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【皇統と鵺の影人 第二巻】

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【大日本史の謎・仮説小説大王(おおきみ・天皇)の密命

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

【陰陽五行九字呪法】

皇統と鵺の影人

(こうとうとぬえのかげびと)完全版 第二巻

未来狂 冗談 作

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆


話の展開
第一巻・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・【第一巻に戻る。】
序章の【第一話】鵺(ぬえ)と血統
  (前置き)・(神の民人)・(身分差別)
序章の【第二話】大きな時の移ろい(神話〜平安へ)
  (国の始まり神話)・(飛鳥)・(大化の改新)・(妙見信仰)
第二巻・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・【◆現在この巻です
本章の【第一話】源平合戦(源氏と勘解由小路)
  (平将門と村岡良文)・(八幡太郎と奥州藤原)・(源頼朝・義経)・(北条政子と執権)
本章の【第二話】後醍醐帝(真言立川と南北朝)
  (醍醐寺と仁寛僧正)・(南北朝と真言密教)
第三巻・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・【第三巻に飛ぶ。】
本章の【第三話】皇統と光秀(信長・光秀編)
  (織田信長と鉄砲)・(桶狭間)・(本能寺)
第四巻・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・【第四巻に飛ぶ。】
本章の【第四話】皇統と光秀(家康・天海編)
  (関が原)・(大坂落城)・(天海僧正)・(系図・双子竹千代)
第五巻・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・【第五巻に飛ぶ。】
本章の【第五話】維新の大業(陰陽呪詛転生)
  (人身御供)・(江戸期と大日本史編纂)・(陰陽占術)・(明治維新)

陰陽五行九字呪法
皇統と鵺の影人
第二巻・本章の【第一話】

源氏と勘解由小路

源平合戦(源氏と勘解由小路)

◆◇◆◇◆源平合戦(源氏と勘解由小路)◆◇◆◇◆◇

神の杜(もり)に風が渡り、木々がざわめき、陽光は東より上りて、木漏れ日が優しく影を落とす。

平安の雅(みやび)は都に暮らす貴族達の生活で、今となっては文化的歴史資料ではあるが、その時代のわずかな特権階級の人々の痕跡で、大半の民人達は雅(みやび)にも歴史にも無縁の生活を送っている。さながら現代のヒルズ族とフリーター以上の格差社会だった事であろう。

平安期については優雅な平安貴族の物語や歌などが後世に残り貴族生活のみが強調されるが、勿論その裏で血で血を洗う権力闘争も、所領(荘園)の獲得の武力紛争や東北蝦夷征服やその後の反乱鎮圧なども存在した。

そして華やかな貴族生活の影では、律令制における厳しい身分制度の中で良民(自由民)と呼ばれる非氏族身分の者や被差別階級として賤民(せんみん/非人・ひにん/奴婢/ぬひ)と呼ばれる被差別階層の隷属的生活も存在していた。

氏族の価値観は日本列島に渡り来た時からまずは部族の生きる土地を獲得する事で、それは名誉欲、支配欲を武力で勝ち取る事である。
勿論、現代の様に甘っちょろい建前の「懸命に生きる」では無く、この時代の氏族(武士)が「懸命に生きる」と言う事は、文字通り「命懸け」で生きる事だった。

時代背景に於いて、「懸命に生きる(命懸け)」は氏族(貴族・武士)に生まれた時からの重い宿命で、その厳しい生き方に共感を覚える現代人も多いだろうが、それは日本列島の住人の支配者側だけの史実だった。

つまり後世の歴史物語に現れるのは、その時代の代表的な選ばれし一部で、移し世の全体像ではけしてない。
事の大小軽重はともかく、人間生きていればそれなりのドラマはある。
庶民にも波乱万丈のドラマはある筈なので、我輩としては庶民の生き様も知りたい所だが、そうした記録は残らない。

何しろ基本的に、文字は長い事氏族の間のもので、「氏族だけが独占使用するものだった」から庶民には学ぶ術が無かった。
それで残念ながら、古い文書に庶民のささやかなドラマは書き残されては居ない。

増してや、歴史と言う大枠の中では、庶民の小さなドラマなど「取るに足らないもの」になってしまう。
ただし、この取るに足らない部分に隠された庶民に対する為政者の悪事は、「数多くなされて来た」と理解すべきである。


何度も言うが、征服氏族の争う理由は神代からずっと領地の拡大と覇権である。
これは彼らが、勝手に「未開の地」と称した日本列島に、新天地を求めて進入して来た征服部族を先祖に持つ人種だったからである。

この氏族の覇権思想、何やら後世にネイティブアメリカン(アメリカインディアン)から米大陸を奪取して、未だに武力覇権思考で世界中をかき回している「米国の感性」と良く似ていそうである。

血統のリレーと歴史の動きに、役割を果たしているのは人間の持って生まれた「本能」である。
従って普通に異性を求めるし、良い暮らしがしたい或いは権力を握りたいなどの上昇志向を誰しも持ち合わせている。

耕作地・支配地を基本とした氏族の上昇志向は、何の事は無い、鎮守氏上から長く続いたDNA的なもので、言わば血統に染み付いた争えない血である。
その「本能」を、争いが無いように整理して、秩序を守る(管理調整する)のが朝廷に託された役目であった。

所が、その朝廷さえ、氏族の上昇志向の舞台であるから、人間とは「しょうも無い生き物」である。

氏の血統を引き継ぐ選ばれし者も、その負った血の重みで、人生はけして平坦なものではない。名誉欲、領地・金銭欲に塗れて、複雑な暗闘が繰り広げられていた。
神々の末裔は、切なくも過酷な運命に弄ばれる定めを紬(つむぎ)ながら、生きるのである。

役(賀茂)小角(えんのかもおずぬ)が陰陽組織を編成した時点では、まだ葛城朝の私兵的組織だった。そしてもっぱら「山岳ゲリラの鎮圧と恭順」、帝の「ある密命(大王の密命)の履行」などの非公式な活動に終始していた。
しかし、正式に陰陽寮が設立されると、正規(公)の職務も割り当てられる。

律令に基づく八つの省からなる中央官庁のうち 天皇と直結する行政の中枢である「中務省」に、陰陽寮は設置された。
陰陽寮の担う役割は多岐にわたり、天文気象学や暦学の発表(気象庁など)、呪詛・占術や信仰の管理監督(今で言う神社庁や一部公安警察)と言った表向きの仕事の傍(かたわ)ら、天皇の意志を具現化する役目も負っていた。

陰陽寮の表の公務は、信仰や占術、呪術の統一と運用をもって統治に活用する機関であった。

しかし、陰陽寮の裏の顔の実体は、大王(おおきみ・天皇)直属の「秘密警察」兼「諜報工作組織」である
いくら建前の奇麗事を言っても、国家の本音に「諜報工作機関」を必要とするのは矛盾である。
これが多くの場合、信仰を利用する所に権力者の狡猾さを感じるのだ。

陰陽寮次官の「陰陽助」勘解由小路(かでのこうじ)の一部は、朝廷の表陰陽寮(おもておんみょうりょう)長官である「陰陽頭」土御門(つちみかど・安倍)の所管した正式業務とは違い、朝廷組織とは独立して大王(おおきみ)の私的意向を果たす役割を担う、裏陰陽寮(うらおんみょうりょう)機関、勘解由小路党である。

人類に「群れ」や「国家」と言う物が成立して以来、為政者にとって「情報の収集と情報操作、裏工作」は、権力維持に不可欠なアイテムである。

従って、国家機関にはダーティな影の部分が存在して当たり前である。
勿論、建前の「神の威光を持って統治する」には似合わない組織で表沙汰にした文献は存在しないが、朝廷に於いてその部分を担うのが裏・陰陽量組織の勘解由小路党だった。



賀茂氏の血を継ぐ陰陽寮の陰陽助、勘解由小路家(かでのこうじけ)の由来は、勘解由使(かげゆし)と言う官職である。

坂上田村麻呂を使い、本当の意味で日本列島の大半を征服した大王、桓武天皇(第五十代)は、新王統の創始を強く意識し、積極的な政治・行政改革を展開した。

中でも帝の支配威を国内に周(あまねく)拡げる為に、弛緩しつつあった地方行政の再構築に取り組んだ為、その遂行手段として誕生したのが勘解由使(かげゆし)である。

その勘解由使(かげゆし)の役目を多く賜っていたのが賀茂氏で、賀茂氏の当主が陰陽寮の陰陽助として貴族に列した事から、勘解由(かでの)の名は官職名から公家の呼称となり、勘解由小路家(かでのこうじけ)と言う名跡になった。

桓武天皇(第五十代)の支配威強化を目指した支配体制再構築の行政改革は地方に及び、国司の交代事務引継ぎが難題と成って利権紛争が頻発した。
前任国司やその親族、家臣が在地領主化して定住した為に新任で赴任して来る者との間には、権限と既得権益の争いが発生する。

その結果、地方行政を監査・監督する勘解由使の職が新設される事となった。
律令制下で、国司の交代事務引継ぎが問題なく行われた証として、後任国司から前任国司へ交付されたものが解由状(げゆじょう)で、受領(ずりょう)による国司交替時の利権紛争を抑制する目的で、監査したのが勘解由使(かげゆし)だった。

受領(ずりょう)と言う呼称の起源であるが、行政官の長(受領/ずりょう・国司)の国司交替の際に、後任の国司が適正な事務引継を受けた事を証明する「解由状(げゆじょう)」と言う文書(受け取り証明)を前任の国司へ発給する定めとなっており、実際に解由状(げゆじょう)をもって現地の権限を受領する国司を「受領(ずりょう)」と呼ぶようになった。

簡単に言うと、中央から赴任して来た行政官の長(受領/ずりょう・国司)は守(かみ)、及び権守(ごんのかみ)であるが、上野国、常陸国、上総国などの親王が任国する地方は次官の介(すけ)、権介(ごんのすけ)がその任にあたった。

これらの様々な肩書きが在りながら、入国後の現地での権限がほぼ同じである為に、その交替方法を採って「国司行政官」を便宜上一括して「受領(ずりょう)」と呼んだのである。

これらの行政官、守(かみ)、及び権守(ごんのかみ)及び介(すけ)、権介(ごんのすけ)は官位が四位〜五位どまりの下級貴族であったが、この制度は任命された国司に対して租税収取や軍事などの権限を大幅に委譲すると言うもので、中央へ確実に租税を上納する代わりに、自由かつ強力に国内を支配する権利を得た為にその権限は強く、その権限を背景に蓄財を行いそのまま任国に土着して解任後もその勢力をたもったまま地方豪族に収まるものが出て来た。

国司交替によって地方に土着した元国司の豪族と新任の国司の間でその権限委譲が円滑に行く為の物が「解由状(げゆじょう)」であるが、当然ながら前任者の既得権益を後任者が簡単には譲り受けられず抗争に発展する事も多かった。

また、円滑に権限委譲が行なわれてもその後の租税収取などの立場が、勢力と財力を蓄え土着した元国司豪族と入れ替わる為、紛争を起こす火種になっていた。

この解由状による受領(ずりょう)を観察する役目の行政監査官が「陰陽助(陰陽寮次官)」勘解由小路(かでのこうじ・賀茂)家の「勘解由使(かげゆし)」である。

つまり勘解由使(かげゆし)は、国司の不正を監視・摘発する為に設けられた令に規定のない令外の官(特別な役職)で、日本の平安期に於いて「地方行政」を監査監督する為に設置され、地方行政監査官を担当した。

令に規定のない「令外の官」と言う事は「情況に応じた権限が発揮できる」と言う事で、平安初期、地方行政を監査・監督する為に設置され、その後、監査の対象は内官の監視へと拡大した。

いずれにしても、明らかに勘解由使(かげゆし)は「監査官」と言う言わば摘発官であり工作員である。
さながら米国のFBIと言うより「CIA」と言う所か?
勘解由使は、平安末期頃まで、「監査機関としての統合任務を負った機能を担い続けた」と考えられている。


大和朝廷の直轄機関として陰陽寮が設けられたのは、統治の上で多くの機能を掌握できるからである。
今風に表現するならば、NASA(航空宇宙局)とCIA(中央情報局)、NAS(科学アカデミー)、FBI(連邦警察)、占い・宗教思想のコントロール、動植鉱の薬物採取、鉱物資源探査、鉱物資源加工指導、など多岐に渡る。つまり、当時の最先端の知識と技術を持ち、しかも戦闘能力も持ち合わせる特殊工作集団だったので有る。

今でこそ神官と武士は線引きがされ、分けられて考えられているが、元を正せば両者に線引きはない。
つまり、永きに及び神官が武士で、武士が神官と言う表裏一体のものだった。
その事こそ、氏神(神社)の成立ちであり、武士が修験山伏の出自の証明である。

そこに仏教が伝来して、僧兵と言う僧侶兼武士が発生したが、それも「武」の部分は修験山伏を祖としていた。

このように現在では人命を尊ぶイメージの強い神官や僧侶は、元々は戦闘要員の武士と同じ者が兼業していた事になる。
考えて見れば、武田信玄も上杉謙信も入道(仏門に帰依)しても、己の為に領土拡張を戦っている。

その他の武将もそうだが、平安期から安土・桃山期まで、神仏は戦勝を祈願し、家の隆盛を願う為の信心だった。つまり、仏教の本質が己に運をもたらす現世利益であり、平和と慈愛の仏心などは当時の人々には無かったのである。

この神官や僧侶と武士の間に、明確な線引きが確立したのは江戸期に入ってからで、それ以前の都合の悪い「信仰の利用の歴史」に、口を拭っている事に、胡散臭さを感じるのは我輩だけだろうか?

神官や僧侶の人命についての認識がこの程度だから、姦淫(性に対する認識)についても、生臭くても何の不思議も無い。
それを、聖人君子のように、開祖、開基の高僧を扱う。
当然ながら、庶民の信仰を集める為の方便である。


一口に影人と言っても、実は大小二系統の流れがある。
「小の系統」、勘解由小路(賀茂)家は、修験道の祖「役小角(えんのおづぬ)」の家系であり、京都で賀茂神社を奉る賀茂氏(葛城御門)の流れの陰陽師であり、陰陽寮の陰陽助として土御門(安倍)家に次ぐ上席陰陽師貴族の家柄で有る。

平安時代になると、葛城氏系賀茂氏の血統は、女系の婚姻でも藤原氏、大伴氏、服部氏などの支流と繋がり、あらゆる形で血統が大きく広がりを見せ始める。
つまり、多くの氏族にも女系で賀茂の血が広がり、氏は違っても勘解由小路党に加わる者も多かった。

その一党が貴族の生活を棄てて、この時代から地に潜る。
時を経て、変化を遂げた政権運営の時代の要請が、嫌応なしにそれを要求していた。この頃になると、貴族達が怯えた「鵺(ぬえ)」は、実は民衆の中ではなく、貴族(征服部族)の血統の中にこそ、潜んでいた。

以前から課せられている今ひとつの帝の密命「大王(おおきみ・天皇)の密命」の方は、表に現れる事も無く順調に進んでいたが、帝に仇を成す鵺(ぬえ)退治も、陰陽師設立以来の賀茂氏の役目の一つである。
その役目は、いかなる事があっても守り務めねばならない。

しかし時代は変わる。
朝廷の実権は時々の有力者に握られ、皇室独自の予算が組めなくなって久しい。
増してや非公式の影の予算など、もはやあるはずも無い。
勘解由小路(かでのこうじ)党は、必然的に自活の道を持って生き延びる事になった。

これより先、この物語には「勘解由小路(かでのこうじ)党」の名が頻繁に出て来る事に成る。
しかしながら、この「勘解由小路(かでのこうじ)党」は、その生い立ちから活動まで帝の秘せる諜報工作を受け持っていた所から、日本史の正史にはほとんど顔を出さない謎の組織である。



月には妖気がある。
闇を照らして人々を和ませるが、天が機嫌を損ねると月は隠れてしまう。

暗闇は「人に、何かが襲い来るのではないか」と、恐怖心を抱かせる。
影人達には、その月の明かりが良く似合う。
御所は月明かりに抱かれて静まりかえっていた。
千年の都は、動乱の兆しさえ知らずに眠りを貪っている。
雲が足早く動き、月が隠れて、都が闇に消えた。

解由小路(賀茂)吉晴の手には、古ぼけた倭文(しずおり)の布に包まれた賀茂の六輪の錫杖(しゃくじょう)が握られていた。
最澄が中国天台の本山から持ち帰った由緒ある錫杖だった。

この賀茂の錫杖(しゃくじょう)は、七百年代末頃に征服王「桓武天皇」から賜った葛城氏族系賀茂家の家宝である。
錫杖(しゃくじょう)は、呪詛法要のリズムを取る他、合図としても使われる修験山伏の象徴的必需具だった。

この大切に磨きあげられた青銅の錫杖(しゃくじょう)が、時々の乱の渦中にあって、「妖気を放つがごとき存在になる」と判るのは、まだ先の事だった。


陰陽寮の陰陽助、勘解由小路の屋敷広間に集まった勘解由党の面々は、天台、真言の主だった修験山伏(修験道師)ども、服部(伊賀)、大伴系大原(甲賀)の武術集団の三十人差配頭の五十人だった。
先程多くの者が踏み荒らした庭の下草から、青臭い匂いが、広間まで漂ってきた。

日本の歴史に物を言ったのは、「お血筋」である。
「お血筋」さえ良ければ世間はその存在を認め、盟主に祭り上げた。
勘解由小路吉晴は、勘解由小路党の盟主である。

総差配、勘解由小路(賀茂)吉晴が一同に言い渡す。
「帝(みかど)の思(おぼ)し召しじゃ。我ら一同諸国に散り、田畑を耕して影に廻り、帝の御為に身命(しんめい)を賭(と)しても、お使えする。この事しかと頼み参らす。」

「承知。」
吉晴は、暫く無言で一同を見渡していた。
沈黙の中、油灯明の焼ける音だけが、ジリジリと聞こえていた。
「今一度良いの御一同、我らが取るべき道は一つ、影に徹する事じゃ。」
「承知。」
勘解由小路党は、その存在意義を求めて変身し、地に潜って存続する道を選択した。


もうお判りだとは思うが、勘解由小路家の勘解由(かでの)は「影良し」に通じている。

勘解由小路家は朝廷の密命を帯び、配下の修験山伏(修験道師)頭三百名を放った。
天台(比叡山・台密山伏)、真言(根来寺・真言山伏)として身をやつし、山河に分け入り、全国に散った。

彼らはこれ以降、密命を秘めてその土地の草として土着、皇統に事ある時に備えている。或る者は僧侶、或る者は神官、或る者は修験者(山伏)、或る者は郷士に身をやつし、「十数代に渡って皇統護持の使命を果たさんとする覚悟の者ども」であった。

そうした彼らは、後の世で不本意にも「忍者」と呼ばれる事になる。事実は修験道師であり、神官、僧侶、僧兵、郷士、小領主(国人領主)であり、白拍子だったのである。

確かに、世を忍ぶ仮の姿を持つ事から、「忍び」と言われればその通りだが、初期のルーツは勘解由小路党の面々だったのである。
その成り立ちが、蝦夷(えみし)ゲリラ摘発の「秘密検非違使組織」で有る所から、当初は朝廷から活動費が出ていた。
そして暫くの間は、伝統的に帝直属の工作機関として存続していた。

しかし地に潜って二世代も経つと、中央に組織が無い為に、次第にその存在さえ忘れられがちになった。
だが、「帝の御為」と言う精神的な申し送りだけは、相伝される知識や技術とともに子孫代々伝わって行った。
それが、彼らの伝え得る誇りだったからで有る。

その後は地に潜り、秘密工作能力を併せ持った「自活する特殊監査官」に変貌を遂げたので有る。

当然の結果で有るが、広く知識を修め、武術を修めた彼らは、受け入れた土地で認められ、その土地で指導的な立場に立ち、やがて支配階級とは一線を画す、興味深い独特の村文化(庶民の文化)を醸成する事になる。
つまり、下層氏族(有姓百姓)の武農兼業集団に拠る独立統治組織の土着衆を各地に生み出したのである。

そうした草の内の一群に、美濃国・土岐郡妻木郷(岐阜県土岐市妻木町)に住み着き大郷士として成功、名門流故に鎌倉幕府から地頭職を任じられた勘解由(かでの)家がある。

この勘解由(かでの)家、やがて所領の「妻木」を名乗るようになるのだが、この妻木家から遠い将来の戦国期に歴史に名を残し、天下の趨(すう)勢を左右した男に嫁ぐ、「煕子(ひろこ)」と言う娘が現れる。
その話は、この物語の第三章で記述するので、楽しみにしてもらいたい。


一方で被支配層の民人は、氏族とは違う庶民文化を構築して、彼らなりの素朴な生活をしていた。
最終章で詳しく話すが、被支配層の民人は、彼らなりに修験の教えに影響されながら、支配階級の争いをよそに、「生活基盤と庶民思想」を確立して懸命に生きていたのだ。


都の公家・勘解由小路家は、その役割に於いて帝から影の働きが期待されていた。
公家屋敷は残してはいるが、勘解由小路党の棟梁は、その為に分かれた影分家が世襲した。

勘解由小路党は、東大寺の良弁(ろうべん)僧正とその高弟の実忠和尚(じっちゅうかしょう)が、巨岩石に仏像を彫刻した事から修験道の信仰を集めた笠置(かさぎ)山を本拠とし、笠置寺の護持僧に身をやつす。
これ以後、勘解由小路党の司令塔は笠置寺だった。


平安時代の中期になると、奈良時代の防人制度の廃止、武力ではなく神の力で国を修める建前の為に、朝廷の武人が形式化して弱体となり、地方豪族の私的で日常的な武装化が促進され、武器・武具の形状に著しい変化が現れる。

所謂(いわゆる)「武士の台頭」で、地方豪族の私的で日常的な武装化が進んだからである。

刀剣は前代の直刀から湾刀に、弓は従来の丸木弓より「伏竹」と呼ばれる木弓に竹を魚膠で貼りつけた強力な弓に、甲冑は大鎧(おおよろい)、胴丸(はらまき)と呼ばれる現在でも馴染みが深い形状の物が出現する。

大鎧は挂甲(けいこう・古墳時代の甲冑)に影響を受け、腹巻は短甲(たんこう・古墳時代の甲冑)に「影響を受けている」と言われる。


土地の草が小さい影なら、大きい影は源氏の血流である。
清和(せいわ)源氏流は、清和天皇(第五十六代)に端を発する高貴な血筋を有する武門の一方の旗頭である。

源氏流は、けして朝廷の密命を帯びた訳ではない。
しかしながら、皇統の血流・皇胤(こういん)貴族であるから、和邇、大伴、中臣、蘇我、と言った諸王族の出自よりも遥かに皇統には思い入れが強い。

源氏流にも諸派があり、村上源氏、清和(嵯峨)源氏、清和(摂津)源氏、清和(河内)源氏、など清和源氏だけで二十一流が在り、源頼朝は清和(陽成)系河内源氏が正確である。

皇統から臣籍降下で、賜姓の「源氏」を賜った血統で、武門として朝廷の統治を補佐する家柄である。
彼らは、武門と言う事で特に天台、真言の両密教との交流が激しく、勘解由小路党とも近い関係だった。

彼らも代を重ねて枝を広げ、全国に散って行き、それぞれが土地の有力地侍・武将(後には在地領主・国主)として根付いて行った。
実を言うと頼朝の「河内清和源氏」と言っても、最初の頃の系図が、「多分に怪しい」とする意見もある。

恐らく河内源氏流が、皇統から発した武門と言っても、武門化する前の「貴族としての位が、村上源氏と違い当初相当低かった」のでは無いだろうか。

いずれにしても、「怪しくも」その後の力の実績が長く続くとそれが本当らしくなり、人が認める様に成る。
そうなると清和源氏は武門の名門である。

この「源氏の統領」の血筋を狙って、何が何でも「嫁」になったのが、北条政子である。
この北条政子こそ、鎌倉期を代表する強(したた)かな鵺(ぬえ)の一人だった。

実は北条の血筋もバリバリの皇胤(こういん)貴族、桓武平氏で、それも、平清盛よりも有力な家柄の筋にあたる。
過っては 、北条(平直方流)の方が、高位の役職に在ったのである。

その話は後述するが、この平氏の血筋、皇統に繋がる名門貴族の出自で有りながら、どう言う訳か伝統的に、皇統と度々「権力争い」のいさかいを起こす星の下にある。
或いは、平氏が自他共に赦す名門過ぎた事が、根底にあったのかも知れない。

ここで、平氏の対極に居たのが勘解由小路であり、河内源氏だった。
つまり両者とも、位が低いがそのぶん皇統に対する誇りだけが大事な「存在意義」だったのである。
それ故に影の精神が成立し、影は影のまま活躍する。

地方豪族を主体にした武士が台頭し、平安時代中期に出現した「大鎧(おおよろい)」は、騎射を主要戦闘形式として想定され、観掛けにも凝った造りで、武将の象徴として代々の当主に着用される「源家重代の鎧・八領」とか「平氏重代の鎧」は、家系を貫く「嫡流の象徴」と言う意味をも持っていた。

その大鎧を簡略、軽量化して作られた「胴丸」は、徒歩戦を主要戦闘形式に想定され、比較的身分の低い者の軽武装用に考案されたもので有る。
勘解由小路党(修験系)は好んでこの軽武装、「胴丸」を使用した。
立場上身軽な機動力が信条だったからである。


話は源氏の台頭以前の時代、平安中期に遡る。
平氏は桓武天皇(第五十代)の皇子「勝原(かつはら)親王」に端を発する高貴な血筋の武家の一門で、一方の旗頭であった。平氏もまた、皇統から臣籍降下で、賜姓の「平氏」を賜った皇胤(こういん)貴族の血統である。

平氏の大基(おおもと)にあたる桓武天皇は、歴代天皇の中でも最も強烈に好戦的な指導者である。

彼のその強烈に好戦的な個性が、この国の「本州以南をほぼ統一国家にさせた」と言って過言ではないのだが、良くも悪くもその個性を血筋として受け継いだ事が、その後の桓武平氏を名乗る指導者達の、厄介で強烈な生き方として現れるのである。


源氏が武門としてデビューする前、平氏は当初、朝廷の正規軍として期待されていた。
その大半は中国・四国、九州、或いは関東の守りの要として赴任、所領を得て土着する者も多かった。当時地方の統治について、政治は藤原氏一門、警察・防衛は平氏一門が、主に担当していた。

特に関東以北には、先住民族の蝦夷(えみし)と呼ばれる他民族(当時)が独立して存在し、これの抑えが必要で平氏が多数配置されたのだった。
この関東系の平氏については、昔から中央の役人と「一線を画していた」事も事実だった。

つまり中央に遠く、目が届き難い為、発想が朝廷政府の意向に囚(とらわれ)ない自由なものだった。
当時の気分としては、高貴なはずの自分達が、都から遠い辺境の警備に追いやられ、「苦労をさせられている」と言う、ひがみと恨みが根底にあったのである。

そして、応分の裁量権も暗黙のうちに存在した。
「応分の裁量権」と言えば綺麗だが、つまりは私的武力を背景にしたかなり勝っ手放題だったようである。

地方豪族、地方国主(臣王)の集合体をまとめていた朝廷(帝)の権威は、ご託宣(神の助言による統治)である。
そして地方統治は、地方豪族、地方国主(臣王)が武力(私兵)を持って行なっていた。

神の権威を持って任ずる帝に、武力は不要の筈だった。
その帝の代わりに、中央から派遣されて朝廷の地方行政業務を代行したのが、強力な武力(私兵)を背景にした藤原氏の一党である。

ところが、藤原氏の勢力が衰え始めた平安中期頃になると、中央から派遣された地方行政官としての藤原氏は無力化し、地方豪族、地方国主(臣王)が武力(私兵)を拡大して勝手な領地争いを始め出した。

その地方での混乱を、「神の力で統治する朝廷(帝)の権威」と言う建前から、直属の武力を持たない帝が押さえられる訳も無い。
そこで考えたのが、皇統に拠る変則的な帝の私兵、親王臣籍降下によ拠る軍事力の創立である。

桓武帝(第五十代)の皇子「勝原(かつはら)親王」に端を発する皇胤(こういん)貴族の血統賜姓の「平(氏)」を賜った高貴な血筋の武家の一門が、朝廷の正規軍として期待されていたのである。
その平氏が、独自に実力を強め、帝のコントロールから変わり始めると、次に送り出したのが同じ皇胤(こういん)貴族の「源(氏)」と言う訳である。

そして官僚部門を受け持つ藤原氏は、武力に勝る平氏に、全国各地で次第に権限を抑えられて弱体化して行った。
藤原氏の弱体化で頭を押さえる者が居なくなると、行政官の長(受領/ずりょう・国司)として赴任して来た平氏系の下級貴族及びその部下として赴任した下級官司は武装を強め、赴任した地方で勝手に所領を取り合う私闘を始める。


戦人(いくさびと)には、相手に憎しみなど無い。
獲物を前にワクワクさせる血が騒ぐだけだ。戦をする事がもって生まれた唯一の生き甲斐だった。
それを象徴するのが、「相馬小次郎(平)将門(たいらのまさかど)・新皇事件」と言う事になる。


頼朝挙兵から遡る事、約二百二十年前、関東一帯で、「平将門の乱」が起こっている。
この平将門の乱は、ほぼ同時期に藤原純友が瀬戸内地方一帯で起こした乱を併せ総称して俗に「承平天慶の乱(九百三十五〜九年)」と呼ばれている。
背景にあったのは、氏族社会における中央と地方の政治抗争である。
ちなみに、この頃にはまだ勢力は弱いが源氏系の官司も赴任し始めている。

平将門も藤原純友も受領と土着した元国司豪族や地方富豪層の間の緊張関係の調停に独自の武装勢力を形成して積極介入し、結果中央(朝廷)との敵対に追い込まれ追討を受けて滅ぼされた。


平安末期に歴史を刻んだこの男・平将門は、人柄が素直過ぎて疑う事が苦手だった。
それが幸いして人望を集めたのだが、現実の腹黒い輩が溢れるこの世は不幸な事に将門の正義感だけでは通用しない。

平将門(たいらのまさかど)は結果的に謀反人に成ってしまったが、あながち悪人ではない。
どちらかと言うと正義感が強い純真な心の持ち主で有った。

こうした歴史物語に登場する人物は、決まって数奇な運命に翻弄される事になる。
彼の場合は、信じていた朝廷(政権)への失望が、反乱を起こした原因だった。

いつの世も同じであるが、既得権にあぐらをかいた権力者は己の利にのみ関心がある。その不条理を純粋な若者は許せない。
所がその不条理を正そうとすると、反体制側として逆賊の汚名を着る。
この二千年の間にこうした事が、何度繰り返された事だろうか?


今の世でもそうだが、こうした若者の正義感と純真さは塀の上を歩いている様な危(あやうさ)があり、転び方次第では悪役にされたり自ら汚名をかざしたりの暴挙に出てしまう。

平将門(たいらのまさかど)が反乱を起こし、勝手に役人を独自に任命して関八州に配置、一時中央政権から「独立させた」と言う。

平将門は、桓武天皇の皇子「勝原(かつはら)親王」から数えて、系図五代目になる。
桓武天皇(第五十代)は、あらゆる点でその在位中に強烈な指導力を発揮した日本史に於ける史上最強の天皇であり、日本(大和の国)の歴史上最強の権力を行使した天皇で、後にも先にもこれほど強力な天皇は居なかった。

その桓武帝の最強の子孫が「桓武平氏流だった」と言って過言では無く、平将門は正にその最強の血を受け継ぐ桓武平氏流だった。


この将門の乱、最初は関東での身内同士(将門とは伯父と甥の間柄)の相続争いに端を発したものである。

相馬の小次郎・平将門は、鎮守府将軍として下総(今の千葉県)に広大な領地をもつ平良将(たいらのよしまさ)の次男として生まれた事に成っている。しかしこれには異説があり、「村岡(平)良文(むらおかよしふみの)の子である」と言う古文書が、所縁の地・相馬から出ている。

奥州相馬系図の中に「忠頼、村岡二郎良文子、継将門が跡」の一文があり、平良文と平良将は兄弟で、相馬小次郎・平将門は良文の実子だが良将の養子となって家督を継いだ事が書かれている。

平将門が良文の実子であるならば、「将門の乱(承平の乱/じょうへいのらん)」に村岡(平)良文との関わりが一切無いのが不自然である。
それでは何故、平将門が新皇を名乗る反乱を起こした時に村岡(平)良文(むらおかよしふみの)はこれを傍観していたのか?

実はこの時、奥州(出羽国)の俘囚(蝦夷/えみし)が叛乱を起こし、奥州・鎮守府(胆沢城)に鎮守府将軍として奥州に赴任、釘着けに成っている間に将門が討ち死にして乱が鎮圧されてしまったのである。


奥州相馬系図「忠頼、村岡二郎良文子、継将門が跡」だが、あまり古文書を引き出すと、頭の固い古文書マニアと間違えられるので避けたい所だが、ここは重要な要素があるので敢えて記載する。

奥州相馬系図において村岡(平)良文については、「鎮守府将軍、北斗星北辰大菩薩の落胤、依之満月九曜星胸現、蒙勅定、常陸大掾国香為誅伐、養子召共将門。急上州馳下。数度及合戦。於染谷川辺即時一戦討勝。因茲国香一族共以滅亡。委細之儀妙見之縁起有之也」とある。

また、平将門については「良文為ニ甥タルニ依テ、養子ニ成 家督相続。其以後嫡子忠頼跡譲。下総内相馬ト云所エ隠居。内裏建居住。去程東八国之諸侍皆以官位昇進。因茲将門蒙勅勘落命。相馬之内裏破滅也。其後武州之内江戸之明神現玉フ。平新皇御存生之内、相馬之家之紋牒馬改。二男小次郎ニ譲玉也。」とある。

大和朝廷に反旗を翻し「新皇」を名乗った平将門だが、もし平将門がこの村岡(平)良文の実子(次男)であれば、「新皇」を名乗っても不思議はない。

良く見て欲しいが、父親・村岡(平)良文について鎮守府将軍はまだしも「北斗星北辰大菩薩の落胤」と名乗り在る所に、この時代の坂東(関東)における朝廷の権威が届き難い政情が垣間見える。

まぁ村岡(平)良文にして見れば、古(いにしえ)人が神を名乗ったのだから、自分が「菩薩の落胤を名乗って何が悪い。」と言いたいのだろうが、「北斗星北辰」は天地(全宇宙)の最高神(天之御中主神)の事で、まるで自分を「天子」と名乗って居るようなものである。


平将門が受け継いだ良将(よしまさ)の平氏は、関東の平氏としては名門の一族だった。
その父・良将が亡くなって、将門が朝廷に相続の保証と官位を願い出て都にいる二年の間に、伯父の平国香(たいらのくにか)鎮守府将軍に所領を全て奪われていた事から、この騒動は始まる。

広大な所領を有する平良将(たいらのよしまさ)が亡くなり、家督を継いだ養子の平将門は都に出向いて留守だった。
伯父の平国香にして見れば、所領横領の絶好の機会が訪れた事になる。
さながら坂東(関東)は、力有る者が無法に武力で勢力を拡大する西部開拓史時代のアメリカ西部劇を見るようではないか。


この時代、荘園(領地)経営は大事業で、自分達の虎の子だから開墾や土地の改良から始めて、慈(いつく)しんで育てるものだったから、「一所懸命」の原点で思い入れもひとしおだった。
平将門は、父の残した所領を留守中に伯父に横領されていた事になる。

都から帰郷した平将門も、領地横領を横領されていて驚いた。
所領を横領されれば、父の代から臣従する一族や家臣団も路頭に迷う。

将門が留守の間、所領から追われて辛酸を舐め耐えて来た者共も多く、本来なら直ぐにでも戦を仕掛け父の所領を取り返すべき所だが、当初相手が伯父の「国香」の事と我慢をし、「さも浅ましき者共よ。」と自重して独自に新田の開墾などしていた。

処が、伯父の平国香の方が後ろめたいから、将門に「何時攻められるか」と不安が募る。

甥・平将門の所領を横領した平国香(たいらのくにか)側からすれば、手に入れた筈の領地の一郭に独立した将門の開墾地が在るのは不安材料で、いつ何時将門が力を着けて取り返しに出ないとも限らない。
まぁ、「災いの芽は、早くに摘んでしまおう」と言う発想だった。

結果、将門を倒して「不安を取り除こう」と、伯父の平国香党が嵯峨源氏の源護(みなもとのまもる)と結託し、平将門に襲いかかる。
「伯父・平国香」対「甥・平将門」と言う肉親同士の領地の取り合いに成ったが、この時代さして違和感は無い。

新天地を求めて荒海を越えて来た征服部族である氏族の基本的な感性は、「戦い取る」と言う戦闘的な【左脳域】思考が強いDNAを持ち合わせている。
左脳域】は、厄介な事に論理・理性の他に原始本能として「闘争本能(戦うか逃げるかの判断)」の部分を受け持っている。

しかも氏族は、長い事「支配地(所領)の取り合い」と言う現実的な世界で生まれ育って来ていた。
そうした環境下では、その権力に対する価値観が【左脳的】に最も重要で、親子・兄弟・叔父甥でさえも争う結果になる。

そもそも当時の氏族の価値観で言えば、所領の拡大の最優先が正義で、争う相手が肉親もくそもない。
米国の西部開拓史でもそうだったが、開拓時代は土地と奴隷(日本の場合は奴婢)の武力による取り合い為されている。
開拓時代のお定まりで、日本の氏族(征服部族)も根本が好戦的な部族で、土地と奴婢(ぬひ)の取り合いである。

相手の甥・平将門が父親・平良将を亡くし、しかも将門が都に出仕していて留守となれば、これは平国香にとって又と無い絶好の領地横領の好機(チャンス)だった。

平将門はこれを返り討ちにして国香を討ち取り、事の顛末を朝廷に報告、一族の私闘として罪を許される。


その後も将門を狙った動きは続き、将門は、上総介(平)良兼(かずさのすけ・たいらのよしかね)に騙され一時は滅ぼされそうになるが、何とか勢力を盛り返した。
その勢いで国香の子「貞盛」を戦いで破るが、討ち取るに到らず取り逃がしている。

これらの争いは、所領をめぐる同族の私闘で有る。
この関東の平一族同士の理不尽な土地争いの揉め事を、朝廷がうまく裁けず、現地の事務方役人、藤原氏も手が付けられず、放置状態にして将門を怒らせてしまった。
将門は、「朝廷は頼りに為らない」と、自ら行動を起こしたのだ。

将門にとって不幸だった事に、そうした指導力欠如の朝廷とのいざこざは、将門の所ばかりでなかったので、関東の揉め事に将門の出番が増え、将門の名声が上がって行って、坂東(関東)武士の盟主に成ってしまった。
この事例はどこかで聞いた様な話で、今でも現場を確認しない役人の怠慢によるトラブルは、後を絶たない。

そこに決定的な事件が起きた。
事は都から遠く離れた関東で起きている殺気立った揉め事で、事は迅速を要し悠長に朝廷の裁定など待っては居られない。
所が、中央政府である朝廷の煮え切らない態度に失望した将門に、もはや猶予は無かった。

人間、一生の内には理不尽な事に遭遇する事が多々ある。
その理不尽に異論があるなら戦えば良く、戦わないならゴチャゴチャと影で文句など言わない方が良い。

絶えず決断を迫られ、それに誤まれば命を失う時代で、誰にでも訪れる躊躇(ちゅうちょ)はこの時の将門には無用の局面だった。
中央を頼れないのなら、独自に現地処理をするしか無いのだ。

その争いの介入の過程で、引くに引けない国司との合戦が起き、朝臣(朝廷の役人)藤原維幾を捕らえてしまったのだ。

この状況から、平将門は意を決めて、坂東武士を結集、関八州に代官を配置し、「新皇」を名乗ったのだが、若い将門にすると「自分ならもっと上手く統治してみせる。」と言う思いがあったからである。


下総国佐倉は父・平良将の所領である。
佐倉の里は、春の嵐に見舞われていた。この嵐、言わば大気の胎動で、この嵐が通り過ぎてこそ季節は初夏を迎える。

平将門は、朝廷の地方紛争処理が一向に進まない事に憤慨していた。
冷静に見回すと、周囲には将門を頼りにする豪族が溢れていた。
「面白い。良い機会じゃ。都にひと泡ふかせようぞ。」 朝廷が出来なければ自分がやるしかない。将門に、フツフツと高揚感が湧き上がって来ていた。


平将門(たいらのまさかど)は反乱を起こし、中央派遣の朝廷役人を捕縛または追放し、勝手に役人を独自に任命して関八州に配置、関東の地を一時中央政権から独立させた。

その事態に、直属の武力を持たない朝廷は上を下への大騒ぎとなり、さしたる対策も出来ず、太政大臣・藤原忠平(ふじわらのただひら)が、僅(わず)かに関東地方に鎮圧命令書を乱発、影の工作を勘解由小路党に託したに過ぎない。

「相馬小次郎(平)将門(たいらのまさかど)を追討せよ。」
朝廷から、関東武士に院宣が飛ぶ。
届けたのは帝の手の者、勘解由小路党の面々である、

承平天慶の乱(平将門の乱・藤原純友の乱を一括)当時の朝廷は、朱雀天皇(すざくてんのう/第六十一代)の代だったが、小一条太政大臣(こいちじょうだじょうだいじん)・藤原忠平(ふじわらのただひら/)がお傍に居た。
藤原忠平は、朱雀天皇(すざくてんのう)の時に摂政、次いで関白を任じて朝廷の政治を司っていたのだ。

帝の傍近くに在った殿上人達は、この事態に驚愕する。
平将門が独立を宣言して新皇を名乗るとなると、朝廷の権威は失墜する。
しかし只独り、この騒ぎに「いずれ治まる」と慌てない男が居た。
時の摂政・藤原忠平だった。

正妻にあたる中宮に藤原穏子(忠平の姉)が先代・醍醐天皇(だいごてんのう)に嫁して居た為、 朱雀天皇は太政大臣・藤原忠平(ふじわらのただひら)の甥にあたる。

朝廷直属の秘密工作機関、解由小路(賀茂)吉晴ら解由小路党を実質的に使っていたのはこの太政大臣・藤原忠平(ふじわらのただひら)である。
平将門(たいらのまさかど)反乱の報を聞き、藤原忠平(ふじわらのただひら)は解由小路党棟梁・解由小路(賀茂)吉晴を内裏に呼び、事態収拾の策を命じている。


本来なら、そう簡単に決着が尽くような状況ではなかった。
処が、奇蹟が起こる。
朝廷の鎮圧命令を受けた平貞盛(後の伊勢平氏)ら討伐軍との「北山の合戦」であっけなく敗れ、将門は敗死してしまった。


相馬の小次郎・平将門は、平貞盛(後の伊勢平氏)、押領使・藤原秀郷ら討伐軍とは「猿島郡の北山」で迎え撃つ事になった。

旧暦二月の半ば、僅(わず)かに春先で在ったが関東の沼地はまだ寒い。
この時期は、都合が悪い事に農繁期で、その上に関八州の押さえの為に、手勢の兵を散らしていて、甲冑に身を固めた将門の軍勢は、思いの外に整わなかったが仕方が無い。

それに平貞盛は、以前何度か戦をまみえて、取り逃がしてはいるが破っているから恐れるに足りない自負が将門にある。

両軍対峙して見たが、平貞盛ら討伐軍との互いの兵力が拮抗して、そう簡単に決着が尽くような状況に無く、北山の戦は、混戦の様相を呈していた。
「引くな、押し包まれるぞ」

「ワー」と言う自らを鼓舞する時の声と伴に、寄せ手の軍勢が殺到して来た。
双方の距離が窄(すぼ)まり、「者供、矢を番(つが)えろ〜。放て。」の号令が将門から飛ぶ。

「ヒュル、ヒュル」と凄い数の矢が一度に敵陣を襲い、腕を射抜かれる者、肩を射抜かれて膝を着く者、脚や胸に傷を負う者、一瞬寄せ手の平貞盛勢が怯(ひる)んだ。
「しめた、勝機は掴んだ」、その一瞬の期を逃さず、将門は、反撃に転じる。
「それぇ〜包んで討ち取れ〜。」

混戦の中、思わぬ事態が発生した。
戦に於いては弓矢の数がものを言うが、弓矢で敵将を狙い、射掛けて討つのは容易な事ではない。
現実には、たとえ当たってもまぐれ当たりで致命傷には中々至らず、白兵戦の前哨として、いくらか相手の戦意なり戦力を弱められれば良い方だった。
それでも、両軍対峙すればまず矢が放たれ、次に切り結ぶか行き成り馬で敵陣に攻め込むのが野外戦(城外戦)である。

もっとも、この時代にはまだ本格的な城は無く、館造りの屋敷が武士の住まいだった。
後の南北朝並立時代の城もまだ砦と言う方が相応しい物で、本格的に城が造られるのは戦国期の中頃位からである。
ともかく、館に篭っても不利で持ち堪えられないから野外戦(城外戦)が主流だった。

北山の地で平将門勢と平貞盛勢は激突して各所で切り結び槍を突き、怒号が乱れ飛んでいた。
その混乱の中、有ろう事か白羽根の矢が一本、シュルシュルと味方の陣営から飛来して、将門の額を貫いた。

「バタッ」と将門が仰向けに倒れた。
慌てた味方が駆け寄って将門を抱き起こしたが、既に息絶えていた。
矢は額に刺さったままの壮絶な死で、即死だった。

この一瞬の出来事で、正式に将門討伐を組織した朝廷の征東軍が到着しない内に反乱軍の盟主が討たれ、戦いは終っていた。
関東で起きた将門の乱は、あっけなく平定されたのである。

平将門は討たれてしまったが、めぐり合わせとは不思議なものでこの将門の起こした争乱(承平の乱/じょうへいのらん)がまさか後の鎌倉幕府成立の芽となるなど、将門本人は勿論の事、誰も思いも拠らない事だった。


この戦い、乱戦の中で一瞬の油断により不運にも平将門が頭を矢に射られて絶命し、「貞盛方の勝利と成った」と記述にあるが、「流れ矢」と言うのがどうも臭い話である。
これは、簡単なトリックかも知れない。

実際には、当時合戦の最中に「将」が矢を射られて絶命するなど偶然に近い確率であり、合戦のドサクサ紛れに至近距離から命を狙われた可能性が多分にある。

実は勘解由小路党の裏の仕事の中に、天罰がある。
大王(おおきみ)の神的権威を実証するには天罰が必要である。

平たく言えば帝(みかど)に対する「恐れの演出」で、帝のご意向に沿わない者には相応の天罰が下ったのだが、その神の仕置きの代行こそが勘解由小路党の重要な仕事の一つだった。


将門の乱当時、朱雀天皇(すざくてんのう ・六十一代)は僅か十三歳の為、伯父の藤原 忠平(ふじわらの ただひら ・藤原の長者)が摂政(せっしょう)として政務を司(つかさど)っていた。


チチチチ、チ、チュチュン、チュチュンと、長閑(のどか)な小鳥の囀(さえず)りが春風に乗って聞えて来る。
鳴き声は長閑(のどか)だが、今朝は花曇の曇天(どんてん)で、先程からすると風も幾らか強く成って来た。

聞いている間に小鳥の数が増えて来て、鳴き声が激しく成って来た。
春先は天候が急変するから、雨が降って来るかも知れない。

「摂政(せっしょう)様、吉晴めにございます。」
小鳥の鳴き声で目覚めていた藤原忠平(ふじわらのただひら)は、早朝の寝間の床の中で勘解由小路党棟梁・勘解由小路(賀茂)吉晴の声を突然聞いた。
彼が参上するからには、命じてあった事の報告である。

「吉晴か、して首尾は如何に?」
摂政・藤原忠平は、半身、身を起こして応じた。
暗闇で姿は見えねど、何時(いつ)ものように吉晴の声が耳元で聞えている。
勘解由小路党は、敵に廻せば恐ろしい相手である。

勘解由小路党棟梁・勘解由小路(賀茂)吉晴の名は、世襲々名で代々吉晴を名乗っている為、巷では「何百年も生きる妖怪」と畏怖(いふ)され、囁かれている。
「弓を持って仕留めましてござる。」
「それは上々、働き大儀である。・・帝もお喜びになるであろぅ。」

「我ら、帝の御為が生き甲斐にござる。」
勘解由小路党は、帝の敵と見れば摂政の藤原忠平とて容赦はしまい。
その凄みが、数百年も帝を守って来た。
「その勘解由(かでの)の忠義が、代々帝を護持しまいったのじゃ。」

「お役目とは言え吉晴めも、将門の心情は惜しきものでござった。」
「将門も哀れよ、正攻法で世が収められん事に気付かぬ。真っ直ぐな人間は、嘘もつかぬ故人気が上がり人も集まるが、概して痛ましい最期になる。」

「御意、寝醒めが悪いほどにお気の真っ直ぐな方でござった。」
「吉晴早々で悪いが、瀬戸内の純友(藤原)もきな臭い。世を乱(みだ)してはならぬ。」

「お任せ下さい。」
その返事を境に、勘解由小路(賀茂)吉晴の気配は、忠平の寝所から「フッ」と消えていた。


陰陽寮(勘解由小路党)に「新皇の存在」は認められない。
彼らがこの大事件に、「暗躍しなかった」と言う証明はない。
しかし彼らの存在は、けして公に明らかにはされていない。
闇に住むからこその凄みがあるからだ。

討たれた将門の首は、京の都で晒し首と成った。
その首が忽然と姿を消し、「関東の武蔵の国(現在の東京都千代田区大手町)迄飛んだ」と言う伝承が残った。
今に残る、将門の怨念話の始まりである。

教の都で晒し首になった将門の首が、空を飛んで関東の一郭・武蔵国まで戻り来た。

ここで「平将門の怨念が・・・」とすれば娯楽小説のフアンには良いのだろうが、醒めた目で見れば「誰かの作為」を感じる怪しげな話で、この将門の「ドサクサ討ち死に」とその後の「首の移動」に、「何者かが介在している」と考えるのが当然である。

まるで将門が、鵺(ぬえの)怨霊扱いの所から、朝廷側の「将門人気潰しの謀略宣伝」ではなかったのか。
こうした流言に拠る情報操作も、陰陽寮(勘解由小路党)の仕事だった。

人々が平将門の怨念を恐れて、「名声」と言う得を得たのは天文学・易学・吉凶方位学などの占術を任とする陰陽寮とその首座・安倍晴明だった。

将門の首が飛んで行けば怪奇現象で、将門は恐れられこそすれお付き合いをしたいとは思わなくなる。
言わば将門を恐ろしい鵺(ぬえ)に仕立て上げたのである

処が、この流言が陰陽寮にとって思わぬ波及効果をもたらす。
この件で殿上人(貴族社会)が震え上がり、恐れから陰陽師の占術が流行り始め、やがて天才陰陽師・安倍清明の一族がもてはやされる時代になる。


影が動いて、新皇・将門は暗殺されたのかも知れない。
当然ながら、「首の移動」は将門一門の何者かが首を奪還した。
或いは将門人気潰しの朝廷側陰謀、そのどちらかで有ろう。

平将門(たいらのまさかど)が反乱を起こし、関東一円を手中に収めて勝手に天皇並に即位、「新皇」を名乗ったのが九百三十九年(天慶二年)の末で、翌九百四十年(天慶三年)の春先には、平貞盛らに鎮圧され、将門の首は晒し首にされる為に都に送られている。

平将門の乱が起こったのは、陰陽師・安倍 晴明(あべの せいめい)が、二十歳の時の事で、陰陽師・賀茂忠行・保憲父子に陰陽道を学びつつある時だった。

この平将門の乱の混乱とその将門の首が、「関東まで飛んだ」と言う怪奇な事件に都人が恐れ戦(おのの)いた為、陰陽道による占術や呪術の儀式が盛んになり、陰陽師・安倍 晴明(あべの せいめい)が、特に名声を博す「きっかけになった」と言われている。


将門を討った平貞盛の子孫は、後に伊勢の国に移り、伊勢平氏として平清盛に系図が続いて行く。

この時将門側に付き、敗れた後、郷士として関東に土着した平氏の武士達は、赴任してきた清和(河内)源氏の関東進出や東北進出で源氏の歴代頭領と結び、後述する奥州での前九年の役や後三年の役で、源氏の棟梁源頼義・義家、親子の配下に組み込まれて、共同の利害関係が構築され、源氏とは深い関わりを持つ。

その代表的な有力平氏系豪族は、三浦氏、上総(かずさ)氏、千葉氏、などであった。
従って、平姓ではあるが、中央の伊勢平氏系平姓より関東の源氏の方が、絆が強かったのだ。
関東の平氏には、「それなりに源氏を助ける歴史的要素が在った」と言える。


平将門を討ち勝利した平貞盛の方で有るが、その後も地元の将門人気は強く、関東には居辛く成って、伊勢の国に移住する。
ここでも、相当強引に所領を獲得した様で、争いの記録が伊勢に残っている。

伊勢平氏の祖・平貞盛は、平将門の所領を横領して将門を追い詰めた平国香の息子である。
平国香、平貞盛父子は平将門を討ち取るべく兵を出すが、平将門の返り討ちに合い父・国香を討ち取られ、その後には子の平貞盛も平将門との戦いで破れるが、命を落とす危うい所で逃げ延びている。

平将門は平国香、平貞盛父子との戦いに勝利して力を盛り返したが、近隣の揉め事などの仲裁や朝廷との交渉を引き受けている間に、その指導力欠如の朝廷とのいざこざ腹を立て坂東武士を結集、関八州に代官を配置し、「新皇」を名乗った為に平貞盛に平将門を討ち取る機会が巡って来た。

朝廷から、関東武士に将門追討の院宣が飛び、平貞盛(後の伊勢平氏)は押領使・藤原秀郷ら討伐軍と共に「猿島郡の北山」で平将門と対峙、その合戦で平将門は流れ矢に当たってあっけなく敗死、平貞盛は勝利を収めている。

伊勢平氏と言うと、言うまでも無く地盤は伊勢の国である。
それが何故、紀伊半島が本拠地の勘解由小路党とそりが合わないのか、理由は簡単である。
伊勢平氏平貞盛が関東から移り住み、強引に領地を拡大した相手が、勘解由小路党の草でもある在地の小豪族達の所領だった。

元々関東で起きた平将門の新皇事件の発端でも、平国香、貞盛親子が平将門の所領を乗っ取ったからで、伊勢平氏平貞盛の領地と勢力拡大の執着心は並大抵のものではない。
どうやらこの伊勢平氏一族、歴代並外れた野心の持ち主だったようである。

伊勢平氏(平家)側では、関東を捨てて伊勢に来た。
この時代の豪族としては、新たな土地で形振(なりふ)り構わずに勢力を拡大しなければならない。
しかし、在地の小豪族達にして見れば、勝手に赴任して来て強引に領地を拡大されては堪った物ではない。

その小豪族達が、勘解由小路党の草や所縁(ゆかり)の者だったから、自然に天下の色分けが出来るもので、平家、土御門(安倍)連合対源氏、勘解由小路(賀茂)連合の構図が出来上がって、先祖以来の天敵となって行く。

貞盛の子維衛(ただひら)の代には、所領を相当広げ、伊勢守に任じられる。
正度(まさのり)正衛(まさひら)忠盛(ただもり)と続き、忠盛の代には主に現在で言う警察、鎮圧部隊的な仕事で成功した。
忠盛は、上位の官位を得、貴族並みの扱いを受ける様に成る。

しかしこの頃には、平氏は面目を失う失態を起こしている。
当時の検非違使・平直方は伊勢平氏・平貞盛(平将門を討った)の孫に当たるが、関東で発生した「鎮守府将軍・村岡五郎(平)良文の孫の乱」の鎮圧に追討使として失敗してしまい、役を解かれて伊豆の国に在住する。
この直方の流れが伊豆に小さな所領を得て、後に北条家となる。

平直方は伊勢平氏・平貞盛(平将門を討った)の孫に当たるが、村岡五郎良文の孫・平忠常(上総介)に拠る「長元の乱」の鎮圧に失敗、役を解かれて伊豆の国に在住する。
父は平時方(たいらのときかた)と言った。
平時家が時方の子で、時家の子が時政とする系図も存在する。

「村岡良文の孫の乱」と一部文献にある乱は、実際には良文の孫・平忠常(上総介)が上総国で起こした大反乱「長元の乱」の事で、この「長元の乱」が、関東における源氏の台頭のきっかけとなる。

平直方が大敗を喫して失敗し、京都に召還され朝廷から検非違使の任を解かれた関東での「長元の乱」の乱鎮圧に、清和源氏の源頼信(みなもとよりのぶ)が成功し、結果関東では源氏の勢力が強まり、鎮守府将軍などの現地武門トップの地位は源氏へと移ってしまうのである。

この後、平氏が受け持っていた坂東(関東)と奥州の警備は源氏が取って代わり、「前九年の役・後三年の役」の奥州大乱に源氏が関与して行く事になる。

この時点で、朝廷では源氏ほど伊勢平氏は、同じ武門でもたいして重要な仕事をしていた訳ではない。
伊勢平氏が平清盛の代に「平家」として台頭するのはまだ少し先の事である。


(八幡太郎と奥州藤原)

◆◇◆◇◆(八幡太郎と奥州藤原)◆◇◆◇◆◇

奥州藤原家は、源氏とは歴史的に経緯(いきさつ)が有る。
清和源氏流河内源氏二代・源頼義(みなもとよりよし)は、河内源氏初代の父・源頼信に従って平忠常の「長元の乱」を鎮圧し、早くから坂東の武士に名声を得て相模守・常陸守などの坂東での要職を歴任して居る間に東国の掌握を進め、多くの東国武士を家人として武門の棟梁としての地位を固めた。
その源頼義(みなもとよりよし)が奥州に乗り込んで来る。

源頼朝の五代前に遡る村岡(平)五郎の孫・平忠常(上総介)に拠る「長元の乱」以後関東地区で勢力を広げ、あら方の関東武士を従えていた河内源氏・源頼義が、源氏の棟梁として、奥州(東北)の鎮守府将軍に、朝廷より任じられて着任したのだ。


源頼義は、野心から前九年の役(ぜんくねんのえき)を聞き起こした奥州(東北)鎮守府将軍である。
息子に、源家を武門の棟梁としての名声を定着させ、源氏の長者が将軍職に任ずる慣例の基と成る八幡(はちまん)太郎・源義家がいる。

この鎮守府将軍、かなり出世意欲が強く、奥州を平定して「自分の勢力下に置こう」と企んでいた。それで、当時奥州で一定の勢力を持っていた豪族「安倍氏」にちょっかいを出す。

安倍氏については、蝦夷(エミシ)族長説や土着した下級役人が時間を掛けて豪族化した説など色々有るが、たとえ後者としても安倍氏は蝦夷との「混血が進んだ氏族」と考えられる。蝦夷(エミシ)については、当時、「俘囚(ふしゅう)」などと言う差別制度があり、阿部氏は、「俘囚長であった」と記述する文献も存在する。朝敵として仕立て上げ、討伐して手柄にするには格好の相手である。

そのタイミングは、源頼義が任務を終え帰任する直前に起こった。
安倍頼時の息子貞任(さだとう)が、部下を襲ったから「処刑するので差し出せ」と、源頼義が言い出したのだ。明らかに言いがかりだった。

拒んだ安倍頼時に対し、それをきっかけにして安倍一族に朝廷敵の汚名を着せ頼義は源氏の白旗を掲げた大軍を差し向けるが、安倍氏(頼時一門)も良く戦う。源頼義が兵を率いて奥州に居座り、戦を継続させる。この奥州の混乱で、鎮守府将軍の後任予定者は赴任を辞退し、源頼義が再び陸奥守・鎮守府将軍に返咲き戦闘は続く。

当初、相手を甘く見ていた源頼義は、蝦夷馬(南部馬)を良く使う安倍頼時軍に、思わぬ苦戦を強いられる。
一時は安倍側が戦況有利に成って、源頼義は窮地に立った。
だが、頼義は安倍氏と似た様な出自(しゅつじ・出身)の豪族「清原氏」をくどき落して味方につける事に成功し連合して安倍氏を討ち、永い戦いの後に安倍一族を壊滅させる。


清原氏は、東北蝦夷(とうほくえみし)の流れを汲む俘囚長出自の豪族と言われ、同じ俘囚長出自と言われる安倍氏とともに出羽の有力な豪族だった。
つまり、奥州・清原氏は、奥州・安倍氏と同じ蝦夷(エミシ)族長説がある俘囚長の家柄である。

安倍氏相手に前九年の役を始めた源頼義は苦戦を強いられ、活路を見出す為にその安倍氏と並ぶ強大な勢力を持つ清原氏を味方につける策略をめぐらす。
前九年の役当時の奥州・清原氏の総領は清原光頼(きよはらみつより)だったが、源頼義の再三の援軍懇請についに挙兵を決意、弟の清原武則(きよはらたけのり)を総大将とする援軍を派遣する。

しかし、分家の当主・清原武則には奥州で強大な力を誇る安倍氏に取って変わる野心があった。
それで実際には十二年かかった「前九年の役」と呼ばれる東北の戦乱において、清原家総大将として源頼義方に付き、形勢不利だった戦局を一変させて頼義に勝利させている。

この、安倍氏の「反乱を平定した」として、源頼義は朝廷の実力者藤原氏の助力で戦功を認められ正四位下に昇格、息子達二人も叙任される。
この叙任において朝廷に味方した事に成った清原家の当主・清原武則(実際には総領の弟)は、破格ながら従五位下・鎮守府将軍に任じられ、中央での扱いは兄の清原光頼(きよはらみつより)ではなく弟・清原武則(きよはらたけのり)を奥州鎮守府将軍として任用した。

この時点で、奥州の地元リーダーは安倍家から清原家分家・清原武則(きよはらたけのり)家(後の奥州藤原家)に代わった。
これが、実際には十二年かかった「前九年の役」と呼ばれる東北の戦乱である。


この奥州の地は、冬の戦には不向きな土地だった。
この辺り、旧暦の正月に入るひと月ほど前には、白いものが「ハラハラ」と舞降りて来る。
やがてその雪が吹雪と成り、その先の月日は数ヶ月間も長い間この奥州地方は雪に埋もれて風の音以外は静まり返る。
この雪が味方して、地の利を持つ安倍頼時と嫡男・貞任(さだとう)方を有利に導く。

それだけではない。
源頼義(みなもとよりよし)が初めて奥州の地に足を踏み入れた時、奥羽の地は季節が夏にならんとするのに凍えるほどの寒風が吹き荒れていた。
初夏から夏の時期にかけて、北海道・東北(奥州)地方の太平洋側にオホーツク海気団より吹く北東風または東風の冷たく湿った強い風が吹く事が在る。
特に梅雨明け後に吹くこの季節外れに冷たい強風の事を人は「やませ」と呼ぶ。

この「やませ」の風が吹くと、沿岸部を中心に気温が下がり、霧が発生し易くなる。
通常三日ほどで収まるが、「やませが」長引くと、低温と日照不足によって、水稲などの農作物に被害を及ぼす。
「やませ」の影響で、太平洋側では日照時間は少なく気温も低くなる為、長く吹くと冷害の原因となり、凶作風、飢餓風とも呼ばれている。
この「やませ」の季節外れの寒風には、源頼義(みなもとよりよし)が率いる坂東武者もてこずり苦しんでいる。

蝦夷族(えみしぞく)が追いやられた北海道・東北(奥州)地方は、列島の西側を統一した大和朝廷の進出を阻むほどに、冬季の厳しさだけでなく「やませ」の存在も北海道・東北(奥州)地方が厳しい風土に在ったのだ。
十二年間もの永い間、前九年の役の決着がつかなかったには、この地方独特の気候が源頼義(みなもとよりよし)ら関東方を苦しめた事も大きかったのである。

奥州はまだ未開の、凍えそうな秘境だった。


この奥州安倍家壊滅の時から、貴族陰陽寮首座・土御門(安倍)家の怨念は、河内源氏家と、損得づくの計算で蝦夷仲間を裏切った清原氏に向けられて朝廷内を暗躍、対抗勢力の平氏と結んで、失地回復を画策するに到る。


後の記述で明らかになるが、この平安時代に陸奥国の俘囚の長とされた奥州の豪族・安倍氏の末裔が、実は現代によみがえっている。

蝦夷系棟梁安倍貞任の弟・安倍宗任が厨川柵(くりやがわのさく・岩手県盛岡市)で、源頼義、源義家の率いる軍勢に破れ、降伏して最初四国配流、後に九州に配流されたその安倍一族の末裔が、維新後の日本に頭角を現し、昭和から平成に掛けて政界の有力者一族に踊り出るのは、およそ千年(九百五十年)近い歳月を要する事になる。


それから二十年後、源頼義に助勢して安部氏を討った功績に拠り鎮守府将軍になった清原武則は既に亡くなり、清原家は孫の真衛(まさひら)の時代に成っていた。
この頃赴任してきた鎮守府将軍が、源頼義の息子義家である。

源義家は、愛称(当時の風習)を、「八幡(はちまん)太郎」と称し、歌を読むなど「文武に優れていた」とされ、後世には、武門のシンボル=征夷大将軍の血筋は「武家の棟梁・源氏正統」の根拠の元と成った人物である。以後源氏の白い旗指し物に「八幡大菩薩(八万台菩薩)」が使われた。

源八幡太郎義家が鎮守府将軍に赴任して来た頃の奥州は、比較的平穏だった。
処が、清原真衛(まさひら)に子が無い事で、養子取りの祝い事の際のいざこざから、弟(いずれも藤原庶流からの養子縁組に拠る義弟)の清衝と家衝が敵に回り兄弟で合戦と成り奥州は乱れた。
これは身内の相続争いだが、当時の権力者の相続争いは殺し合いに発展する。

この混乱の最中、真衛(まさひら)が病死した為、真衛方に味方していた鎮守府将軍・源の義家に、清衛と家衛が投降した。源義家は投降した二人を許し、奥州の安定を図るべく奥州を半分に分けそれぞれに与える。
しかし家衛がその仕置きに不満を持ち、清衛の「暗殺を謀り」奥州全域を手に入れようとするが発覚、暗殺は失敗する。それでまた二人が戦乱を引き起こし、奥州は再び戦乱に成ってしまった。
清衛側に源義家が付けば、家衛の側には「安倍氏の残党が結集する」と言った具合で、簡単には決着が付かない。

その後源義家は苦労の末、弟の義光の助けも借りて、家衛を討ち取る。
これを、「後三年の役」と言う。
清原家衛を討ち取って漸く奥州の騒乱を平定した源義家だったのだが、朝廷はこれを「公務と認めず」、私闘と裁定された為に源義家は恩賞を何も得られず、戦(いくさ)のやり損であった。

この朝廷の前回(前九年の役)と異なる裁定の裏には、時の中央政権の事情がある。
義家にとって不幸な事に、この時点で時の白河法皇は院政を引きつつある最中で、藤原摂関家とは一線を隔す為にあえて藤原寄りの「源義家」を見放し、摂関家の「勢力を削ぎに掛かったのである。
それだけでなく義家は中央政権から外され、左遷されて「近江の所領に隠居同然の扱い」に処置されたのである。

しかしこの事が、結果的に源義家と源家(げんけ)の名声を上げ、「武門の棟梁」と認められる事に成ったのは、皮肉である。
朝廷からは認められなかった後三年の役の乱鎮圧だったが、源義家に従った関東武士(主に関東平氏)達に義家は酬いなければならない心情に駆られた。
結果的に源義家は、「後三年の役」での配下の活躍に報いる為、「私財を投じて独自に恩賞を配り」、配下のみならず多くの武士の共感と信望を集め部門の棟梁として命を預けるに足りる「棟梁として在るべき姿」と称えられたのである。

この変則的な朝廷の処置の結果、奥州全域は清原清衡(きよはらきよひら)の元に転がり込んで来た。
この清衡には元々奥州清原家の安泰を願って藤原氏から養子に来た経緯があり、領有した奥州全域の富を背景に、時の関白・藤原師実(ふじわらもろざね)に献上などして繋がり、許されて名を藤原清衡(ふじわらきよひら)と改める。奥州平泉の大豪族、百年の栄華を誇る藤原家が誕生して、奥州の蝦夷族は、過渡期的に自治政府もどきの統治を受ける事になったのである。


平将門や村岡五郎(平)良文の孫・平忠常(上総介)が反乱を起こす影に、実は土御門(つちみかど・安倍)家の存在がある。
平氏は源氏より早くに武門化して、関東や東北の入り口まで赴任している。
軍事警察部門(武門)を担当していたから、当然蝦夷運営には気を使い、戦略的に土御門家とは「太い付き合い」となる。つまり建前ではない「精神的連合関係」が構築され、平氏の動きに現れていた。

平安時代末期以降、安倍氏から陰陽道の達人が立て続けに輩出され、下級貴族だった安倍氏は、「公卿に列する事のできる家柄」へと昇格して行くのだが、この立場の上昇、平氏の反乱や、前九年・後三年の役、そして清盛平家の台頭と関わりがない訳が無い。

もう、かなり以前から兆候はあった。政権末期には大乱が訪れる。
この源平における平氏の優劣が、再び逆転するのは、白河上皇(法皇)の登場がきっかけである。
白河上皇(法皇)は、藤原氏による摂政・関白政治を改め、自らが政治権力を掌握する野心を持っていた。

長く太政大臣を独占していた藤原一族の勢力が、ようやく衰えを見せて、地方の政治運営が乱れていた。
そこで、藤原氏と深く結び付いた河内源氏(源義家一党)は邪魔である。
対抗するもう一方の武門の旗頭、平氏の力の育成に密かに腐心していた。

白河上皇(法皇)は藤原氏を退け、源氏の力を削いで院政を引く。
この頃伊勢平氏は、平正盛(たいらのまさもり)の代に成って居た。
この平正盛、自分の所領を寄進するなどして白河上皇(法皇)に取り入り、出世の糸口を掴んだ。

その後上皇の護衛などして信頼を得、平正盛は昇進を果たして行く。
その子忠盛(ただもり)の代に成ると、盗賊の捕縛、寺社強訴の合戦鎮圧、海賊の鎮圧と活躍、朝廷での権威は源氏を上回る様に成る。
忠盛(ただもり)は、没した時には「正四位上行部卿」と言う高官に出世していた。忠盛(ただもり)の嫡男が、平清盛(たいらのきよもり)である。ここからの平清盛(たいらのきよもり)一党を他の平氏と区別して平家とする。

平清盛、「皇統の出自」と言っても桓武天皇(第五十代)から数えて十三代目になる枝で、最初の身分は低い。
平清盛は、伊勢平氏の頭領である平忠盛の嫡子として本拠地・伊勢の産品(うぶしな/現在の三重県津市)で産まれた事に成っているが生母は不明で、一応生母は祇園女御(ぎおんのにょうご)と呼ばれる女性の「妹ではないか」と通説されている。

伊勢平氏の棟梁・平清盛は伊勢平氏棟梁・忠盛の嫡子として生まれ、白河法皇の晩年の寵妃・祇園女御(ぎおんのにょうご)に仕えて出世の糸口を掴んでいる。

一説には、幼少の平清盛を庇護していたのは、白河天皇(しらかわてんのう)の妾(正式ではない)とされる祇園女御(ぎおんのにょうご)と呼ばれた謎の女性で有る事や清盛が十二歳で異例の従五位下左兵衛佐に叙任された事から清盛の実父は「白河天皇である」とのご落胤説もある。

武士の任官は三等官の「尉」から始まるのが通常で、二等官の「佐」に任じられるのは極めて異例な事で、落胤説にしろ祇園女御(ぎおんのにょうご)の口利きにしろ、いずれにしても相当朝廷(帝)に対するコネ(縁故関係)が強かった事に成るのである。

