒に身近を光秀軍だけには出来ない筈だ。
これを追っていた我輩は「在り得ない」と確信する。
何故なら「本能寺の変」の原因を手っ取り早くする為、芝居の脚本書きが「手早い仕事をした」と考えるからである。
戦は、単に武器を持って討ち合うだけではない。
織田信長が四方同時攻めに羽柴秀吉を総大将として兵を差し向けた時、中国地方平定に利用しようと目を着けたのは下克上に野心満々だった備前の郷士・宇喜多直家(うきたなおいえ)だった。
宇喜多氏(うきたうじ)は、本来は浮田氏と称し備前国の武家(郷士)で、出自については古代氏族三宅氏の後裔、或いは児島高徳の子孫、さらには古代朝鮮王族の末裔などと自称しているがこれと言って定説を得がたい。
比較的に、宇喜多氏(うきたうじ)の動向が明らかと成るのは室町時代中期の宇喜多久家の頃からである。
久家の子・能家(よしいえ)の代に備前の守護・赤松氏の守護代を勤めていた浦上氏に仕え、浦上氏の赤松氏に対する下克上に加わって功績を立て、応仁の乱(応仁元年)に始まる乱世に、備前国邑久郡豊原荘(現・岡山県瀬戸内市邑久町豊原)に在った砥石城々主として一時頭角を現している。
しかし、能家(よしいえ)が島村盛実らによって暗殺され、能家(よしいえ)の子・興家(おきいえ)の代は息子の直家と共に放浪の人生を送って居た。
その宇喜多直家が成人すると天神山城主浦上宗景に仕えて祖父の敵・島村盛実を暗殺し、中山備中守や所元常を殺めるなどして浦上氏の勢力拡大に中心的な役割を果たし、浦上家臣団の中で頭角を現すと勢いに乗って周辺を平定してその所領を自己の知行として勢力を拡大し、浦上家で随一の実力者と成って行く。
この宇喜多直家が下克上の戦国期には持って来いの人物で、織田信長や西播磨の赤松政秀と結び主君・浦上宗景を倒す兵を挙げ、失敗すると安芸の毛利氏と結ぶなどを繰り返し、とうとう備前国を領する戦国大名に伸し上がった。
その後、機内を制した織田信長の命を受けて羽柴秀吉が播磨国を平定して中国方面に進出して来ると、直家は毛利氏との同盟関係を切って信長に臣従するが、毛利氏と合戦の中に岡山城で病死し、家督を幼い八郎に譲って居る。
信長には、長年思い描いた深い意図があった。
この全方位の戦線は、裏を返せば「有力大名が、誰も京都に近付けない」と言う事で、四方への攻撃が、そのまま京都に手が出せない防衛ラインを引いた事になる。敵も見方も、「光秀軍を除いては」の事である。
光秀謀反について、信長が光秀を「虐めた」とか「見限った」とかの怨恨説や恐怖説の類を採る作者は、この畿内周辺の信長軍の配置の全貌を見て、「どう説明しよう」と言うのだ。
恐らくは江戸期に書かれた芝居の脚本や草紙本を、後の者達が「鵜呑みにしたのではないか」と思われる。
そうした推察から、やはり光秀に、「全幅の信頼を置いていた」と考えるのが普通で有る。
例えばであるが、万一にも光秀を「亡き者にしょう」と言うなら、光秀に家康の供応役をやらせている間に、光秀の軍主力に先発命令を出し、先に毛利攻めの援軍に向かわせる方が、光秀は軍事的に丸裸で余程合理的である。
ここは信長に、「織田新王朝の旗本親衛隊に明智軍が偽せられていた」と見る方が信憑性が高いのである。
もう一つ、忘れられているのか説明が付かなくて触れていないのか、本能寺急襲において不可解な問題がある。
あれだけの軍事力、斬新な思考の持ち主である織田信長が、何故易々と光秀に本能寺急襲を赦したのか?
本来、信長が光秀を警戒していたなら、一万三千の大軍が三草(みくさ)峠で進路を都方面に変更した時に、放っていただろう間諜から、第一報がもたらされなければならない筈である。
それがなかった。
では何故か、我輩の主張のごとく「光秀が織田軍団の諜報機関を完全に掌握していた」としか考えられない。
もしそうであれば、信長が全幅の信頼を置いていた証拠である。
妻を通しての、姑・妻木(勘解由)範煕(のりひろ)との縁は、光秀に影人達の絶大な信用を与えた。
雑賀は勿論、甲賀、伊賀、根来、柳生、全て元を正せば勘解由(かでの)党の草が郷士化したものである。
その光秀は、土岐源氏・明智(源)の棟梁で、盟主に担ぐには申し分ない。
信長はその光秀の影の力を、彼の能力と共に充分に知って彼を右腕に使っていた。
前の章でも記述したが、人類に「群れ組織」や「国家」と言う物が成立して以来、為政者にとって「情報の収集と情報操作、裏工作」は、権力維持に不可欠なアイテムである。
益してや戦国期は国取り合戦で、情報工作組織は存在しない方が不思議である。
どうやら織田軍団で、その任に当たっていたのが明智光秀だった。
本能寺の変の少し前、信長招待に拠る家康上洛の供応役を光秀が勤めて失敗し、信長が激怒した事が光秀謀反の根拠のように描いているが、それこそ作家の架空の話である。
この、供応役を光秀が勤めたのは史実であるが、そもそも光秀が供応役に適任だったのは、当時の諸芸能が修験の流れであり、影の仕事では諜報部門の一翼を担う立場だったからで、織田家臣団の諜報部長官だった光秀は修験芸能に気脈があり、舞も、能・狂言も彼を窓口にすれば最高の者達が呼べた。
つまり信長は、己の力を見せつける為にも、家康に最高の芸能を見せたかっただけである。
チュンチュンと、小鳥の囀(さえず)りが縁側から聞えて来る。
この季節、鳥が番(つがい)いを作る季節である。
家康上洛の供応役を勤めさせていた光秀に、織田信長が声をかけた。
「光秀、北国攻めの勝家は一向に埒(らち)が開かん。あ奴、力押しばかりで戦がまとも過ぎる。知恵は働かんのか?」
信長は、柴田勝家に命じた上杉討伐が一向に進まない事に憤慨していたのだ。
「真っ正直が勝家殿の信条でござれば、中々別の戦はできますまい。」
「それは、良う承知しておる。良う承知してはおるが・・・」
信長の登場で時代は変わりつつあったのだが、お膝元の有力家臣でさえ頑固に建前を信じるばか正直なタイプの者が居る。
勇猛果敢は織田随一の柴田勝家だが、戦は力ばかりではない。
時には策略の方が遥かに威力があるのだが、古いタイプの勝家にはそれが卑怯と映る。
不器用な人間には不器用な生き方しか出来ない。
自分を「不器用」と承知しては居ても、生き方を変えられないからこそ人間で、柴田勝家は愛すべき頑固親父だった。
もっともこの話、狙いは勝家への不満ではなく言外に光秀の器用な知恵を誉める目的だった。
ここで話題に成った柴田勝家は、越後の虎と呼ばれた上杉謙信(長尾輝虎)と戦をしていた。
上杉謙信(長尾輝虎)は、関東管領上杉氏の越後守護代を務めた桓武平氏の長尾氏の出身である。
長尾氏の家督を、兄・晴景の養子となって継いだ長尾輝虎は、主君・上杉定実の正妻の甥にあたり、のちに関東管領・上杉憲政から足利宗家の外戚・上杉氏の家督を譲られ、上杉政虎と名を変えて上杉氏が世襲する関東管領に任命され、最終的には上杉(輝虎)謙信と名乗っている。
後守護代あがりの戦国大名ではあるが、家督を譲られて越後上杉家を起こした所が、下克上の織田や浅井、朝倉などとは少し違いう。
この物語では織田信長に対抗する強敵として少しだけの登場だが、一番の謎は、桃山期以後(戦国期の終焉)の上杉家の運命である。
天下を取った豊臣秀吉は、むしろ上杉懐柔策に出て上杉景勝に羽柴姓を許して越後中納言とし、出羽国米沢に百二十万石で移封こそすれ上杉家は潰さず、上杉謙信の養子・上杉景勝を豊臣政権の五大老の一人として重く処遇している。
徳川家康も、関が原合戦直前の上杉家蜂起にも関わらず減封こそしたが上杉家は潰さなかった。
「毘沙門天の生まれ変わり」と称する上杉謙信(長尾影虎)の祟(たた)りでも恐れたのか?
早い話が上杉家は、言って見れば織田信長と戦って一度も負けた事がない。
上杉謙信と対峙した織田軍団の猛将・柴田勝家とその与力・前田利家、佐々成政、不破光治らは上杉謙信迎撃を試みるが、「手取川の戦い」で謙信に大敗を喫している。
その後も柴田勝家とその与力軍団は、上杉氏方の越中国魚津城、松倉城(富山県魚津市)を攻囲中に本能寺の変があって織田信長が横死するも、勝家は謙信の跡を継いだ上杉景勝の反撃に遭って越中国東部制圧に手間取り、京都に向う事が出来ず羽柴秀吉に遅れを取っている。
そして上杉軍団は、あの武田信玄とも互角の戦いを繰り広げて来た。
言わば「窮鼠猫を噛む」まで追い詰めれば、倒せるまでも味方が多大な損害をこうむる恐れが大で、とてもではないが「触らぬ神に祟(たた)りなし」と言う扱いだったのではないだろうか?
いずれにしても、「毘沙門天」と言う信仰を背負った上杉家は、不敗神話に彩取られて恐れられていたのである。
実子が居なかった上杉謙信(長尾輝虎)については諸説有り、女性だった説や半陰陽説などの逸話も残っている。
しかし上杉家や長尾家は名流の血統である。
血統至上主義の当時に在って、一族の棟梁(武家)が継子を得るのは命題であるから側室・妾は当然の時代で、それでも実子を為せない上杉謙信や豊臣秀吉は「男性精子に欠陥が在った」としか考えられない。
また、殿上人(高級公家)を中心とする血統至上主義社会では、特に虚弱精子劣性遺伝が進んで逆に養子を貰うのが普通の状態に成っていた。
物事には理由は必ずある。信長はタイミング(時期)を考えていた。
戦国時代で、しかもクールな織田信長である。
通常考えれば、家康と信長の仲は、本来イレギラーなものにしか見えない。
この辺りを、通常の思考では深か読みはせず、単なる「同盟関係だった」として、浅く決着してしまう。
この謎を解くには、信長一流の「先読み思考」を、後の世の人は読み取らねばならない。
徳川家を臣属化もせず、危ない橋を渡っても同盟の相手として、何故(なにゆえ)に横腹に独立した大名・家康を置いていたのかは、天才信長ならではの先読みの計算だった。
信長の計算では、皇帝になる事を目論むからには家臣の大名以外で積極的にそれを認める戦国大名が欲しい。
家臣以外の心服者が居ないと世間的に様に成らないし、身内以外の賛同者は増えない。
そのあてになる一番手が、同盟の相手・徳川家康だった。
それだからこそ、徳川家を家臣に組み入れないで「同盟の相手」として温存していた。
つまり、家康に「臣下の礼」を取らせるのは、皇帝の宣言をしてからで良かったのだ。
梅雨が終わって間も無いのに庭には背丈ほどの夏草が生い茂り、むせ返るような草息切れが香って来る。
黙って座っているだけで、汗がダラダラと流れるほど暑い夜だった。
褥(しとね)で睦合(むつみおう)た孫市が、傍らで激戦の余韻に浸っていた御国に話しかける。
「羽柴筑前、力を付けおったものよ。」
「孫市様、またそのお話ですか?羽柴様も光秀様と互角のお働きを・・・」
「うぅ〜む。御国、あの二人をぶつけたらさぞかし面白いぞ。」
「いずれそう言う時もあるや知れませぬ。」
「戦(いくさ)に備えるのが武士の心構えだが、有るとすればあのお方が亡くなる時じゃろうな。」
「あのお方とは、信長様ですか?」
「御国の感の良さも相変わらずよな。」
「感などと、どなたでも察しが着きまする。」
「信長公は、危ないお方だ。天下は取らせたくはない。」
「やはり明智様ですか?」
「いや、明智殿は表が似合わぬ。表が似合うのは徳川殿だろう。」
「孫市様は、やはり徳川様にお肩入れですか?」
「あの方なれば、無益な殺生は為すまい。」
孫市には、フツフツと高揚感が湧き上がって来ていた。
「面白い。さて、如何(いかに)に謀ろうか?」
御国が見た孫市の顔は想像通りに爽(さわ)やかで、孫市が何かを思った事は伺える。
織田信長が足利義昭を奉じて初めて都に上洛してから、既に十四年の歳月が流れていた。
この年、明智光秀は既に五十五歳の齢(よわい)を重ね、織田信長は四十九歳と人生の大きな節目を目前にし、羽柴秀吉は四十六歳の円熟期を向え、一番若い徳川家康でさえ四十歳の齢(よわい)を迎えていた。
信長の陰謀は佳境に入っていた。
光秀は、それに気が付いて戦慄した。
「今なら、お館様が都(京都)で何をなさっても誰も止められない。」
光秀は読んだ。
滞在先の丹波亀山城の天守閣で人払い、一人瞑想し、読んで、読んで、読み切った。
そして、一人天を仰いだ。
光秀の危惧した通り、信長の狙いは明白だった。
名目では、近々、信長自らが、光秀軍を擁して中国攻めの援軍に向かう事になっている。
その時が、間違いなく危ない。
恐らく信長の目論見では、光秀軍で京の朝廷、公家貴族を壊滅させる。
その間に、光秀の次に信頼を置ける秀吉軍を呼び返して周辺諸国を制圧させて、高らかに「新帝国の誕生」を宣言するつもりで居るのではないか。
まったくの新時代の幕開けである。
多分信長の事であるから、後の禍根を残さない為にも、朝廷、公家貴族の血筋を根絶やしにするまでやるだろう。
この一ヶ月、光秀は皇居の内裏と公卿達の屋敷が信長の兵に蹂躙され、炎に包まれる鮮烈な「白実夢」に悩まされていた。
「お館様、それはむごい。」
信長の試みは、「野望」と言うなら確かに野望であるが、天下を手に入れて楽しむのが信長の目的ではない。
信長にとっては、己の知力をかけて、帝位に挑む(挑戦する)事そのものが生き甲斐だった。
実力のある者が、最高の地位につく・・・極普通の発想のはずである。
しかしその価値観の発想は、この国では「禁じ手の間違い」だったのである。
この結論に達した時、光秀は信長の様に天才には成り得なかった。
権謀術策の世界で気高く生きるのは難しい事で、主君・信長の生き方も理解できる光秀故思いは揺れ動く。
とても信長の様に、すっ飛んだ発想の元に「鬼神の振る舞い」など出来ない。光秀の価値観には、捨てきれない朝廷、貴族の血が流れていたのだ。
村上源氏土岐流の血であった。
「この国では、朝廷(帝)が無くなれば、国体が維持出来ない。」
光秀はそう思っていた。
皇統が途絶える事は、「権威」の裏付けが無く成る事で「秩序」が崩壊する。
当時の日本人に取っては自ら「経験の無い恐怖」に陥る事に近かった。
長年培われた皇統中心の精神秩序を壊して、新たな秩序を構築するなど、リスクが多過ぎる話だった。
これはボタンの掛け違いで、明智光秀が解釈していた「お館様の天下布武」は、将軍としての天下取りだった。
所が、織田信長の目指した「我、天下布武」は、織田新帝国だったのである。
実は室町幕府に於いても後の江戸幕府に於いても、各地に勘解由小路系の草として根付いた郷士達は帝及び公家衆の意向を受けて密かに与力し、歴史の表面にこそ現れない帝及び公家衆と幕府との間には激しい暗闘が在った。
明智光秀は妻・煕子(ひろこ)の実家・妻木家を通して、その皇統を護持する勘解由小路系の草達の多くを使う立場で、それこそが光秀の力の源だった。
本書で何度も記述の通り神の威光を持って統治する朝廷には、武力こそなかったが大きな存在価値が在った。
民を統治する権力にはそれを公認する裏付け手段が必要で、朝廷が任命する官位がその資格証明で在る。
つまりこの国では、古くから朝廷の権威が統治権の公な認証手段で、幕府及び大名に対する官位の任命権だけは朝廷の権威を利用する公の権限として存在していたからである。
信長と光秀の思いは、すれ違っていた。
光秀は、織田信長の「天下布武」に決断を迫られたのである。
「帝の御命をお守りするは、裏切りに在らず。」
それが、朝臣・惟任日向守光秀の結論だった。
人間には、例え九割、否九割五分心酔している相手にでも譲れない、自分と言う五分がある。
そこら辺りを勘案しないで、主(あるじ)が主従関係に甘えてしまうと、百の信頼関係も一挙に失って思わぬ裏切りに合う。
しかしこれは、将たる者が臣(部下)の本質を読めなかった「主(あるじ)に至らぬ事が在った」と受け取るべきである。
今、光秀だけが誰にも話せない緊迫した状態にあった。
光秀は、ここ一月ほど、奇妙な胸騒ぎの中に居た。
押さえ切れないほど、血が騒ぐのだ。
不思議な事に、胸の内を吐露した訳でもないのに、見透かされた様に雑賀孫市から織田信長の動静が、微に入り細に渡り遂次もたらされていた。
それは、「光秀の決起を促している」としか思えない孫市の不敵な行動だった。
光秀の唯一誤算は、秀吉の「中国大返し」である。
合計三万、途中播磨の合流軍を入れて四万、その大軍が、わずか五日ほどで帰って来た。
実は、あれほど早く秀吉が帰って来るとは、計算外だった。
此処にも、天才と秀才の差があった。
光秀が、信長殺害を決意した時点ではまだ、その真意(朝廷壊滅)を信長から伝えられてはいない。
自分にでさえ直前に指示するつもりであろうから、当然、事が起こってから、秀吉も「呼び戻されるもの」と読んだのだ。
しかし、違った。
信長は、秀吉の能力を知っていた。
目的の真実を教えるのはともかく、信長は手段だけは「細かい処まで」秀吉に指示して在ったのだ。
つまり、指示があればすぐに帰れる様に、秀吉には行きがけから「要所、要所に速攻で帰れるような手配をしながら出かけるように」と、申し付けてあったのが事の真相である。
恐らくその為に、宿駅での手配など相当細かい指示までして在ったのかも知れない。
その備えなくして、秀吉が短期間で「中国大返し」を出来た理由が無い。
もしかすると、実行日に合わせて既に行動開始の予備連絡を、信長は「既に発していたのかも知れない」とさえ考えられる。
つまり信長は、本能寺到着時点で「織田新帝宣言時の畿内警備」を担当させる為に、対毛利和睦と、中国大返しを既に秀吉に「指示済みだった」のではないのか?
