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【皇統と鵺の影人 第五巻】

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このまま下にお読みいただけます。

【大日本史の謎・仮説小説大王(おおきみ・天皇)の密命

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【陰陽五行九字呪法】

皇統と鵺の影人

(こうとうとぬえのかげびと)完全版 第五巻

未来狂 冗談 作

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話の展開
第一巻・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・【第一巻に戻る。】
序章の【第一話】鵺(ぬえ)と血統
  (前置き)・(神の民人)・(身分差別)
序章の【第二話】大きな時の移ろい(神話〜平安へ)
  (国の始まり神話)・(飛鳥)・(大化の改新)・(妙見信仰)
第二巻・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・【第二巻に戻る。】
本章の【第一話】源平合戦(源氏と勘解由小路)
  (平将門と村岡良文)・(八幡太郎と奥州藤原)・(源頼朝・義経)・(北条政子と執権)
本章の【第二話】後醍醐帝(真言立川と南北朝)
  (醍醐寺と仁寛僧正)・(南北朝と真言密教)
第三巻・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・【第三巻に戻る。】
本章の【第三話】皇統と光秀(信長・光秀編)
  (織田信長と鉄砲)・(桶狭間)・(本能寺)
第四巻・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・【第四巻に戻る。】
本章の【第四話】皇統と光秀(家康・天海編)
  (関が原)・(大坂落城)・(天海僧正)・(系図・双子竹千代)
第五巻・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・【◆現在この巻です
本章の【第五話】維新の大業(陰陽呪詛転生)
  (人身御供)・(江戸期と大日本史編纂)・(陰陽占術)・(明治維新)

陰陽五行九字呪法
皇統と鵺の影人
第五巻・本章の【第五話】

維新の大業(陰陽呪詛転生)

(人身御供)

◇◆◇◆(人身御供)◆◇◆◇◆

日本人の心の原点とも言うべき山岳信仰の象徴が、吉野山の修験道の総本山・金峰山寺(きんぷせんじ)、そして圧巻は吉野全山三万本の桜である。
平安期から現在に至るまで、桜は神社仏閣の神木となった。
そして日本の春は満開の桜花とともに訪れる。

吉野山と桜の結びつきは古く、その原点は六百七十年頃の天智天皇の御世、修験道の開祖・役小角(えんのおずぬ)が大峰山で修行(千日難苦行)している時に金剛蔵王権現を感得して、桜の木に「その金剛蔵王権現のお姿を刻んだ事に始まる」と伝えられている。

これ以来、吉野山の桜の木は御神木として手厚く守られて来た。
つまり、桜の木は陰陽修験のシンボルでもあり、山岳信仰に端を発する日本の信仰の原点でもある。


桜は日本の象徴だけれども、綺麗な花の間には毛虫が沢山居る。
あの毛虫は、醜い蛾に成るのかそれとも華麗な蝶に成るのか?

調べてみると、毛虫は、モンクロシャチホコと言う名の蛾の幼虫で、成虫は、別名、紋黒天社と言う体長二センチの目立たない蛾である。
この蛾の幼虫、桜に取り付いて食害により桜の枝を枯らす。
まるで役人(官僚)みたいな害虫で、すると、桜の毛虫は日本の役人の象徴であろうか?

役人の品格は何処に落として来たのだろうか?
疑わしきは戦艦大和建造に代表される「決め事」に対する「己の保身の為」の頑なさで、一旦手を着けてしまったものは「見直さない」と言う「融通の利か無さ」や「担当責任の回避」が、【戦艦大和症候群】である。

時代遅れになった無用なダム建設で予算を浪費する結果を招き、先頃の長野県知事(田中氏・前知事)と県議会議員のバトルを生んだ。
全国でこの手の、もはや時代遅れの【戦艦大和症候群的国家事業計画】が今も進んでいる。

作地を減反しているしているのに農地を増やす為の干拓工事や、「人間が利用せず、鹿や熊が利用している。」と言う豪華なスーパー林道、利用者の利便性や採算も考えず面子だけで作る地方赤字見込み空港(静岡)など、その際たる物である。