父・忠盛の死後、平清盛は平氏棟梁となり「保元の乱」で後白河天皇の味方をして信頼を得、「平治の乱」で源頼朝の父・源義朝を破って最終的な勝利者となる。


平清盛には、類稀(たぐいまれ)な政治力があった。
その政治力を発揮し、平清盛は武士では初めて太政大臣に任ぜられる。
出世街道を駆け上り強大な権力を握ると、平清盛は娘の徳子を高倉天皇に入内させ「平氏にあらずんば人にあらず(平家物語)」と言われる平家全盛時代を築いた。

しかし平氏の権勢に反発した後白河法皇と対立し、治承三年の政変で法皇を幽閉して娘・徳子の産んだ安徳天皇を擁し政治の実権を握るが、平氏の独裁は貴族・寺社・武士などから大きな反発を受け、木曽(源)義仲や源頼朝ら各地の源氏に拠る平氏打倒の兵が挙がる中、平清盛は原因不明の熱病で没した。


(白河院政と平清盛)

◆◇◆◇◆(白河院政と平清盛)◆◇◆◇◆◇

元を正せば、この院政話の発端は、後三条天皇(第七十一代)の御世に、中央で平安時代全般に渡り、長く続いた藤原一族の政治力の衰えから始まっている。
求心力を失っては国家運営は出来ない。

後三条天皇は、摂政、関白を独占していた藤原氏一族とは直接の血縁関係が無い。
それ故に藤原氏を遠ざけ、村上天皇の具平親王の子師房(孫)が臣籍降下して源氏朝臣を賜姓し、始まった村上源氏の皇胤(こういん)貴族の血を引く兄弟、左大臣源俊房、右大臣源師房を就任させた。
村上源氏を取り立てる事で、藤原氏に対抗する皇統の権力独占を図り、天皇親政へと向かった。

そこで、藤原氏から政治権力を朝廷に戻す為に、後三条天皇は、自分の次の天皇として第一皇子の貞仁親王(白河天皇)を据え、同時に、その次の天皇には、白河天皇の弟にあたる先の第三皇子「輔仁(すけひと)親王」を据える様に遺言する。

後三条天皇の皇子白河天皇(第七十二代)が即位したのだが、この天皇、余りにも野心的すぎた。
色々と理由を付けて十歳にも満たない「子供」の堀河天皇(第七十三代)に帝位を譲り、早々と上皇となって政治の実権を握り、「院政」を敷いた事に端を発する騒動が起きるのである。

言わば「幼い天皇は、上皇の傀儡」と言うやつだ。この院政を影で支えたのが、勘解由小路党の諜報工作組織だったのは言うまでも無い。その傀儡、堀河天皇が亡くなると、更に五歳にも満たない「孫」、鳥羽天皇(第七十四代)に即位させ、白河上皇は院政を続けた。

その鳥羽天皇が成人すると無理やり退位させ、またも「ひ孫」の幼児、崇徳天皇(第七十五代)を即位させて院政を続けた。よほど、お飾りを立てての院政が、都合が良かったらしい。処がこの白河天皇は、父帝後三条天皇の遺言でもある、「堀河天皇の次には輔仁(すけひと)親王を天皇位に就ける」、との約束を反故(ほご)にしたのだ。

この頃、何代も後に政局を左右する宗教上の芽が密かに芽吹いていた。
高僧仁寛(にんかん)の伊豆配流である。真言密教立川流の始祖と言われ、立川流開祖見連(もくれん)に奥義を授けた仁寛(にんかん)の伊豆配流が行われたのは、八幡太郎源義家が奥州攻めに失敗して没してから数年後の事だった。

調べて見ると、大和朝廷におけるこの半島(伊豆国)の扱いは、謎に満ちていた。
確かに、長い事「貴族配流の指定地」として、伊豆国は活用されていた。
しかしこの地が、およそ配流の地に相応しくない明るい陽光が降り注ぐ温暖な地である事が、尚更「何故に?」と疑問を強く意識される。

思うに、伊豆が貴族配流の不可思議な指定地となっていたのは、完全に朝廷が掌握管理できる、つまり政治的地盤を有する安定した地域の内で、最東端の場所だったからである。
それが「王朝の発祥地(地元)故に」とリンクしていれば、流人管理上合理的な説明が付く。

仁寛は、村上源氏の血を引く有力貴族の出自である。
父はその村上源氏の嫡流の源俊房で、左大臣の位を持っていた。
また叔父の顕房は右大臣、従姉妹の中宮賢子は白河天皇の皇后で堀河天皇の母にあたる。
まさに権力の中枢に居る皇統出の高級貴族なのだ。

しかも仁寛の兄の勝覚は、真言宗の重要な高僧(醍醐寺座主)で、真言系修験道の総本山である醍醐寺三宝院の開祖である。

仁寛は、この兄の勝覚の弟子となり、真言宗の教学を学び、真言宗の僧の最高位である「阿じゃ梨」となる。そして、後三条天皇の第三皇子で、天皇位につく事が確実視されていた「輔仁親王の護持僧」となるのである。

人間考える事は、五百年や八百年経っても同じで有る。
この時代、名家には拝領地、神社には御神領、寺には寺領があった。それを分割して 分家を創設するか、世継ぎのいない他家への婿入り、そして宮司・神官や寺の門籍を継ぐのは、高位氏族の世継ぎ以外の次男三男達の行き所だった。

一休禅師(トンチの一休さんモデル・後小松天皇の御落胤)の例の様に、寺社は氏族の天下り先だった。

ちなみに彼が庶民に人気があるのは、「女犯・飲酒・肉食」と言った破壊坊主であったからで、とりもなおさず庶民の共感を得る本音で生きていたからである。
簡単に言えば、寺社は当時の「天下り先」と言う事になる。
それが現代では形を変え、「外郭団体」と言う事になる。


白河上皇は、息子の堀河天皇の次には「輔仁親王に次は天皇位につけてやる」と約束していた。
しかし堀河天皇が夭折すると、約束を破り、わずか五歳の鳥羽天皇(第七十四代)を即位させてしまう。

自分の院政の権力を守る為に、父の遺言の時と弟との約束の時と二度も約束を反故(ほご)にした訳である。
この時、村上源氏の一族は、この輔仁親王即位を支持していたので、当然、不満と反発が起こり、白河上皇(第七十二代)は孤立する。

そこに事件が起こる。
鳥羽天皇(第七十四代)が即位してから六年後の千百十三年の事である。
白河天皇の内親王・令子の御所に匿名の「輔仁天皇と村上源氏が共謀して天皇暗殺を計画している」と言う落書が投げ込まれた。
白河上皇の密命で、勘解由小路党が動いたので有る。

更にこの落書には、「暗殺実行犯として、千手丸なる童子の名が書かれていた。
この千手丸は、醍醐寺三宝院で仁寛の兄の勝覚に仕えていた[稚児」だった。
村上一族連座を狙った、所謂「千手丸事件」である。

たかが童子の千手丸が何故に捕らえられ、それが歴史的事件にまで発展したのだろうか?
それには説明すべき訳がある。
千手丸が醍醐寺三宝院で仁寛の兄の「勝覚に仕えていた稚児」と言う事は、当時の常識では勝覚と千手丸が特別な関係、「衆道(男色)に有った」と言う事である。

衆道(男色)は男性が男性を性行為の相手とする生殖には関わり無い行為で、言わば邪道である。
但し平安期の貴族や武士の間で広まった衆道(男色)には、現代の所謂ゲイのホモセクシャルとはまったく違う意味合いが在った。

男色(衆道)の交わりは神道や仏教界の「信仰要素」として始まって、奈良・平安時代にはかなり広く仏教界に広まり、さらに公家などの貴族や武士の間にも、美しい少年を傍に召し使わせる風習が広まって行き、特別に寵愛を得た美少年の小姓は、誓約(うけい)臣従の証として閨で夜伽の相手(男色/衆道)もする「稚児小姓」と成った。

院政期の院(法皇・上皇)の近臣達は稚児上がりの者も多く、「院と深い関係を持って居た」と言われ、藤原頼長の「台記」には当時の皇室・朝廷関係者のその奔放な男色関係の多くが描かれている。

この衆道(男色)が、権力抗争に明け暮れる氏族社会の風土に溶け込んで、その目的は忠誠心と信頼関係の証明手段に成り、つまり衆道(男色)は権力構築と深く関わった誓約(うけい)の進化形だった。

それ故当時の衆道(男色寵愛/稚児小姓)を時代背景的に捉え、現在の倫理観で邪道と簡単に決め付けないで欲しい。
当時の貴族や武士階級では衆道は嗜(たしな)みとも言われるほど一般的であり、主君の寵童出身である事は出世への近道でもあったのだ。

元々日本の衆道(男色寵愛/稚児小姓)は、所謂ゲイのホモセクシャルではなくバイ・セクシャル(両刀使い)であり、平安期に「僧籍の者の間から始まった」と言われるくらいで宗教的な戒めの考え方は無いから、身分の高い者が行っていても常識の範疇であってそう異常には思われなかった。

織田信長と若い頃の前田利家、徳川家康における井伊直政との間柄も有名な衆道(男色)関係である。
また、豊臣秀吉が信頼し一際寵愛した石田三成との衆道(男色)関係や、織田信長と徳川家康の間でも清洲同盟の結束の固さから衆道(男色)は疑われている。

綺麗事の英雄伝ばかり見せられている時代劇好きの諸氏にとっては、英雄の別の顔を見せられるのは夢を壊す事に成るかも知れないが、現代とはまったく違う当時の倫理観の中で実在した抹殺出来ない事実なので、これからの物語でも追々記述して行く事になる。

千手丸は検非違使に捕らえられて尋問の末、「仁寛に天皇を殺すように命じられた」と白状した。仁寛も捕らえられ、尋問を受ける。当初彼は否認したが、六日目には自白させられている。仁寛は伊豆に、千手丸は佐渡に流罪(配流)となった。

勿論、輔仁親王と村上源氏の力を削ぐ為の白河上皇が「仕組んだ」、院政継続の陰謀である。
後述するが、この仁寛の伊豆流罪、後の世の南北朝時代に影響が出るから、世の中は面白い。まさか、仁寛の「執念の呪詛」何て事は、無いと思うが。

この時代、いずれにしても天皇、上皇が、「直接自分で政治権力を持とう」として権力闘争を始め、朝廷に混乱を招いていた。
そして所謂(いわゆる)帝の家臣団にも様々な対立の構図が出来上がって行く。

後の後白河院政の時代に、この村上源氏から正二位源氏長者と言う天皇の外祖父が現れるが、それはまだ少し先の話になる。



この時代、幾つかの権力闘争の力が複雑に絡み合って政情に影響を与えている。

先ず蝦夷族内部の指導権争いで有るが、土御門(安倍)家一本だった体制が清原(藤原)家の台頭で分裂する。
この清原家、八幡太郎源義家に付き、奥州安倍家を滅ぼし、東北(奥州)全域を手中にして藤原家から藤原姓を貰った言わば藤原、源氏、清原(奥州藤原)ラインである。

当然対抗するのが、平氏、土御門(安倍)ラインと言う構図が成立ってくる。こうした背景の上で、平安末期から鎌倉初期の歴史絵巻が展開して行くのである。


白河天皇の登場で、藤原氏の摂関政治から天皇の直接統治が試みられた。これは、或種の「革命」と言って良い。
何故なら、大和朝廷成立当初からの天皇としての立場が、神秘的象徴としての重みを基に君臨するもので、余り細かく意見や指示を出す習慣が無かった。

つまり天皇は、長期に渡り神格化させ、下世話な立場であっては成らない程、尊い存在で在ったのだ。

言い換えれば、和邇(わに)、葛城(かつらぎ)、大伴(おおとも)、物部(もののべ)、曽我(そが)、藤原(ふじわら)、と言った大豪族(臣王?)達の時々の影響下で、実質的には象徴的要素が確立して、直接天皇が意見や指示を出す習慣が失われ、天皇の直接統治は馴染まない風土が、育って居たからかも知れない。

処が白河天皇は、勘解由小路党を手足に諜報活動をさせ、有力氏族の力を弱めて次々に幼帝を立て、院政を始めてしまう。白河上皇(第七十二代)が亡くなると、先に退位させられた鳥羽上皇(第七十四代)が権力を握り、崇徳天皇(第七十五代)を退位させ、僅か二歳の近衛天皇(第七十六代)を即位させて、同じ様に院政を引く。しかし、その近衛天皇が、予定外の十六歳で無くなって、話がおかしくなった。

崇徳上皇にしてみれば、今度は自分の子、「重仁親王が帝位に付く」と思ったのに、後白河天皇(第七十七代)に浚(さらわれ)てしまう。鳥羽上皇(第七十四代)が亡なると、若くして引退させられた崇徳上皇(第七十五代)と後白河天皇(第七十七代)の権力争いが始まる。

ここで皇統の影人として活躍するのが皇室直属の秘密諜報組織・勘解由小路党である。

この時、陰陽師影総差配、勘解由小路吉次を握っていたのが後白河天皇だった。
ただ、建前「神の名において統治する帝や院」にとって、それはあくまでも影の諜報組織であり続けなければならない宿命を帯びていた。

後白河法王が院政を敷くに当たり、勿論その権威だけではその院政の維持運営は適わない。
院(後白河法王)の傍近くに居て、歴史的に表面には出せない実行組織(秘密諜報組織)が存在しなければ、あまたの公家貴族や武士などの勢力を操れる訳が無いのだ。

その勘解由小路党は、後白河天皇から内々で「影領」を賜っていた。名目は後白河天皇の持ち物(御領地)と言う事になっている「伊豆の荘園・狩野荘」である。白河上皇(院)以来、賀茂家に所縁の地である狩野荘を介して、影働きの関係が成立していたのだ。


第七十七代・後白河天皇は、鳥羽天皇(第七十四代)の第四皇子・雅仁(まさひと)親王として生まれる。

弟の前帝・近衛天皇が崩御した為、雅仁親王の息子の守仁親王に世継ぎが廻って来たのだが、守仁親王がまだ幼かった為に、千百五十五年(久寿二年)に守仁親王即位までの中継ぎとして雅仁(まさひと)親王が第七十七代・後白河天皇として二十九歳で即位した。

千百五十六年(保元々年)、前々々帝(第七十四代)鳥羽法皇が死去すると「保元の乱」が発生する。


「上皇(法皇)と天皇が争う」と言っても、実際に動くのは武士達である。崇徳上皇の命を受けた源為義、為朝(義朝の父)、平忠正(清盛の叔父)らの動きを後白河方が、諜報機関勘解由小路党の働きで察知、後白河天皇に付いた平清盛、源義朝(頼朝の父)達が崇徳上皇方の集合場所を急襲、不意打ちをして崇徳方の動きを封じた。

崇徳上皇(法皇)方は大敗をきっし、源為麻、平忠正は処刑、崇徳上皇(法皇)は「隠岐の島」に流刑となった。勘解由小路党は、この時から後白河天皇のもっとも身近な手駒として活躍する。この争いの中に、源姓、平姓が双方に出てくるが、実は親子、叔父・甥がそれぞれに分かれて戦った残酷な戦いであった。

この時の動乱を、「保元の乱」と「平治の乱」と言うが、この争乱をきっかけに、武力が政権維持に欠かせない事が証明され、武家が勢力を伸ばし、政治の実権を握る様に成って行った。同時に、官僚(公家)の藤原氏は衰えを見せる。
一旦は、手を握った平清盛と源義朝であるが、此処から平清盛が政治力を発揮して、中央の権力を独占掌握してしまう。この政治力、朝廷運営の吉凶を占う助言者としての土御門(安倍)家の奏上が、ものを言っているかも知れない。


支配者の血統身分である氏族(武門)の間では支配権が価値観だったから、親子兄弟でも「討つ討たない」の抗争が珍しくない時代が続くが、その一方で庶民(民人)は生きる為に一村落皆身内気分の「村社会」を形成し、独特の性習慣の元に村落の団結を図って生き長らえる方策を編み出している。

つまり、支配者である氏族(武門)と被支配者である庶民(民人)は「全く違う価値観と生活習慣でそれぞれが生きる」と言う特異な二重構造が形態化していて、統一的な精神性など無かった。
この辺りは第四章で詳しく後述するが、庶民(民人)はその被支配者としての平和的な生き方の上で、当時としては知恵を絞って最良の選択をしていたのである。

「保元の乱」と「平治の乱」で中心的役割を担った武将の一人源義朝(みなもとよしとも)は、河内国に本拠地を持つ河内源氏の棟梁・源為義(みなもとためよし)の嫡流子で、鎌倉幕府成立の原動力となった源頼朝や源範頼(みなもとのりより)、腹違いの九男/源義経・達の父親である。
平安の都(京)に生まれた源義朝は幼少期を都で過ごすが、少年期に東国(関東地方)に下向した事から父・源為義とは別に東国を根拠地に独自に勢力を伸ばし、鎌倉を中心とする相模国一帯に強い基盤を持って上洛し、下野守に任じられた。

源義朝が東国に下ったのは、父・源為義から廃嫡同然に「勘当された為ではないか」とされ、親子不仲説は存在する。
千百五十六年(保元元年)、崇徳上皇方と後白河天皇方に分かれて争いが生じ、源義朝は崇徳上皇方に付いた父・為義、弟・頼賢や為朝らと袂を分かって後白河天皇方に付き、平清盛と共に戦って勝利を得る。
その戦いを、「保元の乱」と呼ぶ。
しかしその戦勝後、囚われとなった父・為義、弟・為朝らの助命を義朝が嘆願したにも関わらず、後白河院は二人の殺害を命じた。

乱後、源義朝(みなもとよしとも)は「保元の乱」の戦功に拠り武門にとっては重要な官位である左馬頭に任じられるが、論功行賞で清盛より低い官位に甘んじた事から「保元の乱」以後の平家(平清盛)と源氏(源義朝)の扱いに不満を持ち、源義朝は藤原信頼と組んで源頼政、源光保らと共に「平治の乱を起こした」と言われている。
ただこの話し、本質の所では権力者同士の権力争いに結論の帰結を見るのが妥当で、大儀名分の理由など後から付け足したものに違いない。

実際には、平治の乱の原因は後白河院政派と二条天皇親政派の対立、そしてその両派の中に院近臣・藤原信西(しんぜい)に反感を抱くグループがともに居た事が抗争の原因で、それらの反目を「後白河がまとめきれなかった事にある」との見方が、現在では有力視されている。

千百五十九年(平治元年)平清盛が熊野(和歌山)参りの為、京を離れた隙を狙って、義朝は、信西と対立していた藤原信頼と手を結び、謀反を起こし、後白河上皇と二条天皇を閉じ込め、藤原信西を殺害して「平治(へいじ)の乱」が始まった。
しかし「源義朝立つ」の急報を受けた平清盛は急いで京に戻り、幽閉された天皇と上皇を救い出して一気に義朝軍を打ち破る。

この平清盛の熊野(和歌山)参り、実は源義朝方の不穏な動きを察した清盛が用意周到の上に画した「誘い出しの罠だった」とも思える手際の良さで、義朝の完敗だった。

破れた源義朝は清盛の武力に抗しきれず畿内の地に留まる事をあきらめ、鎌倉を目指して敗走する。
義朝は自分の地盤である関東で、再び体制を整え直そうとしたが、敗走途中の尾張国で長男・源義平(長男では在るが妾腹で、嫡男はあくまでも三男の源頼朝)と共に部下(長田忠致)に捕らえられて殺されてしまう。

この「平治の乱」の折に父・源義朝に従い十四才で初陣し、敗れて平家方に囚われの身に成ったのが、義朝嫡男・源頼朝だった。
池の禅尼の嘆願で頼朝は助命され伊豆の蛭が小島へ流され、また、幼かった義経も母・常盤御前(ときわごぜん)の体を張った助命嘆願に助けられ義経は京の鞍馬寺へ預けられた。


現代の日本では親子の関係が希薄なものになり、親殺し子殺しが多発している。
栄養価の高い育児ミルクが普及し、日本の母親が、自らの赤子に母乳を与えなくなって久しい。栄養は確かに育児ミルクで充分だろう。しかし、愛情はどうなのだろうか?

我輩はこの親子関係の希薄化の遠因一つに、授乳に対する「母親の態度があるのでは無いか」と思われて成らない。
母乳で育てる事を嫌う母親の言い分の大半は「体型が崩れる」と言う、言わば自分本位なもので、我が子に対する心構えが、最初から希薄になっているのではないだろうか?

最近の学説では、人間の子供の脳は生後八ヶ月で「その基礎的な能力の完成を見る」と言われている。
その大事な授乳期間に、母親の我が子に対する関与が少ないのでは、その精神的発育に何らかの不都合が生じる危険が有りはしないだろうか?


乳首を吸われて気持ちが良いのは、何も彼氏や旦那様だけの為にあるからではない。当然ながら、授乳をさせる母親への恵みを考えて、「快感の感じ易いものに出来上がっている」と考えるべきである。

戦後の個人主義偏重の自由思想が、子育ての責任感をも希薄にする事が自由であるかのごとく曲解されている。
これを、単なる時代の変化で済ませて良いものだろうか?
時代の変化はわが国でも幾つもある。たとえば戦後十年、昭和三十年位まで日本の母親は、バスや電車の中、公園のベンチなど、人前で堂々と我が子に授乳させて居て、それが極普通の日本の風景で、周りもまったく違和感が無かった。

それが、以後の母親は乳房を人前で晒す事が恥ずかしくなったのか、何時の間にか見かけなくなり、時代考証的には有ってしかるべきドラマからも、そうした風景はなくなった。
そうした風潮から、我が子に母乳を与える母親は減り、親子の「直接肌に触れる」と言う基本的で大切なコミニケーションの機会は失われた。

これは、本来あるべき潜在的な親子の絆を育む機会を放棄したようなもので、実は多機能である人間の脳の一部に、発育上での弊害が在り得るのではないだろうか?
男女ともに、母親の役目、父親の役目、性への理解の「と場口(最初の一歩)」で、「正しい情報を得られていないのではないか」と疑っている。

最近の学説では、人間の子供の脳は生後八ヶ月で「その基礎的な能力の完成を見る」と言われている。
その大事な授乳期間に、母親の我が子に対する関与が少ないのでは、その精神的発育に何らかの不都合が生じる危険が有りはしないだろうか?

人間皆等しく、自分に都合の悪い原因は考え着か無い。いや、考えたがらない。本来、他の動物では在り得ない未成熟な異性(未成年)を狙う性癖、正常な異性愛ではない極端な性癖など、子供の頃母親の肌に触れる初歩の快感や安心感を得られず育った事との因果関係を、考えてはどうだろうか?
また、近頃の若者が直ぐに切れる性格の一因にも、この事が影響しているやに感じるのだ。


この時代から戦国期まで、親兄弟が殺しあう時代が続いた。
これは、子育てと教育の問題で、ある意味今に共通する。
この章で、源氏や平氏の親子がそれぞれ上皇側と天皇側について、殺し合って居るが、彼らには庶民ほどの身内の親近感がない。
本来人間は、共に生きる事で互いを理解し合うもので有る。
所が、たまに出てくる「乳母の存在」から判るように、或る程度の家柄の家庭だと、母親が直接育てない。いや、育てさせない。

父親も、子供が大きく成るまで接触が少ない仕組みだった。
それで、親子の情は湧き難く、絆が生まれないのだ。
これは一種の英才教育である。どちらかと言うと、「子供は何時の間にか大きく成った」と言う処だ。
権力者には、「血も涙も不要」そうした英才教育の考え方が、根底にある。それ位冷酷で無いと、権力者足り得ないのだ。その親子の接触の無さが、互いの愛を育まず、幾らでも残酷になれる。

本来、乳幼児から三歳くらいまでに母親の温もりは大事だ。その後、十歳位までは、両親の愛情を感じさせながら「育てて」やらないと、互いの心の繋がりは育たないし、他人に対する優しさなど殊更に育たない。

その子が、優しさを欠落したまま、次の親になる。人間として、悪い連鎖だ。それで、親子が殺し合うのが、当時の時代のすう勢だった。
しかし現代でも、二世三世議員の両親は、父親が「中央」、母親が「選挙区」と忙しく、育児に手抜きで育った情の無い人間が、政権の中枢に座っている。歴史は繰り返されるのか、それとも、この事実が真理なのか?

断って置くが、この殺し合いは、当時としても庶民には無縁の権力者の世界の事である。しかし現代では、多くの家庭で親が共稼ぎをしなければ家計を維持できない環境になりつつある。つまり、共に生きる事で互いを理解し合う事が、不足する世の中になってしまったのではないだろうか?


勘解由小路(賀茂)吉次は、イラクサ染めの倭文(しずおり)の布に包まれた、青銅製、金輪六輪の錫杖(しゃくじょう)を父・吉晴から受け取っていた。
その錫杖は、まさしくあの勘解由小路の棟梁の印(しるし)だった。山伏の定番所持品、「修験賜杖」の原型(モデル)になった賜杖がこれである。この錫杖(しゃくじょう)ある所いつも大乱がある。錫杖が乱呼び寄せるのか、賀茂の血が乱を呼び寄せるのかは定かではない。

勘解由小路党の棟梁は代々吉晴を名乗ってきた。しかし今の棟梁は、吉次を名乗ってった。
勘解由小路(賀茂)吉次は、勘解由小路家の次男だったが、兄と十五歳も歳が離れていたので、病死した兄に代わり二十二歳の時に、引退して余生を送っていた父の指名で勘解由小路党の棟梁になって、金売りの商人に化けて活動していた。

彼が吉次のままだったのは、表の貴族は兄の忘れ形見に継がせ、自らは影の棟梁に徹する為だった。ちょうど後白河天皇(第七十七代)が退位し、上皇(法王)になり、「保元の乱」が終わって三年ばかりの、清盛平家全盛時代の頃である。
金売吉次(かなうりよしつぐ)については、京の都三条通りにお店(たな)を出していた所から、「三条吉次と呼ばれていた」とする言い伝えもある。

吉次が源家の事で最初に命じられたのは、後白河上皇(法王)腹心の藤原通憲(信西)からで、「平治の乱」で源義朝が平家に負けて討たれた為、平家の力を削ぐ為に、「源義朝の遺児の中から数人選んで育てよ」との命だった。
それなら幼少の者が想い通りに教育し易い。鞍馬山に、文武に優れた荒法師と息子の一人、他数名を送った。選んだ遺児は遮那(しゃな)王、送った荒法師(総軍師)は武蔵坊弁慶、吉次の息子の名を伊勢(三郎)義盛と言う。


ここに一つキーワードがある。保元の乱で功績のあった源義朝と平清盛の二人だが、平清盛とその一族に比べ、源義朝とその一族に対する恩賞が薄かった所に、隠された何かが有るのだろうか?
勿論、平清盛の白河天皇御落胤説が本当なら、然(しか)るべきだが、藤原氏の勢力が衰える中、清盛平家が、土御門(安倍)家の名声を利用して「藤原・源氏ラインを天皇から遠ざけた」のではないのだろうか?

勿論、藤原氏と繋がりの濃い源氏が「敬遠された」と言う側面はあるが、それだけだろうか?或いは清和源氏(河内)の系図が、その時点では成り上がりの「後付け系図」だったからかも知れない。つまり武士として力はあったが、河内源氏はかなり下位の貴族の出自だった可能性がある。

それに比べ、桓武天皇の子「高望王(平姓)」の直系、平清盛とその一族は厚遇され、しばらくの間は、後白河上皇と平清盛の蜜月が続いた。妻・平時子の姉妹である平滋子(建春門院)を上皇に娶せ、その間に生まれた憲仁親王(後の高倉天皇)を皇太子とした。

「保元の乱」から二年後の千百五十八年(保元三年)後白河天皇は守仁親王を第七十八代・二条天皇として帝位を譲位、自らは法皇と成って院政を敷こうとする。
所が二条天皇の即位により、後白河院政派と二条親政派の対立が始まり、後白河院政派内部でも院近臣・藤原信西(しんぜい)と藤原信頼の間に反目が生じるなどし、その対立が千百五十九年(平治元年)に頂点に達し「平治の乱」が勃発する。
この「平治の乱」で源義朝らを破った平清盛が、強力に権力を握り始めるのである。



平安後期になると、陰陽貴族安倍家とは関わりない公家の号としての土御門(つちみかど)の使われ方が現れる。
日本史上稀にみる激動の時代、平安時代末期から鎌倉時代初期にわたる十二世紀後半に、皇統の影人として登場した土御門(源)通親(つちみかど・みなもとの・みちちか)である。
源通親は土御門を名乗る公家であったが、安倍氏の血筋ではない。
村上源氏嫡流の生まれであるが、この頃に成ると「土御門」の公家の名跡は安倍氏に拘らない公家の名流として帝よりの賜り名跡として通用していた。

源(土御門)通親は村上源氏嫡流に生まれたが、源氏と言っても武家(ぶけ)ではなく、後胤貴族・村上源氏は公家(くげ)の名流である。
公家(くげ)とは、武家(ぶけ)に対する言葉として京都の朝廷を構成する貴族・官人の総称で、元来は天皇または朝廷を指して「こうけ」または「おおやけ」と呼んでいたのだが、鎌倉時代以降、武力で帝(みかど/天皇)に奉仕する幕府を「武家(ぶけ)」と称するようになると、それに対比して朝廷において政務一般をもって帝(みかど/天皇)に奉仕する文官一般を「公家(くげ)」と呼ぶようになった。

殿上人(てんじょうびと/うえびと)は、日本の官制において五位以上の者の内、天皇の日常生活の場である清涼殿南廂へ昇る事を許された者の事を指し、この清涼殿の殿上の間(ま)に昇る事を昇殿(しょうでん)と言う。
公家(くげ)とは、昇殿を許された「堂上家」と「地下家」から広義に構成されるが、一般的には堂上家を指して公家(くげ)としている。

つまり殿上人(てんじょうびと/うえびと)と昇殿を許された「堂上家」と公家(くげ)は、言い方は違うが意味は一緒である。
官職としては、摂政、関白、太政大臣、左大臣、右大臣、内大臣、大納言、中納言、参議に就く血統の家柄で、家格としては、摂家、清華家、大臣家、羽林家、名家、半家の区別があり、古くからある家を旧家、文禄慶長以降創立の家は新家と呼ばれ、幕末には百三十七家の多くを数えるに至っている。

平安時代末期ごろから貴族社会において公卿に昇る家柄が限定されるようになり、藤原北家による摂家の確立に伴って家格が固定化し、鎌倉時代前期ごろまでに公家社会の基礎が形成された。
摂政関白をはじめ、太政大臣・左大臣・右大臣・内大臣・大納言・中納言・参議・近衛大将・大弁以下〜の官職名を家柄により世襲した為、この公家社会においては、家格によって昇進できる官職が定まっていた。
但しこの官職を公家(くげ)に限定されず、朝廷より有力武家(ゆうりょくぶけ)にも与える事によって、朝廷の権威を維持すると同時に武家(ぶけ)の権威を認める事で双方の存在を担保し合う形式が採られていた。

鎌倉に幕府が成立しても、実はまだ公家(くげ)の出番は在った。
鎌倉時代を通じ、主に軍事警察権と東国支配を担当する武家政権(鎌倉幕府)に相対して、政務一般と西国支配を所掌する公家政権(朝廷)が共存して存在しており、両政権がおおむね協調連携しながら政務にあたっていた。
しかし鎌倉幕府ができて以降大政は武家に移り、「後醍醐天皇の建武の親政」や南北朝並立などの動乱を経ながら公家(くげ)の職権は序々に空虚と化して室町時代には幕府および守護によって公家政権の権限が侵食されて次第に有名無実化の道を辿って行く。

江戸時代に入ると、公家社会は幕府から保護を受ける事となったが、反面、天皇と公家を規制する「禁中並公家諸法度」が定められ、これにより江戸時代の公武関係が規定された。
公家社会は幕末まで温存されたが、明治維新期に解体され公家のほとんどは華族身分へ移行した。
平安時代末期に官庁街である大内裏が消滅して以降、庁舎内で会議や事務が行われるることはなくなったが、太政官や各省のポスト(役職名・肩書き)だけは明治維新を迎えるまで残った。


実はこの源通親(みなもとのみちちか)、当初勘解由小路党には敵味方のどちらか判り難い存在だった。
権力を持つまでの源通親(みなもとのみちちか)の政治手法が、多分に風見鶏的であったからだが、当時の政治情勢で中枢に伸し上がるには、止むを得ない事だった。

後に伸し上がった公家政治家・源通親(みなもとのみちちか)は、その邸宅の号により、土御門(つちみかど)内大臣の称をもって世に知られる。つまりここから暫くの間、この物語に村上源氏嫡流の土御門(源)通親(つちみかど・みなもとの・みちちか)が絡む事と成る。

通親(みちちか)の村上源氏は頼朝の河内源氏と違い最高級公家の家柄である。
十二世紀後半は、平氏政権の盛衰、鎌倉幕府の成立が象徴するように、日本史上稀にみる激動の時代であったが、土御門(源)通親(つちみかど・みなもとの・みちちか)はこの困難な時局を皇統を補佐して泳ぎ切り、武力を持たない公家政治家として源平の武家相手に怯(ひる)むことなく立ち向った数少ない一人であり、後白河院政及び以後の朝廷中枢に立った一代の英傑である。

平安時代中期以降、公家社会に圧倒的な勢力を誇った藤原氏に対し、ほとんど唯一、それに対峙して永くその最上層に地歩を占めたのが、皇胤(こういん・天皇の種の意味)貴族の誇りをもつ村上源氏であり、その地位を確立したのが源通親(みなもとのみちちか)である。

村上源氏嫡流に生まれた通親(みちちか)は、後白河上皇の院政初期の千百五十八年(保元三年)に従五位下に任じられた。
通親(みちちか)の青年時代は平清盛とその一門の全盛期にあたり、通親(みちちか)も清盛の支援を受けた高倉天皇(第八十代)の側近として平家と関係を築いた。
高倉天皇は、後白河天皇の第四皇子で、母である皇太后平滋子は清盛の妻平時子の妹、皇后は平清盛女平徳子(後の建礼門院)安徳天皇と、その異母弟、後鳥羽天皇らの父である。


平安宮の内裏の真横から左に伸びている西(左京)の勘解由小路の一番平安宮よりに、勘解由小路家の屋敷が有る。その屋敷から、誰にも見られずに内裏(だいり)の帝の傍近くに行けるのは、何故か勘解由小路党の棟梁だけである。

「帝、お召しに御座いますか?」
最近、帝のお召しが頻繁である。決まって寝屋に入ってから呼び出される。
「おぉ、吉次か、近こうおじゃれ。」
「既に屏風の影に控えております。」
「そか、吉次、近頃の太政(清盛)め、少々目障りじゃ。」
帝も、有力者のコントロールには、心を痛めていた。

皇胤氏族の血が騒ぐのか、燃える思いが湧きあがって来た。
最早(もはや)、一歩も引けなかった。御所から見る月が奇妙に大きく、手が届きそうにわずかばかり欠けて、辺りが恐ろしく明るく、月を眺めに庭近くまで歩み出た後白河上皇を見下ろしていた。
「清盛めが月、欠けておじゃる、のう吉次。」
院(上皇)は、月を見上げて吉次に言った。
「委細承知。」もう、吉次の気配は内裏から消えていた。


現存する古文書によると、天武天皇の御世、六百八十一年七月に駿河国の東部二つの郡(賀茂郡・駿東郡)を割いて成立した伊豆国は、天城連山をはじめ多くの山に囲まれた山国である。
まぁ、こうした古文書が残っていると、それ以前には「伊豆の国が無かった」と単純に言われそうだが、裏を返せば、わざわざそうした名の国を作る「理由は何なのか」と言う見方も出来る。つまり、昔の国(伊都国)を、文字を変えて「復活させたのでは?」とも取れるのだ。

伊豆国の荘園は十一世紀後半後冷泉院から白河上皇(院)期に成立し、十二世紀の「鳥羽上皇から後白河上皇の院政期に本格展開を遂げた」とされる。
当時の「伊豆狩野荘」は後白河上皇(院)の御領地である。つまり、後の江戸徳川幕府の幕府直轄領韮山代官所に至るまで、何故か伊豆国は象徴的に重要な場所だった。

特筆すべきは後白河上皇と勘解由小路党が、「伊豆狩野荘で結び付く」と考えられる点である。つまり「伊豆狩野荘」は、賀茂氏流れで、伊豆の国に縁のある勘解由小路党の「秘密受領地(活動資金源)であった」とも解釈出来るのだ。こうした影の拝領地は、後に後白河上皇から紀伊半島にも数箇所賜っている。


千百六十七年に、清盛は太政大臣に上り詰め、武士として初めて、位人臣(くらいじんしん)を極めた。
武を持たない公家の土御門(源)通親(つちみかど・みなもとの・みちちか)が、出世の糸口を掴むには平家の力が要る。
彼は官僚として出世の後ろ盾に平家を選んだ。
清盛の弟である平教盛の婿になった通親(みちちか)は千百七十九年(治承三年)に蔵人頭になって平家と朝廷のパイプ役として知られるようになった。これが、平家・土御門連合が成立する一つの要因となっている。

翌年の清盛による後白河法皇幽閉とその後の高官追放の影響を受けて土御門(源)通親(つちみかど・みなもとの・みちちか)は参議に昇進、以仁王の乱追討・福原京遷都ではいずれも平家とともに賛成を唱え、親平家の公家として摂関家の九条兼実やその周辺(代表格が藤原定家)と対立している。

平家は、まさしく並ぶ者なき実力者である。しかし清盛は、太政大臣就任三ヶ月ほどで原因不明の腹痛(重病)に倒れ、一時は死の境をさまよった。勘解由小路党の仕業で有るが、清盛は奇跡的に乗り切っている。
これを機に、清盛は太政大臣を辞めて隠棲して入道となり、相国入道と呼ばれる。しかし実権は手放さず、絶大な権力を維持したままだった。

平家は一族で主要官位を独占し、全国に五百余りの荘園を保有し、日宋貿易を推進して莫大な財貨を手にした。
この扱いの差を不満とした源義朝は、藤原信頼と組んで「平治の乱」を起こす。しかし平清盛に破れ敗走する。
義朝は自分の地盤である関東で、再び体制を整え直そうとしたが、敗走途中で部下に殺されてしまう。
この「平治の乱」の折に父・源義朝に従い十四才で初陣し、敗れて平家方に囚われの身に成ったのが、後に鎌倉に幕府を開く源頼朝だった。


平家に逆らう勢力が無く成ると、清盛は後白河上皇(法皇)と対立、院政を止めさせて朝廷を抑える方策に出る。
いよいよ土御門(安倍)家の野望と清盛平家が牙を剥いたのである。


清盛は高倉天皇(第八十代)に、自らの娘である平徳子(建礼門院)を嫁がせ(入内・にゅうだい)、天皇の外戚となった。
更に清盛は娘の平盛子を摂関家の藤原基実に嫁がせたのを始め、多くの子女を有力公家衆と娶わせるなど、婚姻政策を駆使して巧みに権力を拡大して行った。

処が、この清盛の勢力の伸張に対して、後白河上皇(出家して法皇)を始めとする院の政勢力は、次第に清盛と対立を深めて行く。
清盛平家が、公然と「鵺」に変貌し、土御門(安倍)家と組んで朝廷と皇統の簒奪(さんだつ)を始めたのである。
「近頃の相国入道のなせるは、目に余る。」
「源氏をお使いあそぶべし。」

対抗する組織は、賀茂氏の流れを汲む勘解由小路家を於いて他に無い。
当然勘解由小路と土御門との間に暗闘が起こるが、公家化した土御門と違い、「在地の草」と呼ばれる郷士、陰陽修験行者などの実践部隊の大半は勘解由小路のみが掌握していた。

或る日の夕刻、吉次は九條大路を歩いていた。齢(よわい)五十を過ぎてもなおかくしゃくとしていて、若い者には劣らない吉次だった。
歩くと、知恵が湧く。それで先ほどから、あてどもなく洛中を彷徨っていた。
戦略は万全だった。その為に、遮那(しゃな)王(牛若丸)に、三男の伊勢(三郎)義盛を付けて奥州へ出した。
「清盛が、何の役に立つと言うのだ。」
やつは、己の利だけに血道を上げている。

雨足が急に早くなった。
吉次は、先ほどから雨の雫を両手で受け止めていた。瞬く間に降水は手のひらを埋め、隙間から零れ落ちた。
この恵みが、この国を豊かなものにしている。武門の誰もが、雨の恵みをもたらす訳ではない。恵みをもたらすのは、帝の徳で有り、我々の呪詛のはずである。勘解由党の全力を挙げて、清盛の追い落としは始まっていた。


この頃から、後白河法皇の庇護(ひご)と贔屓(ひいき)を得て、高級遊女「白拍子」が皇族、貴族社会で活躍する。
しかし人間の考える事は何百年何千年と進歩は無いらしく、この白拍子の存在は李王朝時代の妓生(キーセン)、現在の朝鮮半島北側の国・北朝鮮の「よろこび組」も基本は歌舞音曲の芸能と性交接待が役目と言う点でまったく一致している。

その「白拍子遊び」の流行(はやり)は瞬く間に殿上人の間に広がり、平清盛も例外でなく祗王と仏御前の二人の白拍子を、女間諜とは知らずに妾にしている。

世の常で、酒と女の有る所、気が緩むのが男である。遊び女として、相手の懐に飛び込み、生の情報を拾ってくる白拍子の元締め、勘解由小路党総差配・吉次に勝る組織的諜報力は無い。
もたらされた情報が、後の政局を左右する貴重なものが得られたのである。

近頃やたらと「品格」が問題になる。
しかしこの「品格」、権力者が求めるのは一般民衆に対してだけで、自分達の事は「棚上げ」である。
どうやら「特権階級」は文字通り特別らしく、白拍子遊びは、高級料亭の「芸奴遊び」に代って、料亭政治は昭和の中頃まで続いた。
もっとも勤皇の志士も、倒幕の密談場所は「似た様なものだった」そうだから、正に「政局は夜創られる」と言う事らしい。


勘解由小路党総差配、吉次が後白河法皇に進言、高級娼婦「白拍子」を育成して諜報機関に組み入れた。
「白拍子」、実は急造の組織ではない。
密教陰陽道の修験呪術「歓喜法」の呪詛巫女として、勘解由小路党が手塩にかけて育成された美しい娘達だった。それ故に神に対する知識は豊富で、男装の神楽舞と殿方相手の性技は年季が入っている。

男の武術と同様な位に、殿方を喜ばせる目的での女の閨房術(けいぼうじゅつ・床技・とこわざ)は、大事な生きる為の女の武器(能力)だった。
一般の女性でもその心得を持たされる時代だったから、遊女(あそびめ)の白拍子は、それなりの高度な修行を積んでいた。

「白拍子」にとって、性行為は課せられた仕事で有り、殿方を満足させるのは性技術である。従って、予めの修練には相応の教育が課せられ、充分な実践教育を受けて、世に出る事になる。心構えが違うから、いかなる行為にも躊躇(とまど)いなど無い「性人形」と化す。

この章の冒頭で記述したが、平安期については優雅な平安貴族の物語や歌などが後世に残り貴族生活のみが強調されるが、勿論その裏で血で血を洗う権力闘争も、所領(荘園)の獲得の武力紛争や東北蝦夷征服やその後の反乱鎮圧なども存在した。
そして華やかな貴族生活の影では、律令制における厳しい身分制度の中で良民(自由民)と呼ばれる非氏族身分の者や被差別階層として賤民(せんみん/非人・ひにん/奴婢/ぬひ)と呼ばれる被差別階層の隷属的生活も存在していた。

その律令制における被差別階層の賤民(せんみん)を、奴婢(ぬひ)と称して地方の豪族が所有し、基本的に家畜と同じ所有物扱いの私奴婢(しぬひ)と呼ばれる身分の者の中から「婢(ひ)」の身分の女性奴隷を選び出し、執拗に性交を施して極楽浄土を体現させ、遊び女(め)として育て上げる。
更に殿上人に伍す学問を身に着けさせて、呪詛巫女に仕立て上げた。
その巫女の身分も親子代々受け継がれ、それを統括するのも勘解由小路党の役目だった。その延長上に「白拍子」の組織は出来上がった。

律令制に於いて、民は良民と非良民に分けられていた。「非良民」とは支配者に税を払わない者を指したが、卑しい身分とされて「賤民(せんみん)」とも呼ばれた。その被差別階級は生き方が制限されていて、「白拍子」の身分は、奴婢(ぬひ)としての生活の中ではより益しな方だった。

目的が女性(によしょう)の立場を生かした高度な情報収集であるから、相手の懐(ふところ)へ入らなければ仕事にならない。それ故舞の衣装は、本来裸身が透ける様な白の薄絹で、淫秘な雰囲気をかもし出し、殿方の誘惑には余念がない。
男達の五感に訴え、彼らの気持ちを良好にさせるにはそれなりの演出が必要で、視覚、聴覚、触覚、味覚、嗅覚を一度に刺激、誘惑する業が今様を踊る「白拍子」の役目であるから、その音曲なり、姿なりは相応にエロチックで、魅力的なものでなければならない。


駿河国三保(静岡県静岡市清水区)清水港の南東に位置する、およそ七キロの砂浜が、日本新三景の一つ「三保の松原」である。
ここに、「羽衣の松伝説」が残っている。三保の松原浜には、その昔天女が舞い降り、浜で遊ぶ為にその羽衣をかけたとされる樹齢六百五十年ほどの老松が立っている。
海での遊びに夢中になり、漁師に羽衣を取られてしまい、天に帰る事が出来ない天女に羽衣を返す条件が、「天女の舞だった」と言われて居る。

「三保の松原」は、五万本を越える松が生い茂り、松林越しに富士山が広がって、晴れた日には絶景である。
この「天女の舞」は、神楽舞で、天女は神巫女であり、神巫女は神に仕え、神の声を聞くのが仕事の「天女」と言う事に成る。
娯楽に欠ける古(いにしえ)にあって、人心を惹(ひ)きつける信仰や統治の手段に、神事としての神楽舞様式が「娯楽芸能の役割も担っていた」と考えたい。
従って神楽舞は、信仰や統治に利(り)する伝承神話が題材であり、人心啓蒙(けいもう)目的を主題にしていた。

天女は空を飛ぶ為に、羽の変わりに羽衣を纏(まと)う。
羽衣とは、蝉やトンボの羽のように薄く軽く透明に出来た薄絹で出来ている。
つまり、北辰伝説に拠る浜に舞い降りた天女は、建前は神の使いで、観音様や中東・西欧の女神同様に限りなく裸身だった。
現在の服飾における流行傾向にも通じるが、薄絹の衣は、女性を最高に引き立たせるアイテムである。そして、当時、宝飾類以上に非常に高価な物だった。

絹の製法は古代中華帝国で始まり、「紀元前三千年以上前から歴史がある」と言われる。
日本には、早くも紀元前の弥生時代に絹の製法(養蚕と織布技術)は伝わっており、律令制下では絹織物で納税が出来た。
薄絹は「紗(さ)」と呼ばれる高級品で、織り目を詰めずに格子状に織り込む特殊技法で、透ける絹地を作り、身分の高い者に珍重された。

平安期から鎌倉期にかけて流行した上流社会の「白拍子遊び」は、この天女・羽衣の巫女舞神楽をベースに、上流社会の「慰め遊び」として成立したもので、薄絹が採用されたのは、目的に添う極自然な要求からである。
余談だがこの天女光臨の話、長門国(山口県)における下松(くだまつ)市、光市、田布施町などの町々は、瀬戸内海に連なる北辰尊星妙見大菩薩(ほくしんそんじょうみょうけんだいぼさつ)と朝鮮半島、百済(くだら)の国の琳聖(りんしょう)太子の来朝帰化の伝承の地であり、浜と上陸関係が三保の「羽衣天女伝説」に良く似ている。


鎌倉の頼朝館に、弟の範頼が参上した。
「兄上、吉野で捕らえた義経の愛妾・静が送られて来ました。」
「おぉ、静は美形の白拍子と聞く、この坂東の荒くれ共の目の保養でもさせるか。」
「目の保養と申しますと?」
「知れた事、静に鎌倉の舞台で白拍子舞を舞わせるのじゃ。」
「それは、如何に義経の妾とは言え、ちと酷うござるが・・・」

「黙れ範頼、静は兄に逆らった弟の妾、以後この頼朝に逆らえばどうなるか、者供に見せねば成らぬ。」
言い出したら、聞かない性格の頼朝が言い出した事である。これ以上逆らえば、範頼自身も咎めを受ける。静には酷だが、舞せる他に収まりそうも無かった。
「ハハァ、判り申した。早速、そのように手配り致します。」
「手加減は成らぬぞ、舞の衣装は都の薄絹にせい。支度は祐経(すけつね・工藤)にさせるが良かろう。あの者、音曲にも長けておる。」

流人生活の永かった頼朝には鬱屈した性格が染み付いていて、逆らう者やその縁(えにし)に繋がる者には残酷に成れるのだ。
義弟・義経の愛妾・静御前は、頼朝、政子、範頼、北条時政を始め、坂東武者とその妻女達の前で、白拍子舞の披露を命じられた。

この白拍子舞、テレビや映画で表現される優雅な舞ではない。
後世までその「エピソードが残る」と言う事は、「何か尋常ならない強烈な事実が存在した」と見るべきである。
状況的に条件が揃っていて、しかも静御前は都一の美女と謳われた白拍子だった。
このエピソードを優雅に描くと源頼朝の人となりが正確には表せないので、夢を壊して申し訳ないが、現実を描写する。

永い流人生活で屈折して育った頼朝は、源氏の棟梁でありながら負け戦ばかりの体験で死の恐怖と戦いながら漸くここまで辿り着いた。
そうしたトラウマを持つ頼朝にとって、正直な所義経の愛妾・静は陰湿な愉快を提供してくれそうな存在だった。
静は自分に逆らった義経の愛妾で、これは自分に逆らえばどうなるかを御家人衆に知らしめる見せしめみたいな物だから、それは御家人衆の面前で「静に半裸で踊らせる」と言う効果的な恥をかかせねばならない。

今様神楽と呼ばれる白拍子の神楽舞の原点は、須佐之男の乱暴狼藉で「天の岩屋戸」に隠れてしまう天照大神が、天宇受売命(あめのうずめのみこと)のストリップダンスの賑わいにつられて「何事か?」と覗き見の隙間を開けさせた伝承に拠るもので、里神楽同様に伝承に即したストーリー性を持っていた。

そもそも白拍子が舞う今様は、男舞を女性が舞う仕掛けの動きの激しいものだった。
それを袴の着用を許されない私奴婢身分の白拍子が激しく舞うのだから、裾が少し乱れる所では収まらず、しかも無防備に今日の様な現代下着は着用していない。
従って今様(当世風)神楽にはそうしたエロチックな部分が根幹を成していて、遊び女の白拍子舞はお座敷芸として殿方の人気を博していたのである。

本来、白拍子舞の基本は巫女神楽であり、巫女の身体は天岩戸(あまのいわと)伝説の神楽の「天宇受売(あめのうずめ)の命(みこと)」の胸も女陰も露わなストリップダンスの様式を踏襲(とうしゅう)した「依(うつ)りしろ舞」である。
後に囚われの静御前が鎌倉の大舞台で、当節の「当世風白拍子の舞いを舞った」と言う事は、実は殿方相手に座敷で密かに舞うべき淫媚な遊び舞を、裸身が透ける薄絹衣装で公に舞うと言う「晒し者の屈辱を受けた」事になる。

これは、長い流人生活で鬱積した残忍な性格を持つ鎌倉殿(源頼朝)の仕置きである。
そもそも鎌倉中の御家人とその女房共を集めての八幡宮・白拍子舞の宴で、鎌倉殿(源頼朝)が「わしに逆らうとこうなるぞ」と、自らの力を御家人達に誇示するのが目的のあるから、半裸で舞を舞わせ晒し者にする義経の愛妾・静御前に憐憫の情や思い遣りなどある訳が無い。

目的が辱めであるから、静御前の鎌倉での舞は、最近の映像で再現される様な優雅な舞ではない。
記述した様に、有物扱いの私奴婢(しぬひ)の出身で、身分が低い白拍子が、身分の高い者が着用する袴の着用は赦されない。
身分の低い者の袴を着さない男装をして「男舞」を舞い踊る所に、その真髄がある。
この狙いが、当時貴族社会「で白拍子」が流行った、真実の所以(ゆえん)である。

これ以上は露骨な表現を控えるが、膝を上げたり広げたり腰をかがめて中腰に成ったりする「男舞」を舞い踊るとなれば、その情景はおのずと想像が着く。
その辺りをうやむやにするから、義経の愛妾・静御前が御家人衆やその女房達の前でたかが舞を強制させられた位で、「大げさなエピソードを」となる。
しかしそうした真実は、情緒的な理由で綺麗事に脚色されて今日に伝わっている。

最もこの名場面、裸身を伴うから史実通りにはドラマで再現し難い事情がある。それで、静御前の屈辱的心理が表現し難いものになってしまった。

神楽の原型は、「天宇受売(あめのうずめ)の命の胸も女陰も露わなストリップダンス」、と言われている。
「日本古来の伝統」と言えば、この白拍子の裸舞(ストリップダンス)も、正しく天宇受売(あめのうずめ)から脈々と流れる「神迎えの呪詛」であり、日本の「独自文化」である。それを現在の物差しで計ってしまうと、現実を覆い隠す綺麗事になる。

この「白拍子」、法皇の音頭取りで、宮廷、貴族の屋敷に盛んに呼ばれる様になり、それと知らず思惑通り、貴族や高級武士社会に、諜報活動の使命を帯びて浸透して行ったのだ。同時に吉次は、平家に対抗すべき武力勢力の育成を計画、源氏義朝の遺児達に影人を送っている。

ご存知「源義経」も、京では白拍子遊びに明け暮れて、愛妾静御前とよしみを通じている。この白拍子が、帝(この場合は後白河法皇)の命を受けた勘解由小路一党の手の者で、所謂「諜報活動を担当していた」とすれば、まさに「くノ一」と言う事に成る。「美しく教養を持ち、諸芸技に長け、性技にも長けている」となれば、権力者の懐へ入るのは造作も無い。


千百七十七年には、院(後白河)と平家(清盛)のせめぎ合いの中で、鹿ケ谷の陰謀事件が起こる。
これは多田(源)行綱(多田源氏の嫡流)の密告(異説あり)で清盛に露見したが、これを契機に清盛は院政における院近臣の排除を図る。
藤原師光(西光)は処刑とし、藤原成親は備中へ流罪(流刑地で崖から転落という謎の死を遂げる)、僧の俊寛らは鬼界ヶ島に流罪に処した。この時は流石に清盛も、後白河法皇に対しては罪を問わなかった。

治承三年(千百七十九年)、この年は清盛にとって不幸が続いた。まず、娘の盛子が死去する。法皇は清盛を無視して、直ちに盛子の荘園を没収する。
更に、清盛の嫡男で後継者としていた平重盛が、四十歳代の始めで病死してしまった。これには清盛も流石に落胆の色を隠せなかったが、またも法皇は、重盛の死去と同時に、重盛の知行国であった越前国を没収してしまうのである。

このたて続けの不幸、当時の事である。驕(おご)る平家に怨念が渦巻いていたのか、勘解由小路党の影の力がなしたる人為的な災いなのかは判らない。ただ、平家(清盛家)に災いが重なっていた。
そして、この不幸に追い打つような、立て続けの冷たい没収劇、勿論平家一門の力を削ぎ、院政を継続させる為の施策である。

清盛は、この法皇の自分を無視する身内の領地没収施策に遂に激怒し、「平家のクーデター」を起こす。
清盛はこのクーデターで院の近臣である藤原基房を始めとする反平家公家、およそ四十人の任官を全て解任し、親平家系の公家を代わって任官させる。
勘解由小路党は諜報機関であり、軍ではないから、この清盛の専横を阻止する正面切った力はない。せいぜい謀略や暗殺を持って対抗する事になる。

後白河法皇は恐れを覚えて清盛に許しを請うが既に遅く、清盛はこれを許さず、ついにこの年末近くに、鳥羽殿に幽閉してしまう。
幽閉されても、勘解由小路党の連絡は生きていた。しかし、後白河院政は完全に停止し、清盛一族の独裁による平氏政権が成立し、全国六十余州の半数以上を支配、藤原家を凌(しの)ぐ勢力と成った。

平家のクーデターは、平清盛の公家政治への挑戦でもあった。
公家と武家の狭間とは言え、武家が実質政治の中心に座ったのは、実は平清盛の平家が最初かも知れない。

この平清盛の皇室への仕打ちが、後白河天皇(後に上皇)の第二皇子・以仁王(もちひとおう)の平家討伐決意となり、令旨(りょうじ)が発せられて「以仁王の乱・源頼政の挙兵」とその討ち死により少し遅れて全国の源氏に届き、挙兵の動きが活発なものに成って、これを契機に諸国の反平家(反清盛平家)勢力が兵を挙げ、全国的な動乱(俗に言う源平合戦)である「治承のクーデター・寿永の乱」が始まって行くのである。



勘解由小路党総差配・(賀茂)吉次は、鳥羽殿で院(上皇)に拝謁した帰りの夜道を急いでいた。院の仰(おお)せは、何時も難題である。
節くれだった古木を撫でる様に風が渡り、サワサワと葉音を立てている。雲が切れて、月が顔を出した。半月だった。「そろそろ、始めるか。」吉次が呟いた。吉次自らが作・演出の壮大なドラマが、始まる時を迎えていた。

徳子が高倉天皇(第八十代)の子を産むと、清盛は治承四年(千百八十年)娘婿の高倉天皇を退位させて、自分の孫にあたる安徳天皇(第八十一代)を即位させ、無理やり高倉天皇を退位させてしまう。
娘徳子の産んだ「幼い赤子」を天皇(安徳天皇・第八十一代)にする事で、天皇の外祖父として、絶頂期を迎え、絶大な権勢を振るったのだ。

この頃から、「平家であらずんば、人にあらじ」の専横が始まり、地方での不満は重なり増えて行ったのである。


勘解由小路党総差配・(賀茂)吉次は、土御門(源)通親に呼び出され、後白河上皇(法王)の意志を告げられた。
「吉次、院(後白河法王)は清盛めの専横をお怒りじゃ。あやつ、嫡男の重盛や娘の盛子の死にも動ぜぬ。」
「清盛は天罰を、天罰と恐れぬ鵺(ぬえ)にござりますれば・・・。」
「早よう清盛に病に落ちるよう、院(後白河法王)は祈っておいでじゃ。」
「院(後白河法王)の祈り、必ずや天に通じまする。」
「判った。院(後白河法王)にはお伝えして置く。」


後白河法皇の怒りも通じず、清盛の力は一向に衰えなかった。
だが、頼朝が伊豆で挙兵した二年後、清盛は高熱を発して、病死してしまう。
病名は判らないが、焼き討ちした興福寺(藤原氏系)の、「坊主の祟り」と言う噂が流れている。

現代では、異国船が持ち込んだマラリア病説が、有力説である。
ただしこの病死、後白河法皇の蜜命を受けた勘解由党の白拍子が、「関係していない」と言う証拠も無い。


清盛は、高熱と幻覚に苛まれて、病と闘っていた。
「生きたい。」
清盛はまだ、野望の仕上げをしていなかった。安徳帝は余りにも幼い。朝廷における院(上皇)方の勢力や源氏をことごとく潰し、安徳帝の行く末を見守らねばならない。しかし、願いは叶わなかった。

現代の権力志向の人間にも通じる所だが、氏族は「愚かな生き物」であるから、領地に貪欲で、その先は「覇権を握らん」と権力欲の火を燃やす。
当然の事ながら、中には首尾よく行って上り詰める者も居る。しかし、世の仲上手く出来たもので、どこかで良い目を見れば、どこかでその分の代償を払わされる。
現実問題として、上り詰めた後に待つているのが、気の休まらない「守り地獄」と言う事に、欲に駆られた者は気が付かない。
上り詰めるが苦労、上り詰めたら「守り地獄」、権力の為に、一生心労を重ねる人生が、幸せかどうかは我輩には疑わしい。


平清盛の人物像だが、どうも物語の敵役に描かれて、非道な人物と誤解され易い。
現実の清盛は、どうも優しい一面を持ち合わせていたようで、結果を見ると、継母・池禅師の嘆願を容れ助命された源義朝の子供達(頼朝や義経など)に、彼の死後平家を滅ぼされている。
清盛の優しい一面を伝えるエピソードで、平安末期から鎌倉期に到る激動の物語に絡む人物が居る。
その人物を、大庭景親(平景親)と言う。

大庭景親(平景親)は、鎌倉(平)景政(かまくら/たいら/ かげまさ)の曾孫にあたり、桓武平氏の流れをくむ平氏の血筋であるが、鎌倉景政(かまくらかげまさ)の父の代から相模国(神奈川県)鎌倉を領して鎌倉氏を称していた。
鎌倉氏は、後三年の役の折に源義家に属して従軍、鎌倉景政(かまくらかげまさ)は、この後三年の役で右目を射られながらも奮闘した逸話が残されている。
大庭景親(平景親)が鎌倉氏ではなく大庭氏を称したのは、鎌倉氏が相模国高座郡(藤沢市周辺)に大庭御厨(おおばみくりや)と呼ぶ新田を開発した事に由来する。

大庭景親(平景親)も鎌倉氏流れの武将だったから、当然鎌倉景政(かまくらかげまさ)の時代から源氏に従っていた。
平清盛と源義朝が同盟した「保元の乱」が起こると、源義朝に従い白河殿を攻撃、武勲を上げている。
しかし、平清盛と源義朝が対立して「平治の乱」が起こり、大庭景親(平景親)も源義朝方に加わったが敗れ、平家方の囚人となった。
敵方の主力武将である。本来なら打ち首にされても仕方ない所だが、平清盛が名門が滅びるのを惜しん助命した為、大庭景親(平景親)は、以後、平氏の忠実な家人となり、以仁王の乱でも平家方として参加している。

この大庭景親(平景親)が、治承四年源頼朝の挙兵に際して「石橋山合戦」で弟の俣野景久と共に参戦、源頼朝を破った追討軍の大将である。
最もこの戦い、頼朝の兵は僅(わず)か三百、景親の追討軍は三千で、勝負は最初から見えていた。
頼朝側にすれば、三浦半島の豪族、三浦氏の援軍を待っていたのだが、前夜の豪雨で三浦勢は伊豆の境の酒匂川(さかにがわ)を渡れず、後方から迫る伊東祐親(すけちか)の追っ手に退路を絶たれた形で大庭景親の追討軍に大敗、散々に敗走、僅(わず)か六人に護られて洞窟に隠れている所を、大庭軍の梶原景時(かじわらかげとき)が見逃して助けている。

九死に一生を得た源頼朝は、神社・箱根権現の勢力に助けられ、船で相模湾を横切り安房国(千葉県)に向かう。
安房国で三浦一族と義父・北条時政と合流、その後大豪族、上総介広常(かずさのすけひろつね)、千葉介常胤(ちばのすけつねたね)には和田義盛(よしもり)らを説得して味方につけると、元々中央の平家に不満だった坂東(関東)武士は、源頼朝の下に結集して行った。
源頼朝、三島大社での旗揚げから僅(わず)か二ヶ月、やがて五万の大軍に膨れ上がった軍勢を従えて、源頼朝は鎌倉に入り、軍事組織の「侍所」を手始めに武家の臨時政府を設立、武家の棟梁と御家人の主従関係確立したのである。

このなだれ現象的な頼朝再挙の過程に在って、大庭景親(平景親)は坂東(関東)勢の中で孤立、投降したが赦されずに、猜疑心の強い源頼朝は、忠誠心を確かめる為に、頼朝方に付いていた兄の大庭景能に固瀬川辺りで斬首させている。
大庭景親(平景親)の物語は、平清盛と源頼朝の人物像の違いを示すエピソードでもある。


千百八十一年(治承五年)正月、土御門(源)通親(つちみかど・みなもとの・みちちか)は従三位となって公卿に列した。
しかし、それから一月も経たないうちに高倉上皇、次いで平清盛が亡くなり、通親(みちちか)は上皇の喪中を表向きの理由に、次第に平家との距離を取る様になって行った。
通親(みちちか)は平家の落日を、予測したので有る。

平清盛の死をきっかけに、後白河法皇と取り巻きの朝廷公家が動き出す。勘解由小路党の動きも活発になり、以仁王(もちひとおう)の平家追討の令旨(りょうじ)を全国の源氏に届けて旗揚げを要請している。幼い安徳天皇(第八十一代)は、最大の後ろ盾を失ったのだ。

権力者心理に微妙に存在するのが、「己を超えられる恐怖」である。この微妙な心理が、実は有能有意の者を、無意識有意識の別無く潰す行動に出てくるのが通例である。
平清盛は、後継者の育成に失敗したのかも知れない。

後日談であるが、平家が滅亡した壇ノ浦の戦いで、平清盛の血を引く幼帝安徳天皇(八歳)は、二位の尼(祖母で、清盛の妻)に抱かれて入水、崩御(ほうぎょ)されている。清盛没後、四年目の事で有った。異論もあろうが、あの時点で「三種の神器」を奉じて、天皇を名乗っていたのは、明らかに安徳天皇である。しからば、源氏は賊軍ではないのか・・・。
いよいよ平安期は、末期の様相を呈してきた。


(源頼朝・義経)

◆◇◆◇◆(源頼朝・義経)◆◇◆◇◆◇

清和(せいわ)源氏は、清和天皇(第六十四代)に端を発する、高貴な血筋を有する武門の一方の旗頭である。
この「源氏の棟梁」の血筋を狙って、何が何でも「源頼朝」の嫁になったのが、「北条政子」である。
日本の歴史に物を言ったのは、「お血筋」である。氏族が権威の拠り所にしたのが血統だった事から、「お血筋」さえ良ければ世間は疑いもなくその存在を認めた。

源氏の頭領「源頼朝」は源義朝の三男であったが、母が正室(藤原季範の娘由良・御前)で在った為に「嫡男(ちゃくなん)」として育てられる。幼名を、「鬼武者」と言った。
将門の時も言ったが、こうした歴史物語に登場する人物達は、大方の所、数奇な運命に翻弄される事になる。

源平が敵味方に分かれて合戦をした発端は、千百五十九年(平治元年)に頂点に達して平清盛と源義朝(頼朝の父)が武力衝突した「平治の乱」の勃発だった。
「保元の乱」から二年後の千百五十八年(保元三年)保元の乱で勝利した後白河天皇は守仁親王を第七十八代・二条天皇として帝位を譲位し、上皇となって院政を始める。
所が二条天皇の即位により、後白河院政派と二条親政派の対立が始まり、後白河院政派内部でも信西と藤原信頼の間に反目が生じるなどし、その対立が千百五十九年(平治元年)に頂点に達して平清盛と源義朝(頼朝の父)が武力衝突したのである。

源義朝は、保元の乱の折りに、父・為義、弟・為朝を敵に回して戦い、二人を殺害したにも関わらず、「保元の乱」以後の平家(平清盛)と源氏(源義朝)の扱いに不満を持ち、藤原信頼と組んで「平治の乱」を起こす。
千百五十九年(平治元年)平清盛が熊野(和歌山)参りのため、京を離れた隙を狙って、義朝は、信西と対立していた信頼と手を結び、謀反を起こし、後白河上皇と二条天皇を閉じ込め、藤原信西を殺害して「平治の乱」が始まった。
しかし源義朝立つの急報を受けた平清盛は急いで京に戻り、幽閉された天皇と上皇を救い出して一気に義朝軍を打ち破る。

破れた義朝は鎌倉を目指して敗走する。
義朝は自分の地盤である関東で、再び体制を整え直そうとしたが、敗走途中で長男・義平と共に部下(長田忠致)に捕らえられて殺されてしまう。
この「平治の乱」の折に父・源義朝に従い十四才で初陣し、敗れて平家方に囚われの身に成ったのが、源頼朝だった。
池の禅尼の嘆願で頼朝や義経は助命され頼朝は伊豆の蛭が小島へ流され、義経は京の鞍馬寺へ預けられた。

この時代、その血統に生まれた事は生まれながらに権力者となる幸運でもあるが、生まれながらに生き方を決められる「不自由」と言う不幸も背負って生まれて来る。
そして源義朝の子供達は、一瞬足りととも心安らげぬその血統に生まれた宿命とも言える過酷な人生を辿る事になる。



源頼朝は平治の乱の折に父・義朝に従い十四才で初陣し、平家に敗れて捕らえられるが、幼少の為に清盛の継母・池禅尼の助命嘆願もあり処刑を免れ、伊豆の国「蛭ヶ小島」に流される。
伊豆・蛭ヶ小島は狩野川流域の砂州の一郭に在り、周囲を湿地帯に囲まれた沼地の中の島で、現在は水田に囲まれてヒッソリと在る。

多感な時期を、源氏の棟梁の血筋として生まれたばかりに囚われの身として過ごした源頼朝は、周囲を監視に囲まれ心傷付きながら孤独の中で育った筈である。


源頼朝の父義朝には、平治の乱の折に義朝に従い、共に討ち死にした長男次男が居たが側室の腹だった。
この妾腹の子を「庶子」と言い、この場合庶兄が二人いた事になる。
この時代、身分違いの女性は、幾ら愛されても「妾、側女」で、正室にはしかるべき釣り合いの取れた女性(にょしょう)を娶る。
従って、正室の腹である頼朝が、源氏の棟梁・義朝の三男であるが、世継ぎ(家長)に成る。
勿論庶兄に当たる者は、正室に世継ぎ(家長)があればその家臣、無ければ世継ぎと言う事になり、庶子ばかりの場合は、御家騒動に発展する事もあった。

頼朝は、平家の厳しい監視の下、三十三歳で旗揚げするまで、流人として不遇な十九年を伊豆の国韮山の地で過ごしている。
この流人の監視役が、伊豆の国韮山一帯を支配する平氏の枝の豪族北条家で、当主は北条時政と言った。北条政子は、時政の娘である。

弟の「源義経」の人気に比べ、鎌倉幕府を成立させて、曲がりなりにも日本の歴史の一定期間に日本全土を抑えて安定政権を樹立したのに、兄の「源頼朝」は、評判が悪い。傍から見ると、妻の北条政子の尻に敷かれ、言いなりに身内を殺して行った気の弱い男のイメージが強い。
義経の方は、活躍の割に後が不運だった事もあり、人気は上々である。これは、判官贔屓(はんがんびいき・義経の官職「検非違使」から取った)の語源にも成っている。源九郎判官(みなもと・くろう、ほうがん)義経と言う。

名だたる英雄であるべき源頼朝が、何故にこれほど大衆の評判が悪いのか?
見えて来たのは、理想に燃えた「崇高な思想」ではなく、阿修羅のごとく、醜く権力欲に取り付かれた、唯の男と女の姿だった。頼朝の元へ人が集ったのは、「清和源氏の頭領」と言うブランドが有ったからであるが、中央政権の平家一族の「専横」がもう一つの大きな要因であった。

「源平の合戦」などと言ってはいるが、頭(かしら)は確かに源氏と平氏だが、中身はごちゃごちゃで、平氏一門でも「都合」で頼朝側に付いた者も数多い。真っ先に上げられるのが、北条一族である。
そして、緒戦の敗北の折、頼朝の逃亡を助けた平家方の平氏、梶原景時も、その後寝返って頼朝方に付いた。千葉氏、上総氏などの、安房の豪族平氏達も「しかり」である。


攻める方に、憎しみなどは別に無い。獲物を前に勝手に戦人(いくさびと)の血が騒ぐだけだ。
武士は、もう長い事権力と領地を得る為に戦をするのが仕事だった。守る方も、攻められれば座して攻めさせる訳には行かない。あわ良くば返り討ちにして、利を得る。
そこにあるのは、損得の打算に裏づけされた出世の為の「ギャンブルへの参加」だけではないのか?けして、「一門の為」などと言う、美しい話ではない。

これが、現代の政治家の派閥や政党の集合離散と、ダブって見えるのは、色眼鏡に過ぎる事だろうか?彼らは、本当に「政治理念」で行動しているのだろうか?