光秀は、信長の自分と秀吉へ評価の違いまで、読み違えて計算に入れていなかったのだ。
信長の「知略の実行」で伸し上がった秀吉である。
「大返しの真の目的」を知っていたのなら、天下掌握後、秀吉は迷わず信長の意志通り、「皇位簒奪」の行動をしただろう。
彼にとっては、それが正しい事だ。
それが無い以上、秀吉は信長の真意を何も知らされていなかったのだ。
秀吉には、竹中半兵衛・黒田勘兵衛と言う「有能な軍師が付いていた」とする江戸期の講談や読み物が残っている。
所が、実際の古文書には存在こそ書かれているが、活躍したと言う記述はない。
水戸黄門(徳川光圀)の「諸国満遊記」が、庶民の希望的要求に即した作り話であるようなもので、話を面白くする為に、後の物書きに依って「誇張された虚構」とするのが一般的である。
秀吉の才能は、常識や先入観に拠る疑問を挟まず、ひとえに織田信長の発案を信奉し実行する能力で有る。
その点で、信長にはこれ以上使い易い手駒は、他に無かったのである。
なお、竹中半兵衛に拠る主君斉藤龍興の居城「稲葉山城奪取」と黒田勘兵衛の「有岡城捕縛」は史実で有る。
ただ、知略の点で信長や光秀のレベルとは比べるべきも無い。秀吉には、別に身近な軍師がいたが、それは後ほど明らかに成る。
此処では、信長に大返しの事前の指示を受けていたのが「秀吉の幸運だった」とだけ、言っておこう。
光秀は、追い詰められていた。
信長の目論見を察知して、「いかに動くか」の決断を迫られていたのだ。
或る意味(理論的にも)、信長の発想も否定できない。
光秀的にも、基本の「軸の設定」を変えれば、信長案は正しく正解なのだ。
秀才故に、指示される前に読み切ってしまった。
それが、苦悩の原因である。
こんな時、秀吉がうらやましい。彼なら考える間もなく信長の下知に無条件で信長に従う。
「さる、是々をせよ。」
「はっ、仰せの通りに。」とまぁ、そんなものだろう。
もっとも、信長が秀吉を「さる」と呼んだ記録は何処にも無い。
信長はそれほど部下に傲慢ではない。
至って現実的な男で、時に優しさもあり、使える部下にはそれなりに接していたからこそ相手も心服する。
稀なる秀才、明智光秀には、秀吉の真似がどうしても出来ない。
だが、信長はとことん自分を信任している。
「光秀なら、多くを言わずとも解る」と踏んでいる。
信長にしてみれば、光秀にとっても「簡単な答えの筈」である。
だが、信長は読み違えた。
光秀の選択は、信長の期待とは違ったのだ。
「鬼神信長の抹殺」それが、光秀の最良の結論である。
そう決めたからには、万一、面と向かって「朝廷抹殺」を指示される状況になってはまずい。
そう成ってからでは、計算上簡単には止められないのだ。
武装した供回りに阻まれて、討ち漏らす事も有り得る。
実はこの時、同じ京の地には信長の子「嫡男・信忠」、「次男・織田信雄(おだのぶお/ のぶかつ・北畠信意/きたばたけのぶおき)」の二人、それに信長の弟・後の織田遊楽斉が妙覚寺に投宿しており、正式に出立の時にはその軍勢も合流してしまう。
今、信長は「天下布武」大願成就を前にして、本能寺に在った。
供回りは、小姓の森蘭丸長定以下馬廻など供揃えは僅かである。
その数僅か八十名とも百五十名とも言われているが、いずれにしても明智方は一万三千余騎で数の上で話になら無い。
信長は、四方に軍団を侵攻させる事で、事実上強固な「結界」を張り巡らして、絶対の自信の中に居た。
嫡男の信忠達を呼び寄せたのは、世継として「新皇帝宣言」に立ち合わせる為だった。
家康も武田平定の祝宴を理由に、僅かな手勢だけで京に呼び寄せてある。
家康が本国へ指示を出す前に、事を終わらせて、新帝国を既成事実にする為だ。
光秀軍には、中国攻めの秀吉に合力(手助け)する名目で、カモフラージュさせての武装軍団の編成指示が出ていたのだ。
真の目的は信長だけが知っていた。
それも、あと一歩の所まで来ている。
これは公の事なので、光秀の部下もそのつもりでいた。
光秀は、そのままそれを口実に、軍団を動かし始めたのだ。
全て信長の計算通りに、事は運んでいた。
ただ一点光秀の心を除いては・・・・。
明智光秀が引き起こした「本能寺の変」は、見るからに雑なヤッツケ仕事である。
常に諜報畑を歩き、外様でありながらほぼ家臣団の筆頭まで上り詰めて来た光秀には、織田軍団に在って余り人気が無い事は光秀本人も自覚していて、大名達の支持が集まらない天下取りは無謀である。
つまり光秀の「本能寺の変」には、天下取りの野心も無ければその支度も無かった。
しかし、僅かな供廻り(小姓近習衆二百数十名)のみで京の都・本能寺に信長は在り、一方光秀は、純粋に子飼いの軍勢一万三千騎を率いていた。
「この機を逃せば、お館様は天子様ごと朝廷を灰燼(かいじん)と化すだろう。」
信長に拠る皇位簒奪の野望阻止には千載一遇のチャンスが巡って来て、光秀は決断した。
人間、理屈に合わなくとも心情で決断する事があり、それを理屈で読み間違える者も多い。
織田信長殺害後、天下の秀才・明智光秀が天下を掌握する積もりで在ったなら、事前に相応の手を打ち、味方を集められる周到な体制を整える筈である。
それが・・・、「天下の知将」と言われた光秀ほどの男が、ずさんにも「本能寺の変後」の事はほとんど計画しては居なかった。
それもこれも、差し迫っていた織田信長の野望阻止が精一杯で、明智光秀には「変事後の事を思案する余裕など無かった」と考えるのが妥当な所である。
信長が、いかに光秀を愛していたかもうお判りだとは思うが、此処でエピソードを一つ加える。
それは、信長が光秀と秀吉に名乗らせた官、姓名である。
信長が二人に送ったのは、重大な意味を持つ土地に縁ある名なのだ。
明智(惟任)日向守光秀、「日向の国」は、天孫降臨伝説の国である。
高千穂神社や、天岩戸神社がある神話上の日本発祥の地である。
羽柴筑前守秀吉、「筑前の国」は神武天皇の最初の都で、比売大伸(ひめのおおみかみ)がおわす宇佐神宮の押さえになる。
二つの国とも、朝廷にとってその成り立ち上もっとも重要な土地である。
まだ中国地方の毛利さえ従ってはいない段階で、九州の国名や名族名を名乗らせた処に、信長の意志がある。
これらは、新帝国成立時に「神話」を信長の織田家に繋げる為の「道具だて」に成るのが狙いだった。
ちなみに、天照大神(あまてらすおおみかみ)がおわす伊勢神宮の伊勢の国は、信長の三男、織田(神戸)信考に所領を与えている。
これ等は、偶然ではない。
朝廷の所縁(ゆかり)の地を押さえる事で、歴史の書き換えを、目論んでいた疑いがあるのだ。
神官(越前・織田神社)の出らしく、歴史を知り尽くした信長の、全国支配の戦略である。
加えて、光秀にはもう一つ「惟任(これとう)」と言う九州の名族の姓を与えている。
これは、初期の九州時代のプチ朝廷から連綿と続く名家の姓で、惟任(これとう)、惟宗(これむね)、惟住(これずみ)などがある。
正確にはこの時点で、惟任(これとう)日向守(ひゅうがのかみ)光秀が、正しい名乗りである。
名目の九州の地は、赴任するには確かに遠い。
これをもって、光秀が「地方に追いやられる危機感を抱いた」とする説もあるが、鎌倉時代の昔から、守護、地頭職は、通常中央政権に在って政務を助けていた。別に、領地の運営は身内の代理で良い。
信長が、本当に光秀を不要と感じたら遠くに追いやったりしない。
殺すか、兵力を解体の上追放する。
惟任(これとう)日向守(ひゅうがのかみ)光秀は、馴染みが少ないので、本書は明智光秀で通している。
秀吉には、姓は与えてはいない。
重臣の丹羽長秀には、惟住(これずみ)と言う、やはり九州名族の姓を与えている。
名だたる信長家臣団のトップグループで、両方もらったのは、光秀だけである。
つまり、信長の全国支配の戦略に、光秀は筆頭で組み込まれている。
中央にあって「補佐しろ」が、信長の意志であり、「新皇帝誕生」なら、光秀はさながら宰相のポストが用意されていたのだ。
織田家の本来の筆頭家老、柴田勝家の官名は、修理亮(しゅりのすけ)で、高位の官職ではあるが、地名・家名には関わりが無い。
柴田勝家については織田軍団の猛将と知られているが、微妙な所で明智光秀や羽柴秀吉とは主君・織田信長の扱いが違う。
織田家相続争いの際、弟・信行(信勝)擁立で信頼を失った勝家も、暫く干されて謹慎した後に赦されて信長の天下布武の一翼を担うようになり、次第に重用されるようになる。
勝家は越前の一向一揆平定後、越前国八郡・四十九万石、北ノ庄城(現在の福井市)を信長から与えられた。
一応の待遇だが、もしかするとこの勇猛なだけで実直過ぎて知略に欠ける武将を、信長は余り信頼していなかったのかも知れない。
まず勝家には、信長の衆道小姓上がりの前田利家、馬廻衆から黒母衣衆(くろほろしゅう)を経由してひとかどの武将に出世した佐々成政、不破光治らの与力を付けられ北陸方面軍総司令官を勤めていたが、前田、佐々、不破は属将ではあるが独立した武将で柴田勝家の家臣ではない。
織田信長が「配下の将を与力に付ける」と言う事は、勝家がさしたる有力家臣を養っていなかったか、それともその能力を疑っていたのか、真偽のほどは判らないが、越後の上杉謙信に「手取川の戦い」で上杉謙信に大敗を喫するなど、てこずっていた事は事実である。
それに比べ、明智光秀と羽柴秀吉は自前の家臣団を率いて多くの武功を次々に上げている。
ここら辺りがこの物語の指摘する所だが、つまり織田家で何代も続いた武将の柴田勝家よりも、浪人上がりの明智光秀と氏も無い羽柴秀吉には信長配下の将を与力に付ける必要が無いほどの「恐るべきコネクションが在った」と言う事である。
柴田勝家とその与力軍団は、上杉氏方の越中国魚津城、松倉城(富山県魚津市)を攻囲中に本能寺の変があって織田信長が横死するも、勝家は上杉景勝の反撃に遭って越中国東部制圧に手間取り、京都に向う事が出来ず羽柴秀吉に遅れを取っている。
残念ながら、そうした柴田勝家の総合力が後の北ノ庄城落城に結びついたのではないだろうか?
いずれ、勝家と光秀、秀吉の立場は逆転する事が伺える。
いや、実務的には既にそう成っていた。
信長新皇帝の下で宰相になるのは、間違いなく光秀である。
それを知らぬ光秀ではない。
そうなると、怨恨、ねたみ、私怨などの諸説は、考え難い。
光秀に天下取りの野望は在ったかも知れないが、それにしても本能寺の事は光秀が為したにしては無計画過ぎる。
やはり、差し迫った「何か」があった筈だ。
ちなみに惟宗(これむね)氏は「秦氏の子孫」と言われ惟宗(これむね)広言の子の惟宗(島津)忠久が、鎌倉幕府を打ち立てた源頼朝から日向国島津庄(現宮崎県都城市)の地頭に任じられ島津氏を称した。
つまり九州薩摩国・島津家が旧・惟宗(これむね)氏である。
(本能寺)
◇◆◇◆(本能寺)◆◇◆◇◆
千五百八十二年(天正十年)六月の始め、明智光秀は一万三千騎の軍勢を率いて、丹波亀山城を出立する。
一万三千騎の大軍は、三草(みくさ)越え街道を粛々(しゅくしゅく)と進んでいた。
奇妙な事に、この時畿内には光秀軍以外に、これと言う大軍勢は居なかった。
織田信長は本能寺に居た。
先程人払いをして、今は一人で庭にいた。
夏虫の声が聞こえる。
野望は漸く、信長は手が届く所に在った。
苦しい時、信長は月を見上げる。
月は僅かばかりに闇を遠ざけ、密かに安堵が訪れる。
孤高の信長には、他人には見せられない孤独がある。
「此処まで、我ながらよう来たものだ。」
立ちはだかっていた壁は、ことごとく打ち壊して、近隣に遮(さえぎ)るものは無くなっている。
「阿修羅と成りても、やらねばならぬ。」
信長には大願が目前に見えていた。
博多の豪商・島井宗室や女達を交えた茶会の後、先ほどまで森欄丸を相手に酒(ささ)をたしなみ、珍しく酔って眠気を催していた信長は、「ふぅ」と一息付いて、寝所に戻った。
「さて、この難局を如何(いかに)に謀ろうか?」
丹波路には優しい雨が降っていたが、明智光秀は馬上で手酷い憔悴感に襲われていた。
ここで打つ手を間違えば、武将人生が命取りになる。
しかし、「ここは思い切るしかない・・・」
たった一人の決断だったが、男には武人生命を賭しても為さねばならぬ時があるのだ。
粛々(しゅくしゅく)と進む軍勢のざわめき、荷駄の音、時折聞こえる軍馬の嘶き、初夏の草息切れの中、明智勢一万三千騎の向かうは西方、中国地方の大々名、毛利家攻め・・・・の筈だった。
夕刻、その軍勢が突如行き先を変えた。
光秀が、東に向きを変え、老の山(おいやま)から山崎より摂津の地を経て、京の都に着いた時は、既に明け方近くで在ったが、都はまだ覚めやらず静まり返っていた。
ふと天空を見上げると、そこには変わらぬ月があった。
光成は馬上で、思わず白みかけた月に向かって手を合わせた。
都の家並みが影を帯びて静かに佇(たたず)んでいる。
都は、信長の築いた四方攻めの結界の中で、静かに眠って居たのである。
桂川を渡った時点では、まだ藤田伝五、斎藤利三、溝尾庄兵衛、明智光春(秀満)など家中の主だった者数名が老の山峠で打ち明けられて、密かに承知しているだけだった。
光秀は無言だった。
恐ろしさはあるが、自分には生きる証がこの生き方しかない。
粛々と進む軍勢を馬上から眺めながら、やはり「それが正しい選択だろうか?」と言う自問自答の思いが、この期に及んで光秀の脳裏に浮かぶ。
狙うは、「稀代の天才」と尊敬するお館様・織田信長のお命である。
考え抜いた末の行動だったが、「お命縮めまいらせるは惜しいお方」と言う思いは拭えない光秀だった。
やっと全軍に、光秀の「信長公討ち取り」の下知が下ったのは、先陣を務めた安田作兵衛(天野源右衛門)の一隊が、「本能寺に到達した」と伝令が伝えた時だった。
ここから後戻りしても、どの道その命令違反を詰問され明智家は無事では済まない。
光秀の軍勢が、引き返せない所に達していたのである。
本能寺の所在地は、現在の位置とは違っている。
都の中央を内裏まで貫く朱雀大路から東へ七本目の油小路が、最南端の九条大路から内裏(だいり)に向かって十八本目の高辻小路と十九本目の五条坊門小路との間の交わる場所が、当時の本能寺の所在地だった。
夜明けを待つ静寂に包まれた本能寺は、石垣土塁を持ち堀一重に囲まれた小城郭の様な寺である。
その本能寺の造作が、今は何もかも黒々と静まり返っている。
確かに都は深い眠りに着いていた。
しかし、その静寂が突然破れ、古都の一角が震えた。歴史が大きく動く瞬間だった。
夜が白み始めた早朝、法華宗本能寺は一万三千の大軍に囲まれていた。大軍に囲まれては、寺の堀など一溜まりも無い。
余りにも有名で芝居がかった「敵は本能寺にあり。」は、本当に芝居じみた事を光秀が言ったか判らない。
後の人間が、劇的になる様に表現したのではないか?
思うに、時は手柄争い下克上の時代で、早々と宣言すれば、早馬で内通する者が出ないとも限らない。
増してや、部下をいたずらに興奮させては信長を取り逃がす。
完全に包囲するまでは悟られぬよう粛々と、静かに行軍するのが自然である。
ただ、これだけの大軍に包囲されれば、逃げ切れる状況にないのは確かで在った。
時の声は、包囲が完了してから上げた。
明け方、夜が白み掛けた頃、四方から時の声が上がり、時ならぬ軍馬の響きに流石の信長も寝床で目が覚めた。
「火事でも起きたか」と思った信長が布団を跳ね上げ、起き上がって部屋の外に声をかけた。
「何事じゃ。」
敵は居ない筈だった。信長が、予想だにしない容易ならざる事態だった。
「何者かに、寺を包まれてござります。」
小姓の一人が悲痛な声で答えた。
信長にとって、それは想像すらしなかった不測の事態だった。
「おのれ、いずれの手の者じゃ。小姓ども、敵の数はいかに。」
「お館様、寄せては大軍にござりますれば、防ぎ切れません。」
「何。それほどの軍勢、居る訳がない。」
信長は夜着のまま手槍を手に濡れ縁に走り出た。
慌てて、袴を身に着ける間も無かった。
「各々方、お館様をお守り致せ。退路を捜せ。」
既に森欄丸が手勢の指揮をしていた。
「退路は塞がれております。」
何処からか、悲痛な声が聞こえる。
やがて、「わー」と言う辺りを威圧する時の声が、押し包むような威圧感で、四方から上がる。乱れ飛ぶ怒号や気合と斬り合いの響き、寄せ手が迫っているらしく、既に警護の者の防戦は始まっていた。
「ドドドー」と言う無数の軍馬のヒズメの音といななき。「シュウ〜シュウ〜ン」と不気味な音を立てて降り注ぎ来る無数の矢。
「ターン・ターン」柱や板戸に刺さる矢の音。
逃げ惑う女性(にょしょう)や寺僧の悲鳴、本能寺は一瞬にして喧騒に包まれる。
やがて、「ボーン、ボーン」と言う鉄砲の音も、散見される様に聞こえ始めた。
供周りの者が物見に走る。
取り囲んだ軍勢の、そこかしこに翻(ひるがえ)っている旗印は「桔梗紋」である。
「御注進、御注進、旗印は桔梗紋・・・水色桔梗紋。」
物見の者から、声が上がる。
傍らの森欄丸が叫ぶ。
「殿、あれは惟任日向めの軍勢にござります。」
「光秀か、是非に及ばず。」
押し寄せた軍勢の旗印が桔梗紋と知って、織田信長は自らの野望が潰(つい)えた事を知った。
これは「因果応報」と言う奴で、そもそもは信長がこの国の秩序(天皇制)を壊そうとしたのだから、光秀に織田家の秩序を壊されても文句は言えない。
それにしても、天才・織田信長にとって明智光秀の謀反は思いも拠らない誤算だった。
千五百四十九年(天文十八年)、十六歳の折に帰蝶(濃姫)を妻に迎えて以来早三十一年、四十七歳になるこの齢まで知略を尽くしてここまで来たが、信長は最後の詰めに誤ったのである。
信長の「我、天下布武」は織田新帝国の野望だったが、これは天命ならば成せるものだった。
桔梗紋の旗印に囲まれた信長は、一瞬で悟っていた。
「我、天下布武は、天命にあらず。」
信長は天命を信じ、己を信じて突き進んで来た。
その総仕上げ目前で、目にしたのが「光秀の桔梗紋」だったのである。
敵味方入り乱れて「ドタドタ」と走り回る足音が聞え、気合や怒号と共に、刃(やいば)を切り結ぶ「チャリーン」と言う太刀の当たる響きもそこかしこで上がっている。
信長の決断は、自分の死に於いても早かった。瞬時に、他の選択の無い事を悟ったのである。
何かを為(な)す為には迷いは禁物で、一度抱いた信念は曲げられない。
信念を曲げ無い事は大きな力になるのだが、それにしても最初に抱く信念が間違っていては幾ら拘ってもどうにもならない。
人間の思考能力は無限大で、思考方向も無数に存在する。
にも関わらず、自らを縛ってしまうのがアンカリング効果と一貫性理論の罪の部分である。
織田信長は、己の信念を「正しい」と信じ過ぎた故に、明智光秀が「ついて来る」と信じたのである。
権力者心理に微妙に存在するのが、「己を超えられる恐怖」である。この微妙な心理が、実は有能有意の者を、無意識有意識の別無く潰す行動に出てくるのが通例である。
現代の企業でもこの辺りが微妙で、その為に、二代目、三代目が続か無い事も多々ある。
この心理に到らなかった男は一人しか居ない。
長い日本史の中でも、我輩が正確に確信出来る男は、天才・信長を於いて他に無いのである。
つまり信長絶対の自信が、裏目に出た瞬間だったのである。
それだから面白いのだが、結局の所、人生の幸不幸は運否天賦(うんぷてんぷ)で、織田信長ほどの才を持ってしても運命は個人の力の及ぶ所ではないらしい。
到底納得など出来ないが、この世に予測不可能な相手の意志が存在する以上、営々と築いた人生も設計通りに行く人間など一人も居ない事に成る。
森欄丸は稚児小姓上がりの織田信長側近である。
稚児小姓とは閨で夜伽の相手(男色)をした小姓を言い、森欄丸の前は若い頃の前田利家が稚児小姓を務めていた。
戦国期は、親兄弟息子に到るまで油断がならない。
増してや部下などは、下克上を虎視眈々と伺っているやも知れない。
大方が自分もそうして来たから、それが世の習いだった。
それ故この時代、大名は稚児小姓を愛でる習慣があったが、それは、硬い絆の元に安心できる部下の確保育成を目的とする一面を持っていた。
つまり男色は、武士と武士の約束で「身を任せ、死んでもお仕えする」と言う「誓約(うけい)」の主従関係を表す最も具体的な契りである。
稚児小姓になる方も、主君の信頼を獲得し出世が保障される所から、氏族社会の世間でもこの関係を、「さして異様なもの」とは扱われていなかった。
余談だが、こうした形態の信頼構築の心理は、何も戦国時代の主従関係における特殊な事例ではない。
井伊直政は、家康に見出され小姓(児小姓)として男色(衆道)相手として最も深く寵愛され、やがて側近として育てられた子飼いの武将である。
この時代、誓約(うけい)の概念における男色(衆道)相手の児小姓を寵愛し、最も信頼が置ける側近に育てる事は異常な事ではなかったのである。
もっとも同性同士はめずらしいだろうが、異性同士なら実は現代の上司と部下の場合でも「職場不倫」と言う形で存在し、さして珍しいものではない。
けして職場不倫をお薦めしたり肯定する訳ではなく、ただの心理分析であるが、職場不倫には、互いに不安を打ち消す手段として、奇妙な「刹那的(せつなてき)安心心理」が介在している。
つまり、古代から脈々と流れている性交を交えて信頼関係を築く「誓約(うけい)心理」が、変形して具現化されたものである。
腹心の部下を「懐刀(ふところかたな)」と言う。職場不倫にも、ある種そうした要求が働く。
基本的に「誓約(うけい)心理」が働いて関係が形成されるものであるから、ドロドロの関係になる危険を孕むにも関わらず発生する不倫には、ただの肉体的快楽目的だけではなく、相応の安心の合意に拠る人間的心理が働く。
弱肉強食のコンクリートジャングルの職場社会にあって、上司が本当に気を赦せ、信頼できる異性は肉体(性交)を赦す相手である。
部下の方も、上司が愛人なら、職場として安心できる環境が整う事になる。
そうした人間心理「誓約(うけい)」は、何千年も変わらない事を意味している。
困った事に、こうした安心心理の介在を「愛」と誤解するからドロドロの仲になる。覚めてみると、「愛なんかじゃない」と言う事に気付くのが一般的である。
織田信長の稚児小姓から岩村城五万石の大名にまで取り立てられ、本能寺で最後まで傍近くにいた森欄丸は、美濃・斉藤家の家臣から客将、家臣に納まり、近江・坂本城で討ち死にした知将森可成の三男である。
信長の男色寵愛を受け、第二世代の織田・家臣団のトップの位置にいた人物で有る。
「弓矢をこれに・・」
信長は小姓に申し付け、弓矢を取り寄せた。
弓はニ、三度つがえて寄せ手に放ったが間に合わず、小姓に持たせていた手槍を手に取ると、襲い来る明智の手の者と、切り結ぶが切りが無い、何しろ相手は雲霞のごとく夥(おびただ)しい。
それが一様に手柄首の信長を目指す。
覚悟は直ぐに決まった。
信長は、寄せ手に悪あがきする事が面倒に成ったのである。
「欄丸、これまでじゃ。」
手槍は、寄せ手に向け投げ捨てていた。
殺到して来た者が一人その槍先を胴に受けて腰からうずくまった。
小競り合いの後、「欄丸、予の首、光秀に渡してはならぬ。」と、重要な最後の知略を申し付け・・・。
「承知仕った。」と言う欄丸の声を背にして、信長は奥座敷に消えた。
ここから、瞬時に思い付いた天才の信長のトリックが始まる。
奥に退(の)いた信長は、火を放つ役目で付いて来た小姓に命じて、小姓の足軽具足に着替え、髷(まげ)は切り落として残バラに結わえ直し、口ひげの形を変え、あごひげをそり落として座敷に火を放たせ、何食わぬ顔で小姓と二人、庭の明智勢に切り込んだ。
たちまち取り囲まれて討ち取られたが、誰もその身なり風体から信長とは気が付かない。
明智勢には、逃げ遅れら軽輩が、「破れかぶれで打って出た」と見えたのである。
その簡単なトリックに、明智勢はまんまとしてやられた。
先入観とはそんなもので、身形(みなり)差ほどでもない足軽具足姿の信長の遺体は、早々とかたずけられて塀の腋に積み上げられ、下に成って判別がつかない。
光秀にとって不幸だったのは、一旦応戦に出て奥に引っ込んだ信長を、確り目撃した寄せ手の者も多かったから、明智勢の信長遺体捜索はもっぱら焼け落ちた座敷付近を主体に行なわれたのである。
相手の意表を突くから織田信長である。
「天下人の信長がそんな姑息な手段など取る訳が無い」は、凡人の先入観である。
織田信長の知略は天下人らしさではなく、最後まで「知略の信長らしく」であった筈である。
「奥座敷を護れ。お館様を明智に渡すな。」
森欄丸ら、織田家の小姓勢が最後まで奥座敷を護って討ち死にした事も、明智勢を迷わす要因だった。
「お館様は、火を放って自刃して果てた。」
信長の最後の知略を守る為に、欄丸は、奥座敷が燃え落ちるまで守り耐え、本能寺は燃え盛った。
人は思い込むと強情になる。
そして、相手の意見には聞き耳を持たない。
すると、もうどちらの言う事を「取り入れるべきか」と言うレベルではなく、非建設的な事に、相手を言い負かそうとする。
聞き入れたり、認めたりする力量がないと人は付いて来ない。
利巧な人間なら、ちゃっかり自分の物にしている。
戦国武将にこの心得がないと、三日と領国を維持できない。
まぁ、我輩に言わせると、相手を認める能力の無い人間の末路は、寂しいものになるだろう。
この時、同じ京都の妙覚寺に投宿していた信長の嫡男・織田信忠(当時美濃国主)、次男・織田信雄(おだのぶお/ のぶかつ・北畠信意/きたばたけのぶおき)、信長弟・長益(後の織田遊楽斉)の所にも信長の宿所である本能寺を明智光秀が強襲した知らせが届く。
本能寺強襲の知らせを受けた信長嫡男・織田信忠は本能寺へ救援に向かう。