そこに有るのは、「公益法人」と言う名の官製天下り先・・「各省庁の縄張り意識」と言う、国家、国民の利害とは別の発想、「己の保身の為」があるからだ。

当然の事ながら戦艦大和の時代遅れの建造も、この類のお役所仕事感覚(海軍予算の継続的獲得)で作られ、それが「不幸な生涯を送る為だけに在った」のは歴史が証明している。

薬害エイズ、薬害C型肝炎と繰り返し発生する薬害問題も、役人の無責任な責任の回避の「放置」で被害が拡大した。
つまり、厚生労働省の薬害問題に対する姿勢には【戦艦大和症候群型】の疑いがあるのだ。


全国で一番植樹され、現在最も多い桜の木は染井吉野である。
この染井吉野は、東京の染井村(東京都豊島区馬込)の植木屋が考案した接木による品種改良で誕生したそうであるが、残念ながら接木方式の苗の為、成木の寿命が六十年ほどしか無いそうである。

芯に成る木と接木された染井吉野の関係で、六十年ほどすると幹の内側の芯に成る木から腐る欠点があり、外見は良いのだが中はスポンジ状に空洞化して行き、やがては表皮に空洞が達して折れてしまうそうである。

平成十七年の八月で、戦後も凡そ六十年を数えるようになる。
日本の桜は戦後の昭和二十年代に植樹された染井吉野が大半で、今後十年くらいでその寿命期に到達する。

こう言う話を聞くと、染井吉野は戦後の日本と共に生きた団塊の世代とその生き様(ザマ)が重なって見える。
そして染井吉野と団塊の世代は、世の移ろいと伴に衰えの時期を迎えつつあるのだ。

明治維新以後の日本の歴史を見ても、「近代日本」の成立後、新しい制度の中で権力が育ち、「財閥と軍部の台頭」より富が一部に集中し、日本を戦争への道へ進ませて悲惨な歴史を刻み始めるのに五十年とは要さなかった。

つまり、近・現代に於ける政治・経済の構造は、「四〜五十年」で構造疲労してしまうのだ。

厄介な事に、戦後の日本も官僚と二世〜三世議員、そして財界の一部に富が集中する形で幹の中から腐り始めては居まいか?

敗戦後の日本の経済の復興は、雨後の筍(たけのこ)のように自然発生した中小企業に、集団就職と言う低賃金の若い労働力を接木した所から始まっている。

日本経済は確かに満開の花を咲かせたが、その団塊の世代が必死で枝に花を咲かせている間に、幹(政治家や官僚)の方が「中から腐って行った」と言う訳である。

旨みがあるから、企業は天下りを引き受ける。
旨みが無い天下りは存在せず、使われるのは血税である。
毛虫の内に駆除しないと、天下りに羽化して益々繁殖するので在るから、日本の桜に巣食う害虫の駆除を、司法当局に熱望する。


春風が吹く四月に田の土は耕され、五月になると水が引かれ、六月の初めになると「しろかき(泥コネ)」が始まる。
田植えが始まる頃には、梅雨は目の前だ。
この国の民は、もう幾千年稲作を続けてきたのだろう?

何しろ、永い事経済の基準が米作石高(土地)だった国である。
日本人の都には、「田京」の名が良く似合う。

蒼い月明かりが見渡す限り続く水田を照らし、踏み荒らした下草から青臭い匂いが漂って来た。
民人(たみびと)が営々と築いた景観である。

この二千年、国を現実に支えていたのは、土の匂い海の香りがする民人(たみびと)だった。
彼らには、氏(うじ)族達の争いなど知った事ではない。

元々争いを好まない平和で優しい蝦夷(えみし)だったからこそ、野心満々の征服部族には争いで適わなかった。
それを良い事に、善良な民人(たみびと)を置き去りに、覇権争いを繰り広げて来たのが氏(うじ)族の血で有る。

この構図、何やら現在の「政官財主導の政治の実態」に似ている様な気がする。
国民不在は今の世も何も変わってはいない様だが、ふざけた話ではある。
国を支えるのは国民なのだ。