それを象徴するのが、例の「平将門(たいらのまさかど)・新皇事件」と言う事に成る。
頼朝挙兵から遡る事二百二十年前、関東で、「平将門の乱」が起こっている。この関東系の平氏については、中央の役人と昔から一線を画していた事も事実だった。

つまり、平氏の本拠地が中央の都に遠く、発想が朝廷政府に囚われない「自由なもの」だったのだ。
彼らは平氏ではあったが、清盛平家ではない関東平氏が地方豪族として関東で力を蓄えていたのである。


将門を討った平貞盛の子孫は、後に伊勢の国に移り、伊勢平氏として、平清盛(平家)に系図が続いて行く。

この時将門側に付き、敗れた後、郷士として関東に土着した平氏の武士達は、源氏の関東進出や東北進出で源氏の歴代棟梁と結んだ。彼ら関東平氏は、前述した奥州での前九年の役や後三年の役で、源氏の棟梁源頼義・義家親子の配下に組み込まれて、源氏とは深い関わりを持つ様に成る。
従って、平氏姓ではあるが、中央の伊勢平氏系平姓(平家)より関東の源氏の方が、絆が強かったのだ。関東の平氏には、それ成りに源氏を助ける歴史的要素が有ったと言える。

一方で、中央に地歩築いた伊勢平氏は中央権力を握り、無理強引が押し通る治世を続け突出して一族(平家)の栄華を極め地方の反感を買っていた。
その、関東系「平氏」が、頼朝の軍勢の大半をしめていた。
つまり、源平と言うよりも、「関西対関東、中央対地方」の戦いが、真相である。従って、時代と地の利を得たのが頼朝であった。

頼朝は、どちらかと言うと、軍人と言うより政治家である。
初戦の敗北「石橋山の合戦」に見る様に、戦いは二人の弟の方が遥かにうまい。しかし老獪(ろうかい)な地方豪族達や、朝廷あるいは貴族(公家)を上手に扱い、政治的に源氏方を有利に運ぶ「政治力」は、優れていた。


一方、北条(平)政子は、野心に満ちて居た。田舎の地方豪族のままで終わるなど我慢が成らない。
そこに頼朝が流されて来た。名高い清和源氏の直系で、義朝の三男とは言へ、正妻に生まれて扱いは嫡男であり、父義朝とともに兄二人を平治の乱で失い、今や系図の筆頭を名実伴に引き継ぐ身である。

桓武天皇(第五十代)は、日本(大和の国)の歴史上最強の権力を行使した天皇で、後にも先にもこれほど強力な天皇は居なかった。
その在位中にあらゆる点で強烈な指導力を発揮した日本史に於ける史上最強の天皇であり、その桓武帝の最強の子孫が「桓武平氏流だった」と言って過言ではない。
北条正子の実家・平直方流は、正にその最強の血を受け継ぐ桓武平氏流だった。

野心に満ちた北条(平)政子が、名家の棟梁「頼朝」を放っておく訳が無い。
武門で、「平清盛一族に対抗出来る」これ以上の高級血統ブランドはないのだ。何としても、「ものにしよう。」と思った事だろう。

そもそも「愛と性行為を合致させよう」などと思うのは、現代の幻想に過ぎない。
現代の女性には「認め難い事実」かも知れないが、歴史的に女性が置かれた立場からすると、殿方を喜ばせる目的での女の閨房術(けいぼうじゅつ・床技・とこわざ)は、永い事女子に出来る大事な生きる為の常識的な武器(能力)だった。

北条(平)政子は頼朝より九歳ほど歳下である。
しかし、生来のしたたかさを持ち合わせてこの世に産まれて来ていた。
流人で伊豆に来ている心細い頼朝青年を、うら若き政子が身体を張って誘惑するのは、「容易い(たやすい)事だった」に違いない。
強烈なアプローチをして、二人は首尾良く恋仲になる。実の所、恋仲と言うより「政子にたらし込まれた」と言う方が正確だった。

政子の性格は攻撃的で、その性格は彼女の性癖にも如実に現れる。多分に加虐的性交を好み、何時も頼朝を上位で責めたて快感をむさぼった。
彼女が最も得意とするのは騎上位で、頼朝の上で激しく上下する事であったが、それが気弱な性格の頼朝の性癖に合っていたから、世の中上手く出来ている。

頼朝は、流人と言う拘束感の苛立ちを、政子との強烈な睦事に逃げ込む事で日常から救われていた。頼朝は政子に「愛されている」と確信し、彼女を愛した。つまり頼朝は政子に嵌まってしまったのである。そうした二人の間の関係が、そのままこの夫婦の人生に現れる。

男女が睦み会えばその結果が出る。やがて頼朝と政子の間に娘が誕生する。
それを知った父親の北条時政は、平家の矛先が自分に向かう事を恐れて、平家の伊豆国代官・山木(平)兼隆(伊豆の国目代・判官)に政子を「嫁がせよう」と画策する。

田舎小領主の時政にすれば、源氏の流人と自分の娘が縁を結ぶなどとんでもない。
それだけで、清盛の「敵に廻った」と見なされる。
時政は「我が家門大事」で、飛ぶ鳥落とす勢いの平家(清盛一族)に逆らうなど、危険極まりないのである。
時政は、慌てて娘・正子を無難な相手に嫁がせる事にする。目を着けたのが伊豆目代・山木(平)判官兼隆だった。


父・時政の思惑もあり、熱心に縁組運動をした為に政子に山木(平)判官兼隆から縁談が来たが、政子の方は不満だった。

平家の伊豆目代・山木(平)判官兼隆は、都に常駐して中央政府を仕切る平家(平清盛一族)の遠隔地の所領管理を代行する傍ら、伊豆国を取り仕切る地方政府の長(代官=検非違使)だった。
地方郷士の父・時政にすれば、平家の危険人物・流人の源頼朝と出来てしまった娘を山木(平)判官兼隆に押し付けて北条家の安泰を図ったのである。

しかし政子にして見れば、元はと言えば一度都で失敗して伊豆国に流されて流人身分だった兼隆が、赦免されて伊豆目代に登用された経緯があり、先の出世は知れている。
山木判官は平家の伊豆目代としてこの地にあり、伊勢平氏の祖・平維衡末裔の平ブランドで清盛平家とは血統も近かったが正統・清盛平家ではなく、精々伊豆の国で威張る程度の身分で終る事は目に見えていた。

北条(平)政子が、当時特異な存在の女性(にょしょう)だったのは、その行動からも明らかである。

日本史に於いては、基本的に婚姻関係が神代から続く「誓約(うけい)の概念」をその基本と為していて、氏族社会(貴族・武家)では正妻・妾妻と言う変形多重婚社会の上、家門を守り隆盛に導く手段として「政略婚」や父親や夫からの「献上婚」などが当たり前であり、おまけに主従関係を明確にする衆道(男色)も普通の習俗だった。

その禁を破ってでも肉体(からだ)を餌に、流人とは言え源氏の棟梁・源頼朝と折角懇(ねんご)ろになり、姫まで為したのに父の北条時政が清盛平家の威光を恐れ、山木(平)判官兼隆と婚儀を結んでしまった。

このままでは自分は伊豆の田舎で、目代(出先の役人)の女房で終ってしまう。
所が、北条(平)政子はその並外れた野心故に、親の薦めた政略婚相手を親に攻め滅ぼさせてでも源氏の棟梁・源頼朝の押しかけ女房に納まる決意をする。

野心旺盛な北条政子は、一計を案じて祝言の日取りを三島大社の大祭の日に合わせ、源頼朝に囁いた。
「わらわは、祝言の夜に必ず山木館より抜け帰る故、必ず兼隆を討ち取っておくれ。」
祝言の夜に政子が逃げ帰れば言い訳が利かないから、流石に優柔不断の頼朝も、慎重な父・時政も腹を括るより他は無い。

婚礼当日に逃げ出した恋人の下に逃げ戻る・・・源頼朝と北条正子の物語を、今風に描けば大恋愛になるかも知れない。
時代考証を無視して物語を作る作者が多いが、それは現代的なものの考え方の方が読者には受け入れ易いからである。
しかし北条正子が恋したのは、明らかに源頼朝にではなく「源氏の棟梁」と言う血筋だった。
それが証拠に、天下の権力を奪取した後の北条正子は鵺(ぬえ)と成り源氏の血を喰らい尽くして北条得宗家を確立させている。

当時の女性の価値観は実家や先方の血筋と言った現実が大事で、現在とはかなり違うものだから男女の恋愛の形も違って当然である。
それでも今風の解釈でロマンチックな夢を見て「明るく楽しく生きたい」と言うのは、逆説的に言うと現実逃避の一面がある。
それは、現実から逃避して夢を見ている方が人生は遥かに楽しい。
所がここが一番難しい所で、「人生楽しければ良い」と言いながら夢を見たいのが人間であり、欲が深い事にそれでも真相を知りたいのも同じ人間である。



その頃「都」では、異変が起こっていた。
以仁王(もちひとおう)の令旨と(ぬえ)退治の名声高い源頼政一党の蜂起である。

摂津源氏の嫡流である源頼政は、保元の乱では後白河天皇(第七十八代)方に属して平清盛、源義朝(頼朝の父)らと共に崇徳上皇方と戦った。
源氏嫡流の摂津源氏の武将だった源頼政が、三位頼政(さんいのよりまさ)と呼ばれたのは、平治の乱の折りに御所の大内(内裏/だいり・御所)守護としての立場から、幼帝・六条天皇(ろくじょうてんのう・第七十九代)と後白河法皇を奉じていた平清盛方の陣営に助勢、その功績でそれまで源氏の最高位が正四位下が定番だった叙任慣習を破り従三位に叙せられたからである。

その後、後白河天皇(後に上皇)の第二皇子・以仁王(もちひとおう)が平家打倒の挙兵(きょへい)をする。
後白河天皇の第三皇子・以仁王(もちひとおう)は、兄の守覚法親王が仏門に入った為に繰り上げ第二皇子と成った平安時代末期の皇族で、幼少の頃から書や学問、詩歌や笛の才能に優れていた。
以仁王(もちひとおう)は、当然親王になる資格があった天皇の皇子であるが、平家政権の圧力があり「親王宣下を得られなかった」とも言われている不運な皇子だった。

平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての皇族、鳥羽天皇の皇女・損卞眇堂Α覆△こないしんのう)は、后位を経ずに女院となり「八条院」と号し、終生未婚であった。
八条院は、父母の莫大な遺産や荘園のほとんどを相続し、中世皇室領の中枢をなす一大荘園群二百数十箇所に及ぶ荘園が女院の管領下にあって八条院領と呼ばれ甥の二条天皇の准母となったほか、以仁王とその子女、九条良輔(兼実の子)、昇子内親王(春華門院、後鳥羽上皇の皇女)らを養育した。
つまり後白河天皇の第三皇子・以仁王は、その八条院の猶子である。

以仁王は若くして英才の誉れが高く、天台座主最雲の弟子となったが師の没後還俗(げんぞく)して元服、皇位継承の有力候補と目されていた。
しかし、異母弟憲仁(高倉天皇)の母建春門院平滋子の妨害により親王宣下も受けられぬ不遇をかこって居た所、平家のクーデターが起こり父・後白河法皇が幽閉され、以仁王自身も知行地・常興寺(領)を没収される。

その邸宅が三条高倉に在った事から、以仁王(もちひとおう)は高倉宮または三条宮とも称されていたが、「父・後白河とも疎遠の上に、父・後白河が譲位後に妃とした滋子(平清盛の妻・二位尼時子の妹)とも不仲であった」と言われ、平清盛の妻・時子は高倉天皇生母であるから、実権を平家一門に握られた以仁王(もちひとおう)の不満は当然の事だった。
千百八十年(治承四年)実権を平家一門に握られた不満から、ここに到って以仁王は終(つい)に平家討伐を決意し、源頼政と共謀して密かに平家追討の「令旨(りょうじ)」を全国に雌伏する源氏に向けて発し、平家打倒の挙兵をうながしたのである。

しかしこの事はすぐに露見して平氏の知る処と成り、「宇治橋の戦い」に敗れて奈良に逃れようとする途中、光明山鳥居の前(京都府山城町)で以仁王(もちひとおう)と源頼政は討ち取られて早期に鎮圧されてしまう。
この「以仁王の乱」、「源頼政の挙兵」とも呼ばれた蜂起そのものは、以仁王(もちひとおう)自身は準備不足の為に計画が露見して平家一門の追討を受け殺害されたが、以仁王(もちひとおう)の令旨(りょうじ)は、その討ち死により少し遅れて全国の源氏に届き、挙兵の動きが活発なものに成って、これを契機に諸国の反平家(反清盛平家)勢力が兵を挙げ、全国的な動乱(俗に言う源平合戦)である「治承のクーデター・寿永の乱」が始まって行く。


清盛一族(平家)の専横に怒った後白河法皇の皇子・以仁王(もちひとおう)の令旨が発せられる。
するとこの時、京に居た村上源氏流れ・鵺(ぬえ)退治の源頼政は、源頼朝や木曾(源)義仲より早く、大内(だいり・御所)守護として立ち上がる。
この時源頼政は、嫡子で前伊豆守の源仲綱や源宗綱、養子の源兼綱らと共に清盛一族(平家)打倒の最初の挙兵を行い、宇治橋の合戦にて無念の討ち死を果たしているのである。

源頼政の行動は、源氏や平家ではなく、最期まで大内(だいり・御所)守護としての立場を貫いた皇統護持だったのである。


伊豆の国長岡の「古奈」に美しい娘がいた。
この「古奈」であるが、伊豆の国が伊都国と考えると、「古奈良」の可能性がある。
そもそも「古奈」の地名は、事代主命の后神である伊古奈比很(いかなひめのみこと)から「名を貰っている」と考えられ、つじつまが合うのである。

伊豆の国「古奈」の美しい娘は、長じて京に上り近衛の院(近衛天皇)に仕え、その美しさ は宮内随一と謳われた「あやめ御前」となる。この朝廷内裏への「あやめ御前」の出仕、常識的に朝廷と縁の無い田舎娘が簡単に出来る訳が無い。つまり、「朝廷と伊豆の国の間に強い関わりが存在した」と考えるべきである。

やがて鵺(ぬえ)退治の誉れ高い、源(三位)頼政と恋に落ち、結ばれて幸せな時を過ごす。処が、以仁王(もちひとおう)が、密かに発した「平家追討の令旨(りょうじ)」に頼政が呼応、武運拙く宇治川の露と消え、「あやめ御前」は伊豆長岡町古奈の里で頼政の霊を弔いながら八九年の生涯を閉じたのである。

源(三位)頼政が伊豆国長岡出身の「あやめ御前」と結ばれた縁で、伊豆の国市長岡では、「鵺祓い(ぬえばらい)祭」が新春の行事として執り行われている。
あやめ御前の父親は、一時伊豆に配流になった「貴族の藤原為明」とも言われているが、確たる証拠はない。


以仁王(もちひとおう)の令旨(りょうじ)は、その討ち死により少し遅れて全国の源氏に届き、挙兵の動きが活発なものに成って行く。
「平家清盛以下平家一門を追討せよ。」
この以仁王の令旨(りょうじ)、全国に運んだのは誰であろう?平家の権力が絶頂の時である、勿論朝廷の影の組織なくしてそれは成し得ない。つまり勘解由小路吉次の手の者が、目立たないように彼らしか知らない獣道を走り継いで、全国に令旨(りょうじ)を運んだので有る。

歌舞伎の勧進帳・安宅関で、義経、弁慶一行が山伏姿に身をやつして居るが、当時比較的フリーパスの合意が形成されていた修験者に対する扱いが、治外法権的に「余程大きな後ろ盾、または権限の習慣があった」とも推測される。
寺社造営の勧進も含め、修験者(山伏)は、「公務で動いている」と言う解釈だったのである。

この動きとタイミングが合う様に、代官山木(判官)兼隆と政子の婚礼話が進んだが、婚礼の当日の夜、政子は陣屋を抜け出して頼朝の下へ逃げ戻る。頼朝も、時政も、そこに至っては「もはやこれまで。」で、後戻りが出来ない。
その夜のうちになけなしのわずかな兵をかき集め、山木(平)兼隆の陣屋に夜襲を掛け、討ち取ってしまう。

頼朝が指揮したのは、北条時政の一族郎党の軍勢で、さして大軍ではない。
しかし、当日が三島大社の祭礼の日で、山木の家人(郎党)が出払っていて「守り切れなかった」と言うから、婚礼で油断させた最初からの「陰謀説」も考えられる。


此処に頼朝は、平家打倒の旗揚げを三島大社でする事に成るのだが、どう見ても政子の行動が「きっかけ」と見えてくる。
偶発的なものなら、以仁王の令旨(りょうじ)は、タイミングが良かっただけで、頼朝にとっては或る意味「女を取り合う揉め事」が先だったようでも在る。

頼朝と政子の経緯も良く知らされず、婚礼の日に夜襲で討たれてしまった山木判官(平)兼隆こそ、哀れである。もっとも、この一連の出来事が、「政子の描いた謀り事ではない」と言う、確たる証拠も無い。運良く頼朝には、以仁王の令旨(りょうじ)と言う「大義名分」が出来た。それで、頼朝は生き残りを賭け、近隣の源氏所縁(ゆかり)の軍勢を味方に集め始める。

伊豆で旗揚げした頼朝は、急遽近隣の源氏所縁(ゆかり)の軍勢を集めて、まず、父義朝の地盤だった相模の国(神奈川県)の平定に乗り出す。
地縁があるから頼朝に有利な筈だった。しかし、急場の旗揚げは隠しようも無く、根回しをしてない頼朝には僅かな兵しか集まらなかった。
頼朝の旗揚げ緒戦「石橋山の合戦」は、あっけなく敗れている。

千百八十年(治承四年)八月、二十二日、源頼朝のその後の人生観を変える石橋山合戦が箱根山中を舞台に起っている。
山の天候は変わり易い。この時期の箱根山中は暫(しば)し大雨や濃霧に見舞われる為、薄暗く見通し悪い日々が続く。
伊豆で山木判官(平)兼隆を討ち、平家打倒の旗を挙げた源頼朝は、同月、関東進出をめざし三百余騎を率いて東国に向かって行軍を開始した。

一方、源頼朝蜂起の報に接した大庭景親は、武蔵・相模の平家方の武士に出陣を呼びかけ、追討軍三千余騎を率いて西に向かった。
三百余騎の源頼朝軍は、平家方・大庭景親の軍勢が討伐に来たのを迎え撃つ為に相模の国・小田原の西方箱根の山塊が相模湾になだれ落ちる断崖のある石橋山に布陣する。

平家方は、大庭景親とその弟・俣野景久ら三千余騎で対峙し、両軍は石橋山の谷を隔てて対陣する。
また、源頼朝軍の後方には平家方・伊東祐親の軍が挟み撃ちで布陣しする。
しかしこの対峙した勢力、平家方は三千余騎、源頼朝の軍勢は僅(わずか)三百騎で圧倒的に平家方が有利だった。
翌二十三日、大雨と濃霧の中で本格的戦闘が始まり、石橋山で敵味方が入り混じって勇壮に良く戦ったが多勢に無勢で平家軍に包囲されて敗れ、散り散りに湯河原方面に敗走するが、追撃する大庭軍と現在の湯河原町鍛冶屋の堀口あたりで戦い、頼朝軍は或る者は討たれ或る者は自害し壊滅した。

敗れた頼朝・北条時政ら主従は、周囲に岡崎義実、土肥実平など七騎が残るのみとなって絶対絶命の危機に陥る。
湯河原の郷士・土肥次郎実平の案内で今の城山から箱根湯河原の山中を霧を味方に逃げ回り、石橋山の背後にある山中のに逃げ込み、桜郷の谷奥に在る洞窟に隠れて大庭軍をやり過そうとする。
その時、平氏家・大庭軍に属する武将・梶原景時(かじわらかげとき)に洞窟に身を隠している所を発見され、絶体絶命のピンチを迎えるが、どうした事か梶原は見て見ぬふりをしてその場を離れ、頼朝を見逃し助けてしまう。

常に討ち死にの恐怖に晒されながら九死に一生を得た頼朝主従は、山を下る途中の小道の峠でまたも大庭軍に出くわし、小道地蔵堂の純海上人にかくまわれ危機を脱している。
危機を脱し一命を得た頼朝主従は、八月二十六日土肥実平と共に相模の国・真鶴岬(まなずるみさき)から脱出、小船で海路安房の国(千葉県)に向かい、八月二十九日安房の国・猟島(かがりじま)に上陸しする。
その後安房の豪族、上総(かずさ)広常や千葉常胤の支援を得て再起を図り、再び反平家の旗を挙げ精鋭三百騎を従え上総から鎌倉に向い、途中関東の有力な豪族を味方につけて頼朝は大軍を率いている。


この時頼朝を助けた梶原景時は、後に鎌倉幕府で有力御家人に列せられている。
この時点での梶原景時の不審な行動は、中央に不満を持った彼の一存だったのだろうか?或いは密命を帯びた勘解由小路の手の者が、後白河法皇の意向を、蜜書で伝えていたのかも知れない。

憶測するに、頼朝は余り武将には向かない臆病者で、緒戦の「石橋山の合戦」の敗北でよほど恐い思いをしたのか、以後の戦は全て弟達に任せて、最後まで戦には出なかった。京都に上洛したのも、完全に安全を確保した後である。頼朝が後の世まで人気が出ないのは、この武将にあるまじき臆病さを「嫌われていた」からではないか?

勿論、武力だけが力ではない。古来より、知力に基ついた交渉力も立派な力だった。それを先の大戦では、「武士道の国」と胸を張り、武力に頼って滅びの道を突き進んだ。
考えて見れば昭和の大戦は、古(いにしえ)の奇跡、誓約(うけい)の知恵を持った祖先にも劣る、独り善がりの判断だったのである。

世の中不思議なもので、気弱で臆病な者が最後に笑うケースが目立つ。
臆病は慎重に通じ、源頼朝などの戦はその典型で、弟二人に指揮を取らせて、自分は戦場に出て来なかった。

平清盛流平家全盛の世である。
戦場に出ない源頼朝だったが、その劣勢を頼朝は調伏と言う政治力で平家討伐の見方を集め見事に引っくり返した。
実はこの源頼朝は手紙魔で、見方の獲得の為にセッセと手紙を書いて居た。
つまり信頼の獲得には、いかに「コミニケーションが大事」と言う事で、努力を惜しんで見方は増えないのである。

後の徳川家康もこれに近く、長い事、織田信長の属将みたいに従属して、最後に天下を取ったが、戦に於いてはとても勇猛な武将とは言い難く、配下の武将に助けられた口である。
現在に於いても、実は「行け行けドンドン」の強引な手法は長続きせず、最後に笑うのは向上心を兼ね備えた慎重派である。


後白河法皇にすれば、頼朝が武勇に優れないのは好都合で、ともかく平家の力を削ぎさえすれば良い。
元々、相模から安房に掛けての関東(坂東・東)と言う土地は、以前は父義朝の地盤で、源平を問わず、所縁の豪族が多かったのだ。
しかし、頼朝に呼応して旗揚げに参加した安房の豪族、上総(かずさ)広常や千葉常胤は、紛れも無き桓武平氏の一門である。彼らは、後に鎌倉幕府の有力御家人として政権中枢に座る事になる。その、関東系「平氏」が、頼朝の軍勢の大半をしめていた。つまり、時代と血筋と地の利を得たのが頼朝であった。

それに引き換え、むしろ常陸の国の河内源氏の佐竹氏など、八幡太郎(源)義家の弟、義光の流なれど、頼朝に加勢せず、頼朝上洛の枷になったくらいだ。
この線引きの前提にあったのが、平将門の新皇事件である。関東の平氏は両派に分かれて戦い、将門を討った平貞盛の子孫は、後に伊勢の国に移り、伊勢平氏として、平清盛に系図が続いて行く。この時将門側に付き、敗れた後、郷士・国人領主として関東に土着した平氏の武士達は、源氏の関東進出や東北進出で源氏の歴代棟梁と結んだ。

彼ら関東平氏は、前述した奥州での「前九年の役」や「後三年の役」で、源氏の棟梁、源頼義・義家親子の配下に組み込まれて、長期に生死を共にして恩賞を受け取り、源氏とは深い関わりを持つ様に成る。
従って、平氏姓ではあるが、中央の伊勢平氏系平姓より関東の源氏の方が、絆が強かったのだ。関東の平氏には、それ成りに源氏を助ける「歴史的要素が有った」と言える。

頼朝は、どちらかと言うと、軍人と言うより政治家である。初戦の敗北「石橋山の合戦」に見る様に、戦いは二人の弟の方が遥かにうまい。しかし老獪(ろうかい)な地方豪族達や、朝廷あるいは貴族(公家)を上手に扱い、政治的に源氏方を有利に運ぶ「政治力」は、優れていた。


頼朝が「石橋山の合戦」の敗北、関東での再起などでもたついている間に、木曾で旗揚げした源義仲が平家追討を掲げて京の都に進撃する。頼朝に先んじて、河内源氏の傍流・「木曽義仲」が、以仁王の令旨(りょうじ)に応じて旗揚げし、平家を追い落として京への上洛に成功する。平清盛病没の、約二年後の事である。

清盛の死で、平家軍団の求心力が落ち、しかも平家の公家化が進んで、軟弱になっていたのだ。軟弱さは、富士川の合戦で証明できる。頼朝を追討する為に東へ行軍して、富士川に対峙した時、飛び立つ水鳥の羽音を大群と勘違い、驚いて逃げ帰る失態を演じている。
木曽(源)義仲についても、倒した頼朝側の後の情報操作で、田舎者の粗野な男にされているが、正しい評価をして欲しい。木曽(源)義仲は文武に厚く、肉親の情や回りの者への情けもあった。


木曽次郎・源義仲は、頼朝の従弟(いとこ)に当たる。
この時代にしては大柄な体格で見るからに無骨者で強そうだったが、心は純朴な田舎育ちの好青年だった。
木曽義仲は、源為義の孫にあたる源義賢の子で、幼名を「駒王丸」と言った。
武蔵(むさし・今の埼玉県)の国で生まれたが、父の死で落ち延び、木曽(長野県)で育ったので、「木曽(源)義仲」と言う。
義仲が信州(信濃の国)木曽で旗揚げしたのも、勝手にした訳ではない。
以仁王(もちひとおう)の平家追討の命令書、令旨(りょうじ)が届いたからである。


源義経・家臣団に関して、帝(後白河天皇)の手に拠る・勘解由小路党修験黒幕説に付いては多くの状況証拠が存在するが、源義経同様に同じ源氏流の木曽(源)義仲にも、勿論そうした情況証拠が存在する。

源頼朝の命で源範頼・源義経らが京に攻め上るまでにいち早く行動を起こし、平家を都から追い落として都を制圧した木曽(源)義仲にも、実は後白河天皇の手が伸びて、勘解由小路党の仁科大助(戸隠大助)と言う信州(長野県)の戸隠修験武者が軍師として付いていた。
木曽義仲に仕えた仁科大助、通称戸隠大助は修験武術の達人で、平安時代末期に信州(長野県)戸隠山で修験道を学び後に戸隠流(とがくしりゅう、とがくれりゅう)忍術と呼ばれるの修験武術の始祖(異説もある)と伝えられる人物である。

戸隠は、「天岩戸が空を飛び、信州のこの地に落ちた」と言う御多聞に漏れない伝説から付けられた名で、修験信仰は盛んだった。
つまり信州(長野県)は戸隠修験道の本拠地である。
真贋は定かでないが、その仁科大助(戸隠大助)が、主(あるじ)とした木曽義仲が源義経に討たれた後は伊賀に逃れ、「伊賀流忍術をも取り入れて完成させた」とされる戸隠修験武術が、「戸隠流(とがくしりゅう、とがくれりゅう)忍術」と呼ばれる「修験武術の流派のひとつに成った」と伝承されているのである。
この事からして、世間で使われている「忍術」なる名称は、修験者が編み出し磨きを掛けた「修験武術の事である」と判る。

木曽義仲の旗揚げの直接的切欠は、皇子・以仁王の令旨が届いたからであるが、こう言う木曽義仲と戸隠大助との経緯を辿ると、義仲の成育時点から勘解由小路党を介して帝(後白河天皇)の手が廻って居た事は容易に想像が着く。


挙兵した以仁王(もちひとおう)が平家に討たれ、都から逃れたその遺児を北陸宮として擁護した義仲が、木曽で旗揚げする。
木曽義仲が旗揚げすると、平家は、清盛の息子平維盛(たいらのこれもり)と甥の平通盛(たいらのみちもり)を大将に、追討軍十万の大軍勢を編成、越前で両軍は激突する。
しかし、山間部の戦いに慣れた義仲軍に、贅沢な都生活で軟弱公家化していた平氏軍は全く歯が立たず、倶利伽羅峠(くりからとうげ)の戦いで敗退する。

この山岳戦、後白河上皇の命を受けた勘解由小路吉次の手の者が支援していれば、彼らは山になれた修験山伏で、結果は最初から見えていた。
その勢いで義仲軍は平氏の大軍を破って押し進み二ヵ月後には京に到達、上洛する。

義仲もまた、義経張りの戦上手(いくさじょうず)で、平家は持ち堪える事が出来ず京の都を明け渡してしまう。
この時平家は、都落ちに際して安徳天皇は勿論、後白河上皇など、朝廷諸共を奉じてあくまでも「正規の政権の体裁を整えよう」と謀った。
しかし、勘解由小路党の手の者により、この「平氏の都落ち」から身を隠して逃れた後白河上皇は、「平氏を賊軍」と宣言してしまう。

馴染みの、天皇側と上皇側の二手に分かれての争いの構図が、建前上またも出来上がったのだ。
この後白河上皇(法王)が、平家の都落ちから逃れられたのには、皇統直属の影の組織、勘解由小路党が活躍した。
彼ら勘解由小路党は、平家を嫌っていた。
平家の後白河上皇(法王)に対する考え方が赦せなかったのだ。

千百八十三年(寿永二年)夏、平家が木曾義仲に都を追われ安徳天皇を連れて西国に落ちた時に、土御門(源)通親(つちみかど・みなもとの・みちちか)は比叡山に避難した後白河法皇に同行し、平家との訣別を表明した。
その後土御門(源)通親は、木曾義仲の入京と没落などを経て、後白河法皇が新たに立てた新帝後鳥羽天皇の乳母であった藤原(高倉)範子、続いて前摂政松殿師家の姉で木曾義仲の側室(正室説あるも、疑わしい)であった藤原伊子(ふじわらのいし)を側室に迎え、伊子(いし)は通親の子・曹洞宗開祖・道元を為している。

これによって土御門(源)通親は、新帝・後鳥羽天皇の後見人の地位を手に入れる一方で法皇の近臣としての立場を確立し、新元号「元暦」選定などで、平家や義仲によって失墜させられた後白河院政の再建を担う事になった。
後鳥羽天皇は、後白河法皇の孫で高倉天皇の第四皇子、母は従三位坊門信隆の娘七条院殖子で、安徳天皇とは異母弟になる。


逃れた後白河上皇(法王)は進攻して来た木曾義仲に保護される。
木曽義仲は、京の町で、朝日将軍と呼ばれ、一時後白河上皇から「征夷大将軍」の位も授かっている。
しかし悲劇はすぐにやって来る。
遠く関東に在って義仲の都制圧成功にあせったのが、頼朝と政子の野望カップルである。
このままでは従弟の義仲に、良い所を持って行かれてしまう。

処が、真に頼朝に都合よく、絶好の機会が訪れる。
後白河上皇の存在である。
「院政復活」をもくろむ後白河上皇は、平清盛の孫である安徳天皇を廃し、自分の意思で次期天皇を決めようとして擁立する次期天皇の人選で義仲と意見が対立する。

義仲は純真な発想で、令旨を発して自分にこのチャンスを作ってくれた、「亡き以仁王(もちひとおう)の遺児北陸宮(ほくりくのみや)こそ、次期天皇にふさわしい」と思ったのだ。
しかし、後白河上皇は権力の集中を危ぶみ、義仲将軍主導の天皇選びを嫌って「ウン」とは言わない。
結局、義仲が折れるのだが、この一件で、後白河上皇は義仲を嫌ってしまう。

勘解由小路党の機能が発揮され、後白河上皇の意向が鎌倉に伝えられ、出遅れた頼朝は「しめた。」と小躍りをする。
ここで後白河上皇と鎌倉の源頼朝、両者の利害が一致、一つの「謀略的筋書き」が出来上がった。
義仲が、後白河上皇の平家打倒の命を受け、京を離れた隙に、源範頼、義経の頼朝軍に京を占拠され、見事「逆賊」にされてしまった。

計算された陰謀である。
義仲は、源氏の同士討ちを嫌い、何度も頼朝軍に恭順の意を表しているが、頼朝は聞き入れなかった。
それで、頼朝夫婦の「従弟殺し」が始まるのだ。


巴御前(ともえごぜん)は、最初に平家を都から追い落として朝日将軍と呼ばれれた木曾(源)義仲の愛妾である。
木曾(源)義仲は、幼名を駒王丸と言い、乳母の嫁ぎ先である木曽の中原兼遠(かねとう)の処で、平家討伐の旗揚げまで育った。
兼遠の三人の男の子と、一人の娘とは兄弟のように育っている。
娘の「巴(ともえ)」とは成長して恋仲になり、子供(長男義高)も設けるが、巴の父「中原兼遠」は大変な律儀者で、娘「巴」の義仲正妻の座を遠慮、あくまでも娘を義仲の妾(側室)とし、義仲の正妻には源氏の血を引く娘を据えている。

中原兼遠は、野望みなぎる政子の父、北条時政とは対照的な人物かも知れない。
妾の立場ではあったが、義仲を慕う「巴」は、女性の身で武具に身を包み、父や男兄弟と伴に義仲の旗揚げに参戦した。
巴の参戦はけして形式的なものではなく、戦闘で「立派に戦果を上げる働きをした」と言われている。
但しこの巴御前(ともえごぜん)の女武者としての働きは「後の創作だ」と言う意見が強く、精々武者姿で義仲に同行した暗いではないか。

山育ちでがさつだったが、義仲への愛は本物で有る。
純粋に愛に生きた女武者「巴御前」は、今も世の語り草になっている。

宇治川の合戦で、義経軍に敗れた義仲は、北陸方面に敗走するが、嫌がるのを説得して「巴」を逃がし、琵琶湖畔の粟津で哀れ討ち死にする。
現在と比べて選択肢は狭いが、男女の事は当事者の問題で、例え妾であろうとも、「巴御前」の「夢見る白馬の騎士」は、正しく幼馴染の木曽次郎・源義仲だったのである。
「巴御前」は命を永らえ、義仲の菩提を弔う生涯を送った。
義仲挙兵から、わずか一年後の事だった。

木曽義仲については、後の後白河上皇の名誉や鎌倉幕府の情報操作で、「上洛後、京で乱暴狼藉を働いた」等と意図的に悪い噂を流し、討たれて当然のように天下に流布された。
しかし純粋な好青年が、本当の義仲の実像で有る。
その後も芝居などの台本で、興行的に、悲劇の名将「源義経」を美化する為に悪役に仕立てられ、真実が歪められて来た。
それらを、素直にそのまま、「こうだった」と、義仲像を記述する文章も数多い。

時の権力者の都合で、情報操作はいつの時代にも存在する。
情報戦略は、勘解由小路吉次が率いる、「影」の最も得意とする処である。



平安末期から鎌倉初期にかけての花形スターは何と言っても源義経である。
この源義経が幼少の牛若丸(源義経)の頃から、「後白河院(上皇)の手の中に在った」と言う事を貴方は信じるか?
いや、それ以前の母の代から後白河天皇の命に拠る「皇統を守る裏陰陽寮・勘解由小路党の関与が在った」とは思わないか。

源義経は、歴史に現れる義朝の息子としては一番下(第九男)の息子である。
源頼朝の腹違いの弟にあたり、若い頃は「牛若丸」と言った。兄二人と同様に、幼かったので父の敗戦にも関わらず、死罪を免れた。鞍馬寺(くらまでら)に預けられ、僧にさせられかけたのは有名な話である。

運命の子、牛若丸(源義経)が生まれて来た時は、一連の大乱、「保元の乱」の只中だった。
本来なら、九男坊の牛若は気楽な人生が待っていたのかも知れない。しかし父義朝は、牛若丸(義経)がまだ歩けないうちに平清盛に破れ、非業の最期を迎えている。

義経の母常盤御前は出生不明の謎多き女性で、平治物語によれば、近衛天皇の中宮九条院(藤原呈子)の雑仕女の採用にあたり、都の美女千人を集め、十名を選んだ中で一番の美女が「常盤であった」と言われて居る。
つまり出自が定かでないこの美女が、裏陰陽寮・勘解由小路党の「女諜報員では無い」と言う確証も無いのである。
その絶世の美女が、見初められて源氏の棟梁「源義朝」の妾(側室)に上がり、二人の間に、今若丸、乙若丸、牛若丸の三男一女を成した。

所が、「平治の乱」でその義朝が平清盛に討たれてしまう。
この時代の武家の習いでは、一族皆殺しが普通で、特に敵の男子は子供であっても禍根を残さぬ為に命を絶つ。そうした意味で、この乱世の時、男も女も日々の覚悟がなければ生きられない。

我が子を守りたい常盤は、策に窮して敵の「平清盛」の側女(そばめ)に上がり、妾として身体を張って三人の助命に成功している。
平清盛にすれば、常盤御前は命を取り合った敵将の、愛妾だった絶世の美女で、同じ女性(おなご)を抱くにしても征服感や興奮の度合いが違うから、邪(よこしま)に楽しめる。それで、助命を聞き入れ、常盤御前に触手を伸ばしてしまった。
その煩悩とも言える欲心が、結果的に平家滅亡の火種を作った事になる。

その後、清盛の子供を身ごもった常盤の生き方を、「壮絶」と言うか「したたか」と言うか、意見は分かれようが、牛若丸(遮那王・義経)にして見れば、父の仇(かたき)の上に、戦利品として母を抱いた男が、平清盛だったのである。

一般の民にとっては、「戦乱の世」と言っても氏族達の世界の出来事で、ただ迷惑な事ではあった。
その戦乱の世の武門も、絶えず戦っていた訳ではない。
領国・領地を運営し、次ぎの戦の為の武器、兵量(ひょうりょう)その他の準備をして、言わば「生活の合間に戦(いくさ)をしていた」と言うのが、歳月の割合とすれば、正確な武門に生きる者の、生活の正しい表現だった。

この有史以来に何度も数えられる戦乱の時代の、武門同士の戦は、一度で決着が着くのは稀で、大概の所は何度も槍を交え、何年もかかる事が多かった。だから女性達は、その日々の暮らしの中で、愛し合い、憎み合って生きていた。
その男達の凄まじい運命の狭間で、控え目に、しかし、しぶとく力強く生きたのが、実は日本の女性達だった。


伊勢(三郎)義盛は、父・勘解由小路吉次にある事を命じられていた。
「三郎、此度は鞍馬山の遮那王(しゃなおう・義経)を帝の為に武将としてお育てせよ。」
「まだ幼い遮那王(しゃなおう)様ですか?」
「頼朝様や範頼様ではもうご自分の意見が出来上がっている。それに遮那王なれば我らとの縁(えにし)も深い。」
「縁(えにし)とは?」

「遮那王の母御である常盤(ときわ)は、元々我らが手の白拍子じゃが、中宮九条院様の雑仕女(ぞうしめ)に参内させておった。」
「なるほど、それ故常盤様は身体を張った御助命を・・・」
得心したように、伊勢義盛が頷いた。勘解由小路党の女人、白拍子ならさほどの事、造作もなくやりおうせるが道理である。

「われら、選り優(すぐ)りの白拍子を帝のお傍にも平家にも源家にも潜ませて居るわ。」
父・勘解由小路吉次は、自らが構築した白拍子の女体ネットワークに自信を持ち、不適に笑っていた。
「父上、常盤様との縁(えにし)の経緯(いきさつ)が判り申した。ならば、仰せの通りに成して見せまする。」

「武蔵坊(弁慶)を付ける故、素直に、真っ直ぐに・・・な。」
「委細承知。」
伊勢(三郎)義盛は源義経が鞍馬山で剣の修行をしていた牛若丸・遮那王の頃から武蔵坊弁慶と共に義経に臣従し、最初から最後まで行動を共にしている。


牛若丸(義経)は、鞍馬寺で、何者かに自分の身の上(身分)を教えられ、平家打倒を誓って剣の修行を始める。

何者かが勘解由小路の手の者で有ったのは言うまでも無い。
この修行した剣の流儀は、「京八流の剣」と言われ、いずれも修験道の武術より興っている。この頃、弁慶(武蔵坊)など数人の部下を得ているが、五条大橋の「牛若、弁慶」の話は、興行的には面白いが、「眉唾ではないか」と思われる。源氏の血筋に、「魅力を感じて集まって来た」と言うのが、現実的である。


実は、この源義経(牛若丸)をサポートして世に送りだした修験黒幕・勘解由小路(かでのこうじ)党の影には、表ざたには出来ない或る「やんごとなきお方」の御意志が働いていた。
「平治の乱」で源氏と言う抑止力を失った後白河上皇(法皇)が、源氏復興を画策していたのだ。

源義経(牛若丸)の少年期は、後白河上皇(法皇)と平清盛とのせめぎ合いの中で「治承のクーデター」が起こり、朝廷は飾り物に棚上げされ、権力は完全に平家が手中にしてしまっていた時代だった。
源義経(牛若丸)が、いかに源氏の血統を有していても、それを担ぎ出す者達が居ないと、妾腹で九男坊の彼は、歴史の表舞台には踊り出る事は無かった筈である。

その、担ぎ出した男達の素性が、或る「やんごとなき方」の命を帯びた修験山伏・剣術熟達の一団だったのである。

京八流は、盾を使わない剣法として修験者から生まれ、様々に考案されて発展した。
これは、歴史的に世界でも珍しい剣法(術)と言われ、「相打ち確率が高い」と言われるが、その発祥の経緯で、たまたま相手が未開で有った為に、「剣を持たない」と言う環境から始まっている。
それが精神的におかしな発展を遂げ、卑怯な振る舞いはしない剣術の精神になったが、初期蝦夷(えみし)討伐の時点では、相手に「まともな剣は無かった」と考えると、充分に卑怯だったはずだ。


傍目には凄い事でも、当事者にとっては「日常の事」と言う事は常に存在する。
つまり、人の能力はかなりの可能性を秘めていて、その発揮の仕方がそれぞれ個別に違うから、自分が成せぬ事に人々は驚嘆する。
そうした超人的技が、修練に拠ってある程度は成し得るから、術者が生まれて来たのだ。
その練達の各分野の術者は、全てわが国では陰陽修験の術に端を発しているのである。

わが国では、精神が伴う事を「道(どう)」と表現する。「術」から始まったものが「道」にと発展して、剣術が武士道になった。
後に「道」となる弓術も、氏と武の繋がりが深く、「弓取り」は武士を意味し、神事の破魔矢(はまや)・流鏑馬(やぶさめ)などに弓矢が使用されている。また、「道」は、人に指針を伝える為にある。

奈良時代を起源とする流鏑馬(やぶさめ)は、平安時代には宮廷行事として盛んに行なわれたが、武家時代に入ると兵法の修練の一つとして取り入れられ、特に、鎌倉幕府の奨励により盛んになった。 破魔矢(はまや)の元は覇磨矢で競技(うでためし)の意味だが、縁起物の神事にに使われ破魔(はま)なった。
つまり、「道」は、人に指針を伝えと同時に精神的な拠り所の意味合いもある。
だとするなら、性行為には精神が伴い、指針が示されて当然でなければならない。しかしながら、そうした概念が性に関しては「臭い物には蓋」式に、全て否定されている。


武蔵坊弁慶は、源義経に付き従う怪力無双の僧兵として広く知られている。
兵法に優れ、武術の達人だった武蔵坊弁慶が、幾ら源氏の血筋とは言え自発的に義経に臣従するのは如何にも不自然である。
武蔵坊弁慶に付いては、当時平清盛と対立していた比叡山から派遣され、源氏再興を謀った「義経付軍事教育顧問」説も浮かんでいる。つまり武蔵坊弁慶は、最澄が興した、天台宗の総本山・比叡山延暦寺の「修験者(山伏)だ」と言われている。

これが事実であるなら、当然義経の影には「修験者(台蜜山伏)」のネットワークがあり、奇跡的な義経の戦闘方法を、彼らが影で支えていたのではないだろうか。
義経主従の主たる人物の半分、武蔵坊弁慶、常陸坊海尊、伊勢(三郎)義盛、駿河(次郎)清重、熊野喜三太、鷲尾(三郎)経春らの正体は、「修験山伏関係」と考えて不思議は無い。強力有能な軍事顧問団であるから、恐らく勘解由小路・吉次の主力の一部だったのではないだろうか。

智謀と怪力で「主・源義経を助けた」と言われる武蔵坊弁慶には詳しい経歴が不明で、比叡山に入山しが乱暴が過ぎて追い出された事に成っている。
弁慶については後の創作が多く、手の付けられない乱暴者が義経に強者の鼻をへし折られて臣従した事に成っているが、そんな愚かな乱暴者が突然悟って知将に成るなどおよそ創作劇的である。
また、義経主従都落ちの後、畿内周辺に潜伏する義経一行を比叡山の僧兵らが庇護しており、義経と比叡山の僧兵の関係を伺わせるが、史実の弁慶については、都落ちした義経・行家一行の中に弁慶の名がある以外は、ほとんど明らかではない。
本来弁慶の詳しい経歴が不明なのは、それこそ「密命を帯びた工作員だったから」と考えるのが順当である。

同様に、伊勢三郎義盛の出自が明らかでないのは、ひとえにその出自を秘す陰陽修験の諜報組織に伊勢義盛が関わって居たからである。
いずれにしても謎の多い人物で「義経記」では、義盛は伊勢国二見郷(浦)の人で「伊勢の度会義連(わたらいよしつら)」と言う「伊勢神宮の神主の子である」とされ、また三重郡司川島二郎俊盛の子として「三重郡福村(現菰野町福村)で生まれた」とも伝えられて居る。

三重郡司(みえ・こおりつかさ)の川島家と言い、伊勢神宮の神主・度会家(わたらいけ)と言い、実は借り物の系図と言う事も伊勢三郎義盛の場合は大いに有る。

伊勢(三郎)義盛は、幼少時に伊賀の中井・某の下で養育されていた。
その後、若い頃に度会郡二見郷に流落し、江村に在住して伊勢江三郎を名乗り、武芸全般の修行をしている。
しかし、何しろ修験の草(影人)の事である。修行時代の若い頃から、居所も名前もその都度身元を気取られないように転々と変え、鈴鹿山に潜伏して一時、焼下小六を称していた。
その後上野国荒蒔郷に潜居して居たが、父・吉次の依頼(命令)で源義経の鞍馬から奥州下向に際し家人として加わり、伊勢(三郎)義盛を名乗っている。

これは余談だが、後の南北朝並立時代にこの伊勢の度会(わたらい)郡所縁の伊勢大神宮の神主・渡会氏が南朝方後醍醐帝にお味方する場面が存在するが、あるいはこの度会氏が伊勢(三郎)義盛と関わりがある「勘解由小路所縁の家柄」と考える事に無理が無いかも知れない。

伊勢(三郎)義盛は、勘解由小路(賀茂)吉次の三男である。
こうした歴史物語に登場する人物は、決まって数奇な運命に翻弄される事になる。源義経を支えて、脇役ながら大儀に生きた伊勢(三郎)義盛も、その一人だった。

吉次は帝の命を受け、遮那王(しゃなおう・義経)を平家打倒の旗印にする事を画策していた。それで宛てになる三男の義盛を相談相手につけて、逐一義経身辺の動静の報告も受けていた。
義経がどこに在っても、勘解由小路の修験山伏のネットワークは確実に吉次に報告をもたらす。

伝えられる伊勢(三郎)義盛の出自は、「伊勢神宮と関わりのある豪族の家柄だ」と言われる伊勢大神宮の神主だった。
伊勢大神宮は皇統を守る御神域で、祭神は天照大神、代々皇統に繋がる者が神主を勤めている。

すると、勘解由小路吉次の表向きの顔は、「伊勢大神宮の神主を兼業する豪族」と言う事である。
これは先祖代々勘解由小路家の次男三男の天下り先に伊勢大神宮の神主職が確保されていたからで、兄が病死する前に吉次は此処で修行をしていた。

伊勢(三郎)義盛は人懐こく、誰にも好かれる天性の輝きを持ち合わせていて、義経主従の中では、元気印のムードメーカーを引受けていた。
しかしその明るさとは裏腹に、武術は表裏に関わらず達人だった。

彼の活躍が「義経記」など後の扱いが地味なのは、(三郎)義盛が生まれ持っての「裏影人・勘解由小路」の血筋だからで、地味なのは仕方が無い。どうしても世間は義経と弁慶の話しに終始してしまう。

弁慶は比叡山延暦寺の修験山伏だが、「熊野の別当(熊野大社の神宮寺の総監督者)の息子」と言われている。
常陸坊海尊は、「近江の国の園城寺(三井寺)の僧だった」と言われている。
いずれにしても義経には、密かに修験山伏の幹部が付いていた事になる。
彼らの狙いは、義経に武将としての素養を身に着けさせ、成長を待つ事だった。

我輩が、ワクワクする魅力を感じるのは、権力の野望に固執せず、純粋な信念の美学を生き甲斐に生きる男達で、この時代に我輩にとって魅力的な生き方をしたのがこの男達、伊勢(三郎)義盛、源義経、武蔵坊弁慶の鞍馬山トリオである。

私欲を持たない「滅びの美学」を持つ男は魅力的だ。
まぁ、利己的な世間にあって希少価値だからで、その危な気な香りに心惑わされる女性も結構多い。


義経は五年後に鞍馬山を降り、監視の目を逃れて京を脱出、東北の大豪族・奥州藤原氏の頭領・藤原秀衛(ふじわらひでひら)を頼る。
義経十六歳の時であった。
十六歳に成っていた源義経は一見女子と見紛う優男ではあったが、度胸もあり剣の腕も立つ魅力的な若者に育っていた。

ちょうど平清盛が太政大臣に成って平氏全盛の時代であるが、幸い奥羽六ヵ国の雄・奥州藤原家(昔の清原家)は別格で、平氏としても影響が及び難かった。

藤原秀衡の庇護を得た事について、伝承によれば「金売吉次と言う金商人の手配によった」と言うが、この人物の実在性は今日疑われていて、実際には「名も無い影の働きに拠る、または、金売吉次と名乗った影がいた」と見るべきで、少年義経(遮那王)は、何者かの将来の備えの思惑で、軍事顧問まで付けて育成されていたのかも知れないが、勘解由小路の仕事に、確たる証拠は残らない。

それにしてもこの時代、金と言う鉱産物を扱うのは「修験系の山師」と考えるのが、まともではないだろうか。

藤原秀衛(ふじわらひでひら)は、一目で義経の才を見抜き、喜んで奥州にm迎え入れた。
源家は、八幡太郎源義家以来奥州藤原家とは縁が深い。
秀衛が義経に見たのは、瞬時に状況を判断し即応する常人に無い才であった。そして表には出せないが、内々でやんごとない高位の人物の「蜜命書」が添えられている。

それでなくとも、中央の「土御門(安倍)」と奥州の「藤原(清原)」とは蝦夷族長の主導権で対立している。つまり利害関係の延長線上に少年義経(遮那王)の奥州行きは有ったのである。


藤原家で六年、義経は秀衛に息子の様に可愛がられたが、兄頼朝の挙兵を聞き、時節到来と伊豆に駆けつける。
藤原秀衛が軍事顧問的に、配下の佐藤兄弟を義経の手勢として付けてよこした所を見ると、義経の挙兵は、「秀衛、予定の範疇だった」のかも知しれない。


富士川の戦いは、言わば臆病者同士の戦いである。
石橋山の合戦に破れ、房総半島(安房国)に逃れた源頼朝は、安房国で大勢を建て直し、僅か二ヶ月弱で関東武士十万余を味方にして相模国鎌倉に陣を構える。
朝廷を力で抑えていた平家政権にとってはこの源頼朝の所業は反乱である。
これを知った平清盛は、頼朝追討の宣旨を願い出て総大将(追討大将軍)に平維盛(たいらのこれもり)を据え、反乱鎮圧の兵を編成する。

頼朝追討の宣旨を受けた平維盛(たいらのこれもり)率いる数万騎が駿河国へと達すると、頼朝はこれを迎え撃つべく鎌倉を発し、翌々日に黄瀬川で甲斐の武田源氏・武田信義、舅の北条時政らが率いる二万騎と合流する。

頼朝は富士川の戦いで維盛軍と対峙し、水鳥の飛び立つ音に浮き足立った維盛(これもり)軍を破る。
敗走する平家軍を追撃して殲滅するチャンスだったにも関わらず、臆病者の頼朝は深追いする事無く兵を引いている。

富士川の戦い(ふじがわのたたかい・「浮島ケ原」と呼ばれる湿地帯)とは、平安時代後期の治承四年十月二十日に駿河国(静岡県)富士川で、源頼朝の兵(関東武者)と追討の為に派遣された総大将・平維盛(たいらのこれもり・弱冠二十三歳・平清盛の嫡孫で、平重盛の嫡男)ら平氏方(関西武者)の兵が戦った合戦であり、源平合戦と呼ばれる一連の戦役の一つである。

平維盛(たいらのこれもり)は、源頼朝の挙兵に際し追討大将軍となるが、富士川の戦い(富士沼(浮島原)から飛び立った数千羽の水鳥の羽音)で水鳥の羽音に驚き敵軍の来襲と誤り敗走(ただし、羽音によって源氏方の武田軍の夜襲を察知して一時撤退を計ろうとしたところ、不意の命令に混乱して壊走したと言う説もある)して散り尻に都へ逃げ帰り、祖父・清盛の怒りを買う。

この平家方頼朝追討軍、永年の都暮らしで「公家化して軟弱に成って居た」と言われて居る。


関東武士十万余を率いて富士川までやって来ていた源頼朝が、平家との富士川の合戦に大勝した帰途、弟を名乗る若者が垢抜けない供廻りの武将を十騎ほど従えて訪ねて来た。
頼朝にすれば、予期せぬ腹違いの弟、義経の来訪だった。

弟とは言え初対面の義経を、頼朝は黄瀬川の辺(ほとり)で謁見した。
その「弟」と名乗る見知らぬ若武者は、「僅かではありますが、手勢を引き連れて兄上に御助勢仕りたく負かり越した故なにとぞ御味方に加えて頂きたい。」と口上を述べる。
義経を正面から見据えた頼朝を見返す瞳は、吸い込まれそうに眩しく澄んでいて、内心頼朝はうろたえた。

頼朝がその義経が手勢と言う武士団見ると、数は少ない供回りだがいずれも役に立ちそうな強兵(つわも)の面構えの面々である。
「面妖な供回り・・・この者達は何者じゃ?」
その風体(ふうてい)怪しき義経他の十騎余りの武将に、徒歩(かち)で従う軽輩が凡そ二〜三百余り。

頼朝は奇異に思い猜疑心が浮かんだが、出掛かった言葉を飲み込んだ。今は味方が多いほど良い。
今や頼朝の下には十万余り、義経の供はたいした兵力ではないが、「平家」と言う大敵と対峙する今、一騎でも多く味方は欲しい。

正直実感の湧かない頼朝だったが、その弟に会うと体格は小柄で身軽だったが、陰陽武士団に守られてスクスクと育っていた。
義経は、気楽に近付ける雰囲気を持っていて爽(さわ)やかな顔付きが出来る好男子に育っていたのだ。


当時は家長制度が強い時代だから、身内と言えども庶弟は臣下(部下)である。
この時点で、頼朝にすれば、都合の良い手駒が増えた程度で、兄を慕う義経に比べ、あまり兄弟対面の感慨は無い。

本音で言えば、戦の先陣を任せて消耗させても惜しくない程度の手駒が増えた思いだった。
その兄弟愛の温度差は、その後の逆らえない運命を、義経にもたらす事になる。

義経は伊豆の国と駿河の国の国境(くにざかい)黄瀬川の畔(ほとり)、木瀬川宿在長沢で兄頼朝と対面を果たしている。
義経の方は純真な若者で、余り苦労して育ってはいないから兄との合流は感激で、兄に助力できる事を喜んでいた。

この体面の場、現在では八幡神社があり対面に使った一対の石(対面石)が片隅に残されている。


義経は「戦闘」の天才であった。
それは直感的なもので、あまり理論的ではない。
しかし、戦場の「待ったなし」の状況の中で、瞬時に相手の思い拠らない正解を導き出すその能力は、後にも先にも彼一人である。

この戦略、勘解由小路・吉次の手の者、弁慶達比叡山延の修験者(山伏)が参謀として的確な助言をしたもので若い義経一人の独創ではないが、それを取り入れて自らも先頭に立ち、戦闘を為し得たのは義経の才である。

つまり、状況判断と決断である。
どこの部分が弱いか、いつが攻め時か、どんな攻め方が有効か、これを瞬時に判断する。
どちらかと言うと「即応自在型」で、戦略ではなく、戦闘の天才だった。
だが現代の目で分析して見ると、平家の方が「世間知らず過ぎた」様である。

一ノ谷(城戸の戦い)の決戦を例に取ると、平家方には大胆な奇襲である。
しかしこの奇襲、義経と平家方には温度差がある。
つまり都人(みやこびと)の生活に慣れた平氏の常識では、裏山の急な斜面は要害であった。

しかし、その考え方は、公家化した人間の常識で「思い込んでいた」だけの勘違いである。
考えてみると、普通人間でも急斜面では四足になる。
四足は急斜面では二足歩行の人間より遥かに安定している。

義経は若い頃奥州平泉の藤原家で育った。奥州は蝦夷馬(南部馬)の産地である。
関西の馬に比べ、蝦夷馬は体格も良く力も強かったから、前九年の役当時の源頼義以来源家(氏)の武将はもっぱらこの馬を使っている。

この馬は奥州の特産で有ったから、到る所に牧(まき)があり、放牧されていた。
奥州藤原家に身を寄せていた若き義経も、それを見る機会には恵まれていた筈で、急斜面をものともせずに上り下りする蝦夷馬を目撃していたのである。

元来四足歩行動物は、人間が考える以上に斜面には強い。従って、今日の日本人が思うほど、義経の決断はそれ程大したものではない。

大概の人間には思考範囲に於いて錨(いかり)を降ろして既成概念化する「アンカリング効果(行動形態学上の基点)」と言う習性が存在し、中々既成概念(錨/いかりの範囲)から抜け出せないので進歩し無いのである。

同時に人間には「意識と行動を一致させよう」と言う要求(一貫性行動理論)がある。
つまり何かを出来る出来ないは、意識と一致していないから「出来ない」と言う判断をするのである。
つまり一ノ谷(城戸の戦い)における平家軍の背後の断崖の判断は、「思い込み」と言う事になる。

それらを考慮しても、源氏による平家追討は義経の天才的戦闘能力に頼る所が多かったのは誰しもが認める所である。
信長も天才であるが、タイプが違う。
信長の才能は「知略」であり、「戦略」である。

ただ義経はまだ若く、藤原氏に可愛がられた為、兄・頼朝の様に二十年間も田舎で流人生活を送った苦労の経験が無かった。
それで、素直にまっすぐ育った。
或る意味「やんちゃ坊主」で開けっ広げ、けして謀事などする男ではない。

義経が、、殊更に政治センスの無い若者に育ったには、取り巻きの弁慶達の影響が「多分にある」と推測されるが、義経の育て方について、裏に義経に政治に興味を持って欲しくない「或る方の意向が働いていた」とは考えられないか。

この辺りは、木曽で暖かく育てられた義仲と似ている。
義仲の事は他で記述しているので割愛させてもらうが、一言で言えば「乳母の里に匿われて、のびのびと育った」と言う事である。

幼くして身近な身内に恵まれず、一人ぼっちで育った義経は、肉親恋しさで純真に兄頼朝を慕い、戦闘の矢面に立ったのである。
従って、天下の権力には欲心も邪心も無い。
義経は、純粋に父義朝の無念を晴らし、兄頼朝の源氏再興の為と信じて、一途に戦ったのである。

義経の、兄の旗揚げ参加から奥州落ちまでの行動を見れば、すぐに判る。
そこには、兄・頼朝が問題視すべき部分は無い。

彼の一番の不幸は、天才故に、そして部下に恵まれた為にあまりにも戦闘に勝ち過ぎた事だ。
そして、嫉妬深く疑り深い兄夫婦がいた事である。
そして、「弟殺し」が始まるのだ。

兄頼朝の為に、恨みも無い従弟の木曽義仲を討ったのも、連戦連勝のあげく、壇ノ浦で平家を殲滅したのも、義経の成果だった。
だが、いかに強くとも素顔は若武者である。
それで京に凱旋すると、自分の人気に酔ってしまった。白拍子遊びに、熱を上げたのだ。

しかしこの頃には、既に「義経切捨て」の陰謀は、鎌倉で進んでいた。
頼朝にとって、源氏の血筋は諸刃の剣で、味方ではあるが、「源氏の棟梁座を自分と取って代わられる恐れがある」脅威の存在だった。
そして、義経は戦上手で陽気な人気者だった。
誰かに担がれては、明らかに不人気な頼朝に分が悪くなる。

源頼朝は、武士としても軟弱だったが、夫としても妻の北条政子の尻に引かれていた。
政子は強烈に勝気な姉さん女房で、どちらかと言うと策略に富む官僚タイプの武人らしくは無い頼朝は、女性の感性を兼ね備える姉さん女房の言い成りだった。

当時の女性(にょしよう)の戦場(いくさば)は寝所(寝屋)だった。
大胆かつ濃厚な技で殿方を極楽浄土に導き、子種を授かるのが女性(によしょう)の勤めである。
その政子の感性は冷酷で、自らの権力維持の為に「邪魔者を消し去る事」である。

「我殿、九郎様(義経)の都での評判、我殿にとっては善からぬもの、殿を凌ぐ者をこの世に置いてはなりませぬ。」
寝屋で裸身を絡めながら、政子は義経の追い落としに掛る。
義仲(木曾)の次は、九郎様(義経)か・・・?
基より頼朝もその気だったから、「承知しておる」と応じて政子の裸身を攻めに掛る。

「ならば、宜しゅうございます。」
頼朝の攻勢を政子が受けてたち、鎌倉・頼朝屋敷の奥の寝所は、さながら二匹の獣が交わるような雄たけびを洩らし始めた。

つまり、源義経(牛若丸・遮那王)は、腹違いの兄(源頼朝)に愛されなかった人物である。
純粋だったが故に、一途に兄(源頼朝)の権力奪取に尽くしながら、その思いは通じる事が無かったのである。

義経人気が兄(源頼朝)に危険視された事と、傍(そば)に仕える者達が、「或る組織の者」だったが為に、疑り深い兄(源頼朝)とその嫁(北条政子)の猜疑心の的に成ったのである。


東国は清和源氏の地盤であり、将門以来の反平家(反伊勢平氏・清盛一族)方の平氏(将門子孫を自称する三浦氏、上総氏、千葉氏、等)の地盤だった。
それに引き換え、西国は平家方(伊勢平氏・清盛一族)につく平氏と土着した藤原氏の枝が多かった。

東国軍(源頼朝軍)に京の都を追われた平家は、西国で体制を整え、再び京に攻め上る事を画策していた。
その平家追討をしたのが、源範頼(みなもとののりより・頼朝実弟)を総大将とする東国軍(源頼朝軍)で、その先頭に常に立ち、奇策を用いて連戦して行ったのが、源義経(頼朝腹違いの義弟)とその一党だった。

西国諸国で行われた平家追討戦は、源義経とその一党の目覚ましい働きで、一ノ谷(摂津国福原)、屋島(讃岐国屋島)、壇ノ浦(長門国赤間関壇ノ浦)の合戦と転戦し、平家は西へ西へと追われて行った。


瀬戸内海を西に下りながら戦った源平最後の決戦は、壇ノ浦の戦いだった。
この戦いに参戦した西国方(平家方)水軍の中に、北部九州の水軍、嵯峨源氏の流れを汲む源久(みなもとのひさし)を祖とする 「松浦(まつら)党」が居た。

その松浦(まつら)党の中に、清盛側近の松浦高俊(まつらたかとし)が居た事の縁で、松浦(まつら)水軍一族こぞって平家方に着いていた。
この壇ノ浦の戦い、勝敗の帰趨(きすう)を決めたのが実は松浦(まつら)水軍主力の寝返りだった。

松浦(まつら)水軍のルーツは、嵯峨源氏の渡辺綱を始祖とする渡辺氏流の分派とされ、摂津の滝口武者の一族にして水軍として瀬戸内を統括した。
渡辺綱(源綱)の子・奈古屋授(渡辺授、源授)の子が松浦(まつら)党の祖・松浦久(渡辺久、源久)で、肥前国松浦郡宇野御厨の荘官(検校)となり、松浦郡に所領を持って松浦の苗字を名のる。
本流の摂津の渡辺党は摂津源氏の源頼政一族の配下にあったが、肥前の松浦党は平家の家人であり、治承・寿永の乱(源平合戦)においては当初は平家方の水軍であった。

この経緯だが、松浦水軍は嵯峨源氏・渡辺氏流・松浦(まつら)氏系のものが大半だが、一部に前九年の役にて源頼義、源義家率いる軍勢に厨川柵(くりやがわのさく・岩手県盛岡市)で兄・貞任(さだとう)と共に戦って破れ、奥州安倍氏の生き残り安倍宗任の三男に安倍季任がいた。

安倍季任は肥前国の松浦に行き、嵯峨源氏の流れを汲む源久(みなもとのひさし)を祖とする 松浦 (まつら)水軍大名の松浦氏・松浦党に婿入りして娘婿となり松浦実任(まつらさねとう・三郎大夫実任)と名乗り、その子孫は北部九州の水軍「松浦(まつら)党を構成する一族になった」とも言われ北部九州で勢力を拡大して行く。

その松浦実任(安倍季任)の子孫・松浦高俊は、平清盛の側近に取り立てられ西国方(平家方)の水軍として活躍し、瀬戸内海を転戦している。
何故九州の地方豪族・松浦高俊(まつらたかとし)が、平清盛の側近足り得るのか?