だが途中で父・信長自害の知らせを受け、光秀軍が自分に向かったと知ってこれを迎撃すべく異母弟の津田源三郎(織田源三郎信房)、京都所司代・村井貞勝らと共に皇太子の居宅である二条新御所(二条城の前身)に移動して御所の主である儲君(皇太子)・誠仁親王を城の外に出して僅かな軍兵とともに篭城し、攻め寄せる明智軍に善戦するも及ばぬ事を悟って自害している。
この時織田信忠(当時美濃国主)と共に妙覚寺に居た次男・織田信雄(おだのぶお/ のぶかつ・北畠信意/きたばたけのぶおき)と信長弟・長益(後の織田遊楽斉)は明智軍の包囲を掻い潜り夫々の所領に逃げ帰り、北畠信意(織田信雄)は伊勢で兵を整えて近江土山まで進軍するが余程臆病な性格なのか明智軍と交戦する事無く所領の伊勢に戻ってしまう。
程なく中国大返しで戻って来た羽柴秀吉が山崎の合戦で明智光秀を破ると北畠信意(きたばたけのぶおき)は織田家の継承を目論んで織田姓に復帰し、清洲会議で柴田勝家に担がれて織田家相続を狙うが、羽柴秀吉に亡き信忠の嫡男・三法師君を対抗に立てられて失敗してる。
その後織田家筆頭家老の柴田勝家と羽柴秀吉との間で、千五百八十三年(天正十一年)織田信長の天下統一事業「天下布武」の実質継承権を賭けた賤ヶ岳の合戦で柴田勝家が羽柴秀吉に滅ぼされる。
それでも織田信雄(おだのぶお)は徳川家康に助勢を頼んで小牧・長久手(長湫)の戦い(こまき・ながくてのたたかい)を起こすが、やはり余程臆病な性格から戦の途中で和議をしている。
天下布武の為に鵺(ぬえ)になった織田信長ではあるが、彼が人間らしい一面を覗かせたエピソードを紹介しておく。
当時は側室(妾/めかけ)と言う形式での男女の仲が在った。
人にはそれぞれに縁(えにし)が有り、他人と言えども強い絆(きずな)に育つ事がある。
それが夫婦だったり何かの仲間だったりするのだが、生駒吉乃(いこまきつの)と言う側室は唯の妾ではない。
織田信長に愛され、織田信忠と織田信雄を生んだ「生駒吉乃(いこまきつの)」は、側室であるが正室並に扱われ信長に愛されていた。
この生駒吉乃に、「信長は母の面影を見ていたのではないか?」と、我輩は睨(にら)んでいる。
母の愛に恵まれなかった信長の愛した生駒吉乃の父親は、生駒 親正(いこまちかまさ)と言い、親正の父生駒親重(ちかしげ)は、信長の母・土田御前の兄で、土田家から生駒家に養子に入った為に姓が違うが、つまりは母方の従弟の娘が「生駒吉乃」である。
信長はこの「生駒吉乃」を頻繁に寝所に召し、特に「激しく抱いた」と言う。
この織田信長の愛妾・生駒吉乃(いこまきつの)が、日吉丸(豊臣秀吉)を信長に結び付けた張本人だった。
明智光秀の織田家仕官の伝手(つて)が正妻の濃姫(帰蝶)なら、羽柴秀吉の織田家仕官の伝手(つて)は、この愛妾・生駒吉乃(いこまきつの)である。
秀吉が織田信長に召抱えられた経緯(いきさつ)は、芝居の脚本の影響もあり、「秀吉の知恵」と面白く描かれる事が多いが、事実はもっと現実的な「縁故就職」だったのである。
生駒吉乃(いこまきつの)の生家・生駒家は、尾張国中村に在って数ヵ国と交易し、代々富裕であり諸国流浪の浪人武士を数十人も寄宿させ、養うほどの有力な豪族である。
生駒家は、平安時代初期の公卿・藤原冬嗣(史上初の摂政/藤原北家)の二男・藤原良房(ふじわらのよしふさ)が大和国・生駒の地に移り住み本拠としていたのだが、室町時代に応仁の乱が起こりその戦禍から逃れて尾張国小折の地に移住する。
生駒藤原家は、この大和国・生駒の地名から生駒姓を名乗るように成ったのだが、生駒在住時代に名乗り始めたのか、尾張に移り住んでから名乗ったのかは定かでない。
その生駒家は、秀吉と苦楽を共にし、秀吉を支え尽くしてきた木曾川並衆の頭目・蜂須賀小六(彦右衛門・正勝)やその主筋にあたる謎の棟梁(秀吉の父親)と親交が有り、蜂須賀小六は生駒家と姻戚で在った。
生駒家は藤原北家の末裔で、武を用いる氏族であるが、兼業で馬を利用し、荷物を運搬する輸送業者「馬借(ばしゃく)」を収入源にしていて「生駒」を名乗っているくらいだから、河川上の運搬輸送業者である木曾川並衆の頭目・蜂須賀小六(彦右衛門・正勝)とは業務に連携が有って当たり前である。
蜂須賀小六(彦右衛門・正勝)は、姻戚である生駒八右衛門や前野長康と親交を結び、木曾川を舞台に河川土木や河川運航に活躍した船方衆数千人の棟梁として、美濃・尾張の戦国大名勢力の双方から半ば独立した勢力を築いていた。
その小六の主筋にあたる「謎の棟梁」の嫡男が、「日吉」と名づけられた豊臣秀吉の若き頃の姿だった。
どうやら、蜂須賀小六が川筋七流の荒くれ者を一同に集め「蜂須賀党二千名」の棟梁として活躍した後ろ盾が、川並衆の「謎の棟梁」と、生駒家だったようである。
母・土田御前の面影を追う信長の生駒吉乃への思い入れは強く、その愛は吉乃付きの小者(日吉)にまで及んだ。
蜂須賀小六が生駒家と姻戚関係で有った事から、吉乃の小者として仕えるようになった「日吉」は、信長の下に側室として上がった生駒吉乃について織田家に召抱えられる道筋が開けたのである。
その「日吉(木下藤吉郎)」に従い、長じた羽柴秀吉(豊臣秀吉)に仕えた蜂須賀小六と豊臣秀吉の関係は四十年余り及び、蜂須賀家も生駒家(但し分家/本家は旗本扱い)も、四国の大名にまで上り詰めている。
織田信長(吉法師)は、その突出した才知故に母(土田御前)に愛されなかった人物である。
信長は心を開かない母に生涯心痛めながらも、母を慕っていた。
しかし、信長の思いは通じない。
その母の愛に飢えた思いが、天下布武にまい進させ、また、母方の姪(生駒吉乃)を妾(正室並の側室)にし、情を注ぐ事に成ったのである。
唯、人間は必ず何かを背負って生きる者で、何事にも代償は必要である。
何もかも上手く行ってはバランスは取れないものであるから、背負った不幸を不服に思ったら負けである。
我輩があえて言うならば、決定的なのは人間が「悲しい生き物だ」と言う事で、人間には、支配欲や被支配欲(支配されたがる)が深層心理に強く存在する。
これも人間の本質である「群れ社会」を、無意識に構成し様とする「本能」に起因するものだ。
現代でも深層心理の世界の現実として、SEXプレィに「SMの様式」が存在するのは、実は「優劣主従の関係」を確認する本能的欲求を補完する擬似行為として、支配欲や被支配欲を満足させる為にSMプレィは成立している。
権力は、冷酷非情と隣り併せに存在し、冷酷非情でなければ、強い権力者ではいられない。
言い換えれば、「S(サド)の狂気」を持ち合わせ無い人間では他人の上には立てない。
古来より「英雄色を好む」と言われているが、織田信長のように強烈な「S(サド)の狂気」を持ち合わせている冷酷非情な人間のみが他人の上に立てるのである。
そうした意味では、天才的狂気が信長をして天下取り(天下布武)に走らせたのは確かである。
何かを為(な)す為には迷いは禁物で、一度抱いた信念は曲げられない。
信念を曲げ無い事は大きな力になるのだが、それにしても最初に抱く信念が世間と間違っていては幾ら拘ってもどうにもならない。
だから生きる事が面白いのかも知れないが人間誰しも先の事は闇で、その一瞬の他人が仕掛けた思いも拠らぬ事で人生多かれ少なかれ変わるってしまう。
元々人間の一生などアクシデントの連続で、計画的に思い通に全て上手く行く人生などある訳がない。
信長の仕掛けた「天下布武」は、孤軍奮闘の果て脈々と続いた血統主義に敗れたのだ。
僅か二刻余りで信長の近習はことごとく討ち死にし、昼前には光秀が焼け跡で信長の遺体を捜していた。
既に喚声も、打ち合う剣の響きも無い。
時折、指揮する武将のいらだつ声が聞こえて来る。
光秀は、「全ての残骸を掘り起こしてでも捜せ」と命じてある。
しかし散々に捜したが、信長の遺体は見つからず、光秀は戦慄を覚えた。
「万一、お館様を討ち漏らしていたら・・・。」
悪い予感がした。
「捜せー、まだ見つからんか。」
手の者を総動員し、必死で捜させたが徒労に終わり、光秀は二千ほどの兵を京の都と朝廷の守備に残し安土に向かう事にした。
光秀が安堵したのは、三日後の六月五日に信長の居城、安土城に乗り込んでからだった。
城は「もぬけの空」で在った。
「やはり・・・、終わっていた。」
ここで初めて、光秀は「信長自刃」の確信を持ったのだ。皮肉な事に、稀代の天才は最も愛した男の手に拠って、あっけなく生涯を閉じたので有る。
この三日は、無駄に近い。
信長の死に自信が持てず、防御体制の構築に力が注げなかったのだ。勿論、何もやらなかった訳ではない。
ただ、近隣の諸将を味方に引き入れ様にも、信長自害の証拠がない。
遺骸が、焼失してしまったのだ。
相手も、「信長、恐ろし〜ぃや」の呪縛にはまって、信長生死に疑心暗鬼なのだ。
諸将の日頃の信長に対する恐怖は計り知れない。
それで大半が、日和見(ひよりみ)をしていた。
そんな訳で光秀は、本能寺以後も盟友の娘婿の細川藤孝や盟友の筒井順慶らさえも味方にできず後手に回ったままだった。
天才信長の最後の知略に、光秀は嵌まった。
信長には、本能寺を囲まれた最初から秀吉の中国攻めからの「大返し」が読めていたのだ。
「何、お館様が光秀に、よぉし、都に戻るぞ。」
秀吉にしてみれば、ライバル光秀を討つ絶好のチャンスだった。
大義名分が立ち、別の諸将を味方に引き入れ易い。
その時秀吉は、備中高松城(城主清水宗治)を水攻めで追い詰めていた。
しかし「信長討たれる」の報を聞き、急遽、毛利方と和議を結び、当時居城だった姫路に戻る。
「光秀は、余が討たねばならぬ。」
秀吉は、信長の「天下布武」を継ぐのは自分だと自負していた。
姫路で体制を整え、京に向かったのだ。
実は、この毛利勢が秀吉との和議締結の時点で「信長の自刃を知らなかった」と言う話には裏があるのだが、その話しは追々次の章で明らかにする。
中国遠征の最中に本能寺の変の知らせを受けて、人生が変わったのは羽柴秀吉ばかりではない。
幼少ながら秀吉に与力していた備前の戦国大名・宇喜多八郎(後の秀家)の運命も突然変わった。
宇喜多秀家(うきたひでいえ)は、備前国の武家(郷士)宇喜多氏(うきたうじ)の嫡流・宇喜多直家の次男に生まれ、凄まじい下克上で備前一国を手に入れた父・直家の病没に伴い、まだ元服前の幼少ながら八郎(秀家)は戸川秀安や長船貞親ら直家以来の重臣に補佐され家督を継いだ。
織田信長の計らいにより本領を安堵され八郎(秀家)が家督を継いだ時、織田軍団の羽柴秀吉(豊臣秀吉)は信長の命令に拠って中国遠征の最中だった為に宇喜多軍は秀吉の遠征軍に組み込まれ、叔父の宇喜多忠家が代理で軍を率いて秀吉に拠る備中高松城攻めに協力している。
そこに宇喜多家としては幸運とも言える本能寺の変が起こって、信長が明智光秀に攻められて自害する。
この「本能寺の変」の為に、秀吉は中国大返しをして明智光秀を討つ事が急務となって毛利輝元と和睦する事となり、結果、宇喜多八郎(秀家)は毛利家の監視役を務める為に備中東部から美作・備前の領有を秀吉から許される棚ボタの幸運で、まだ元服前の幼名しかない幼少の内に備前岡山五十七万万四千石の大々名に伸し上がった。
それでも山崎合戦に直面した秀吉に取って毛利家の抑えを勤めた宇喜多家の功績は大きく、後に元服した際に豊臣秀吉より「秀」の字を与えられて宇喜多秀家と名乗った。
また、子に恵まれずに居た秀家は秀吉の寵愛を受けてその猶子となり、秀吉の養女(前田利家の娘)の豪姫を正室に娶って外様ながら豊臣家一門扱いを受ける事に成る。
四国征伐、九州征伐、小田原征伐に参軍した宇喜多秀家は、朝鮮に派兵した文禄の役、慶長の役では大将・監軍を勤め、帰国して秀吉から五大老の一人に任じられた。
その年に秀吉が死去し、後を追うように豊臣秀頼の後見役だった前田利家が慶長4年(1599年)に死去すると、豊臣家内で武断派の加藤清正・福島正則らと、文治派の石田三成・小西行長らとの派閥抗争が表面化し、これに乗じた五大老の徳川家康が豊臣家における影響力を強める事となる。
千六百年(慶長五年)家康が上杉景勝討伐の為に出兵している機を見計らい、石田三成は毛利輝元を盟主に担ぎ打倒家康の挙兵をする。
豊臣家一門扱いを受けていた宇喜多秀家は、西軍の副大将として石田三成、大谷吉継らとともに家康断罪の檄文を発して西軍の主力となる。
伏見城攻撃で秀家は一万七千の兵を擁して総大将として参加し、関ヶ原の戦いにおいても西軍主力として積極的に戦い、東軍の福島正則隊と激戦を繰り広げた。
しかし同じ豊臣家一門である小早川秀秋の裏切りで西軍は総崩れとなり、宇喜多隊は壊滅した。
関ヶ原の後、敗れた宇喜多秀家は伊吹山中に逃れた後、変装して薩摩の島津義弘を頼って落ち延び、牛根郷(現在の鹿児島県垂水市)に匿われたが、宇喜多家は家康に拠って改易された。
島津氏を頼った秀家だったが、「島津氏が秀家を庇護している」と言う噂が広まって困った島津義弘の子・忠恒に拠って逃亡三年後に家康の下へ身柄を引き渡される。
当然死罪と思われるも、島津忠恒や縁戚の前田利長の助命懇願により死一等を減じられて死罪は免れ、駿河国久能山へ幽閉され、その三年後に伊豆諸島・八丈島へ配流と成り現地で五十年生きて「八十三歳で没した」と伝えられている。
秀吉の「大返し」の勢いは、尋常ではなかった。
信長の「天下布武」を継ぐには、信長軍団の誰よりも早く戻らねばならない。
三万に余る大軍が、山陽道を東に、疾風のごとく駆け上る。
光秀を他の武将に討たれては、後継者の夢は叶わない。
過酷な行軍を押し通して、秀吉は畿内に戻って来た。
戦は、「兵だけ動かせば良い」と言うものではない。
実際に数万の軍勢を動かすには、食料や矢などの消耗武具から軍馬の餌(飼葉)、経路で消耗する軍資金に到るまで膨大な「荷役運輸(兵站)」が伴なう。
流石に織田信長が、その実力を認めただけの事はある。
羽柴秀吉の「荷役運輸」の実力が、光秀の想像を遥かに上廻っていた。
秀吉を織田家に推挙した生駒家と後に秀吉の臣下となる蜂須賀家の両家は、親類縁者の立場にあった。
つまり両家とも秀吉には少なからぬ縁(えにし)が有った。
その縁(えにし)が秀吉中国大返しの奇跡を生んだ輜重(しちょう)能力の秘密である。
輜重(しちょう)とは、兵站(戦闘力を維持・増進し、作戦を支援する機能・活動)を主に担当する軍の兵科目の一種である。
日本人は、基が氏族(戦人天孫族/いくさびとてんそんぞく)の発想だから、戦争(戦/いくさ)をするにあたり、往々にして直接戦わない「後方支援」の輜重(しちょう)と言うものに無関心である。
羽柴秀吉は氏族ではなかったからこそ、直接戦わない後方支援の輜重(しちょう)の重要性を承知していた。
信長だけがその秀吉軍の輜重(しちょう)能力を認識していて、いざ自らの新帝宣下(織田帝国)の際は、「真っ先に軍を畿内に返す指示を与えていた」と言う事である。
つまり氏族(戦人天孫族/いくさびとてんそんぞく)の明智光秀は、羽柴秀吉の「輸送力(輜重組織)に敗れた」と言って良い。
「筑前(羽柴秀吉)、こ度の毛利攻めには予に考えが有る。予からの報(しら)せ有らばいつでも京にとって返す備えを道々怠り無くせよ。この事、他言無用ぞ。」
「御意、怠り無く致しもうす。」
光秀も、羽柴秀吉の「輸送力(輜重組織)」に着いて多少の事は想像出来て居ただろうが、まさか「お館様(織田信長)から事前の指示が出ていた」と言う所までは読めなかったのである。
秀吉の「中国大返しの奇跡」に、光秀は、狐につままれたような想いだったであろう。
余談だが、ここで挙げた氏族(戦人天孫族/いくさびとてんそんぞく)の発想の悪癖(あくへき)、実は先の第二次大戦時まで続いて、「後方支援」の輜重(しちょう)に重きを置くよりも「精神論で戦う」と言う馬鹿げた作戦を遂行させている。
秀吉による「中国大返し」の本質を正しく評価せず、只ひたすらに強行軍で返って来たかのごとく解釈する建前発想の悪癖(あくへき)が、「秀吉大返し」の教訓を捨ててしまったのである。
日本人が共通で持つ「日本人的な意識」を前提に、それを強情に「正しい」とする前に、それを見直し「確認しないといけない事」は幾らでもあるのだ。
だが、自らの否定に繋がる事は初めから切り捨てて、中々認める方向で認識する思考には成ろうとしない。
奇跡にはそれなりの種がある。ここでその種明かしをして置く。
明智光秀も読み違えた秀吉の「中国大返しの奇跡」、実は秀吉ならではの人脈の賜物だった。
前述の通り、生駒家は藤原北家の末裔で、武を用いる氏族の出自であるが、兼業で馬を利用して荷物を運搬する輸送業者「馬借(ばしゃく)」を収入源にしていた。
その事から、河川上の運搬輸送業者である木曾川並衆の頭目・蜂須賀小六(彦右衛門・正勝)とは業務に連携が有って当たり前で、秀吉軍は兵糧部隊も含め、生駒家の協力で、中国街道筋の「馬借(ばしゃく)」が、大軍の大移動を全面支援したのである。
厳密に言うと、光秀は秀吉に敗れたのではない、信長の知略に敗れたのだ。この時秀吉軍は、姫路を発し、既に京まで後二日の距離に迫っていた。最初の段階で、光秀は信長の知略に、敗れつつあったのだ。すると、信長は光秀を侮ってはいない。
妥協を赦さぬ頑固さが、独裁者の資質かも知れないが、独裁者の晩年ほど寂しいものは無い。幾度と無く繰り返される夢の掛け違いで、「かけがえの無い者を失う」のが、独裁者の定めなのかも知れない。
思うに、信長が侮ったのは歴史の重みである。
信長のこの種の読み違いは、朝倉攻めの浅井長政の時も犯している。
信長は天才故に、自分の発想以外を否定して、結果的に「自分を侮った」のだ。
凡人相手に散々苦労しながら、「その凡人が世間の主流だと言う矛盾に、敗れた」と言って過言ではない。
皮肉な事だが、「稀代の天才」と言われるに最も相応しい男でも、死体が見つからないのだから、信長には実質的に遺骸が眠る墓が無い。
あえて言えば、それこそ信長らしいのかも知れない。
処が、これまた皮肉にも、生きている光秀には、立派な墓が出来たのだから、世の中面白い。
我輩は織田信長が、歴史の過渡期に間違いなく現れる「須佐王(スサノウ)の化身だ」と思った。
須佐王(スサノウ)は、自分の作った大和の国を、二千年以上に渡って、よみがえっては守っている。
日本の世が乱れし時、須佐王(スサノウ)の化身は必ず現れる。
しかし、かの者はこの世に留まる事はない。
役目が終わると、歴史が彼らを生かしてはおかないのだ。
悲しい事だが、壊す男須佐王(スサノウ)と後を安定させる男は役わりが決まっていて、日本の長い歴史の中で両者が交わる事は無い。
それでも後を絶たず、壊す所から始める男が現れるのは男の性(さが)と言うものだろう。
「秀吉軍近し」の報を受けた時、光秀は全てを悟った。
自分が信長の知略に敗れた事を知ったのだ。
「お館様、お見事。」
この時光秀は、既に敗戦後の次の一手を、必死で模索していた。
まだ、易々と信長に敗れる訳には行かなかったのだ。
「お館様、光秀はまだ負ける訳には行きませぬ。」と、光秀は心で叫んでいた。
これからは、「信長の亡霊」との闘いに成る。
秀吉との合戦を前にして、光秀は計算した。
兵力、従う武将達の能力、読んでも、読んでも負けである。
一瞬の決断が、その後を左右する。
「しからば、次の一手は我が死あるのみ。」此処で、「本能寺の決着を形付けてしまえ。」と、考えたのである。
光秀にとって、己の名声など何の意味も無かった。
ただ、自身の能力を確認する為に、成し遂げたい事があった。
それとて、自身が納得したいだけで、人がその成果を知る必要は無かった。
彼は、全てをあっさりと捨て去り、隠遁生活に入る事にした。
明智一族の結束が固かったのは、本拠地を失い、一族で流浪をしていたからである。
その間、一族で同じ辛酸をなめ、助け合って生き、「いずれ這い上がろう」と誓って結束していた。
そのリーダーが光秀だった。
なまじ城持ち、領地持ちなどの兄弟、従弟などは取り合うべきものが有るから返って仲が悪い。
この話、現代の何処かの金持ちの家庭の相続問題でも通じそうな話である。
日本人が、金で愛や信頼を買える様に思い始めたら、それは滅びの道である
大きく考えると、戦後直ぐの日本人は生活基盤を失い、経済的に流浪していた。
それ故、今よりは近隣に対する人情があった。
経済復興と言う目標に対する日本人の結束力も強かった。
日本人が少しずつおかしくなったのは、総体が豊かになってからで、現在の様に「格差社会の何処が悪い。」と言う政府の政策が、殊更モラルの低下を招いている。
「昔も凶悪犯罪は存在した」と言う意見も有るが、明らかに異質で、しかも発生頻度が激しくなっている。
こうした社会秩序の崩壊は、現在勝組みでほくそ笑んでいる者も、イレギラーからレギラー化しつつある犯罪に、何時巻き込まれないとも限らない危険な社会に生きる事になる。
光秀出自の辺りで登場したが、光秀には明智城の落城以来付き従う「従弟」が二人いる。
実はこの「従弟」達、この物語には欠かせない存在である。
一人は、「明智光春」、今一人は、「明智光忠」と言う。
本来の家格からすると、光春の方が明智城主家の嫡流(?)である。
これも少し複雑で、本来光秀の父光綱が長男だが、弟の光安が本家の明智城主で、その子が光春である。
光忠は、光綱の末の弟の子に当たる。
三人とも聡明だったので、光安が落城の際に年長の光秀に末を託して逃がした。
明智家は結束が固かったから離脱する事もなく、以来光秀に従っている。
年は光秀より、光忠は十八歳、光春は二十歳ほど若いが、ミニ光秀と言っても良いほど良く似ていた。
二人にとって、光秀は従弟ではあるが、育ての親そのものである。この二人の存在が、この後の物語に繋がって行く。
誰もそうは思っていないだろうが、勿論徳川家康一人で天下を取れた訳ではない。
そう、器の大きい家康を、周囲の多くの協力が天下人に押し上げたのである。
中には、影に徹した名参謀が居ても一向に不思議ではない。
唐突であるが、「徳川幕府の成立」は光秀の作品である。
厳密に言うと、光秀が引いたレールに乗っかって徳川幕府は成立した事になる。
これには、伏線がある。
天才信長の「用意周到」な、対徳川政策である。
近江・浅井家とは違い、織田と徳川には婚姻関係はない。
それで、恐らくは忠誓度を計る為に、信長が家康の長男「信康に切腹をさせた」としている。
但しこの切腹、信長の命じたものではなく、後に記述する家康出自の異説から、「家康自身が命じた」と言う疑いが濃い。
いずれにしても、「信康」の切腹は、織田信長には満足する結果である。
この家康・長男切腹によって、同時に徳川家の家康以後の世襲を、信長帝国確立後に遅らせる狙いに、充分な効果が有った。しかし、それでも安心は出来なかった。浅井家の例もある。
徳川秀忠は千五百九十八年に豊臣秀吉が没すると父・家康の命を受けて帰国、家康の名代としてまだ戦国期の残り香が漂う旧北条氏方郷士が多数残る二百数十万石と言う広大な新領国運営と守備の任に抜かりなく充たっている。
徳川家康が上方(京・大阪)に在って影響力を駆使し続け、豊臣家にプレッシャーを掛け、全国の諸将の取り込み工作を進められたのも、この地味ながら非凡な二代将軍・徳川秀忠の力量に負う所が大きい。
関ヶ原の戦いに遅参した事で武将としての評価が低い徳川秀忠であるが、天下を手中に収めた偉大なる親に対し比較凡なる二代目多い中、徳川長期政権の礎を地味に築き上げた二代将軍はけして凡庸な二代目ではない。
実はこの徳川秀忠には容易ならざる秘密が有った。
豊かな想像力が無ければ、物事を解き明かす事は出来ない。
それを邪魔する事こそ、「決まっている」と言う信長が挑み続けた既成概念で、その象徴である血統主義は、氏族が自分達有利の為に構築した「建前」である。
無論、信長の本音はそんな「建前」など屁とも思っては居なかったが、織田信長程その血統主義を冷静に利用した男は居ない。
織田信長は、密かに自問自答していた。少なくとも自分に現在の可能性が手に入ったのは「戦国領主・織田信秀の息子」と言う血統のおかげである。
しかしながら矛盾する事に、「天下布武」の完成を世に知らしめるには、この「決まっている」と言う事の元凶である「血統の価値観」は邪魔になるのだ。
そして最も対処困難な血統の価値観が、難問として織田信長の目の前に立ちはだかっていた。
信長は大胆にも、日本最大の血統の価値観・・・皇統を変えなければ「天下布武は無し得無い」と結論着けていた。
織田信長はその持論を証明する為にも、木下藤吉郎(羽柴)秀吉を可愛がって育てていた。
そして信長は、君臨する為に皇統だけでなく織田の血統以外を破壊する事も考えていた。
そこで、信長が取った二つの手段が、「奇想天外」である。
自分が最も信頼する光秀が、親代わりで育てていた「光秀の従弟」を、家康の子として押し込む事である。
「地味温厚で、父・家康に忠実律儀なだった」と言う徳川秀忠評の裏に隠された家康への思いは、織田信長の「織田家以外の血筋を途切らせる」と言う奇想天外な織田帝国構想の陰謀に端を発していたのである。
良く考えて欲しい、天下人なのだから後からでも宣言だけすれば改名は出来る筈なのに、歴代将軍の中で二代将軍秀忠だけが「家や康」の字を名前に付けていない事のその訳を。代が後になると「綱」も使うが、この頃は「康か家の文字」の筈である。
秀忠の秀は、一般的には「秀吉の秀をもらった」と言われている。
確かに幼名(それまでは長松、竹千代、長丸、長麿)を名乗っていた秀忠が元服して名を「徳川秀忠」と改めたのは豊臣秀吉の存命中であるが、元服時に名乗る名が秀忠に無いのは何故だろう?