実は我輩、この物語を記述しながら血が騒いでいた。
本当の事を言うと、我輩の苗字は勘解由小路党所縁(ゆかり)の苗字を名乗っている。

まぁ、この現代では何の価値も無いし、維新後の新戸籍取得(明治四年の戸籍法)でも名乗れた苗字ではある。

例え由緒が正しくても、さほど意味は無い。
それなのに、二世三世の議員が大手を振っているのが現代の政界事情である。
それは疑似氏(うじ)族が、またまた頭をもたげ始めている事だが、その血統ブランドに弱い国民性が悲しい。

江戸期の武士の在り方が「主君に一命を捧げる滅私奉公」に成ったのは、無秩序だった下克上時代(戦国期)の反省で、けして従来からの物ではない。

しかしそれが定着すると、それが「金科玉条のごときもの」に成り、笑える滅私奉公も出現する。
つまり武士が定義付けられ、様式化した事に成る。

実の所、こうした「すべき論ルール」は、為政者にとって真に都合の良いもので、悲しいかな武士で有りたい下級の立場の者ほど、「滅私奉公」には熱心だった。
その社会秩序は、二百六十年の永きに渡り日本の武士社会に定着した。

氏族は常に争いの渦中にいる。
或る意味、正式な影人の血統の彼らも血統に縛られた「不幸な存在」と言えなくも無い。
本当の「人間の生活」と言うのは、自然を相手にした民人(たみびと)の生き方であり、それを支配する事のみに血道を上げる氏族ではない。

悲しい事に、食べる為にあらゆる命を奪い続けなければ人間は生きては行けない。
それで人々は「仏の慈悲」を請うた。
しかし、同じ人間を殺す事で存在を維持して来た氏族が、未だにその出自を誇っている不思議な国がこの国で有る。

この矛盾は何なのか?
どう言う訳か大衆は、物の本質を吟味せず、軽薄に「表面的格好良さ」だけを基準に良し悪しを決めるからではないだろうか。


百歩譲って、昔の氏族(貴族、武士、神官、僧侶)が民から尊敬された部分は、知識の豊富な事だった。
逆説的に言えば彼らが知識を独占していたからであるが、民人はその知識を素直に認めていた。

しかしこの文明の世の中では、本来「教育の機会」は平等に成った筈である。
知識に格差が無くなれば、その出自だけを理由にして敬う意味は無い。

我が国を「武士道の国」と言う方が居られるが、我輩に言わせれば片腹痛い。
永い歴史の中で江戸期のわずか二百六十年間、それも特権階級の武士だけの独自の精神で、町人や農民などは武士道の精神など知った事ではない。

あれは体制維持の為の認識誘導の結果で有る。
第一、その武士道が守られていたら、旧藩主(主君)を蔑(ないがし)ろにした「明治維新」はなかった。

そうした間違った認識の美意識を振り回す建前主義の政治家は、小学校の社会科からやり直すべきである。

命を賭けて歴史に足跡を残す事には確かにロマンは在るかも知れないが、「ロマンがあるから」と言って、そこを日本人の心の全てのように取り上げると方向を間違えるのだ。

現代に成って、歴史を断片で捉えては見えて来ないものもある。
先人は、「象の尻尾を捕らまえて、いかに探っても全体は見えない。」と言った。
安易な「先入観に拠る判断」をいさめたのであろう。

それで我輩は、或るテーマの下に、強引に二千年の歴史を繋いで見た。

この物語の主役は、帝(みかど)の影人である。
同時にそれは、貴方の存在でもある事を伝えたかったからである。


もし、派手な歴史上の人物だけ登場する歴史物語なら、それは歴史の一部しか語っては居ない。
確かに庶民の物語には歴史に残る主役は居ないが、しかしそんな庶民も命を繋いだ歴史の一部で、ここから暫くはそんな名も無い庶民達の生活が物語である。


日本の歴史の初期、神話時代の「国作りの秘密」は誓約(うけい)にある。
この誓約(うけい)、天照大神(あまてらすおおみかみ)と弟君である素佐之男命(すさのうのみこと)の間で取り交わされた事になっている。

本来、肉親である兄弟の間でわざわざ誓約(うけい)を行う必用などない。
ここで言う誓約(うけい)の概念であるが、天照大神(あまてらすおおみかみ)と素佐之男命(すさのうのみこと)は、実は誓約(うけい)に拠って「初めて兄弟に成った」と解釈すべきである。

つまり日本民族は、日本列島に流入して来た異民族同士が現地の先住民も巻き込んで合流して国家を作った。
その基本的概念が誓約(うけい)に象徴される神話になっている。
この場合の誓約(うけい)の実質的な合意の儀式は何であろうか?