つまりは、敵の敵は見方で、「前九年の役」での勢力構図の縁(えにし)である。
その縁(えにし)で、松浦水軍は何時の頃からか平家の家人を任じていた。

これぞ、藤原摂関家、清和源氏(河内流)、解由小路家(葛城・賀茂氏流)、奥州藤原家(清原家)対、桓武平氏(伊勢流平家)、土御門(安倍氏流)の二大勢力の暗闘が、糸を引いてそっくり平家の登用に影響されていた事になる。
奥州藤原家(清原家)の遮那王(しゃなおう・源義経)庇護も、そうした勢力構図が背景に在ったのである。


さて松浦水軍主力の寝返りだが、松浦水軍は中心となる氏の強い統制によるものではなく一族の結合体と言う形態の同盟的なもので、一族は夫々(それぞれ)の拠点地の地名を苗字としその中から指導力と勢力のある氏が、松浦党の惣領となっていた。

その緩い結合の為、当初は高俊に合して平家方の水軍であった松浦党の主流は、壇ノ浦で平家方不利と見て松浦高俊一族を除いて源氏方に寝返りを謀り、壇ノ浦の戦いに於いて源家方に付いて源家方の勝利に大きく貢献した。

海戦だった壇ノ浦の戦いに、松浦水軍主力の寝返りに合った平家方は圧倒的不利に総崩れとなり、御座船を包囲されて退路を絶たれ「もはやこれまで。」と平清盛の血を引く幼帝・安徳天皇(八歳)は、哀れ二位の尼(祖母で、清盛の妻)に抱かれて入水、崩御(ほうぎょ)されている。

敗れた平家方の総大将の平宗盛・清宗父子は入水自殺に失敗、妹の建礼門院(平)徳子(安徳天皇の生母)と共に源氏の兵に救い出され生け捕りにされている。
源義経主従の活躍ばかりが喧伝されて有名だが、壇ノ浦の戦いの勝敗はあくまでも松浦(まつら)水軍主力の寝返りだったのである。

鎌倉幕府が成立して守護・地頭制が敷かれ、松浦党はその壇ノ浦の戦いの功を認められて鎌倉幕府の西国御家人となり、また九州北部の地頭職に任じられたのだが、鎌倉初代将軍・源頼朝が東国から九州に送り込んだ少弐氏、島津氏、大友氏などの「下り衆」と呼ばれる東国御家人の下に置かれ、その「両者の確執は絶えなかった」と言う。

一方の松浦水軍・松浦高俊は、治承・寿永の乱(一般的には源平合戦と呼ばれる内乱)により平家方が源範頼・源義経軍に敗れたが、高俊(たかとし)は生き残り、現在の山口県長門市油谷(周防国日置郷・藩政時代は大津郡)に流罪となった後に高俊の娘が平知貞に嫁ぎ、源氏の迫害を恐れて先祖・安倍宗任以来の旧姓・安倍姓に戻して名乗り、以後長門国油谷(山口県)に安倍家は存続する事になる。

この長州・安倍家(松浦高俊・娘)の子孫が土地の名家として八百年以上続いて現在に至り、後の現代の世に政治家一族として名を馳せる事になるが、賢明なる読者の貴方はもう誰の事か見当が着いている筈である。

松浦(まつら)党は、大名に匹敵する勢力を有する水軍(海軍・海賊)として有名で、鎌倉期の元寇戦でも活躍している。
壇ノ浦の戦い、元寇、倭寇活動おける松浦地方の松浦(まつら)党(佐志氏や山代氏)などの海上勢力は、つとに知られている所である。

松浦水軍は、豊臣秀吉の朝鮮征伐(文禄・慶長の役)でも水軍として駆り出され、転戦した記録があり、その松浦党の最後の大仕事が、千五百九十八年(慶長三年)の「慶長の役」だった。

日本の豊臣秀吉が主導する遠征軍と李氏朝鮮および明の援軍との間で朝鮮半島を戦場にして行われた戦闘での遠征軍撤退戦を最後に水軍としての松浦党の出番は終了し、僅かに松浦氏傍流の平戸松浦氏が戦国大名として成長し、関ヶ原の戦い以降に旧領を安堵されて平戸藩六万三千石の外様大名として存続した。


壇ノ浦の合戦で平家が滅亡したのは、平清盛が病没して、わずか四年目の事である。
平家(伊勢平氏の平清盛一族)の栄耀栄華はわずか二十五年、平清盛一代限りの事である。この点は、後の織田家や豊臣家に似ている。

敗れた平家方の安徳天皇は入水死し、総大将、平宗盛は入水自殺に失敗、妹の建礼門院(平)徳子(安徳天皇の生母)と共に源氏の兵に救い出され生け捕りにされている。

義経主従は、この西国追討戦にめざましい戦果を上げて、都に凱旋して民衆の熱狂的人気を博して居る。
面白いもので、周りが持ち上げると、人間その気になる。
義経はまだ若かったのかも知れない。

武将としての義経の絶頂期は、この僅かな時期だったのである。
所が、その年も変わらないうちに義経は、後白河上皇と頼朝の、それぞれの思惑による陰謀に嵌まり、逃亡生活を余儀なくされる。

千百八十五年(文治元年)五月、平家が源義経によって滅ぼされると、義経は鎌倉にいる兄の源頼朝と対立を余儀なくされる。
後白河法皇は土御門(源)通親(つちみかど・みなもとの・みちちか)の上奏(勧め)もあり、義経に対して「頼朝追討」の院宣を出したものの、義経にその気がない。
その内頼朝軍が入京して、兄と戦いたくない義経は逃亡してしまった。

源義経には、人を引き付けるに充分な魅力があった。
それは、ほとばしる様に純粋な心情だった。
それ故、都落ちしても欠ける事がない「損得ずくでない郎党が」多く集まった。

そして女達も熱を上げていた。
人は、信じてくれるリーダーに集まるものである。

元々修験山伏に端を発する武術をもって生まれた軍事組織が、平氏であり源氏である。
そして、組織の中核をなすのは同族集団の結束である。

従って有力な他人を仲間に入れても、娘など与え婚姻関係を介して取り込む事が多い。
それ故その棟梁には子沢山が要求された。
それが叶わぬ時は、一旦養女養子を儲ける方法がなされて、同族関係を成立させていた。

そうした婚姻の関わりが無い場合は、下(従)が「棟梁(主)に惚れて付いて行くか、損得ずくの上」と言う事に成る。
義経主従は、人間的な信頼関係の集団で、下(従)が棟梁(主)を放っておけない感情が介在していた。
これは一般的な「武士道とは違う主従関係」と言って良い。

江戸期以前の武士に、滅私奉公の武士道を求めるのは、時代考証を無視したナンセンスな事であり、江戸期に於いても幕藩体制の維持の為に武士道を求められていたのは下級武士だけである。
江戸期の町民農民に武士道などある訳が無い。

そんな訳で、日本を「武士道の国」と言って国民の思想教育に利用したのは、明治維新後の国家体制と軍部である。


源頼朝には、「源氏の血筋」と言うブランド以外に何もない。
それでも、その金看板を「利用しよう」と周囲に人が集まって来る。
戦に自信が無い源頼朝には、謀略を楽しむ癖が在った。

打つ手が次々と功をそうすると、謀略こそが頼朝の天下取りに頼れる武器だった。
それにしてもここは一番、人気者の腹違いの弟・義経の手綱は確り握っておかねばならない。

「政子、伝え聞くに都の義経はチト舞い上がって居る様じゃ。」
「それなら、身を固めさせては、アァ・・・・。」
睦み合い、身を絡ませて繋がり合っての夫婦の会話である。
男女の事は、決まった睦相手が居れば収まるものである。

「そう思うか、ワシもそう思うていた。」
「こちらの手の内で、心当たりはございますか?」
「うむ、重頼の姫が良かろう。」
「ならば、早速河越殿を呼び出して、申し付けなさりませ。アァ・・・。」

「良かろう正子。明日にでも河越に申し付けるぞ。」
意を決した頼朝の正子を攻める動きが早くなり、正子が応じて二人だけの世界に入って行った。


義経の女と言うと、白拍子の「静御前」が余りにも有名で、ほとんど国民的に知られているので、静御前とのエピソードは、粗方割愛する。もう一人の、「静」の影に隠れた「正妻」の方を取り上げたい。

正妻の方は、「河越氏の娘」とされ兄頼朝の命令で義経と結婚していて、郷姫・郷御前、京姫・京御前など色々言われていて名の方は判然としない。
当時は、よほどの事がないと女性の記述は「誰々の娘、誰々の妻」と言う書き方が主流で実名が判らない。
従って正妻の名は、仮に埼玉から摂って勝手に「玉御前」とするが、あくまでも「仮」であるので、この名を現実と信じない様に願う。

河越重頼(かわごえしげより)の娘に関しては「源平盛衰記」に「郷御前」とある為、現在の解説では「郷御前」と記述する物も多いが研究者の間では依然として河越重頼(かわごえしげより)の娘であり、「郷御前」は疑問視されている。
父親の方は、しっかりした記述があり、武蔵の国、比企(ひき)一族の「河越重頼」で有る。

河越重頼は、秩父平氏の一族として最初は平家(平清盛)方についていたが、頼朝の乳母・比企尼(ひきのあま)が養母だった関係で、頼朝が伊豆流人中も援助をしていた比企氏(比企能員)や、同じ秩父平氏系・江戸氏(江戸重長)と共に頼朝方に寝返った。

河越氏も関東豪族の名家であり、今の埼玉県川越市は、そこから来ている。
河越重頼の養母は、比企尼(ひきのあま)と呼ばれ、頼朝の乳母であった。
頼朝にすれば、血は繋がらないが、身内の気分の一族である。

また、比企尼(ひきのあま)は、後に「比企能員(ひきよしかず)の変を起こした」と言われる鎌倉二代将軍・源頼家の妾妻「若狭の局(わかさのつぼね)」の父・比企能員(ひきよしかず)の養母でもある。


当然ながら、頼朝の方には義経取り込みの思惑があった。
しかし義経には、頼朝には油断なら無い者共、弁慶達修験者(山伏)の影の力が付いていた。
この辺りは綱引きになる。

「静」は、都で評判の美人白拍子で、現代風に言えばトップ・アイドル的存在だった。
方や、そのトップ・アイドルの相手が平家追討に成功し、源氏の総大将・頼朝を凌ぐ人気の若武者・源義経となれば、都雀達に評判のカップルである。
だが、このカップルの誕生には周囲の思惑も有りそうだ。

源頼朝は、この腹違いの弟・義経を取り込もうと身内気分の河越重頼(乳母の子)の女(姫)を正妻に据えた。
義経は純真だから、この兄・頼朝の行為を純粋に喜んだのだが、周囲の側近達は慌てた。
義経を取り込まれては元も子も無い。

「弁慶殿、さて困ったものじゃが、わが殿は頼朝様から使わされた玉姫様に夢中じゃ。」
「三郎(義盛)殿、わしも気にして居った。如何にすれば?」
「殿に我らの手の女性(にょしょう)を宛がっては?」

実は、都での義経の評判を煽ったのは、勘解由小路修験の策謀で、源頼朝の権力が集中するのを阻止するのが使命だった。
「ならば、静が良かろう。美人の上に床技も手慣れ故、殿も夢中になる。」
「うむ、静ならば殿の都での評判も益々あがる。三郎(義盛)殿、早速手配されい。」
勘解由小路修験の伊勢義盛や弁慶は、白河上皇の命を受けての義経側近で、義経が兄・頼朝に取り込まれては、対抗上都合が悪い。
表立って対抗は出来ないが、対抗する為に傘下の白拍子の中から飛び抜けて美人の「静」を宛がった。


義経が、「色を好む英雄だった」と言う逸話話しは、枚挙に暇がなかった。
元々純真で優しく、女性を愛する事にてらいが無い。そして、彼の魅力はそれだけではない。
源義経は、出自が良い上にイケメンと来ている。それで、女性にもてない訳が無い。

玉御前が、「兄から押し付けられた相手」とは言え、二十代後半になって男盛りの義経に、十七才の美少女の嫁である。
心が動かない訳はない。
実際の処両手に花で、八艘飛びの義経は、静御前と玉御前の間を、「飛び歩いた」と、言われている。

その辺りも人間臭くて、後の庶民人気の元に成っている。しかし、義経の京での絶頂期の生活は、そう長くは続かなかった。
源頼朝には、都(京)での九郎(義経)の人気が気に掛かって成らなかった。
このまま放置すれば、後白河院(上皇)と西国の武将どもに祭り上げられて鎌倉に攻めよせないとも限らない。
そこに、後白河院(上皇)の巧みな陰謀が有ったのだ。

せっかく力が強く成り過ぎた平氏を、以仁王の令旨きっかけに取り除いても、源氏が取って代わっては、朝廷の院政の為には何もなら無い。
後白河上皇が目標とするのは、あくまでも天皇の権力を強め、院政を取る事で、このままでは平家が源氏に代わっただけで、平家打倒を画策した意味が無かった。

後白河上皇は焦っていた。
源氏の勢力が固まる前に手を打たねばならない。
老獪な後白河上皇は、次の画策を謀る。

大きく成った源氏の力を削ぐには、源氏を分裂させて、互いに争わせる事だ。
後白河上皇は、実力、人気の高い義経に目を付けた。
と言うよりも、義経には幼少の頃から勘解由小路の影の手の者達を配してある。
用意周到な後白河上皇にしてみれば、いよいよこの謀(はかりごと)を、利用する時が来たのだ。

後白河上皇は、確信犯的に頼朝を無視し、直接、義経に検非違使(けびいし)の官位を与える。検非違使は令外の官で、治安維持を任務とし、警察権、裁判権を有した。形として、朝廷の命で京の王城の地は義経が守る事になる。

この叙任、本来は頼朝の推挙を得るべき筋で有るが、後白河上皇はあえて頼朝を無視、兄弟の離反を謀ったのである。
頼朝が怒り義経討伐を決意すると、後白河上皇が義経に対し頼朝追討の院宣(いんぜん)を発し、兄弟の仲は決定的なものに成る。

この院宣、義経が後白河上皇を「脅して書かせた」とする説もあるが、それは、日頃の義経の行動にはまるで似合わない。
やはり老獪な後白河上皇の策謀と、弁慶達「影の暗黙の拝命」と取るのが正解であろう。
弁慶達ブレーンが、義経にとってリスクのある「上皇直接の叙任」を反対しなかった事こそ、彼らの本質が影だった事を示している。

こう書くと、後白河上皇だけが悪い様に見えるが、頼朝は、苦労を重ねて大人の見方が出来る。
政治センスのある頼朝に、ある意図が無ければ、易々とは上皇の策略に乗らない筈だ。
つまり兄頼朝には、予め後白河上皇の動きを予測していた節が有る。

それに反して義経には、「兄を出し抜こう」と言う気はまったく無い。
検非違使も、「上皇に褒められて、兄も喜ぶ」と軽く考えていた。
「兄が怒っている」と判ると鎌倉近くまで出向き、面会を断られても諦め切れずに、言い訳状(弁疎状・腰越状)も提出して誤解を解こうとしている。


源頼朝が弟・義経の忠誠心を疑ったのは、武蔵坊弁慶や伊勢(三郎)義盛等の修験武士団が義経の周りを固めていた事である。
彼等修験武士団は、義経にとっては兄・頼朝の為に戦功を上げるには頼るに足る家臣だったが、同時に兄・頼朝には、「後白河上皇(出家して法王)が後ろに付いている」と思われる最後まで気を赦せない一団を率いていた事になる。

源頼朝は、多感な青年期を伊豆国・蛭ヶ小島で流人として周囲を敵に囲まれて育った。
それ故に猜疑心が人一倍強く、唯一の頼りは「源氏の棟梁」と言う血筋だった。

血筋以外に頼りどころがなかった頼朝に取って、同じ源家の血筋を持つ腹違いの弟・義経は、内心唯一の財産を侵食する腫れ物のように不快な存在だった。
腫れ物の始末は、平家が滅んだ今が好都合である。


頼朝が後に幕府を開いた鎌倉は、全面を海、三方を山に囲まれた要害の地である。
この時代はまだ城を築く習慣が無く、武門の棟梁と言えど堅固ではあったが屋敷住まいだった。

この地鎌倉は源家と関わりが強く、源頼信、頼義、義家、そして頼朝の祖父・源為義の代まで四代に渡って相模守を務めていた。
頼朝の父・源義朝は寿福寺の周辺に屋敷を所有した。

そうした地縁があるから、京からやって来た平家の追討軍を富士川の戦いで迎え撃ち、それを破った頼朝はその足で後に鎌倉幕府の置かれる大蔵(雪ノ下)に屋敷を造り入って居る。
頼朝は鎌倉に入ると、まず先祖が造営し守って来た元八幡宮を現在の鶴岡八幡宮の地に移し、行政機構を整え始めている。

世の常で、陽気な男には人望が集まる。
その人望が陰気な同僚に妬まれ、猜疑心の強い上司には危険な存在と映る。
生来陽気な義経には、人望が在り過ぎたのである。

千百八十年(治承四年)の事だった。
兄・頼朝の猜疑心など思っても見なかった義経は、壇ノ浦で捕らえた平宗盛・清宗父子を護送して京を立ち、洋々と鎌倉の兄・頼朝の下へ向かった。
所が頼朝は鎌倉入りを許さず、宗盛父子のみを鎌倉に入れ鎌倉郊外の山内荘腰越(現鎌倉市)満福寺に義経を留め置いている。

天真爛漫に兄を思っていた義経は、この仕置きに困惑する。
満福寺に留め置かれた義経は、この時初めて兄・頼朝の自分への不信を実感、兄頼朝に対し自分が叛意のない事を示す言い訳状(弁疎状・腰越状)を頼朝の側近・大江広元に託している。


「兄上、義経が目通りを願って沙汰を待ち詫びて居ります。会って遣ってはいかがか?」
頼朝の実弟・源範頼(みなもとのりより)が、異母弟・義経との仲を取り持とうとする。
「会うは成らぬ、今と成っては義経は疎(うと)ましい存在よ。」
「それでは、兄者の為に戦った義経が不憫(ふびん)です。」

「成らぬ、くどいぞ範頼。政子も会うては成らぬと申している。」
「しかし、姉上も会うてやれば良いにと・・・」
「政子も表向きと本心は違うわ。義経には裏に陰陽修験と帝が付いて居る。わしには信じられん。」
「・・・・。」


義経は、「説明すれば解かってくれる」と、兄を信じていた。
しかしそんな斟酌(しんしゃく)は頼朝には無い。
青春の大半を流人生活で育った頼朝には、肉親の情よりも、強い者への猜疑心の方が強かった。

平家追討に際して目覚ましい働きをした源義経(異母弟)は、源頼朝に取って源氏の棟梁としての自らの立場を脅かす存在に成長していて、頼朝がそれを怖れた事も事実である。

しかも義経の裏には、影がしっかり付いていた。
影の正体は、頼朝に凡(おおよ)そ見当が着く。
弁慶達、比叡山延暦寺の修験者(山伏)は、時に「頼朝のただならぬ敵」となる。

それで平家の始末が終れば、義経は頼朝にとって「脅威の存在」にしかならない。
つまり頼朝は上皇の策略に乗った振りをして義経を取り除き、返す刀で上皇の動きを封ずる積りだったのだ。

兄・頼朝が差し向けて来たのは、問答無用の追っ手だった。
「兄上、何故に我心通ぜぬ。」
兄に信じてはもらえぬ源義経は、哀しい運命に天を仰ぎ心中で悲痛な叫びを上げていた。

権力者心理に微妙に存在するのが、「己を超えられる恐怖」である。この微妙な心理が、実は有能有意の者を、無意識有意識の別無く潰す行動に出てくるのが通例である。


後白河上皇(法王)は激怒していた。
義経が牛若丸・遮那王(しゃなおう)の頃から密かに人(伊勢義盛や弁慶など)をやり育てて来た。
長じて都に戻れば白拍子の「静(御前)」まで与えている。
それが苛立つ事に送り込んだ連中がことごとく義経側に着き、何とした事か上皇(法王)たる自分の意に沿わず義経を思う様には操れない。

義経が「頼りに成らない」と判ると後白河上皇も変わり身が早く、僅か一ヵ月で今度は義経追討の院宣を頼朝に与えている。
平氏からの乗り換えと言いこの乗り換えと言い、後白河上皇は見え見えの調子の良い男である。

さしずめ、こうした信念のない動きを現代の若者に教えれば、「ゴシラカワル(変わり身の早いやつ)」なる造語が、出来るかも知れない。
しかし、現代でもこう言う「処世術」に長けた者は居るので、あながち後白河上皇を責められない。

武力を持たない権力者の「唯一の武器」と言えるものであろう。
勿論、影で助言していたのは土御門(源)通親(つちみかど・みなもとの・みちちか)を於いて他に無い。

義経に西国武士が味方しなかった事を、「恩賞を与える権利」が、「義経に無かったから」とする説がある。
これも清盛や義仲、そして頼朝にこりた後白河上皇が、その後に力を持たせない様にわざと与えなかったのではないか?

しかし院宣だけでは、義経と縁故の薄い武士までは動かない。
恩賞があるからこそ命を賭けられるのだから、新たに義経に呼応する者は少なかったのである。

上皇の方針転換で、天台(台蜜山伏)、真言(真言山伏)などの影の勢力も、これを機に積極支援は出来なくなった。
平家の凋落の過程も木曽義仲の場合もそうだったが、例え日の出の勢いであろうとも、一旦坂を転げ始めると、我が身大事で身を呈して転落を止めるものなど居ない。


兆(きざ)しは在った。
兄・頼朝の態度は、初対面の木瀬川宿でも妙に他所他所(よそよそ)しかった。それも義経にすれば、急の弟の出現に「兄・頼朝が戸惑っている」と解していた。
しかしこの仕打ちからすると、最初から頼朝は、我身を「信頼する弟」とは思っていなかったのでは無いのだろうか?

義経は天を仰いだ。


都の盆地には優しい雨が降っていたが、伊勢(三郎)義盛は手酷い憔悴感に襲われていた。
「もはや義経公は、院(後白河法皇)にも見捨てられ申した。」
伊勢(三郎)義盛は、「これは正しい選択だろうか?」と自問自答していた。
父・吉次からは、引き上げの指示が届いている。
しかし例え父の命があろうとも、このいたわしい源家の若武者を見捨てる事など出来ない自分がそこに居た。

伊勢(三郎)義盛は、義経に親近感を抱いていた。
言わば名門の非嫡子(跡継ぎ以外)に生まれ、どう頑張っても世間が認める嫡子には適わない。
そこにある種の無情さを感じて心底義経に傾倒していた。

哀しい事に源義経は、違う世界を知らずに育っていた。
従う伊勢(三郎)義盛も、その氏素性から実は自分の生き方を信じて疑う事はなかった。

「我が殿・義経様は善人過ぎる。この気質はもう直るまい。」
これは、義経に従う者達の共通した思いだった。

「義盛(伊勢)殿、最早(もはや)我らは義経様に付いて行くしかあるまい。」
流石の弁慶が、半ば諦めて義盛に言った。
「いかにも、あの真っ直ぐさにお育てしたは我らじゃ、義経様は生き甲斐じゃで。」

例えその気質が災いであっても、義経の一本気さは人をワクワクさせる大きな魅力である。
損得勘定も、忠義でもない。唯、二人とも義経と言う人間が好きなのである。

伊勢(三郎)義盛は、弁慶と共に義経を素直に育て過ぎた事を悔やんでいた。
義経に政治向きの関心を持たせないようにしたのは、父・勘解由小路吉次(かでのこうじよしつぐ)の命である。
自らが野心を持たず、「天皇の親政を武力で一途補佐する将軍を育てよう」としたのだ。

しかしそれが仇になって兄を一途に信じ、疑う事も駆け引きも知らない。
彼はこの「真っ白な青年の為に死のう」と覚悟を決めていた。
もとより、弁慶も同じだった。ここに至っては、そのくらいの事しか彼らに策は残ってはいなかった。


やがて、義経追討の兵を頼朝が上げる。
流石に、兄思いの義経が頼朝の本心を知り、対決の腹を決めた時は既に手遅れの状態であった。

その追討軍が駿河国黄瀬川に達する頃、義経は三百騎余りを率いて京を落ち、摂津国大物浦(兵庫県尼崎市)から船団を組んで九州へ船出する。
義経は西国九州の緒方氏を頼って西国武将を集め、兄・頼朝に対抗する計画だった。

所が、落ち目に成ると全てが悪い方に転がって行く。
率いた船団が暴風の為に難破し、義経主従は「乗っていた軍船の沈没」と言う不運も見舞われて兵の大半を失い、摂津に押し戻されてしまった。

これにより義経の九州落ちは不可能と成り、諸国を逃げ回る事しか出来なかった。
義経主従は一時吉野の修験道の寺を頼って潜んだが、そこも永くは匿ってくれない。
この時、義経付きの影達は、上皇の保身の為に修験仲間にも見捨てられたので有る。


しかし兄・頼朝の追っ手に追われて逃げ回るこの時期でも義経に与力するものも現れる。
勘解由(かでの)の草として紀州熊野に土着した郷士集団・熊野雑賀党である。

熊野の雑賀衆鈴木党総領家の三男、(三郎)重家が、源義経の身を案じて吉野山中より従い、奥州まで同行して、平泉・高館(たかだち)衣川館で源義経と共に討ち死にした事になっている。

まぁ、この鈴木三郎重家の行動も突然と言うのでは無く伏線は在った。
鈴木三郎重家の弟・亀井六郎重清は早くから源義経に臣従して一の谷、屋島、壇ノ浦と処々の戦に軍功建て武名を顕していた。

義経奥州に落っるに及び、弟の「亀井重清が隋行する」と、兄の藤白・総頭領三郎重家に報じた。
それを聞き、鈴木三郎重家は叔父・七郎重善と共に源義経に随行を決意し、逃避行の難に赴いたのである。

所が、叔父の七郎重善は三河矢矧駅にて脚の疾(やまい)に罹(かか)り、そこにて休養中に義経主従の高館戦死を聞き、三河の里人の請うままに「挙母の里」の奥なる猿投山に熊野権現を勧請して仕へ、挙母の里に住み着いたその子孫を三河・鈴木(挙母・鈴木氏)と言う。

もう、誰が見ても落ち目の源義経を、それでも支えようとするほど熊野・雑賀党は自由な郷士集団だった。
そしてこの鈴木三郎重家は、平泉・高館(たかだち)衣川館で討ち死にせず、義経の命で生き残り、奥州から蝦夷(えぞ・北海道)の地まで、「義経生存伝説を残し続けた」と噂される人物である。

また、この時鈴木(三郎)重家に同行した叔父の鈴木(七郎)重善は途中三河に至って足を患い、義経主従との同行を断念し、(七郎)重善の一族郎党と三河国・賀茂郡の高橋庄に留まらざるを得なかった。
その鈴木(七郎)重善一族が、三河国足助に新たな家・三河鈴木家を興こしている。

三河国足助に新たな家・三河鈴木家を興こした(七郎)重善のその後の子孫・三河国鈴木家は、鎌倉期、建武の親政、南北朝並立、室町期、戦国期、安土桃山期を生き抜いて、三河松平家の家臣として歴史の表舞台に現れる。

三河鈴木家は、三河松平家の臣下武将として家康に臣従し、徳川政権(江戸幕府)誕生に参加して江戸徳川家の譜代旗本として生き残っている。

また義経に奥州まで同行した鈴木(三郎)家重の実家、熊野の雑賀衆鈴木党宗家は、鈴木(次郎)重治が継いでいる。
その「鈴木宗家」の子孫が、後の安土桃山時代に大活躍する物語があるが、先の物語のお楽しみにして欲しい。


十一世紀頃、神仏の由来や縁起を白拍子が新鮮な当世風に歌う、歌謡として登場してきた「今様」と名付けられた楽曲がある。

白拍子は古く遡ると、巫女による「巫女舞が原点にあった」とも言われて、交合に寄る「歓喜行(かんきぎょう)」は、日本の信仰史上に連綿と続いた呪詛巫女の神行(しんぎょう)に始まる由緒を持つ。

巫女が布教の行脚(あんぎゃ)中において直垂(ひたたれ)姿の舞を披露して行く中で次第に芸能を主とした遊女へと転化して行く。
その内に、巫以来の伝統の影響を受けつつ白い薄絹の直垂(ひたたれ)を着て遊女が舞う「男装の男舞」に長けた者を指して言う様になった。

白拍子は院政期(平安時代の後期から鎌倉初期)に最も活躍していた遊び女で、その「今様」を歌いながら、そして白の水干に立烏帽子(たてえぼし)、白鞘巻(しろさやまき)と言う男装で、男舞と呼ばれる舞を舞っていた。
勿論、殿方を誘惑する事が仕事であるから形は男装だが、そこは遊興の酒席、相応の色気が必要で、衣装は裸身が透ける当時としては相当高価な薄絹が用いられていた。

白拍子は遊び女と言っても、基本的に上流社会の男性を相手にしていたから、当時としては相当高度な知識を持っていた。
同時に床技(性技)にも長けて居なければならない白拍子を、「誰が育てたのか」、考えた事があるだろうか?

殿方に心地良い存在として、心身ともに育てられた女性である。
そこに存在するからそれを認めれば良いのではなく、裏に何があるのかを見極めなければならない。

白拍子が何故育成され、何がターゲットに成ったのかを考えると、背後に影人の存在が見え隠れする。
そう、諜報機関としての影の存在が、「特殊任務を帯びた女性を育てた」とも考えられるのだ。

その白拍子で、義経に愛されたのが静(御前)だった。
義経は、戦勝凱旋の華やかな見た目とは裏腹に、苛立ちを抱えていた。そんな時に出会えたのが静御前である。

実の所、白拍子・静(しずか)には高位の権力者の相手が出来るだけの教養と芸妓術、性技術が備わっていた。
若い義経には、今まで出会った事の無い新鮮な女性に見え、彼はそれにコロリと参ってしまった。

静御前の性格は優しく何事も受動的で、その性格は彼女の性癖にも如実に現れていた。
白拍子として余程仕込まれているのか、多分に被虐的性交を好み、何時も義経の好みに攻め立てられる事で快感をむさぼった。
彼女が最も好みとするのは、後背位で後ろから激しく攻め立てられる事であったが、それが受身な性格の彼女の性癖に合っていた。

男女の中とは上手く出来ているもので、義経は老獪な帝と兄の板ばさみ感の苛立ちを静御前との強烈な睦事に逃げ込む事で、日常から救われていた。
静にしてみれば、義経は客の域を超えて好いた始めての相手だった。
義経は「静御前に愛されている」と確信し、彼女を愛した。そうした二人の間の関係が、互いに快適だったのである。

静御前の母は礒禅師(磯野禅尼)と言い、讃岐出身説があるが、白拍子が、陰陽師の諜報機関となれば、大和国(奈良県大和高田市磯野)出身が正しいと思われる。
一説には、静御前の母は礒禅師が「白拍子の祖」と言われているが、初期の育成メンバーの一人だったのが、義経に付随して娘の静御前に脚光があたり、評価が上がったのであろう。

妾の静御前は、当初逃亡に同行して四国などにも行ったが、紀州の吉野辺りで捕まって、母の礒禅師とともに鎌倉に囚われの身と成り、鶴岡八幡宮の回廊舞台で、頼朝の前で舞を舞わされる有名な話が有る。
挙句の果てには身ごもっていた義経の子を、男児と言う理由で出産と同時に鎌倉海岸の浜で殺されている。

話が少し脱線するが、この「静御前」の八幡宮舞の折、鼓(つづみ)を担当したのが、「楽曲に巧みな工藤祐経(くどうすけつね)だった」と言うエピソードがある。
工藤祐経は、若い頃に都で平重盛に仕え歌舞音曲に通じて鼓(つずみ)を打ち、白拍子舞の今様を歌う名手である。

頼朝主催の「富士の牧狩り」のおりに曽我兄弟に親の仇を討たれた、あの工藤祐経であった。
後ほど事の顛末(てんまつ)を示すが、この工藤祐経(くどうすけつね)暗殺事件は、源頼朝の弟・源範頼(みなもとのりより)の運命にまで波紋が広がる大事件だった。

元々武士の素養とされる言葉に「武芸百般」がある。
この「武芸百般」の意味に於いて、武芸を武術と同じ意味に取り違えているから、思考に始めから錯誤が生じる。
後の世において、芸を「軟弱なもの」と決め付ける先入観がこの錯誤を作ってしまった。

本来、「武芸」の「芸」はあくまでも「芸」で、およそ武士たる者、歌いの一声、舞の一指し、鼓(つづみ)の一打ちも「たしなむ」のが素養とされていた。
その素養意識が、武士のルーツである垣根の無かった神官・神事に通じる神楽舞から「連綿と続くもの」だからである。

すなわち、無骨者では「神の支援が得られない」と言う既成概念が残っていて、無芸の者は「リーダー足り得る要素に欠ける」と言う評価が残っていた。
文武両道、武芸百般の超人が、この国では氏上(氏神)から続くリーダーの理想像なのである。
従って教養豊かな武人こそ尊敬され、武人の「芸」は、磨くべきものだった。
この鶴岡八幡宮の「静御前の舞のエピソード」は、義経逃亡の翌年の事である。


村岡五郎・平良文の孫に、秩父平氏の祖である秩父(平)政恒が居り、その秩父平氏の一党に河越氏がある。
つまり、源義経の正妻「玉御前(仮名)」の父は、坂東平氏流(秩父平氏)・河越氏で、河越(平)重頼を名乗り家紋は九曜紋である。

この河越氏一族、頼朝の命令で娘(仮名・玉御前)を義経と結婚させたのだが、親や領主などに決められた政略結婚でも、ともに生活すれば愛情は育つ。
最初から「嫌だ嫌だ」と思い込んでいない限りは、「情」は結婚後の生活の中で充分に育つ。
それは愛の育たない結婚も有ったのだろうが、それは現代の自由恋愛でも同じ事で、きっかけがその先の人生を支配するものではないのである。

その後頼朝と義経が対立し頼朝が義経追討令を発した時、不幸な事にこの時頼朝の脳裏を掠めたのは自らの経験である。
妻方の北条(平)家の後押しで再起を果たした頼朝にとって、義経の妻(正妻)が河越重頼の女(むすめ)であるからには河越氏一族が義経方に寝返り、何時自分の寝首を欠かないとも限らない。
頼朝は重頼に娘の離婚を命じて河越一族の忠誠を試そうとするが、肝心の娘は鎌倉に戻らない。

正妻「玉御前(仮名・河越重頼の女・むすめ)」は、義経を「憎からず」と思ったらしく、後に義経が頼朝から終われる身に成っても父親の命に逆らい、親元には帰らなかった。
それで河越重頼(かわごえしげより)を始め河越一族が頼朝の勘気にふれ、一族は処刑されている。

猜疑心の塊(かたまり)のように育った頼朝にすれば、「禍根は断つべき」だったのである。
当時の娘は、一般的に生家の方(親の在所)を大事にする時代だから、河越重頼(かわごえしげより)の娘(仮名・玉御前/たまごぜん)は余程義経を愛したのであろう。


何時の間にか晩秋は過ぎ、初冬の吹き降ろしが始まって白いものが「ハラハラ」と舞降りて来た。
雪は、追っ手から身を隠してくれる。
義経は僅かな手勢を連れて豪雪の奥州路を前屈みに進み、育ての親とも慕う藤原秀衛(ひでひら)の下を目指した。
吹雪の中、みの傘を飛ばされないように凍える左手で押さえながらの行軍である。
しかし、まだ希望は有った。義経は、秀衛(ひでひら)とは「育ての親同然の気持ちが互いにある」と確信していたのだ。


男女の中など、想っているほどそう難しいものではない。
元々男女の中など知り合うまでは他人であるから、その知り合い方が例え今と違って他人から強制されたものでも、いざ夫婦(めおと)になって一緒に暮らしてしまえば「情が湧く」と言うものである。深く愛し合う者達が現れても、何の不思議もない。
玉御前は潜行して奥州に落ち延びる義経に途中で追いつき、奥州藤原家の元まで同行した。

本来、男女の仲は「共に生きる事」で絆が深くなるものである。
若い娘にとって、連れ合いには「白馬の騎士を夢見る」と言う気持ちに、今も昔も変わりは無い。元々義経とは十歳ほど歳が違うが、男女の事は当事者が決める事で、その男女の感情に玉御前が行き付いたのである。



先ほどから褥(しとね)の傍らに身を横たえて、微かに寝息を立てている玉(御前)が義経は愛しかった。
この乱世の時、男も女も日々の覚悟がなければ生きられない。それ故男女の営みは激しいものになる。玉(御前)との嵐の様なひと時など、既に夜のしじまの中に掻き消えている。

玉(御前)は、親兄弟の説得も身の危険も何もかも振り切って、草深い陸奥(みちのく)まで夫(義経)を追って来た。
見かけより遥かに芯の強い女子(おなご)だった。
肉親を見捨てても、愛する夫とともに生きる道を玉御前は選んだ。
それはこの時代の女性としては珍しい純真な覚悟で有り、愛の形かも知れない。

やがて、河越の一族が頼朝の怒りに触れ、「討ち取られた」と知らせがもたらされても、玉(御前)は気丈に振る舞い、弱みを見せ号泣したのは二人きりに成ってからだった。玉(御前)は泣きながら義経にすがり付いて、そのまま二人は睦事に縺れ込んで行った。

獅子奮迅の働きから、急に開放された。気持ち良く戦っていたのに、その先の情景が、突然無くなった。義経は、続きを知りたい欲望に駆られたが、夢の続きは無かった。

この期(ご)に及んでも、忘れられるものではない。義経が夢に見るのは兄・頼朝だった。
不思議な事に、夢の中の頼朝はいつも上機嫌で笑っていた。
見る夢は、過ぎし時の熱く胸躍る愛しい日々だった。
夢の中で自分は、兄・頼朝の敵と必死に戦っていた。

ハッと目が覚めると、嘘であって欲しい埋め合わす事の出来ない現実が、義経の胸を過(よ)ぎる。何故か、まだ兄を愛している自分がいた。
「兄者(あにじゃ)、何故にこの義経を信じ申さず?」

陸奥(みちのく)での平和な日々は二年ほど続いて、しばらくは玉御前なりに幸せな日々を送っていた。
玉御前は、やがて義経の子を産み、最後は義経と伴に衣川館で藤原泰衡の奇襲に合い、自刃前の義経の手にかかって母子伴に義経と運命を伴にしている。
玉御前は僅か五年間の結婚生活を、けなげに生きたのだ。義経逃亡から四年の歳月が過ぎていた。


奥州藤原家は三代に渡って東北地方一帯を支配し、さながら独立国家の様に栄華を極めた。
その名残が、平泉の中尊寺にある。泰衡は、その四代目に成る筈だった。それが老獪な頼朝夫婦に上手く騙され、罠に嵌められて滅ぼされてしまった。

奥州藤原家は、源氏とは歴史的に経緯(いきさつ)が有る。
源頼義が源氏の棟梁として、東北・奥州の鎮守府将軍に朝廷より任じられて着任し、清原氏(後の藤原氏)と組んで安倍氏を滅ぼした事に始まり、奥州藤原家の成立に、河内源氏は深く関わっていた。言わば生みの親に等しかった。

「後三年の役」の後、奥州全域は清原清衡(きよはらきよひら)の元に転がり込んで来た。この清衡が、領有した奥州全域の富を背景に時の関白・藤原師実(ふじわらもろざね)に献上などして繋がり、許されて名を藤原清衡(ふじわらきよひら)と改める。奥州平泉の大豪族、百年の栄華を誇る藤原家の誕生である。

その後藤原家は、基衛(もとひら)、秀衛(ひでひら)と続き、秀衛は「鎮守府将軍」に任官する。その奥州藤原家最盛期の頃、鞍馬山を抜け出した源義経が、平家の目を忍んで秀衛を頼って来たのだ。そして、息子同然に扱われて頼朝旗揚げの日まで過ごした。

時が移り、平家討伐の後、義経が兄頼朝に追われて、育ての親である奥州藤原家の秀衛(ひでひら)の元に逃げ込んで来た。
当時奥州藤原家は三代目秀衛の代で、長く安定した奥州の統治を続けた為、地方の豪族と言ってもまるで独立国家の様に勢力が強く、いかに源頼朝としても容易く手は出せない。

莫大な資力と兵力を蓄えた奥州藤原家と、戦闘の天才・義経が結び付いたのである。
秀衛にとって、義経は我が子同然に可愛い、「優秀な息子が戻って来た」と言う思いにかられ、自分の後の奥州運営を義経に任そうと思った。惜しむらくは、秀衛の息子、世継の泰衛(やすひら)と、妾腹の庶兄、国衛(くにひら)には、頼朝に対抗する技量が無かったのである。それで秀衛は義経を主君とし、二人の息子に義経に仕える様に遺言を申し付ける。

藤原秀衛が病で亡くなったのは、義経が奥州に逃げ込んで一年後の事である。
最初は、泰衡も父の言い付けを守っていた。
しかし、秀衛が亡なって二年間も上皇の義経追討の院宣を盾に、頼朝に脅かされ続けると、泰衛は頼朝の圧力に抗せず、頼朝の命令を守れば、「奥州藤原家を存続させてくれるだろう」と信じた。
藤原泰衡は、遂に配下の長崎太郎に義経主従を闇討ちで衣川館に襲撃させ、義経を自害させる。


高館(たかだち)は北上川の支流・衣川の辺(ほとり)、中尊寺の東南にある丘陵の呼び名であるが、そこの屋敷も高館或いは衣川館と呼ばれ、義経主従の住まいに成って居た。

「義経記」や「吾妻鏡」を総合すると、千百八十九年(文治五年)源義経主従が平泉衣川の高館(たかだち・衣川館)において藤原泰衡の家臣・長崎太郎の軍勢五百騎に囲まれた。
僅か五百騎だったが、衣川館の義経党はそれで足りる小勢だった。

その時義経に従うは百戦錬磨の兵(つわもの)であったが、戦えるのは武蔵坊弁慶、伊勢義盛(いせよしもり)、片岡八郎、鈴木重家(しげいえ)・亀井六郎兄弟。鷲尾義久(わしおよしひさ)、増尾(ますお)十郎、備前平四郎(びぜんへいしろう)の八人だった。
それに正室(仮・玉御前)の老傳役(ろうもりやく・六十三歳)の増尾十郎権頭兼房(ますおじゅうろうごんのかみかねふさ)と、従者・喜三太(きさんた)の二人を加えても僅か十人の総勢で、如何に義経党と言えど、五百騎相手に十騎ばかりで勝ち目など最初から無かった。

夕暮れ時の、突然の事だった。まだ暗くなるには一時程はある。
衣川館は、長崎太郎の藤原勢五百騎に蟻の子一匹通さないように十重二十重(とえはたえ)と包囲されていた。

「ワァー」と時の声が上がり、寄せ手は一時に襲い掛かって来た。
不意を喰らった義経主従は、僅(わず)かな手勢ながら歴戦の兵(つわもの)で、追っ取り刀で防戦する。
備えがないから義経一党は防戦一方で、先が知れていた。
「おのれ、泰衡(藤原やすひら)め裏切りおって。」
弁慶の叫びにも似た、無念そうな声が聞えてきた。

寄せ手が「味方の筈の藤原勢」と知って、義経は覚悟を決めていた。
ここを逃れても、最早(もはや)兄・頼朝の追ってから逃れて身を寄せる所はこの大八州(おおやしま)には無い。
「殿、此処は我らが防ぎます。どこぞに落ちられよ。」
「おぉ義盛(伊勢)か、最早(もはや)これまでじゃ、逃げも隠れもせぬ。世話になった。礼を言うぞ。」
「何んの、拙者も地獄までお供いたす。」

哀しいかな源家の九男坊に産まれた事で、遮那王(しゃなおう・源義経)は、幼い頃から運命(さだめ)に立ち向かう気力を持たされて育っていた。
一瞬の分れ目が、運命を決する。義経は、この期(ご)に及んで美を取った。
藤原泰衡の裏切りを知った義経は、寄せ手と何度か切り結んで「弁慶世話になった。これで幕引きじゃ。」と叫んだ。
武蔵坊弁慶以下八人の兵(つわもの)が藤原勢と斬り結び皆義経を守って次々に討ち死にして行く。

「此処は通しませぬ。殿は館内(やかたうち)で御最後を・・・」
弁慶が寄せ手を防いでいる間に義経は館の奥に戻り、正室(仮・玉御前)と子供は義経の手に掛かって果て、義経も自刃して波乱の生涯の終焉を迎えた。
館に火が放たれ、紅蓮の炎が上がっていた。

源義経の生涯は帝の思いに仕組まれ、翻弄された不条理なものだった。
それでも義経は、短いが確かな愛の時間にもめぐり合っていた。
源義経が栄光と挫折の試練を越えて、その先に見た物はいったい何んだったのか?



胸騒ぎがした。何者か知らぬが、恐ろしく強力な鵺(ぬえ)がこの世にいる。
藤原秀衛が亡く成った事で、吉次は既にあきらめてはいたが、義経に付けた三男の伊勢(三郎)義盛の身が案じられた。
空に浮かんだ月は三ケ月と言う奴で、細く頼りなげで物悲しく、何かを失いそうな恐怖が勘解由小路・吉次を身震いさせた。

伊勢(三郎)義盛は、父・吉次の命で伊勢から鞍馬山に遣って来た。
まだ子供ながら、豪胆で俊敏な若者、「遮那王(しゃなおう)」がそこにいた。間違いなく初めて会った相手なのに、伊勢(三郎)義盛は、この若き貴公子遮那王(しゃなおう・源義経)と、以前から長い事一緒にいた様な気がして何故か血が騒いだ。その思いは、伊勢(三郎)義盛が衣川館で討ち死にするまで終始途絶える事無く続いていた。

源義経の日常が安らぎの中にあったのは、玉御前との奥州でのわずかな日々のような気がする。義経は、自分の役目が終わった事を承知して心穏やかな気分になっていたのだ。


源義経は、時代に翻弄された自らの短い人生を正面から受け止めて、それについて不服は最後まで言わなかった。
たとえそれが不条理でも「現実」と受け止めて、余分な事を考えない。底抜けに純真だった。その潔さが、「伊勢(三郎)義盛に命を賭けさした」と言って過言で無い。

結局の所、鞍馬山で僧侶に成り安穏と静かな日々を送る筈だった義朝の九男・遮那王(しゃなおう/源義経)に目を付け「利用し様」と画策して教育係りまで着け、世間に連れ出した「政治勢力が在った」と言う無情な政争が切欠である。
生き方が変わった遮那王(しゃなおう/源義経)に取って、権力の狭間で翻弄されたそれが、幸せだったかどうかは今となっては判らない。

義経の首は鎌倉に届き、これで泰衛が「奥州藤原家は安泰」と思ったのは、つかの間の事だった。

勘解由小路吉次は、奥州に放っている手の者からの知らせで、息子の伊勢(三郎)義盛が衣川館で主君の義経と伴に討ち死にした事を知った。
「これで、頼朝を抑える手立ては失った。」
万策尽きたのだ。しかし息子の伊勢(三郎)義盛が密かに鈴木(三郎)重家に密名を与え、逃がした事を知った。

吉次は、込み上げて来る無念の思いをそっと抑えた。
吉次は実直豪胆な男で、部下思いだった。しかし帝の命令は絶対であったから、数多い犠牲にも目を瞑っていた。また、そう言う生き方しか出来ない悲しい集団を率いていた。
「時が来れば、皆をこの境遇から外して自由に暮らさせたい。」
吉次は呟いていた。

頼朝にしてみれば、十倍の敵でも倒し得る「戦闘の天才義経」がいたからこそ躊躇していた奥州攻めが可能に成ったのだ。何しろ名高い義経が相手に居ては、頼朝の軍勢が最初から腰が引けてしまう。しかし奥州の治外法権的勢力を認めていては、頼朝の天下は完成しない。その奥州藤原家の命綱(義経)を、「頼朝に騙されて」泰衛は殺してしまった。

最初から、頼朝が奥州を狙っている事を知っていた秀衛と、ぼんぼん育ちの泰衛の甘い読みの違いだった。
「しめた」とばかり頼朝は、朝廷に奥州討伐の院宣(いんぜん)を願い出て、それが届くのを待たずに大軍を率いて奥州に攻め込み藤原軍を撃破、泰衛は部下の裏切りで殺され、奥州藤原家は滅亡する。


奥州平泉(岩手県)は、奥州藤原家四代(清衡、基衡、秀衡、泰衡)の本拠地である。
その平泉に在る奥州藤原氏三代ゆかりの菩提寺・中尊寺は天台宗東北大本山で、台密修験の奥州(東北)の本拠地としての側面も存在した。
中尊寺は八百五十年(嘉承三年)に慈覚大師によって開かれし後、「藤原氏初代・清衡が再興させた」と伝えられている天台宗の寺で、本堂には開祖・伝教大師(最澄)が比叡山で点火した「不滅の法灯」を分け移した火が燃え続けている。

源頼朝は藤原泰衡を脅して腹違いの弟・義経を討たせ、その後大軍を送って奥州藤原氏を滅ぼした。
藤原泰衡を攻め滅ぼすと、奥州藤原氏の栄華を極めた平泉の金ぴか中尊寺(金色堂)の噂を聞いていた頼朝は早速奥州藤原氏の隠し金山を探させるが、幾ら探しても見つからない。
奥州には、「さぞかし立派な金鉱が在る」と思っていた頼朝は空振りを喰ってガッカリした。
奥州に藤原氏の隠し金山は無く、奥州藤原氏は金を買っていたのだ。

中尊寺は天台宗、つまり台密修験の奥州(東北)の本拠地でもある。
そもそも、金鉱であろうが銀・銅・鉄であろうが、元々鉱山の探索や開発従事は修験道の守備範囲で、修験道の流れは賀茂・勘解由小路が帝の手足となる裏・陰陽寮の守備範囲とくれば、源義経を奥州藤原家に逃れさせた「金売り吉次」が、陰陽修験と関わりがあっても不思議ではない。

推測するに、「金売り吉次」こと勘解由小路・吉次の売っていた金の出所は、伊豆の「帝の隠し金山」に違いない。
つまり、帝の軍資金調達に「帝の隠し金山」の産金を預かって奥州藤原氏に売っていたのが勘解由小路・吉次だったのである。

げんに平安期から現代に到るまで、奥州からはめぼしい金山の存在は確認されては居ず、中尊寺金色堂の金の出所は謎である。
源義経が青年期を藤原秀衡の庇護の下に育ち、長じて兄・源頼朝の追っ手から逃れて奥州平泉に逃げ込んだ経緯の裏に在ったのが、勘解由小路・吉次の奥州藤原氏との縁(えにし)無くしては「辻褄が合わない話し」なのである。



「前九年の役」で源頼義に滅ぼされた安倍氏で有るが、枝の一部が生き残って国人領主にまで復活、鎌倉時代から室町時代まで、領地のいざこざを起こして戦った記録がある。
奥州(東北地方)の虐げられた長い歴史において、わずかに光の見えたのが、藤原三代の百年間である。その後はまた、外からの権力者がやってきては、蝦夷(エミシ)の子孫達を七百年間虐げ続けて、明治維新を迎えるのだ。

時の変遷を受けての「日本人単一民族」は認めるが、天孫降(光)臨伝説の昔から、「大和単一民族」と言うのには無理が有り過ぎる。
政治はともかく、東北地方の「経済的劣勢」は、今においても続いている。日本の戦後の「高度成長期」を下から支えた多くの集団就職組を、東北地方が排出した事を、忘れてはならないのだ。


武士として軟弱だった源頼朝を弁護するが、彼の経験と育ち方からすると、それも止むを得ない。
彼は父義朝に従い、十四才で初陣した平治の乱で平家に敗れて捕らえられている。
命は助けられたが囚われ人として監視下に置かれ、周囲に修験の兵法武術指南が居た弟・源範頼(みなもとのりより・蒲冠者/かばのかんじや)や弟・源義経(牛若丸・遮那王)と比べて源頼朝は流人の生活が長く、武門の棟梁としての兵法武術(剣術修行や戦術習得)の類を学ぶ機会は奪われて育った。

ちなみに、弟・範頼は武蔵の国石戸の反平家系の関東平氏に匿われ、異母弟・義経には強力有能な修験山伏の軍事顧問団が付いて武術戦術を教えていた。
初陣の「平治の乱」で破れた上に、清盛打倒の旗揚げ緒戦「石橋山の合戦」でもあっけなく敗れている源頼朝が、戦に自信が無くても仕方が無い。


頼朝の実戦の思い出は惨憺たるものである。
彼が経験したのは「平治の乱」の折に父・源義朝に従い十四才で初陣し破れて伊豆に流人に成った事と、「石橋山の合戦に敗れた」と言う二つの負け戦で、これでは頼朝が戦にはからきし自信が無くて当然である。
そう成ると頼朝の戦は、陰湿な諜略(ちょうりゃく)・謀略(ぼうりゃく)の類に成る。
猜疑心の強い男だからその戦、極めて繊細・周到なものに成りそれが思いの外天下取りに有効だった。


弟・範頼と異母弟・義経を使い平家を壇ノ浦で滅ぼし、人気の高い弟義経を逃げ込んだ奥州藤原家に殺させ、その奥州藤原家を滅ぼすと頼朝の最初の挙兵から十年の歳月が過ぎていた。

負け戦ばかりの体験で怖い思いばかりした源頼朝だったが、怖いからこそ慎重に知恵を絞り天下に辿り着いたのかも知れない。
怖い経験は学習の基で、勇猛果敢は見掛けは良いが慎重さに欠ければそれだけリスクが伴う。
実は、後に室町幕府を開く足利尊氏も江戸幕府を開く徳川家康も、怖い思いの負け戦を経験しているのだが、その話しは追々その時代に詳しく紹介する。

ただ今言える事は、現代の再起劇にも通用する事だが命さえ永らえれば挫折経験も幸運の内である。
鎌倉幕府・室町幕府・江戸幕府の各創始者・源頼朝、足利尊氏、徳川家康には共通する負け戦の経験がある。
つまり負け戦の経験が慎重さを身に着けさせ、その経験が生かされて彼等は「天下人に成れた」と言えるのである。

鎌倉幕府を開いた源頼朝は父・源義朝に従った「平治(へいじ)の乱」で平清盛に破れ、伊豆韮山に流されて不遇の青年期を過ごした。
その後頼朝は伊豆の国・三島大社で旗揚げをするが、「石橋山合戦」で大庭景親(おおばかげちか)に破れ、命からがら逃げ隠れている所を平家方の武将・梶原景時(かじわらかげとき)に助けられて一時海路で安房国・下総国に逃げ延び、以後は何時も後方に在って戦には出陣していない。

室町幕府を開いた足利尊氏の場合も、そこで意地を張っていたら命を落としていた負け戦の経験がある。
後醍醐帝の建武政権に叛旗を翻す事を決意した尊氏は、新田義貞軍を「箱根・竹ノ下の戦い」で破り京の都へ進軍を始めると同時に京都進軍の正統性を得る為に後醍醐帝に対立するもう一方の皇統・持明院統の光厳上皇へ連絡を取り大儀としてして軍を率いて入京、後醍醐帝は比叡山へ退いて都を制圧するが、ほどなくして奥州から上洛した北畠顕家と楠木正成・新田義貞の連合軍との「京での戦い」は劣勢で、これに敗退して赤松円心の進言を容れて九州に下っている。

江戸幕府を開いた徳川家康の場合は、武田信玄を迎え撃った「三方ヶ原合戦(みかたがはらかっせん)」の大敗若さを露呈した経験で、それこそ敗走する馬上で脱糞する恐怖を味合っているのである。
家康は「三方ヶ原合戦大敗の経験」を生かして以後の戦は周到な用意をした上で戦いに臨んでいる。
敢えて言えば、天才武将・織田信長にはそれほどの負け戦体験が無かった所に慢心が生まれ、彼は天下に手が届か無かったのかも知れない。

そんな訳で源頼朝の「武将にあるまじき臆病」が、案外彼の天下取りの秘訣かも知れない。
つまり後の大衆がヤンヤの喝采をする様な武勇伝は、見かけは痛快かも知れないが所詮は娯楽の世界だけの物語である。


石橋山の合戦の失敗以来、根回しに根回しを重ね慎重に事を運んだ頼朝も、いよいよ自分の天下に確信を持つ日が訪れる。
この年、頼朝は大軍を率いて悠々と上洛する。実質的に、首都(京都)を完全掌握し実権も握ったのだ。


頼朝は軍事力を背景に、諸国に守護・地頭を設置する事、自分の遠縁にあたる親源頼朝派の九条兼実を摂政(せっしょう)に任じさせる事、「議奏」公卿制度導入などの要求を認めさせた。
権中納言であった土御門(源)通親(つちみかど・みなもとの・みちちか)も議奏公卿に選ばれたものの、この改革が「武家政権樹立」への頼朝の野望の第一歩である事に気付いて憂慮した。

通親(みちちか)は早めに手を打とうと法皇に上奏(勧めて)、これらの改革を有名無実化させる事に成功し、千百八十八年(文治四年)には源氏長者に任じられ、その翌年に土御門(源)通親(つちみかど・みなもとの・みちちか)は正二位となった。

そして、千百九十年(建久元年)、頼朝が征夷大将軍を望んだ時も法皇と通親(みちちか)は頼朝を右近衛大将に任じてやんわりと要求をかわしている。
この土御門通親の老獪さのおかげで、頼朝の征夷大将軍就任は後白河法皇の崩御まで待たねば成らなかった。


平安時代末期から鎌倉時代初期、この政情不安定な歴史の変革期に、宗教界では新しい仏教の一派が天台宗から分かれて芽吹いていた。

後に一向宗(浄土真宗)の基となった親鸞(しんらん)の師、浄土宗の法然(ほうねん)が現れ、精力的に布教を始めている。

法然(ほうねん)は、美作国久米南条稲岡庄に生まれる。
父親は漆間時国(うるまのときくに)と言う久米郡の押領使(おうりょうし・任命された土地の治安維持権限者)だったが、法然(ほうねん)九歳の時に稲岡荘の領所・明石定明の夜襲を受け深手を負い、その時の傷がもとで落命する。

漆間時国(うるまのときくに)はその臨終に際して子・勢至丸(法然/ほうねん)に復讐の無益である事を聡し出家するように遺言した。
九歳の法然(ほうねん)は父の遺言に拠り出家し、十三歳で比叡山に登る。
法然(ほうねん)は多くの先達の教えを請い、修行の末四十三歳の時に阿弥陀仏の本願の真意感得し、浄土宗を開く。

阿弥陀仏の本願「全ての者を等しく救おうとする仏の慈悲」を信じて、「南無阿弥陀仏」と唱える事により救われる事を教えている大乗仏教(だいじょうぶっきょう)を教えとした浄土宗(じょうどしゅう)は、千百七十五年(承安五年)に開祖・法然上人によって開かれた。
南無とは「おすがりします」の意味で、「阿弥陀仏におすがりします」と解されている。

阿弥陀仏(阿弥陀如来)は、大乗仏教(だいじょうぶっきょう)では釈迦の別名で、仏陀も同じ意味である。
浄土宗の総本山は宗祖・法然上人が草庵を営んで後半生を過ごし没した縁(ゆかり)の地東山吉水(よしみず)を起源として建てられた寺院が、京都市東山区林下町に在り、智恩院(ちおいん/華頂山智恩教院大谷寺)と呼ばれている。

この教えが、権力者より民衆を救い、「拠り所」とする為の教えだったので、庶民の間で急速に広まって行った。辻説法から始まった法然(ほうねん)の教えは、やがて来る南北朝の混乱、戦国期の混乱を経て、民衆に支持される一向宗(浄土真宗)へと昇華して、正面から氏姓制に対抗する庶民の大勢力に育って行く。

血統や身分に関わり無く「人は皆平等」と説くこの法然(ほうねん)の存在は、血統を重んじた当時の社会体制には恐ろしく異端であった。しかし、次第に民衆の中に浸透して行った処を見ると、庶民はけして体制に甘んじていた者ばかりでは無かった事になる。


後鳥羽天皇の宮廷には二人の有力な后がいた。
九条兼実の娘である中宮藤原任子と通親の側室・藤原範子の連れ子で通親(みちちか)の養女であった女御「源在子(源通親の養女能円法印の女)」である。

千百九十五年(建久六年)、在子が為仁親王(後の土御門天皇)を生むと、この勢いを背景に兼実の政敵である近衛基通や故後白河法皇の近臣達と組んで親源頼朝派の九条兼実排除に乗り出した。
そして、頼朝や大江広元ら鎌倉幕府要人との和解に成功した通親(みちちか)は、千百九十六年(建久七年)冬、に兼実不在のまま朝議を開催して基通の関白任命を決議、鎌倉寄りの九条兼実の失脚を確定させた。

二年後、天皇家の統治権(親政)に最後まで拘った後白河上皇が崩御、重石が取れた頼朝は、朝廷より「征夷大将軍」に任じられる。

千百九十二年(建久三年)に後白河法皇が崩御すると、土御門(源)通親(つちみかど・みなもとの・みちちか)はその独特の計算から、態度を一転して摂政・九条兼実が提案した頼朝への征夷大将軍任命に真っ先に賛同して、頼朝への「貸し」を作っている。

この辺りが、信念だけでは権力の中で生き残れない「政治家の処世術」と言えばそれまでだが、とどのつまりは庶民が望むような「純粋な者は生き残らない」言う事を歴史が証明している。
裏を返せば、この「二枚舌三枚舌の老獪(ろうかい)な者しか権力に留まれない」と言う点で現代に通じ、清廉な政治家や官僚は見てくれだけの「まやかし」と言う事である。

後白河法皇の死後、彼の娘である覲子内親王(宣陽門院)の後見に通親(みちちか)が任じられ、その莫大な財産の管理を命じられるなど、法皇死後もその政治的基盤の確保は怠る事はなかった。


武門として天下を掌握した源頼朝は鎌倉に幕府を開き、守護地頭制を確立して鎌倉幕府の有力御家人を各地に守護職・地頭職として任用配置し、全国に権力が及ぶ様にする。
「鎌倉殿」が、鎌倉幕府・朝征夷大将軍に叙任された源頼朝の呼称だった。

中央官僚には侍所(さむらいどころ)別当(長官)や政所(まんどころ)別当(長官)を置いて御家人を管理させる。
この鎌倉幕府成立時の侍所初代(さむらいどころ)別当(長官)は梶原景時だったが、政所(まんどころ)初代別当(長官)は源頼朝の側近実務官僚・大江広元で、その四男・大江季光の子孫が安芸国高田郡吉田(現在の広島県安芸高田市)へ移って国人小領主となり、毛利元就が出て戦国大名に成長、江戸幕府末期に到って倒幕派有力大名として幕末を主導している。

この源頼朝の征夷大将軍叙任以後、征夷大将には「源氏の長者(統領)」が就任するものと格式化され、形式上も含め、以後の室町・徳川、両幕府まで続く事になる。その後、頼朝夫婦はもう一人の弟範頼に難癖を付けて殺し、反逆の憂いを次々と、取り除いていく。

源範頼(みなもとのりより)は、頼朝の同腹の兄弟で、腹違いの弟・義経の兄である。幼少の頃の名を、蒲冠者(かばのかんじや)と言う。源氏の棟梁としてトップに在った頼朝と、腹違いながら末っ子で派手な戦(いくさ)ぶりの義経の陰に隠れて、世間では存在が薄いが、実は、中々の人物である。

父・義朝の平治の乱敗戦のおり、幼かった為に助命された蒲冠者は、身の置き所を求めて監視の目を盗み、遠州(今の静岡県西部)から源家の昔からの地盤、関東に脱出する。武蔵の国石戸(今の埼玉県・北本市付近)辿り着き、秘密裏に源氏に味方する人々に出会ってそこに安住する。

この時に集って来た家臣郎党の中に、義経と同様に勘解由小路党の手の者が、密かに紛れ込んでいた。彼らの目的は、義経とほとんど変わらなかったが、義経ほど大物は派遣されなかった。
二十年の歳月が流れ、兄頼朝が挙兵、範頼は呼応して頼朝軍に鎌倉の地で合流する。

頼朝にすれば、範頼は同父母の弟で、異母弟の義経拠り遥かに信頼が置ける。
範頼は、頼朝の代官として平家追悼軍の全軍の指揮を任され、次々に呼応してくる各武士団をよく掌握し、義経の強力な前線部隊と力を合わせて、勝ち進む。
その手腕は、義経のはなばなしい戦闘の影に隠れてはいるが、けして弟には引けは取らない。それ処か、大軍の統率力は義経より遥かに秀でている。当然だが、勘解由小路党の軍事顧問団が機能していたのだ。

その信頼が置ける筈の実弟すら、小心者の頼朝は信じられない。範頼の周囲にも勘解由小路党の影が、油断ならぬ相手として見え隠れしていたからで有る。
源頼朝が弟の範頼(のりより)に猜疑心を募らせていたのは、不幸にして武将としての資質が範頼(のりより)の方が遥かに勝っていた事である。
戦にまったく自信が無い武門の棟梁・頼朝にとって、諸将の信頼を集めるもっとも武将らしい弟・範頼は危険な存在になりつつあったのだ。

源頼朝の実弟・源範頼を北条正子が追い落とすきっかけは、ある「大事件」が引金と成った。
それは、頼朝が征夷大将軍に就任して、一年たった頃の事だ。
当時の鎌倉幕府の重臣を集めたレクレーションを兼ねた戦闘訓練「富士の巻き狩り」で勃発した仇討ち事件、曽我兄弟による日向地頭職・工藤左衛門尉祐経(くどうさえもんのじょうすけつね)襲撃事件である。

工藤氏は、「藤原南家」を祖とする伊豆の国辺りの小領主だった。伊豆半島中央を流れる狩野川の由来と成った狩野氏も、同じ一族である。工藤氏は、伊豆の国三島神社(大社)で、妻方の北條氏の支援を受け挙兵した源氏の棟梁、源頼朝(みなもとよりとも)に従い、鎌倉幕府成立に助力した。
その功績により頼朝の信任を得、日向の国の地頭職など二十四ヵ所に所領を得た。つまり、工藤左衛門尉祐経(くどうさえもんのじょうすけつね)は、鎌倉幕府の重臣(有力御家人)の一人である。

その工藤祐経(くどうすけつね)絶頂期に、所領紛争の恨みで同じ祖をいただく、伊豆の国の伊東氏の息子二人(曽我兄弟母親の再婚で姓が曽我に変わっている)に討たれてしまった。この事件の経緯と事情は、あくまでも私闘である。しかしこの「あだ討ち」は、将軍の仮陣屋で起こっている。場合によっては、警備の不手際、或いは易々と地頭職が討たれた事で、幕府の権威を失墜し兼ねない大事件であった。

この襲撃事件が、遠い鎌倉に伝えられた時情報が錯綜した。兄曽我十朗祐成(そがのじゅうろうすけなり)はその場ですぐに討たれた。
しかし、弟の曽我五郎時致(そがのごろうときむね)が頼朝にあだ討ちの趣旨を訴えるべく、抜刀のまま頼朝の元(幕営)に向かった事が、「頼朝が討たれた」と言う誤報となり、鎌倉の北条政子と源範頼に伝わった。

ここで範頼が兄嫁・政子を「万が一の事が有ってもこの範頼が付いています」と慰めた事を逆手に取って、「範頼逆心の疑いを掛けた」と言う。酷い「難癖」である。範頼は、弁明したが聞き入れられず、伊豆修善寺に流された後、頼朝の命で北条家の刺客団に襲われ自害している。最初から殺す気でいたのだから、弁明など聞く訳がない。

この一件、その後の北条家の動きから考えて、別の見方もある。曾我兄弟が親の敵祐経を討ち取った後、さらに頼朝の仮陣屋めがけて討ち入った理由は大きな疑問である。ずばり「頼朝も討ち取る事にあった」と言う可能性は棄てきれない。

失敗して未遂に終わったが、実は北条時政が曾我兄弟を仕向け、「頼朝暗殺を仕組んだ張本人」と言う北条家の陰謀の疑いで有る。
宿舎の設営が、駿河の守護であった北条時政の手によって行われていた事から、「警備の厳しい屋形を急襲出来た事に、何か有る」と推測されるからで有る。
頼朝は打ち漏らしたが、結果的に範頼失脚の難癖をつける結果になったのだ。


実は、この陸奥国鞭指庄(むさししょう)など二十四ヵ所に所領を得た日向地頭職・工藤左衛門尉祐経(くどうさえもんのじょうすけつね)と播磨・備前・美作・備中・備後五ヶ国の守護と成った侍所(さむらいどころ)別当(長官)の梶原景時(かじわらかげとき)は、当時の新興勢力の中では北条家(北条時政)を凌ぐ可能性を秘める北条家に取っては危険な存在の有力御家人だった事である。
その辺りから透けて見えるのが、この「曽我兄弟あだ討ち事件」と、これからご案内する「梶原景時の変」の仕掛け人の本当の意図である。


梶原景時(かじわらかげとき)は源頼朝に信頼され、播磨・備前・美作・備中・備後五ヶ国の守護と成った鎌倉幕府成立時の侍所初代(さむらいどころ)別当(長官)だった。
鎌倉幕府御家人・梶原景時が鎌倉殿(鎌倉征夷大将軍)・源頼朝に信頼される訳は、「石橋山合戦」の折に追討軍の大庭景親(平景親)を裏切り、洞窟に逃げ隠れていた源頼朝を見逃した事に拠る命の恩人だからである。

千百九十九年(正治元年)独裁専制政治を行っていた鎌倉殿(源頼朝)は急逝する。
頼朝嫡子・源頼家が家督を継ぎ将軍職に就任するのだが、将軍独裁体制に対する御家人達の鬱積した不満が噴出、源家の忠臣・梶原景時もこれに加わって頼家は僅か三ヶ月で訴訟の採決権を奪われてしまう。
代わって幕府宿老による十三人の合議制がしかれ、頼家の将軍独裁は押さえられた。

鎌倉幕府に在っても梶原景時(かじわらかげとき)は源家の忠臣に徹して、鎌倉殿専制政治をとる頼朝の鎌倉幕府侍所別当として御家人たちの行動に目を光らせ、勤務評定や取り締まりにあたる目付役であった為、御家人達からは恨みを買い易い立場に居たのは事実だあった。
その恨みを利用した最初の権力闘争が鎌倉幕府内部で起こったのである。

梶原景時は、源頼朝の落馬事故の後も鎌倉有力御家人、十三人のメンバーの一人に数えられて居た。

政権も軍事力も、現実的には「北条時政」が掌握していたのだが、それでも世間での梶原景時の名声は群を抜いて高く、景時が動けば地方武士が集まる危険があった。
今の内に危険な芽を摘んでしまおうと北条時政は思い、将軍御所詰め所での結城朝光らの戯言「忠臣二君に仕えず」を「梶原景時が讒言する」と女官・阿波局に言わしめる。
驚いた結城朝光は三浦義村、和田義盛ら他の御家人達に呼びかけて、景時を糾弾する連判状の六十六名の署名を一夜の内にかき集めて将軍側近官僚の政所別当(長官)・大江広元に提出した。

将軍・頼家は連判状を景時に見せて弁明を求めたが、自分に突き付けられたのは六十六人の御家人連判状で言い訳の仕様など無い。
景時は何の抗弁もせず一族を引き連れて所領の相模国一宮に下向し謹慎する。
一部の御家人は、景時の権威と勢力さえ抑えれば良かったので謹慎によって景時を支持、景時は一端鎌倉へ戻ったが、将軍・頼家は景時を庇う事が出来ずに鎌倉追放を申し渡してしまう。

景時への仕置きは進み、鎌倉の邸は取り壊され播磨国守護に朝光の兄・小山朝政が代わり、美作国守護は和田義盛に与えられる。
ここに到って鎌倉に居れなくなった梶原景時は、京での反乱を目論んで再起を図るべく一族を引き連れて京への上洛を目指す。
所が、それを察知した北条時政が手を回し、京に逃げようとした梶原一族を討つべく道中に討伐のふれを出していた為に駿河(今の静岡)清見関で、吉川氏ら地元武士に発見され狐崎において合戦となり、一族次々に討ち取られて景時と嫡子・景季、次男景高らは山へ引いて戦った後に自害し滅ぼされている。

梶原景時(かじわらかげとき)は鎌倉幕府では権勢を振るったが頼朝の死後に追放され、「梶原景時の変」と呼ばれる政変で一族とともに滅ぼされた。
平家討伐の軍事行動時代以来源義経と対立し、頼朝に讒言して死に追いやった「大悪人」と古くから評せられているが、これは判官贔屓の心情を持つ民衆向けの脚色と、時の権力者北条家の思惑が一致した結果ではないだろうか?
この「梶原景時の変」は、忠臣であった景時を邪魔に思う北条時政・北条正子親子の陰謀で、その後の二代将軍・源頼家の将軍職を追放の序章と成ったのである。

この梶原景時一族の滅亡を評して、京都では「将軍・頼家の大失策である」とした結果は直ぐに現れる。
景時追放の三年後、将軍とは名ばかりの頼家は、妻の実家「比企家」を頼り、妻の父「比企能員(ひきよしかず)」らと、北条時政を政権中枢から外そうとして失敗、比企能員(ひきよしかず)は時政に滅ぼされ、頼家は北条氏によって将軍職を退任させられた後暗殺され北条氏が幕府の実権を握る事になる。
二代将軍・源頼家の将軍在位は僅かに四年であった。


千百九十八年(建久九年)、後鳥羽天皇の退位と土御門(源)通親(つちみかど・みなもとの・みちちか)の孫でもある第一皇子為仁(ためひと)親王の即位が実現し、土御門(つちみかど)天皇(第八十三代)となる。
新帝・土御門天皇(第八十三代)の外祖父となった土御門(源)通親(つちみかど・みなもとの・みちちか)は権大納言と院庁別当を兼任し、人々に恐れられる事になった。



正直、余程の事が無い限り人間に差がある訳ではないのだが、不断の努力を条件に天運に恵まれた者が天命に導かれて事を成し遂げる。
そして現実などこんなもので、時代の天命は、最も猜疑心が強く小心者で謀議に長けた武将・源頼朝の頭上に輝いた。

源頼朝に武力で対抗する者が居なくなって鎌倉に権力が集中し、皇室の力は弱まり、政治権力は鎌倉幕府が確実に掌握しつつあった。
しかし頼朝は、征夷大将軍就任後僅か七年で、落馬が元で亡成っている。

この落馬も、その後の政子の「子殺し(源頼家と源実朝)」を見ると、本当に事故か疑ってしまう。
肉親の愛に飢えていた義経に比べ身内をも信じなかった頼朝が、「身内に裏切られたのではないか」と推測するのは、自然な事では無いだろうか?

いずれにしても、落馬事故とは「天下を掌握した男」にしてはあっけない頼朝の死に方である。
「フト」、頼朝は腹の底から笑う事を忘れたまま死んで行ったような気が、我輩はした。

鎌倉幕府の編纂した正史には、何故か空白がある。
不自然極まりない事に、「吾妻鏡」には、初代将軍・鎌倉殿・源頼朝の死の前後三年間が欠落していて、それが「源頼朝落馬死の謎」である。
通説では、千百九十八年(建久八年)の十二月に、相模川の橋供養に臨席した源頼朝が帰路に落馬し、それが原因で「十七日後の翌年一月半ばに死去した」と伝えられているが、不審な事が多い。

鎌倉殿・源頼朝が「落馬が原因で死んだ」と「吾妻鏡」に書かれたのは死後十三年も経った後の事で、当初は死因も死亡時期も明確な記載が無く、「本当に事故死だったのか?」と言う疑問が湧くのは当然である。
また都合の悪い事を排除し、この謎をその権力で創造し得るのは尼将軍と謳われた北条正子以外には考えられず、我が子(源頼家と源実朝)を含め異常なまでに源氏の血を排除し、北条執権家を確立した事を考えれば、「北条政子下手人説」が浮上して来るのは当然の結果である。


バラシテしまうと、傍目偉大な事をした者でも、その当事者はさして「偉大な事をした」とは思っていない事が多い。
つまり人生なんか行き掛かりの連続で、それをこなしていたら「何時の間にか達していた」と言うのが、成功者の実感である。
えらそうな事を言っても、確信は後から付いて来たもので、事の最初から在った訳ではない。

「何故そうなるか」と言うと、それは周囲の存在と、めぐり合わせである。
それを、「強運の持ち主」と言うらしいが、それは部分的な目に見える現象で、実はどこかでその分の付けを、別な形で払わされている事が多い。

従って、能力に関わり無く、どんなにジタバタしても裏目にしか出会えない人間の方が遥かに多い。
そうした運否天賦が存在する事を自覚するから、最期は神頼みになる。所が、そんな神頼みを神が叶えた実績など、この長い歴史を見ても、過って無い。

何故なら、信心深い人間が誰しも幸運に恵まれるなど、見た事が無い。精々、めぐって来た小さな幸せを神に感謝するくらいが、多くの人間の人生である。
飛び抜けた血統故の不幸な流人の前半生と、その後の身内を殺し続けて天下人に上り詰めた頼朝の後半生、貴方は幸せと観るか、不幸とみるか?