ちなみにこの考え方、その後徳川家康が各大名家に自らの子沢山を利用して養子を入れ、嫁を入れて徳川幕藩体制を強固なものにしている。
さて、此処に秀吉さえ知らない事実がある。
光秀の従弟、光忠の事である。
光忠・・、秀忠、何か感じないだろうか?
「秀」は、明智(光秀)一統の秀だとしたら・・・。
この密約が為された時期は定かではないが、おおむね千五百六十九年(永禄十二年)頃の事である。
秀忠は、家康の三男とされている。
生まれたのは、「長兄・信康が切腹した年」とされている。
信長は家康の三男長松と年恰好の近い光忠を入れ替える様に命じ、五歳ほど若くさばを読んで押し込んだ。
知っていたのは、信長、光秀、家康と本人だけである。
この件は、使いの者を介した書状のやりとりで決まった。
相手は同盟の盟主である。
家康はこの提案の受諾を即断している。
使いに来たのが、明智光秀だった。
「織田公が望まれるなら即刻承知故、良しなにとお伝えくだされぃ。」
戦国を生き抜くには、即時の決断が必要だ。
「かしこまり申した。拙者からも光忠の事、重ねて良しなにお願い申し上げます。」
家康の快諾に、光秀は個人的にも従弟の光忠の事をくれぐれも頼んだ。
この時から、家康、光秀二人の間に既に絆が生まれていたのだ。
この織田信長の徳川家康への押し付け養子の謀略を現代人は奇異に思うのだろうが、当時の武家社会は血統と共に「氏の名跡(**家)」を重んじる社会で、名跡維持の為には実子に拘らない風潮が在った。
武家社会に於いては、養子に入って「氏の名跡(**家)」を継げば、その者はもう「自他共にその家の者」と言う約束事も確り守られていた。
応仁の乱の最中にも、その後の細川・三好の戦乱に於いても都度都度登場するが、鎌倉期から室町期、戦国期のどの時代を切り取っても有力者同士での養子のやり取りは特別な事ではなく、そしてその養子が「氏の名跡(**家)」を継承する事が普通に行われていた。
この養子入れ替えを画策した織田信長の使いで光秀が家康を訪ねた時、一人の女性(にょしょう)を伴っていた。
「いかがでござろう。実はこの女性(にょしょう)を徳川殿に献じ様と帯同いたしてござるが。」
「はて、女性(にょしょう)でござるか?」
「ぁいや、怪しい者ではござらん。それがしの縁に繋がる故この度のお礼の印に徳川殿に献じて可愛がって頂こうかと。」
光忠を預けるに際して、この女性を「家康殿に仕えさせたい」と言う。
「そこな娘、名は何と申す?」
「お久し振りでございます。お会いするのは岐阜のお城以来で、家康様はお福をお忘れに成られましたか?」
応えられて家康がその女性(にょしょう)をマジマジ見ると、およそ十四〜五の年頃で、名を「お福」と名乗って確かに見覚えが在る。
面(おもて)、容姿共に中々の美形である。
「はて、岐阜でそなたに逢っているのか。」
「ほれ、濃姫(帰蝶)様のお端(おはし)を勤めていたお安(あん)の娘子でござるよ。」
光秀は、お福が斉藤利三娘で母は稲葉一徹の娘「お安/あん」である事を家康に告げた。
そう言えば昔、濃姫(帰蝶)の傍近く、お端にこの娘に良く似た利発な娘が居たのをうろ覚えに思い出した。
「おぉ、あのお安(あん)殿の娘子か、ならば母御とはわしが信長殿の所に居った頃に何度も逢って居る。母御は確か、わしと同じ齢頃じゃッた。」
「はぃ、父の斉藤利三は光秀様の従兄弟で、父は今、母の実家稲葉家(稲葉一徹)に仕えております。」
月日が経つのは早いもので、濃姫(帰蝶)付きのお端(おはし・端女)「お安/あん」の娘が妙齢の女性(にょしょう)「お福」に成長していたのだ。
光秀は「家康殿にお預けするからには、良しなに御寵愛の程を・・」と意味深な事を言う。
お福自身も「これよりは何なりとお申し付けくださりませ」と、殊勝に挨拶をした。
それにしても男の性(さが)だから仕方が無いが、誰だってこう言う誘惑には弱いものである。
元々好色な家康である。これは、「結構な贈り物」と解釈した。
その夜、早速お福を「寝屋(ねや・寝所)」に招き入れると、これがどうして、家康を歓喜させるほどの床上手である。
お福は「歓喜法」を会得していたのだ。
暫くの間、家康の寵愛はお福に注がれる事になった。
「お福、そちのこの技何処(いずこ)で学んだ。」
家康がお福に問うと、お福は「母様より伝授された」と答え、その言われを寝物語に話し始めた。
お福の母・お安(あん)は濃姫「斉藤帰蝶」の端女(はしため)として、七〜八歳の頃美濃より尾張に付けられて来た。
信長はお安(あん)が「帰蝶」の従妹に繋がると聞くと、面白がって毎夜「夫婦(めおと)の寝屋」の殿居(とのい)をさせた。
自分達の痴態を、幼いお安(あん)に見せ付ける為である。
「お安(あん)、よ〜ぉ見て置け夫婦の交わりとはこの様にするものぞ」
幼いお安(あん)は、「帰蝶」が道三に貰った護身用の短刀一振りをしっかりと握り締め、それを見ていた。
これは、寝屋(寝所)の道具立てとしては中々の趣向で、若い夫婦は燃え上がった。
基より既成概念に囚われない信長の真骨頂で、「帰蝶」にあらゆる試みをさせるから、見守る幼いお安(あん)も自然に多くの技を知る事になった。
しかも「帰蝶」は「修験歓喜法」の名手だった。
信長は日頃からお安(あん)の事を「帰蝶」の妹代わりに可愛いがり、教養の為に習い事をさせるにも熱心だった。
寝屋の殿居は、常々「いずれお安(あん)の為に役立つ」と言っていたが、今それが娘のお福で役に立っていた。
今は小姓の「森乱丸」が、お安(あん)の後の「そのお役目を務めている」と言う。
つまり信長は、幼い頃から手塩にかけて育てた大事な女性(にょしょう)の娘を、こ度の家康の誠意に対する答礼に贈ったのである。
暫(しば)らく家康の寵愛を得ていたお福だったが、やがて転機が訪れる。
家康が関ヶ原の戦いに勝利し、天下を掌握して征夷大将軍に任じられる頃には、お福の運命が変わる事になる。
家康の勧めで嫁ぐ事に成ったのだ。
相手は、林正成(はやしまさなり)と言う武将で、実は浪人していたのだが家康がある事で恩義を感じ、その身の振り方を心に止めていた男だった。
この話の続きは、「関ヶ原の戦い」の後に段々にして行く事にする。
光忠を秀忠として迎え入れた家康は感心した。
流石、信長が見込んだ家康である。
頭の回転も、人を見る目もある。
無理に押し込まれはしたが、我が子と比べ、聡明な秀忠(光忠)に惚れ込んでしまった。
それに、秀忠(光忠)が徳川家の世継ぎである限り、内密に明智家の協力も得られる。
「おぅおぅ、中々の若者じゃ。」と、家康は目を細めた。
息子として手元に置けば、情も湧く。
その子が利発な上に、いじらしいほど家康思いに接して来る。
何よりも、秀忠の心構えが違った。
光秀に諭されての姿勢だったが、彼は徳川の家大事を全てに優先した。
そうとなれば、選択の余地はない。
何かにつけ、「秀忠、秀忠。」と可愛がった。
家康は信長の死後もこの秘密の養子を可愛がり、秀忠を名乗らせ、公称十四才で元服させて徳川家の世継ぎとした。本物の長松は、松平忠吉である。
次ぎに信長が目論だのは、家康二男・秀康(後の結城秀康・越前藩松平家の祖)を、秀吉の養子にする事である。
これは信長の生前は実現しなかった。
しかし信長亡き後、信長の意志を聞いていた秀吉が、その深い目的は知らぬままに、小牧・長久手(こまき・ながくて)の戦い後の対徳川家との講和に「信長の遺命」として実現した。
この時点では秀吉に実子はなく、豊臣家も養子取りで、秀吉の後継者に徳川の血が入る。
秀吉も、天下を掌握しつつあったが、実力者の徳川家の処遇には気を使った。
それで、小牧・長久手(長湫)の戦い(こまき・ながくてのたたかい)の後、徳川家の二男・秀康を身内に引き入れる算段を信長の発案に求めたのだ。
家康の跡取りは「光秀親代わりの従弟」、秀吉には「家康の子」、光秀には、何れかの時に「自分の孫」辺りを、跡取りに押し込む腹積もりで、いたのかもしれない。
つまり、信長は有力な配下の血筋をそれぞれ入れ替える事で血統の継続を断ち、古来の常識である「血筋主義そのものを破壊しょう」としていたのだ。
これも、「皇統の万世一系への挑戦」と言う側面を持っていたのだが、そこまでの事は秀吉の知る由もない。
日本人は、「突出する者を認めない」と言う長年培われた「横並びの感覚の慣習」の暗黙の結束の中で生きて来た。
そう、織田信長が破壊神となって生涯を掛けて挑戦した戦いの原動力が、幼少時から憎み続けた「暗黙の結束」と言うこの国独特の「横並び感覚」である。天才織田信長は、その「出る杭は打たれる」式の暗黙の結束を憎むと同時に、常人では思いつかない「正体」を知っていて破壊を試みたので有る。
徳川家康(とくがわいえやす)二男・秀康は、織田信雄・徳川家康陣営と羽柴秀吉陣営との間で行われた戦役、小牧・長久手(長湫)の戦い(こまき・ながくてのたたかい)の後、和議の証として豊臣秀吉(とよとみひでよし)の養子に出され、関東八家として鎌倉以来の名門・結城(ゆうき)氏の名跡を継いで結城(ゆうき)秀康と名乗る。
長男・信康を切腹させて失った家康が、二男・秀康を易々と秀吉の養子に出して手放した事は大きな謎であるが、この謎解きは後ほどの家康出自「系図・双子竹千代」の章で解き明かす事にする。
ちなみに、秀吉の養子となった結城(ゆうき)秀康は、本来は家康二男で、長男・信康切腹の後は徳川家の跡取りにもなれる血筋である。
しかし、豊臣家滅亡後も徳川家に復する事なく、越前(福井県)に松平家を興し、明治維新の幕臣側立役者の一人、松平春嶽(徳川御三卿・田安家からの養子ではあるが、藩の血統としては秀康の子孫)へと続いて行くのである。
この結城(ゆうき)秀康が徳川家に復さず越前松平家を起こす経緯」には、織田信長(おだのぶなが)の隠された新帝国構想に拠る意志が働いていた。
しかしながら、この信長の思考は異端であり、光秀や家康の先祖からの「氏(血統)の思想」とは合致しなかった。
この疑いを持つ根拠のひとつに、秀忠が明智光忠であれば判り易い松平と徳川の家名の使い分けの読み方がある。
家康の二男の結城秀康は豊臣家に養子に行った。
それが、秀吉亡き後起こった関ヶ原合戦には実父家康の東軍に付き、上杉軍追撃の押さえとして西軍との分断に働き、その後、徳川家康が征夷大将軍として天下の実験を握ると、加賀藩(百十九万石)、薩摩藩(七十五万石)に次ぐ六十八万石の大藩・越前福井藩主(越前松平藩)となる。
当然と言えば当然だが、本来なら、いかに一度養子に出たとは言え長男亡き後の徳川家二男で二代将軍・秀忠の兄である。
だから、それなりの処遇は当然で、「制外の家」として「別格扱いの大名」とされている。
所が、秀康の嫡男で二代藩主・松平忠直の代になると、大阪夏の陣では一番の殊勲を挙げながら恩賞は茶入れだけで忠直は不満を募らせる。
家康二男の大名家、将軍・秀忠の兄を祖とする親藩が余り大きくなるのは幕府にとっては不安要因で好ましくない。
しかし、そうした幕府の事情など、忠直は知った事ではなかった。
やがて忠直は乱行問題行動を起こし、千六百二十三年(元和九)年、豊後(大分県)に配流になってしまう。
越前福井藩(越前松平藩)の知行も五十万石に減らされ、秀康の子で忠直の弟「忠昌」が越後高田から転封して越前福井藩主(越前松平藩)を名乗る。以後減らされ続けて一時は二十五万石と三分の一近くまで減り、結局最後は三十二万石と盛時の半分以下のままで終わった。
厳密に言うと、松平春嶽はこの「秀康の子で忠直の弟・忠昌」の末裔にあたる越前福井藩主(越前松平藩)である。
加賀藩(前田百十九万石)、薩摩藩(島津七十五万石)、仙台藩(伊達六十二万石)や、後に誕生する御三家・御三卿が江戸期を通して安泰なのに比べると、不思議に奇妙な扱いである。
江戸時代、松平を名乗った大名は多数いが、家康の十一人の男子のうち、後の世にまで子孫を残すのは結城秀康、秀忠、義直(尾張家)、頼宣(紀伊家)、頼房(水戸家)の五人だけで、この中で「松平」を名乗ったのは何故か越前藩主・松平(結城)秀康だけだった。
実は秀康が越前藩主として「松平」を継いだ時には、最後まで家康本来の姓である「松平」を伝えたのが秀康の血統だけだった所にもっと重い意味の謎が隠されていたのではないか?
つまり、つまり、征夷大将軍として江戸幕府を開いた徳川家康が、本当に松平(結城)秀康の実父で在ったかどうかの疑惑である。
あるいは、二代将軍・秀忠が明智光忠であったなら、別格「松平嫡家」として家康の血筋を残すと同時に、徳川(明智)家安泰の為、不安要因としての越前松平藩を微妙に扱い続けたのではないだろうか?