異民族同士が、簡単且つ有効に信頼関係を構築して一体化する手段は一つしかない。
それは、性交に拠り肉体的に許し合う事に拠って究極の信頼感を醸成し、定着させる事である。

その結果は明らかで、次代には混血した子孫が誕生する。
この環境を、武力を背景にした強姦や性奴隷化ではなく、双方の「合意に拠り創り出す知恵」が誓約(うけい)だったのである。

太古の昔、人間は小さな群れ単位で生活し、群れ社会を構成した。
その群れ社会同士が、争わずに共存するには性交に拠る一体化が理屈抜きに有効であり、合流の都度に乱交が行われて群れは大きくなって村落国家が形成された。

直前まで争っていた相手と急激に互いの信頼関係を構築する証としての方法は、性交に拠り肉体的に許し合う事を於いて他に無い。

つまり食料確保の為に縄張り争いに拠る殺し合いが当然の時代に、究極の握手に相当するのが誓約(うけい)の概念である乱交とその後の結果としての混血による群れの一体化である。

この「群れそのものを家族」とする唯一の手段としての知恵に、異論は無いはずである。
現在の国家意識、民族意識、つまり所属意識の原点はこの誓約(うけい)の概念である。

この最も原始的な肉体の交合と言う儀式を通して、彼らは共通意識を醸成し、安心と信頼を構築する事で、群れ同士を「仲間」と認める事が出来るのだ。

勿論、この時代から個人と社会性のせげみ合いによる葛藤は在った。
しかしながらこれは、個人と社会性の双方を持ち合わせて生きる人類の永遠のテーマである。

当時の「群れ社会の平和的合流」と言う社会性を優先する誓約(うけい)の行為は、現代の個人思想からは理解出来ない事であろうが、唯一有効な方法として所属意識(社会性)を優先して発揮したのである。

この精神的な名残が、後に「人柱や人身御供」と言う歪曲した所属意識(社会性)の犠牲的精神にまで行き過ぎてしまい、究極的には「特攻精神」にまで行ってしまった。


庶民の間に、男女の交わりを指す隠語として「お祭りをする。」と言う用法がある。

本来、信心深いはずの庶民の間で、神の罰当たりも恐れず使われていたこの言葉の意味は、何故なのだろうか?
命を繋ぐこの行為を、「ふしだらなもの」ではなく、「神聖なもの」と捉えられていたからに他ならない。

元々「生み出す」と言う行為は神の成せる業で、それを願う行為が「お祭り(性交)」なのである。
気が付くと、神前で挙げる結婚の原点が此処に垣間見れる。

そして誓約(うけい)の性交精神こそ民族和合と言う最大の「政(祭り)事」であり、シャーマニズムに満ちた神楽舞の真髄なのではないだろうか。


祭礼に付き物の香具師(かうぐし、こうぐし、やし)は、歴史的に矢師・野士・弥四・薬師(神農/しんのう)・八師とも書き薬の行商と言われ、また的屋(てきや)とも言い祭りを盛り上げる伝統を持った露店商であり、人々が多数集まる盛り場において、技法、口上で品物を売る。

神農道の香具師(かうぐし、こうぐし)を「やし」とも呼ぶのは、当初神社の前で商っていた行商の主力商品が「薬(やく/中国語はヤオ)」で在って、つまりは神社の霊験と薬効を結び付けた陰陽術からの成立で、「薬師=やし」が呼称の元だった。

所が、香具師(やし)の商う薬で効能が現れない事もあり、段々に「まがい物を売る者を=やし」と呼ぶ誤解も生じた為、次第に薬の商いは減少して行った。

香具師の起源については古代に遡(さかのぼ)る伝承を持っているが、明確ではなく、一説には秦氏の秦河勝(はたのかわかつ)が同じく秦氏の服部氏と共に聖徳太子の「諜報活動に任じていた」との記述があり、川勝氏が「香具師(かうぐし・神農/しんのう)の祖」とされている。