千百九十九年(建久十年)土御門(源)通親(つちみかど・みなもとの・みちちか)は右近衛大将就任を直前に「源頼朝急死」の一報を受ける。

本来であれば、国家の柱石たる頼朝のために喪を発して、その期間内は人事異動を延期する慣例になっていたのであるが、通親は頼朝死去の正式発表前に自分の右近衛大将就任を繰上、発動してしまう。
同時に、「右近衛大将の推薦」という形式で(次期将軍になるであろう)頼朝の嫡男源頼家の左近衛中将任命の手続きを取ってから「頼朝死去の喪を発する」と言う離れ業を演じた。

この年(建久十年)に通親(みちちか)は正二位内大臣に昇進している。後白河法皇・源頼朝は既に亡く、九条兼実も失脚した以上、朝廷・幕府・院の全てが通親の意向を重んじ、かつての摂関政治を髣髴とさせる状況を生み出したのである。

土御門(源)通親(つちみかど・みなもとの・みちちか)の嫡男源通宗は参議になったものの千百九十八年(建久九年)に三十一歳の若さで没したが、その娘源通子と土御門天皇の間から後嵯峨天皇(第八十四代)が誕生し、通親の一族は土御門・後嵯峨の二代の天皇の外戚になった。

通親の子供達―通具・通光(嫡子)・定通・通方はそれぞれ堀川家・久我家・土御門家・中院家の四家を創設し、明治維新にいたるまで家名を存続させた。ちなみに後の南北朝期に活躍する北畠家は中院家の、明治維新に活躍する岩倉家は久我家の庶流にあたる。

最も歴史に名を残したのは、通親と側室・藤原伊子(ふじわらのいし)との間に生まれた六男である。幼くして両親の死に遭遇したその少年は出家して道元と名乗る。彼が南宋から帰国して「曹洞宗」を開くのは通親の死から二十四年後の事である。曹洞宗などでは通親(みちちか)は「久我(こが)通親」と呼ばれている。


恐ろしく強力な鵺(ぬえ)の正体が、「北条政子と呼ばれる女性(にょしょう)だ」と知ったのは、吉次が臨終真近い頃だった。

「まさか、女(おなご)とは・・・抜かった。」
既成概念で、女性の政子の事は吉次もノーマークだったのである。
どうやら、「鵺(ぬえ)」と言う妖怪は、人の体の中に宿っているらしい。それも時には美しい女体に・・・

「源氏の家も永くはあるまい。」
勘解由小路・吉次は荒い息の合間に口走った。顔は苦く笑っていた。

それから二十年余り、勘解由小路・吉次の予言通りに源家から北条家に北条執権家として実権が移る事になるのだが、吉次はそれを言い当ていた。
同じ平氏の血筋であるから、当然と言えば当然だが、若い頃の北条政子の顔は、あの平将門の顔に何故か似ていた。将門の怨念が取り付いたかのように、周到な鵺(ぬえ)だったのである。


あまり表舞台には出なかったが、義経(牛若丸)には実母兄が二人いた。
義経の母「常盤御前」と源氏の棟梁「源義朝」の間には、今若丸、乙若丸、牛若丸がいたが「平治の乱」で義朝が討たれた後、絶世の美女だった常盤御前は敵の「平清盛」の側女(そばめ)に上がり、身体を張って三人の助命に成功している。

この乱世の時、男も女も日々の覚悟がなければ生きられない。
平清盛にとって「常盤御前」は、中々得られない良い気晴らし相手だった。何しろ命を取り合った敵将の、愛妾だった絶世の美女で有る。同じ裸にひん剥いて嬲るにしても、征服感や興奮の度合いが違う。

常盤御前も保身と息子三人の助命が掛かっているから、清盛にいくら辱めを受けても身体を張って耐え通し、一女(廊御方)を産むが、やがて清盛に飽きられ、貧乏公家の一条長成に嫁して一条能成を産む。

次兄の乙若丸は、早い時期に平家に陰謀を察知され美濃(岐阜県)墨俣川の辺りで討ち取られてしまったが、義経(牛若丸)の同腹の長兄(腹違いの兄は頼朝、範頼)、阿野全成(今若丸)は、正に北条に殺されたのである。

阿野全成(あのぜんじょう)は平安時代末期から鎌倉時代の僧侶兼武将で源義朝の七男、初代鎌倉幕府将軍源頼朝とは腹違いの弟にあたり、義経(牛若丸)の同腹の長兄(腹違いの兄は頼朝、範頼)になる。
阿野全成(あのぜんじょう/今若丸)は、甥で二代将軍の源頼家と対立して殺害されとする説が主流を占めているが、事実は北条に殺されたのである。
二代将軍の源頼家との対立説は、頼家を殺害させた北条家が執権として権力を握った後の捏造である。

父・源頼朝が平治の乱に破れ、平家全盛の時代だった為に全成(ぜんじょう)は幼くして醍醐寺にて出家させられ、隆超(または隆起)と名乗るが、ほどなく全成と改名し、「醍醐禅師」あるいは「悪禅師」と呼ばれた。

長じて「全成(ぜんじょう)」と名乗る僧侶に成って居た今若丸(阿野全成)は、僧籍のまま源頼朝挙兵に呼応して手柄を立て、武蔵国長尾寺(川崎市多摩区の妙楽寺)を与えられ、北条政子の妹・保子(阿波局)と結婚する。
その保子は、頼朝の次男千幡丸(後の実朝)の乳母となり、以降阿野全成(あのぜんじょう)は源頼朝政権において、地味ながら着実な地位を築いて、駿河(静岡県)の国・阿野の庄(今の沼津市原・浮島)を拝領、大泉寺を建て阿野姓を名乗る。

しかし頼朝が死ぬ(事故死?)と、「阿野全成(今若丸)」も義経と同じように北条に狙われ、関東の常陸(ひたち・茨城県)に流刑の上、首を討たれているのだ。

ちなみに、阿野全成の妻は阿波局(あわのつぼね)と言い、政子の妹、時政の娘である。
息子の時元の方は、政子にとっては「甥」、時政にとっては「孫」であるが、政子は源氏の血筋には容赦は無い。
北条氏の手に拠って源氏の血統が次々と粛清される中、全成(ぜんじょう)の長庶子ら三人は僧籍に入っていた為に難を逃れるが、武家の系統を受け継いだ息子(全成の四男・正室の子の為嫡男)の「阿野時元」も、同じ運命を辿って父の遺領である駿河(静岡県)の国・阿野の庄で北条の大軍に囲まれ討ち取られている。

常盤御前が体を張って守った義朝の血筋三人、武門源氏の血筋はここに途絶えてしまった。

ただしこの阿野の血筋、女系ではあるが公家として残った。
これは後日談になる全成の娘の事であるが、藤原北家魚名流の藤原公佐と結婚しており、その子実直が公家としての阿野氏の祖となっている。後醍醐天皇の寵愛を受け、後村上天皇の母となった阿野廉子はその末裔である。

この時阿野廉子は、我が子可愛さに有力世継ぎ候補の大塔宮譲良(もりなが)親王を陥れるざん言をする。
天皇はこれを受けて譲良(もりなが)親王を捕縛、鎌倉の足利直義の元に送り、親王を幽閉した。

その後、後醍醐天皇(新田、北畠、楠木側の南朝)と後伏見上皇(足利側の北朝)が決定的に対立、一時南朝方が有利になる。
この戦乱の最中、鎌倉に幽閉されていた護良(もりなか)親王は不運だった。敗走する足利直義(尊氏の弟)は、どさくさにまぎれて大塔宮護良(もりなが)親王を斬殺するに及ぶが、それは、まだずっと先の話である。


(北条政子と執権)

◆◇◆◇◆(北条政子と執権)◆◇◆◇◆◇

「ウッ、・・・夢か。」
鎌倉の屋敷の寝所で、源頼朝は負け戦に追われる夢で目覚めた。
未だ馬の嘶(いなな)き、追っ手の呼び合う声が脳裏に残っている。
卑怯だろうが汚かろうが、戦は勝たねば意味が無い。
信じられるのは、己の才覚だけだった。

「そうか、わしは将軍鎌倉殿だった。」
上半身を起こすと、床に同衾して寝息を立てているのは、惟宗忠康(これむねただやす)の正妻(畠山重忠の娘)だった。

母方が比企能員妹(丹後局)だった事で頼朝とは幼馴染だった事から、忠康(ただやす)に命じて妾に上がらせた。
先程の悪夢を振り払うように、頼朝は寝ている女に覆い被さった。
この妾と頼朝との間に、後に薩摩・島津藩の初代になる惟宗(島津)忠久(これむね・しまづただひさ)が、頼朝・庶子として生まれている。

源頼朝に、最初から平家を倒し天下を取る自信が有った訳ではない。
実を言うと、狙っても居なかった。
どちらかと言うと、妻の北条政子にけしかけられた弾みで思わぬ旗揚げをした。
少しずつ自信を持ったのは、房総半島(安房国/千葉県)に逃れた後の再起の旗揚げに、坂東武者が参集してからである。



ここからは、尼将軍北条政子と北条執権家について記述する。
北条政子が、新婚初夜の夫から始め、頼朝の従弟、頼朝の実母兄弟一人、異母兄弟二人のうち一人とその子、頼朝との実の子二人とその子三人(つまり孫)と源氏の血筋を皆殺しにし、北条執権家を確立する。
頼朝の妻北条政子の父北条時政は、紛れ無き桓武(かんむ)平氏の血筋である。桓武天皇から五代後の平直方(たいらのなおかた)が祖(基)である。

平直方は伊勢平氏・平貞盛(平将門を討った)の孫に当たるが、村岡五郎良文の孫・平忠常(上総介)が上総国で起こした大反乱「長元の乱」の鎮圧に失敗、役を解かれて止む無く伊豆の国に在住する。
時政の父は平時方(たいらのときかた)と言った。
平時家が時方の子で、時家の子が時政とする系図も存在する。

北条家は平家の血筋(系図)ではあるが、いずれにしても当時権勢を誇っていた清盛の親戚としては枝の枝で、よほどの事がなければたいした出世は望めない。
時方は伊豆の国北条に住む土豪で、妻は伊豆権守(ごんのかみ)為房の娘をもらった。その二人の嫡男として時政は生まれ、地名を取って北条時政と名乗った。
つまり、北条・氏(ほうじょう・うじ)平朝臣・姓(たいらあそん・かばね)時政である。

地方の小豪族だったが、自分の支配地に源氏の棟梁の血筋を引く源頼朝が流されてきて、その監視役を勤めた事で様相が変わる。
娘政子が、強引に頼朝と出来てしまったのだ。

娘の政子に引きずられる様に頼朝の挙兵を助けた時政だが、その後の時政の「甲斐源氏・武田氏」を味方につける諜略工作など、存外に上手く行って坂東武士団の参加が続き、娘婿が天下を取ってしまった。
天下人の義父であるから、思いもしなかった政権中枢に座る事になる。

鎌倉幕府が成立し、守護地頭制を設ける「勅許(ちょっきよ)」を授かると、時政は初代京都守護に着任する。幕府を遠い「鎌倉」の地に開くからには、朝廷が相手となる重要地区の京都守護職は、まさに幕府の代理であり将軍・頼朝の代理である。

その後、時政は七ヵ国の地頭を一度に務める惣追捕使(そうついほし)に補されるが、ちなみにこの職責は、奥州藤原家の最盛時をしのぐ規模の権限である。
しかし時政は是を長く勤めず、自から鎌倉幕府中央に戻り、政権中枢の政務を担当するように成る。

頼朝が落馬事故(?)で亡成ると、二代目征夷将軍に、頼朝の嫡男「頼家」が跡を継ぐ、勿論、頼朝と政子の長男である。
頼家の代に成ると、北条時政はいよいよ政権内で力を持ち、宿老会議(有力御家人十三人の合議制)を設けて、政務の実験を握るようになる。何しろ、将軍は自分の孫である。頼家が将軍に成って二・三年の間に、有力御家人の梶原氏や、城氏の反乱が有るが、時政が鎮圧している。

権謀術策で政敵を追い込んで行くのが、北条父娘の邪魔者排除の手口だった。
梶原景時ら梶原一族は、桓武平氏の血筋ながら石橋山で頼朝を助けて四ヶ月後、源頼朝に乗り換えて成功し、頼朝の信任厚く鎌倉幕府初代侍(さむらい)所の所司(ところつかさ)となった。
頼朝死後も鎌倉有力御家人、十三人のメンバーの一人に数えられていた。

しかし、世間での梶原景時の名声は群を抜いて高く、彼が動けば地方武士が集まる危険があった。
この北条に対抗できる梶原景時の勢力は、時政に取って見るからに危険だった。
「今のうちに、芽を摘んでしまおう」と、時政は思ったのだ。

それで、六十六人の御家人連判状で、景時を弾劾する。
窮地に落ちて、京に逃げようとした梶原一族を、駿河の国(今の静岡県中部)で、まんまと地元武士に討たせている。
政権も軍事力も、現実的には「時政」が掌握していたのだ。


父・頼朝の落馬死(??)により千百九十九年(正治元年)に家督を継いだ鎌倉二代将軍・源頼家には正室は居なかった。
一般的に妾妻とされる将軍・頼家に寵愛された「若狭の局(わかさのつぼね)」は、頼朝の乳母「比企の尼」の孫で、比企能員(ひきよしかず)の娘である。
比企氏が頼朝源氏との関わりが深かった為に権力の中枢に近づき、結果、北条氏と比企氏が鎌倉幕府の指導権を巡ってぶつかる事になる。

比企能員(ひきよしかず)は、秩父平氏の一族として最初は平家(平清盛)方についていたが、頼朝の乳母・比企尼(ひきのあま)が養母だった関係で、頼朝が伊豆流人中も援助をしていた為に、同族系の河越重頼や、同じ秩父平氏系・江戸氏(江戸重長)と共に頼朝方に寝返った。


父の事故死で家督を相続したニ代将軍・頼家が跡を継いだ時は若干十九歳、利発で若さに溢れていた。

ニ代将軍・頼家が、父・頼朝と同じ将軍独裁の体制を整えようとした矢先の千二百三年(建仁三年)、頼家二十二歳の時に突如として罹病、危篤に陥る。
この異変を、近親者の何者かが関与した可能性(暗殺陰謀)を否定出来ない所に、この時代の非常冷酷さが伺えるのだが、「母・政子が関与していた」と言う証拠は無い。

いずれにしても、この頼家の一時危篤を期に北条時政・北条政子の野望が噴出、世継ぎ(相続議)の会議を開く結果と成り、若狭の局が頼家との間に成した子・一幡の相続を主張、北条時政と母政子(時政の娘)が、頼家の実子・一幡と弟実朝(千幡)に分譲する案を出して対抗し、北条氏と比企氏との対立が鮮明に成って、頼家と若狭の局を劣勢に追い込む事となった。

幸い危篤だった将軍・頼家は一命を取り止め、病が癒えて復帰したものの、既に遅かった。
老臣会議制を敷かれて将軍独裁権限は奪われた後で、老臣会議制を主宰する北条時政の専横に、頼家は将軍とは名ばかりの立場に置かれ居たのだ。

将軍・頼家は、失意と共に北条氏への怨念と復讐の炎を燃やす。
源氏の実権の回復に努め、北条父娘の圧倒的勢力に対抗して、頼るは有力御家人の一人、妻(若狭)の自家・比企能員(ひきよしかず)と比企一族だった。

北条政子が我子である頼家に敵対した訳は、「若狭の局」を寵愛する頼家をめぐる嫁姑の確執に止まらず、北条氏と比企氏と言う氏族の論理が根底に有ったからである。
若狭の局が頼家との間に成した子・一幡が正式な後継ぎになると、比企氏の力が北条氏を上回りかねない。

危機感を募らせたのは北条時政・政子の親子で、政子はこの時に我が子・頼家を除く決意をした。
これに対し、一幡の独裁を主張する一幡の母である若狭の局の父、比企能員(ひきよしかず)と意見が対立し、北条氏との間が次第に険悪化して行った。


比企能員(ひきよしかず)は、鎌倉初代将軍・源頼朝の乳母である比企尼(ひきのあま)の甥で、後に比企尼の養子となり鎌倉幕府の有力御家人に列する。
比企氏の一族は、藤原・秀郷流の系図を有する武蔵国比企郡(現在の埼玉県比企郡)を領した関東の豪族と伝えられ、比企尼(ひきのあま)は伊豆流罪となっていた流人時代の源頼朝を「支援していた」と言う。
その関係から比企氏は、頼朝旗揚げの早い時期から頼朝を支えた御家人として活躍している。

流罪中も乳母・比企尼(ひきのあま)支援を受けていた源頼朝は、比企尼(ひきのあま)の猶子(ゆうし/養子)・比企能員(ひきよしかず)を側近として重用、比企氏の一族は、比企尼長女・丹後内侍(たんごのないし/安達盛長室)の娘が源範頼に嫁ぎ、河越重頼に嫁いでいた比企尼次女・河越尼は二代将軍・源頼家(頼朝・嫡男)の乳母と成って娘(本書では仮名・玉御前)が源義経に嫁いでいる。

二代将軍・源頼家は、妻の父「比企能員(ひきよしかず)」らと、北条時政を政権中枢から外そうとして失敗、武力行使も準備していたのだが、返えってそれを察知され、「頼朝の法事」と称して時政邸に招かれた能員(よしかず)は一族の反対を押し切って疑いも持たず時政邸に行き、待ち構えていた時政の家人に首を刎ねられて討ち取られてしまった。

同時に比企一族も北条方の義時・泰時親子に攻撃を受け、小御所(一幡の館)に篭城し抗戦するが、頼家の実子・一幡は焼き討ちにされて殺され、結果比企氏は時政に滅ぼされ、頼家は退任させられ伊豆国・修禅寺に流され幽閉されてしまった。

伊豆の修善寺に流され、幽閉されていた二代将軍・源頼家は、翌年の千二百四年(元久元年)に北条時政の密計により、伊豆国修禅寺門前の虎溪橋際にある箱湯において、二十三歳と言う若さで刺客に暗殺された。
頼家の将軍在位は僅か四年であった。

「若狭の局」は、「北条政子に殺された」と言える。
夫の頼家との息子「一幡」までも焼き討ちにされ、悲しみのあまり悲劇の入水自殺(自殺と成っているが暗殺説もある。)をして居る。

なお、北条氏征伐を企てたとされる比企能員(ひきよしかず)が、敵である筈の北条時政の邸を無防備に訪れている不自然さなどから、歴史学者からは「比企氏の変」自体が北条氏のでっちあげであろうとの見方が為されている。


三代将軍には、頼家の弟・実朝(さねとも・頼朝次男)が就任する。
しかし時政は、娘の政子も驚愕する計画を進めていた。
実朝を退け、もう一人の娘婿「平賀朝雅(ひらがあさまさ)」を将軍に就けようとしたのである。

平賀朝雅(ひらがともまさ)は、北条時政の後妻・牧の方の娘婿に当るが、この時政の娘は北条政子・北条義時姉弟とは腹違いになり、後妻・牧の方の色香に迷った時政の、そそのかされての企てである。

それを許しては権力が平賀家と後妻・牧の方に移り、政子の政治生命は終わってしまう。
平賀朝雅の将軍擁立計画を事前に知った政子・義時姉弟がとても承服出来ずに猛反対して対立、時政は娘・政子と息子・義時の姉弟に伊豆へ隠居させられて、完全に失脚してしまう。

平賀朝雅の件で時政は失脚し、実権は政子と義時の姉弟に移っていた。
この一件で、時政は出家して、明盛(法名)と称した。
牧の方と伴に伊豆に幽閉された時政の失脚は、頼朝挙兵から二十五年目の事である。
時政はそれから十年後に、寂しく伊豆で没している。

三代将軍に就任した頼朝の次男、実朝(さねとも)は、兄・頼家の最後や北条執権家の時政(祖父)と政子(母)・義時(叔父)兄弟との非情な内紛を見せられて、身の処し方を学んだ。

母・政子と叔父・義時の権力への燃え盛る執念は並大抵ではなく、そこに触れれば将軍と言えども火傷は必死だった。
実朝(さねとも)は政治には関心を持たず、文化文芸にいそしみ、政治は母政子と、叔父の北条義時に任せていた。
それでないと、兄頼家の「二の舞」である。それ故三代将軍・実朝は、皮肉にも文化人としてそれ成りの足跡を残している。

処が、それでもなお実朝を確実に取り除きたい勢力が存在した。
北条時政・北条政子にとって、野望を脅かす頼朝の血統(源氏の血)の存在そのものを赦せなかった。
使ったのは、先の将軍「頼家」の次男・公暁(くぎょう)である。これは、或る事を目論む一族の血筋にとっては、最高に都合の良い方法であった。つまり源家の根絶やしが、目的で無ければ、こんな事は考えられない。

公暁(くぎょう)に父の仇は「実朝」と吹き込んで、鶴岡八幡宮で暗殺させ、その直後後、公暁も犯人として討ち取っているのだ。これは、たくらんだ側の「源氏の血筋殲滅プロジェクト計画」において、「一挙両得作戦」と言う事である。
最近の文献では、実は「実朝」は政権運営に意欲を示したので、「陰謀の標的にされた」とする見解が、優勢に成っている。頼家には、一幡(いちまん)、公暁(くぎょう)以外にも二人の男児が居たが、三男千寿(せんじゅ)、四男禅暁(ぜんぎょう)はそれぞれ自害、殺害で命を落としている。

公暁に殺された三代将軍実朝には、子がいなかったので、「完全」に源頼朝家の血筋は途絶えてしまう。一人の母親として、女として、政子が「涙を流さなかった」とは思いたくないが、それにも勝る目的が、彼女には有ったのだ。鎌倉幕府の実権が、完全に政子のものに成ると、弟・義時を使って政子は尼将軍と言われ、幕府の采配をする。将軍には、幼い九条(藤原)頼経(よりつね)を京から向かえ第四代征夷大将軍とし、自らが後見人と成った。

この北条家の専横政治を「良い事」、とはしない朝廷は、後鳥羽上皇(前の第八十二代天皇)を中心に宣旨(せんじ)を発し西国武将を集めて「承久(じょうきゅう)の乱」を起こす。

鎌倉幕府は朝敵となったが、政子はものともせず、鎌倉武士団を召集して大軍を編成、反乱軍を一掃、後鳥羽上皇を捕らえて、隠岐島に流してしまう。
武士による幕府で良い思いをした連中が、「返せ」と言われて、「はいそうですか。」と朝廷に権力を返す訳がない。
利(既得権益)に準じれば今も昔も答えは一つである。


承久(じょうきゅう)の乱は、頼朝没後から数えて、二十二年後の事である。
千二百二十一年(承久三年)五月、後鳥羽上皇が鎌倉幕府に対して討幕の兵を挙げた。
承久の乱(じょうきゅうのらん)と呼ばれるこの変は、結果的に後鳥羽上皇側が北条政子率いる鎌倉幕府側に敗れた兵乱である。

発端は千二百十九年(承久元年)に三代将軍・源実朝が甥の公暁に暗殺され、源家の血が途絶えた事で、北条執権家が勢力を維持する為の名目将軍(お飾り将軍)が必要になり、これを朝廷の権威を利用する為に新将軍に「雅成親王を迎えたい」と申し入れるが、朝廷側との条件交渉が上手く行かずに決裂した事である。

この将軍継嗣問題が、朝廷(後鳥羽上皇)側にも、幕府執権(北条義時)側にもしこりが残る結果と成った。

幕府執権(北条義時)は、止む負えず皇族将軍を諦めて摂関家から将軍を迎える事とし、その年(千二百十九年/承久元年)に九条道家の子・三寅(後の九条頼経)を鎌倉四代将軍として迎えて名目将軍(お飾り将軍)とし、目論見通りに北条執権家が中心となって政務を執る北条執権体制を確立して行く。
しかし朝廷(後鳥羽上皇)側に幕府執権(北条義時)の専横に対する不満が募って行き、朝廷と幕府の緊張はしだいに高まり遂には後鳥羽上皇が倒幕を決意、北条義時追討の挙兵をするに到る。


もう読者にはお判りと思うが、鎌倉幕府に於いても歴史の表面にこそ現れないが、帝及び公家衆と幕府との間には始終暗闘が在った。
その暗闘の朝廷側に密かに与力していたのが、各地に勘解由小路系の草として根付いた郷士達である。

神の威光を持って統治する朝廷には、武力こそなかったが大きな存在価値が在った。
民を統治する権力にはそれを公認する裏付け手段が必要で、朝廷が任命する官位がその資格証明で在る。
つまりこの国では、古くから朝廷の権威が統治権の公な認証手段で、幕府及び守護・地頭職(御家人)に対する官位の任命権だけは朝廷の権威を利用する公の権限として存在していたからである。

そして当時はまだ、列島の東西で朝廷と幕府の勢力に微妙な温度差があった。
東国武士を中心に本拠を鎌倉に置き、源頼朝を棟梁として樹立された鎌倉幕府では東国武士を中心に諸国に守護、地頭を設置し警察権を掌握していたが、この事は西国武士の不満を誘い、結果西国は鎌倉幕府が実効支配をし切るに到らず依然として西国での朝廷の力は強かった。
つまり根本的な原因を一言で表現すると、政府が二つあり「出先機関が同じ土地に重複している」と言う状態だったのである。

後鳥羽上皇は「流鏑馬(やぶさめ)揃え」を口実に諸国の兵を集め、北面・西面の武士や近国の武士、大番役の在京の武士千七百余騎が集まった。
翌日、藤原秀康率いる八百騎が京都守護・伊賀光季の邸を襲撃する。
伊賀光季は奮戦して討死したが、その変事は鎌倉に知らされる。
後鳥羽上皇は諸国の御家人、地頭らに北条義時追討の宣旨(せんじ)を発する。

後鳥羽上皇追討に立つの知らせを聞いた時、尼御台と呼ばれていた北条政子(ほうじょうまさこ)は齢(よわい)六十五歳を数える当時としては老女になっていた。
そしてその老女が、実質的に鎌倉の支配者だった。 摂関家から三寅(藤原頼経)を迎え、政子が三寅を後見して将軍の代行をする事になり、世に「尼将軍」と呼ばれるように成っていたのである。

この後鳥羽上皇の宣旨(せんじ)に対し、鎌倉方(東国武士)も動揺を見せたが、尼将軍・北条政子が「今日の鎌倉御家人の繁栄あるは、夫・頼朝のおかげなるぞ。皆の者、獲得した権益を放すまい」と叱咤し、ニ代執権・義時を中心に御家人を結集させる事に成功、団結して京に向かって出撃する。

この時の正子の名演説が「関東武士を結束させた」とされているが、関東武士の本音としては「折角の利権を西国武士に取られる恐れで結束した」と考えるのがまともではないだろうか?

鎌倉を出立して都に攻め上る幕府軍は道々で徐々に兵力を増し、「吾妻鏡」に拠れば最終的には「十九万騎の大軍に膨れ上がった」とされている。
朝廷の権威を信じ、幕府軍の出撃を予測していなかった後鳥羽上皇ら朝廷側首脳は狼狽した。
大軍を擁した幕府軍は易々と都を落とし、朝廷・御所を取り囲んでしまう。

形勢不利と見た後鳥羽上皇は、命惜しさに日和見(ひよりみ)をして幕府軍に使者を送り、この度の乱は「謀臣の企てであった」として義時追討の宣旨(せんじ)を取り消し、藤原秀康、三浦胤義らの逮捕を命じる宣旨(せんじ)を下す。
上皇に見捨てられた藤原秀康、三浦胤義、山田重忠ら朝廷側に組した武士は東寺に立て篭もって抵抗するが、三浦義村の軍勢がこれを攻め、藤原秀康、山田重忠は敗走し、三浦胤義は奮戦して自害している。

承久の乱(じょうきゅうのらん)が終結すると、首謀者である後鳥羽上皇は隠岐島、順徳上皇は佐渡島にそれぞれ配流された。
討幕計画に反対していた土御門上皇は、自ら望んで土佐国へ配流され、後鳥羽上皇の皇子の六条宮、冷泉宮もそれぞれ但馬国、備前国へ配流される。
仲恭天皇(九条廃帝・明治以降に仲恭の贈名)は廃され、行助法親王の子が、後堀河天皇として即位した。

この時政子は、正に女阿修羅となり、「上皇側に組みした者達」を徹底して弾圧している。
京の町は、政子の過酷な弾圧に震え上り、幕府に刃向かうものは居なくなる。政子は京・朝廷を押さえる為に、「六波羅探題」を設置して、朝廷と関西を見張らせ、北条得宗家(鎌倉幕府執権)の礎を確立している。

また、幕府は西国での多くの没収地を得、これを戦功があった鎌倉御家人に大量に給付した為、鎌倉御家人の多くが拝領地支配の為に西国に移住、幕府の支配が畿内や西国にも強く及ぶように成る。

この承久(じょうきゅう)の大乱に、何故か勘解由小路(かでのこうじ)党総差配・(賀茂)吉次は、後鳥羽上皇の為に積極的には動かなかった。
院(後白河法王)の度重なる日和見で、息子の伊勢(三郎)義盛を失い、権力の非情さが骨身に沁み、未だ覚めやらなかったのである。
「後鳥羽上皇様が、後白河の院様のごとく成らねば良いが・・・」

勿論、上皇の宣旨(せんじ)を届けるなどの雑事はこなしていたが、後鳥羽上皇の倒幕の覚悟に、懐疑的だったのである。
案の定朝廷側に組した武士、倒幕派の藤原秀康、三浦胤義、山田重忠らは上皇に見捨てられている。

この承久の乱の結果、親朝廷派の勢力は衰え、執権北条氏と所領の給付を受けた御家人との信頼関係がより強固に成り、幕府勢力が優勢と成って、北条執権家が事実上の最高権力者と成る。

朝廷の権力は制限され、幕府が皇位継承や大臣の登用などに影響力を持つように成った。
親幕派で後鳥羽上皇に拘束されていた西園寺公経が内大臣に任じられ、朝廷は親幕派で占められ、以後幕府の意向を受けて朝廷を主導する事と成った。


第二代執権・北条義時(政子の弟)の死去の際には、「伊賀氏の変」と伝えられる政変未遂事件が起きている。
伊賀氏は北条得宗家とは外戚関係にある有力御家人で、承久の乱では京都守護に赴いて居て後鳥羽天皇(上皇)に抗い屋敷を取り囲まれて自害している。

伊賀朝光(藤原朝光)の長男・伊賀光季(いがみつすえ/光末)は第二代執権・北条義時の義兄に当たる。
北条義時の継室・伊賀の方は伊賀光季(いがみつすえ)の妹、伊賀光宗は伊賀光季(いがみつすえ)の弟だった。

伊賀氏は藤原北家秀郷流と伝えられ、鎌倉時代初期の藤原朝光(ふじわらのあさみつ)が伊賀守に任じられて伊賀守朝光以降は伊賀を名字とした。
鎌倉時代初期は鎌倉幕府の有力御家人であったが、鎌倉幕府の第二代執権・北条義時(政子の弟)の死去に伴い、伊賀光宗とその妹で義時の後妻・伊賀の方が伊賀の方の実子・政村の執権就任と、娘婿一条実雅の将軍職就任を画策した。
執権・北条義時の急死に関しては後妻・伊賀の方の毒殺説もある。

この政変を画策した伊賀光宗は鎌倉御家人の中でも実力のあった三浦義村と結ぶが、これは尼将軍・北条政子の地位を伊賀氏に取って代わられる危機だった。
伊賀氏の不穏な動きを察した尼将軍・北条政子は、三浦義村に泰時への支持を確約させ、伊賀氏の政変を未然に防ぐ事に成功し、義時の長男であった北条泰時を執権に就任させる。

いずれにしても尼将軍・北条政子は、北条得宗家の権力維持の為に凄まじい権力闘争を勝ち抜き続けた事になる。


この政変未遂により伊賀の方・光宗・実雅は流罪となったが、彼らに担ぎ上げられそうになった当の政村は義時の実子であるを以って厳罰を免れ、後に第七代執権に就任している。

伊賀氏の一部は赦されて残ったが力を弱め、政変未遂後は評定衆、引付衆など幕府の中堅実務官僚として活躍する家系として残っている。 この子孫が、代を経て鎌倉幕末期に顔を出すが、それは遠く下って後醍醐天皇が現れる時を待たねば成らない。


弟義時が亡成ると、尼将軍・北条政子は泰時(義時嫡男)を執権に据えて、鎌倉幕府の北条家「継承」による執権政治を確立する。名目源氏の代行を、平氏の北条家が「代行して執り行う」と言う絶妙の形態で、源平連立政権を確立、朝廷の干渉する隙を与えなかったのである。

少し時代が下がるが、鎌倉後期、執権北条時宗(第八代)の時代「元寇」として日本に襲来したのは、実は「元」に命じられた半島(当時・高麗国)の民だった。この時は、二度(文永・弘安の役)の襲来の度に「神風」が吹いた。海が暴風に荒れ狂い、「元」の海軍(実は半島の海軍)は大打撃を受けて撤退した。須佐王(スサノウ)が、怒り暴れたのだろうか?

内陸の国「元(モンコル)」には、本来海軍はない。
厳密に言うと、第二次襲来の「弘安の役」の後続(増援)部隊は、属国にされた南宋国(呉族系・中国人)の海軍だが、これが到着した時には海峡の海はもう荒れ狂っていた。
南宋の船団は、戦うことなく被害を出し、撤退している。

この時の国難に有って、土御門家一門は呪詛をもって国家護持を祈願している。
そして、第十四代執権北条高時の鎌倉幕府滅亡の時まで、桓武平氏直方流北条家の系図の本流は、「北条得宗家」として、執権政治を独占して行った。


良いか悪いかの論議はさておき、表向きの奇麗事ばかり言って、事を済ませてしまうのが日本人の妖しい所だが、その根源にあるのは「国の成り立ちと、その後の歴史だ」と言う事実が物語っている。

我輩が「日本の歴史は二枚舌建前社会の歴史だ」と言う理由の一つは幕府の存在である。
「神の威光で統治する」と言う呪術的発想から、「軍事力ないし警察力の行使」と言う汚れた仕事は、国家の制度の内に「公式のものとしての存在を認めない」と言う世界でも類の少ない建前の「特異な制度」が採用されて成立した古代大和朝廷は建前において武力をもてなかった。必要がある時は、「有力氏族(臣王家)が天皇家の命に従う」と言う建前である。

しかし本音では直属の武力機関を持ちたかったので、皇統に繋がる賀茂・葛城氏を筆頭にした秘密組織「陰陽修験」を組織させて大王(おおきみ・後の帝・天皇)の意向を具現化した。

それでも、統治の実権は大和朝廷の有力氏族(臣王家)である和邇(わに)葛城(かつらぎ)、大伴(おおとも)物部(もののべ)蘇我(そが)、安部(あべ)秦(はた)中臣(なかとみ・後の藤原)などに入れ替わり実権を握られていた。

彼らは建前としては天皇家を仰ぎながら、本音の部分で武力を背景に天皇家を蔑(ないがし)ろにし、相当独裁的な政治をしていた歴史が窺える。
有力氏族(臣王家)の勢力は平安期の中頃まで続いたが、本音の部分では天皇家も実権を握りたい。有力氏族(臣王家)に対抗させる為に後胤貴族の武門化を進める。桓武平氏や清和源氏などがそれである。

所が、代替わりを重ねて桓武平氏や清和源氏の血流れが枝分かれし、天皇家と血統的に遠くなると、その武力を背景に事実上の支配者に収まって行く。
言うなれば建前では天皇家を仰ぎながら、その実天皇家は、武力に拠る実質覇者の権威着けに利用する為の存在価値だった。

徳川幕府(徳川家)も、室町幕府(足利家)も、建前では天皇家を仰ぎながらその実強力な支配権の世襲制を確立し、外(他国)から見た権威は「日本の王」そのものである。これは、桃山期における豊臣太閤家も、天皇家を仰ぎながら実効支配していた点では変わりはない。
鎌倉幕府に到っては、天皇家ばかりか源将軍家まで建前に置いて北条執権家が、実質世襲支配をして居る三重の建前形式を採って居た。


承久の乱から約四年、泰時の執権就任を見届けると、北条政子は病に倒れ、「帰らぬ人」となった。
頼朝旗揚げ後、四十五年間が過ぎていた。
尼将軍・北条政子は頼朝没後二十六年間を、権力維持の為に生き抜いたのだ。
この北条政子の生涯をかけた河内源氏絶滅のシナリオは、土御門家の「怨念の呪詛パワーに揺り動かされたもの」か、どうかは判らない。


北条政子については、「日本で始めて天下を取った女性」と評価する向きも居られるが、我輩に言わせれば、彼女は女性としてではなく、女性が「男性の真似」をして殺戮を繰り返しただけである。
北条正子は、類稀な「鵺(ぬえ)」の女性(にょしょう)だった。
夫婦は、良きに付け悪しきに付け影響し合うもので、源頼朝とその妻・北条正子は互いに影響し合って修羅の道を歩んで居たのかも知れない。

北条政子は、源家の嫁としては稀代の鬼嫁には違いない。同じ平氏の血筋であるから、当然と言えば当然だが、若い頃の北条政子の顔は、あの平将門の顔に何故か似ていた。

自らが産んだ子供、そして孫まで殺めた天下取り。「何もそこまでして・・」と思うのが、健全な人間で有る。それを思わないで、どんな手を使っても目的を遂げようとするのが鵺(ぬえ)である。妖怪には人の心は無い。

当時の氏族社会では、「何々氏の娘」と言う氏の家に属する考え方の意識が強い強かった。
源頼朝と北条正子の夫婦のように夫婦別姓で、織田信長の正妻・帰蝶(きちょう/濃姫)の場合も斉藤道三の娘・斉藤帰蝶(さいとうきちょう)が正しく、豊臣秀吉の晩年の妾・淀殿(淀君)の本姓名は浅井茶々(あざいちゃちゃ)が正しい名乗りである。

そう言う価値観だったから、実家にとって「頼もしい人物」が正妻として嫁いだり妾に上がったりする条件だった。
つまり鵺(ぬえ)と化した北条正子は、当時の「氏の家の価値観」と言う帰属意識に従って実家を盛り立てただけかも知れない。

まぁ、見上げた気性の激しさと根性を持つ女性だった事は確かだが、彼女が現代に居たらもっと早くに塀の中に転げ落ちた事は想像に難くない。
北条正子にとっては、気性に合う良き時代だったのだ。



約百三十五年続いた鎌倉幕府において最大の国難、元寇(げんこう)が起きている。
元寇(げんこう)は、広域倭の国内の国々との武力紛争を除くと大和朝廷成立後初めてにして最大の他国からの侵略戦だった。

平家を倒して鎌倉幕府を成立させた源頼朝が没して二十二年後、尼将軍と呼ばれて鎌倉幕府を率いる北条政子の横暴を理由に後鳥羽上皇が鎌倉幕府に対して討幕の兵を挙げ、後鳥羽上皇が敗れている。
千二百二十一年(承久三年)の承久の乱を勝利で収めた事で、権力を確たるものにした北条執権家の治世で最大の出来事は、鎌倉幕府成立後七十五年目の元軍の襲来だった。

鎌倉後期、執権・北条時宗(ほうじょうときむね/第八代)の時代に、大陸の大帝国・元(げん/モンゴル)の大軍(たいぐん)が襲来する。
元(げん/モンゴル)帝国を支配(しはい)した蒙古人(モンゴル人)のフビライ・ハーンは、モンゴル帝国を興したチンギス・ハーンの孫(チンギスの四男トルイの子)にあたる。

フビライ・ハーンは、朝鮮半島の国・高麗(コリョ)を征服(せいふく)し属国とした後、日本をも属国に従えようとして蒙古への服属を求める内容の国書を携えた使者を送った。
しかし、時の鎌倉幕府執権・北条時宗(ほうじょうときむね)はこれを拒否(きょひ)し、九州の防備(ぼうび)をかためた結果、日本は国難回避で結束した。

千二百七十四年(文永十一年)元(げん)・高麗(コリョ)の連合軍が対馬・壱岐を襲った後、博多湾の沿岸に上陸(じょうりく)した。
元軍は集団戦法で個人武術戦法の日本軍を苦しめ火薬を使い有利に戦ったが、日本の武士も良く防戦する内に元軍の船団が暴風に拠って大打撃を受け、後方支援(食料や武器の補給活動)を失って退却する。

この第一回目の元寇(げんこう)を「文永(ぶんえい)の役(えき」と呼ぶのだが、内陸の国「元(モンコル)」には本来海軍はない。
実は「元寇」として日本に襲来した兵の大半は、「元」に命じられた半島(当時・高麗国)の民だった。

最初の襲来に失敗した元軍(げんぐん)は、七年後の千二百八十一年(弘安四年)に新たに江南軍(中国の南宋の軍)も加え、朝鮮半島と中国本土の二方面から北九州へ攻めよせた。

モンゴル・中国・高麗(コリョ/朝鮮)の兵士からなる元軍は混成軍の為に指揮系統にまとまりが無く、引き換え日本軍は海岸荷を石垣を築いて上陸を阻み、元(げん)の船に乗り込む奇襲で戦うなど水際戦は有利に戦っている。
厳密に言うと、第二次襲来の「弘安の役」の後続(増援)部隊は、属国にされた南宋国(呉族系・中国人)の江南海軍だが、これが到着した時には海峡の海はもう荒れ狂っていた。
日本に幸運な事に、この時も元軍(げんぐん)は暴風に会い、南宋の船団は多くの船が沈ずむ被害を出して戦う事なく撤退している。

二度(文永・弘安の役)の襲来の度に「神風」が吹き、海が暴風に荒れ狂い、「元」の海軍(実は半島の海軍)は大打撃を受けて撤退した。
日本の海の神・スサノウが、怒り暴れたのだろうか?
陸上戦に強い元軍だったが、日本攻略に失敗したのは本国のフビライ・ハーンが日本の気象状況と海上戦に疎(うと)かったにも関わらず侵略戦を強行させた慢心がもっとも主な原因と考えられる。


北条時宗(ほうじょうときむね)は鎌倉幕府の第八代執権で、先祖は源頼朝の血筋を根こそぎ絶って天下を我が物とした桓武平氏流・北条時政、正子親子の血を継ぐ得宗家嫡流に生まれた者である。
北条時宗(ほうじょうときむね)が育った時代は、宗尊(むねたか)親王(後嵯峨天皇の第一皇子)が鎌倉方の要請で征夷大将軍を務めていた。

河内源氏(八幡源氏)嫡流家である源頼朝の血筋が途絶えた後、北条執権は形式的に傀儡将軍を置いていてその就任を親王に頼っていた。
その宗尊(むねたか)親王から時宗を賜り千二百六十四年(文永元年)に、六代執権・北条長時が出家、北条政村が七代執権と成ったに伴い時宗は十四歳で連署(執権の補佐を務める)に就任する。

事の真贋は定かではないが、宗尊親王が「幕府転覆を計画していた」とされ、幕府連署・北条時宗は千二百六十六年(文永三年)に執権・北条政村や一族の重鎮北条実時と協力して、宗尊親王の征夷大将軍廃位と京都送還、宗尊親王の嫡男・惟康(これやす)親王の征夷大将軍擁立などを行った。

その政変の二年後、千二百六十八年(文永五年)高麗(コリョ)国の使節がモンゴル帝国・チンギス・ハーンの国書を持って大宰府を来訪、モンゴル帝国(蒙古)への服属を求める内容の国書が鎌倉へ送られる。

モンゴル帝国の日本に対する圧力が高まるその国家存亡の国難時期に、北条時宗(ほうじょうときむね)は七代執権・北条政村から執権職を継承し、第八代鎌倉幕府執権と成る。
時に北条時宗・十九歳の春三月(旧暦)だった。

執権と成った北条時宗は、降り掛かる国難「モンゴルの国書」に対する返牒など対外問題を補佐されている前執権の政村や北条実時、安達泰盛、平頼綱らと協議、これを跳ね返す方向で異国警固体制の強化や、降伏の祈祷など行わせている。
千二百七十一年(文永八年)再びモンゴルの使節が来日し武力侵攻を警告すると、時宗は得宗権力の強化を図る一方、九州の名家・少弐(しょうに/武藤)氏をはじめとする西国有力御家人に防衛戦の準備を整えさせている。

裏を返すとこの国難は、北条時宗に取っては自分の権力を磐石なものとする絶好の機会だった。
外圧を利用すれば国内の不満を鎮圧するにはもってこいの理由で、弟・時宗が執権になった事に不満を持って朝廷に接近していた六波羅探題南方の異腹の兄・時輔や、一族の評定衆北条時章・教時兄弟を「二月騒動」で誅殺している。

暴風と言う幸運も二度重なり、北条時宗は「モンゴル軍の襲来」と言う国難を回避した。
しかし、その戦後に今度は従軍貢献した御家人などに対する恩賞問題などが発生したり、以後の元軍襲来に備えて改めて国防を強化せねばならないなど、北条時に宗は難題がいくつも積み重なっていた。
北条時宗は第二次襲来の「弘安の役」の三年後の千二百八十四年(弘安七年)には「既に病床にあった」とされ、三十四歳で病死した。


源氏の血筋を壊滅させ、度重なる粛清で有力御家人を潰し、もはや執権得宗家に敵対する勢力はなくなり、勘解由小路党の出番がなくなって、遥か鎌倉末期の動乱まで、帝の影御用務めは僅に成ってしまった。
そうした事情で、勘解由小路党は全国に散り、修験郷士として土着、各自が生計を立て、次の動乱に備える事になる。

百十年の歳月がながれ、八代の子孫が入れ替わり、勘解由小路党の或る者は郷士、或る者は僧侶、或る者は修験者と、土地に根付いた草になった頃、時の帝、後醍醐天皇が突然動き出す。


陰陽五行九字呪法
皇統と鵺の影人
第二巻・本章の【第二話】

後醍醐帝(真言立川と南北朝)

(醍醐寺と仁寛僧正)

◆◇◆◇◆(醍醐寺と仁寛僧正)◆◇◆◇◆◇

生きているのか、生かされているのか、命にはそれ自体に神秘が伴う。
そしてその人生は、絶えず思いもよらない方向に転がる。幸せか不幸かは、その人間の価値観で、その生き方を他人がとやかく批評するものでも無い。
貧しくても平凡でも結構幸せな人生に思う人間も居るし、金持ちで変化に富んでいても不幸に思う人生もある。
それ故、信仰は生活に根着いて命脈を永らえて来た。



人類は生意気にも神になった。
そして自らの生物学的生態系まで壊してしまった。

シンプルに考えれば、性欲は「子孫を残す」と言う生物本能から始まっている。
従って、社会秩序の問題をクリアとすれば性欲そのものを「恥ずかしいもの」とするのは稚拙な勘違いである。
そこで問題なのが人間と言う生物の「特殊な進化」なのだ。
脳が異常に発達して物事がシンプルに処理できなくなった為に、人間だけは生殖時期(発情期)に関係ない「擬似生殖行為(生殖なき性交)」を神様に認められている。

つまり生物としての性欲を「恥ずかしいもの」と勘違いする事から様々な悲劇が始まっている。
性欲を「恥ずかしいもの」とする事が「勘違いだ」とすれば、情無き性交を問題視する事は愛情の問題ではなく、ただの既成概念に囚われたプライド(誇り)の拘(こだわ)りか異性に対する独占欲の拘(こだわ)りの問題である。
そこで誓約(うけい)の性交が群れの維持に重要な役割を果たし、その証明としてS(支配者)・M(被支配者)遊技の「擬似の群れ」が誕生する。

言って置くが、男女平等を誤解して男女の生物的特性まで否定する事は、他の動物同様に持ち合わせている人間の「生態系を壊す」と言う事に成る。
つまり人間は、生き物としての自らを否定するほど傲慢な存在なのである。
戦後も六十年を経て、そろそろ私権ばかりに偏った考え方を、「見直す必要が有る」と考えても良いのではないか?
女性が「産まない権利」を主張する事は「生態系上不自然な事」と言わざるを得ず、個人の私権ばかりを言い立てて少子高齢化を引き起こしている日本人は、滅びの道を進む事になる。

「姦淫は即ち悪である」と言う先入観は、発想の落とし穴に成る。
この先入観から【真言密教立川流】の評価に入り「淫邪教」と切って捨てる安易な建前主義者が居るから、【左脳域】に偏重した人間ばかりのストレス社会が如何(いか)にもまともな事のように成ってしまった。

最近世間を騒がせている各種の「偽装問題」は、【左脳域(理屈と計算)】ばかりに視点が行って、【右脳域(感情)】の感性を無視したバランスの悪さが引き起こしたもので、民間・官庁を問わずに【左脳域(理屈と計算)】ばかりの人間が「何と多い事」と呆れるばかりである。

我輩に「未来が狂うのは冗談ではない。」と言う気持ちからであるが、実は人類がドンドン【左脳域】ばかりに価値判断を偏らせて行く心配からである。

例を挙げると、現在の教育は【左脳域】ばかりに偏重して、成績が良ければ高資格を得て「将来高い地位に就いて幸せに成れる。」と、そこから落ちこぼれた人間が心の行き所を失うのも構わず、知識の詰め込みを強要する教育体制に親も国家も血眼に成っている。

つまり教育において【右脳域】の無意識の感性を育てる必要性を切り捨て、私権ばかりを追いかける人間を育て、仕舞いには親子兄弟の命の遣り取りにまで発展させている。

右脳域】の無意識の感性が働かない事は「情が無い」と言う事で、厚生労働省の薬害や年金の処理が、【左脳域】の論理や計算に発想が偏っているから被害に遭う国民の救済など眼中に無く、被害に遭われた方々の【右脳域】の被害感情を汲み上げる態度も無く全く噛み合わない状態を長々と続けている。

「成績優秀な官僚」と言っても優秀なのは【左脳域】の論理や計算だけで、人間性のバランス【右脳域】の「無意識感性に欠ける人間に育っている」と言う事である。


政治に【右脳域】の感性を持ち込まない悪政をするから、弱者は【左脳域】の論理や計算の中で切り捨てられ、「障害者支援法」と言う名の聞き触りだけ良い「改悪法」がまかり通る。
政治家は「国益の為」を連発して国民に犠牲を強(し)いるが本末転倒で、国民有っての国家ではないのか?

米国かぶれした小泉氏と竹中氏の五年間は、正にこの【左脳域】の論理や計算だけの政治で、彼らが行なった「規制緩和」と言う箍(たが)を緩めた結果が、ライブドア、構造設計偽装、違法ホテルチエーン、コムスン、駅前留学のノバ、などなどの【左脳域】論理で「儲ける為には手段を選ばず。」の急成長企業を生み、順法に徹した中小企業は彼らに駆逐された。

それのみならず、「規制緩和」はタクシーや観光バスなどの許認可を緩め、結果的に従事する者に過酷劣悪な労働条件を強いる結果になった。

しかし彼らの【左脳域的】な考え方は、国民にすべからく蔓延している。

それにして昨今の風潮として、「結婚すると個人の自由が無く成る」とか、「子供を産むと金がかかり、自分が楽しめなくなる。」と言った【左脳域(理屈と計算)】ばかりのバランスの悪い人も多いので、この国の全てが【左脳域(理屈と計算)】ばかりに「偏った国に成ってしまったのではないか」と、嘆く次第である。



そもそも「占い」や「信仰(宗教)」は、【左脳域】の理性や計算を前提とした意識ストレス状態から脱して、その帰結する所【右脳域】の本能的無意識リラックス状態を引き出す為のものである。
つまり、「占い」や「信仰(宗教)」はもっともらしい【左脳域】の理性や論理を並べながら、最後は「目に見えぬ神の力や奇跡」と言った【右脳域】の本能的無意識リラックス状態である「精神世界」へ導くものである。

有名な興奮物質として【左脳系本能】のストレス興奮物質・アドレナリンがある。
アドレナリンはリラックス物質ではなく緊急時の感性に拠る興奮物質で、恐怖や身の危険を察知した時、あるいは争いを必要とする時に素早く対応する為のストレス脳神経系物質である。

このアドレナリンの放出状態から開放される表現が「安堵(あんど)する」で、一気に【左脳域】の思考から【右脳域】の本能的無意識リラックス状態に切り替わった事を意味している。

脳神経系における神経伝達物質・アドレナリンはストレス反応の中心的役割を果たし、血中に放出されると一時的に心拍数や血圧を上げ、瞳孔を開きブドウ糖の血中濃度(血糖値)を上げる作用などがある。
「戦う(闘争)か逃げる(逃走)か」の判断を迫られる緊急時の【左脳域】の活性ホルモンと呼ばれ、人間を含む動物が「敵から身を守る。あるいは獲物を捕食する必要にせまられる。」などと言う状態に相当するストレス応答を全身の器官に引き起こす交感神経が興奮した状態で血中に放出される脳神経系物質がアドレナリンである。

占いや信仰(宗教)などにおいてはその根源に在るのが「恐れ」であるから、当初【左脳域】の理性的意識の恐怖興奮物質・アドレナリンから入ってその後の演出効果から【右脳域】の本能的無意識リラックス興奮物質・ベーターエンドロフィンに入って陶酔状態に成るようにその儀式次第が完成されていて、【右脳域】の活動で「心の救いを感じる仕組み」に成っているのである。

息詰まるような【左脳域(理屈と計算)社会】である現代にあっては、その裏返しとして【右脳域】の「精神世界(本能的無意識リラックス状態)」へ導く占いや信仰(宗教)が、論理的でないからこそ頼りにされているのである。
その論理的でない宗教上の教義(無意識リラックス状態)を、【左脳域】の理性や論理を並べて「真言密教立川流は淫邪教である」と決め付けるのは実は次元の違う話である。



「真言立川流」は宗教であるから、【右脳域】の精神世界の事で、実は天孫降(光)臨の神話と同じ性格を持っていて、【左脳域】の理性や論理では眉唾物であっても、他の宗教の「奇跡」と同じで、救われる人間が存在したから成立し、しかも一時期かなり隆盛を見た宗派である事を前提にしなければならない。


宗教や占術(せんじゅつ)などは、時を経るに従って時代とともに体系付けられ、磨き上げられて大成して行く。
元を正せば権力者の政治利用であっても、定着すれば一応の意義を持つ。
つまり、綺麗事は為政者の統治の道具である。

平たく言えば、先人の【右脳的】発想に後世の人間が【左脳的】な理性や論理であれこれ理屈を並べてさもそれらしく作り上げたものである。
つまりそうした教義は、磨き上げられて重みが増して行くものだが、その過程でそれは一人歩きを始める。
陰陽師の布教した密教・妙見信仰も、一人歩きを始めればそれ自体が意志を持ち進化の過程を辿って行く。


北斗・北辰妙見信仰は、北極星が天体の中で不動の位置に見え、方位を示す「みちしるべ」として世界中で神格化され、その古代妙見信仰が五百年代から六百年代にかけて渡来人と伴に日本列島・大和の国に渡来した。
妙見とは「優れた目を持つ」の意味だが、この優れた目とは「見通せる」に通じ、役小角(えんのおずぬ)が成立させた初期の陰陽組織の修験道の「根幹を為す信仰」として活用された。

初期陰陽修験道は、有る密命を持って列島の隅々に活動範囲を広げて行く。
この密命が大王(おおきみ)の密命なのだがそれは後の章で記述する。
信仰が大衆に広まるには、【右脳域】の本能的無意識リラックスの救いが必要で、「俗」にまで降ろしてた教えでないと中々理解されない。
実はこの辺りの「俗」が妙見信仰が民衆に受け入れられた重要ポイントなのだが、妙見信仰には実にエロチックな内容の「祭事・北辰祭」が存在した。

北辰妙見信仰の「祭事・北辰祭」がエロチックな内容の為、それを理由に大和朝廷は七百九十六年(延暦十五年)に「風紀の乱れ」を理由に妙見信仰最大の行事「北辰祭(妙見祭)」を禁止する。
しかし本音の部分では「神を持って統治する朝廷」が、人心をコントロールできない新たな信仰に「危機感を募らせた」と言う事態の解消目的が「真相ではないか」とする学者が多い。

所が禁止から僅か十年余りで、八百六年に空海(弘法大師)が唐から帰国して高野山(和歌山県)に真言宗・総本山金剛峰寺を開山すると、北辰妙見信仰を取り込んで「妙見大菩薩」と言う真言密教の仏様に迎え入れる。
この空海(弘法大師)を朝廷が受け入れ重く遇した背景には、渡来宗教・妙見信仰を国家体制の中に組み込む目的があったのではないだろうか?
信者の居る既存の宗派がいきなり教義を変更するのは難しいが、先進国家である中華帝国から修行して帰国した空海(弘法大師)は、コントロールに苦慮していた妙見信仰を国家体制の中に組み込む事にもってこいの存在だった。

日本の真言宗が、真言陀羅尼(マントラダーラニー/しんごんだらに)を唱え、大日如来(本尊)を念じる教義であるが、実は空海(弘法大師)が中国大陸から持ち帰った教義を総合的に整理して教義とした為、空海(弘法大師)が持ち帰った教義の中に北辰妙見信仰と仏教が中国大陸で結び付いた「妙見大菩薩信仰/陀羅尼神呪経(妙見神呪経)」が含まれていたからである。

この北辰妙見信仰は、百三十年余り以前に初期の陰陽組織を成立させた役小角(えんのおずぬ)が起こした修験道と深く関わっていた為、真言密教と初期修験道は一体化して行き東密修験道は総本山金剛峰寺(真言宗)を本拠地に、そして同時期に帰国した最澄(伝教大師)が天台宗を創建すると同じく台密修験道として比叡山延暦寺(天台宗)を本拠地として融合する。

初期陰陽修験は、密教の到来と伴に真言宗・東密修験と天台宗・台密修験として僧と修験者の垣根が無くなり、修験者が僧に僧が修験者に教えを請う形で北辰妙見信仰は様々な教義を創設して新しい宗派を成立して行くのである。



平安時代末期から鎌倉時代、性交による即身成仏を説き、室町期から江戸期にかけて弾圧されて滅びた謎の宗教に「真言立川流」がある。
つまり性交に拠る快楽の極致が、即ち即身成仏の「極楽浄土だ」と言うのである。

こうした伝承を扱うに、現代の先入観を重視して安易な結論を出しては成らない。
真言密教立川流を、現代の倫理観で計る単純な発想で「淫邪教」と言うのは簡単である。しかしそんな事では推し量れない何かが、立川流にはある。

人間の認識など発想で変え得(う)るものだから、本来常識とか普通と言うものは本人が思い込んで居るだけで存在しない。
つまり、現実に則さない妖しげな「建前を信じる」と言う事は、その建前を簡単に信じる「オメデタイ連中」と言う事になる。
そもそも、右脳思考と左脳思考の二極面の性格を持つ人間に、思想や宗教で人間の欲心が抑えられる訳が無い。

現に、日本独特の「共生社会」の性文化を批判した西欧文化も裏面では不倫と売春の文化で、その辺りを念頭に物事の発想を始めないと、思考の柔軟性を自(みずか)ら縛る事になる。

性交相手に老若美醜(ろうにゃくびしゅう)を選ばない事が、観音菩薩や弁財天の慈悲の心である。
群れ社会(村落社会/共生社会)においては、この観音菩薩や弁財天がごろごろ居た事になる。

この素晴らしき考え方を、欧米文化の「罪の意識」に変えた事が、日本と言う国の村落社会から「共生社会」を取り上げ、群れ社会を消滅させて極端な私権社会に走り、「親子兄弟でさえも殺す」と言う殺伐とした社会を創造した。
つまり、「現代のこの世の合意認識が、正しい生き方だ」と言う確信など無いのである。


人間の「業(ごう/カルマ)」と言うものは本能の事ように言われるが、実は、「知性・理性」と言った余分な事を考えるように成った事こそ「業(ごう)」なのである。
何故なら、素朴な生物本能に「業(ごう)」何てものは存在しない。
客観的に見れば、本来、素朴な筈の性行為に、「煩悩(ぼんのう)」と言う特別な理由をつけたがるのが人間の悪い所である。

調理(料理)は、基本的な科学である。
人類は食べ物を調理(料理)する事を覚えて他の動物と比べ【左脳域(理屈と計算)】を格段に進歩させて来た。

それまでの【左脳域(理屈と計算)】は、獲物を前にして「戦う(闘争)か逃げる(逃走)か」の判断を迫られる緊急時の決断が主な【左脳】の仕事だった。
そして衣服で気候(寒暖の差)や外敵から身を守るようになると、【左脳域(理屈と計算)】で裸身に羞恥心を抱くように成った。

しかし人類は【左脳域(理屈と計算)】ばかりに価値観を偏重し過ぎて、滅びの道を歩んでいる気がしてならない。
近頃の「地球温暖化」も「少子高齢化問題」も、そして「教育問題」も【左脳域(理屈と計算)】ばかりの価値観で論じていては解決しないであろう。

とかく性に関する事と成ると、「考えるのも気持ちが悪い」や「口にするのも汚らわしい」と言う発言が出て、真面目な論議も無しに事を収めようとする。
こんな事は本音の部分で誰でも承知している事だが、現実を認めない感情論や建前論は正直意味が無い。

信仰(宗教)における性意識は、「個人の好き嫌い」と言った個々の感情が問題ではない。
誰にでも経験がある事だが、現実の人間はそれほど奇麗事ばかりで生活している訳ではない。
中には自分の悪事・悪行を棚に上げて奇麗事ばかりを言う者も居るが、大抵の人間は悪事・悪行を働いても善意も併せ持っている。
それ故に人々を悪事・悪行の罪の意識から救わねばならない。
人々を救わねばならないから、信仰(宗教)はその事に共通する「救い」の機能を持っている。

人間は普通に善人で普通に悪人、普通に清廉だし普通にスケベである。それらを併せ持つのが人間だから、そうした矛盾から救う事が宗教上の教えで、仏教に限ったものではなくキリスト教でも悪事・悪行を悔い改めて「懺悔(ざんげ)」すれば救いの手を差し伸べる。

そんな事を認めれば、悪事・悪行をしても「信仰(宗教)をすれば赦されるのか?」と批判されそうだが、実はその通りである。
裏返せば、信者の居ない信仰(宗教)は成り立たない。
人間、何らかのご利益が無ければ信仰(宗教)などしないのである。

弘法大師(空海)が真言宗の教えの中ではっきり言っているが、手に印を結び(手の指で種々の形をつくること)、口に真言・陀羅尼を唱え、心に本尊(大日如来)を念ずる事によって、仏の不思議な力により「煩悩にまみれた生身のまま成仏(即身成仏)出切る」とされてる教えが真言密教の理念である。
つまり鎌倉期以前の真言密教は「煩悩」を容認し、その矛盾する現実生身の人間の生き方を念ずる事で救うものだった。
そして現在に至る鎌倉期以後の真言密教は弘法大師(空海)が唱えた教えではなく、開祖・弘法大師が否定した儒教思想(朱子学)を取り入れた「修正真言宗」なのである。



醍醐寺は、京都市伏見区に在る真言宗醍醐派總本山で、国宝五重塔をはじめ数々の国宝・重要文化財を蔵する世界遺産である。

醍醐とは仏教用語で非情に手間の掛かる貴重な牛・羊乳化工品の食べ物で濃厚な肉汁の甘みを有する食べ物の事である。
醍醐味はこの貴重な牛羊乳化品の味を指し、それが転じて醍醐味は「貴重な」とか「真髄」と言う意味に転用されて、帝の名前(醍醐天皇・後醍醐天皇)や寺の本山の名前に用いられる様になった。

「真言立川流」を始めたのは見蓮(もくれん)と言う人物で、陰陽師を習得した真言宗の僧侶兼陰陽師だった。当然ながら見蓮(もくれん)は勘解由小路(かでのこうじ)党の手の者、草である。
見蓮(けんれん・兼蓮とも?)は伊豆に流されていた真言宗・醍醐寺三宝院の開祖・勝覚の弟・仁寛僧正に奥義を授かり真言密教立川流の開祖となる。

北斗・北辰妙見信仰に始まる「交合に寄る歓喜行(かんきぎょう)」は、日本の信仰史上に連綿と続いた呪詛巫女の神行(しんぎょう)であるから、真言宗の僧侶兼陰陽師だった見蓮(もくれん)が創始した八百万の神・陰陽修験と陀羅尼真言密教の習合教義である真言密教立川流に、その奥義が取り入れられていても「自然な流れ」と言える。


この真言立川流、今の時代ではとても理解されないが、当時、素朴な民衆を矛盾無く導く為に、性に対していたずらに禁欲をさせるより、「肯定した上で民意をリードしよう」と言う考え方があった。つまり宗教上、人類の「種の保存」と言う基本的本能をどう導き、どう処理するのかは、支持を得て信者を増やす為に、勘解由小路党としても重要な事だった。

しかし、真言密教立川流の教義に性交密義の教えが在る所から、同宗派の対抗勢力からその部分を突かれ、時の室町幕府からも敵対視されて室町期以後弾圧され続けて消滅した。

真言立川流の基本になった醍醐(だいご)寺三宝院の秘伝奥義を見蓮(もくれん)に伝授したのが、伊豆に流刑になっていた仁寛(にんかん)僧正である。この二人の出会い、偶然でも何でもない。伊豆に配流され、大仁に住まいし仁寛(にんかん)僧正の動静を探る為に、白河上皇に命ぜられた勘解由小路党の草、立川の陰陽師・見蓮(もくれん)が近付いて、ミイラ取りがミイラになった図式で有る。

勿論、見蓮(もくれん)は勘解由小路党の手の者であるが、見張るべき仁寛(にんかん)僧正は村上源氏流であり、同じ真言宗の僧籍最高位「阿じゃ梨」である。更に、仁寛僧正の兄の「勝覚僧正」は、真言系修験道の総本山である醍醐寺三宝院の開祖で、醍醐寺座主である。言わば尊敬してやまないあこがれの師の見張をさせられた様な物で、見張ると言うより直ぐに心服してしまった。つまり、結果は最初から判っていた様な物である。

真言密教立川流の始祖と言われ、立川流開祖見連(もくれん)に奥義を授けた仁寛(にんかん)僧正の伊豆配流が、永久元年(千百十三年)と言うから、八幡太郎源義が「後三年の役」と言われた奥州攻めを公務と認められず、自腹で恩賞を配り、寂しく没してから数年後の事である。

仁寛僧正は、村上天皇の皇子、具平(ともひら)親王の子師房(孫)が臣籍降下して源氏朝臣を賜姓し、始まった村上源氏の血を引く、有力貴族の出自である。
仁寛は、後三条天皇の遺命により第三皇子輔仁(すけひと)親王の「皇太弟(幼少よりの側近)」として祖母から英才教育を受けていた。余談だが紫式部が源氏物語に登場させた「光源氏」のモデルは、この具平(ともひら)親王説がある。

仁寛の父はその村上源氏の嫡流の源俊房で、左大臣の位を持っていた。また叔父の顕房は右大臣、従姉妹の中宮賢子は白河天皇(第七十二代)の皇后で堀河天皇(第七十三代)の母にあたる。正に権力の中枢に居る皇統出の高級貴族なのだ。仁寛の兄の勝覚は、真言宗の歴史の中でも大変に重要な高僧である。と言うのも、彼こそが真言系修験道の総本山である醍醐寺三宝院の開祖で、醍醐寺座主である。

仁寛は、この兄の勝覚の弟子となり、真言宗の教学を学び、真言宗の僧の最高位である「阿じゃ梨」となる。
そして、後三条天皇の第三皇子で、天皇位につく事が確実視されていた輔仁(すけひと)親王の護持僧となるのである。

後三条天皇は、摂政、関白を独占していた藤原氏一族を遠ざけ、左大臣に源俊房、右大臣に源師房を就任させた。
村上源氏を取り立てる事で、中臣(臣王)藤原氏に対抗する皇統重視の権力独占を図って天皇親政へと向かい、院政の時代が始まる。

後三条天皇(第七十一代)は自分の次の天皇として皇子白河天皇(第七十二代)を据え、同時に、その次の天皇には、白河天皇の弟にあたる先の第三皇子輔仁(すけひと)親王を据えるように遺言したのである。しかし、白河天皇は色々と理由を付けて自分の幼い子の堀河天皇(第七十三代)を据えた。
所謂(いわゆる)「白河院政」の始まりである。

白河上皇は、堀河天皇即位の時周りを納得させる為に、「次には輔仁(すけひと)親王を天皇位につけてやる。」と約束していた。しかし、堀河天皇が夭折すると、約束を破りわずか五歳の鳥羽天皇(第七十四代)を即位させてしまう。自分の院政の権力を守る為に、父の遺言時の約束とその後の弟との約束を、二度も反故にしたのである。

この時、村上源氏の一族は、輔仁(すけひと)親王が天皇位に就く事を期待して親王を支持していた。それに、村上源氏の源俊房を左大臣、弟の顕房は右大臣と優遇してくれた「後三条天皇(第七十一代)の遺言」が反故にされては当然不満である。
この為に勘解由小路党は、白河上皇の命令で、意に沿わない仕事をしている。

仁寛僧正の伊豆流刑は、実は余りにも不可思議な事件が発端だった。
所謂「千手丸事件」である。

鳥羽天皇(第七十四代)が即位してから六年後の千百十三年の事である。白河上皇(第七十二代)の内親王・令子の御所に匿名の落書が投げ込まれた。
内容は「輔仁(すけひと)親王と村上源氏が共謀して天皇暗殺を計画している」と言うものである。更にこの落書には、「暗殺実行犯として、千手丸なる童子の名が書かれていた。この千手丸は、醍醐寺三宝院で仁寛の兄の勝覚に仕えていた稚児だった。

稚児小姓(衆道)の習俗については、当時は一般的だったが現代の性規範(倫理観)ではドラマ化し難いから、お陰で誠の主従関係が「互いの信頼」などと言う綺麗事に誤魔化して描くしかない。
しかし現実には、稚児小姓(衆道)の間柄を持つ主従関係は特殊なもので、主の出世に伴い従が明らかにそれと判る「破格の出世」をする事例が数多い。
それが「世の習い」と言うもので、「臭い物には蓋をする」と言う建前主義者が悲鳴を上げて卒倒するかも知れないが、歴史の真実を炙り出すには深く切り込まざるを得ない。

稚児小姓の歴史は古く、奈良時代の僧侶に拠って「宗教的な意味合いで男児(少年)と交わった事が最初である」とされている。
それが平安時代には、公家や僧侶とやがては武士と言った氏族全般に一種のステータスとして稚児小姓の愛玩風習が広がり、鎌倉時代から明治維新まで習慣として残っていた。

稚児(ちご)を寵愛する風習の原点は、古来から伝わる我が国の自然信仰に有る。
「神霊は幼い子供の姿を借りて現れる」と言う自然信仰の下、神が降りる為の仮の肉体として「尸童(よりまし)」または「依憑(よりわら)」と呼ぶ稚児の肉体を「神仏の顕現」と見なす宗教的側面が在った。

少年を「神霊の化身」とし、稚児を「尸童(よりまし)または依憑(よりわら)」と言う神が降りる状態にする為の肉体的交わり自体を神聖視する信仰が日本の男色の風習の背後に存在した。

古来より東大寺、法隆寺、園城寺、興福寺など近畿を中心とした寺院や貴族の間で法会や節会の後の遊宴で猿楽、白拍子、舞楽、風流(ふりゅう)、今様、朗詠などの古代から中世にかけて行われていた各種雑多な芸能が「延年」と言う名で括られて演じられていている。
その「延年」の演目には稚児(ちご)も出るのが特色で、鎌倉時代には「乱遊」とも呼ばれた「延年」にて稚児舞(ちごまい)を舞った少年が、指名されて僧侶と同衾(男色/衆道)する事が行われた。

この辺りを観てしまうと、どこまでが信仰心か疑わしく、むしろ遊興の口実の一環として信仰に結び付けられ「稚児との男色(衆道)の交わりが為されていた」と考えられる。

当時の神道や仏教界の「信仰要素」として、稚児(ちご)は男色(衆道)の交わり相手で、当然ながら「千手丸事件」の千手丸は勝覚僧正の寵愛を得ていた事になる。
つまり稚児との男色(衆道)の交わりは神道や仏教界の「信仰要素」として始まって、奈良・平安時代にはかなり広く仏教界に広まり、さらに公家などの貴族や武士の間にも、美しい少年を傍に召し使わせる風習が広まって行き、特別に寵愛を得た美少年の小姓は、誓約(うけい)臣従の証として閨で夜伽の相手(男色/衆道)もする「稚児小姓」と成った。

院政期の院(法皇・上皇)の近臣達は稚児上がりの者も多く、「院と深い関係を持って居た」と言われ、藤原頼長の「台記」には当時の皇室・朝廷関係者のその奔放な男色関係の多くが描かれている。

豊臣秀吉の小姓から凡(およそ)そ二十万石の大名に立身した石田三成も、秀吉と出会ったのは寺(観音寺)で稚児小姓をしながら手習いをしていた十五〜十八歳の頃の事で、秀吉が休息に立ち寄って三成を見出した事に成っている。

後の創作ではあるが、この出会いを題材に世に有名な「三献茶」の秀才・三成らしい「気働き」の挿話が残っている。
しかし、石田三成が「稚児小姓」として秀吉に気に入られ、観音寺の僧侶から譲り受けられたのであれば、休息に立ち寄った寺(観音寺)で秀吉に献じたのは三杯の茶では無い事になる。

余談だが、この時代の僧侶に仕える稚児は衆道(男色)の相手を務める事が普通だったから、千手丸は高僧・勝覚僧正に愛玩されていた少年で、村上源氏の一族を牽制する為のスキャンダルとしては申し分が無い。
つまりこの「勝覚僧正と深い仲の衆道(男色)稚児」と言うのがポイントで、現在の「僧院に仕える千手丸なる只の童子」と言う感覚で千手丸の存在を捉えると状況を見誤る。

当然の事ながら、勘解由小路党と醍醐寺は同じ密教修験として深い繋がりがある。しかし白河上皇の命は無視できない。
そこで妥協案を考え、仁寛(にんかん)に犠牲になってもらう最小範囲の連座に止める事にした。

千手丸は検非違使に捕らえられて尋問の末、「仁寛に天皇を殺すように命じられた」と白状した。
仁寛僧正も捕らえられて尋問を受け、当初仁寛はその暗殺指示を否認したが、六日目には自白させられている。

仁寛は伊豆に、千手丸は佐渡に流罪となった。

それにしても、この事件は不自然極まりない。「天皇暗殺計画」と言う普通なら親族縁戚に至るまで類が及ぶ大事件にも関わらず、何故か罰を受けたのは仁寛と千手丸だけである。

この事件によって、輔仁親王と村上源氏の力は大きく削がれたが、二人以外特に罰は受けていない。千手丸の師、勝覚僧正すらお咎めは無かった。
仁寛の取調べの時も、白河上皇以外の公卿達はあまりにも見え見えの茶番劇に「全く処分をやる気の無い様子だった」と言う。それに、「暗殺計画自体が余りに杜撰過ぎる。」と言うのも、勘解由小路党の仕事に最初から手抜きがあり、逃げ場を作っていたからである。

要するに、これは白河上皇(第七十二代)が「自らの院政継続の為に仕組んだ陰謀だったのではないか?」と言う事だ。邪魔な輔仁(すけひと)親王と村上源氏の力を削ぐ為に、嘘の自白をさせ、事件をでっちあげたが、流石に輔仁(すけひと)親王達には直接手を出さず「仁寛(にんかん)だけを罰した」のは、修験道・勘解由小路党の「組織力に遠慮した」と憶測される。

仁寛僧正が伊豆配流後僅か五ヵ月ほどで断崖から身を投げた背景は、わが身の不幸を嘆いたのでは無く全てを一身が背負う事で天皇家のお家騒動を決着させ、輔仁(すけひと)親王と村上源氏一門を温存する計算が働いた上の覚悟の自害だったのではないだろうか?