後世になると、徳川本家と御三家・御三卿また松平各藩の間で養子のやり取りが頻繁になり、この徳川(明智)、徳川(松平)の血の問題は、現実的に混沌の中に消えて行った。
信長亡き後、光秀は秀吉との決戦(山崎の戦)を控えていた。
これは事実上、血統と非血統(庶民)の戦いでもあるのだが、如何にしても秀吉が強力になり過ぎた。
光秀との決戦後に、織田家の継承を旗印にする柴田勝家と、自らの天下を目指す秀吉との決戦で、賤ヶ岳の七本槍と言われる加藤、福島など出自を捏造したような非血統(庶民出や山窩衆)の武将が数多く秀吉指揮下で育っていた。
秀吉軍の強さには、当然ながらこの非血統(庶民・山窩衆)の影の支援が有ったのである。
つまり、非血統(庶民や山窩衆)の強大な組織が、信長の思惑通り形成されつつあった。
ちなみに、豊臣家の甥にあたる小早川家やこの賤ヶ岳の七本槍、福島正則家、加藤清正家、加藤嘉明家、 脇坂安治家、 平野長泰家、 糟屋武則家、片桐且元家などは、関が原の敵味方に関わり無く、脇坂氏を除く大半が、徳川政権になってから御家(おいえ)取り潰しなど苦難に遭っている。
徳川政権は、外様大名潰しの中で、明らかに非血統(庶民)大名の抹殺を謀っていたのだ。
話が戻るが、山崎合戦は天王山の戦いとも呼ばれ、中国大返しの奇跡で引き返して来た羽柴秀吉が京都へ向かう途中の摂津国(おおむね大阪府)と山城国(京都府南部)の境に位置する山崎(大阪府三島郡島本町・山崎、京都府乙訓郡・大山崎町)の地で、明智軍と激突した戦いである。
摂津衆は中川清秀・高山右近を初めとしてほとんどの諸将が秀吉に味方し、最も与力を充てにしていた娘・ガラシャ(玉姫)の婿・細川忠興とその父・細川藤孝さえ、光秀の再三に渡る支援要請にも応えず兵を出さずに傍観を決め込んでいる。
更に四国征伐の為に大坂に集結していた織田信孝・丹羽長秀らも羽柴秀吉の味方になった為、明智光秀と羽柴秀吉の山崎決戦に於いて事前の形勢は光秀には壊滅的に不利だった。
この時点で織田信長が策した徳川秀忠の存在は、光秀にとって唯一秀吉への「隠し弾」となっていた。
明智光秀の結論はすぐに出た。「家康殿と組んで、かならずや秀忠(明智光忠)に天下を取らせようぞ。」
そうとならば、この時点で光秀には目先の合戦の勝敗など既に眼中にない。
家康には親書を送り、「この戦手出し無用」と傍観を決め込むように念を押した。
こうした背景を踏まえて、光秀対秀吉の「山崎の合戦」は、「秀吉一人が鼻息荒く」始まったのである。
実は、羽柴秀吉は長年の間明智光秀に嫉妬していた。
自分が越えられない血統と才能、そして人脈の大きな壁であった。
光秀がいる間、秀吉が戦でどんなに成果を上げても織田家家中でいつも二番手に甘んじていた。
その邪魔者を、目の前から取り除くチャンスである。
明智光秀軍一万六千、羽柴秀吉軍三万八千、およそ倍以上の兵力の上に秀吉は織田信長直伝の戦上手である。
最初から苦戦の光秀は、合戦の最中、正に信長の亡霊と戦っている様な感覚に襲われていた。
「光秀、わしを乗り越えて見よ。」
信長の高笑いが、聞こえた様な気がする。
殺しこそしたが、光秀は今でも「千年に一度の天才」と信長を尊敬し、慕っている。
孫市が、手勢を引き連れて駆けつけて来た。
「流石の早業」と光秀は感心したが、孫市にすれば半分は予測の範疇(はんちゅう)で、周到に備えていたのだ。
「光秀、遂(つい)にやりおったな。」
「お館様の存念は、読めて居った。それ故の決断じゃった。」
孫市相手では話が早い。互いに説明は不要だった。
「しかし、流石(さすが)お館様がお認めに成った羽柴(後の豊臣)秀吉、あ奴の動員力は凄まじいわ。」
「いかにも、確かに侮れぬ。奴らは数に勝る。」
「己(おのれ)で切った堰だが、流れ始めた勢いは己(おのれ)で止められぬわ。」
「ならば光秀、無用な意地は棄てて生き延びろよ。」
「判って居(お)る。案ずるな。わしには最初から恥じや外聞など気にする思いは無いわ。」
「お主、明智の名に拘らぬのだな。」
「孫市、人間、棄てるを恐れるから何時までも地位にしがみ付く。棄ててしまえば恐るるものなど無いわ。」
「如何(いか)にも、身を棄ててこそ浮かぶ瀬も見えるものじゃ。なまじ面目だの面子だのと拘(こだわ)っては生き難いのぅ。」
「わしは、生き延びて新しき世を創る。これも今生めぐり合わせでわしにめぐって来た役回りじゃと思っておる。」
「で、お主は如何(いか)に致す?」
「今のままでは、わしは秀吉には勝てぬであろう。お主もいたずらに手勢を損なうは我意にあらず、折角じゃが引いてくれ。」
「では影を立てて、今後に備えるが良かろう。」
「承知した。光秀、お主の退路も俺に任せろ。」
「天台の寺にでも隠遁するか。わしは帝の臣としてのお役目を果たす為に、主(あるじ)であるお館様(信長)を殺(あや)め申した。孫市殿が申すようにもはや惟任日向守・明智光秀は棄て、天台の坊主にでも成るわ。」
「それが良い、光秀殿は天台の衆に好かれておる。それに、天台なら家康とも縁が深い。」
孫市の使いが、天台宗の総本山・比叡山・延暦寺と家康に走る。事前の体制造りは、瞬く間に決まった。
秀才光秀が達観した結論が、野望を持たない野望だった。
権力を握り、人がうらやむ立場になっても、その立場は苦労が絶えない。
それならば影人に徹して、自らの力だけを発揮してみたい。その選択が、僧籍に在っての徳川家軍師だった。
戦(いくさ)は、引き際(撤退時期)が大切である。
織田信長が越前朝倉攻めの際、妹お市の嫁ぎ先・浅井長政の裏切りに合い窮地に陥った時、或いは信長が古いタイプの武将だったら、「撤退は武門の恥じだ」と意地を張って全滅したかも知れない。
この時代、武門を中心に儒教の悪しき面、精神論の極端な傾倒・精神的ドンキホーテが見みられているのだ。
信長は即断で撤退を決めて美濃国・岐阜の居城に逃げ帰り、態勢を立て直して反撃に出ている。
合理的で自由な発想の信長に面子に拠る「べき論」は存在しない。
「味方に利有らず」なら、躊躇(ちゅちょ)無く撤退するのが織田信長の才である。
蛇足だが、この勇気ある撤退を、責任論を恐れる指導部の「己の保身」で出来なかったのが第二次世界大戦(太平洋戦争)中の日本軍で、前線将兵に多くの悲惨な犠牲を出している。
「引き際(撤退時期)の良さ」と言えば本能寺の変の後、その後の主導権を取る為の羽柴秀吉(豊臣)と柴田勝家の決断の違いが、この引き際(撤退時期)の見極めだった。
毛利勢と対峙して引き際(撤退時期)に躊躇(ちゅちょ)しなかった羽柴秀吉(豊臣)と上杉勢と対峙して引き際(撤退時期)に躊躇(ちゅちょ)した柴田勝家との両者の結果は誰でも承知している。
本能寺の変の後に羽柴秀吉(豊臣)に遅れを取り織田家臣団の主導権を失った柴田勝家は、肝心な時に上杉謙信と対峙して北陸路に釘着(くぎづ)けだったのである。
何事も長く続くと極端な傾倒傾向を見せる。
鎌倉期から始まった武士社会の儒教は、極端な精神論の傾倒を拠り所に武士の精神として敵に後ろを見せず堂々と切り合う暗黙の合意が既成概念化していた。
柴田勝家は古いタイプの武将だけに、敵の面前での撤退に際し「武士の体面(面子)・武門の恥じ」などのべき論に拘ったのかも知れない。
何しろ勝家は、「やぁやぁ我こそは〜」の古い既成概念の塊(かたまり)のような律儀な男だった。
信念と言えばそれまでだが、柴田勝家の人間像として見えて来るのは根が正直で思い込みが激しく、知略謀略は苦手な男である。
言わば勇猛だが不器用で何事にも正攻法、「腕力自慢の特攻隊長」と言う風情であるが、頼るに足る人間味は大いに在るから都合で切捨てられる戦国の世に在って勝家に従っても裏切られない点で魅力的な側面もある。
だが世間は難しいもので、馬鹿正直な戦で負けてしまっても元も子も無いのだから、人間的な魅力だけでは通用しないのは皮肉なものである。
その点、羽柴秀吉(豊臣)の方は生まれからして氏族の生まれではなく、古いタイプの武将には最も遠い男だった。
鎌倉期から始まった儒教の極端な精神論の傾倒「氏族の古い既成概念」など、その出自からして羽柴秀吉(豊臣)には最初から無かったのである。
無いからこそ、羽柴秀吉(豊臣)は「武士の本分」と言われる堂々の切り合いより、水攻めなどのユニークな戦で勝利を掴んで来た。
それもまた織田信長の望む所であったから、羽柴秀吉(豊臣)は織田軍団で重用された。
羽柴秀吉(豊臣)が、織田信長のような信念と強いリーダーシップに出会わなかったら、芽が出る前に「氏族の古い既成概念」に潰されていただろう。
ここで謎の一つだが、織田信長は何故本能寺に僅かな供廻りだけで宿泊したのだろうか?
実はこの事実さえも、明智光秀のあせりを誘ったのである。
畿内を制圧し「四方に軍を派遣した結界の中」とは言え余りにも無防備な信長の振る舞いだっが、けして増長しての事ではない。
それを敢えてした所に、信長の強い意志が有ったのだ。
この物語を最初から読んでいる方には理解され易いが、信長は既に「神」に成ろうとしていた。
安土城の天守に己の「神」を祀(まつ)った信長である。
この国の習慣では、諸国を「神の威光で統治する」には、帝は直接の武力を持たない。
周囲の武力を持った国主が帝を守るのである。
盟友の徳川家康を敢えて家臣にせず、同盟関係に置いていた所にもその周到な計画がある。
自らは皇胤貴族の血脈である平氏の末裔を名乗り、家康には武門の棟梁の血脈、清和源氏の系譜・新田氏系得川を名乗らせている。
天才・信長が夢見た織田朝の概要を憶測するに、自らが帝(皇帝)に任じ、左大臣または太政大臣に村上源氏土岐流の惟任日向守(明智)光秀、右大臣に反氏族代表の羽柴筑前守秀吉を貴族として据え、盟友の徳川家康を征夷大将軍に任じて天下を完全掌握する積りだったのではないだろうか?
結論は簡単に出せる訳ではないが、帝の臣としては光秀苦渋の選択だった。
お館様を討つのは正しい選択だろうか?
信長と言う男は千年に一度の鬼才で、本能寺の事はこの後に及んでも間違った結論かどうかは、永久に出せない結論かも知れない。
それほど惜しい男だった。
それでも人間は、生きていれば苦渋の結論を出さなければ成らない時はある。
「打つ手があるのにその手を打たないで、後悔はしたくない。」
光秀流の考え方だった。
この事がなければ光秀も違う選択をしたかも知れないが、幸い徳川家二代目は徳川秀忠(明智光忠)で明智家としての今後はこれが生かせる。
光秀がそんなだから、山崎の合戦の勝敗は勝敗は戦う前に目に見えていた。
予期した山崎の合戦の敗戦である。
土民の竹槍に影武者が討たれている間に、光秀は甥の明智光春を伴ってヒッソリと歴史の表舞台から消えた。
この時身代わりの影武者を買って出たのが、お福の父親で光秀の従弟とも腹違いの兄弟とも言われる家老の斉藤利三だった。
彼は、自らそれを買って出た。
元々近い身内で良く似ていたから、光秀の身代わりは容易で、死ぬのは覚悟の上だったから、見事な最後だった。
後になって、お福はその事を知ったが、「父上らしい御最後だ。」と、武士の娘らしく自らを納得させた。
影武者を容易にしたのは口髭(くちひげ)である。
口髭(くちひげ)は、長い事氏族(武士)の象徴だった。
この章に登場する男性の人物達が一様に口髭(くちひげ)を生やしていたのは、自分を強くたくましみせ、相手を威嚇(いかく)して武士・武将(氏族)の威厳(いげん)を保つのが目的だった。
つまり、征服部族の目的精神に合うのが、髭(ひげ)である。
従って戦国末期まで、武士は手入れの行き届いた髭(ひげ)を生やすのが常識で、髭(ひげ)の無い武士など存在しない時代で在った。
口髭(くちひげ)の相手に与える視覚的印象は強烈で、この髭(ひげ)の形状が人相の一部として武家社会と言う世間に受け入れられていた事が、実は情報戦の細工に利用される事になる。
家長制度の時代では、弟であっても家臣である。従兄弟などは尚更で、家の為に家長に尽くす。
普段身分の高い者と、その顔に良く似た「顔立ち年恰好の身内」が居る場合、口髭(くちひげ)の形状をわざと違えて、周囲が見分けられるように配慮がなされていた。
これを裏返せば、影武者の創造は「髪型と口髭(くちひげ)の形状を本物に似合わせれば出来上がり」と容易だったのである。
この時代、影武者は常道である。
光秀の影は斉藤利三が勤め、利三の影にはまた身内の従弟が勤める。
従って山崎の合戦後の利三の消息には、数通りの微妙な伝承が残されている。
犠牲は斉藤利三ばかりではない。
明智光秀の長子とされる明智 光慶(あけち みつよし)は、山崎の合戦で敗走した父光秀が討たれると、亀山城から本拠の一つ坂本城に移り立て籠もるが、中川清秀、高山重友(右近)らの攻撃に持ち堪(こ)たえる事が出来ず、城内で討ち死にした。
明智光秀(南光坊天海)は生き残る策略の為に、この長子の光慶(みつよし)を犠牲にするしかなかったのである。
光秀は本能寺の変直前の愛宕山歌会で、「時は今、あめが下しる、五月哉」と言う歌を詠んでいる。
この歌について光秀研究者の間で、「時」は「土岐」、「あめ(天=雨)が下しる」は「天下」を表わし、「土岐氏(光秀)が天下を取る事を暗示している。」とされ、光秀の心は「この時既に決まっていた」と言う説がある。
あくまでも、「歌がそう読める」と言う事で、それを証明する術は無い。
しかしこの話、最近では余りにも広がり過ぎて、定説になりつつある。
信長の美学と信念には、並大抵の事では追い付かない。
「秀吉にそこまでの力量はない」と光秀は踏んでいた。
逆らえない運命なら、「スッパリ」と諦める潔さが、光秀の策士としての力量である。
後は、面倒な織田家及び家臣団の整理を秀吉に勝手にやってもらって決着した時、徳川秀忠(実質、明智)、豊臣・結城秀康(実質・徳川)で、天下は頂戴する計画で在った。
まともな合戦では分が悪い以上、知略で対抗するしか無い。
秀吉が清洲会議で、織田信孝、柴田勝家グループを、亡き信忠の嫡男、三法師君で押し切った知恵は秀吉腹心・黒田孝高(官兵衛)の策と成っているが、実は徳川家康が秀吉に教えた。
もっとも、家康に書状で策を教えたのは他でもない光秀である。
やがて柴田勝家は、神戸信孝(信長三男)を押し立てて、秀吉討伐を試みる。
「天下は、織田家のものじゃ。秀吉に渡してなるものか。」
千五百八十二年(天正十年)の本能寺の変に拠って明智光秀に主君・織田信長を討たれた織田家臣団では、信長亡き後の家臣団内の主導権争いで跡目争いが起こっていた。
家臣筆頭の柴田勝家と明智光秀を討ち主君・織田信長の敵を取った羽柴秀吉がそれぞれ信長の遺児・織田信孝と亡き信忠の嫡男・三法師君を押して対立したのである。
清洲会議(きようすかいぎ)とは、言わば織田家の相続会議である。
天正十年、織田家当主・織田信長は京都・本能寺の変に於いて家臣の明智光秀に拠って討たれ、信長の嫡男・織田信忠も明智勢に攻められ二条城で死亡する。
織田信長を本能寺で自害させた明智光秀は中国・毛利戦線から大返しで戻って来た羽柴秀吉に山崎の戦いで討たれ、本能寺の変の決着は着いている。
その後の織田家後継者及び遺領の配分を決定する事を目的に、千五百八十二年(天正十年)六月に尾張国清洲城(愛知県清須市)で開かれた織田家重臣会議(宿老会議)を清洲会議(きようすかいぎ)と呼ぶ。
清洲会議に集まった織田家重臣(宿老)は柴田勝家、丹羽長秀、羽柴秀吉、池田恒興(いけだつねおき)の四人(四宿老)で、滝川一益は関東地方へ出陣中で欠席したとも敗戦を口実に参加を拒まれたとも言われて居る。
織田家の後継者問題では、信長の三男・織田信孝(欠席)を擁立する柴田勝家と、信長の嫡孫にあたる織田信忠の嫡男・三法師(織田秀信)を擁立する羽柴秀吉との間で対立、会議は紛糾する。
しかし三男・織田信孝を推したのは柴田勝家一人で、丹羽長秀と池田恒興(いけだつねおき)は明智光秀討伐の功労者・羽柴秀吉の推す信忠の嫡男・三法師(織田秀信)を支持した。
柴田勝家が推す織田信孝は三男の上に伊勢の神戸氏へ養子に出ていて神戸信孝を名乗っているに対し、信忠の嫡男・三法師は血統的な正統性が強い事も在って三法師が後継者として決まり、羽柴秀吉はまんまとその後見人として収まり権力を握った。
三法師を秀吉が推したのは腹心の黒田孝高(官兵衛)の策で、宿老二人(丹羽長秀と池田恒興)の支持も自薦の根回しの結果だと言われている。
明智光秀旧領の戦後処理と織田信長の領地分配などの再分配では、次男・信雄は尾張国を、三男・信孝は美濃国を相続し、信長の四男で秀吉の養子である羽柴秀勝(天正十三年丹波亀山城で病死)は明智光秀の旧領である丹波国を相続した。
家臣団の処置は、柴田勝家が越前国を安堵の上羽柴秀吉の領地である長浜を割譲され、丹羽長秀が若狭国安堵の上に近江国の二郡をそれぞれ加増され、池田恒興は摂津国から三郡(大坂・尼崎・兵庫の十二万石)を安堵され引き続き領有を認められた。
言わば山分けであるが戦国期から安土桃山の世では当然の処置だった。
新・織田家当主である三法師は近江国坂田郡と安土城を相続し、長浜を勝家に譲った羽柴秀吉には山城国が与えられた。
この清洲会議の結果、それまで重臣筆頭として最大の発言権を持っていた柴田勝家と羽柴秀吉の影響力が逆転、秀吉が重臣筆頭の地位を占めて織田家内部の勢力図が大きく塗り変えられ、その勝家と秀吉の対立が翌年の賤ヶ岳の戦いにつながり、織田家の瓦解と秀吉の天下取りへと転じて行くのである。
この後に清洲会議と呼ばれる織田家の相続会議に宿老として参加、丹羽長秀に同調した池田恒興(いけだつねおき)の生年は千五百三十六年(天文五年)で織田信長より二歳若く羽柴秀吉より一歳年長である。
池田氏の出身地に関しては尾張国、美濃国、摂津国、近江国など諸説が在り定説は無いが、恒興の母・養徳院が信長の乳母となった事から、幼少の頃から小姓として仕え、信長の乳兄弟・遊び友達として虚(うつ)け無頼な遊びに付き合っていた。
池田恒興の人生は、「織田信長とともに在った」と言っても過言ではない。
従って多くの織田家家臣が信長の弟・信行(信勝)の跡目擁立に動く中、終始一貫して信長に従い信行(信勝)の排除に功を挙げている。
信長が織田家を継承すると、恒興は前田利家の小姓衆や佐々成政ら馬廻衆よりは大身の身分の本陣要員として信長に近侍して桶狭間の戦い、美濃攻略の戦い、浅井氏・朝倉氏連合との姉川の戦いでなどで活躍し、犬山城主となり禄一万貫を与えられ、その後も甲斐の武田氏との長篠の戦いなど信長の主だった戦に参陣した。
信長の信任は厚い恒興だったが、当時の織田家には派手な戦上手がひしめいていて出世の機会に恵まれなかった恒興に、千五百八十年(天正八年)荒木村重の謀反と言う出世の機会が訪れる。
相手は音に聞こえた猛将・荒木村重だったが、池田恒興は花隈城に籠もる荒木村重を破りその旧領の内摂津有岡十二万石を領して大名の列に加わっている。
恒興が摂津有岡十二万石を領して二年後、百五十八二年(天正十年)本能寺の変で信長が家臣の明智光秀に急襲され自害すると、中国攻めから大返しで引き返した羽柴秀吉に兵四千を率いて合流、決戦と成った山崎の戦いでは右翼先鋒を務めて光秀を破り、功を認められて織田家の宿老に列する。