見蓮は、理論的な真言密教と陰陽道の真髄を仁寛(にんかん)に教わった。
星辰信仰の上に立脚した陰陽五行(木・火・土・金・水)の自然哲学思想の講義である。この真言宗や天台宗の密教教えと、日本古来の山岳信仰・神道などが結びついて、修験者(しゅげんじゃ)が生まれた。そして、初期修験道が目指した性(生命パワー)による呪詛の教義も、進化して行った。


修験道の祖神は八咫烏(ヤタガラス)である。八咫は当時尺度を示すが、意味としては「大きい」を表現している。八咫烏(ヤタガラス)は古代中国の信仰では、太陽の中にいる「巨大なカラス」だと言われている。日本では神魂命(かみむすびのみこと)または「かもたけつの命」と呼ばれ、「熊野大社に使わされた」と、神話に有るそうだ。知恵と導きの神と言われている。

役小角(えんのおづぬ)は「八咫烏(ヤタガラス=かもたけつの命)」の子孫である。修験道には役小角(えんのおづぬ)を祖とし天台宗の本山派(天台山伏)、真言宗の当山派(真言山伏)などがある。修験者とは、修験道を修行する人で、山伏とも言い、修験道とは高山などで修行し、呪術(呪詛・まじないの力)を体得しようとする宗教である。修験道の祖「役小角(えんのおづぬ)」は修験道系密教の祖と言われる人物で、後に神格化されてしまっている。

ただし、役小角(えんのおづぬ)は間違いなく天武大王(おおきみ/天皇)の御代現実に居た人物で、文献にも残っている。
「役君小角(えんのおづぬ)」は初め葛木山(葛城山=かつらぎさん)に住み、呪術をもって称えられたが、弟子の韓国連広足(からくにのむらじひろたり)に、ざん訴され、伊豆島に流された」とある。その後赦されて、都に舞い戻るが、伊豆半島には「(旧)賀茂郡」と言う土地の名称が未だに存在している。

この伊豆配流、その後修験道が朝廷の機関「陰陽寮」に組見込まれる経緯から考えると、額面通り受け取れない。もしかすると、「役小角(えんのおづぬ)」が、伊豆半島に立て籠もった「蝦夷族反乱の掃討作戦」に、秘密裏に出陣していたのかも知れない。または、我輩の主張通り、「葛城氏発祥の地」伊豆に潜り、秘密諜報組織「陰陽師」の組織化を進めていたのかも知れない。

前者の場合を考察すると、何故こうした「報道の統制が行われるか」と言うと、伊豆の蝦夷族反乱が全国の一斉蜂起に繋がる恐れがあり、局地戦に留める為には、その事実さえ覆い隠す「政治及び軍事的配慮の必要性があった」と考えられる。

藤原南家の氏族大量投入は伊豆支配の再構築であり、伊豆葛城山、伊豆の賀茂郡の名が残ったのは、「大和朝廷の支配が届いている」と言うアピールの為では無いのだろうかとも考えられる。
しかし、そんな事は「在り得ない」と我輩は考える。後者の方が合理的だからである。

後者の場合であれば、文字通り秘密組織をホームグランド(地元)に帰って、賀茂一族の身内主体に、「秘密裏に組織する必要性があったからだ」と考えられる。
我輩の推測は、この後者の立場を採っている。何故なら、身内主体に組織する理由は、組織の秘匿性であり、目的に秘匿性があったからである。そして、何にも動かされない伊豆七島から三島までの賀茂・葛城の史跡が存在する。


小角(おずぬ)の生まれた家の氏は「賀茂役君(かもえのきみ)」と言い、後に奈良(都)で賀茂神社を奉る賀茂氏の流れである。
従って、小角(おづぬ)は賀茂氏流れの血筋と言う事にある。上・下賀茂社の社家・鴨氏は、山城国葛野郡賀茂郷に在住した土豪・鴨県主(かもあがたぬし)の後裔である。

皇室の神鳥、八咫烏(ヤタガラス)にまつわる有名な話としては、「神武天皇が東征の折、熊野山中で道に迷い、八咫烏(ヤタガラス)が大和までの、熊野路を先導して功績をあげ、案内をした場所に「大和朝廷は成立した」と言う伝説がある。
その後、その八咫烏(ヤタガラス)が「鴨県主(かものあがたぬし)の遠祖となった」とする伝説で、「鴨県主(かものあがたぬし)」が賀茂・葛城氏の事である。


紀伊半島・奈良一帯が日本史に重要な土地とされた訳は辰砂(しんしゃ)の存在に負う所が大きい。
辰砂(しんしゃ)の名の由来であるが、中国の辰州(現在の湖南省近辺)で多く産出した事から、「辰砂(しんしゃ)」と呼ばれるようになった。

日本では魏志倭人伝の邪馬台国にも「其山 丹有」と記述され、弥生時代から産出が知られていて奈良県以外でも徳島県、大分県、熊本県などで産する鉱石鉱物である。

辰砂(しんしゃ)は硫化水銀類からなる鉱物で、別名に赤色硫化水銀、丹砂、朱砂などがある。
水銀は毒性が高いと言われているが、それは有機水銀や水に易溶な水銀化合物の事で、辰砂(しんしゃ)のような水に難溶な化合物は「毒性が低い」と中国医学では考えられ「朱砂」や「丹砂」等と呼び、鎮静、催眠を目的として、現在でも使用されている。
ている。

古来日本では「丹(に)」と呼ばれ、赤色(朱色)の顔料や漢方薬の原料として珍重されている水銀系の重要な鉱石鉱物だった。
辰砂(しんしゃ)は透明感のある深紅色の菱面体結晶、或いは不透明な赤褐色の塊状として産出し、錬丹術などでの水銀に精製された。

奈良県宇陀市榛原区の八咫烏神社は鴨建角身命(かもたけつのみのみこと)を祭神としている。
八咫烏(ヤタガラス)は、紀伊半島を勢力圏としていた豪族・丹生氏が、神武天皇に味方した事を指していると、言われている。

賀茂氏の方はその八咫烏(ヤタガラス)神魂命(かみむすびのみこと)の祭祀を司る賀茂神社を奉る祠官である。
紀伊半島では、丹(辰砂・水銀)が採れた。その丹を司(つかさど)るのが、丹生(たんじょう)氏である。この辰砂(水銀)に目を付けて高野山を真言宗の本山としたのが、弘法大師(空海)であった。

当時、水銀は大変利用価値のある産物で、まず薬として使われ、ついで朱(赤色)が得られるため塗り物に使われ、次に金の精製に使われるなど貴重なものであった。日本の古くからの「**丸」の対抗として存在する「**丹」は、この水銀が薬として使われた名残である。

従って、当時「辰砂」の産地を押さえる事は、大きな力を得た事であった。つまり、弘法大師には「辰砂(水銀)」を背景にした資金力があった。それで、真言宗は信徒の懐を当てにする事なく全国に寺を展開して、急速な布教が出来たのだ。

そして仁寛(にんかん)は、伊豆の大仁に住まいし真言宗の僧侶で、陰陽師だった見蓮(もくれん)に、真言密教の秘伝「歓喜法」を授けた者である。
陰陽師だった見蓮(もくれん)の方は、表向き修験道の祖「役小角(えんのおづぬ)」の所縁の地、伊豆の賀茂郷を訪れ、大仁の里で仁寛(にんかん)にめぐり合っていた。

悠久の時を経て、命を繋いで来たのは生きる者の「本能」である。
その本能を、愚かにも文明人は「嫌らしいもの」として「否定する事が文明」と思い続けている。
入り口を間違えては、如何なる発想も正しき答えは導き出せない。

しかしこの考え方、中国から密教を持ち帰った時点では、弘法大師(空海)も伝教大師(最澄)も勿論持っては居なかった。
簡単に言ってしまえば、最新鋭の仏教である密教が日本に渡来以後、編成作業の発展段階で密教に解釈上の違いが生じたのである。


弘法大師の開いた真言宗の教えの中に見られる密教には、「超人的修行」による呪力で人を救おうと言う教義があった。
仁寛に限らず高野山系の僧達の多くも、鎌倉時代末期近くまではこの男女交合の「秘術」を理念としていた。

仁寛は、鳥羽天皇の暗殺を謀ったとして、捕らえられて、「伊豆大仁」に流されていた。言わば、政治犯の流人である。
そこで陰陽師修行中の見蓮に出会い、醍醐三宝院流秘伝の奥義を伝授されたのだ。

古書によると、元々伊豆島(半島)は、修験道の祖「役小角(えんのおづぬ)」が配流され、賀茂郡の名が残ったほど陰陽師・所縁の土地である。
しかし、今後記述する伊豆七島に端を発する賀茂氏の伊豆半島支配の経緯を見ると、この配流が皇統交代の事実を隠す後世のカモフラージュであり、賀茂氏の「旧本拠地」と言う事になる。

裏を返せば、勘解由小路党の血縁者も残る特異な土地柄で有る為、警備上容易だった事から、「しばしば政治犯の流刑地に当てられた」と、考えられるのだ。後に源頼朝が配流されたのも、この慣習に機械的に拠った為で有る。


現代的に理解すると、仏教の教えは殺生を禁じている。神の教えも平穏(平和)を願うものだ。
しかしながら、神官は武士であり、仏教僧も武士だった。

今日の現代人が神官や僧侶に対する既成概念で間違い易いのは、主として江戸期以降の分業化した身分制度の神官や僧侶を想定する所である。

本書で何度も記述している通り、室町期の末期までは公家や武士は言うに及ばず神官や僧侶も氏族の特権的な身分で、公家や武士とは兼業みたいなものであるから修験道師、東蜜・台蜜の両修験坊も氏族の出自で、祝詞(のりと)や経(きょう)を読みながら京八流の流儀を基本として派生した剣術武術の鍛錬にも余念が無かった。

上杉謙信も武田信玄も入道(仏門に入る)してまだ戦(いくさ)をしていた。九州の大友宗麟は仏門に入った後、キリスト教に宗旨変えしてもまだ戦(いくさ)をして居る。
現代風に信仰を解釈すると、一見「言動不一致」に見えるこの状態、実は当時の思想からすると何の不思議も無い。

現代人の宗教観とは合致しないであろうが、本来、いずれの宗教も「現世利益」が基本である。
つまり他人の事はどうでも良く、祈る者だけに「利を与える」のが元々の教義だった。
それ故、「祈れば勝利を得られる」と現世利益を願って信仰するものであるから、戦(いくさ)で他人を殺生する事に何の矛盾も無い。

これが変化したのは江戸期に入って以後、徳川幕府の政策で「神仏混合策」がとられ、神と仏が生死分業になり、仏教が主に死後の世界を担当するようになって初めて、仏の道と殺生を禁じる事が結び付いた。

本来、信者の本音で言えば「現世利益」が無い信仰など魅力がある訳が無い。
従って、近・現代に於いて「教えが改善された」と言えばその通りだが、元々の信仰はそんなに立派なものではなく、自分の「利」の為に祈るもので、呪詛的には「相手を呪い殺す願い」をも受け入れる事が「信仰(宗教)の実態」と言って良かったのである。

この辺りを理解すると、個人の「現世利益」の考え方から、極楽浄土に「性的な境地」が結び付く教義「真言密教立川流」に、現実感が出て来ても不思議ではないのである。


常識的に見て、密教経典の意味解釈は、解釈する側の意志で加工が可能である。
弘法大師(空海)が日本にもたらせた密教は、やがて日本で加工されて行ったが、その原点に近いものがインド・ジャンム・カシミール州最大の地方「ラダック(Ladakh)」に残っている。

かつて独立した仏教王国であったラダックは、ジャンム・カシミール州の東側半分以上を占めて、パキスタン、中華人民共和国との国境に接し、アフガニスタン北部にも近い位置に存在する。
十七世紀、ダライ・ラマ五世による侵略計画によりチベットとの関係が崩れ、それに乗じてカシミール王国がラダックを併合する。

その後英国がインド全域を領有した為、ラダック王国は英領インドの一部を経て国土がインド、中華人民共和国、パキスタンに分割されている。
このラダック地方の土着宗教がタントラ教の影響を受けた密教で、いわゆるチベット仏教である。
ラダックには多数の仏教寺院、ゴンパがあり、全人口が敬けんな仏教徒である。

釈迦生誕の地に近く、「真言・天台両宗の源流」とも言える「敬けんな仏教徒の地ラダック地方」には、つい近代の英領インド時代に禁止されるまで「一妻多夫」の習慣があり、一人の妻を兄弟で共有していたが、それはチベット仏教においては「けっして教えには背いては居ない」のである。
つまり密教において、性はかなり「おおらかな扱い」であり、現在の日本人が意識する厳しい戒律は「無かった」のである。



信仰(宗教)や性をテーマにするにあたって、我輩はそれらを否定や肯定する為に書いているのではない。
我輩の文章を調べてもらえば判るが、どちらかと言うと我輩は無神論者なのだがそれを他人に押し付ける気は無く、信仰(宗教)や性のパートナーの存在で、精神が救われる人間は多い筈であり、何を信ずるかは各々の勝手で有る。
信心におけるプラスもマイナスも性に絡むリスクも、その責任は各々にある。

自分と「価値観が違うから」と言って、相手の価値観を「間違った考え」と頭から決め付けてはいけない。
そこから軋轢(あつれき)が始まり、争いになる。

いかなる価値観にもそれなりの理屈がある。
冒頭で申し上げた通り、「姦淫は即ち悪である」と言う先入観は発想の落とし穴に成る。

この先入観から【真言密教立川流】の評価に入り「淫邪教」と切って捨てる安易な建前主義者が居るから、【左脳域】に偏重した人間ばかりのストレス社会が如何(いか)にもまともな事のように成ってしまった。

元来性行為と言うものは、単に「男女が交われば良い」と言う即物的なものではない。
そこには精神的感情が介在する。それも複雑で、一口に「愛」とばかりにかたずけられない。

性交の本質は、想像力をたくましくして、被虐心、加虐心、羞恥心に触覚、聴覚、視覚を駆使して、初めて上等な性感を得る。
つまり【右脳域】の本能的無意識の境地に入る為の「行」として捉えるのである。

人間の感性は複雑で、あらゆる情報を脳で処理する事で結論を導き出す。
従って、性的快感も単純ではなく、それに拠る精神的癒し効果も認められる。
つまり、性と精神はリンクしていて、人格の形成にも関与する重大事項と言えるのだが、これを「無理やり離して考えよう」と言う間違った傾向がある。

喜怒哀楽は人間の基本的な感性で、【右脳域】の思考である。
その内の「喜」を以って「楽」を為すのが、密教における性交呪詛所謂(いわゆる)「歓喜法」に拠る「極楽浄土」の境地である。

人間は、性行為や食事、音楽や映像鑑賞の際に「ベータ・エンドロフィン」と呼ばれる快感ホルモン物質を分泌させ快感を得る。言うなれば、宗教行為と性行為、音楽の演奏などは、ある意味同質の目的、快感ホルモン物質の分泌を促す為にある。

「歓喜法」に付いては、「性は生に通じる」と言う考え方から、「精気をよみがえらせる」、つまり気力をみなぎらせる呪力があり、生理的に、まんざら出鱈目ではない。
道徳的には意見があろうが、体調としては、抑制する事が良いとは限らない。

だいたい、日本人も二枚舌で、以前第一次南極観測越冬隊に「南極二号」と言うダッチワイフを携行した時は、建前上の批判的ではなく、「さもあろう」と、そうじて本音の理解を示している。

宗教に陶酔したり、音楽に聞き惚れたり、視覚、嗅覚、五感の刺激がこの快感ホルモン物質の分泌を促すのなら、人は神の教えで救われても不思議はない。
それを経験的に学習しているから、いかなる宗教にも音楽や雰囲気創りの演出は付き物で、そのトリップ状態は、けして否定すべき物でもない。

言うなれば、宗教行為と性行為が合体した真言密教立川流は、「究極の奥義」だったのではないだろうか?
この快感ホルモン物質がモルヒネと同じ作用を持つ「脳内麻薬」で、精神的ストレスの解消と肉体的老化防止の特効薬であり、必要なホルモン物質なので、健康な性行為の抑制は必ずしも人間の為にはならない。

当然の事ながら、気の持ち様で「自然治癒力が増す」などの奇蹟は現に症例が多いから、宗教の奇蹟も存在する。真言密教では、この生物反応的効能を肯定して、「修験道に活用しよう」と考えた。

快感ホルモン物質が大量に分泌されると、人間はトリップ状態になる。従ってかがり火の燃え盛る呪詛の場で、陀羅尼・呪文(オンマニ・ペドフム)が流れる荘厳な雰囲気の中、激しい性行為を繰り返す事によって、常人には無い激しい反応を見せる。

それが呪詛の効果で、真言密教で言う所の「極楽浄土」である。その状態が「呪術の効果をもたらす為に必要だ」としていたから、立川流は成立した。

それにしても、呪詛の為に身体を提供して「歓喜法」を体現する呪詛巫女の存在は、現在の感覚では理解が難しい。
しかし、密教の教えの詰まる所は「空(くう)」である。
空(くう)に私心は無い。
有にしても無にしても、そこには私心が介在するから、空(くう)に成れば、如何なる行(ぎょう)を求められても、それを不条理と思う事は無い。

実は、「気」も、奇跡と扱うには「ペテン染みた」物理現象である。
言わば、思い込み(既成概念)と言う物差しを外した所に奇跡とも思えるパワー現象が生じる。
しかし、そこに到達するには、「空(くう)」が要求されるのである。
その「空(くう)」に、成りおおせないのがまた、人間である。


行(ぎょう)を施され、呪詛巫女が空(くう)に及ぶには、その行(ぎょう)の厳しさに相応の覚悟が要る。
女性の身体は不思議なもので、縛り上げて三日ほど変わる変わる攻め立てれば「脳で考える気持ち」とは別に、身体が性交の快感を覚えてしまう。

つまりそちらの感性は【右脳域】の本能的無意識が覚醒するからである。
そうなればしめたもので、女性から呪詛(性交)に応じる様になり、滞りなく行える呪詛巫女が完成する。当初の呪詛巫女の仕込み方は大方そんな処である。

呪詛巫女の確保については多くの方法がある。
その一つが、前述した律令制における被差別階級として賤民(せんみん)の利用である。
奴婢(ぬひ)として地方の豪族が所有し、基本的に家畜と同じ所有物扱いの私奴婢(しぬひ)呼ばれる身分の者の中から「婢(ひ)」の身分の女性奴隷を選び出し、執拗に性交を施して極楽浄土を体現させ、呪詛巫女に仕立て上げた。
実はもう一つ奇抜な方法も存在するが、その代表的なものを後ほど第四巻の冒頭で詳しく記述する。


八百六年(大同元年)、ちょうど桓武天皇が崩御し、第一皇子が平城天皇として即位(八百六年)の準備をしていた頃、唐から帰国した空海(弘法大師)は高野山(和歌山県伊都郡高野町)に真言宗・総本山金剛峰寺を開山する。
空海(弘法大師)の教えは、身に印契を結び(両手の指を様々に組み合わせる事)、口に真(真実の言葉)を唱え、心に本尊(大日如来)を念ずる事により「即身成仏(煩悩にまみれた生身のままでも救われる)に成る事ができる。」としている。

空海(弘法大師)が唐から伝えた経典の一部に、密教がある。

密教とは、「深遠な秘密の教え」の意味で日本では主として真言宗(東密)、天台宗(台密)と結び付いて発展した。手に印を結び(手の指で種々の形をつくること)、口に真言・陀羅尼を唱え、心に本尊(大日如来)を念ずる事によって、仏の不思議な力により「煩悩にまみれた生身のまま成仏(即身成仏)できる」とされている。
つまり本能(煩悩)で汚れた人々を、「真言・陀羅尼を唱える事で救う」と言う教えである。

この真言宗の教えの中の密教と日本古来の山岳信仰・神道などが結びついて、修験者(しゅげんじゃ)が生まれている。
修験者とは、修験道を修行する人で、山伏とも言い、修験道とは高山などで修行し、呪術(呪詛・まじないの力)を体得しようとする宗教である。
当然の事ながら、陰陽修験は呪詛を使う。
呪詛の目的は、それを行なう事に拠ってあらゆるものを操ろうとするものである。

修験道には、役小角(えんのおづぬ)を祖とし天台宗の本山派(天台山伏)、真言宗の当山派(真言山伏)などがある。
弘法大師(空海)、伝教大師(最澄)達が、我が国にもたらした密教は、強力な「現世利益の秘法」であったのだ。

本来の仏教は祈りによる現世利益で、まずは手っ取り早く長生きや裕福と言った幸せを願う物だった。
この現世利益については、現在の中国式寺院にその面影を見る。お金に見立てた寺院発行の紙の束を、供え物として火にくべ、金持ちに成る様、先祖に祈るのだ。そうした教えが、真言宗の密教として伝えられ、日本古来の山岳信仰・神道などが結びついて、陰陽修験の呪詛を使う真言密教・立川流が成立した。


真言密教・立川流は陰陽修験の呪詛を使い、あらゆるものを操ろうとしてその呪詛の手段に性交の行を採用した。
立川流の教義は、真言宗の「即身成仏・即事而真(そくじにしん・物そのものが真実)」、「当相即道(とうそうそくどう)」の意味は、「ありがたちそのままが理想」と言うであり、つまり「自然の欲望(煩悩)は自然な事である」としている。

「本有平等(ほんぬびょうどう)」の意味は「本来もっているものが皆同じく真実を宿す」という真言を、男女二根の交会、淫欲成就の妙境をそのまま「即身成仏の意味」に解したもので、ごく自然な人間の命の営みを、素直に容認したものである。

この教義の根拠として「首拐厳経」、「理趣経」などが用いられて、なかでも「理趣経」の十七清浄句の、「欲望は浄らかなり〈大楽の法門〉」と言うその教えは「一切の法は清浄なり」と言う句門であった。
この時点で、愛欲に対する罪悪の考え方はまったく存在しない。
「一切の法(手段)は清浄なり」を「男女の性交も清浄なり」と解すれば、良いのである。

如来(にょらい)は十七の清浄なる菩薩の境地を挙げて、男女交合の「妙適なる恍惚境」も、欲望、箭の飛ぶ様に速く激しく働くのも、男女の触れ合いも異性を愛し堅くい抱き、男女相抱いて「縛(しば)ごう」と満足するも世の一切に自由である。
男女相抱いて「縛(しば)ごう」と満足するも世の一切に自由とは、解釈の仕方では現代で言うSM的な行為まで性愛の形として肯定している。

つまり、欲望に身をゆだねて「恍惚境」に入る事を、真言密教は教義として肯定しているのである。
それはそうだろう。禁欲主義は生き物としての最も基本的な「種の保存本能」に矛盾している。


「全ての主である様な心地となる事」、「欲心をもって異性を見る事」も、また、男女交合して「適悦なる快感を味わう事」、男女の愛、これらの全てを身に受けて生ずる「自慢の心」も、ものを荘厳る事、全て思うにまかせ「意滋沢ばしき事」、満ち足りて光明に輝く事も、身体の快楽も、この世の色も、香も、ものの味もまた清浄なる菩薩の境地であると、立川流では、全てのものをその本質において積極的に肯定している。

つまり色欲の煩悩を含めて、人間の存在が完全に清浄なもの、菩薩のものとして肯定されており、性欲肯定の句として知られている処である。

何が故に、これらの欲望の全てが「清浄なる菩薩の境地」となるのであろうか。

それは、菩薩が人々の【右脳域】に存在し、これらの欲望を始め世の一切の法は、「その本性は清浄なものだからである」と、自然に存在する性的欲望を菩薩のものとして肯定しているからである。
故にもし、真実を見る智慧の眼を開いて、これら全てを「あるがままに眺める」ならば、人は真実なる智慧の境地に到達し、全てに於いて「清浄ならざるはない境地」に至るのである。


真言宗開祖・弘法大師(空海)は、仏教とは異教である儒教を廃してその禁欲思想に攻撃こそすれ認めてはいない。
儒教の抑制的な考え方は人間の本質と矛盾する教えであるから、現実に起こり得る様々な事象を闇に葬るばかりで結果的に「在る事」を「無い」と建前で覆い隠すに過ぎず、何ら解決には至らないからである。

ところが、後ほどこの章で記述するが後世の真言宗僧侶達は時の権力におもねり、開祖・弘法大師(空海)の教えを翻して儒教の抑制的な考え方を取り入れて真言密教の王道たる立川流を「淫邪教」と廃し始め、弾圧の挙句その存在まで闇に葬った。

愛欲は生きる事の一部であり、後世に血脈を引き継ぐ原点である。
開祖・弘法大師(空海)が「あるがままに眺める」とした真言宗の抑制的改宗は、信念とは別の御都合主義の為せる業で教義を変節したのであり、人間の本質として必ず「在る事」を「無い」と建前で覆い隠して対処を放置する事こそ、現実に正面から向き合わない「邪教」ではないのか?


立川流の経典は理趣経(りしゅきょう)を習している。
そして呪詛を使い、あらゆるものを操ろうとしてその呪詛の手段に性交の行「歓喜行」を採用した。

邪神とされる荼枳尼天(だきにてん)を拝し、特に髑髏(どくろ)を本尊とする為、世間から邪教と解される原因と成っている。
確かに、髑髏(どくろ)の存在は「死と言う現実」を見せ付けられるものであり、並みの人間で有ればそれだけでも不快に感じるのは事実である。

また、髑髏(どくろ)には生前のその持ち主の魂が宿っていそうで、精神的には犯すべからぬ畏怖の対象であるから、その辺りの抵抗感が存在して、違和感が生じても不思議はない。
にも関わらず、立川流が髑髏(どくろ)を本尊としたには、こうした精神的な意識に元付く既成概念そのものを、共通して一気に変革させる狙いを試みていたのではないのだろうか?


立川流の髑髏(どくろ)本尊は大頭、小頭、月輪行などの種類があり、この建立に使われる髑髏は、王や親などの貴人の髑髏、縫合線の全く無い髑髏、千頂と一千人の髑髏の上部を集めたもの、「法界髏(ほうかいろ)」と言う儀式を行って選ばれた髑髏を用いなければならない。

その様に選ばれた髑髏(どくろ)の表面に、女人の協力を得て、性交の際の和合水(精液と愛液の混ざった液)を幾千回も塗り、それを糊として金箔や銀箔を貼り、更に髑髏の内部に呪符を入れ、曼荼羅を書き、肉付けし、山海の珍味を供える。 しかもその七日七晩に及ぶ壮絶な「歓喜行」の間絶え間なく本尊の前で性交し、真言を唱えていなければならない。

こうして約七年間もの歳月を「歓喜行」に費やして作られた立川流の髑髏本尊はその位階に応じて「三種類の験力を現す」と言う。 下位ではあらゆる望みをかなえ、中位では夢でお告げを与え、上位のものでは言葉を発して「三千世界の全ての真理を語る」と言う強烈な現世利益の本尊である。

真言密教立川流の真髄は性交によって男女が真言宗の本尊、「大日如来と一体になる事」である。
立川流の金剛杵は特殊な金剛杵であり、片方が三鈷杵(さんこしょ)、もう片方が二鈷杵(にこしょ)になっている。この金剛杵を割五鈷杵(わりごこしょ)と言う。

本堂のお勤め場所の周りに星型の結界が、蝋燭としめ縄で張られる。
しめ縄はいわば神の「結界占地」を標示するもで、神域に張られる事になっている。
蝋燭の炎は、「歓喜行」の間絶やす事は無い。反言真言を唱え、星形の結界(五芒星)は陰陽師家、安倍晴明の判紋である。
格子状のしめ縄の結界は、九字紋と同じ形状であり、九字紋は横五本縦四本の線からなる格子形(九字護身法によってできる図形)をしている。

九字結界は、「臨・兵・闘・者・皆・陣・列・在・前」を星型に配置し、その間を結んで五芒星(晴明判紋)となす。
安倍晴明判紋は晴明桔梗とも呼ばれ、五芒星と同じ形をしている。五芒星(九字護身法に拠って出来る図形)の意味は、一筆書きで元の位置に戻る事から、「生きて帰ってくる」と言う意味でもある。
「歓喜行」はこのしめ縄の結界の中で全ての障害を排して執り行うのである。


呪法に使う髑髏にも、それなりの確りした仕度がいる。
亡なって間もない人頭を、丁寧に洗い清めて、真言を唱えながら漆(うるし)を塗る。
朱色を出すには「辰砂(水銀)」を使う。水銀と硫黄からなる硫化水銀鉱が、「辰砂」であり、細かく砕くと水銀朱の朱が取れる。
この「辰砂(水銀)」、弘法大師(空海)が多用していた事で知られている。
真言密教立川流に取って、朱は血の色であり、活力と蘇生の呪術には欠かせない。仕上がったら、よく乾燥させ、上等な桐箱に収めておく。

そして七日七晩に及ぶ壮絶な「歓喜行」を行い、八日目の朝、「開眼供養を迎える」と言う荒行である。
この本格的な「歓喜行」は、真言密教立川流の僧正が、呪詛を用いる為に強力な呪力を有する淫液に塗れた髑髏(どくろ)本尊を会得させる為の物だった。これが、「髑髏本尊・歓喜法」と言う秘術である。

立会いの僧正や男女の信者達は、願主が「歓喜行」を行うを、眼前にて見守りながら「反魂真言」を絶やさず唱える。
一度達しても、茶吉尼(だきに)天の妖力の色香は強烈で、男はすぐにまた活気を取り戻す。願主は真言密教秘伝の強壮の秘薬と食べ物をとりながら、和合と髑髏に和合水の塗布を続けて、七日目の深夜「結願」を迎える。


いよいよ「結願」を迎えた八日目に入った深夜十二時を過ぎからは、「開眼供養」を夜明けまで行う。
和合水と反魂香にまみれた髑髏の頭部に、金箔を幾重にも重ねて張り、口に紅、歯に銀箔を施し、作り物の眼球を入れて、最後に化粧するのだ。その後、錦の袋に入れて七年間、願主が毎夜抱いて寝る。願主が歓喜行をする時は傍らに捧げ、仮本尊となす。八年目に、ようやく「髑髏本尊」が完成する。
この本尊に妖力が宿り、「呪詛祈願の達成効果を保持する」としていた。

陀羅尼・呪文(オンマニ・ペドフム)や反魂真言を唱えて、性交を繰り返す「歓喜行」は多分に異様である。しかしこの淫靡な儀式の奥には、別の真実が隠れている。
理趣経は、「本来男性と女性の真の陰陽があって初めて物事が成る」と説いている。
この儀式に七年もの歳月がかかるのは、その過程で僧侶とその伴侶の女性が「大日如来」の導きで、悟りを得る事がその目的だからであり、何の事は無い互いの情が移る年月である。そうなれば髑髏本尊は、単なるシンボリックな物に成ってしまうのである。


この宗教の奇怪な儀式、現在の感性に寄り「邪教」と決め付けるのは簡単である。
しかし当時の考え方では米作に於いても、子作りに於いても命をもたらすのは神の奇蹟である。その奇蹟を「引き出したい」と言う素朴な思いを叶える本尊作りに、命を作り出す「神秘な行為を込めた」と考えれば、さして違和感がない。

大体に於いて、「邪教」と決め付ける方々もこれが武将の国取りだと「当時の世情だから」と容認して英雄扱いするが、「規模の大きい強盗」ではないか?時によって、或いは内容に拠って論旨が変わるのは正しく無い。

何故こうした信仰が成立するのか、種明かしをして置く。
人間は「恐怖心や高揚心、羞恥心」と言った興奮を背景にすると、普段の判断とは全く違う感覚で物事を受け止める。

こうした興奮の心理的な影響は極論理的なものであるが、当事者は意外と「興奮に影響されている」とは思い到らずに「自分の正常な判断」と結論着けてしまう。
その興奮に影響される判断が、興奮が覚めても「正常な判断」と確信されて残る所に所謂(いわゆる)「洗脳状態」に陥(おちい)る状態が、信仰などに利用される心理的な手段である。


真言密教立川流、その教義は、遠く印度の仏教に遡る。印度の仏教の教えの中に、白い狐に乗り移った茶吉尼(だきに)天と言う魔女が、大日如来(だいにちにょらい)の教えで、「仏法諸天の仲間入りをした」と言うのがある。
これが日本では、後に稲荷神社に成る。財産や福徳をもたらすとして信仰され、老舗(しにせ)の商家の奥庭に、祭られたりしていた。

当時の商人の考え方は、「商(あきない)は長くやるもの」であり、家業、商売を代々繁栄させるのが使命であるため、老舗跡(しにせ)の跡継ぎの確保は重要だった。
その為には跡継ぎに困らない様に妾を持つほどの艶福家で無ければならず、性的パワーのある稲荷の社を祭ったのである。

つまり幸せにしてくれる神様で、その茶吉尼(だきに)天が真言立川流の御本尊である。
茶吉尼(だきに)天の法力を高める為には、男女和合の性エネルギーのパワーが必要で有る。
つまり初期の仏教は、信じればご利益があると言う「現世利益」の教えで有ったものが、時代とともに変遷して、道徳教育的な目的から「悪行を積むと地獄に落ちる」と言う死後の利益に変わって行った。

一方で修験道師が村々に分け入って布教し、植え付けて行った矛盾とも取れる「おおらかな性意識」は、庶民の中で生き続けていた。

真言密教立川流の本尊・荼枳尼天(ダキニ天)は、元々はインドのヒンドゥー教の女神で、「荼枳尼天」は梵語のダーキニー(英字:Dakini)を音訳したもので、ヒンドゥー教ではカーリー(インド神話の女神/仏教・大黒天女)の眷属(けんぞく/属神)とされる。

このヒンドゥー教の女神が仏教に取り入れられ、荼枳尼天(ダキニ天)は仏教の神となる。
元々は農業神であったが、インドの後期密教においては、タントラやシャクティ信仰の影響で、荼枳尼天(ダキニ天)は裸体像で髑髏(どくろ)などを抱えもつ女神の姿で描かれるようになって、後に性や愛欲を司る神とされ、さらには人肉、もしくは生きた人間の心臓を食らう夜叉神とされるようになった。

荼枳尼天(ダキニ天)は、自由自在の通力を有し、六ヶ月前に人の死を知り、その人の心臓をとってこれを食べると言われたが、その荼枳尼天(ダキニ天)が、大日如来(神道では天照大神)が化身した大黒天によって調伏されて、仏教神となって「死者の心臓であれば食べる事を許(ゆる)された」とされる。

日本では鎌倉時代から南北朝時代にかけて、荼枳尼天(ダキニ天)は、性愛を司る神と解釈された為、その男女の和合で「法力を得る」とする真言密教立川流と言う密教の一派が形成され、荼枳尼天(ダキニ天)を祀り、髑髏(どくろ)を本尊とし性交の儀式を以って即身成仏を体現したとされる流派が興隆を極めた。

真言密教では、胎蔵界の外金剛院・南方に配せられ、形像は小天狗の白狐にまたがる形をしている為に「辰狐王菩薩(しんこおうぼさつ)」とも呼ばれ、天皇の即位灌頂儀礼において「荼枳尼天(ダキニ天)を祀っていた」と言う記録も存在し、平清盛や後醍醐天皇などが荼枳尼天(ダキニ天)の修法を行っていた事でも知られている。

インドに於いてはジャッカルが荼枳尼天(ダキニ天)の使い神の象徴とされていたが、中国や日本に伝わった時、インドに居たジャッカルが居ない為に狐が代用されて使い神とされた為に日本では神道の権現・稲荷(大明神)と習合する。


仏教が「死後の利益」に変化した大きなきっかけは、歴史の中ではさして古い話しではない。
ズウット下って、高々三百数十年前の徳川政権成立の頃の事で有る。
当時神社勢力の武士と寺院の仏教勢力とで争いが絶えなかった為、政権安定の為に「神仏混合政策」を取って、幕府主導で分業化させた。

あくまでも権力者の統治の都合が、分業化の目的で有る。
すなわち、生きている間は神社の担当であり、神様にお賽銭でご利益を願う。
お寺のお布施は、仏様(死者)を媒介にお寺にもたらされる物である。身内の弔いの為にお布施をする様になったのはそんな訳で、日本仏教界の苦肉の作と言えない事も無い。


江戸時代以後、徳川幕府の政策的住み分けにより、死んでからの「心の拠り所を寺院が担当した」事から、現世利益は言い難い。
止む負う得ず日本の仏教は、死後の利益を主に説く様になった。

従って形(外観)は他国の仏教と似ているが、「日本の仏教は政治の都合によって本来の教えでは無い独特の進化を遂げた」と言って過言ではない。
良く言えば仏教は新たな教義に活路を見出した。悪く言えば「死後の不安を掻き立てて、お布施を稼いでいる」と言う罰当たりな表現も考えられる。



真言密教と陰陽道を究めた人物に仁海(じんかい)僧正がいる。
安倍晴明より少し後の、平安中期の時代に活躍した仁海(じんかい)僧正は、しばしば五行の考えに基づく易を使う。
仁海(じんかい)僧正は真言宗の密教(東密)の総本山・東寺の長者(東密根本道場の最高位)と成り、九十余歳の長寿を保った伝説的な僧侶である。

和泉国の小豪族の家に生まれ、七歳で高野山に登った仁海(じんかい)僧正は、そこで占星術を身につけて学僧としても知られるように成り、僧籍に在りながら良く陰陽呪術を修めしばしば五行の考えに基づく易を使い、占術の祈祷で「祈雨祈願に成功した」とされ、名声を博した仁海(じんかい)僧正は「雨僧正」と呼ばれる。

この事は当時の僧侶が仏教の経典だけではなく、中国の「易経」のような中国特有の古典にも通じていた事を示している。

醍醐寺隨心院 (ずいしんいん)は、九百九十一年(平安時代中期・正暦二年)に雨僧正と呼ばれていた仁海(じんかい)僧正によって建立され、千二百二十九に門跡寺院となった真言宗善通寺派の大本山である。

仁海(じんかい)僧正の私生活を「生臭坊主であった」とする評があるが、それは当時の僧を後世の常識感覚で「女犯」などと評するからである。
そもそも、日本の神官や僧侶は、長い事氏族が武士や官僚と兼務していたもので勢力争いもするし女性も抱く。

高僧と言えども例外ではないから、正妻を置いたかどうかを問わなければ、江戸期以前の僧侶は全て「生臭坊主」である。
と言うよりも、密教僧に於いては「女性との交わりを呪詛パワーの源」と言う解釈が、真面目に為されていたのである。

平安中期の当時としては、九十余歳の長寿を保った伝説的な僧侶・仁海(じんかい)僧正は、自らの真言密教と陰陽道の性交呪詛「歓喜行」を持って長生きを為したのかも知れない。



陰陽師の見蓮に、仁寛(にんかん)が密教の秘術を伝授して、かれこれ百年に成ろうとする頃、北条(平)政子が心血を注いで礎を作った流石の鎌倉幕府執権・北条得宗家も、代を重ねて落日を迎えようとしていた。鎌倉幕府が弱体化していた頃、敵対していた勘解由小路(賀茂)家と土御門(安倍)家の両家は天皇の皇統護持の為に和解している。

この和解、「何が大きかったか」と言えば、互いに味方として組んでいた相手が無くなった事である。勘解由小路(賀茂)家の最大のターゲット清盛平家も断絶している。土御門(安倍)家が恨んでいたのは、奥州藤原家と八幡太郎義家直系の源頼朝の一族で有るが、いずれも家系が断絶している。源氏も平氏も残っているが、それらは直接対決した一族ではなかった。そうなると皇統の共通の敵は、直方流平氏の「鎌倉幕府執権・北条得宗家」と言う事になる。


(南北朝と真言密教)

◆◇◆◇◆(南北朝と真言密教)◆◇◆◇◆◇

この物語、実は書き始めた当初から比べると、遥かに膨らんでいる。
書いているのは確かに我輩だが、途中からは「何か」に押されて、その何かに我輩が書かされて居るような気がする。
「何か」に押されて湧き上がってくる物語を、「伝えねば成らない」と言う使命感が、何物なのか?
未だ思い当たらないまま、鎌倉末期を迎えていた。


北条(平)政子が心血を注いで築きあげた「鎌倉幕府執権・北条得宗家」も、体制百三十年余りを数えて独裁への反感も膨れ上がり、流石に屋台骨が揺らぎ、「時節到来」と倒幕の機運も、静かに盛り上がりつつあった。
そんな時に、皇位に目覚めた後醍醐天皇(第九十六代)が、突如現れた。
それは取りも直さず、地に潜っていた「勘解由小路党」を、そして幕府御家人衆に甘んじていた「源氏の血筋」を目覚めさせる事となった。この後醍醐天皇(第九十六代)、まさしく密教の申し子だったのである。

京都醍醐寺は、皇統・大覚寺統(後の南朝)を護持する為の寺であり、後醍醐天皇の支えだった。
その醍醐寺は、真言密教の教義を支持していた。従って後醍醐天皇は、真言密教を信奉していたのである。

本来、男女の交合は尊い物である。
男女の陰陽を現世の基本として、人々の生活の向上、平和と幸福を願う呪詛(法力)の為のエネルギーの源が、男女交合の歓喜パワーであり、密教理念としていた。
この教義を後醍醐天皇が信奉した事は、彼がしごく「人間的であった」と言う事である。そして後の世で、その結果的意義が証明される事になる。

真言密教の理念は、けして浮ついた邪教ではない。
至極まじめで、日本に入って来た初期の頃の真言宗の教えの一部として、間違いなく存在した。
それはそうだろう、武器を携えて破壊と殺戮(さつりく)に行くよりよほど良い。

ベトナム戦争当時、ジョンレノン・ヨーコ夫妻が「公開ベットイン」による反戦抗議をしたように、男女の和合は平和と安定のシンボルだからである。
精神的な愛に於いて、性交はあってもなくても良い。
そして独占欲はそれも愛情で有るが、それが愛情の全てではない。その違いが判らないと、大人の対応は出来ない。
全てに拘束を欲する愛情もあれば、全てを赦す愛情もある。難しい所で有るが、愛し方はそれぞれで、自分と違うからと言って、愛が無いとも言いきれない。

何よりも性に対する位置付けが、「生命力パワー」と言う前向きな思想からなっている。それが、政治的に迫害されるに至った訳は、これからおいおい明らかになる。

歴史の必然とは、後世に成って見ないと判らないものである。つまり、前が存在して初めて後が存在する。偶然と思われた様々な事の集積が後の世で思わぬ事態に発展し、新しい歴史がつぐまれて行くものである。



京都醍醐寺に文観弘真(もんかんこうしん)と言う僧侶がいた。
彼は先人で有る仁寛(にんかん)僧正を信奉し、その弟子が興した見蓮(もくれん)の真言密教立川流を継承していた。勿論同じ醍醐寺に、文観弘真に対立する勢力もある。後醍醐天皇(第九十六代)と文観弘真僧正が結び付けば、当然反対派もまた結び付くのが世の習いである。

文観は、僧侶にしては恐ろしく身軽で、何やら武術の心得もあり、得体の知れない所があったが、如何(どお)やら奈良西大寺の真言僧の若い頃に修験武術を会得しているらしかった。文観の出自は不明だが、過去が見えない事から、勘解由小路党の草で有る事はどうやら間違いなさそうで有る。


伊豆の国三島大社は、平安時代の書物に名が出て来るほど古い神社で、古過ぎていつ頃から在るのかも判らない由緒ある神社である。
三島は古くから伊豆国の国府が在った所であるが、その三島大社の祭神が、「田京の広瀬神社から移したもの」と言われている。
つまり田京は、三島より古い時代の「伊豆の中心地」と言う事になる。

伊豆の国一ノ宮・三島神社は創建が古く、古代史に記録が無い為いつ頃から存在した物かもハッキリしないが社格は大社で、主祀神は「事代主神」であるから古代賀茂信仰の「重要な位置を占めていた」のではないだろうか?
三島大社は、鎌倉幕府成立の折、「源頼朝」が兵を集め旗揚げした神社としても有名で、勿論平家打倒の祈願もしている。

三島大社の入り口付近にある巨石の名を「祟り(たたり)石」と言う。
この石、以前は境内の別の場所にあったのだが、邪魔なので「退(ど)かそう」とすると、良くない事が起こる。それで霊石として祭られている。
これは執権体勢に固執する北条政子の怨念が、「幕府を退かすのを嫌っての重(おもし)」かも知れない。歴史的に捕らえると、政治と宗教の主導権争いが、絡み合って見えてくる。今は、そこに至る過程にあった。

執権の北条氏も、その他の鎌倉武士達も、その多くが伊豆の出身で、三島大社に縁が深い。
その神社に祭られている霊石の化身と成ると、結構に厄介である。
どうも三島大社の使いで、鎌倉幕府の守り神として機能しているらしい。

三島大社であれば、これから起こる文観弘真の未来も、充分に見通している恐れがある。
つまり「祟り(たたり)石」は、いずれ文観弘真が「幕府に仇なす存在」に為すと、予知していたのかも知れない。鎌倉幕府は三島大社の氏子で、大社としては幕府の行く末を無視はできない。


その頃、鎌倉幕府の推挙により第九十六代天皇に、後醍醐天皇(第九十六代)が即位した。

後醍醐帝は、三十一歳と若いが当時としては男盛りの年齢の、やり手の天皇で野心も旺盛であった。
これは全ての人間に通じる事だが、志(こころざし)が人生最大の武器である。
志(こころざし)無い者に、明日は開けない。
この強烈な志(こころざし)の帝(みかど/天皇)・後醍醐が、正に時代を大きく動かそうと試みていた。

幕府にすれば、若いから「言う事を聞かせる事が容易に出来る相手」と踏んでいたが、とんだ読み違いである。
後醍醐天皇こそは鎌倉幕府を滅ぼし、一旦は天皇の親政に拠る「建武中興」を成立させ、その志淡く足利尊氏に吉野に追いやられて「南北朝並立時代」と言う権力の異常事態を引き起こした一方の張本人である。
後醍醐天皇(第九十六代)は、正に歴史の変わり目に必ず現われる、須佐王(スサノウ)の化身だった。これを機に、日本は新たな動乱の時代に流れて行く。


智方(ちかた)神社と言う神様は「国境を守る神様」と言われている。
伊豆国と駿河国の国境にも智方(ちかた)神社があった。静岡県の東部、駿東郡清水町を走る旧東海街道沿いの黄瀬川東岸の畔(ほとり)、古木に見守られてひっそりと佇(たたず)む智方(ちかた)神社の一角に、縦横一間半ほどの小さな御陵墓が在る。南朝後醍醐天皇の第三皇子、大塔宮(おおとうのみや)譲良(もりなが)親王の御陵墓である。

伝承によると、建武二年(千三百三十四年)七月、鎌倉で足利直義に大塔宮譲良(もりなが)親王が殺された時、お側に仕えていた親王寵姫(宮入)の「南の方(雛鶴姫・藤原保藤の女)」が、譲良(もりなが)親王の御首(みくび)を携えて、鎌倉を脱出する。

南の方は従者を伴い、譲良(もりなが)親王の御首(みくび)を携えて、足利方の追手の目を避けて、南朝の宮居に辿り付くべく足柄街道を西進、ここ(木瀬川)まで逃げ延びて来た。
しかし折悪しく氾濫した黄瀬川を前にして、「これ以上は進めない」と諦め、黄瀬川の辺(ほとり)に小さな祠(ほこら)を見つけ、葬った所が、後世の人々の尽力で智方(ちかた)神社となったのだそうだ。

この地は、東海道三島宿と次の木瀬川宿の中間「長沢」と呼ばれ、木瀬川在地の範疇に入っている。木瀬川宿は、鎌倉時代から箱根路の隆盛に伴い、木瀬川西岸の畔(ほとり)に発達した古い時代の宿駅である。
三島宿と沼津宿の間に位置し、天正の末から慶長の初め頃に廃された為、江戸期の東海道五十三次の中には無い。源頼朝もしばしばこの地に宿営していて、「海道記」などの紀行文や「吾妻鏡」などの当時の文献にも、よくその名が見える。

ここ木瀬川は、北駿河の藍沢、竹の下へ通じる足柄路への分岐点で、交通の要衝だった。
足柄路は箱根路が開かれるまでは東海道の本道だった。
ちなみに「木瀬川宿で対面した」と言う源頼朝、義経兄弟の対面石は、この智方神社を東に数百メートル行った八幡神社、やはり長沢の地に在る。大塔宮譲良(もりなが)親王は直系の皇統でありながら、唯一実力を持って征夷大将軍を名乗った親王だった。

実はこの二つの神社は我輩の日々の散歩コースで、愛して止まない存在である。
我輩は何処かの思想国家の様に、「意見が違うから」と言っていかなる宗教でも、歴史遺産、文化遺産を破壊しようなどとは考えない。
神社も寺も、それなりの歴史を刻んだ遺産である。特にそれらは、地域のコミニティスペースとしての役わりもあり、貴重な存在で有る。


話は、鎌倉時代末期の事である。
後宇多上皇(第九一代)の皇子尊治親王(後醍醐天皇)は宋学者の玄恵や文観から宋学の講義を受け、宋学の提唱する大義名分論に心酔し、倒幕を目指し、宋の様な専制国家の樹立を志した。

千三百十七年の文保の御和談に於いて花園天皇から譲位され践祚(せんそ/皇位の継承)した尊治親王(後醍醐天皇)は野心満々で、平安時代の聖代(延喜帝・醍醐天皇や天暦帝・村上天皇の政治)のような復古的天皇親政を行うべく、当時の醍醐天皇(第六十代)に肖って自ら後醍醐天皇(第九十六代)と名乗り、手初めに父である後宇多上皇が行っていた院政を停止させ、天皇としての実権を確立した。

即位した後醍醐天皇(第九十六代)は、本来持明院統から出るべき次期皇太子を拒み、自分の系統(大覚寺統)から皇太子を定め、皇位継承問題で持明院を支持する鎌倉幕府と対立を始める。
京の地では、醍醐(だいご)寺が、勘解由小路党と文観弘真(もんかんこうしん)の活動の拠点になった。これは、醍醐寺・報恩院の僧上「道順」、の支援である。

道順僧正は後宇多天皇の信任厚い僧侶で、密教にも見識があった。当時、道順僧正は立川流の奥義の第一人者だったのである。ちなみに後の後醍醐天皇は、後宇多天皇の皇子である。弘真が後醍醐天皇と結びついたのは、「道順僧上」の存在が、在ったからと、言われている。


文観弘真(もんかんこうしん)は、大和の国・奈良西大寺の真言僧として、名を成した事に成って居たから、寺内でも一目置かれていた。そして少しずつ、文観弘真(こうしん)の名も、世に知られるように成って行った。
この文観の本音で言えば、「理屈はともあれ」人間の性的欲求は自然なもので、「ただ禁じれば良い」は「好結果をもたらさない」と考えていた。明確な信念だったから、その教義が崩れる事は無い。

揺らぎ無い信念は、「尊い悟り」と解される。文観弘真の世間の評価は、おのずと「徳」の有る名僧侶に成っていた。そうして、長い月日が過ぎて行った。

鎌倉時代末期、北条寺の僧・道順から立川流の奥義を学んだ文観(もんかん)は、「験力無双の仁」との評判を得ていた。
これを耳にした後醍醐天皇は彼を召し抱え、自身の護持僧とした。文観は後醍醐天皇に奥義を伝授し、文観(もんかん)は醍醐三宝院の権僧正と出世した。

天皇が帰依したという事実は、文観にとって「大きな後ろ盾ができた」と言う事であった。
賀茂の錫杖(しゃくじょう)は、道順僧正から文観弘真(もんかんこうしん)僧正の手に渡っていた。

文観弘真僧正は、小野文観(おののもんかん)とも名乗っている。
実は出自不明と言われる文観弘真は、勘解由小路吉次の三男、伊勢(三郎)義盛の忘れ形見で、後に伊勢国(三重県亀山市 関町小野・旧鈴鹿郡関町小野)の国人武将となった小野(伊勢)義真の末裔小野(伊勢)弘真だったので有る。

伊勢の国(三重県)関町は戦国から江戸期にかけて火縄の産地として有名だった。

京都醍醐寺は、朝廷と深い関わりがある。
皇統・大覚寺統(後の南朝)を護持する為の寺で、つまり天皇家の一方の守り寺である。
ついでながら、もう一方の皇統は、持明院統(後の北朝)である。

その醍醐寺僧正に、文観弘真(もんかんこうしん)がなった。
時の天皇は、野心旺盛な若き後醍醐天皇である。
二人は、意気投合する。醍醐寺大覚寺統の密教僧侶達が、仕込んだ事かも知れないが、高天原の執念(呪詛)の筋書きに違いない。

文観僧正は、後醍醐天皇に真言密教・立川流を直伝する。
茶吉尼(だきに)天のイメージが演出され、衣服の透ける様な美女姿を宮中に現し、天皇は絶倫になる。
退屈な宮中生活にあって、これが「楽しくない」筈はない。

若き天皇は好色で、この教えを痛く気に入り、自ら実践する事で極楽浄土を体感し、教義は宮中に広がった。
後醍醐天皇の相手と成った女妾、女官も数多く、皇子・皇女と認められただけで、十六人に及ぶ親王(しんのう)、内親王(ないしんのう)を設けている。この「子沢山」は、後の出来事を思うと、「歴史の必然だった」かも知しれない。

つまり、「皇統を繋ぐには親王(しんのう)が多いに越した事は無い」と言う事態に見舞われたのだ。「勘解由小路党の女人(白拍子)」も天皇相手に、歓喜の行で大活躍したのかも知しれないが、記述はない。
唯、夜な夜な「おごそかな歓喜儀式が、宮中で盛大に執り行われた」と、想像にするに難くない。

「臨・兵・闘・者・皆・陣・列・在・前」は、九字呪法である。
そして男女による「歓喜法」で「極楽浄土」を体現する。
その強烈なパワーを持って、四方に幸せをもたらす。

この教えに傾倒した後醍醐天皇は、真言立川流を保護し、文観を政務の補佐役にする。文観の権力は強くなり、一時、日本中に真言立川流は広がって行った。


この辺から、雲行きが怪しくなる。真言立川が、余りの隆盛を見せた事で、真言宗右派(禁欲派)が嫉妬し、文観(もんかん)の立川流(左派)から、宗派の最高権力を奪取すべく行動を起こす「きつかけ」と成った。
右派が、後醍醐天皇の対立相手、大覚寺(持明院統方)と組んだのである。

これは、宗教上の権力争いで、醍醐寺統(後醍醐天皇)、左派(真言立川)連合が勝っていれば、その後の日本の宗教観は変わっていたかも知れない。
「菩薩の境地」が、精神的抵抗無く庶民のものに成っていたかも知れないのだ。だが、醍醐党が破れ、真言立川は衰退して行った。
つまり、負けた方が「弾圧された」のである。
そこに至る経過が、南北朝並立の争いとリンクしていたのである。

当初は、文観(もんかん)の立川流(左派)が勢いを持ち、その教えを広めていた。
勘解由小路党、土御門党、台密僧、東密僧がチームワークで、文観僧正をサポートするのだからご利益の信用は絶大なものに成り、次第に後醍醐天皇側に付く武将達も増えて来る。

この時醍醐寺座主「文観僧正」は、幕府倒幕の挙兵の謀議に加わり、軍師として活躍する傍ら、幕府転覆の髑髏(どくろ)呪法による「倒幕祈願」を行っている。
後醍醐天皇の依頼で、鎌倉幕府を「呪い倒そう」と言うのだ。見上げた北の空に輝く動かぬ星が、文観の野望を叶えてくれそうに瞬(またた)いている。北斗星は、我らが星だった。


この文観(もんかん)呪詛劇場の主役が、阿野廉子(あのかどこ)である。
中宮の上臈(御付の女官)として宮廷内裏に入侍していた時、阿野廉子(あのかどこ)は数えの十九歳だった。閑院流藤原氏の阿野公廉の娘として生まれ、同じ閑院流の洞院公賢(後に太政大臣)の養女となり、西園寺 禧子(さいおんじ きし)の後醍醐天皇中宮冊立の際に上臈(御付の女官)として入侍していた。

中宮になった西園寺 禧子(さいおんじ きし)は藤原 禧子(ふじわら の きし)とも名乗り太政大臣西園寺(藤原)実兼(さねかね)の三女で、廉子(かどこ)より二歳年下だった。
中宮とは、平安時代以後に一人の天皇に対して複数の皇后が立てられた場合、最初に立后された皇后以外の皇后、皇太后、太皇太后の総称で、内裏の中央の宮に住む事から付けられた呼び名である。

入内(にゅうだい)して半年程経った時の事である。
その十六歳の中宮・西園寺 禧子(さいおんじ きし)が、夜な夜な奥の院の離れに出かけて行く。
上臈の阿野廉子(あのかどこ)は興味を抱き、中宮が「毎夜何をしているのか確かめよう」とそっと部屋を抜け出した。上臈・阿野簾子(あのかどこ)は、ほのかな月明かりを頼りに、暗い庭に歩を進めた。

今宵は、半月だった。
音を立てないよう、裸足でゆっくりと庭を進んで、離れの窓に辿り着いた。

生い茂った夏草と建物の境に、人ひとり歩ける土の隙間が建物に沿って続いている。耳を凝らすと、かすかに、なまめかしい声が聞こえる。
「あえぎ声」、と言うやつだ。
阿野簾子(あのかどこ)は、「これは誰かが睦事(むつみごと・性行為)をしている。」と、確信した。

興味があるから覗こうと窓に近寄った。
窓の位置が高いので、自然と上から中を見下ろす格好に成った。
何しろ、相手は横に成っているので窓より低い位置にいる。
内裏(だいり)の庭の警護は、勘解由小路党が請け負っている。
先ほどから気配を消して阿野廉子(あのかどこ)を追って来ていた。

林の中に隠れるようにたたずむ離れは、重要な警護の場所ではあるが、紛れ込んで来たのは閑院の宮家洞院公賢の娘で、源義経の兄、阿野全成(今若丸)の血を引く清和(河内)源氏の末裔でもある上臈の阿野廉子(あのかどこ)である。
非力な若い娘で、害を及ぼす様子も無いから、帝の夜伽の場で騒ぎにするのは、はばかられ、見咎めずに様子を見ていた。

中を覗くと、無数の油灯明が灯された離れの部屋は思いの他広く明るい。
覗くと、一組の全裸の男女が、組みつ、ほぐれつ、「男女の営み」をしているのが目に入った。
阿野簾子(あのかどこ)は、咄嗟に顔をずらして、ばれないか様子を見た。それから、誰かに見つからないか辺りを伺い、誘惑に駆られて、また覗いた。

これはチャンスだった。
何しろ、知りたい盛りの年頃なのに、内宮に入れば、原則男との接触は禁じられている。
最初良く判からなかったが良く見ると、どうやら女は中宮・西園寺 禧子(さいおんじ きし)らしい。

「忌々しい、中宮はまだ子どもと思っていたが、宜しくやっている」
腹がたったが、「相手は中宮」と思い直した。

こんな場面には、出くわす事もめったに無い。とことん見てやれと、腹を決めた。
「男は誰だ」と見ていると、ちょうど男女の上下が入れ替わって、男は後醍醐帝と知れた。

「なんだ、ただの夫婦の営みだったのか」と、当然さに納得した。
それが、二人の身体の位置が変わって営みの様子が見易く成り、阿野簾子(あのかどこ)は、思わず身を乗り出した。

処が、何とも間が悪く、馬乗りに成って上半身起こした中宮・西園寺 禧子(さいおんじ きし)の顔が、窓の正面に向いて、阿野簾子(あのかどこ)と目を合わせてしまったのだ。
中宮・禧子(きし)は一瞬動きを止めて、こちらを見た。阿野簾子(あのかどこ)は中宮・禧子(きし)に見据えられて、隠れる事も忘れていた。

何しろ相手は恐れ多い中宮である。
胸の膨らみが、白く美しかった。中宮・禧子(きし)は、ひと目で阿野簾子(あのかどこ)と承知した様で、少し驚いた様な顔をし、阿野簾子(あのかどこ)の方に視線を向けたままでいたが、別に騒ぐでもなく気を取り直した様にまた動き出し、そのまま行為を続けた。

阿野簾子(あのかどこ)の方は突然の悪事露見で、中宮・西園寺 禧子(さいおんじ きし)に射すくめられる様に固まって、呆然とその光景を眺めていた。中宮・禧子(きし)は、黙って見せる覚悟をしたのだろう。
阿野簾子(あのかどこ)が見ている事を承知しながら、中宮・禧子(きし)は後醍醐帝に馬乗りの姿勢で、阿野簾子(あのかどこ)にわざと見せ付けるかの様に激しく動いていた。

激しい時が流れ、そのうち中宮・禧子(きし)の顔つきが崩れると、「嗚呼―」と大きい声を発して、後醍醐帝の上に打ち伏してしまった。
あれが、「イクって事か」、阿野簾子(あのかどこ)は、初めて他人の睦事を眼にしたのだ。

男女の営みだけに目が行って居たが、よく見ると奇妙な飾りの部屋だった。
阿野簾子(あのかどこ)はそれに気が付いて、しっかりと、中を見回してみた。まるで、寺の本堂の様な造りだった。
ようやく中宮・西園寺 禧子(さいおんじ きし)が起き上がり、チラリと阿野簾子(あのかどこ)の方に目を向けると、恥ずかしそうに笑って目をそらした。

中宮・禧子(きし)の無防備な裸身が、阿野簾子(あのかどこ)には頼りなげに感じた。

良く見ると他にも人の気配があり、あの文観弘真(もんかんこうしん)僧正の姿も目に入った。
「帝と中宮様が人前で・・・・」
阿野簾子(あのかどこ)は、その事実に衝撃を覚えた。

後醍醐帝も起き上がり、裸のまま二人で正面の本尊らしい仏像の前に進んだ。
二人とも奇妙な歩き方をしている。
禹歩(うほ)または反閇(へんばい)と呼ぶ、先に出た足にあとの足を引き寄せて左右に歩みを運ぶ歩行方法である。

見入っていると、何か、赤黄色い丸みを帯びた物を捧げるように取り出して、手前の座卓くらいの高さの台の上に置いた。
二人とも、首から数珠の様な物を提げていた。何か儀式をしているらしく、二人とも何かぶつぶつと唱えている。

赤黄色い丸みを帯びたものは、よく見ると髑髏(どくろ)の形をしていた。
中宮・西園寺 禧子(さいおんじ きし)は何か唱えながら股間に手をやると、その手で、髑髏を撫で回していた。
髑髏が濡れた様に光って見えた。

後で知ったが、陰液(和合水・精液)とやらを、髑髏に塗っていたのだ。
中宮・西園寺 禧子(さいおんじ きし)はなおも自分の手を、股間と髑髏に交互に運び、それを後醍醐帝が手を合わせて拝んでいた。
その声が大きくなり、「臨・兵・闘・者・皆・陣・列・在・前」と唱える、文観(もんかん)僧正の呪文の様なものが聞こえてくる。

「何かの、呪いの儀式か?」
傍目には、酷くおどろおどろしい物である。
やがて、後醍醐帝は僧侶の衣装を、中宮・西園寺 禧子(さいおんじ きし)は白無垢の着物を身にまとい、何か唱えながら、髑髏を元の処へ戻した。戻し終わると、二人は髑髏に向かって平伏し、手を合わせてまた平伏した。

すると何処からか二組裸の男女が現れ、互いに絡み合いを始めた。
彼等は阿野簾子(あのかどこ)の見知りの者達で、帝側近の公家、日野資朝(ひのすけとも)とその妻、日野俊基(ひのとしとも)とその妻達だった。
資朝(けとも)は権中納言、俊基(としとも)は蔵人頭(秘書長官)二人とも帝寵愛の側近だった。

向き直った後醍醐帝と中宮・西園寺 禧子(さいおんじ きし)は、二組の男女に向かって、先ほどからの呪文のなものを唱えている。
「臨・兵・闘・者・皆・陣・列・在・前」
その前で二組の男女は絡み合い、相手を変えて、また絡み合った。
後醍醐帝の呪文に勝るとも劣らない「女の善がり声」が響き渡っている。

「これは、帝の呪詛・・・」
阿野簾子(あのかどこ)は、「噂の呪術を施しているのだ」と合点がいった。
ひとしきりすると二組の睦事が佳境に入り、文観(もんかん)僧正の呪文が一段と大きくなる。

すると中宮・西園寺 禧子(さいおんじ きし)が立ち上がり、再び白無垢をハラリと落とすと、裸身を晒し、先ほどの髑髏をうやうやしく持ち上げ、また台の上に移した。
その時中宮・ 禧子(きし)は、チラリと阿野簾子(あのかどこ)が見ている事を確かめて微笑んだ様な気がした。

数珠以外全裸の中宮・西園寺 禧子(さいおんじ きし)は、進み出て二組の男女の中へ加わり、自ら誘って二人の男と交互に交わりを始めた。
中宮・禧子(きし)と一人の男が交わっている間、他の三人は絡むように女に刺激を加え、快感を促していた。

二人の男は入れ替わり立ち代り必死で中宮・禧子(きし)を攻め立て、恐ろしく長い時間その行為は続いて中宮・禧子(きし)は狂った様に叫び身もだえ続けた。

僧形の文観は、その傍らで表情も変えずに、相変わらず呪文の様なものを唱えている。
「臨・兵・闘・者・皆・陣・列・在・前」
男二人は、次々に達した様で、中宮・禧子(きし)はまた股間に手をやり、何か唱えながら髑髏をなで始めた。

思い描いていた阿野簾子(あのかどこ)の睦事とは違って、目の前で為されているのは、不気味な儀式だった。
阿野簾子(あのかどこ)はそれを見て急に恐く成り、自分の部屋に逃げ帰ろうとした。

逃げ帰る筈だった。
奇妙な事に、意志とは裏腹に足が動かないのだ。
明け方近く夜が白いで来て、木立も見えているのに、身動きが出来ない。

「これでは盗み見が発覚する」
呆然と、立ち尽くした。
一刻ほどしてようやく金縛りの状態が解け、簾子(かどこ)が必死で内裏の中央に駆け込むと、暫くして中宮・禧子(きし)が戻って来た。

中宮・西園寺 禧子(さいおんじ きし)は上臈・阿野簾子(あのかどこ)を姉のように慕い、頼りにしていたから、盗み見を咎めるでもなく、「後醍醐帝の命による呪詛のお勤めである」と説明し、けして他言せぬよう口止めをした。
簾子(かどこ)には、日頃の帝の言動から呪詛の目的がどうやら鎌倉幕府を呪い倒す「鎌倉(北条)調伏・倒幕祈願」と察しが付いた。

翌日の夜も、中宮・西園寺 禧子(さいおんじ きし)はあの離れに出かけて行く。
阿野簾子(あのかどこ)にしてみれば二歳年下の中宮・禧子(きし)が毎夜お楽しみなのに、自分は寂しく一人寝で、どうも面白くない。

退屈さもあり、性懲りも無くまた覗きに出かけた。
庭から離れに廻るので、夜衣姿の軽装である。
昨夜は夢中で気が付かなかったが、簾子(かどこ)が歩みを進める事に泣き止む夏虫の声さえ気に成った。

ようやく昨夜の窓に辿り着き、その夜は始めから見る事が出来た。
まず、中宮・西園寺 禧子(さいおんじ きし)と文観弘真(もんかんこうしん)僧正が後醍醐帝の前にひれ伏し「今より鎌倉調伏祈願を始めます。」と挨拶をなし、立ち上がると一礼して着衣を脱ぎ捨て全裸になり、おごそかに和合を始める。

やがて、中宮・禧子(きし)の口からなまめかしい声が漏れ始める。
その顔が、阿野簾子(あのかどこ)が始めて覗いた時の中宮・禧子(きし)の顔で、文観弘真(もんかんこうしん)僧正の教えのごとく「今、極楽をさまよっている」と言うのか?

感じているのだ。感じなければ、呪法の歓喜パワー効果は無い。
組みつ、ほぐれつ、激しい動きだ。
他の者は一斉に、般若心経(般若波羅蜜多理趣・・・・)を唱え始める。

二人が始めると、皆周りに集まり呪文のなものを唱え二人の様を凝視している。
文観弘真(もんかんこうしん)僧正の男の物が中宮・西園寺 禧子(さいおんじ きし)の中に入って行く。
中宮・禧子(きし)は文観(もんかん)僧正の立川流の秘術でも施されているのか、ものすごい善がり声とともに果てた。

その、へたり込んだ中宮・禧子(きし)に、情け容赦なく日野資朝(ひのすけとも)が覆いかぶさりまた抽送を始める。

中宮・禧子(きし)の歓喜は止らず最早「極楽浄土」を彷徨う風情で有る。日野資朝(ひのすけとも)が果てると、後醍醐帝が再び中宮・禧子(きし)に挑んで行く。

この連続性交の体現が「ベータ・エンドロフィン」と呼ばれる快感ホルモン物質を分泌させる。快感ホルモン物質が大量に分泌されると、人間はトリップ状態になる。
これが「歓喜法」に拠る「極楽浄土」の境地で、「呪術に威力を発揮するトランス状態に入った」と解されていた。

ものすごい光景に、隠れ見ていた阿野簾子(あのかどこ)は思わず身を乗り出して、日野資朝(ひのすけとも)に見咎められた。
簾子(かどこ)は、日野俊基(ひのとしとも)に取り押さえられたが、「簾子(かどこ)であろう、咎める出ない。これに寄せぃ」

後醍醐帝の命で部屋に迎え入れられ、日野俊基(ひのとしとも)に衣類を全て剥ぎ取られ、仲間に加わる事になった。
後醍醐帝は、警護する勘解由小路の者の報告により既に承知で、面白がっていたので有る。

絶頂(イク瞬間)感が密教で言う「無我の境地」で、法力のパワーの「源」と考えられている。
「臨・兵・闘・者・皆・陣・列・在・前」
中宮・西園寺 禧子(さいおんじ きし)に跨った後醍醐帝が身体を起こし、繋がったまま九字を切る。
「あぁー。」その最初の絶頂に「中宮・禧子(きし)が達して、だらりと身体の緊張を緩め長々と横たわった。

すると、後醍醐帝が中宮・禧子(きし)を離して起き上がり、阿野簾子(あのかどこ)を手招きする。
中宮・禧子(きし)に代わって、「お勤めをしろ」と言う意味である。
初体験がこんな形に成ろうとは、簾子(かどこ)も夢にも思わなかったが、気が付くと、後醍醐帝の股間は目の前でそそり立っていた。

宮中での帝の命令は絶対で、最早精一杯努めてお喜びいただくしかない。
簾子(かどこ)は後醍醐帝の指図のままに応じていた。
暖かい物にを包見込んだ感触が、激しい刺激になって襲ってくる。

「うぅーむ。」
えも言われぬ快感に、阿野簾子(あのかどこ)は堪らず絶頂を迎えた。
経験浅い簾子(かどこ)は、恥ずかしい程、あっけなかった。
しかし後醍醐帝は放してくれず、簾子(かどこ)は後醍醐帝受をけ入れたまま、再びお勤めを始めた。

若さとはすごいもので、簾子(かどこ)に後醍醐帝の男の物が、自分の中で、再び元気に成るのを感じた。
簾子(かどこ)は正気付き、再び腰を使ってお勤めを再会した。
まるで後醍醐帝の手の中に、簾子(かどこ)はあった。

少し余裕が出来て横を見回すと、あの日野資朝(ひのすけとも)の妻が、文観弘真(もんかんこうしん)僧正と真最中で、裸身が激しく揺れている。
日野資朝(ひのすけとも)の妻は、すごい善がり声を発して簾子(かどこ)を驚かせた。
傍らで、日野俊基(ひのとしとも)相手に中宮・西園寺 禧子(さいおんじ きし)が、大きくあえいで、やがて二度目の絶頂を迎えた。

「良おし、良おし、此れで法力が強くなるわい。」
文観弘真(もんかんこうしん)僧正が、悦に入って言った。
中宮・禧子(きし)は起き上がると、文観(もんかん)僧正 とともにあの髑髏をささげて台に据えた。
前に見たように、股間の「和合水」を手に取り、髑髏に丁寧に撫で付けていく。

後は、後醍醐帝の見守る中、側近とその妻を交えての乱交となる。
何組もの男女が、一斉に「鎌倉(北条)調伏」を叫びながら腰を振るのは圧巻で有る。そして、「和合水の髑髏塗布」が繰り返されるのだ。
「臨・兵・闘・者・皆・陣・列・在・前」

若い阿野簾子(あのかどこ)は引っ張りだこで、休む暇が無い。
あまりの事に、「よこしまな目的で覗きを始めた罰が当たったのか」と、そんな不安も横切った。快感で気が遠く成って行った。

「初めてにしては上々じゃ。」
後醍醐帝の声がした。気が付くと、お勤めは終わっていた。
簾子(かどこ)は、気を失っていたのだ。
「簾子(かどこ)は仕込み甲斐がありそうじゃで、毎夜呼ばえ。」
帝の厳命が下った。

それから毎日、阿野簾子(あのかどこ)には「加持祈祷のお勤め」の修行が待っていた。
毎夜集まる帝の側近とその妻を交え、簾子(かどこ)他の上臈(女官)も数名はべらせて歓喜行を行う。
後醍醐帝の「鎌倉(北条)調伏・倒幕祈願」に対する情熱は激しく、その呪術の矛先は壮絶な「歓喜行」となって簾子(かどこ)の裸身に集中した。


護良親王を産んだ最初の皇后・源親子(みなもとのちかこ)は、権大納言・北畠(源)師親(きたばたけ・みなもと・もろちか・村上源氏)の娘で、中宮・禧子(きし)は、言わば後妻である。

千三百二十二年(元亨二年)後醍醐天皇の中宮・禧子(きし)が懐妊したのに際して、文観は安産祈願の祈祷を行った。
しかしこの祈祷は、政権を掌握している執権の北条高時を呪い殺す事をも意図していた為、それを訴えられて高時の怒りを買った文観は、鹿児島の鬼界ヵ島(硫黄島)へ配流される。

文観弘真(もんかんこうしん)僧正が流されたは、荒海が逆巻き、ウミネコが乱舞する絶海の孤島・・・鬼界ヵ島(硫黄島)だった。

潮風が辺りに漂い海鳴りが聞えて来る。
手酷い憔悴感に襲われてが、文観(もんかん)の心は穏やかだった。

この島流しの折、「何故に文観(もんかん)が易々と口を割ったのか」と後の歴史家が疑問を呈すが、文観には、勘解由小路党の諜報活動によりこの事態の予測が付き、「もはや逃れられない」と承知していたから、やがて来る事には覚悟の上だった。
それが、傍目には立派な「悟り」と映る。
だからこそ、世間で文観(もんかん)僧正は修行を積んだ徳のある僧侶で通用した。

文観は首謀者の一人として、六波羅探題に捕まってしまったのだ。
捕らえられて文観が「しら」を切ろうにも、あらかじめ、真言宗右派(禁欲派)が事ごとくばらしてしまっていた。
証拠は、自筆に拠る北条氏調伏・逆賊退治の護摩次第書である。
それで仕方なく、倒幕の呪詛をしていた事を認めた。

当時は、呪詛が効果のあるものと、万人が信じていた。山伏の布教活動の成果である。幕府を呪詛した重罪人である。
文観は、鎌倉幕府により流罪となり、「鬼界ヵ島(硫黄島)」に流される。

この時捕まった多くの者が、死罪を免れている。
首謀者の多くが、皇室に繋がる「高貴な身分」の者か、修行を積んだ「高位の僧籍」の者で、「罰当たりを恐れた」と言う、まだ素朴な時代だった。

文観(もんかん)の命を救ったのも、その動じない態度が、鎌倉方に悟りの徳と見えたからである。
「島流し」に合った文観(もんかん)であるが、彼には勘解由小路(賀茂)家が付いている。
少し本土は遠いが、勘解由小路党の水軍は海を渡れる。
鬼界ガ島に流されてなお、文観は後醍醐天皇に親書を送り、討幕を指南した。

即位六年目、千三百二十四年、後伏見上皇が幕府の後援を受けて一方的に皇子量仁(かずひと)親王の立太子を企てた為、業をにやした後醍醐天皇は、鎌倉幕府からの政権奪取を画策する。

後醍醐天皇は側近の日野資朝(ひのすけとも)や日野俊基(ひのとしとも)らと共に倒幕の謀議を交わし始めたが、この謀議を知った土岐頼員(ときよりかず)が六波羅探題の斎藤利幸に密告した事によりこれが露顕してしまう。

この時の謀議は発覚し、日野中納言資朝(すけとも)が後醍醐帝を庇って罪を被り、首謀者とされ佐渡国(佐渡ヶ島)に流される。
美濃国に在った後醍醐帝勤皇の士・多治見国長や土岐頼兼らは、追い詰められて自刃した。これを「正中の変」と言う。

日野(ひの)家は、藤原氏北家流の名家の家格を有した公家で、儒道や歌道の面で代々朝廷に仕えた。
勘解由小路(かでのこうじ)家は、日野家の流れでも有る。
そして、その本質は、賀茂家の影人の血筋だった。
つまり、日野家も影の血を引いていたのだ。それ故、今度の事には後醍醐天皇に味方した。

画策した後醍醐天皇や醍醐寺僧侶文観は、この時はうまく難を逃れている。
だが、この時既に鎌倉方の要注意人物に成って、その動静は京都の六波羅探題に警戒されていた。

日野資朝が一身に罪を被って佐渡国(佐渡ヶ島)に流された為、事無を得た後醍醐天皇は、十一歳で比叡山延暦寺に入山した皇子の護良(もりなが)親王を二十歳で最高位の天台宗の座主(ざす)に就任させる事により、寺院勢力を反幕府勢力として結集させた。

護良親王(もりながしんのう)は天台宗三門跡の一つである梶井門跡三千院に尊雲法親王として入っている。
この時に門室を置いたのが東山岡崎の法勝寺九重塔(大塔)周辺だった事から、大塔宮(おおとうのみや)と呼ばれた。

その後門跡を継承して門主となり、後醍醐天皇の画策で天台座主となって居るが、護良親王(もりながしんのう)は武芸を好み、日頃から自ら鍛練を積む「極めて例が無い座主であった」と言われている。

後醍醐天皇が鎌倉幕府討幕運動に明け暮れている頃、護良(もりなが親王)は荒法師達を相手に武芸の訓練に励みつつ、比叡山で倒幕の準備を着々と進め、また幕府調伏の祈祷をも行っていた。
譲良(もりなが)親王は見た目優男だったが、剣の腕は立ち勇気も持ち合わせていた。

この譲良(もりなが)親王の顔が源義経良く似ていて、まさか義経の遣り残した思いが「輪廻転生を起こしたのか?」とさえ思わせる。
それはあたかも、スロットルマシーンの絵柄が揃うようにDNA遺伝子的な配列が揃って、新たなる「義経」が親王としてこの世に生まれ出たのかも知れない。

比叡山延暦寺は天台宗の総本山で、僧兵達を多く抱えた要塞として、台密山伏の本拠地として名高い。
元々日本の武術は、修験道の荒法師から発生して体系付けられたもので、護良(もりなが)親王が修行をしても不思議はない。
覇王を目指した男を父に持つ護良(もりなが)親王が生まれて来た時は、永く続いた平穏の時が終わりつつある鎌倉末期である。

天下大乱の予兆はあった。生まれ来る皇子は、背負い切れない運命を背負っていた。
我輩が魅力を感じるのは、権力に固執せず、クールな熱血漢の美学に生きる男達で、この時代に我輩にとって魅力的で純粋な信念ある生き方をしたのがこの男、後醍醐天皇・第一皇子(だいいちみこ)・大塔宮護良(おおとうのみやもりなが)親王である。

河内の悪党・楠木正成(くすのきまさしげ)も捨て難いが、悲劇的な護良(もりなが)親王の生涯には及ばない。


帝のお気持ちを安んじ、お慰めするのが簾子(かどこ)の役目で有る。
簾子(かどこ)は、後醍醐帝に目覚めさせられたのか、生まれつきの淫乱性なのか、嬲られるのが事の他好みの様で、身分など討ち忘れて、縛(しば)かれても、晒されても、意のままにしてこそ寵愛を得る。
縄を掛けられ吊るされるあさましい姿で尻を差し出して「鎌倉(北条)調伏」を唱和しながら激しく帝のお相手を為し、乱交に参加する。

彼女は、非日常の被虐感を好む性格だった。
それ故、その場に直面すると、臆する事無く後醍醐帝の要求に応じた。
やがて簾子(かどこ)は、中宮・ 禧子(きし)を押しのけて帝の寵愛を一身に集めるようになる。

通常、女性の戦いはいかに寵愛を得るかで有り、「簾子(かどこ)は中宮・禧子(きし)に女の争いで勝った」と言う事である。
不幸な事にこの時代、それが女性に取って何て事は無い日常だった。

後醍醐帝の倒幕計画が失敗した「元弘の乱」が起こると、阿野簾子(あのかどこ)は、後醍醐帝の隠岐島配流に随行する。
南朝後村上天皇(義良親王)、恒良親王、成良親王、祥子内親王、準子内親王の母となり、鎌倉幕府滅亡後に後醍醐帝が開始した建武の新政においては、准三后(正妻に順ずる)の栄誉を授かる。

その後、足利尊氏と結託して後醍醐帝と対立した護良親王の失脚、殺害にも関与したとされる。
簾子(かどこ)は足利尊氏が新政に離反した後の吉野遷幸にも同行し、最期まで後醍醐帝に従った。

後醍醐派の頼みはあの凄まじい「歓喜性交の荒行」である。
「臨・兵・闘・者・皆・陣・列・在・前」と、文観僧正が九字呪文を唱える。
その七日七晩に渡る文観渾身の呪法は、大願成就する前に「発覚」する。
潜伏していた真言宗右派(禁欲派)が、醍醐寺の修行僧に化け、「恐れながら。」と、北条方(六波羅探題)に通報したのである。


鎌倉幕府の滅亡、建武中興、南北朝の争乱と続く十四世紀の大動乱時代、 後醍醐天皇方は修験道師(山伏)達によって、「全国的に緊密な情報網を張り巡らしていた」と言われる。彼らは勘解由小路党の結束の元、相互に強い連携を持って後醍醐天皇を支えていた。

数の上では絶対的に優勢な鎌倉幕府軍を敗って、一時的にもせよ成立したのはこのネットワークあればこその快挙だった。
後醍醐天皇による親政の建武中興は、正しく 宮方に立った勘解由小路党の全国的なネットワークに支えられたものであった。

実を言うと、後醍醐天皇の意思によって企てられた「建武中興」なるものは、それまでの武家による支配体制に対して、公家と社寺と言う守旧勢力が起こした「反動的復古運動である」と言うのが最近の見方である。

後醍醐天皇の影に在ってそれを画策したのが、醍醐寺座主「文観僧正」である。醍醐寺は修験道を体系化した理源大師聖宝(りげんたいししょうぼう)が開基、 後に修験道当山派の総本山になる寺である。
かくて、文観の人脈と醍醐寺の寺縁によって全国の修験系の寺院が、その倒幕運動に加わり、これが後醍醐天皇方を支える基盤となった。

元弘元年、倒幕の密議が露見した時、 後醍醐天皇が逃げ込んだ笠置山は文観の相弟子聖尋(東大寺別当)が統べる寺であったし、 後醍醐天皇の第一皇子、護良(もりなが)親王が挙兵した吉野山の金峯山寺は醍醐寺系の寺であり、いずれも、修験導師(山伏)の寺である。


当時天皇は、大覚寺統と持明院統が交互に即位する約束に成っていた。
しかしそれは、勿論皇統の継承争いに憂慮した側面もあるが、基を正せば天皇家が一本にまとまり、団結して「力を集中しない様に」と言う目論みの「皇室分断作戦」で出て来た鎌倉幕府主導の制度だった。

鎌倉幕府による朝廷への介入が進み後嵯峨天皇(第八十八代)の皇子二人が、後深草天皇(第八十九代)持明院統と亀山天皇(第九十代)大覚寺統の兄弟で皇位に就いた所から、鎌倉幕府に利用されその子孫が代わり番で皇位を継ぐ慣習が生まれ、後醍醐天皇は大覚寺統の後宇多天皇(第九十一代)の第二皇子であるが、持明院統の花園天皇 (第九十五代)の皇太子に立ち、千三百十八年に花園天皇からの譲位によって第九十六代天皇に即位する。

後醍醐天皇が鎌倉倒幕を目指したのは、鎌倉幕府主導の「皇室分断作戦」制度に正面から挑んで、一本化を図る事だった。
しかし順番で、「次に天皇が出せる」と期待していた持明院統は黙って座しては居ない、幕府側に回った。

そう成ると、後深草天皇の血統(持明院統)と亀山天皇の血統(大覚寺統)の対立がここから始まる。
幕府は後醍醐天皇を圧さえる為に持明院側を利用しに掛かり、朝廷はゴタゴタが絶えなくなる。

持明院統・後伏見上皇が幕府の後援を受けて一方的に皇子量仁(かずひと)親王の立太子を企てた為、業をにやした後醍醐天皇は、このままでは、天皇は今まで通り鎌倉幕府の「飾り物」に成ってしまうと、即位六年目の千三百二十四年に鎌倉幕府からの政権奪取を秘密裏に画策する。
この後醍醐天皇の動きが、鎌倉幕府の倒幕、「建武の親政」そして「南北朝並立時代」の百年(含む後南朝の抵抗)に余る戦乱の序章だった。


後醍醐天皇は側近の日野資朝(ひのすけとも)や日野俊基らと共に倒幕の謀議を交わし始めたが、この謀議を知った土岐頼員(ときよりかず)が六波羅探題の斎藤利幸に密告した事によりこれが露顕してしまう。

この時の謀議は発覚し、日野中納言資朝(すけとも)が首謀者とされ、佐渡国(佐渡ヶ島)に流される。美濃国に在った勤皇の士の多治見国長や土岐頼兼らは自刃した。これを「正中の変」と言う。

日野(ひの)家は、藤原氏北家流の名家の家格を有した公家で、儒道や歌道の面で代々朝廷に仕えた。
勘解由小路(かでのこうじ)家は、日野家の流れでも有る。
そして、その本質は賀茂家の影人の血筋で、つまり日野家も影の血を引いていたのだ。
それ故、今度の事には後醍醐天皇に味方した。

画策した後醍醐天皇や醍醐寺僧侶文観は、この時はうまく難を逃れている。
だが、この時既に鎌倉方の要注意人物に成って、その動静は警戒されていた。

日野資朝が一身に罪を被って佐渡国(佐渡ヶ島)に流された為、事無を得た後醍醐天皇は、十一歳で比叡山延暦寺に入山した皇子の護良(もりなが)親王を二十歳で最高位の天台宗の座主(ざす)に就任させる事により、寺院勢力を反幕府勢力として結集させた。

その頃、護良親王(もりなが)は荒法師達を相手に武芸の訓練に励みつつ、比叡山で倒幕の準備を着々と進め、また幕府調伏の祈祷をも行っていた。
比叡山延暦寺は天台宗の総本山で、僧兵達を多く抱えた要塞として、台密山伏の本拠地として名高い。
元々日本の武術は、修験道の荒法師から発生して体系付けられたもので、護良(もりなが)親王が修行をしても不思議はない。

覇王を目指した男を父に持つ護良(もりなが)親王が生まれて来た時は、永く続いた平穏の時が終わりつつある鎌倉末期である。

天下大乱の予兆はあった。
生まれてくる皇子は、背負い切れない運命を背負っていた。

我輩が魅力を感じるのは、権力に固執せず、クールな熱血漢の美学に生きる男達で、この時代に我輩にとって魅力的で純粋な信念ある生き方をしたのがこの男、後醍醐天皇・第一皇子(だいいちみこ)・大塔宮護良(おおとうのみやもりなが)親王である。

河内の悪党・楠木正成(くすのきまさしげ)も捨て難いが、やはり悲劇的な護良(もりなが)親王の生涯には及ばない。


一度失敗したが、後醍醐天皇はあきらめず機会を狙っていた。
六年後の千三百三十一年、後醍醐天皇は勘解由小路党の内密の本拠地、笠置山(城)に移り、呼応して難波の悪党、楠正成(くすのきまさしげ)が、南河内の赤坂城で挙兵する。

楠正成は文観の真言立川の「教義」を支持し、後醍醐天皇を奉じて、鎌倉幕府の倒幕を試みたのである。

知らせは、急ぎ幕府方に伝わった。
六波羅探題軍が京の御所を急襲して、加担した者、皆逃げる間もなく捕縛された。
再び討幕を企てた後醍醐天皇であったが、密告によって露顕してしまう。
これを、「元弘の変」と言う。

日野資朝は佐渡国、日野俊基は鎌倉にてそれぞれ殺された。
後醍醐天皇が笠置山に逃亡した為、北条高時は持明院統の量仁親王を光厳天皇(北朝初代)として擁立させた。


吉次亡き後、勘解由小路(かでのこうじ)家は、母方の近衛家から従弟が名跡を継いだ。大方、権中納言(ごんちゅうなごん)までは上れる家系だった。
名は残ったが、もう諜報機関としての機能はしない。

しかし、皇統護持の影の組織として残す為に、笠置山に指示系統の主体を移して生き残りを図った。

笠置(かさぎ)山は、六百六十一年に笠置山の巨岩石に実忠和尚、良弁僧正が仏像を彫刻され、それを中心に笠置山全体が、修験行者の修験場として栄える事となった。
つまり元々勘解由小路党の強固な霊場基盤であった。


平安末期の末法思想の流行とともに大磨崖仏は天人彫刻の仏として非常な信仰を受け,笠置詣でが行われる様になる。
千百九十一年(建久二年)、藤原貞慶(解脱上人)が興福寺から笠置寺へ移り、笠置山は信仰の山として全盛期を極めた。
しかし二百六十年後、後醍醐天皇の挙兵により全山炎上、灰燼に帰したのである。

これが転機だった。
笠置山全山が灰燼塵と帰したこの時を境に、勘解由小路党の司令塔は無くなり、これより各流れが独自の判断をする様になった。
やがて後醍醐天皇が逮捕されて隠岐国に流された為、討幕勢力は弱体化する。

この動乱で、長く続いている皇統に大問題が発生する。
そして、天孫の「万世一系」が危機に陥る。
この事を、「歴史の必然」が、遥か前から予期していたのだ。

元弘元年(千三百三十一年)に元弘の変が勃発した。
倒幕計画に失敗して捕らえられた後、醍醐天皇は隠岐(おき)の島へ流される。

後醍醐天皇の隠岐流配を追跡し、院庄で有名な十字の詩を桜の幹に刻んだ児島高徳(備前国の武士)は、 熊野の山伏達が開いた熊野修験分流「児島修験」の人物で、戦前は小学校の唱歌にも歌われている。
隠岐に流された後醍醐天皇が密書を送った出雲の鰐渕寺 (がくえんじ) も天台修験の古刹である。


一方、千三百三十二年に「隠岐(おき)の島」に流された後醍醐天皇の流刑中に、息子(第一皇子)の天台宗座主(ざす)尊雲法親王(護良親王)が還俗し、大塔宮(おおとうのみや)として臣民の支持を一身に集めた。
護良親王を産んだ源親子(みなもとのちかこ)は、権大納言・源師親(みなもともろちか・村上源氏北畠家)の娘である。

尊良(たかなが)親王を「第一皇子」とするものも世間に見受けられるが、これは第一皇子の護良(もりなが)親王が仏門(天台宗)にあって、世俗の舞台へのデビューが、尊良(たかなが)親王より遅れた事による間違いである。

第一皇子の護良(もりなが)親王は千三百八年生まれ、尊良(たかなが)親王は千三百十一年生まれで、護良(もりなが)親王の三歳年下の第二皇子に成る。


護良(もりなが)親王が吉野に挙兵、河内国の楠木正成(くすのきまさしげ)も千早城に挙兵する。
勘解由小路党が動き、修験系の荒法師、悪党などに宣旨(せんじ)が飛び、呼応して各地に幕府討伐の火の手が上がる。

赤松(円心)則村の三男・赤松則祐(あかまつそくゆう/のりすけ)は、始め比叡山で僧となっていたが、千三百三十一年(元弘元・元徳三)年の護良親王挙兵に加わって護良親王に近侍、腹心として各地を転戦している。

その赤松則祐(あかまつそくゆう)の伝手で、父・赤松(円心)則村に「朝敵を討伐せよ! 功績あらば恩賞を取らせる」と護良親王(もりながしんのう)が挙兵を促すの宣旨(せんじ/命令書)が届く。

播磨の田舎で不遇を囲っていた赤松円心に取っては、家名を挙げ世に出るチャンスだった。
円心は宣旨(せんじ)に呼応する決意を固め、挙兵する。


赤坂城や千早城(ちはやじょう)に於いて智謀(ゲリラ戦法を駆使)を用いて幕府軍を翻弄した楠木正成(くすのきまさしげ)や、播磨国苔縄城にて挙兵した赤松円心(則村)のように諸国の反体制武士集団「悪党」が続々蜂起して鎌倉幕府を苦しめた。

大塔宮護良(おおとうのみやもりなが)親王は、皇子(みこ)としては異常に剣の腕が立った。
一見やんごとなき美貌の皇子でなよやかに見えたが、剣を持たせるとその剣気は構えただけで相手を圧した。

これには、楠木正成も赤松円心(則村)も舌をまいた。
天台座主時代に荒法師どもと相当に腕を磨いた様だが、そこには並々ならぬ倒幕の強い意志を感じ二人とも護良(もりなが)親王に心服していたのだ。

還俗した護良親王(もりながしんのう)は、北畠親房の娘(名は立花姫)を娶り妃とした。
つまり、北畠親房(きたばたけちかふさ)は護良親王(もりながしんのう)の義父に当たり、北畠顕家 (きたばたけあきいえ)が義兄弟にあたる。

北畠親房(きたばたけちかふさ)は村上源氏庶流の公家で、北畠(源)親房(きたばたけ・みなもとのちかふさ)が正式な名乗りである。
親房(ちかふさ)は南北朝期に生きた公家で、息子の北畠顕家 (きたばたけあきいえ)と共に南朝後醍醐天皇にお味方して活躍した公家で在りながら武門として活躍した武将でも在った。

この護良親王(もりなが)の、憂いを含んだ優しそうな面影が、何故か源義経に似ていて、彼の悲劇的未来を案じさせていた。
しかし、自分が義経に似ているなど、護良親王は知る縁(よすが)も無かった。

「隠岐(おき)の島」に流されていた後醍醐天皇は、伯耆国の豪族である名和長年(又太郎)によって船上山に迎えられ、ここで朝臣千種忠顕(ちぐさただあき)を挙兵させた。

隠岐を脱出した後醍醐天皇を擁し船上山 (せんじょうざん)に立て籠もったのは、大山寺の衆徒、信濃坊源性の兄である名和長年(海運業を営む悪党)であり、天台修験の山伏達の寺である大山寺 (だいせんじ)の僧兵達も駆けつける。

つまり、後醍醐帝の味方は身内(婚姻関係)の「村上源氏。北畠家」、「修験の山伏達」と幕府に逆らう「悪党」、そして皇胤武士の「河内源氏・足利家や新田家」である。
彼らは、各々北条得宗家の治世を快く思わない立場の人々ではあった。

新田氏と足利氏は源義家の子の源義国の子、即ち源(八幡太郎)義家の孫に当たる源義重と源義康をそれぞれの祖とする、清和源氏河内流れの名流であり鎌倉幕府では有力御家人(要人)であったが、赤松則村が幕府軍の名越高家に快勝した事を契機として、新田義貞と足利高氏は鎌倉幕府(北条執権)から離反する。

これを好期として、後醍醐天皇が混乱に乗じ隠岐の島を脱出、伯耆国にて鎌倉倒幕の「綸旨(りんじ)」を発する。
後醍醐天皇の呼びかけに応じ、有力武将の足利尊氏や、新田義貞が、呼応して味方となった。
源氏は本来皇統を守護するのが筋で有る。

護良(もりなが)親王、足利尊氏、新田義貞、楠木正成、赤松円心らの活躍で幕府方を各地に圧倒、幕府方の関西の拠点、「六波羅探題」を足利尊氏、楠正成らが攻めこれを打ち破った。

千三百三十三年に足利高氏は六波羅探題を攻略して北条仲時を自害させた。
そして身分が低いため足利高氏の嫡子足利義詮を大将として擁した新田義貞は本拠地の「鎌倉」を攻め、これを攻略、田楽と闘犬に耽っていた幕府執権「北条高時」や内管領長崎高資らを「もはや、これまで。」と自害させて倒幕に成功、鎌倉幕府は滅びる。

やがて後醍醐天皇が、都に上洛して皇位に復帰、新政権の体制造りに着手する。


関東御家人の名門で、当時鎌倉幕府の京都出先機関、六波羅の首脳部にいた藤原氏流の出自と言われる伊賀兼光は、文観の媒介により討幕計画に加わり、後に建武新政期、後醍醐の寵臣としてあらゆる政府機関に名をつらねた人物で有る。

後醍醐は討幕計画にあたって、腹心の公家、日野資朝(ひのすけとも)などを山伏姿にやつさせて密かに地方へ派遣して遊説させ、北条氏専制下に恵まれなかった源氏諸流の勤皇の将を募ったとされる。

この日野資朝の山伏活動をサポートしたのが、勘解由小路党である事は言うまでもない。
一方で信仰を媒介に、文観が関東政権の中枢まで手を延ばしていた事になる。

党や有力な御家人の相次ぐ挙兵によって、元弘三年(千三百三十三年)に倒幕が実現した。
これに伴い帰京を果たした文観は、東寺の一長者(最高位)にまで上り詰めた。
これに対し、真言宗の本流をもって任ずる高野山の僧らは文観を危険視し、建武二年(千三百三十五年)に大規模な弾圧を加えた。

理解して欲しいが、当時の僧侶は現在とイメージがまったく違い、僧侶を平和的イメージに変えたのは後世の事で、僧兵と言う武力を持って居て、自らの信仰と権力を武力行使を持って決着させる利権集団だった。

立川流の僧の多くが殺害され、書物は灰燼に帰した。
一長者(いちのちょうじゃ)の地位を剥奪された文観は、京都から放逐され甲斐国へ送られたが屈せず、後醍醐天皇に親書送り続けた。
その後も文観は吉野で南朝を開いた後醍醐天皇に付き従い、親政の復活を期して門下を陰で動かして働いた。


大勢に利あり、ようやく後醍醐天皇は皇位に復帰した。
しかしこの天皇、基本的に権力志向が強く我侭だった。
後醍醐帝と、息子の大塔宮護良(もりなが)親王の微妙な対立が表面化する。

大塔宮護良(もりなが)親王は、畿内の反幕府軍を結集するため親王の名前で「綸旨」を連発したが、本来、「綸旨」を下す事ができるのは、唯一天皇のみである。
親王のような立場で各地に命令を下すとなれば、それは「綸旨」ではなくて、「令旨」でなければならない。

しかし火急存亡の時である。
親王は、令旨ではインパクトが弱い為に敢えて「綸旨」を名乗って各勢力に檄を飛ばした。

これが好結果に結び付いて、帝の為になったのだが、自我の強い後醍醐帝から見れば、これは「自らの立場、皇位を公然と侵す行為」で、不愉快だった。
つまり後醍醐天皇は、嫉妬深く猜疑心が強く我が侭だった。

しかし、倒幕勢力の一翼を担った大塔宮護良(もりなが)親王の大功績を無視する事は到底できず、親王の要求した征夷大将軍の地位を、後醍醐帝は認めざるを得なかった。
建武新政府では、護良親王が当初征夷大将軍・兵部卿に任ぜられる。

それでも内心、後醍醐帝は、自分の意に沿わない独断をする護良(もりなが)親王の存在を疎ましく思っていた。

幕府滅亡後に後醍醐天皇により開始された建武の新政で、護良親王(もりながしんのう)は征夷大将軍、兵部卿に任じられて上洛し、足利尊氏は鎮守府将軍となった。

これも大塔宮護良(もりなが)親王の立場からすれば、全国の武士を糾合する立場を天皇の息子である親王が持てば、何かと「朝廷がやり易くなるだろう」、との配慮から出たものと思われるが、武家の棟梁と言う権限者の立場を親王に「認めさせられてしまった」と言う点に於いて、公家と武家の隔てなく上位に立とうとしていた後醍醐帝からすれば、「口惜しいしい限りであった」と察せられる。


後醍醐帝(第九十六代)は、激怒していた。
図星を言われると腹が立ち、相手に敵意を抱く小心者の人間も居る。
言う譲良(もりなが)親王の方は父帝に誠意を持って居ても、後醍醐天皇は一見豪胆に見えるが豪胆に振舞う者ほど繊細な一面が在り、図星を気にして自尊心を傷付けられ、利発な親王に恨みを抱く。

宮廷禁裏に在って学問こそ学んでいたが、何せ帝王学の悪しき所で「全ては帝たる朕(ちん)の意のままになる」と人の気持ちが判らない。

つまり武家の実権を護良(もりなが)親王に握られた事を、我が子相手に嫉妬したのである。
それで親王の善意も「面子を潰された」としか思えず、哀れ譲良(もりなが)親王は、父・後醍醐帝に疎(うと)まれて居た。


護良(もりなが)親王は建武政権においても足利「尊氏らを警戒していた」とされ、縁戚関係にある北畠親房とともに、東北地方支配を目的に義良親王(後村上天皇)を長とし、親房の子の北畠顕家を陸奥守に任じて補佐させる形の陸奥将軍府設置を進言して実現させる。

しかし護良(もりなが)親王は、足利尊氏の他に父の後醍醐天皇やその寵姫・阿野廉子と反目し、尊氏暗殺のため兵を集めたりした為に征夷大将軍を解任される。

更に護良(もりなが)親王は、千三百三十四年(建武元年)冬には皇位簒奪を企てたとして、後醍醐の意を受けた名和長年、結城親光らに捕らえられ、足利方に身柄を預けられて鎌倉へ送られ、鎌倉将軍府にあった尊氏の弟足利直義の監視下に置かれる。


足利尊氏の配下名和長年、結城親光らが兵を連れて護良親王(もりながしんのう)の下に出向いて来た。
尊氏は「後醍醐帝の命で親王を捕らえに来た」と親王に告げる。
親王は、父・後醍醐帝の思いも拠らぬ仕打ちに心臓をギュウと握られる様に締め付けられて身が固まった。
「これは何かの間違いである。父帝は、誤解あそばされたに違いない。」


権力者心理に微妙に存在するのが、「己を超えられる恐怖」である。
この微妙な心理が、実は有能有意の者を、無意識有意識の別無く潰す行動に出て来るのが通例である。

そんな時に、天皇の寵愛する女官、阿野簾子(あのかどこ)も、自分の子供義良(のりなが)親王を次代の天皇に就けようと、有力な候補でライバルである大塔宮への讒(ざん)言を、帝の寵愛を良い事に褥(しとね)で繰り返した為、いよいよ親王への風当たりは強くなる。

この阿野廉子(あのかどこ)の行為、母親であるから気持ちの点では充分理解できるが、この時代に「正妻の嫡男を排除する為に落とし入れよう」と言うのは、社会ルール的には相当の悪女に他ならない。

何しろ阿野簾子(あのかどこ)は、北条正子の妹・阿波局(あわのつぼね)の血を引いている。
芯は、恐らく北条政子並の野心家だったのだろう。
簾子(かどこ)が血を受け継いでいる桓武天皇(第五十代)は、日本(大和の国)の歴史上最強の権力を行使した天皇で、後にも先にもこれほど強力な天皇は居なかった。

その在位中に強烈な指導力を発揮したあらゆる点で日本史に於ける史上最強の天皇であり、その桓武帝の最強の子孫が「桓武平氏流だった」と言って過言ではない。

母系ではあるが、正に阿野廉子(あのかどこ)はその最強の血を受け継ぐ桓武平氏直方流の北条正子と同じ血を受け継いでいた。

源義経(牛若丸)の同腹の長兄(腹違いの兄は源頼朝、源範頼)で、源氏の棟梁の血を引く阿野全成(あのぜんじょう/今若丸)と、桓武平氏直方流・北条政子の妹で北条時政の娘である阿波局(あわのつぼね)の血を受け継ぐ阿野廉子(あのかどこ)である。

公家・阿野家の近衛中将・阿野公廉(あのきんかど)の娘に生まれた廉子(かどこ)だった。


後醍醐帝と阿野廉子の会話は、絡み合っての睦事の最中である。
女官・阿野廉子(あのかどこ)は、後醍醐帝をお慰めする床の中、艶かしい腰使いで帝を翻弄しながら、執拗に護良(もりなが)親王非難の換言を聾(ろう)していた。

「近頃の大塔宮(護良親王)様の為され様は、天子(てんし)様を蔑(ないがし)ろにして、少々勝手ではござりませぬか?」
睦み合いながらの愛妾の言でも、耳元で度重なれば帝をその気にさせる。

わが子ながら人気と人望を集める大塔宮(護良親王)の存在は、後醍醐帝にとって危険なものに映り始めていた。
「おぉ左様左様わらわもその事、気にして胸が痛うおじゃる。」

「ならばいっその事、宮(護良親王)様を捕らえて都からお流し(島流し)になされませ。」
「されば、如何にしようかのぅ〜。そうじゃ、朝を待つて堂上(公家)の者人に申し付けようぞ。」

「いえ天子(てんし)様、その儀ならば足利殿に捕らえさせましょうぞ、あの方なら手勢も多ございます。」
「尊氏でおじゃるか・・・皇子(護良親王)は素直に縛(ばく)に付くかのぅ〜。」

「そう足利殿が宜しゅうございます。」
「廉子(かどこ)がそう申すなら、尊氏に申し付けようぞ。」

実は阿野廉子、三日ほど前に帝に内緒の独断で足利尊氏には協力を要請して内諾を受けていた。
鎌倉の北条執権に変わって部門の棟梁と成りたかった尊氏に取っては、皇子でありながら征夷大将軍を名乗る皇子・大塔宮(護良親王)は厄介な存在で、渡りに船と廉子(かどこ)と利害が一致していた。

しかし利害が一致して「利」で結び付いた者は、いずれ利害が反すれば敵になる。
阿野廉子は、己の子可愛さに大塔宮(護良親王)を捕縛させて足利尊氏に力を着けさせ、結果、帝の立場を弱めてしまったのだ。


平氏の大祖にあたる桓武天皇は、歴代天皇の中でも最も強烈に好戦的な指導者である。
彼のその強烈に好戦的な個性が、この国の「本州以南をほぼ統一国家にさせた」と言って過言ではない。

桓武天皇は、征服王としてはこの国の歴史に偉大な足跡を残したが、征服される側にとっては、恐ろしい阿修羅のごとき相手である。

その桓武天皇の皇子・勝原(かつはら)親王を祖とする後胤貴族として、良くも悪くもその強烈な個性を血筋として受け継いだ事が、その後の桓武平氏を名乗る指導者達の、厄介で強烈な生き方として現れるのである。
阿野廉子(あのかどこ)も、そんな運命を背負ってこの世に現れた鵺(ぬえ)かも知れない。

中宮(皇后)・西園寺 禧子(さいおんじ きし)付きの女官から強烈な性技で後醍醐天皇の寵愛を得、挙句の果てに世継ぎと目されていた大塔宮・護良(もりなが)親王を失脚させて、庶子である我が子の天皇擁立を企んだ阿野廉子(あのかどこ)は、私欲の為に「南朝弱体化の遠因」と成った。

結果的に、最も武の分野で後醍醐帝と建武の親政を支える筈の大塔宮・護良(もりなが)親王を、みすみす足利方に誅殺される結果を招いているからである。

女系ではあるが、阿野廉子(あのかどこ)の気性の激しさは、間違いなく桓武天皇に繋がる北条平氏・北条(平)政子の血によるものではないだろうか?


この、後醍醐天皇に寵愛された女官の阿野簾子(あのかどこ)、想像するに「相当の性技達者な女性」と言う事になる。
何しろ後醍醐帝は立川流の信奉者である。
生半可なお相手では、寵愛などされる訳が無い。傍目も気にせず、恥も外聞も無い体当たりのお相手を務めた事になる。

その行為が、後醍醐帝にたいする愛の深さを体現する物差しだった。

元々帝になる人物には、何もかも周りのお付き人がするから、羞恥心など育たない。

後醍醐帝が立川流を実践しているなら、縛(しば)かれても、晒されても、意のままにしてこそ寵愛を得る。
それが大胆に出来る女性(にょしょう)でなければならないのであろう。

絶対的権力を標榜する後醍醐天皇にすれば、女性(にょしょう)相手の要求でも、相手に逆らう事など赦せるものではない。
全てに於いて従順でなければ、納得も癒されもしないのである。

後醍醐帝は、毎晩寵愛する女官の阿野簾子(あのかどこ)を相手に、文観僧正直伝の男女の営(いとなみ)激しい立川流呪詛を行った。

この阿野簾子(あのかどこ)、後醍醐帝に目覚めさせられたのか、生まれつきなのか、嬲られるのが事の他好みのようで、女官を集めて呪詛の手助けをさせ、身分など討ち忘れて、縄を掛けられ吊るされるあさましい姿で尻を差し出して「鎌倉(北条)調伏」を唱和しながら激しく帝のお相手をする。

この時代の女として「天晴れ(あっぱれ)」と言えば天晴れで、後醍醐帝も簾子(かどこ)には骨抜きだった。
その甲斐あって強力な護良(もりなが)親王を鎌倉に幽閉させ、息子の義良(のりなが)親王を後村上天皇(ごむらかみてんのう)として即位させる事に成功する。

阿野廉子(あのかどこ)の美しい女体に宿っているのは、どうやら、「鵺(ぬえ)」と言う妖怪だったのである。


人は壷に嵌(はま)ると俄然やる気を出す。
己が「天下を意のままにしよう」と言う野心の塊のような後醍醐帝だったが、それだけではない。
帝には生まれ持っての策略を楽しむ癖が在った。
鎌倉の倒幕は、後醍醐帝のそうした人物像が発揮されたのである。

後醍醐天皇には、「帝の在るべき理想」として、帝の権力を「絶対の物に出来る」と言う過信があった。
その自尊心が、仇に成る。
絶対の過信が、我が子ながら己に代わるべき力を持つ大塔宮護良(もりなが)親王の存在に不安を抱き、疎(うと)ましく思った。

現代でも通じる所だが、この自尊心と言うものは、大概の処本人にとって良い結果は導き出さない。
後で後悔する為に存在する代物(しろもの)の感情で有る。

人間の怖い所は、【左脳域】の論理的思考に拠る欲望と嫉妬である。
世の災いの元凶は、もっぱらこの欲望と嫉妬にある。
人間、権力を握ると猜疑心が強くなる。

余人に有らず、見様に拠っては護良(もりなが)親王には、武人達が逆立ちしても得る事の無い、皇位を継ぐ資格がある。
皮肉な運命だが、その血の裏づけこそ後醍醐帝が親王に嫉妬し、事を見誤る落とし穴だった。

本来、後醍醐天皇が最も信頼すべきは護良(もりなか)親王の筈だった。
まぁ、世間に良くある「親子のライバル心」と言ってしまえばそれまでだが、権力に執着する余り後醍醐帝は護良(もりなか)親王を失った大きさに気が付かなかった。

もしも・・は現実には無い事だが、この一件が後醍醐帝の運命を変え、皇統が分裂し、遠く明治維新の頃まで尾を引くとは、誰も予測できる物ではない。


後醍醐帝は、愛妾・阿野簾子の色香に惑(まど)わされ、決定的な間違いをした。
後醍醐天皇は、人間としての思い遣りよりも覇権への欲望を優先した。
その凄まじい覇権への思いは、最も心強い息子・大塔宮護良親王さえも信じられなかった。

権力志向への代償であるが、そうした過酷な決断をする事への容認の方法論もあり、間違った結論かどうかは永久に出せない結論かも知れない。

確かに強い意志は覇権への最大の武器だが、覇権への思いが強くなるほど味方は減り、張本人は孤独に成って行くのが定めである。


鎌倉幕府・北条執権に拠って無力に置かれていた神の力を持って精神的な統治をする、建前のお飾り帝(みかど)からの脱却を計った後醍醐帝の意に、最も添ったのが大塔宮護良(もりなか)親王である。

大塔宮護良(もりなか)親王が、親王の身を持って征夷大将軍に任じた事こそ、父帝・後醍醐が臨んだ親政を担保する唯一の方法だったのである。

桓武平氏の傍流である北条執権家から「主導権を取り戻そう」と言う点では、源氏傍流の足利家も新田家も同じ気持ちだった。
唯、足利家の尊氏の方には、北条執権家に取って代わり「新将軍家を興そう」と言う野心が有った。

新田家より源氏の血が濃い足利家にして見れば、この後醍醐帝方への助勢の手柄で、新将軍の座は手に届く距離だった。
所が、後醍醐の皇子・護良(もりなが)親王が当初征夷大将軍・兵部卿に任ぜられ、後醍醐天皇は自ら直接政治に関与する「建武の親政」を始めてしまった。


憧(あこが)れだけでは国は統治出来ない。
足利尊氏が見た後醍醐天皇の「建武の親政」は、唯の天皇直接統治(親政)への憧(あこが)れだった。

充てが外れた足利尊氏は、不満である。それ故、「後醍醐帝・親政」の弱体化を狙ってチャンスを窺っていた。
この時点で、北条に代わる野望を持って後醍醐帝側に付いた足利尊氏と我が子に帝の位を継がせたい帝の愛妾・阿野簾子との「護良(もりなか)親王失脚」の利害は一致していた。

阿野簾子が足利尊氏と結んで、反足利色を強めていた大塔宮を後醍醐天皇にざん言した為、千三百三十四年十月、後醍醐帝は足利尊氏に護良(もりなが)親王の捕縛を命令する。
捉えられた護良(もりなが)親王は、鎌倉の足利直義の元に送られて土牢に幽閉された。
この幽閉の悲劇に付き合い、最後まで供をしたのが、親王の寵姫(宮入)の「南の方(雛鶴姫・藤原保藤の女)」だった。

これは、結果的に後醍醐天皇の独裁者としての首を絞める事になる。
倒幕の戦いに功績があり、皇族ながら征夷大将軍の地位を以って武士に君臨、天皇の親政を護持しようとした大塔宮護良(もりなが)親王を、世情に疎(うとい)い後醍醐帝が、思慮浅く「私情を以って追放した事は大失敗」と言わざるを得なかった。

ここら辺りが、世間知らずに帝として育った者の限界だったが、この国に帝をいさめる習慣は、元々無かったのである。


大塔宮護良(もりなか)親王は、聡明で利発な上に、父帝をこよなく愛していた。
そして、最も後醍醐帝の意志を理解した皇子だった。
だからこそ、隠岐国に流された父帝を再び皇位に就ける為に立ち上がった。その、一途に父帝の為に成したる思いが通じず、父帝の追っ手が来た時、護良(もりなか)親王は謀反の心が無い事を証明する為に、まったく抵抗しなかった。

父帝の命で天台座主、尊雲法親王として比叡山にあり、剣の修行には事欠かなかった護良(もりなが)親王は、その卓越した武術がありながら素直に縛に付き、父に意志が通じない悲しみで、失意の内に鎌倉に送られて東光寺の土で壁を固めた牢に閉じ込められたのである。

「帝が、そう思(おぼ)し召したか?ならば、仰せのままに致すしかあるまい。」
勘解由小路党は護良(もりなが)親王を哀れに思ったが、後醍醐天皇の意には逆らえなかった。

護良(もりなが)親王は、例え皇子でなくても利発で純粋な若者として十分な魅力があった。
そう、護良(もりなが)親王は「帝の第一皇子」と血筋が最高の上に、すこぶるイケメンであった。
そして、何よりも純真だった。

楠木正成(くすのきまさしげ)も、赤松円心(則村)もそこに惚れていた。
鎌倉まで同行した南の方など、自らの危険をも顧(かえり)みない行動をした。


後醍醐帝は、猜疑心と色ボケで護良(もりなが)親王を失う大失敗をしたのだが、失敗の事例の大きな一つは、赤松円心を敵に廻した事である。

赤松(円心)則村は朝廷(後醍醐天皇)側に組して鎌倉幕府倒幕の挙兵をした人物である。
播磨の国の反体制武士集団「悪党」の頭目であった赤松則村(円心)は、赤松円心の息子・則祐(そくゆう)が護良親王に近侍していた関係で、護良親王の挙兵に参戦、苔縄城で挙兵、京に攻め入り幕府軍と戦った。

円心は、播磨に六波羅軍を迎え討ってこれを撃破、この戦勝で足利や新田が幕府を見限る切欠を作っている。

赤松円心、則祐(そくゆう)親子は、幕府討伐に戦功を上げたが、護良親王が後醍醐天皇によって鎌倉に幽閉された後は後醍醐天皇を見限り、後醍醐天皇と対立する足利尊氏側に与力し、後醍醐天皇側の新田義貞軍は、五十日間に渡って赤松円心の「白旗城」を攻めたが結局攻め切れず、後醍醐天皇側吉野落ちの要因にもなっている。

これ以後、朝廷の権威は失墜し、武士の力は武士でしか押さえられなく成って行く。


足利尊氏(あしかがたかうじ)は後醍醐天皇を吉野に追いやり、室町幕府を建てた人物である。

鎌倉幕府を滅ぼし、後醍醐天皇が得意絶頂で、「建武の親政」(天皇の直接統治)を行うが、護良親王を排除した事から武力の後ろ盾の要を失い、武士を軽んじた事と合いまって、わずか二年で失敗する事になってしまった。

後醍醐天皇は、倒幕に協力した武士達よりも周りの側近や公家達を厚く処遇し、相変わらず阿野簾子との性交に勤(いそ)しむばかりで、武士達の反感を買ったのである。
帝の地位をもってすれば、誰もが「自分の言う事を聞く」と、判断を誤っていたのだ。

所が、武士達の立場にすると鎌倉幕府で一度手にした特権を、みすみす公家中心の政権に渡す訳などない。
そうした武士達の不満に押されて、足利尊氏が政権奪取の野望を抱き、叛旗を翻し、鎌倉に勝手に幕府を開こうとして、後醍醐天皇と対立する。

室町幕府の初代征夷大将軍は・足利尊氏(あしかがたかうじ)は幼少の頃又太郎と名乗っていた。
足利又太郎(後の尊氏)は、鎌倉幕府の有力御家人・足利貞氏の次男として生まれる。
長男・足利高義がいたが、早世した為足利又太郎(後の尊氏)が家督を相続する事となった。

足利氏は河内源氏の足利氏嫡流家で武家の名門だが、北条政子以来の鎌倉幕府執権・北条家(平氏)の御家人として風下に居た。
元服当初、執権・北条高時の偏諱を賜り足利高氏と名乗って居る。

しかし足利氏嫡流家としては、元々武家の名門として天下取りは悲願だった。
北条執権家とは浅からぬ縁(えにし)が在ったが、後醍醐帝の倒幕挙兵は千載一遇のチャンスだった。

北条執権家の命を受け西国の討幕勢力を鎮圧する為に名越高家とともに上洛した足利高氏は、天皇方に付く事を決意して所領の丹波篠村八幡宮(京都府亀岡市)で反幕府の兵を挙げた。

鎌倉幕府の滅亡後、高氏は後醍醐帝の信任厚く、天皇の諱・尊治から御一字を賜り高氏改め尊氏と改名する。
後醍醐帝の「建武の親政」に在って、鎮守府将軍・左兵衛督に任ぜられた足利尊氏は、三十ヶ所の所領を与えられ武門の最上位に立っていた。

しかし足利尊氏は、何故か「建武の親政」に中央における主なポストを得ていない。
これには後醍醐帝の公家政治の意志が働いたのか、それとも足利尊氏に最初から別の狙い「足利幕府成立」が在ったのかは謎である。


足利尊氏は、既に覚醒していた。
そうさせたのは、抑え切れない皇胤氏族の血だった。
事情が変われば、態度が変わるのが培った武士の気構えである。
チャンスがあれば、もう「天下を掌握したい」と、荒ぶる気持ちを抑え切れない。

後醍醐帝を奉じて戦ったのに「報われて居無い」と感じている武将も多かった。

勿論恐れ多いから、足利尊氏には後醍醐帝の命まで短める気は無い。
後醍醐帝が建武政権を放棄し、自分(尊氏)を将軍職に据えれば事足りる事だった。

尊氏に天下取りの勝算に確信が在った訳では無いが、武門の第一人者に躍り出て大軍を擁していた事は事実だった。
幸い、唯一武門を統一出来る護良(もりなが)親王は鎌倉に幽閉してある。
そして譲良親王失脚の後、醍醐帝の主力である北畠顕家(きたばたけあきいえ)は、義良親王(のりながしんのう/後の南朝・後村上天皇)を奉じて奥州の平定に向かい、都は留守だった。

「今なら我らに味方する者も多い筈だ。」
今は、足利尊氏が後醍醐天皇を退位させ天下を取るには好都合な環境で、とにかく後醍醐天皇の武士を冷遇した「建武の親政」に鎌倉倒幕に加勢した武士達の不満が募っていた。

天子様が唯一絶対のものではなく、血統が適格者であれば「すげ替え得る事」は歴史が証明し、現に鎌倉幕府主導の「皇室分断制度」で大覚寺統と持明院統が交互に即位する約束に成っていた事が、火種としてくすぶっている。
持明院統から天皇を出し、即位させれば事足りるのである。


後醍醐帝は不機嫌だった。
いや、むしろ想像すらしていなかった足利尊氏の反逆に動揺していた。

後醍醐帝は自らの威光を過信していた。
御所に在って帝王学を学んだ者の慢心で、武士の不満など、自らの一言で押し通るくらいに考えていた。
鎌倉倒幕も「自らの威光在っての事」と、己の手柄に思って加勢した武士達の努力に意を払わない。

部下の働きに恩義を感じない権力者は、いずれ部下に裏切られる。
リーダーに有り勝ちな間違いは、部下の働きまでも「己のリーダーシップの成果」と自惚れる事である。
それは究極の世間知らずだが、帝位とはそう言うものかも知れない。
いずれにしても後醍醐天皇は「武士の気持ち」を勘違いしていた。


これは現代に通じる良く在る過(あやま)ちだが、後醍醐天皇と足利尊氏の勝敗を分けた主因を端的に言う。
部下は指導者が偉いから付いて行くのでは無く、「食わしてくれる」から付いて行くのである。

経営者も、政治家もここに心しなければ部下や大衆は付いて来ない。
経営者や政治家が、後醍醐天皇のように「自分が偉い」と自惚れて一部の者だけの利を図れば多くの敵を作り、その指導力は短命に終るのである。

帝の気持ちとは違い武士達の本心では、内乱は鎌倉幕府の権威失墜に乗じた一種の出世のチャンスだった。

彼らが朝廷の役割として求めていたのは、鎌倉期と同じく武力を持って他を圧した本当の権力者に「権威」を与え、「秩序」を形成する為に武力を持たず官位の任命権だけを保有して自分達武士に「権威」与える役割を担い続けて欲しかっただけである。

後醍醐天皇は、氏族の基本的な【左脳域】の感性に、注意を払わなかった。
実はこの【左脳域】は、厄介な事に論理・理性の他に原始本能として「闘争本能(戦うか逃げるかの判断)」の部分を受け持っているから、征服部族である氏族の基本的な感性は、「利を戦い取る」と言う戦闘的な【左脳域】思考である。

しかも氏族は、長い事「支配地(所領)の取り合い」と言う現実的な世界で生まれ育って来ていた。

後醍醐天皇は、詰まる所「神の威光で統治する」と言う【右脳域 】の感性を「建前」そのままに信じ過ぎて、武門の氏族の感性が【左脳域】の損得勘定を優先する事に気が付かなかったのである。

同舟異夢(同じ仲間に居るがそれぞれに思う所が違う)の組織には求心力が必要で、この国では永い事「お血筋」が求心力の条件に成って来た。
後醍醐天皇にお味方した武将達も典型的な同舟異夢で、大半がこの動乱を武門としての「出世の機会」と捉えていた。

勿論、後醍醐天皇にはこれ以上申し分ない「お血筋」が在ったのだが、帝のお血筋だけで「求心力が保たれる」と思い上がった後醍醐天皇に、従う者の気持ちを汲む度量がなかったのである。
キツイ言い方をすれば「世情に疎(うと)い」と言う事で、案外現代の二世〜三世議員と勝ち組み官僚が「弱者の痛みが判らない」のと同じかも知れない。


足利尊氏は考えていた。
あんな独り善がりの帝では、命をかけた我々武士が報われぬ。
どなたか別の帝をお立てして、後醍醐帝には早々に降りていただかねばならない。
厄介なのは新田と楠木か?問題は吉野の山伏どもじゃ、何とも手が付けられぬ。

足利尊氏の脳裏に浮かぶのは、「それが正しい選択だろうか?」と言う自問自答の思いである。
相手は老獪な後醍醐帝で、お味方する武将も多いから情勢はけして楽観出来ない。

「この戦、長引くやも知れぬ。」
それでも尊氏は、あの身勝手な後醍醐帝にはもう付いては行けなかった。
思いは駆け巡った。そして決めた。
「勝てば、何とでも理屈はつけられる。」と、尊氏は呟いた。


後醍醐帝は、目の前で信じられない光景を見ていた。
足利尊氏の下に続々と武将が終結していた。
明らかに帝の読み違いである。

彼らは鎌倉幕府の倒幕にこそ力を貸したが、武士の利権までも放棄をする気はなかった。
むしろ事に乗じて、現状より自分の地位が向上する事が狙いだった。
そんな損得ずくの彼らに、帝の威光などと言う「建前」が通用する訳がない。

そもそも足利尊氏が反旗を翻(ひるがえ)すなど、後醍醐天皇には想定外だった。
帝の権威に自惚れていたから、考えも着かなかったのだ。

「おのれ、欲に駆られた悪漢共め!いずれ天罰を誅してくれようぞ。」
後醍醐天皇は、この状況を信じられないながらも、自らの勝利を信じた。まだ、多くの忠臣が残っていたからである。

この時、後醍醐天皇に忠誠を誓っていた新田義貞や北畠顕家が、天皇の命により足利尊氏討伐に立ち上がる。
この時代、彼らの行動を突き動かしていたのは、使命感である。
厳密に言うと、征服者氏族の使命感で、今の感覚ではとても理解はし難い。
肝心なのは、「皇統に自分の氏族がどう絡むか」と言う事だった。
言わば血の論理である。
この血の論理が、後の昭和二十年の敗戦まで続く。
いや、まかり間違うと、形を変えて今(現代)でも続いているのかも知れない。


後醍醐天皇に与力したのは仏教界だけではない。
鎌倉時代末期の渡会家行(わたらいいえゆき)は、伊勢神道の大成者で、後宇多天皇、後醍醐天皇親子に自書の神道思想を表した書物を叡覧に供された事や、北畠親房との親交から神領民を蔵人所の「供御人」として組織し、北畠軍の中核として、一貫して南朝方に加担した。

この渡会(わたらい)氏は、伊勢国・渡会郡より起こった伊勢神宮の外宮の世襲神官の家柄である。
正確に言うと「渡会郡より起こった」と言うよりも、渡会(わたらい)氏の名から郡名が付けられた様で、初は磯部氏を称していた渡会氏が奈良期に「渡相姓」を下賜され、伊勢国の伊勢神宮の神領を伊勢国渡会郡とする郡名が成立した。

渡会郡は伊勢神宮の神領地で、伊勢外宮の古名が「渡会の宮」と呼ばれていた所から、渡会氏は「神官領主(神官荘園主)」だと考えられる。

この最も初期の鎮守氏上(氏神)氏族に近い形の「神官領主(神官荘園主)」として有名なのは、豊前国国・宇佐神宮の宇佐氏や信濃国・諏訪大社の諏訪氏(戦国大名)などが直ぐに浮かんで来るが、勿論神官領主(神官荘園主)も武装兵力を有した武門の領主の一面を兼ね備えていた。


足利尊氏が鎌倉で挙兵すると、後醍醐天皇に忠誠を誓った新田義貞が軍勢を率いて鎌倉に攻め寄せて来る。
足利軍は新田軍を箱根・竹ノ下で迎え撃ち、これを破って都に進軍する。

都では一時後醍醐天皇を比叡山へ追いやったが、奥州から上洛した村上源氏流・北畠顕家(きたばたけあきいえ)が足利軍を迎え撃ち、戦況は北畠軍優勢に推移する中、体制を整え直した新田義貞軍や楠木正成(くすのきまさしげ)軍も合流して足利軍は防戦一方となり、撤退を余儀なくされるが鎌倉へは戻れず、足利尊氏はやむなく都を放棄して西国方面へ落ち延び、一時九州まで追い落されて行く。

この北畠顕家(きたばたけあきいえ)に敗れて西国に落ち延びた足利尊氏は、生まれて始めての死の恐怖を味わっている。
それ故に、西国に落ち延びた足利尊氏は、かの地で慎重に周到な準備を進めて都に攻め戻って来た。

西国武士の支持を集めた足利軍は大軍に膨れ上がっていて、北畠、新田、楠木の連合軍も各地で防戦するが今度は戦況不利で支え切れず、尊氏は湊川の戦いで新田義貞・楠木正成の軍を破り都を再び制圧した。


湊川の戦い(みなとがわのたたかい)は、九州で勢力を盛り返して東上して来た足利尊氏・足利直義兄弟らの軍と、これを迎え撃つ後醍醐天皇方の新田義貞・楠木正成の軍との間で、摂津国湊川(現・兵庫県神戸市中央区・兵庫区)に於いて行われた合戦である。

足利尊氏は水軍を率いて瀬戸内海を東上、弟・足利直義を司令官とする陸上軍の主力は西国街道を進んで来る。
新田軍は、本陣を二本松(和田岬と会下山の中間)に置き、和田岬にも脇屋義助・大館氏明などの軍勢を配置して水軍の上陸に備え、援軍として後醍醐天皇に差し向けられた楠木軍は湊川の西側、本陣の北西にあたる会下山に布陣した。

合戦が始まると足利方・少弐頼尚(しょうによりなお/よりひさ・九州の有力武将)は和田岬の新田軍に側面から攻撃を賭け、同じく足利方・斯波高経の軍は山の手から会下山に陣する楠木正成の背後に回る。

また、海路を東進して来た足利方・細川定禅が生田の森付近(神戸市三宮、御影付近)から上陸すると、二本松に布陣していた後醍醐方・新田義貞が退路を絶たれる危険を感じて東走した為、後醍醐方・楠木正成の軍は敵中に孤立してしまう。

楠木正成は窮地に陥ったが、圧倒的に兵力に勝る足利軍相手にもはや手の打ち様が無かった。
正直な所楠木正成は「河内の悪党」と呼ばれ、鎌倉幕府の北条執権家を篭城戦で手こずらせた知将だが、それは山岳戦での事で平地戦では奇策も通用しない。

瀬戸内海を東上して来た足利尊氏の本隊は後醍醐方・新田義貞が撤退した和田岬から悠々と上陸し、取り残された楠木正成軍は弟の楠木正季ら一族とともに奮戦するも軍勢は壊滅状態となり自害する。

東走した後醍醐方・新田義貞の軍勢は形勢不利と見て楠木正成軍を見捨てて都に撤退、湊川の戦いは足利方の圧勝に終わる。

その後足利尊氏は、比叡山に逃れていた後醍醐天皇の顔を立てる形での和議を申し入れ、一旦は和議に応じた後醍醐天皇は光厳上皇の弟光明天皇に神器を譲って武家政権の成立を尊氏に許したが、再起を図る後醍醐天皇は都を脱して御座を吉野に遷し、「三種の神器の本物はこちらに在り」と宣言、再び味方を結集して足利尊氏に武力対抗を開始する。


この戦乱の最中、鎌倉に幽閉されていた護良(もりなが)親王は不運だった。
大塔宮護良親王は土牢にあって、掛け違った父帝との感情を思っていた。
「この悲運は、課せられた試練なのか?」
護良親王は、仏に問いかけた。
天台座主まで勤めた自分には、悟る物の無い事を知って神も仏も、偽りの存在に思えた。

しかしこの土牢から、自分が生きて出られないとは思っても見なかった。
かならず、父帝の「赦しがあるもの」と信じていた。

護良親王は、「いずれ父帝の勘気が解ける」と期待していた。
しかしその便りは一向に届かない。
「父上、何故に我心通ぜぬ。」
父帝に愛されぬ護良親王は、父帝の理不尽な扱いに天を仰いで号泣した。


光は影に支えられて初めて輝く。
影の存在なくして、光は際立たない。
しかし大概の所、支えられた光の方は勝手なもので、「影」の恩を忘れる間違いを犯す。
影の定めとはこの様に不条理なものである。

報われるのは調子が良い「ご機嫌取りに長けた者」だけで、純粋な影ほど「報われないもの」と最初から決まっているのかも知れない。


歳月と言うものは、人間の思惑などは関わりも無く流れて行くもので、時には残酷でさえある。
人間の思惑などは関わりも無く歳月は流れ、ふと気が付くと、時代から取り残される事も多い。

晩年を迎え、立ち止まって人生を振り返るとこの血生臭い自分の一生は何の為だったのか?
暗たんたる思いが湧きあがってくる。
信じるが故に走り続けた結果が、この有様だった。

実の処、護良(もりなが)親王の日常が安らぎの中にあったのは、この土牢に送られてからの、南の方との僅かな日々だった。
最早、自分の役目は、帝の邪魔に成らない事だけだった。

大塔宮(おおとうのみや)譲良(もりなが)親王の寵愛深い「宮や入り・妾(側室)」雛鶴姫(南の方)は藤原保藤の娘だった。

還俗した護良親王(もりながしんのう)は、北畠親房の娘(名は立花姫)を娶り妃とした為、雛鶴姫(南の方)は側室だったが、氏社会の男女は今のように自由に正夫婦には成れなかったが、護良親王と雛鶴姫(南の方)のような若い恋人同士には、身分違いでも妾(側室)の道はあった。

楠木正成(くすのきまさしげ)の兵に下致(げち)を下し、父帝と作戦を練っていた。
突然、その先の情景が無くなった。護良(もりなが)親王は、続きを知りたかったが、夢の続きなど見れるものではなかった。
到底忘れられるものではない。護良(もりなが)親王が夢に見るのは、父・後醍醐天皇だった。

不思議な事に、夢の中の後醍醐天皇はいつも上機嫌で笑っていた。
見る夢は、過ぎし時の熱く愛しい日々だった。
夢の中で、自分は父・後醍醐を守って、見えない敵と必死に戦っていた。
ハッと目が覚めると、嘘であって欲しい現実が護良(もりなが)親王の胸を過ぎる。

自分は、間違いなく未だ父を愛していた。
「父上、何故に我(わ)をお怒り遊ばしてごじゃる。」

大塔宮(おおとうのみや)譲良(もりなが)親王は、しばし寝顔を眺めた後、南(の方)の頬を軽く撫でて見た。夢の中なのか、南は吐息の様な声を発して寝返りを打った。
親王は、褥(しとね)の傍らに身を横たえて優しい寝息を立てている南(の方)が、狂惜しく愛しかった。その寝顔さえ、かけがえの無い宝に思えた。

それは、間違いなく愛だった。愛する者への思いは胸中複雑で、一口で「愛」と言うが、愛はそう簡単なものではない。
実は愛情にも、直感的なものと時間をかけて育まれたものとがある。

勿論それを、理屈で意識した訳ではないが、二人の愛は時間をかけたものであり、揺るぎない物に育っていた。
だからこそ、雛鶴姫(南の方)は命をかけて護良(もりなが)親王に同行し、一途に鎌倉まで付いて来た。

この時代、「妻間婚(つままこん・男が妻の家に通う)時代」が終焉を迎え、「一夫一婦制」が定着して武士を含む貴族社会の恋愛は、歌や文(ふみ)のやり取りから始まる。

しかし、実は恋愛と結婚は別にするのが普通で、結婚となると家と家の結びつきが第一となる。
それで、本命の恋人が愛人(愛妾)に収まる形態をとる事になる。
それは、当時の貴族(氏族)社会の一般的な合意だった。

何しろ家と家の結びつきが第一の婚姻だから、親同士が決めた結婚で婚礼の夜が初対面何て事は普通である。

現代感覚の個人尊重主義では「時代が違う」と言われそうだが、そもそも「知らない相手となど性交は出来ない」は本人の気分の問題で、昔は親同士が決めた結婚で婚礼の夜が初対面でも夫婦の契り(性交)は出来た。

日本史に於いては、基本的に婚姻関係が神代から続く「誓約(うけい)の概念」をその基本と為していて、氏族社会(貴族・武家)では正妻・妾妻と言う変形多重婚社会の上、家門を守り隆盛に導く手段として「政略婚」や父親や夫からの「献上婚」などが当たり前であり、おまけに主従関係を明確にする衆道(男色)も普通の習俗だった。

個人主義が蔓延している現代社会人には、個人の意志を無視する誓約(うけい)の概念を理解する事は難しい。
本音で言えば、自分が可愛いから他人(ひと)の愉快の為に性交を強いられて不愉快な思いをするのは御免(ごめん)である。

しかしそれも自分が可愛いからの気分の問題で、もしかしたらその不愉快はネガティブな思い込みに過ぎないのかも知れない。

同じ自分が可愛いからを置き換えて、「家門や自分の出世の為の目出度い事」とポジティブ考えれば、政略婚、献上婚を受け入れたり、稚児小姓に上がって衆道(男色)の性交を強いられても「不愉快ではない」と納得が出来る。

要は価値観の問題で、氏族社会では一族一家が一蓮托生の群れ社会だったから、血筋や家門の価値観を高める為に女性は重要な役割を担っていたのである。


そう考えると、木曾義仲の巴御前や源義経の静御前の時代らしい立場が見えて来る。
後の、大塔宮(おおとうのみや)護良(もりなが)親王における「南の方」も、その類である。

この乱世の時、男も女も日々の覚悟がなければ生きられない。
それ故男女の営みは、身分をかなぐり捨てた激しいものになる。

南(の方)は、譲良(もりなが)親王を慕い、愛を貫く為に自ら望んで鎌倉まで来ていた。
もはや親王を慰めるものは、南(の方)との狂惜しくも愛しい嵐の様なひと時をおいて他に無かった。

その頃も、牢の外は日々情勢が移り変わり、鎌倉の足利勢は敗戦を繰り返して後退を繰り返していた。
鎌倉を敗走する処まで追い詰められた足利直義は、どさくさにまぎれて哀れ大塔宮護良(もりなが)親王を斬殺するに及ぶ。

直義に討たれる直前、父後醍醐帝と足利家が争っている事を、幽閉されて居た護良(もりなが)親王は漸く知った。


護良(もりなが)親王二十七歳の或る日、足利直義が、物々しい戦仕度の出で立ちで土牢に現れた。入ると直ぐ、直義は家臣、淵辺義博に「宮のお命締めまいらせ。」と命じた。
淵辺は抜刀し「宮、お恨み召さるな、恐れながら致し仕方なき仕儀となりまして、お命、締めまいらせる。」と言葉を発して切りかかった。

鎌倉に捕らえられて以来、東光寺の土牢に在って親王は何も聞かされてはいなかった。
「されば、我がお傍に居さえすれば・・・」
嘆きはあったが、父を恨む気持ちはなかった。