同年、織田家の後継を巡る清洲会議では、柴田勝家らに対抗して、秀吉とともに信長嫡孫の三法師(織田秀信)を擁立し、領地の再分配では摂津国三十八万石の内、大坂・尼崎・兵庫において十二万石を引き続き領有した。
翌年の賤ヶ岳の戦いには恒興は参戦していないが、秀吉から美濃国にて十三万石を拝領し大垣城主となる。
本能寺の変から二年、三河の徳川家康、織田信雄との小牧・長久手の戦いでは、去就が注目されたが結局は秀吉方として参戦し、緒戦で犬山城を攻略したのち、三好信吉(豊臣秀次)・森長可(恒興の娘婿)・堀秀政とともに家康の本拠三河を攻めようとしたが、合戦の前半で鞍に銃弾を受け落馬した事が災いとなり長久手にて森長可とともに戦死している。
この時、嫡男の元助も討ち死にした為、池田家の家督は次男の輝政が相続した。
清洲会議の結果は、直ぐに孫市が比叡山松禅寺やって来て南光坊(光秀)に知らせた。
「清洲の宿老会議は三法師を立て、秀吉が後見じゃそうな。」
「秀吉め、やりおったな。幼い三法師では思いのままじゃ。」
「如何にも、勝家が巻き返しを図っているが、全うな勝家では手玉に取られるのが落ちじゃて。」
「申すな孫市、これで思う壺だ。そう成ると凡その事は察しが着いて居ったが、勝家と秀吉が噛み合って居る間に家康殿が力を蓄えてくれる事を願うのみだ。」
「しかし天下を操っているのは光秀、お主やも知れんな。」
「良う申すわ、お主こそ楽しんで居ろうが。」
この清洲会議以後柴田勝家は羽柴秀吉との対立を深め、徳川家康は対立の圏外に居てその行方を見守っている。
正直、双方とも実力者で家康に取って厄介な存在であるから、「どちらか片一方が始末されるに越した事は無い」が本音だった。
この織田家相続の清洲会議の帰趨(きすう)を決めたのは丹羽長秀(にわながひで)で、織田家二番家老の席次に在った丹羽長秀に拠る宿老以外の織田家臣団説得が、その後の秀吉の天下取りにも大きく影響した。
丹羽長秀は、尾張守護職・斯波氏の家臣・丹羽長政の次男として尾張国春日井郡児玉に生まれている。
丹羽氏は元々斯波氏の家臣であったが、長秀は千五百五十年(天文十九年)から信長に仕えた。
千五百五十六年(弘治二年)に起きた、織田信長とその弟・信勝(信行)との家督争いから起きた稲生の戦いでは柴田勝家他多くの武将が弟・信勝(信行)方に付く中、丹羽長秀(にわながひで)は最初から信長方に付いて戦い、信長の信頼を勝ち取っている。
その後丹羽長秀(にわながひで)は千五百六十八年(永禄十一年)、信長が足利義昭を奉じて上洛した際、観音寺城の戦いと呼ばれる南近江の六角氏征伐や斎藤龍興との美濃における戦いで武功を挙げ織田家中で台頭して行く。
長秀(ながひで)は軍事だけではなく、政治面に於いても優れた手腕を発揮して安土城の普請奉行などを務めるなど多大な功を挙げ、信長から近江佐和山城や若狭一国を与えられ家老の席順としては柴田勝家に続く二番家老の席次が与えられ、織田家の柴田・丹羽の双璧といわれる。
そうした事から、当時「木下」姓だった豊臣秀吉が双方の字を取って「羽柴」の姓を信長に申請し、丹羽長秀にとっては柴田勝家に並び称されている証で在る為に長秀が秀吉に対し好意を持った逸話もある。
この羽柴秀吉の行為を快く思った丹羽長秀は秀吉の保護者となり、柴田勝家とは対照的にその後の秀吉の天下統一に大きく寄与する。
その後も丹羽長秀(にわながひで)は拡大する織田家中で二番家老の席次待遇を受け続けるが文官扱いで、軍事的な面では独立した軍を持つ柴田勝家・滝川一益・明智光秀・羽柴秀吉などの一段下とみなされ、知行も信長治世の末期には彼らとは大きな開きが生じていた。
本能寺の変当時、長秀は主君・信長の三男・織田信孝(神戸信孝)の四国征伐軍の副将を命じられ三好康長・蜂屋頼隆とともに四国征伐軍の出陣の支度をしていた所に出陣直前に本能寺の変が起こる。
長秀は羽柴秀吉の軍に参戦し、山崎の戦いで信孝を補佐して共に戦い明智光秀を討ち、その後の清洲会議でも柴田勝家が押す織田信雄(おだのぶお)に抗して秀吉の主張する信忠の嫡男・三法師君の織田家相続を支持し、結果として諸将が秀吉の織田家の事業継続を認める形となった。
羽柴秀吉が柴田勝家と天下統一事業「天下布武」の実質継承権を賭けた賤ヶ岳の戦いでも秀吉を援護し、戦後に若狭に加え越前の大半及び加賀二郡を与えられ約百二十三万石の有数の大々名となったがその二年後に病死している。
千五百五十八年(永禄元年)織田信長と側室の坂氏の間に信長の三男として生まれた織田信孝(おだのぶたか/神戸信孝)は、信長が伊勢国を平定に乗り出し、千五百六十八年(永禄十一年)に降伏した神戸城(三重県鈴鹿市)城主・神戸具盛の養子となる。
その後具盛が信長によって隠居させられた後の千五百七十二年(元亀三年年)、十五歳で神戸氏を継ぎ、神戸信孝(かんべのぶたか)とも称する。
伊勢国には伊勢神宮が在り、天下布武を掲げる信長としては抑えるに重要な土地だった為に、三男・信孝を伊勢の抑えに配する事は計画的だったと考えられる。
織田家臣団からは傳役として幸田彦右衛門が付けられ、岡本太郎右衛門、坂仙斎などの他かなりの侍が信孝付きと成り、また地着きの土豪・関氏一族他も与力として従っている。
神戸氏を継承から二年後、千五百七十四年(天正二年)から千五百七十四年(天正三年)に掛けて伊勢長島一向一揆や越前一向一揆が起こり、神戸信孝(かんべのぶたか)はその一揆の平定戦に参加している。
神戸信孝の率いる伊勢勢は、一向一揆平定後の紀州征伐や荒木村重討伐戦(有岡城の戦い)にも出陣している。
父・信長の天下布武構想に現実味が出て来た千五百八十二年(天正十年)、信孝は四国征伐の総司令官に任ぜられ織田氏の宿老・丹羽長秀・従兄弟の津田信澄らと共に堺にて四国渡海の準備中、明智光秀に拠る本能寺の変が勃発する。
神戸信孝(かんべのぶたか)は摂津国富田で「中国大返し」後の羽柴秀吉軍に合流、名目上の総大将として山崎の戦いに参戦し、仇である明智光秀を撃破した。
しかし戦勝後の清洲会議に於いて、信孝は父・信長の弔い合戦の総大将を勤めたにも関わらず羽柴秀吉に押し切られ織田氏の後継者は甥の三法師(兄・信忠の長男)に決まり、信孝は三法師の後見役として兄・信忠の遺領地であった美濃国を与えられ、岐阜城主となる。
その後信孝は、秀吉と対立する柴田勝家に接近し、勝家と叔母のお市の方との婚儀を仲介し、織田氏宿老格の柴田勝家・滝川一益らと結び、三法師を擁し秀吉に対して挙兵するが、この挙兵は秀吉の迅速な行動によって降伏せざるを得なくなり、人質を出して三法師を秀吉に引き渡した。
羽柴秀吉と柴田勝家の間に賤ヶ岳の戦いが起きると、信孝は柴田方に組して再度挙兵したのだが、兄・信雄(信長・二男)に拠って居城の岐阜城を包囲され、頼みの勝家も北ノ庄城で自害した為、岐阜城を開城して秀吉に降伏した。
この賤ヶ岳の戦いの戦後処理で、信孝は尾張国知多郡野間(愛知県美浜町)の大御堂寺に送られ、二十六歳の若さで自害している。
信長の敵を討った秀吉の勢力が織田家臣団の中で突出し、主家である織田家さえ蔑(ないがし)ろにし始め、それに憂慮した織田家筆頭家老の柴田勝家と羽柴秀吉との間で、千五百八十三年(天正十一年)織田信長の天下統一事業「天下布武」の実質継承権を賭けた両者は終(つ)いに近江国余呉湖畔で対陣する。
この余呉湖畔の対陣がそのまま後に世に言う「賤ヶ岳の合戦」に成るのだが、この戦いでも柴田、羽柴両者の性格や戦振りがハッキリと現れている。
実は羽柴秀吉の「再び中国大返し型」の得意戦法と柴田勝家の正攻法判断が、この賤ヶ岳の合戦の行方を決めていた。
柴田勝家の属将に、勝家の甥にあたり「鬼玄蕃」と言う異名を持つ佐久間盛政(さくまもりまさ)と言う勇猛な武将が居た。
属将と言っても柴田勝家に従って加賀国一向一揆を鎮圧、信長から加賀国一国を与えられた大名である。
この時点では、前田利家も兵五千を率いて勝家の陣営に布陣している。
両軍対陣したものの、当初は両者持久戦の構えで、中々戦端を開けずにらみ合いが続いた。
最初に動いたのは、佐久間盛政(さくまもりまさ)である。
盛政(もりまさ)の陣へ、密かに勝家の養子であったが秀吉側に寝返っていた柴田勝豊の家臣が駆け込み、総大将の秀吉が主力の軍勢を引き連れて大垣に出かけていて留守である事を内通した。
総大将不在を聞いた佐久間盛政は、「ここで優勢に戦を進めよう」と敵将・中川清秀の砦を急襲する作戦を叔父の勝家に提案した。
当初はこれに反対した勝家であったが、盛政の強い要望により妥協して「中川の砦を落としたらすぐに勝家の本陣に戻る事」と言う条件つきで承諾した。
賤ヶ岳の戦いの緒戦、中川清秀の砦の急襲作戦は見事に成功し、佐久間盛政は清秀を討ち取り砦は陥落した。
本来なら叔父・勝家に命じられた通り帰陣すべき所だが、敵の総大将・羽柴秀吉は軍勢を引き連れて「遠方の大垣に出かけ留守」と言うまたと無い勝利の機会だった。
佐久間盛政は欲を出し、この勝利を足掛かりにして「戦の勝敗を決してしまおう」と羽柴秀長の陣を討つべく準備に取り掛かっていた。
所が、この敵総大将・羽柴秀吉不在は大掛かりな罠だった。
例のごとく羽柴秀吉の軍勢は、柴田勢の常識が通じない特殊な能力を持つ軍勢である。
この機をかねてから準備して待っていた秀吉が、予定通りの強行軍で戦場に戻って来て、佐久間盛政はまんまと敵中に孤立してしまった。
ここで盛政勢の支援に回るのが前田利家の軍勢五千の筈だが、何故か前田勢は動かず合戦のたけなわで突然撤退を開始し、盛政勢と勝家の本陣の連絡が断たれ盛政勢は壊滅し結果勝家軍は秀吉軍に大敗を喫してしまう。
佐久間盛政は再起を図って加賀に落ち延びようとするが、途上、佐久間盛政は中村の郷民に捕らえられ羽柴秀吉に引き渡され処刑されている。
賤ヶ岳の戦いに勝利した秀吉方で功名をあげた武士達の内、福島正則、加藤清正、加藤嘉明、 脇坂安治、平野長泰、糟屋武則、片桐且元は後世に賤ヶ岳の七本槍(しずがたけのしちほんやり)と呼ばれる。
ただし彼らが挙げたとされる手柄は勝利が確定した後の追撃戦に拠る手柄のみであり、勝敗を決めた一番手柄も大谷吉継、石田三成らの先駆衆と呼ばれる武士達に与えられている。
また七本槍(しずがたけのしちほんやり)は後の語呂合わせで、実際に感状を得て数千石の禄を得た点では桜井佐吉、石川兵助一光も同様で、福島正則が「脇坂などと同列にされるのは迷惑だ」と言って居り、加藤清正も「七本槍」を話題にされるのをひどく嫌ったなどの逸話が伝えられている。
この戦功話、譜代の有力な家臣を持たなかった秀吉が自分の子飼いを過大に喧伝した結果とも言え、当時から「七本槍」が虚名に近いと言う認識が広まっていた。
ともあれ七本槍(しちほんやり)に名を連ねた武士達は、有力武将として後の豊臣政権に於いて大きな勢力をもったが、脇坂氏を除く大半が徳川政権になってからは御家取り潰しなど苦難に遭っている。
一方の総大将・柴田勝家は敗北して北ノ庄城へ逃れる途中、突然兵を引いて越前・府中城(武生市)に籠っていた前田利家の元に立ち寄り、これまでの利家の長年の与力の労に感謝を述べ、湯漬けを所望して「利家と別れをした」と「賤岳合戦記」に伝えられている。
その後、府中城(武生市)に籠っていた前田利家は、秀吉の使者堀秀政の勧告に従って利家は降伏し、北ノ庄城(福井市)に籠もった柴田勝家攻めの先鋒となった。
前田利家は、戦後本領を安堵されるとともに佐久間盛政の旧領・加賀の内から二郡を加増され、尾山城(のちの金沢城)に移った。
律儀者の勝家は、「織田家大事」の一念だけで立ったが、戦となれば秀吉は天才信長仕込みの発想で戦う無類の戦上手である。
そして何よりも「勝つ事」が全てで、武士としての面子に拘らず、その方法手段に迷いが無い処が、秀吉の出自を伺わせるものである。
しかし、柴田(権六)勝家は古風な男で、戦の仕方も正攻法だった。
そして諸将の大半は、計算高かった。
信長戦法の実行部隊長としていつも戦略の間近に居て、トリッキーな戦略も含めありとあらゆる戦略パターンが秀吉の頭の中に入っている。
その点、実直一途な勝家には、古いタイプの武士としての正攻法しかない。
いや元々古風な武士で、古い概念に囚われて頭が回らないのだ。
秀吉は「賎ヶ岳の決戦」で、織田信孝、柴田勝家軍を討ち破る。
勝家は、領国越前に逃げ帰り再起を図ろうとするが、前田利家の裏切りなどもあり、勝家の居城・北ノ庄城でも秀吉が圧勝する。
勝家は、妻お市(浅井の三人の娘を連れ子に、嫁に来ていた)と城を枕に討ち死にする。
浅井の娘三人は助けられ、秀吉の庇護を受ける事になる。
前述したように、前田利家は柴田勝家と羽柴秀吉(豊臣秀吉)が合見(あいまみ)えた賤ヶ岳の合戦に柴田方として兵五千を布陣していたのだが、旧交があった秀吉との関係にも苦しんで突然撤退を始め、柴田方総崩れの羽柴軍勝利を決定づける下地を作っている。
これには、羽柴秀吉(豊臣秀吉)の正室おね(ねね/北政所/高台院)と利家の正室まつ(芳春院)との懇意の間柄が、利家をして羽柴方に寝返る決意をさせたようである。
賤ヶ岳の合戦に勝利した羽柴秀吉は天下をほぼ手中にすると、前田利家に佐久間盛政の旧領・加賀の内から二郡を与え、二年後には嫡子・前田利長に越中が与えられ加賀、能登、越中の三ヵ国の大半を領地とした加賀・前田藩百三万石の大藩が成立、利家は豊臣政権の五大老の一人となる。
豊臣秀吉が病没して後、実力者・徳川家康の天下取りの野望を抑えに注力した前田利家も病で秀吉の後を追うと、前田家討伐の好機とばかりに家康により加賀征伐が検討される。
この時戦国の賢婦人と名高いまつは、夫・前田利家の没後芳春院を名乗って息子・利長を守り立て加賀藩を影に主導している。
前田家二代当主・前田利長は最初は家康と交戦する積りで城を増強したりなどしていたが、母の芳春院(まつ)が人質になる事を条件に家康を説得、加賀征伐撤回させる事に成功して、前田家当主・前田利長は家康に恭順して生き残った。
当時前田家は大藩で、家康としても事を構えれば同調者も現れる可能性まで読めば例え勝利しても厄介だった為、芳春院(まつ)の提案を受け入れたのだろう。
豊臣家五奉行の一人石田三成と五大老の一人徳川家康が対立関ヶ原の戦いが起こる。
関ヶ原の戦いに際して前田家は、長男・前田利長が東軍、次男・前田利政が西軍に分かれて生き残りを図り、東軍の勝利で前田利長が百万石を越える所領を得、分家所領を入れると約百二十万石の大藩・前田家を形成し、江戸期に唯一外様の百万石越えの藩を永らえた。
本能寺の変で危機を脱した長宗我部元親だったが、その後天下の情勢は柴田勝家と羽柴秀吉(豊臣秀吉)の賤ヶ岳の戦いへと進み、千五百八十三年(天正十一年)のこの戦いに長宗我部元親は柴田勝家と手を結んで羽柴秀吉(豊臣秀吉)と対抗する。
翌年の小牧・長久手の戦いでも、元親は織田信雄や徳川家康らと結んで秀吉に対抗し、秀吉が送り込んできた仙石秀久の軍勢を破っている。
中央で秀吉と家康の睨み合いが続く中、長宗我部元親は西園寺公広や河野通直らを降して伊予を制圧し、千五百八十五年(天正十三年)には四国全土をほぼ統一する事に成功したが、とき既に遅くその頃には畿内に於ける秀吉の覇権は確固たるものになって四国征伐の準備も整っていた。
この年、羽柴秀吉からの伊予、讃岐の返納の命令を断った為四国征伐が行われ、秀吉の弟・羽柴秀長を総大将とする十万を超える軍が派遣されると、元親は阿波・白地城を本拠に阿讃伊の海岸線沿いに防備を固める一方で、秀吉に伊予一国を割譲する事で和睦を求めたが拒絶され抗戦する。
羽柴秀吉は宇喜多秀家率いる軍勢を讃岐へ、小早川隆景・吉川元長率いる軍勢を伊予へ、羽柴秀長・羽柴秀次率いる軍勢を阿波へと同時に派遣し、長宗我部方の城を相次いで落城させて行く。
そして阿波戦線が崩壊して白地城までの道が裸に晒されると、元親は家臣・谷忠澄の言を容れて降伏し、長宗我部家は阿波・讃岐・伊予を没収され、土佐一国のみの領有を安堵された。
豊臣政権下に組み込まれた元親は秀吉の九州征伐に嫡男の信親とともに従軍し、島津氏の圧迫に苦しむ豊後・大友氏の救援に向かうが、四国勢の大将・仙石秀久は元親や十河存保らの言を容れずに島津軍の策に嵌って敗走し、この乱戦で嫡男・信親は討死をしてしまう。
その後に起こった家督継承問題では、次男の香川親和や三男の津野親忠ではなく四男の盛親に家督を譲る事を決定し、反対派の家臣であり一門でもある比江山親興、吉良親実などを粛清し、盛親への家督相続を強行している。
その後の小田原征伐、朝鮮出兵(文禄・慶長の役)にも従軍するが、秀吉が死去して政情が不安定になると徳川家康と誼(よしみ)を通じて機会を伺うが、上洛して間もなく病に倒れ、伏見屋敷で療養の甲斐無く伏見屋敷で死去している。
長宗我部家の後を四男の盛親が継いだが関ヶ原の役で西軍に与し、戦闘には加わる事無く領国の土佐に逃げ帰って家康に謝罪したが、領土没収で改易となっている。
改易浪人後に起こった大坂の陣に長宗我部盛親は招きに応じて大坂城に入ったが敗戦で逃亡、捕らえられて刑死し長宗我部氏は完全に滅亡した。
天台宗と徳川家(三河・松平家)には、実は切っても切れない関係があった。それが、天台宗の本山派(天台山伏)の存在だった。
その天台宗の僧侶として、徳川家が重用したのが南光坊・天海僧正で有る。
明智光秀は山崎の合戦後、天台宗の比叡山・延暦寺に逃れ、南光坊と名乗り隠棲する。
天台宗の祖は伝教大師 最澄で、比叡山・延暦寺は天台宗の総本山である。
京都の鬼門にあたる北東に位置する事もあり、比叡山は王城鎮護の山とされた。
その後、円仁、円珍の活躍により、密教が極められ、現在の天台宗の形が完成する。
明智光秀(南光坊・天海僧正)と徳川家康には、実は長い宗教的歴史に於いて、庶民の出自である秀吉などには、預かり知らない繋がりが在った。
そして、天海僧正は風水学などの方位に通じ、密教の諸学問を修めていた。
真言密教の本拠の一つに、高野山・根来寺がある。
根来寺は、平安末期の千百三十二年、興教大師覚鑁(こうぎょうだいしかくばん)上人が、高野山に大伝法院を建てたのが源流である。
上人は二十歳の頃に高野山に入ったが、その名声や地位が高まると、元々高野山にいた僧侶の反発を招いた。
上人は争いを避け、当時の地位を全て弟子に譲って根来の地に移り、千百四十三年に世を去った。
妙見信仰と真言宗及び天台宗の僧兵や陰陽師修験者が習合して、陰陽山伏が生成され、その教理を全国津々浦々に運んで行く。
その本拠の一つが、真言宗の根来寺であり、その僧兵から名高い根来衆が生まれた。
根来衆は「忍者」と解されているが、厳密には根来寺に本拠を置く修験道の陰陽山伏(僧兵)が正しい。
布教と、民を祟り病から救う呪詛の業、そして修験者根来衆の別の顔は、山師(鉱脈師)であり、踏鞴を用いる鉄精錬師である。
当然の事ながら、全国の情報も集って来るから、諜報能力もある。
千百二十六年(大治元年・奥州藤原清衡の没年)に建立された新義真言宗総本山・根来寺は、室町期以降に大きく発展し、戦国期には九十八院、僧坊二千七百坊、寺領七十万石、僧兵数万人となり、紀伊・和泉・河内に跨る一大勢力を誇った。