「結局自分の運命がそれまでだったのだろう」と、護良(もりなが)親王は悟っていた。
護良親王(もりなが)の悲劇は、源義経のそれと似て、嫉妬深い身内に拠る理不尽なものだった。

この国は開闢(かいびゃく)以来戦闘的な氏族支配の国で、必ず勝者と敗者が出る。
大概の所、敗者は「建前」を信じてまともに生きて来た純粋な心の持ち主である。

現実は残酷で、純粋な心の持ち主など生き残れないから誉められる事は無い。
それでは「勝者は?」と言うと、「建前」と「本音」を上手く使い分けるいささかズルイ輩である。

矛盾する事に、政治も経済活動も宗教も、そのズルイ輩が「利」を得るように世の中が出来ている。
それは現代にも通ずるが、つまり勝者とはそう言う信用なら無い輩でなければ成り得無いのが道理である。

源義経もそうだったが、大塔宮護良親王は哀れなくらい純粋な心の持ち主だった。
純粋な心の彼らは、初めから生き残れない運命だったのかも知れない。

時は巡り、人は変わっても歴史は繰り返される。
残念ながら護良(もりなが)親王は、違う世界が有る事など思いもよらなかった。この時代、産まれに拠って生き方が定まってしまうのである。

護良親王(もりなが)もまた、後醍醐帝の皇子(みこ)に生まれた事で、哀しいかな義経同様に運命(さだめ)に立ち向かう気力を幼い頃から持たされて育っていた。

護良(もりなが)親王は、皇統に生まれて来た者として最後まで見苦しい態度はしなかった。
たとえ自分の居場所が無くても、それが、父の名誉を守るただ一つの皇子として出来る事だった。

傍から見れば不条理な事でも、父との絆は守りきった。
護良(もりなが)親王は、その純真さ故の「立派な生涯を送った」と言えるのかも知れない。

直義の家臣・淵辺義博に殺された護良親王の遺骸は、東光寺の土牢に一時そのまま放置されたが、都より親王に従い身の周りの世話をしていた雛鶴姫(南の方、あるいは竹原滋子とも言う)と呼ばれる寵姫に、変わり果てた御首だけを救い出されて、伊豆の国木瀬川の畔まで逃れて来たので有る。

南の方、或いは竹原滋子とも呼ばれた藤原雛鶴(ふじわらのひなずる)は、良く正妻の北畠(源)親房の娘・北畠源立花(きたばたけみなもとのたちばな/立花姫)と混同されるが、藤原雛鶴は大塔宮譲良(おおとうのみやもりなが)親王が最も愛した妾室(側室)だったのである。


大塔宮護良(おおとうのみやもりなが)親王は、親王でありながら、源義経と同様に血の宿命に拠る「悲劇の武将」だった。
護良(もりなが)親王の場合は、後醍醐帝の第一皇子(だいいちみこ)に産まれた事が、その悲劇を背負う宿命の全てだった。

その血筋故に盟主と仰がれ、避ける事も出来ずに立場を全うするのが、氏族に産まれた者の定めである。
あたかも、歴史物語に登場する人物達が数奇な運命に翻弄される事にこそ、彼ら一族に産まれた者が、知らずに払う代償なのかも知れない。


大塔宮護良親王は、父(後醍醐帝)に愛されなかった人物である。
人間何かを背負って生きる者で、何事にも代償は必要である。
高貴な生まれだからと言って、人生何もかも上手く行ってはバランスは取れないものであるから、背負った不幸を不服に思ったら負けである。

親王は、心を開かない父帝に生涯心痛めながらも純粋に父帝を慕っていた。それは、後醍醐帝の第一皇子として育てられた無償の愛だった。

護良親王は、武をもって鎌倉幕府から父(後醍醐帝)が権力奪取する事に尽くし、帝の「建武の親政」を成立されながら、父(後醍醐帝)に疎(うと)まれて足利方・鎌倉に入牢、惨殺されている。

護良(もりなが)親王についても、その死を悼んでか、源義経同様に東北地方に逃れた生存説が存在し、親王の妃立花姫・陸良親王(護良親王の子・興良親王とも)・華蔵姫(親王の娘)寵愛深い雛鶴姫(南の方)及びその従者に関しては様々な消息伝説が存在する。


後醍醐天皇の腹心・村上源氏流れの北畠顕家 は、元々公家の家柄であるが、鎌倉時代から南北朝を経て、室町時代に武士化した元公家も結構多い。

朝廷(南朝)側の北畠顕家 は、北畠親房を父に持ち村上源氏の流れをくむ公家・北畠家の当主だったが、北畠家は武門でもあった。
縁戚でもある後醍醐天皇が鎌倉幕府倒幕を決意して兵を上げた為、その去就が決まった。

後醍醐天皇に近侍し、建武の新政を補佐していた北畠親房の長男が北畠顕家(きたばたけあきいえ) である。
この時から、北畠顕家(きたばたけあきいえ) が足利尊氏の最大のライバルに成る。

鎌倉幕府の倒幕に成功して千三百三十四年(建武元年)建武の新政が成ると、北畠顕家(きたばたけあきいえ)はまだ後醍醐帝の威光が届いていなかった奥州(東北地方)経営の為に従三位陸奥守を拝命、後醍醐天皇の皇子である義良親王(のりながしんのう/後の南朝・後村上天皇)を奉じ、父・親房とともに陸奥国の多賀城(宮城県多賀城市)に下向、その年(建武元年)従二位に再び叙任し翌・建武二年には鎮守府将軍に任ぜられる。

所が、足利尊氏が鎌倉にて後醍醐天皇の建武政権に反旗を翻し軍を率いて都に迫った為、顕家(あきいえ)は奥州の軍勢を率いて足利尊氏軍を追って上京し、新田義貞、楠木正成の軍勢と合流して入京を目指す尊氏を摂津国で破り、尊氏は九州へと落ち延びる。

顕家(あきいえ)はこの戦勝の功に拠り権中納言に任官するも、留守中に奥州で蜂起した足利方を掃討する為に再び奥州へ戻っている。
この留守中に九州へ落ち延びた足利尊氏が西国武将を結集して勢力を盛り返し、湊川の戦い(みなとがわのたたかい)で新田義貞・楠木正成の両軍を破り都を制圧して後醍醐天皇を吉野に追いやってしまう。

北畠顕家(きたばたけあきいえ)は千三百三十八年(建武五年)、義良親王(のりながしんのう)を奉じて再び西上して足利方と戦い鎌倉を攻略する。
その勢いに乗じて美濃国青野原の戦い(現、岐阜県大垣市)で足利方に勝利したものの、足利方主力が近江国から美濃に入った事を知った顕家は度重なる戦闘で兵力の減少や疲弊により京攻略を諦めざるを得なくなる。
顕家(あきいえ)は止む負えず吉野の背後である伊勢に後退し、次いで伊賀に進出した。

その後も顕家(あきいえ)は奈良などを中心に高師直の大軍を相手に互角に戦い一進一退を繰り返したが遂に和泉国堺浦石津に追い詰められ、足利方に包囲されて尚も奮戦したものの、予定していた味方の援軍到着遅延の為に高師直軍との戦いでは劣勢に回り全軍が潰走し、共廻り等二百騎を従え最後の抵抗を試みるが落馬して討ち取られてしまう。
この後醍醐帝の為に獅子奮迅の活躍を見せた北畠顕家(きたばたけあきいえ) 、討ち死にした時の年齢は「まだ僅かに二十一歳だった」と伝えられている。


離反した足利尊氏は、翌年、京都に於いて朝廷(南朝)側の北畠顕家(きたばたけあきいえ) と戦い、敗れて敗走する。
尊氏を退けた朝廷(南朝)側・後醍醐天皇方が、一時は日本全土を掌握したかに思えた。

一旦北畠顕家(きたばたけあきいえ) に敗れ、西国方面に敗走した足利尊氏だったが、その後、九州落ちて九州、中国地方の武士の協力を得、勢力を盛り返した足利尊氏は持明院統の光巌上皇(持明院統・初代南朝天皇)の院宣(いんぜん)を掲げて、京に攻め上る。

それに関東(坂東・ばんどう)武士も呼応して、後醍醐天皇側は挟み撃ち状態に陥ったのである。
足利―持明院統―真言宗右派の利害が一致、連合が成立したのだ。

足利尊氏が湊川の戦いにおいて後醍醐天皇方の新田義貞、楠木正成らを撃破して後醍醐方に勝利し、入京(京に入った)した。
建武三年(千三百三十六年)に尊氏が京都に入ると、後醍醐天皇は味方の台密修験の本山、比叡山延暦寺に逃走する。

後醍醐から三種の神器を接収した足利尊氏は後伏見天皇第二皇子、豊仁(ゆたひと)親王を、光厳上皇の院宣をもって光明天皇として即位させて京都に武家政権(室町幕府)を成立させる。

両軍対峙した湊川の戦、更に敷山の戦いに敗れ、後醍醐天皇(南朝)は、尊氏の接収した三種の神器は偽者と宣言、朝廷の正統性を表す「三種の神器」を携えて、残兵とともに吉野山に逃れるが、足利尊氏は豊仁(ゆたひと)親王を光明(光明)天皇(北朝第二代)とした為に、南北両朝が並立する。


北条(平)得宗家が君臨する鎌倉幕府の倒幕に立ち上がり、後醍醐天皇に合力したのは、源氏の諸家と修験に繋がる畿内近郊(河内や播州)の悪党である。
つまり、彼らは影人だった。

北畠(源) 顕家(きたばたけ・みなもと・の・ あきいえ)は村上源氏流の公家で、鎌倉初期に活躍した土御門(源)通親(つちみかどみちちか)の後裔であり、新田(源)義貞(にった ・みなもと・の・よしさだ)は、河内源氏流、鎌倉時代末期の幕府御家人、上野国(上州)に土着した新田氏の棟梁である。

足利 (源)尊氏(あしかが・みなもと・の・ たかうじ)も、河内源氏流、鎌倉時代末期の幕府有力御家人であり、彼が倒幕に合力しながら裏切って室町幕府を成立させても、後醍醐天皇を、徹して追い詰め切れなかったのは、源氏の血の為だった。現に足利尊氏は、吉野で崩御した後醍醐天皇の慰霊の為、天龍寺の造営などを行っている。


河内悪党の楠木正成(くすのきまさしげ)は橘氏流を名乗っているが、確証は無い。
何しろ、鎌倉幕府の御家人帳に記載がない無名の家柄で、河内を中心に付近一帯で活動する土豪であった。

楠木正成(くすのきまさしげ)は、鎌倉幕府からは「悪党」と呼ばれたが、この「悪党」の意味は「祭(奉)らわぬ者」と言う意味で、つまり鎌倉幕府に「祭(奉)らわぬ」から悪党なのである。
鎌倉幕府の悪党・楠木正成(くすのきまさしげ)の挙兵は、伊賀兼光や真言密教の僧である「文観の要請」と考えられる。


北条執権政権末期の鎌倉幕府の御家人に、伊賀兼光と言う武将が居た。
関東御家人の名門で、当時鎌倉幕府の京都出先機関・六波羅探題の首脳部にいた藤原氏流の出自と言われる伊賀兼光は、文観の媒介により討幕計画に加わり、後に建武新政期には後醍醐の寵臣としてあらゆる政府機関に名を連ねた人物で有る。

史実を追うとこの兼光が建武の親政成就以前から幕府を裏切り後醍醐方に「内通して正中の変の成功に貢献した」と見られている。

伊賀(山城)兼光の正体は藤原兼光と言い、先祖が鎌倉・伊賀氏の変で一度は流刑を味わい復帰した伊賀氏の家系で、鎌倉幕府の六渡羅評定衆と言う高位の御家人で有りながら、鎌倉方北条執権家に対する不満分子の中心的人物で有った。
建武の新政後、この伊賀兼光が新政権で重用された事から、在京の反北条の御家人や武士を調伏して後醍醐天皇方に寝返りさせる「中心的な役割を担った人物」と目されている。

伊賀兼光は、「前の伊勢の守(国司)だ」と言うから、伊勢赴任により藤原から伊賀を名乗ったと見られ、当然伊賀国の郷士との関係も深くなったので有ろう。
彼は後醍醐天皇の腹心であった醍醐寺座主・文寛上人の要請により、後醍醐天皇方に寝返った。

鎌倉期の「伊賀氏の変」でも記述しているが、伊賀氏は藤原北家秀郷流と伝えられ、鎌倉時代初期の藤原朝光(ふじわらのあさみつ)が伊賀守に任じられて伊賀守朝光以降、伊賀を名字(苗字/なえあざ)とした。
鎌倉時代初期は鎌倉幕府の有力御家人であったが、鎌倉幕府の第二代執権・北条義時(政子の弟)の死去に伴い、伊賀光宗とその妹で義時の後妻・伊賀の方が伊賀の方の実子・政村の執権就任と、娘婿一条実雅の将軍職就任を画策した。
執権・北条義時の急死に関しては後妻・伊賀の方の毒殺説もある。

この政変を画策した伊賀光宗は鎌倉御家人の中でも実力のあった三浦義村と結ぶが、これは尼将軍・北条政子の地位を伊賀氏に取って代わられる危機だった。
伊賀氏の不穏な動きを察した尼将軍・北条政子は、三浦義村に泰時への支持を確約させ、伊賀氏の政変を未然に防ぐ事に成功し、義時の長男であった北条泰時を執権に就任させる。
この政変未遂により伊賀の方・光宗・実雅は流罪となったが、彼らに担ぎ上げられそうになった当の政村は厳罰を免れ後に第七代執権に就任している。 伊賀氏の一部は赦されて残ったが力を弱め、政変未遂後は評定衆、引付衆など幕府の中堅実務官僚として活躍する家系として残っていた。
伊賀兼光は鎌倉幕府の実務官僚で、六波羅探題・越訴頭人であった山城守伊賀光政の子で在った為に父の官名にちなみ山城兼光とも名乗っている。
兼光も、鎌倉時代末期には六波羅探題の引付頭人兼評定衆となっている。

後醍醐天皇による「正中の変」に内通し、建武新政期には後醍醐に重用された伊賀兼光だったが、その栄華は足利尊氏の挙兵で僅か二年で終わり、南北朝並立の混乱の中、ヒッソリと歴史から姿を消している。

また、三重県上野市の旧家から発見された上嶋家文書(写本)によると、伊賀・服部氏族の上嶋元成の三男が猿楽(能)役者の観阿弥(觀阿彌)で、その母は楠木正成の「姉か妹である」と言う。
と成ると、影人として各地に根を下ろした草の郷士・豪族の類だったのではないだろうか?

つまり正成の甥が観阿弥と言う事になる。偽の系図とも言われているが、確実に偽と言う根拠も特にない。ちなみに観阿弥の息子世阿弥(世阿彌)は、先祖は服部氏と自称していた。「観阿弥・世阿彌の諜報員説も根強い」となれば、楠木氏は「修験系郷士(勘解由小路党)に関わりがある」と見て良い。

楠木正成(くすのきまさしげ)は山岳戦が得意であり、一介の小土豪でありながら、思わぬ動員力もあった。
楠木正成の天性の人懐こさは、勘解由小路(賀茂)の血であり、持ち前の本能だった。
赤坂城、千早城の篭城戦の侵出奇没な活躍は目覚しかったが、城外にも多くの同志が居たからである。楠木正成(まさしげ)は、伊勢(三郎)義盛に似て、目鼻立ちの整った役者顔をしていた。そして顔に似合わぬ豪胆さを秘め、最後は損得抜きで義に準じる潔さを持っていた。

つまり、鎌倉幕府も後の足利尊氏も再三に渡り楠木のゲリラ戦法に手こずっていたのは、紀伊半島全域が真言、天台、両密教の霊場で、修験(勘解由小路党)の大拠点だったからである。後醍醐天皇が亡命吉野朝(南朝)をうち立て、四十五年間も吉野朝が存続したのも、修験(勘解由小路党)の大拠点だったからに他なら無い。

実は、楠木正成(くすのきまさしげ)は護良(もりなが)親王に従って挙兵している。護良(もりなが)親王失脚の政変劇は、正成が出兵して京を留守にした最中に強行された。
楠木正成は鎌倉幕府倒幕のほとんど全期間、護良(もりなが)親王の指揮下で戦っており、政権樹立後に起こった後醍醐天皇による護良親王の失脚事件は、次期天皇の腹心を自任していた正成にとって予定外の大事件であった。裏の影だった為に血統の看板を持たない楠木正成は、北畠、足利、新田と違い、護良(もりなが)親王の後ろ盾を失っては、部下の求心力を失う。

しかしそんな計算ずくではない、不思議なものに、楠木正成(くすのきまさしげ)は突き動かされていた。
正成は、初めて護良(もりなが)親王に会った時、長い事捜していた相手にめぐり合った様な気がした。その後護良親王は、「父帝に幽閉される」と言う不幸に見舞われるが、楠木正成は最後まで後醍醐天皇を盟主と仰いで戦った。
不思議な事に、何故か正成には、護良親王の「父帝を頼む」と言う思いが、声無き声となって、親王幽閉後も途絶える事無く伝わってきていたのだ。

一方楠木正成と違い「血統と言うブランドを持つ」表の影人の北畠、足利、新田は、北条得宗家の後釜を争い始めた。氏族にとって「御定まり」と言うべき「鎌倉幕府成立当初の勢力争い」と同様の内紛が、再び起こっていたのだ。


鎌倉幕府が崩壊、後醍醐天皇の「建武の親政」が始まると、文観はやっと「赦免」となって鬼界ガ島から帰って来た。後醍醐天皇が、鬼界ガ島に流された盟友の文観を忘れる訳が無い。早速の「赦免」の沙汰である。この日を文観は、一日千秋の思いで待っていたのだ
しかし帰って来た文観は、後醍醐天皇の元へ行かなかった。既に武人共が、幅を利かせて、勢力争いをして居て、文観の居場所が無かったのだ。それに、流人の生活は過酷で、精神にかつての気力は残っては居ない。文観の法力はめっきり衰えていた。京に行っても、改革を始めた後醍醐天皇の御役に立つ自信はなかったのだ。

楠木一族の地、河内の国・高安の金剛寺に居を構えて、養生する事にした。体力的に、和合の呪詛ができない。食料事情が悪い鬼界ガ島の流刑時代に、著しく体力を失っていたのだ。
島の人々は高名な僧侶文観には親切だったが、自分達も食べるのがやっとで、文観を食べさせるにはよほどの犠牲を払っていた。名だたる僧侶だからこそ、文観(もんかん)僧正は島民上げて庇護されたのだ。流刑の間、法力を高める歓喜法の相手をする女人も、島には居なかった。

女人の流刑者も居るには居たが絶対数が足りず、島の男達の共有物みたいな「掟(おきて)」が生きていた。
独占を主張すると、殺し合いに成りかねないのが、島の事情だ。歓喜呪法の占術処では無かったのだ。文観はボロボロに成った文観が回復するのに、修験道の秘薬の薬効をもってしても、二年の歳月を要した。その間に、南北二つの朝廷が並立して、乱世が始まってしまった。

両軍対峙した湊川の戦、さらに敷山の戦いに敗れ、後醍醐天皇(南朝)は、朝廷の正統性を表す「三種の神器」を携えて、残兵とともに吉野山に逃れる。そう、吉野山は八咫烏(ヤタガラス)の言わば本拠地である。八咫烏(ヤタガラス)は神の使いであり、朝廷に「事有る時」に救いの手を伸ばす。
この壮大な物語は、末代までの「朝廷護持」の為に、あらかじめ「神が設定した」事、なのかも知れない。それに、「真言密教立川流が必要だった」とは考えられないか?

足利尊氏は、京に光明天皇(北朝)を擁立して、天下に「天皇を名乗るものが二人居る」、南北朝並立時代に突入する。
吉野に逃れた後醍醐天皇方は北朝・光明天皇を認めず、南北二つの朝廷が並立して、五十年以上に及ぶ武力対立が続いた。これを、南北朝並立時代と言う。
後醍醐天皇の「建武の親政」(天皇の直接統治)が、二年と持たなかったのである。

足利―持明院統に追われた後醍醐天皇方は、吉野山に逃れ徹底抗戦を謀っていた。吉野朝では相変わらず、女官達と親王達は毎夜乱交を繰り返していた。
それは、描写するのもはばかられる、想像を絶する隠避な行為の連続で有る。しかし良くしたもので、それには必然性のある何かの力が働いていたので有る。危機にあって、南朝の皇統を絶やさぬ為にも、親王の数を増やす現実的な必要があったのだ。

流刑の為に法力を弱めていた文観の、朝廷への中央復帰の目は無くなってしまった。
これは同時に、真言密教立川流の衰退を意味していた。その、挽回の余力は、もう文観には無かった。何よりも、心血を注いだ「髑髏本尊」を、流刑の捕縛の祭に幕府方に押さえられ、手元から失った事が、文観の法力を弱めていた。

宿敵真言宗右派の進言により文観所有の「髑髏本尊」が、鎌倉幕府に対する倒幕祈願の呪詛の証拠と訴えられ、鬼界ガ島、流刑の間に焼却されてしまった。この埋め合わせは、簡単には出来ない。
新たな本尊の開眼には、七日七晩の荒行と、八年の歳月が必要となる。文観の回復を待っていては、とても間に合わない。

呪詛が効かねば、文観の出番は無い。
河内国高安の、「金剛寺」の生活は、文観にとって隠遁に近かった。一度だけ、後醍醐天皇のたってのお召しで、吉野宮に出向いた。激しい合戦の最中であった。

良くしたもので、吉野山中と近隣の村々、遠くは京の都まで、上手く「裏の行き来のルート」は出来ていた。
吉野山中の修験道は全て南朝方と言って良い。
案内が居れば、行き着くのは存外に容易だった。

文観は獣道をかき分けて、吉野宮に辿り着いた。
かつての盟友の到来に、後醍醐天皇も喜びと伴に文観を迎えた。

後醍醐天皇は、自らの死期が近い事を察して、文観にある事を頼む為に、召し出したのである。「文観、親王達の行く末が心配じゃ、これを頼む。」文観は、天皇から一通の書状を預かった。

二人の間には、信頼があった。
後醍醐天皇は、吉野朝の子孫が京の都を奪還する事を願って、その時必要な軍資金を用意してあった。

吉野朝が軍資金を「豊富」なのには、れっきとした理由がある。
実は吉野山一帯は、弘法大師が目を付けた豊富な水銀の産地である。

中国から経典を持ち帰った弘法大師(空海)は、水銀を使って「金を精製する技術」も持ち帰っていた。
弘法大師の真言宗布教にも、この資金は大いに役立った筈だ。
つまり、金を得るには吉野の地が、戦略上重要だった。

その豊富な資金を五分割し、四人の親王と文観に託したのである。
その噂は、すぐに広まった。
楠木一族が寺の警護を申し出たが、文観は「無用じゃ。」とそれを蹴った。
警護が付いたのでは、噂が本当になる。何も警護が無ければ、反って疑われ難い。

だが、それは実際に起きた。
噂を聞きつけた北朝方の軍勢五百騎に、金剛寺が取り囲まれたのである。意気込んで来た北朝方も、寺に警護が一人もいないので腰を折られた形だが、早速文観を詰問する為に対面した。
「南朝方と通じて、陰謀の疑い是あり。これをいかに申し開く?」

文観は少しも慌てず、「何も無いから、どこぞをひっくり返しても良い、好きに捜せ。」と切り抜けた。
北朝方の兵士どもは、それこそ竈(かまど)の灰の下まで掘り起こしたが、何も出ないので単なる「流言の類」と、結論付けた。
高位の僧に刃(やいば)を向ける度胸は、仏罰を恐れる素朴な軍勢の将には、無かったのである。

これは冷や汗もので、寸での処で、従う勘解由小路の者に軍資金のありかを認(したた)めた書状を託して逃がしていた。
この事が、南朝の財宝隠匿説そのものを流言とする北朝見解と発展する事になる。それが、「文観、してやったり」と言う知力に長けた最後のご奉公であった。

修験者に持たせた書状は、中国地方に落ち延びて行った「或る親王」の手に渡って、無事だった。
後ほど明るみになるが、その親王の子孫は、その書状の秘密を五百五十年間余り守り抜き、明治維新の折に、その軍資金が「長州の倒幕資金に宛てられた」と言う、噂がある。
あくまでも、噂である。

書状を、無事に南朝方に返した文観は、平穏な日々を送っていた。そのうちに後醍醐天皇も吉野で崩御され、時代は移り行く・・・。三年もすると、文観は悟った。
「最早(もはや)、自分の時代は終わった。」
見蓮の顔が浮かんだ。あの・・・「やっと老いて死ねる。」と言った、あの安堵の表情が・・・。

ようやく体力は回復したが、既に神は後継者をお望みで、文観の復活ではない。思えば、神の命ずるままに、重い責任を背負ってここまで来た。どうやら、ここらで「荷を降ろせ」と言う事らしい。
若かった文観も、今は老僧の体を為していたのだ。
南北朝の争いは、近くで激しく続いていたが、心は穏やかだった。

後醍醐天皇の波乱の人生も、終焉を迎えようとしていた。帝は、多くの思いを残して、まだ未練を引きずっていた。
この帝の強烈な思いが、やがて怨念となって後の世に現れる。

信じられないかも知れないが、DNA的な血の記憶が、未来に受け継がれる可能性は否定できない。
何故なら、それが人間でなくても子を産んで育てる本能は自然に備わっている。他の遺伝情報が無意識のうちに伝播されても何の不思議もない。

後醍醐天皇は、失意のうちに吉野で崩御された。
しかし、帝の魂は皇統の皇子達に残った。
この怨念の魂は輪廻転生を繰り返し、やがて遥か江戸幕府の倒幕へと到るとは、この時はまだ、この世の誰もが知る由もなかった。


南朝方の武将で忘れてならないのが、九州の菊池氏である。後醍醐天皇の討幕運動に端を発する元弘の乱に、九州から参戦したのが、藤原氏(大宰府の官・藤原政則の子の則隆)を祖とする菊池氏である。

鎌倉時代後期、菊池武時は討幕運動に賛同して九州における北条氏勢力である鎮西探題の北条英時を攻めるが、英時に加勢した少弐氏や大友氏により討たれてしまう。

その後も菊池氏は後醍醐帝に助力、建武の新政に参加する。
しかし、鎌倉幕府滅亡後に後醍醐天皇により開始された建武の新政から足利尊氏が離反し、一時後醍醐帝方に京都を追われた尊氏は九州へ逃れた時、少弐貞経の子の少弐頼尚が赤間関へ尊氏を迎える為に赴いたのに対して、後醍醐帝(宮方)勢力であった菊池武敏は大宰府を攻めて少弐貞経を滅ぼす。

その後の千三百三十五年(建武二年)、菊池武時の子・武重が新田義貞陣営に加わり足利勢の足利直義と箱根・竹ノ下に対峙、有名な「菊池千本槍(きくちせんぼんやり)」の奇功を成功させる。
この菊池千本槍が、後の戦法に大きな影響を残す新型の戦法である。

実は、南北朝時代の戦法に槍はまだ普及しておらず、刀によるものが主流だった。
処が菊池武重は、竹の先に短刀を縛り付けた兵器を発案する。
部下に命じ、竹やぶから各自、手頃な竹を各々長さ一間(二メートル)ほどに切らせ短刀を縛り付けて槍を作らせた。
この槍に足利(直義)勢三千は苦戦し、千名の菊池(武重)勢に敗れている。

この戦果に菊池武重は、大和の国で刀鍛冶をしていた南朝方の郷士「国村延寿」と言う者に本格的な槍を作らせ、その後兵器として一般的なものになって槍は定着した。

菊池武重の依頼を受けた国村延寿は悩んだ挙句、最終的に槍の穂先を独鈷杵(とっこしょ)の頭と同じ形状にした。
元を正せばインドにあった武器・槍の穂先が変化したものであるから、それがピタリと収まった。

菊池武重に槍造りを命じられた国村延寿は、その後菊池姓をもらい菊池延寿と名乗り九州菊池に住んだ。

一方、菊池武敏らは同じ千三百三十五年(建武二年)に阿蘇惟直らとともに多々良浜の戦い(現在の福岡市東区)で足利尊氏と戦って敗北するが、敗走した菊池氏は、本拠の菊池郡に勢力を維持する。

足利尊氏が多々良浜の戦いの後に再び上洛し、後醍醐天皇が吉野に逃れて、京都は足利方が制圧する。
その後京都に足利氏の武家政権が成立して足利が北朝を立て、後醍醐天皇は吉野に南朝を成立させた為、南北朝並立時代となる。

千三百四十八年、南朝は、征西将軍として後醍醐天皇の皇子である懐良(かねなが)親王を九州へ派遣する。

千三百二十九年(元徳元年)藤原為道の娘を母として懐良(かねなが)親王後醍醐天皇の第十一皇子)が誕生する。
懐良(かねなが)親王は、南北朝時代、南朝の征西大将軍であった事から征西将軍宮と呼ばれた。

千三百三十六年(北暦・延元元年/南暦・建武三年)、七歳の懐良(かねなが)親王は幼いながらも後醍醐帝の命により征西大将軍に任命され、五条頼元親子ほか藤原孝範ら十二名の従者に補佐されて九州を目指して吉野を出立する。

千三百三十九年(北暦・延元四年/南暦・建武六年)征西将軍宮・懐良(かねなが)親王一行は海賊衆である熊野水軍の援助を得て伊予忽那島に到着、四国の忽那島で三年間宇都宮貞泰の処に滞在している。

千三百四十二年、懐良(かねなが)親王一行は伊予忽那島を出発、日向を経て薩摩山川津に到着宇都宮貞泰と共に九州へ上陸し薩摩の谷山隆信の谷山城、肥後菊池武光の菊池城を経て、菊池武時の子・菊池武光や阿蘇惟直に擁立されて阿蘇惟直の肥後・隈府城に入り、征西府を開いて九州経略(九州平定)を開始する。

懐良(かねなが)親王を奉じる菊池氏や阿蘇氏は多々良浜の戦いで足利尊氏に敗れた九州の南朝勢力である。
九州には尊氏が東上の際に鎮西総大将として博多に残した一色範氏・仁木義長らの足利勢力がおり、さらにこの時「観応の擾乱」と呼ばれる足利家の内紛で、叔父で養父である足利直義に味方し、父・尊氏に反旗を掲げた尊氏の子・足利直冬が九州へ入り肥後川尻で少弐頼尚に擁立されると、九州は室町幕府方、足利直冬方、南朝(懐良)方と三勢力の鼎立の戦乱状態となる。

懐良(かねなが)親王が征西府を開いて五年、千三百五十二年(正平七年/文和元年)懐良親王を擁立した菊池氏は、針摺原の戦い(福岡県太宰府市)で勝利する。

懐良(かねなが)親王は豊後国攻略に日田へ向けて出発し転戦、玖珠 由布 狭間を経て豊後 府中へ進み、速見郡 大神から豊前国宇佐 城井へ入ると、大友氏時や宇佐大宮司らは親王軍に降参する。
筑前国植木を通り博多に進攻した懐良(かねなが)親王は、宇佐神宮に白鞘入剣(国重要文化財)を奉納している。

降参した大友氏時の目付役として藤原孝範を豊前大家郷(大江郷 現中津市)郷司に補任し丸山城に居いたが、大友氏時は間もなく離反し高崎城に篭城する事態となる。

懐良(かねなが)親王が九州に上陸して早十七年後の千三百五十九年(正平十四年/延文四年)筑後川の戦い(大保原の戦い、現福岡県小郡市)が起こり、菊池武光、赤星武貫、宇都宮貞久、草野永幸ら南朝方が、直冬方から幕府に復帰した少弐頼尚傘下の北朝方を破り、南朝方が九州の拠点である大宰府を制圧し、以後十余年間、一時「九州南朝」と言われ、足利幕府も手を焼く勢力を誇って九州を統治している。

しかし、千三百七十五年に室町幕府管領の細川頼之が九州探題として派遣した今川貞世(了俊)により大宰府を追われる。
貞世の罷免後に九州探題に渋川満頼が派遣されると、菊池武朝は少弐氏と同盟して渋川探題を奉じた大内氏と対立するが、後の戦国時代に大友氏により菊池氏の主力は滅ぼされ、幾つかの枝が九州各地に残る事と成った。
この菊池氏の末裔が、明治維新の英雄として登場するのは、まだ随分先の事である。

北朝・幕府管領の細川頼之が九州探題として派遣した今川貞世(了俊)により北朝九州政権が大宰府を追われる頃、形勢不利となった九州の戦況挽回の為に大内氏を頼った良光(ながみつ)親王は南朝・後醍醐帝の皇子で、南朝の征西大将軍・懐良親王(かねながしんのう)の継子に当たり、懐良(かねなが)親王の忘れ形見である。

懐良(かねなが)親王の皇子・良光(ながみつ)親王は、吉野朝・後村上天皇に預けられ、その後北朝方室町幕府管領の細川頼之が九州探題として派遣した今川貞世(了俊)に圧されて劣勢となった九州南朝方・征西軍の援護を要請する為に中国地方の有力者・大内家に下向している。

大内家では、良光(ながみつ)親王こそ受け入れたが、「時期を見る」と動かず、親王を匿ったままに北朝方の九州平定を迎えていた。

この良光(ながみつ)親王の末裔が、明治維新の折りに密かに後醍醐帝と懐良(かねなが)親王の怨念を晴らすかの様によみがえった話しは、維新の時代を迎えた頃にジックリと記述する。



南北朝初期の頃はまだ南朝方の勢力も強く、互いに味方を募り予断を許さない状況が続いた。
その後、宿敵新田義貞を筑前で破り討ち取った足利尊氏は、光明天皇(北朝第二代)より「征夷大将軍」に任ぜられた。
これをもって室町(足利)幕府は成立する。

これは現代に通じる良く在る過(あやま)ちだが、後醍醐天皇と足利尊氏の勝敗を分けた主因を端的に言う。
部下は指導者が偉いから付いて行くのでは無く、「食わしてくれる」から付いて行くのである。

経営者も、政治家もここに心しなければ部下や大衆は付いて来ない。
経営者や政治家が、後醍醐天皇のように「自分が偉い」と自惚れて一部の者だけの利を図れば多くの敵を作り、その指導力は短命に終るのである。


その後も南朝方は、「三種の神器」を奉じ、吉野山中一帯を本拠地として、度々京にも攻め上り、まだ健在で抵抗を続けていた。
しかし三年に亘る激しい攻防戦で、楠木、新田、北畠、千種、名和、結城などの名だたる武将が戦死し、その戦いの最中に、後醍醐天皇も崩御される。
真言立川流の呪力は、ついによみがえらなかったのである。

文観は、建武の新政から南北朝時代となっても後醍醐方に属して、真言密教の根本道場「東寺」の東寺長者(とうじのちょうじゃ)大僧正となる。
一時は立川流を「国教にするか」と言う所まで広めた文観は、河内国天野山金剛寺(大阪府河内長野市)で、享年八十歳にて没した。

文観は、当時としては珍しく、八十歳と言う長寿を全うしたそうである。
立川流の呪法の効き目なのかも知れない。
文観は、死期を迎える僅か前まで、村娘を相手に日々のお勤めを欠かさず立川流を守っていたのだ。

真言密教立川流(真言宗左派)は、対立する宗教勢力(真言宗右派)と結び付いた政治勢力(北朝方)が、南朝方に勝利すると、倫理観を前面に出して「淫邪教」の烙印を押されてしまった。

所が、本来の立川流の教義の形成経緯は、密教の命の持つ力(パワー)に対する純粋な信仰心と土着の呪術・占術を一体化した修験密教の教義を、誓約(うけい)の概念をも含めて理論武装し再構築したもので、ただ単に淫蕩な目的の宗教では無いのである。

真言宗右派(反立川流禁欲派)と北朝(持明院統・光明天皇)、足利尊氏派が、真言宗左派(密教立川流・文観弘真僧正)と南朝(大覚寺統・後醍醐帝)、新田義貞・北畠顕家派に勝利し、文観僧正に拠って頂点を極めた真言密教立川流は、急速に衰えて行く。

元々、仏教と儒教は異なる宗教であるから、仏教・真言宗の開祖・弘法大師(空海)が儒教を否定した。
その開祖・弘法大師否定した儒教思想を、主流と成った真言宗右派は、チャッカリ教義に取り入れて立川流を邪教とし、禁欲の教義を広めた為、安土地桃山期には真言密教立川流はほとんど無くなり、江戸初期には完全に消滅してしまった。

実は、儒教思想採用後の「性欲を煩悩」とする宗教観は、一見正論の様で根本的に間違っている。
人間の「業(ごう/カルマ)」と言うものは、本能の事ように言われるが、実は、「知性・理性」と言った余分な事を考えるように成り、人間が利の追求の為に嘘つきに成り、手段を選ばなく成った事こそ「業(ごう)」なのである。

何故なら、素朴な生物本能に「業(ごう)」何てものは存在しない。
客観的に見れば、本来、素朴な筈の性行為に特別な理由をつけたがるのが人間の悪い所である。

この教義上の争いは、人間の本質を生かして調和して行くのか、建前に紛らわしてしまうかの「せめぎ合い」だったのだが、結果的に建前に紛らわす無理な方法を採ってしまったのである。

しかし不思議な事に、この禁欲の教え、支配階級だけは血統の維持を名目に例外で、昭和の敗戦で民主憲法が出来る前までの永い間、天皇を始め、氏族(貴族や武士)から大商人まで「妾」を沢山こしらえて居た。

つまり、矛盾する事に姦淫を禁じられたのは貧しい民ばかりで、「お前らは家庭や社会を乱さず、真面目に働いて上納しろ。」と言わんばかりである。
もっとも、戦後の昭和三十三年までは、売春(公娼制度)が公認されていたから、儒教精神も諸々の仏教信仰も、かなり鈍(なまく)らの「建前」だったのかも知れない。

そこを取り上げれば、真言密教立川流が建前ではなく、赤裸々に人間の本能に迫り、そこから人間の本質を生かして「調和して行こう」としたのは、それなりに一つの真理の探究ではなかったのか?


本来男性は、存在そのものが生殖本能の塊であり、今は社会環境(社会的制約)が許さなく成って、発揮する範囲が極端に減った。
だが、本来「男性の向上心や闘争心」の原動力は女性の存在である。
男性の基本的本能にある潜在意識は、女性と良い交尾する事で、その為に努力するように思考回路は出来ている。

この辺りの、否定出来ない男性の本能については女性の理解が必要で、そこを無視して女性の感性を押し付けるから、男性の向上心や闘争心が削(そ)がれて、頼り無い男ばかりが出現する事になる。
貴女の旦那様が、面白くも無い無気力で平凡な男性なら、それが貴女に原因があるかも知れない。

現在の社会事情では、当然ながら男性が無分別に「良い交尾」をして歩く事は出来ない。
男は、単純な生き物であるから、いたずらに本能が抑制されれば、力を発揮する意欲は自然に減退する。

そう言う制約の中で旦那様が本能に火を着けて、向上心や闘争心を発揮させるには、「貴女の心掛けが必要」と言う訳である。
つまり、貴女が妻や娼婦を使い分けて演じ、旦那様の本能に火を着ける事で、新しい未来が開けるのかも知れないのだ。

そうした貴女の心掛け無しに、ただ「頑ん張れ」と尻を叩いても、単純な男性としての旦那様は、餌も無しに向上心や闘争心が燃える訳が無いのである。

必要なのは人間と言う動物に「何が大切か」と言うと「発想の転換である」である。
頑(かたく)なに、既存の常識・建前を振りかざしていたのでは、自ら生き方を狭くするばかりで、けして得策ではない。
物事を柔軟に考えると、哀しいかな、動物の一種類としての人間の本能には、犬と同じに「優劣主従の関係」を欲求する心理的遺伝子が残っている。
これは群れを作る動物には必ず存在する自然本能で、後に発達した論理「人間平等精神」とは矛盾がある。
所が、人間界の建前ではその本能を無視し、「人間は平等だ」と奇麗事を言う。
そこで、その本能と建前の乖離(かいり)により、様々な問題が引き起こっている。

つまり一部の人間には、支配欲や被支配欲(支配されたがる)が深層心理に強く存在する訳である。
所が、世間の建前は「人間は平等だ」と言う事に成って、深層心理にフラストレーションが溜まる。
このはけ口が、時として学校での虐(いじ)めや家族内虐待に向かったり、絶対権力者を求めて新興宗教の教祖に、無条件で嵌(はま)ったりする。
果たして、性欲に蓋をするだけで事足りるのだろうか?

高齢者にだって、性欲はある。世間の建前では、「良い年をして。」が、前提になっていて、老人の性は切り捨てられている。
何故ならば現代社会において、老人の性は社会秩序と相容れない制約環境に取り囲まれているからだ。
つまり、老人達の生命の人間性を無視し、社会秩序の安定と言う別の理由の為に、理性を強いているだけだ。

人間は、もてたいパワーから人生が始まり、もてたいパワーが、生きる希望や向上心の原動力になっているのは、誰も否定出来ない。

今でこそ、性欲の事をおおっぴらにする事を「はしたない事、社会秩序に反する事」と、密封されているが、昔は違った。
弘法大師(空海)がもたらした真言密教の、鎌倉初期に封印された教えには、性は「生きる為の活力の元」と書いてある経典も数多くあった。

中国で古くからある「医食同源」と同じように、「性は生に通ず」が、この教えの基本である。勿論、「社会秩序を配慮する」と言う注釈付ではあるが、健康の為の特効薬である事は、間違いない。

現代に於いて、高齢化社会の出現は社会問題になっている。元気に働ける高齢者を創出する事が求められているのだ。 この理解の無さが、生きる気力を低下させ、精神や肉体の老化を促進させるとは、考えられないか?批判も多いと思うが、一つの真理である。



どうも都合の悪い過去は「無かった事」にするのが人間である。
真言立川流についても、現存する文献から導き出して「淫邪教とは別の信仰だ」とする研究者も多い。

しかしながら、我が国のみならず洋の東西を問わずに、権力に敗れた側の信仰の教義は根こそぎ隠滅されて当然である。
ましてやその教義が、勝った側の教義と正反対であれば、「無かった事」にしなければ都合の悪い過去である。

当然の事ながら、生き残る為や外聞を慮(おもんばか)って「文献の改ざん」などが行なわれる事、つまり「無かった事」にする事も有って然るべきで、現存する文献からのみ結論を導き出すのはバランスが悪い。

この物語の当初から申し上げている通り、現代まで残る文献には必ず何らかの意図が含まれるものである。
現在の社会合意の物差しから大いにはみ出しているこの「真言立川流」の存在において、時代背景を考慮すれば「都合の悪い過去」として葬り去るには好都合の文献しか残らなくて当然である。

「始めに結論ありき」でそこを意図的にホジリ出して、無理やり「無かった都合の悪い過去に仕上げよう」と言うのであれば、それは少し違うのではないか?
それ故、あえて「真言立川流」の案外事実かも知れない俗説を採って物語を進めた。

「根拠」は何かと尋ねられれば、証拠がないので憶測の域を出ないが、後醍醐天皇が吉野へ逃れ、足利氏と持明院統(北朝)が勢力を拡大すると、醍醐寺大覚寺統の「真言立川流」は徹底的に弾圧されて先細りと成り、やがて衰退して消滅している。

一度広まった信仰を消滅させるのは、本来並大抵の事ではない。
それを攻撃し消滅させるには強力な材料が必要である。
この徹した「真言立川流」へ弾圧振りの理由が、かの教義が、髑髏(どくろ)信仰とまで行かなくても、「世俗的、かつ非禁欲的だったからこそではないか」と推察されるのである。


真言密教に大きく影響を及ぼした理趣経(りしゅきょう)の経典は、その基礎に大陸での「妙見信仰」がある。
実はこの妙見信仰は弘法大師・空海が経典として持ち帰る前に、既に大陸からの移住者(渡来人)達に拠って先行して伝来し普及していた。

そして列島独自の原始宗教と習合し、陰陽修験道として集成していたのである。
そうした経緯から、弘法大師・空海の真言密教は陰陽修験道とは一体化の道を辿り、総本山金剛峰寺は修験道の修行の地と成るのである。

さて妙見信仰の伝来当初は、渡来人の多い南河内など辺りでの信仰であった様だが、次第に畿内などに広まって行った。
しかし朝廷の統制下にない信仰であった為、統治者としての統制が取れない。
神の威光で統治する朝廷にとって、庶民の間で勝手に広がった「妙見信仰」は危険な存在だった。

七百九十六年(延暦十五年・平安遷都直後)に妙見信仰最大の行事「北辰祭(妙見祭)」を禁止した。表だった理由は「風紀の乱れ」であった。
これは何を意味するのか?

庶民の間に、男女の交わりを指す隠語として「お祭りをする。」と言う用法がある。
本来、信心深い筈の庶民の間で、神の罰当たりも恐れず使われていたこの言葉の意味は、何故なのだろうか?

命を繋ぐこの行為を、「ふしだらなもの」ではなく、「神聖なもの」と捉えられていたからに他ならない。
元々「生み出す」と言う行為は神の成せる業で、それを願う行為が「お祭り(性交)」なのである。
気が付くと、神前で挙げる結婚の原点が此処に垣間見れる。

日本における所謂(いわゆる)庶民参加の祭り行事のルーツは、北斗妙見(明星)信仰が源(もと)であり、陰陽修験の犬神信仰の影響を受けているから大抵その本質は「乱交闇祭り文化」である。
つまり、建前(本音はただの性欲のはけ口かも知れないが?)子供(命)を授かる事が豊作を祈る神事であるからだ。

例えば、京都・宇治の「暗闇祭り」、今でこそ暗闇で御輿を担ぐ程度であるが、昔は暗闇で、相手構わず男女が情を通ずる為の場だった。
京都府宇治の県(あがた)神社の「くらやみ祭り」は、明治維新まで無礼講の祭りだったのである。
こうした事例は何も珍しい事ではなく、日本全国で普通に存在する事である。

当時の庶民感覚は、元々「性」にたいしておおらかだった。
信仰が庶民に浸透して行くには、それなりの現世利益が必要で、「北辰祭(妙見祭)」は、当時の庶民が日頃の憂さをおおっぴらに晴らす有り難い行事として、「大いに支持された」と言う事だろう。
そこまで行かなくても、若い男女がめぐり合う数少ないチャンスが、「祭り」の闇で有った事は否定出来ない。

朝廷の「北辰祭(妙見祭)」禁止から十年、八百六年(大同元年)唐から帰国した空海(弘法大師)は高野山(和歌山県伊都郡高野町)に真言宗・総本山金剛峰寺を開山する。
空海(弘法大師)が信徒獲得の為に目を付けたのが、北辰祭(妙見祭)禁止に対する「庶民の不満」である。

空海の教えは、身に印契を結び(両手の指を様々に組み合わせる事)、口に真(真実の言葉)を唱え、心に本尊(大日如来)を念ずる事により「即身成仏(煩悩にまみれた生身のままでも救われる)に成る事が出来る。」として「性」を積極的に肯定している。

この妙見信仰や、修験道と結び付いた弘法大師(こうぼうだいし・空海)の真言密教は庶民にも浸透して行った。所が、そのライバルが現れる。
鎌倉期〜安土桃山期にかけて大陸で「元」が起こりその侵攻を避けて南宋から渡って来た知識人が朱子学等最新の「儒教」を伝て、否定されて一度は衰退していた「儒教」が幅を利かせ始め、日本の「性」に対する意識は主として支配者側と庶民側に二分して行く。

勘違いしてはこまる。言わば、儒教・儒学(朱子学)の精神思想は永い事「氏族の精神思想」で、江戸期にはその「忠孝思想」が「武士道(さむらい道)」の手本に成ったが、けして庶民の物では無かった。
つまり、当時の支配者側と庶民側の「性に対する意識の違い」を理解せずに、現存する支配者側の文献にばかり頼ると「暗闇祭り」の意味が理解出来ないのである。

庶民側のそうした風俗習慣は明治維新まで続き、維新後の急速な文明開化(欧米文化の導入)で政府が禁令を出して終焉を迎えている。

明治維新以後、保守的な漢学者の影響によって教育勅語などに儒教の忠孝思想が取り入れられ、この時代に成って初めて国民の統一した意識思想として奨励された。
つまり、かつての日本的儒教(朱子学)は、武士や一部の農民・町民など限られた範囲の道徳であったが、近代天皇制(明治以後)の下では国民全体に強要されたのである。

従って庶民の大半には、北斗妙見(明星)信仰や陰陽修験の犬神信仰、真言大覚寺派の教えも、明治維新までは根強く残っていたのは確かである。
この明治以後に初めて庶民にまで浸透した儒教的価値観を、まるで二千年来の歴史的な意識思想とする所に、大いに妖しさを感じるのである。

鎌倉期以後、京都五山、鎌倉五山等、禅宗寺院において研究された「儒教」は、やがて支配者側に浸透し、儒教を批判した弘法大師のお膝元真言宗も、一部が「儒教」の知識を取り入れて二派に分かれて行く。

後醍醐天皇の「建武親政」当時、皇統は大覚寺統と持明院統に分かれ皇統の継承争い発展していた為、皇統護持の寺・真言宗醍醐寺も大覚寺統と持明院統に分かれ、弘法大師の真言密教を発展させた立川流の大覚寺派と真言宗に「儒教」を取り入れた持明院派の教義上の主導権争いがリンクしていて、南北朝並立時代は、皇統同士の継承争い、皇統と武門の権力闘争、大覚寺派と持明院派の主導権争いが複雑に絡んで、南北朝四十五年、後南朝五十数年と約百年に渡り内乱が続いたのである。

南朝方の抵抗は続いていたが、国土の大半を統治下に収めた皇統持明院統と足利(源)尊氏、真言宗持明院派がほぼ勝利を収めると、当然の事ながら、「儒教」を取り入れた持明院派の教義が真言宗の主流となり、真言密教立川流は弾圧され衰退の道を辿って行く。

一度根付いた大規模な信仰を根こそぎ消滅させる事は、本来並大抵ではない。
そこで攻撃する為の信者さえ納得し得る大義名分(淫邪教と呼ぶ)が採用され、真言宗は殊更儒教色の強い教義となった。

近頃、金沢文庫(かねさわぶんこ)の文献を引用して真言密教立川流は「淫邪教では無かった」と唱える学者がいるようだ。
室町期以後に「淫邪教」として散々弾圧し、衰退させた歴史的経緯がある「真言立川流」を、今に成って別の名も無い一派が「淫邪教」であって、「真言立川流は全く違うものだった」とする研究者が存在するが、それでは、一度根着いた信仰を徹して弾圧する為の大儀名分はいったい何だったのか?

それを言うなら、太平記に「文観僧正の手の者と号して、党を建て、肘を張るもの洛中に充満して、五〜六百人に及べり」とある。
この記述に拠り、文観僧正が非人達を武装組織した「私兵だった」と言う指摘があり、徒党を組んで乱暴狼藉に及び婆娑羅な風俗を「洛中に蔓延させた」とされるが、歴史物語は主役敵役・敵味方が在って初めて面白くなる。
何しろは文観僧正は稀代の妖僧で、真言立川は淫邪教と鎌倉方と真言宗右派(禁欲派)に排斥されて後の記述なので、お定まりの時勢に沿った捏造物語かも知れない。

冷静に考えれば、「淫邪教」と決め付けるだけのエロチックな要素(必要条件)が「真言密教立川流」に存在しなければ説得力に欠ける話で、徹底弾圧の大儀名分足り得無いではないか?
その揺ぎ無い徹底弾圧の事実と、「別の名も無い一派が淫邪教」だったする事の整合性がない。

ただ金沢文庫(かねさわぶんこ)の「文献に在ったから」と、南朝・後醍醐帝まで信仰した「真言密教立川流を全く違うものだ」とする事こそ、強引なこじ付けではないだろうか?

鎌倉幕府が滅亡した後、南北朝・室町幕府時代以後に金沢文庫(かねさわぶんこ)の文献を明治期まで管理したのは、真言律宗別格本山・称名寺 (しょうみょうじ)で、真言密教立川流については同じ真言宗門として、「有っては成らない」と言う都合が悪い立場の寺なのである。
そうした周辺事情を考慮すると、金沢文庫(かねさわぶんこ)の文献内容にも、手放しの信頼は置けないのである。

事、良識派を気取る研究者の「有ってはならない」と言う希望的な意図する思いが、該当する文献を掘り起こした「研究成果」と、うがって考えるのは我輩だけだろうか?
そして真実から目を背(そむ)けられ、歴史も文献もでっち上げられて「無かった事にする」のである。

我輩は、時代考証に拠る推測で、現在とは違う宗教観や風俗習慣が「有って当然」と思うが、こう言うエロチックな伝承を取り上げると、直ぐに良識派を気取る連中が希望的作文で対抗してくる。

彼らの言い分は、「先祖がそんなにふしだらの訳が無い。や、子供達に説明が出来ない。または外聞が悪い。」と言うもので、けして明確な根拠がある訳ではない。それでは伝承風聞の類は最初から検証をしない事に成る。
所が、公式文献より伝承風聞の類の方が案外正直な場合がある事を忘れてはならない。

伝説や風聞を疎(おろそ)かにする研究者は、本物ではない。
時の権力を慮(おもんばか)っての真実口伝(くでん)も充分に考えられ、真実の歴史を紐解くヒントは、伝説や風聞の中にこそ眠っているのである。
伝説の中に秘められたメッセージを、「謎解きの原資」としてその真実に近付かなければ歴史は語れない。

「社会的現実」と言うものは、時代と伴に変遷するものであるから、現在の「社会的現実」を持ってその時代の庶民意識や価値観を判断すべきではない。
実は、宗教(信仰)と言えども、常に「社会的現実」には迎合して変節するものである。

例えば、元々仏教と儒教は異なる宗教であるから、仏教・真言宗の開祖・弘法大師(空海)が儒教を否定していた。

所が、時代の変遷と伴に南北朝並立期の北朝・持明院統と結び付いた「真言宗右派」が、南朝・大覚寺統と結び付いた性におおらかな「左派・真言立川流」に対抗する為にその性に厳格な儒教思想を取り入れ、北朝の勝利に拠って左派・真言立川流を淫邪教として排除に掛り、仏教諸派が追随して儒教思想を取り入れた。

つまり真言原理主義からすると、生き残った真言宗右派は真言宗開祖教えを守らない事に成り、変節した事になる。
しかし、「弘法大師(空海)様がそんな教えを説く筈が無い。」と、始めから否定して言うのが、宗教家の都合の良い本質である。


残念な事に、リアル(現実)な歴史観は宗教観と政治思想に拠って捻じ曲げられるのが常である。
はっきり言うが、「最初に結論有りき」の良識派を気取る人々の意見は、大衆受けはするかも知れないが信用は置けない。つまり良識派の意見は真実の追究ではなく、「大衆受け」なのである。
そしてその証明の為には、意図的に改ざんされた後世の文献を鬼の首を取ったがごとく取り上げる。

都合の悪い過去は「無かった事」にする為に、消極的な方法として「触れないで置く」と言う手法があり、積極的な方法としては文献内容の作文や改ざんが考えられるのである。
歴史の流れを読む事とは、バラバラのパズルチップをかき集め、当て嵌めて行く作業であり、正しい答えは断片を捉えても見えてはこない。

そもそも密教には、人間は「汚れたものではない」と言う「自性清浄(本覚思想)」と言う考えがあり、真言立川流が弘法大師(空海)の「東密(真言密教)の流れを汲む」とされるのに対し、伝教大師(最澄)の台密(天台宗の密教)でも男女の性交を以って成仏とし、摩多羅(またら)神を本尊とする「玄旨帰命壇(げんしきみょうだん)」と言う一派があった事からも、性交を通じて即身成仏に至ろうとする解釈が密教中に存在したのは確かである。


それでも、醍醐寺統の皇統は続き、天皇を名乗って政権奪還を試みる。後醍醐天皇がなくなって十年ほどする頃、勢力は次第に衰えて吉野宮も陥落する。だが、南朝方はその後も抵抗を続け、四十五年間がんばり、一度三代将軍足利義満の時代に和解、「三種の神器」も引き渡すが、「明徳和約」による約束を反故にされる。

その後持明院統が交代で皇位を渡さなかった為に、また吉野を本拠に抵抗を始め、さらに五十年余の抵抗の歴史が存在する。
南朝苦難の百年間である。


一方の持明院統の方であるが、こちらにも色々あった。足利氏の後押しで、北朝が圧倒的に有利となり南朝は紀伊半島の山岳部などに追いやられて、この優勢に、北朝の天下は順調に事が進んだかに見えたが、北朝の系統にも疑問を投げかける歴史家もいる。

現世において、神の分身である帝の下す天罰は、勘解由小路(賀茂)党が具現化する役目を負ってきた。
しかし南北朝並立の動乱期を節目に、その勘解由小路(賀茂)党が四散して、帝の影の力(天罰)が直接周囲に及び難くなった事が、弱体化したまま足利幕府の上に乗った北朝・天皇家と朝廷の姿である。

足利尊氏には将軍に成る野心は有ったが、最初から天下を取る自信が有った訳ではない。
実際、旗揚げはしたものの茨の道で、一度は北畠顕家との京での戦いに敗れ九州に逃れて再起を果たし、後醍醐帝を吉野に追う事に成功したが決定打が無く、南北朝並列の不安定な幕府の運営を強いられた。

その後、足利尊氏の開いた足利家の室町幕府が絶対的な権力を握るには、第三代将軍義満の時代に南北両朝が若いするまで待たねば成らなかった。

尚、室町幕府の「室町」と言う呼称は、足利氏幕府絶頂期の三代将軍・足利義満が将軍の公邸として造営した室町殿(通称・花の御所、現在の京都市上京区)に由来している。



南北朝時代突入から約四十五年、足利第三代将軍義満の時代は、室町幕府が最盛期の頃である。
北朝第五代後円融天皇・南朝第四代(通算第九十九代の後亀山天皇の時代)に両朝廷は一旦和解した。「明徳和約」をもって、南朝・後亀山天皇から北朝の御円融天皇(北朝五代)の皇子「後小松天皇(第百代)に和解の上に繋がれた事になっている。

この、後小松天皇には「出生疑惑が有る」と言うのだ。
彼の実の父は、当時並ぶもの無き権力者の将軍「(足利)義満だ」と言う説である。
先帝御円融天皇は、「自殺した」と言うのだ。

原因は時の権力者足利将軍義満に、飾り者にされ、皇后・妃三人を次々犯され、反撃も出来ず「世を儚んで命を絶った」と言う。
決果、皇后から生まれた後小松天皇は、将軍義満の種で、「皇統は途絶えた」と言う噂である。
もっとも足利家も、清和源氏河内流れの皇胤貴族の出であるから、厳密に言えば皇統が途絶えた訳ではない。


将軍義満は、将軍職を第四代・義持に譲ると、朝廷・帝を差し置いて中華・明朝の洪武帝から「日本国王」の称号を得ている。
これは明らかに明国からの冊封(さくふう)であり、国際認知から言えば、天皇ではなく足利義満が国家元首である。
冊封(さくふう)とは、多分に建前の部分(形式的)ではあるが、ある種「国際秩序」の形成に欠かせないもので在ったのだ。

中国を中心にした「国際秩序」の形成は、当時無くてはなら無いもので、それが、冊封(さくふう)朝貢(ちようけん)の制度である。すなわち、多分に実効性は無いが、建前中国に臣下の礼(属国の体裁)をとる事で、ある種の国際関係の形式を成立させていたのだ。つまり、近隣国の存在を国際的に認定する役目を、中国歴代帝国の皇帝は、長い事負っていた。

冊封(さくふう)は、近隣国の権力者(小国の王)が中国皇帝から形式的に官位をもらう事で、その対外的地位を、義満は使者を送る朝貢(ちようけん)により、獲得していた。更に、義満の死後ではあるが、朝廷より「太上天皇」の尊号を賜って、息子の四代将軍「義持」が慌てて辞退しているが、後小松天皇の実父の疑惑が事実なら在り得そうな話である。

その後、「明徳和約」に反して足利氏・北朝方は南朝方に天皇の位を回さなかった為に、南朝方はまたも吉野に潜行(後南朝)およそ五十年のゲリラ戦を展開する。この後南朝の動きそのものが、「足利義満・北朝乗っ取りが原因」とする研究者もいる。


この南朝方の存在は、どうした事か、遥か後の明治維新後、正式に認められて戦前の歴史教科書などに「吉野朝時代」と明記された事もある。
うがった考えだが、もしかするとその後の権力者達の朝廷離れの歴史を予測して、スペヤーとして二系統、「神が用意した」とするのは強引な解釈だろうか。

実は、明治維新の折、この吉野朝(南朝)の皇統が、ひょっこり顔を出す、「奇妙な噂話」がある。
それが妙見信仰、つまり真言密教所縁(ゆかり)の地だったのは偶然だろうか?


多々良姓は、周防、長門地方を平安時代の昔から長く治めた大内氏の古い姓である。
そして大内氏は、妙見信仰の最大の庇護者だった。

下松(くだまつ)市、光市、田布施町などの町々は、瀬戸内海に連なる北辰尊星妙見大菩薩(ほくしんそんじょうみょうけんだいぼさつ)と朝鮮半島、百済(くだら)の国の琳聖(りんしょう)太子の来朝帰化の伝承の地である。

この降星伝説、周防、長門に五百年間と長く君臨した「大内氏の政治工作」とも言われているが、いずれにしてもこの地では妙見信仰は長く保護され、人々に根付いていた。

南北朝時代には、大内弘世は南朝側として周防、長門の豪族を服属させ、「建武親政」に協力すると、正平十八年には一転、北朝側に寝返って周防、長門両国守護に任じられた。
実はこの寝返り、大内氏の存続を守り、しいては南朝の皇子「良光(ながみつ)親王」を密かに匿い、守る為の算段だった。

庇護した皇子の南朝方が天皇に返咲けば、関白太政大臣も夢ではない。
大内氏は戦国時代に配下の陶(すえ)氏に下克上に会い、その陶氏は毛利氏に取って代わられたが、大内氏の血脈が、「良光親王」の血統を守り、神主などの武門以外で多々良姓を名乗り、永らえていたとしても、不思議は無い。

この大内氏の密かな陰謀は毛利家にも引き継がれ、良光親王を守って下向した藤原氏の枝、佐藤氏を名乗る世襲代官が、この地を代々ひっそりと守って、明治維新を迎える。

防周(山口県)は本州最西端に位置し、大和朝廷成立前の、朝廷の祖、須佐王(スサノウ)所縁の須佐町がある。
ある種、朝廷のスペアーが所在しても、違和感が無い。
藤原姓の前の姓は中臣(なかとみ)で、中臣鎌足(なかとみのかまたり)を祖とする呉族系の血筋で、隼人の一族である。

まだ大和朝廷初期の頃は、関東から東北にかけては朝廷の支配が及んではいなかったから、強い戦人(いくさびと)の協力が欲しかったのかも知れない。


頼朝以前の、源氏の緒将の白い旗印には、十の字は良く使われていた事実がある。源氏を武門の棟梁の血筋と決定付けた八幡太郎義家は、源義家と言い、頼朝の五代前の源氏の棟梁である。鎌倉幕府の御家人の苗字も、薩摩の国人の苗字と共通するものが顕著に多いのだ。

この件に関しては謎が多く、決定的な繋がりは不明だが、薩摩の国人と源家の間にはかなりの接点が存在する。
そう考えると、源平の合戦で、平家が西国や九州を頼り、また一部が落人(おちゅうど)となって、日向の国の山深い所に落ち延びた事にも、何か、正反対の歴史的な裏付けがあるかも知れない。
この合戦で、平家が源氏に滅ぼされた事に、歴史的必然性があるとするなら、勘解由小路党もまた、「時代の要求と伴によみがえるもの」かも知れないのだ。

そもそも、戦国の大乱は、室町幕府成立に端を発している。
後醍醐天皇の呼びかけに応じ、足利尊氏や、新田義貞が鎌倉幕府を滅ぼし、後醍醐天皇が「建武の親政」(天皇の直接統治)を行うが、身近の宮廷公家を身贔屓して武士の多くに反感を買い失敗する。

やがて足利尊氏と後醍醐天皇(大覚寺統)が皇統問題で対立し、経過は割愛するが、後醍醐天皇方が敗れて吉野に逃れる。
足利方は、光巌上皇―光明天皇(持明院統)を立てて室町幕府を成立させるが、吉野に逃れた後醍醐天皇方はこれを認めず、南北二つの朝廷が並立して、四十五年に及ぶ武力対立が続いた。
この戦い、後醍醐帝が皇子を各地に派遣した為、九州や東北の地でも、土地の有力者がそれぞれに組して戦った。これを、南北朝時代と言う。

つまり時の権力者が、朝廷に手を入れて、「意のままにしょう」とする時、或るいわ、天皇が自らの意思で、直接統治をしようとする時、日本中が混乱に巻き込まれるのだ。それは、歴史が物語っている。


この南北両朝並立が、実は皇室が全ての力を失う重要なターニングポイントだった。
それまでは勘解由小路党を始め、曲がりなりにも「影人達」を確保して、帝なりに、朝廷なりに力を発揮していた。
所が、その多くが後醍醐帝(南朝)方だった為に、北朝・足利幕府成立後に敗退を重ねながら四散して行き、北朝は武力的には丸裸に近くなってしまった。

矛盾をかかえながらも、朝廷が抱えていた「諜報工作機関」の子孫達との直接的な繋がりが、完全に切れてしまったのである。
この時勘解由(かでの)党の直流が、草として根付いたのが美濃国・妻木の里だった。

この美濃国・妻木に根を下ろした勘解由(かでの)妻木家が、安土桃山期に一人の女性(にょしょう)を嫁に出した。
この妻木家の女性(にょしょう)を娶ったお相手が歴史に残る大人物だったが、その話は後ほどの楽しみにしてもらいたい。

この「諜報工作機関」の子孫達との直接的な繋がりが完全に切れてしまった事が、皇室としては手足をもがれた酷く痛い結果だったので、以後は形式の上の皇位として永い冬の時代を送る事になる。
そして朝廷は、「神の威光で統治する」と言う呪術的発想の「建前の世界にのみ」生き続ける事になって、明治維新までの永い眠りに付く事に成るのだ。

それでもこの国は皇統と影人の国で、室町幕府に於いても歴史にこそ現れない帝及び公家衆と幕府との間には暗闘が在った事は想像に難くない。
もうお判りと思うが、その暗闘の朝廷側に密かに与力していたのが、各地に勘解由小路系の草として根付いた郷士達である。

神の威光を持って統治する朝廷には、武力こそなかったが大きな存在価値が在った。
民を統治する権力にはそれを公認する裏付け手段が必要で、朝廷が任命する官位がその資格証明で在る。

つまりこの国では、古くから朝廷の権威が統治権の公な認証手段で、幕府及び守護大名に対する官位の任命権だけは朝廷の権威を利用する公の権限として存在していたからである。


この南北朝並立時代の騒乱のなかで、有力部将が力を着けたり失ったりしながら、入れ替わって行き、後の守護大名の成立に辿り着いて行く。
やがて守護大名は、勝手に領地争いを始め、幕府の統制は利かなくなる。

しかしながら、この入れ替えの学習が、その後の「下克上」に形を変え、戦国大名の割拠する時代を作り出してしまったのである。
この戦国時代の幕開けを告げるのが「応仁の乱」であった。

実は六十年間続いた南北朝の抗争が、千三百八十二年(元中九年/明徳三年)の「南北朝合一(明徳の和談)」後も北朝方の両統迭立(りょうとうこうりつ)の約束が約束不履行から混乱は続き、南朝勢力の一部(後南朝)はまた吉野へ立て篭もって千四百三十七年頃まで約四十五年間も頑強に戦っていた。

千四百四十一年(嘉吉元年)の「嘉吉の乱」は、南朝の残党が抗戦をあきらめて僅か四年、応仁の乱(おうにんのらん)が始まったのが千四百六十七年(応仁元年)であるから、南北朝並立時代の武力混乱の社会風潮が「依然続いていた」と見て良いだろう。



応仁の乱(おうにんのらん)とは室町時代の足利八代将軍・義政の時に、守護大名・畠山氏内部の家督争いへの将軍家の調停失敗に端を発し幕府管領職の細川勝元と山名宗全と言う有力守護大名が二つに分かれて争った為に起こった全国規模の内乱である。

細川勝元が任じていた「管領(かんれい)」職とは、室町幕府の最高の職で将軍を補佐して幕政を統轄した役職で斯波氏・畠山氏・細川氏の三家が任じ、侍所頭人の山名宗全が勤めていた「侍所頭人(さむらいどころとうにん)」は軍事指揮と京都市中の警察・徴税等を司る侍所の長官で、四職(ししき/ししょく)と呼ばれ、守護大名の赤松氏、一色氏、京極氏、山名氏の四家、イレギラーで美濃守護の土岐氏も任じていた。

この室町幕府(むろまちばくふ)の有力守護大名の斯波氏・畠山氏・細川氏の管領職三家と、侍所頭人に任じられた四家(赤松氏・一色氏・京極氏・山名氏)は、合わせて「三管四職」と呼ばれ、各家が嫁のやり取り養子の出し入れで縁戚となり幕府内で勢力争いをしていた。

応仁の乱(おうにんのらん)の一方の旗頭・細川勝元(ほそかわかつもと)は、室町時代の守護大名、室町幕府の管領、三管領のひとつである足利氏族・細川家嫡流・京兆家の当主であり、もう一方の旗頭・山名宗全(やまなそうぜん)は、室町時代の守護大名で、室町幕府の四職のひとつ新田氏族・山名家の出身である。

足利六代将軍・義教の時、義教が「三管四職」を無視して専制政治をした為に不満を抱いた四職・赤松家の赤松満祐(あかまつみつすけ)に誘殺され「嘉吉の乱」と呼ばれたのだが、細川勝元が「嘉吉の乱」の鎮圧に功労のあった山名宗全の勢力削減を図って、「嘉吉の乱主謀者一族」の赤松氏にも関わらず失脚して都を追われた自分の娘婿である赤松政則を加賀国守護職に取立てた事から、細川勝元と山名宗全の両者は激しく対立するようになる。

その細川勝元と山名宗全が、それぞれ守護大名の家督争いに深く関わっていた為に対立は激しさを増し、八代将軍・義政の実子・足利義尚を次期将軍に押す山名宗全と将軍継嗣・足利義視の後見人である細川勝元との対立は激化し将軍家の家督争いは全国の守護大名を勝元派と宗全派に二分する事態となり、全国規模の大乱となった。

戦乱は十一年にも渡って戦闘が長引き、応仁の乱の長期化は室町幕府の形骸化を引き起こし、無政府状態になった京都の市街地は盗賊に何度も放火され焼け野原と化して荒廃した。
やがて幕府権力そのものも著しく失墜し、勝元派と宗全派に二分して戦乱に加わって上洛していた守護大名の領国にまで戦乱が拡大し、守護大名の留守に領国を脅かす勢力が台頭して諸大名は京都での戦いに専念出来なくなって行った。

千四百七十三年(文明五年)になって当事者の山名宗全と細川勝元が相次いで死去、漸く双方の息子が和睦して応仁の乱(おうにんのらん)は一応の終息を見ているが、守護大名の領国では新興勢力が台頭して手が付けられない守護職が続出した。
下克上(げこくじょう)に明け暮れ、国主が武力で入れ替わる「戦国期」に入っていたのだ。



南北二つの朝廷が並立した時代の置き土産は、後の世に意外な形で芽吹く事になるが、それは遥か明治維新まで待たねばならない。

そしてもう一つ、これもまだ先の話だが、「承久(じょうきゅう)の乱」から三百五十年後に、平将門、村岡五郎(平良文)、平清盛、平(北条)政子、この「平氏の精神を継ごう」と言う阿修羅を背負った男が、忽然と現れる。


陰陽五行九字呪法
皇統と鵺の影人
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作者本名・鈴木峰晴

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