ちなみに織田信長が、尾張を平定、岐阜城を斉藤氏から攻め取った段階の尾張、美濃二ヵ国の合計が八十〜百万石程度で、当時の根来寺がいかに強大な宗教勢力で有ったかが判る。
よく知られる僧兵の根来衆は、現在の一般的なイメージの頭巾と黒(灰色)の装束の忍者姿ではなく、実際はザンバラ髪で野良着に兜や鎧を着けていた。
伊賀衆、甲賀衆、などもこの類で、平常「私は忍者です」みたいな服装をする訳は無く、彼らは普段野良仕事もする山地の国人である。
彼ら山の国人が、天台宗の本山派(天台山伏)、真言宗の当山派(真言山伏)と習合して呪術(呪詛)を含む多くの知識を駆使していた事を、後に忍術と評したのであろう。
戦国期の根来寺僧兵は、種子島から鉄砲生産の技術を得て、新兵器鉄砲をいち早く取り入れた強大な武装勢力で在った。
鉄砲の知識については、根来寺にいた杉之坊が、津田監物(けんもつ)を種子島に遣わして鉄砲を入手し、根来坂本の鍛冶師の芝辻清右衛門に「研究させて作らせた」との伝承がある。
つまり当時の渡来近代兵器「鉄砲」が、根来衆の別の顔、山師(鉱脈師)、踏鞴鉄(たたら)精錬師、鍛冶師の範疇で「国産化された」と言う訳である。
この渡来近代兵器「鉄砲および砲筒」にいち早く目を付けたのが、虚(うつ)け者(かぶき者)織田信長だった。
織田信長は、早くからこの鉄砲および砲筒の威力に目を付け、雑賀衆の本拠地、堺から鉄砲を購うと同時に、戦闘に際して「鉄砲傭兵集団・雑賀衆」をしばしば雇っている。
鉄砲が日本に渡来して日も浅かった当時、その高価な火器は、どの国の大名も多くは持っていなかった。
長年剣術の腕を磨いていた武士の中には、自らの価値の下落を恐れ、「飛び道具は卑怯だ。」と主張する保守的な武士も多く、雑賀(さいが)と根来(ねごろ)の修験山伏軍団を除けば、後はせいぜい信長の織田家ぐらいのもので在った。
その織田信長の兵でさえ、射撃の精妙さでは雑賀衆の足元にも及ばなかった。
彼ら雑賀衆は、鉄砲製造地の根来に近い関係上、鉄砲伝来当初から小銃操法に習熟し、その手腕は他の武将の鉄砲足軽に比べてずば抜けていた。
それで孫市に従う雑賀(さいが)の火力集団は、戦国大名にもてはやされた。
保守的な武士の言い分は、火力の現実の前では通用しない。
武将達の誰もが、雑賀の鉄砲の威力を求めた。事実、三千挺と言う驚異的な鉄砲で、戦国最強を謳われた武田騎馬軍団を一撃のもとに粉砕した織田信長でさえ、孫市と雑賀衆は天下布武の為に頼りにしている。
処が、織田信長が「一向宗」の総本山である 「本願寺家」 と対立、「織田家」 と 「本願寺家」 は全面戦争に突入する。
雑賀衆の地元にはこの「一向宗」の門徒(信者)が多く、一向宗 のお寺も数多く建てられており、本願寺の本拠地である 大阪(石山) にも近かった為、本願寺とは友好的な関係にあった。
その為、「雑賀(さいが)衆」 は 本願寺 の要請を受け 織田信長の軍勢と戦う事になる。
人間の運命に於いては、往々にして「利では動かぬ」と言う不利な選択をする場面に出会うものである。
「戦争請負」と言う、殺しの技術を売る事のみに生きて来た筈の雑賀衆が、その家業をかなぐり捨てる時が来る。
それは、日頃から帰依する一向念仏宗の門跡、顕如上人(けんにょしょうにん)からの「頼みまいらせる」の激文に接した瞬間からであった。
孫市と雑賀衆は、本願寺の法灯を護る為に石山本願寺へ駆けつけたのだ。
結果、孫市は最も敵にしたくない相手を敵に廻す羽目になった。
実の所、信長を敵に廻すのは狂気の沙汰に近い。
しかし、選択の余地は無い。
一向宗と言う宗教に帰依しているのは、雑賀衆の一族郎党老若男女全てだった。
ここで、本願寺に御見方せねば、雑賀衆の結束そのものを失う。
先祖代々極意として伝えられたのは、自分の自身が部下に信頼となって伝わる事を心がける事であり、それを実践したのが棟梁としての孫市流の指揮技術だった。
一向宗(いっこうしゅう)とは、他者が浄土真宗(じょうどしんしゅう)の本願寺教団を呼ぶ呼び方である。
平安時代末期から鎌倉時代初期に起こった、浄土宗(じょうどしゆう)の開祖は、浄土真宗七高僧の一人、法然(ほうねん)と言う。
法然(ほうねん)は房号で、諱(いみな)を源空(げんくう)と言う。
その法然(ほうねん)の念仏(ねんぶつ=南無阿弥陀仏/なむあみだぶつ)を唱えれば、死後平等に極楽浄土に往生できるという専修念仏の教えが、親鸞(しんらん)によって、師と仰ぐ法然の教えを一歩進め、煩悩の深い人間=悪人こそが「阿弥陀仏の救おうとする相手である」と言う悪人正機(あくにんしょうき)の教えを説き、浄土真宗(じょうどしんしゅう)に分かれていた。
一向宗(いっこうしゅう/浄土真宗・じょうどしんしゅう)は身分の上下に関わらない現世利益を謳い、庶民には理解され易かった。
しかし一向宗は、言わば庶民の宗教だったので、権力者はこれを認め難かったのだ。
すなわち、一向宗の教えが、「仏の前では皆平等」であったので、布教が広まれば「為政者の権力を否定され、政権の安定は難しい」と考えたからに違いない。
反対に、雑賀衆のような主君を持たない独立武装勢力には、支持されて当然だった。
この一向宗(いっこうしゅう/浄土真宗・じょうどしんしゅう)が戦国時代には大きな信仰勢力と成り、武装僧兵を抱え、信者の土豪武士や民衆をも味方に付けて各地で一揆を起こし、戦国大名と対峙して一定の宗教自治区を勢力下に置いていた。
中でも千四百八十八年に加賀国(現・石川県)に起こった加賀一向一揆では、加賀国の守護職・富樫政親を滅ぼして広大な宗教自治区を擁していた。
一方、天下布武を掲げる織田信長に取っては、為政者の権力を否定される一向宗(いっこうしゅう/浄土真宗(じょうどしんしゅう)の存在は邪魔なものでしかない。
それで織田信長や徳川家康も鎮圧平定に掛かるのだが、三河国一向一揆では当時の松平家臣団が門徒方と家康方に分かれるなど徳川家康は一時危機的な情況に立たされている。
織田信長もこの一向一揆(伊勢長島一揆や石山合戦)には、その一揆鎮圧に相当てこずっている。
雑賀衆も一向門徒として信長の軍勢と戦った石山合戦で、織田信長の軍勢に敗れた一向宗(いっこうしゅう/浄土真宗・じょうどしんしゅう)門徒は散り散りになり、以後組織的な武装一揆は影を潜めるが、各地に僧侶と門徒は残った。
その教義の為、一向宗(浄土真宗)門徒は江戸時代でも各藩に弾圧され、特に九州や北陸などで弾圧が非度かったが、それも為政者の権力維持の為の勝手な都合である。
この「織田家」 と 「本願寺家」 が全面戦争に突入した時、鉄壁を誇った「雑賀衆」と「根来衆」の連携が一時的に分裂する。
「根来衆」が、実は「根来寺」と呼ばれる 「真言宗」と言う仏教のお寺を中心とした宗教勢力だったからだ。
つまり、「一向宗」である本願寺と宗教的には別の仏教な訳で、お寺さんとしては「ライバル」だった。
この為「根来衆」は織田側を支援、この影響で根来衆に近かった雑賀衆の幾つかの小勢力も、織田家に味方する事になる。
孫市と雑賀衆は、信長の天下統一を阻ばんで最後まで反抗した。
この抵抗にシビレを切らした信長は、孫市の根拠地、紀州雑賀討滅の軍を起こした。
孫市はこれを、雑賀の主城、弥勒山城に拠って迎え撃つが、遂に衆寡敵せず、破れて逃亡している。
しかし、その後も、孫市と彼に従う雑賀衆達は、信長・秀吉と幾度か凄絶な戦いを重ねている。
その間も、光秀は孫市と連絡を取っていた。連絡に来たのは阿国で、決まって素肌で寝所に忍び込んで来る。
年を経て成熟した阿国と、交わりながらの伝言だった。
そうこうしている間に本能寺の変が起こり、その後秀吉が天下を取ってしまった。
そして孫市と雑賀党は、天正十三年、秀吉の大軍を、根来寺宗徒らと迎え撃ったが、ついに開城し、「自刃した。」と噂を流して地に潜った。
孫市が頼ったのは、比叡山松禅寺に隠遁していた南光坊(明智光秀)だった。
光秀は密かに雑賀孫市とその残党を美濃(岐阜県)の明智庄の山中に匿い、雑賀党の再起を図るための助力をしている。
しかし、南光坊(光秀)自身が本能寺の変、豊臣秀吉の天下と言う流れの中にあって、表立った動きは出来ず家康と連絡を取りながら隠遁していた時期である。
「光秀、次の一手は決まって居るのか?」
「振り子は、振れた分だけ必ず戻ってくる。孫市、お館様(信長)が強引に振った振り子の戻りを、家康殿に確り受け止めさせる。」
「そうであろうのぅ、やはり、家康殿しか居るまい。」
「浅井長政は、娘に天下を取れと言った。秀吉の側室淀君(茶々)も次期将軍秀忠(光忠)の継室お江(おごう)も浅井の娘じゃ。」
「いかにも浅井殿の怨念、極まってござるのぅ。」
「お主とて、秀忠(光忠)殿が将軍を継げば、明智の影天下であろう。」
「うむ、それも言える。」
「実はな、わしは家康殿の息子を一人預かっておる。」
「何!、それは真か?」
光秀は、家康と孫市の意外な接点を知った。
「あぁ、若い頃の名を一蔵と言ってナ、鈴木姓を与えて雑賀郷で育てている。」
「それは初耳じゃ。お主どうする積りじゃ。」
「家康殿が遠江国磐田見附の娘との間に成した子でナ、わしの跡目を任せる積りで雑賀の頭領に仕込んでおる。」
「すると、孫三郎重朝(しげとも)殿の事か・・・・」
雑賀郷に居た孫市の養子とされる利発な少年を、光秀は思い出した。
「如何にも。あれの本名は重康(孫三郎重朝)じゃで。」
「康の一文字・・・・あい判った。孫市殿がその気なら、それで走るワ。」
正しく、全てを知る盟友の言葉だった。
相手が読んでいるから、説明の手間はいらない。
「その道筋を付けるのが、我が役目じゃ。お主の助力を頼む。」
「心得ておる。我らが働き、得と見よ。」
驚くべき事を、南光坊(光秀)は孫市から聞かされた。信頼の証(あかし)である。
雑賀孫市は、その南光坊の諜報活動を手助けする為に芸人一座を組織して各地を旅する様になる。
孫市の助力は、恩賞目的でも雑賀の再興でもない。豪放無頼の雑賀孫市が、自由意志で友の為に一肌脱ぐ気に成っただけだ。
鈴木一蔵重康(すずきいちぞうしげやす)のその後については、実父・家康や二代将軍・徳川秀忠の意向に拠り、水戸藩成立との絡みの中で一蔵重康(いちぞうしげやす)を水戸藩重役に処遇する手立てが進み、その後の三代将軍・家光の代に水戸藩主代替わりを使った一蔵重康(いちぞうしげやす)の継子・頼重(よりしげ)の大名家創設を処している。
この処置で、影の家康庶長子問題を落着させているのだが、その話は次章・江戸期の徳川光圀・大日本史編纂の陰謀を検証する項に合わせて記述する事にする。
あの伝説の賀茂の錫杖(しゃくじょう)は、どう言う経緯を経たのかは定かではないが、雑賀孫市の元に在った。
物言わぬ賀茂の錫杖(しゃくじょう)が孫市に語りかけて来るのは何故か影人の役回りで、言わば助力者の立場である。
それが不思議な事に、孫市が意図しようがしまいが、何時の間にかその立場に立っている。
その結果は、常に皇統護持に知らず知らずに向かっていたが、それを認識したのはあくまでも乱世が収まりつつある孫市晩年の事だった。
雑賀党は一向宗門徒には成って居たが、紛れも無く賀茂一族の血を引く陰陽修験の末裔だった。
雑賀孫市は、自ら乱の只中に身を置いて生きて来た。
しかしそれは、多くの命を短め、大事な親族や部下を失う空しい物だった。
賀茂の錫杖(しゃくじょう)の持ち主は、けして評価される事の無い過酷な役回りが定めだったので有る。
雑賀孫市は、手元の錫杖(しゃくじょう)をジット見つめていた。
「この賀茂の錫杖(しゃくじょう)が、我が身を駆り立てる。」そう思うと、最早手放すしか自分の生きる道はない。
彼がようやく安堵をしたのは、天海僧正(光秀)に賀茂の錫杖(しゃくじょう)を託して後の事である。
青銅の錫杖は、武士の祖である血統の象徴だった。
この時代、それを持っていては気の休まる時は一時も無い。
この乱を呼ぶ錫杖を、天海は幕府の長期安泰を願って、日光東照宮の造営の前に幕府安泰を祈願し、江戸の上野山(寛永寺)に埋葬した。
その錫杖(しゃくじょう)が、二百五十年の後に長州の萩に表れるとは、流石の天海僧正(光秀)も思いも寄らなかったので有る。
雑賀孫市と名乗った雑賀党棟梁の本名は鈴木である。
雑賀孫市は鈴木(佐太夫)重意(しげおき)と言い、随分昔に、源義経に合力した鈴木三郎家重の本家で、百何十年か前の分家には三河徳川(松平)家に仕官している鈴木家も居た。
雑賀党棟梁の鈴木(佐太夫)重意(しげおき)は影に日向に明智光秀に従っていた。
同様に、この安土地桃山期に豊臣秀吉に仕えた鈴木氏も居た。
いずれにしても、雑賀鈴木党も生き残りをかけて、対立する双方に人を派遣していたので有ろう。
同じ大和民族だから、雑賀孫市の顔が偶然楠木正成(くすのきまさしげ)に似ていても、「他人の空似」と言うものである。
しかし、それにしても良く似ていた。顔が似ると生き方まで似て来るのか、孫市が義に準じた事で、雑賀衆は本拠を失ってしまった。
織田信長の没後、天下統一を進める羽柴秀吉の約十万の兵による紀州攻めにより、根来寺は全山が炎上する。
信長には好意的であった根来衆も、言わばその権力の継承者である筈の秀吉には、何故か反抗的な態度をとる。
しかしこれには理由があった。
根来衆が信長側で有った訳は明智光秀との縁が深かったからで、山窩(サンカ・サンガ)農民の出自(実はある一族?)である秀吉など縁も所縁も無い。
それどころか、長い事敵ですらある。
勘解由小路としての使命感は確かに希薄化していても、根っこの部分で「秀吉ごときに」と言う帝の影人の誇りは持ち続けていたのだ。
根来寺は、紀伊のみならず河内や和泉の一部にもその勢力を及ぼしていたのだが、秀吉がこれらの利権を認めず「取り上げようとした」為でもある。
更に、天正十二(千五百八十四)年三月に秀吉方と徳川家康・織田信雄連合軍との間で行われた「小牧の戦い」の直前には、南光坊(光秀)の政治工作によって太田党を中心とした根来衆・雑賀衆が家康に加担していた。
これが秀吉の紀州(根来衆・雑賀衆)征伐の一番大きな原因だったかも知れない。
この家康に対する根来衆・雑賀衆の加担には、南光坊(光秀)の知略もさる事ながら、松平一門に対する修験道の血脈の裏付けがある。
賀茂社の神紋は、賀茂祭の別名「葵祭」でも知られるように「葵」である。
そこから、賀茂神社の氏子や当社を信仰する家々の家紋として用いられる様になった。
江戸幕府将軍家である徳川家の祖は三河松平氏を名乗り、「賀茂神社の氏子であった」と言う。
言うまでも無いが、この氏子は「氏の子、つまり子孫」と言う意味である。
三河の国加茂郡松平郷が、郷士として発祥した徳川家の故郷である。
また、近世大名本多氏(徳川・三河松平傍流の家臣)も「賀茂神社の神官と関係があった」と伝え、いずれも葵紋を用いている。
つまり、修験道の祖「役小角(えんのおづぬ)」と三河松平家は祖先を同じくしているのだ。
この関係は、本能寺の変当時の家康の伊賀山中突破が、実は根来衆・雑賀衆・伊賀衆の連携支援に生かされる。
家康の伊賀越えは、その「本能寺の変」の直後の出来事である。
徳川家の歴史書には、便宜上「神君伊賀越え」と称されているが、それらには源氏の末裔を名乗った徳川家の表向きに対する「嘘」が存在した。
それは家康の生家・松平家が実は賀茂臣(かもあそみ)であり、松平家には家臣に雑賀鈴木家の分家筋が存在し、領内に伊賀神社も奉っていて紀州雑賀家(鈴木家)や伊賀服部家とは古い縁が在った事である。
また、密約で影に廻った明智光秀の存在をその後の歴史から抹殺する必要があったからでは無いだろうか?
家康は、信長の招きで僅かな供回りを連れ、五月に安土城を訪れた後、堺(雑賀衆の本拠地)に滞在した。
六月二日朝、本能寺の変の報を聞き、蝉時雨(せみしぐれ)の伊賀越え街道をひた走って、山城・近江・伊賀の山中を通って伊勢へ抜け、伊勢湾を渡って本国三河に戻った。これを後に「神君伊賀越え」と称される。
これが、後年「神君のご艱難」と称される家康最大の危機と呼ばれたものだが、光秀方の息が掛かった伊賀超えの山中を選択し、小人数の供回りで出突破した事は、その選択自体が怪しい。
このエリア、明智方の郷士が乱立する地域だったので、危険であれば堺より海路を取るのが常識的で安全である。
チョットした謎だが、その後の秀吉との「小牧の戦い」に於いて、光秀と縁が深かった根来衆・雑賀衆がこぞって家康に加担した事から、「光秀と家康の密約の結果だった」と言う疑いを感ずる話で有る。
堺に逗留していた家康の前に、光秀の親書を携えて来たのは伊賀の棟梁、服部半蔵であった。
「殿、明智殿より早馬で書状が参りました。」
「何、どれじゃ。」
受け取った家康は、瞬時に事態を把握する。
織田信長の死は、局面が大変(おおか)わりする事態で、家康も本拠地に戻ってあらゆる事態に備えねばならない。
ここで一つの謎が生じる。
知らせを聞いたのは港町・堺で、そして泉州・紀州・伊賀・甲賀辺りは最も明智光秀の息が掛かった土豪の多い土地であるから本来なら最も安全な領国三河・遠近江への帰途は船旅の筈である。
所が家康は、危険な伊賀超えを躊躇無く選択している。
「これは大事、急ぎ三河に戻るぞ。」と家康が発すれば、本多忠勝が色めいたって「殿、何(いず)れの道を戻りまするか?」と申すに、それを井伊直政が制して「殿、堺より船を仕立てては如何がか?」と進言する。
「直政、案ずるな。明智殿が手配の伊賀超えじゃ。手抜かり無く、半蔵とやらも遣わして寄越したわ。」
身代わりの影武者まで立てて隠遁を選んだ光秀にとって、家康の生死は重大な意味を持つ。
本能寺急襲の決意を固めた時から直ぐに手を打ち、服部半蔵に文と退路の案内を託していた。
家康の安全は、最初から確保されていた確信だった。
この時、家康の「苦難の伊賀越え」に助力したのが、光秀の命を受けた伊賀衆である。
この神君伊賀超えには、後に「徳川四天王」の一人と呼ばれる側近の井伊直政(いいなおまさ)や本多忠勝、帰参が成ったが本多正信などが同行している。
いずれにしても、この辺りの如何にも出来レース臭い伊賀越えの辻褄合わせが、徳川家康の本能寺の変黒幕説の立ち上る煙かも知れない。
この折道案内をした伊賀の棟梁・服部半蔵正成は、その伊賀山中突破の功で江戸城に「半蔵門」が作られ、公儀お庭番として登用されている。
城持ち大名に出世するにも、二通りの方法がある。
オーラを放って人望を集め、自ら切り取るタイプと盟主を仰いでその盟主を押し上げ、自らも出世するタイプである。
後者の場合が問題で、運が良ければエネルギーは半分以下で間に合うが、肝心な最期の一段(天下)は押し上げる盟主が居なくなる。
ここで己の力量を過信し、最期の一段を望むと大怪我をする。
光秀はその辺りが冷静で、自らのタイプを十二分に知っていた。
そこで新たな盟主に選んだのが、徳川家康だった。
勿論光忠(秀忠)の縁(えにし)が最大の理由であり、他に選択の余地もなかった。
それ故光秀にとって、家康の生死は重大な意味を持つ。
家康の安全は、最初から確保されていた確信だった。
伊賀山中突破の「神君のご艱難」は、家康伝説を脚色した大げさな手柄自慢では無いだろうか?
この折道案内をした伊賀の棟梁・服部半蔵正成は、その伊賀山中突破の功で江戸城に「半蔵門」が作られている。
服部半蔵正成が登場したので、一般的に忍術の里として知られる伊賀・甲賀について触れて置く。
我輩は基本的に忍者と言う呼び名は好きではない。
何故なら忍術は、それぞれに得意技を取得している違いは在るにしても陰陽修験武術から発展させた武士が扱う武術の一つで、剣術、槍術、弓術、体術、馬術、などと並ぶものである。
従って、在地武士(郷士)の一部が「武術として忍術を使う」と言う方が正しい。
その忍術を特異とする在地武士(郷士)の集団の一つが伊賀国(三重県伊賀市と名張市が中心)に在り、服部家や百地(ももち)家、藤林家などが有名な伊賀流(いがりゅう)忍術を良く為す上忍の家系とされる。
伊賀流(いがりゅう)とは、甲賀衆と並んで忍術の中で最も有名な流派の一つで、普段は所領で農業をしながら行商などして各地の情報を探る一方、指令が下ると戦場やその後方へ出向き、忍術を生かして「工作活動に励んだ」とされる。
本来伊賀国は伊賀守護仁木氏の所領であるが、「伊賀惣国一揆」と呼ばれる合議制の強い独特の自治共同体が形成されていた。
だが、事実上は実力者である上忍三家(服部・百地・藤林)の発言力が強く、その発言に従う事が多かった。
この伊賀流(いがりゅう)の在地武士(郷士)集団は織田信長と事を構え「伊賀の乱」、「天正伊賀の乱」と二度に渡って攻められ一時は壊滅近い状態に追い込まれて全国に散り、逃げ延びた一人に本能寺の変の直後堺に居た徳川家康を伊賀越えで護衛した服部半蔵正成がいる。
世に言われる伊賀流(いがりゅう)と双璧を為す甲賀衆(こうかしゅう、こうがしゅう)とは、伊賀流と並んで最も有名な流派の忍術であるが、近江国甲賀の地(滋賀県甲賀市)に伝わっていた忍術流派の総称で、実は「甲賀流」と言う名称の流派が存在した訳ではなく、甲賀衆と呼ぶのが相応しい。
伊賀と甲賀(こうか)は地形的に隣接していて山を一つ隔てた場所に存在するのだが、伊賀流と甲賀衆と異なる点は、甲賀衆が近江国主・佐々木六角氏を主君と仰ぎ忠義を尽くすのに対し、伊賀忍術者は金銭による雑賀党の傭兵契約のように契約以上の関わりを「雇い主との間に持たない点である」とされる。
「甲賀五十三家」と呼ぶ地侍達の神出鬼没のゲリラ戦やその高い戦闘力が甲賀衆を世に知らしめていたが、伊賀の「伊賀惣国一揆」と呼ばれる合議制に比し、甲賀衆は「惣」と呼ばれる自治共同体を形成していて、中には信濃国望月氏の支流・近江国甲賀望月氏など有力な家系も在地していたが、各々が対等な立場にあった為に多数決の原理を重んじた自治体制で運営されていた。
甲賀衆(こうかしゅう、こうがしゅう)も普段は所領で農業をしながら行商などして各地の情報を探る一方、指令が下ると戦場やその後方へ出向き工作活動に励んだ所は粗(ほぼ)同じであるが、忍術の流派の中でも特に「薬の扱いに長けていた」とされている。
六角氏の下で諜報に戦闘にと活躍して居た甲賀衆(こうかしゅう)も、同じく六角氏が織田信長に攻められて甲賀の地も信長の軍門に下っている。
基本的に伊賀・甲賀の両者は隣人であり、どちらかの土地に敵が攻め込んだ場合は力を合わせて敵を退けるよう常に協力関係にあったのだが、桃山後期になって豊臣秀吉と徳川家康の勢力争いに巻き込まれて合い争う事になっている。
日本の芸能のルーツは、陰陽修験の信仰から始まっている。
古来修験道では、宗教音楽と宗教舞(歌舞音曲)と修験武術は、一体(組み合わせ)の習得すべき技だった。
あくまでも伝承であるが、聖徳太子は秦氏の河勝(香具師の祖)・伊賀の国人、服部氏族(はとりべ・はっとりしぞく・伊賀忍者の祖)と大伴細人(おおとものさひと・甲賀忍者の祖)を使って「各地の情報を収集した」と伝えられ、この三集団が、所謂(いわゆる)「諜報工作機関の元祖」と言われている。
この伝承が事実で有るなら、役小角(えんのおづぬ)を祖とする修験者(陰陽山伏)兵法と武術を習得して聖徳太子の手足になった伊賀・甲賀の発生に欠かせないのが、まさに葛城氏系賀茂氏の血統である。
女系の婚姻関係で藤原氏、大伴氏、服部氏などと繋がり、賀茂氏の血統は、あらゆる形で血統が大きく広がりを見せ始める。
つまり、多くの氏族にも女系で賀茂の血が広がり、氏は違っても勘解由小路党に加わる者も多かった。
その勘解由小路党の伊賀・服部氏族の中に表向き「能楽をもって諜報活動をする」一族が現れる。服部氏族の上嶋元成の三男が猿楽(能)者の観阿弥と言う所から、能楽の継承者は「伊賀・服部氏の血筋」と言う訳である。
国家情報機関の仕事の一部として世論操作の目的を持ち、官製メディアの役割を担ったのが初期修験道師組織で、神の威光をでっち上げる為の神事としての神楽舞(神話伝説物語)に始まり、中央貴族の白拍子舞や地方の田楽舞などに分化して行く。
この過程で、どう見てもそのルーツが忍び術と思われる「軽業師」と言う見世物も現れるが、その技も元は修験道の術(忍び術)が「基礎に成って居た」と考えられる。
つまり少なくとも江戸初期位までは、この芸能部分を表の顔とした隠れ武芸者が居たのである。
更に時代が下がると、娯楽性が益して大衆芸能化した阿国歌舞伎や高級芸能の能楽舞と分化が進み、やがて男歌舞伎や芝居、猿楽能と成って脚色された英雄が舞台の演目として活躍する大衆娯楽に成って行くのだ。
猿楽能や歌舞伎踊りは、公家や大名の屋敷に招かれたり、投宿先の寺に設(しつら)えた特設の舞台も使われる。世の常で、酒と女の有る所、気が緩むのが男である。座敷に呼ばれれば、戯言(ざれごと)の端々に思わぬ情報も拾える。
事に拠っては、隙を見て暗殺に及ぶ機会も得られる。
従って、伊賀・甲賀・雑賀と言った修験系郷士から、重要な目的を持って派生したのが古典芸能である。
この伊賀・服部氏・能楽者の末裔に日本の将来を左右する人物が現れるが、それはずっと後の事である。
堺に逗留していた家康の前に、光秀の親書を携えて来たのは伊賀の棟梁、服部半蔵であった。
この時、家康の苦難の伊賀越えに協力したのが光秀の命を受けた伊賀衆である。
その際の伊賀の棟梁・服部半蔵は、伊賀越えの功で江戸城に「半蔵門」が作られている。
その後、幕府が新しく定めた公儀お庭番が組織され、庭番衆の頭に服部家がなる。
羽柴秀吉と徳川家康が直接対決した最初で最後の対決、小牧・長久手(長湫)の戦い(こまき・ながくてのたたかい)は、千五百八十四年(天正十二年)に、織田信雄・徳川家康陣営と羽柴秀吉陣営との間で行われた戦役である。
賤ヶ岳の戦い時に勝利した羽柴秀吉は、その年(天正十一年)の暮れに新築した大坂城に織田信雄を含む諸将に参城を命じた。
秀吉は信長の次男・信雄を「主家」として擁立し、賤ヶ岳の戦いに諸将を集める名目としたにも関わらず、賤ヶ岳の戦いに勝利して後には態度を一変させ、天下人然と織田信雄に秀吉に対し臣下の礼をとる事を求めたのであるが、秀吉の「主家」を自認する織田信雄はこれを拒否し、大坂参城の命に従わなかった。
そこで秀吉は一計を案じ、織田信雄の家老職津川義冬、岡田重孝、浅井長時(田宮丸)の三人が「秀吉に通じた」と言うデマを流しす。
これに疑心暗鬼となった信雄は三人を処刑、秀吉に信雄をする討伐する口実を与えてしまう。
秀吉が兵を挙げると、織田信雄が頼る有力武将は一人しか居ない。
信雄が懇願して徳川家康に援軍を求め、家康が渋々出陣した事から、秀吉と家康との戦いとなる。
「光秀、織田信雄の援軍要請を徳川殿が引き受けた。どうやら徳川殿と秀吉が合戦に成るぞ。」
「孫市、お主はどうする?」
「知れた事、戦の混乱に乗じて秀吉を仕留めてくれるわ。」
雑賀孫市は傍らの鉄砲を掴み上げ、台座を床に筒先を天井にむけて立ち上げ、握ったままそれを眺めた。
当然と言えば当然だが、雑賀孫市始め雑賀衆や根来衆は秀吉とは敵対関係にあり、昔から徳川家康や明智光秀との繋がりが有った事から家康勢に味方して立ち上がる。
秀吉から圧迫を受けていた四国の長宗我部元親、賤ヶ岳の戦いで柴田側に居ながら上杉軍への備えの為に越中を動けず結果的に生き残っていた北陸の佐々成政らも織田信雄・徳川家康陣営に加担し連携を取って羽柴秀吉陣営の包囲を形成する。
その雑賀衆・根来衆が海陸から北上して秀吉側へ攻勢をかけたので、秀吉が織田信雄の本拠地・尾張への出陣はかなり遅れた。
秀吉の尾張出陣後も、雑賀衆・根来衆は大坂周辺を攻撃して、後方から秀吉方の動揺を誘う。
この事が秀吉の手を焼かせて、秀吉は家康と雌雄を決する事無く講和に追い込まれた要因に成っている。
織田信雄の援軍の為に清洲城に徳川家康が援軍を引き手到着したその日に、織田信雄の家臣から裏切りが出る。
織田家譜代の家臣で信雄側に与すると見られていた池田恒興が突如、秀吉側に寝返り犬山城を占拠して小牧山周辺での戦いが始まった。
家康は寝返った池田恒興に対抗するため、すぐさま翌々日には小牧山城に駆けつけ占拠入城しようとした所、秀吉側の森長可(恒興の女婿)も小牧山城を狙っていて、小牧山城を間近に望む羽黒(犬山市)に着陣する。
情報戦ならこの戦、初手から家康方のものである。
織田家・信長の諜報を一手に引き受けていた明智光秀のネットワークが、雑賀孫市を始め徳川家康陣営に加担している。
この動きは直ぐに家康側も察知し、これを討つべく同日夜半に酒井忠次、榊原康政らの兵五千が羽黒へ向けて密かに出陣する。
翌日、早朝、忠次率いる部隊は森長可勢を一気に奇襲した為、森長可勢は応戦したものの忠次らの猛攻に耐えかね潰走した。
この緒戦は、羽黒の八幡林という所で戦われたので、羽黒の戦い(八幡林の戦い)と呼ぶ。
敵襲の心配がなくなった家康は小牧山城を占拠し、周囲に砦や土塁を築かせ秀吉の着陣に備えた。
秀吉本隊は、羽黒の戦い(八幡林の戦い)が決着した頃に大坂城を出発、一週間ほどを費やして犬山城、また一週間ほど掛けて漸く楽田(犬山市)に着陣する。
家康が小牧山城に入ってから秀吉の楽田到着までの二週間、両軍が砦の修築や土塁の構築を行った為、双方共に手が出せなくなり挑発や小競り合いを除けば、戦況は全く動かずの膠着状態に陥っていた。
楽田(犬山市)に着陣した秀吉は、この膠着状況を打開する為に家康側の布陣地帯を迂回して三河方面に出る迂回作戦を策定し、先鋒・池田恒興(兵六千)、次鋒・森長可(兵三千)、第三陣兼目付として堀秀政(兵三千)、総大将に三好秀次(秀吉の養子で後の豊臣秀次)本隊・兵八千余が三河に向けて出撃した。
ここでも家康方の諜報ネットワークが瞬時に機能する。
この秀吉勢の動きを家康は、三好秀次勢が篠木(春日井市)辺りに宿営したあたりから近隣の農民や伊賀・雑賀衆からの情報で秀次勢の動きを察知し、小幡城(名古屋市守山区)に移動、その夜半陣立てを決めて翌日未明から地元の丹羽氏次・水野忠重と榊原康政・大須賀康高ら四千五百を先鋒として三好秀次勢の追撃を開始させ、家康・信雄の本隊も後を追うように出陣した。
家康が小幡城に入った頃に、秀次勢は篠木の宿営から行軍を開始していた。
その先鋒・池田恒興(兵六千)勢が丹羽氏重(丹羽氏次の弟)が守備する岩崎城(日進市)の攻城を開始する。
岩崎城の丹羽氏重らはよく応戦したが、約二時間で落城し玉砕した。
この岩崎城と池田勢の戦闘の間、池田勢の後続部隊・森長可、堀秀政、三好秀次の各部隊は休息し、呑気に先鋒・池田勢の進軍を待った。
しかしその三好の大半が休息していた時は、既に家康方の先鋒勢四千五百が背後に迫っていた。
休息していた秀吉方三好秀次勢本隊に、家康方の先鋒勢四千五百が、後方から水野・丹羽・大須賀勢、側面から榊原ら先鋒勢で一斉攻撃を掛ける。
この奇襲によって秀吉方秀次勢は成す術が無くほぼ潰滅し、秀次自身も乗馬を失い、供回りの馬を与えられ辛くも逃げ遂せたが、秀次が落ち伸びる為に目付け役の木下祐久ら木下一族から討ち死にを出している。
秀次勢より前方にいた堀秀政は秀次勢の敗報を聞いて直ちに引き返し、秀次勢の敗残兵を手勢に組み込んで迫り来る家康方先鋒勢を待ち構えた。
秀次勢を撃破して勢いに乗った家康方先鋒勢は、ほどなく檜ヶ根(桧ケ根、長久手町)辺りで秀政勢に襲い掛かったが、戦上手な事から「名人久太郎」と尊称された堀秀政の前に敗退した。
家康方先鋒勢を破った堀秀政だったが、家康本隊が迫り来るのを眺望し、「戦況不利」と判断し兵を引いて退却した。
前を進軍していた先鋒・池田恒興、次鋒・森長可に「家康本体が後方に出現」の報が伝わったのはこの頃で両将は驚愕し大慌てで引き返し始める。
家康方先鋒勢の戦況を見ながら進軍していた家康は、先鋒隊・榊原康政勢らの敗残兵を組み込み「御旗山」と呼ばれる辺りに陣を構えた。
家康方は右翼に家康自身三千三百余、左翼には井伊直政三千余、これに織田信雄勢三千を足して九千以上である。
一方、引き返して対峙した秀吉方池田恒興・森長可勢は右翼に恒興の嫡男・池田元助(之助)・次男輝政四千余、左翼に長可勢、後方に恒興が陣取りこちらも九千余と兵力は互角で、「両軍対峙は二時間ほど続いた」と言われている。
昼少し前になって対峙していた両軍がついに激突し、両軍入り乱れての死闘は二時間余り続いた。
戦況は一進一退の攻防が続いたが、森長可が鉄砲隊の銃弾を眉間に受け討死した辺りから一気に家康勢有利となった。
森長可を死に至らしめた銃撃が家康旗本か直政勢が繰り出したものかは判然としないが、森長可の首級は「本多重次が挙げた」とされる。
池田恒興も自勢の立て直しを図ろうとしたが、家康勢・永井直勝の槍を受けて討死にし、恒興嫡男・元助も安藤直次に討ち取られ、池田輝政は家臣に「父・兄は既に戦場を離脱した」と説得され戦場を離脱した。
やがて恒興・長可勢は四散し遭えなく潰滅、長久手の合戦は家康の大勝利に終わり、徳川家康はただちに小幡城に引き返した。
その後も各地で別働隊同士の戦闘が続き戦況は信雄・家康側に有利に移行したが、秀吉側の蒲生氏郷ら別働隊が信雄領である伊賀・伊勢に侵攻し、その殆どを占領し、さらに伊勢湾に水軍を展開させ信雄に精神的に圧力を加えた。
秀吉は合戦から半年以上経った頃に織田信雄に使者を送り、伊賀と伊勢半国の割譲を条件に信雄に講和を申し入れ信雄はこれを受諾する。
織田信雄が単独で講和を受諾して戦線を離脱し、戦争の大義名分を失ってしまった徳川家康はついに兵を引く。
小牧・長久手(こまき・ながくて)の戦いは終わったが、秀吉と家康の勝敗は着いた訳ではなく、両勢力は互いに休戦状態のまま別働隊の小競り合いや戦が続いていた。
羽柴秀吉は「いかに徳川家康を抑えようか」と思案していた。
力ずくで雌雄を決するには侮れない相手である。
「そうだ、以前お館様(織田信長)がわしに薦めていた家康の次男・於義丸(結城秀康)を養子に迎えて縁を深める策がある。」
羽柴秀吉は早速、滝川雄利を使者として浜松城に送り講和を取り付けようと試み、家康に「両家の縁を深める為に於義丸(結城秀康)殿を養子に申し受けたい」と和議を提案する。
家康としても膠着状態のにらみ合いを続ける訳には行かず、また後に明かすが次男・於義丸(結城秀康)についてはいささかの事情も有ったので、講和の返礼として次男・於義丸(結城秀康)を秀吉の養子にする為に大坂に送り、小牧の役は幕を閉じた。
この小牧・長久手の戦いの戦闘は、その主戦場に止まらず各地で戦闘が行われている。
羽柴秀吉と徳川家康・織田信雄連合軍との間に小牧・長久手の戦いが始まると、佐々成政は一旦秀吉方につく素振りを見せるが夏頃になって徳川家康・織田信雄方につき、秀吉方に立った前田利家と敵対して末森城の合戦を起しているが、この時期成政は越後の上杉景勝とも敵対していた為に軍勢分割する不利な作戦を強いられて苦戦が続いていた。
そうした中、秀吉敵対していた織田信雄が単独で講和に走り徳川家康もまた和議に転じた為に佐々成政は取り残され進退窮まって、家康に再挙を促す為に厳冬の飛騨山脈(北アルプス)・立山山系を越えて家康の本拠地「遠近江・浜松へと踏破する」と言う世に言う「さらさら越え」の壮挙を成し遂げた。
しかし結局、佐々成政の家康への説得は功を奏せず、織田信雄や滝川一益にも説得を行ったが快い返事は得られなかった。
孤立した佐々成政に対して羽柴秀吉自ら越中攻略に乗り出して富山城を十万の大軍で包囲するが、織田信雄が仲介に入って成政を降伏させ、正成は助命されるが越中東部の新川郡を残して全ての領土を没収され、大坂に妻子と共に移住を命じられて御伽衆として秀吉に仕える事に成る。
一旦は小領主に落ちて戦国末期の大舞台から外れた形となった成政だったが、千五百八十七年(天正十五年)の九州の役で功を挙げて肥後一国を与えられ大名に返り咲く。
しかし強引な太閤検地を行おうとするなど領国の運営に失敗、反発する国人が一斉蜂起した事態を自力で鎮める事に失敗して秀吉の怒りを買い、佐々成政は失政の責めを受け、安国寺恵瓊による助命嘆願も効果なく摂津尼崎・法園寺にて切腹させられたのである。
不運にも残されたのは、越中の佐々成政、紀州の雑賀衆・根来衆や四国の長宗我部元親らで、信雄・家康が秀吉とそれぞれ単独講和してしまった為に孤立し、それぞれ秀吉の紀州攻め・四国攻めにより制圧される事になる。
「孫市、ご苦労じゃった。眉間に一発、森長可を仕留めたのはお主か?」
「如何にも拙者じゃが、まさか家康殿が講和に応じるとは・・・雑賀も根来も孤立してしもうた。」
「仕方あるまい。秀吉を討ち漏らしたのも孫市、お主じゃ。」
「秀吉め、あ奴は戦闘に加わらぬ。兵が多くて秀吉の本陣には近寄れんかった。」
「力が拮抗してる故、今雌雄を決するのは危険だ。孫市には済まんが講和を家康殿に薦めたのはわしじゃ、」
「判って居る。家康殿を恨んではおらぬ。我らが勝手にこの期に乗じて秀吉を討とうと頼まれた訳でもなく立ち上がった。わしらに講和の了解を取る謂れは、家康殿には無いわ。」
「お主、雑賀郷に戻るだろうが、命を粗末にはするな。」
「光秀、今度ばかりは、それは約せぬ・・・。」
秀吉の「太閤刀狩」は、血統重視の大和朝廷からの脱却を目指す天才・織田信長が描いた織田帝国の理想ビジョンだったが、秀吉の出自を笑い飛ばす信長が、「こうすれば、氏族制はご破算じゃ」と、秀吉との主従の間では話題に成って居た。
織田信長は、織田帝国成立後直ぐにこの「刀狩」と「検地」をする積りで、土木系能力に優れた秀吉に「検地」のビジョンを話し、その方法と段取りの準備をさせていたと推測出来る。
「刀狩」と「検地」は、秀吉のオリジナルではなく、天才織田信長が、秀吉に残した二大政策だったのである。
いずれにしても織田信長の後を継ぎ、実質天下を取った秀吉の手法は、信長の武力圧制政策をなぞっていた。
その思考の中では、領主の統治から独立した自由武装組織など容認できない。
それらは一気に掃討して、新しい秩序を確立する必要が有った。
興味深いのは、小牧・長久手の合戦があくまで「秀吉と家康の間のもの」として捉えられていると言う事である。
これは他の資料もそうで、本来の一方の主役は家康では無く信長の息子信雄の筈なのだが、根来衆・雑賀衆(紀州)側では家康が主役と見ているのである。
家康の手が、松平家累代の伊賀との地縁を生かして、以前から「太田党を含めて根来衆などにも伸びていた」と考えられ、家康の高度な政治工作の一端をのぞき見る事が出来るかと思う。
この裏には、源平合戦時に三河の国足助に家を興し、その後三河松平氏に従った鈴木家の存在を忘れてはならない。
江戸幕府では旗本衆に残ったこの鈴木家は、元は熊野の雑賀衆鈴木党総領三郎重家が、源義経の身を案じて吉野山中より従い衣川館で討ち死にした(実は脱出した)時の身内、叔父の鈴木(七郎)重善が、三河鈴木党として郷士化して小城主になったものだ。
いずれにしてもこの鈴木家、家康の配下として、吉野熊野の伊賀に強い関係があったのは言うまでもない。
そして天正十三(千五百八十五)年三月、秀吉は十万の大軍を率いて紀州(根来衆・雑賀衆)征伐に向かった。
秀吉にすれば、旧主君の信長時代から手を焼かせていた上に小牧長久手の戦いで敵に回った連中で、ここで決着をつけて置かねば天下人には成れないのである。
根来衆は真言宗、雑賀衆は一向宗で宗派は違うが、何代にも渡って親交があり、経済的には同盟圏内にある。
この際、秀吉の方には根来衆・雑賀衆の別などない。
相手が根来・雑賀を「諸共に葬り去ろう」と言うのであれば、共闘するしかない。
「先に根来寺を焼き払い、続いて太田城と小雑賀中津城を攻めよ」の号令の下、十万の大軍が紀州勢に攻めかかった。
当時の根来衆全体の統率者は、河内国交野郡津田城主で河内の悪党楠木正成の末裔を自称していた津田周防守正信の長男算長(かずなが・監物)を頭とする津田一族だった。
彼等津田一族は良く戦うが、僧兵大将津田監物、杉ノ坊照算などが討ち死にする。
主将の討たれた根来寺にもう余力はなく、二〜三の堂宇を除いてほとんどが炎上、焼失した。
雑賀衆は、言わば氏族の共同体(郷士の武士団) だった。
戦国大名家のような「専制君主制」 の形態ではなく、雑賀郷を幾つかの武士団の棟梁が代表で合議運営する「共和政体」 だったのである。
その雑賀郷を豊臣秀吉に攻められた時、雑賀衆が窮地に陥入って団結が壊れ議論紛糾して内部分裂を招いた。
それでも雑賀の棟梁・雑賀孫市は、秀吉軍を迎え撃ったのである。
遠くで、合戦が始まった様だ。
砦の一角で、物見をしていた孫市は、寄せ手が近くまで迫っているのを知った。
合戦の喧騒はもう慣れっこだった。
因果な物で、もう十年以上戦場を駆け回っている。
しかし、此度は雇われた戦ではない。
相手が自分達を討ちに来ているので戦(いくさ)勝手が違う。
秀吉の大軍が(雲霞)うんかのごとく襲ってくる。
これが天下をほぼ握った男の実力だった。
幾ら手練揃いの雑賀衆でも、寄せ手の多さに討ち疲れてしまう。
雑賀衆は、弾は撃ちつくし、射るやも使い果たし、刀は刃こぼれし、多勢に無勢で最早勝ち目はない。
こんな割の合わない戦は、するものではない。
十重二十重に囲まれて、味方は孫市を庇って次々に討ち取られて行く。
「お頭、落ち延びて下され。」
「さ、お頭。我らが持ち堪えている内に、兼土従来のお覚悟を。」
「お頭、これは意地を張ってみすみす討たれる道理の戦(いくさ)に在りませぬ。」
切り防ぎながら持ち堪える雑賀衆の四方から、悲鳴に似た声が掛る。
雑賀の男は沈着冷静な理で動く、意地の討ち死になど似合わない。
「合い判った。兼土従来を帰す。」
寄せ手の太刀を払いながら、孫市は決意した。
「各々囲みを破って脱出すべし。」
既に味方の半数以上を失っていた。
指示を出して、自らの脱出も試みる。
孫市は、心内(こころうち)で「秀吉は、必ずこの孫市が仕留める。」と誓って、砦を脱した。
数箇所手負いとなり、一度は討ち死にの覚悟を決めた孫市だが、天の助けで雨が降り出した。雨音は、音を消してくれる。
お誂え向きに雨脚が速くなって、孫市は囲みを掻い潜り脱出に成功した。
この炎と共に、戦国をその優れた鉄炮軍団をもって駆け抜けた傭兵集団・雑賀衆、根来衆も滅び去ったのである。
泉識坊など一部の僧兵大将はかろうじて脱出し、「土佐へ落ちて行った」と言う。雑賀、根来にとって、これが「最後の戦(いくさ)」となった。
秀吉の紀州(根来衆・雑賀衆)征伐には、大きな後日談がある。
めぐり合わせだろうか、秀吉の雑賀・根来征伐に抗しきれず、土佐に逃れた落人(おちゅど)の中から、思いも寄らぬ形で明治維新に大きく関わる英雄が現れるので楽しみにして欲しい。
日本の建前の美学が、実は影の存在を育んでいたのだが、世間一般の奇麗事はあくまでも「武士に卑怯は無い」と言うもので、そこを信じた庶民出自の秀吉に、間諜活動の重要性に「気が付かない要因」と言え、更にその出自から、陰陽修験の影人は遠い先祖以来の宿敵だった。
間諜に拠る謀略は、この国では時代に拠ってはその存在さえ秘した昔から影の存在だった。
ひとえに建前の国であるから、「正々堂々、尋常に勝負」が表向きの大儀だった。
秀吉にとって、根来、雑賀、甲賀、伊賀などの郷士は陰陽修験系の影人達で明智方の勢力であり、明智亡き後徳川と結び付くのを最とも恐れた相手だったのである。
唐突ではあるが、大阪人の「自主独立、ど根性精神」のルーツは、間違いなく雑賀、根来を基盤とした堺衆にある。
後に秀吉が居城を設けた事で商都として発展を遂げ「太閤はん」と親しみがあるが、元を考えれば大阪商人のルーツに酷い事をした張本人が秀吉で有る。
【陰陽五行九字呪法】
◆皇統と鵺の影人◆
第四巻・本章の【第四話】 皇統と光秀(家康・天海編)に続く
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作者本名・鈴木峰晴