そんな所から、「行商に身をやつして諜報活動をしていたのではないか?」と疑って考えると、祭りに付き物の「見世物小屋」の出演者も「いかにも」と言う事に成る。

その名の通り香具師(かうぐし、こうぐし、やし)は、祭礼や祈りの為の神具を露店商として扱っていた。
この香具師の取り扱うものに、祭りの面(おもて)がある。

例の誓約(うけい)神話に拠る夫婦(めおと)二神、天狗(猿田彦)とオカメ(天宇受売)の面(おもて)であるが、この面(おもて)が祭りの場に商われていたとなると、その需要は「暗闇乱交祭りに供された名残」と捉える事もできるのである。


日本における所謂(いわゆる)庶民参加の祭り行事のルーツは、北斗妙見(明星)信仰が源(もと)であり、陰陽修験の犬神信仰の影響を受けていた。

そして陰陽修験は、弘法大師・空海や伝教大師・最澄が日本に持ち帰ったインド・ヒンドゥー教のおおらかな性愛思想(カーマ)をも取り込んだ密教の経典の教義や祭祀を採用していたから、大抵その本質は「乱交祭り文化」である。

つまり、本音はただの性欲のはけ口かも知れないが(?)、建前は女神・サラスヴァティーやシヴァ神(破壊神)の五穀豊穣思想を基として子供(命)を授かる事が豊作を祈る神事だったからである。


祭りを性開放の行事とした名残りは各地にあり、例えば、静岡県庵原郡興津町(現、静岡市清水区・興津)の由井神社でも、夏祭の夜は参集する全ての女性と交歓して良い風習が在った。

愛媛県上浮穴郡田渡村(現、小田町)の新田八幡宮は縁結びの神様で、毎年旧二月卯の日の祭礼の夜に、白い手拭をかぶって参詣する婦人は娘や人妻、未亡人の別なく「自由に交歓して良い」と言う事になっていた。

毎年六月五日に催され、奇祭として知られる京都・宇治の「県(あがた)祭り(暗闇祭)」は、今でこそ暗闇で御輿を担ぐ程度であるが、昔は暗闇で相手構わず男女が情を通ずる為の場だった。

西の京都・宇治「県(あがた)祭り(暗闇祭)」に対して東の暗闇祭(くらやみまつり)で有名なのは、源頼義・義家の奥州征伐の「戦勝祈願に寄進した」とされる府中・大国魂神社(おおくにたまじんじゃ)の「暗闇祭(くらやみまつり)」がある。

大国魂神社(おおくにたまじんじゃ)の祭神は大黒天(大国主)で、この三大奇祭の一つに数えられる神社は武蔵一の宮(総社)である。

この大国魂神社(おおくにたまじんじゃ)の暗闇祭(くらやみまつり)は基本的に厳粛な神事として巫女舞神楽が舞われ、宮堂に選ばれた男女が御夜籠りして神を迎えようとする「祭事(さいじ)」である。

信仰を集めるには楽しみが必要で、神事の行われる真夜中の一定時刻には社地はもとより氏子の集落一帯は全部燈火を消し、雨戸を開放しておかねばならぬに約束事になっていた。

この祭りが「夜這い祭り」とも呼ばれ、昔は一般の男女参拝客はその祭りの期間だけ「暗闇の中での情交(夜這い)が許される」とされていた。

「時代が違う」と言われそうだが、そもそも「知らない相手となど性交は出来ない」は本人の気分の問題で、昔は親同士が決めた結婚で婚礼の夜が初対面でも夫婦の契り(性交)は出来た。

つまり現在否定的な事柄でもそれは現在の性規範に拠る精神的なもので、肉体的或いは物理的な理由からではない。

神社の祭礼での「乱交などふしだら」と言うけれど、特別な相手では無い性交は元々遊びなのだから、それこそ特定な相手との浮気よりは相手が特定出来ない乱交の方が結婚した相方は嫉妬もしないし後腐れはない。

その辺りに信仰として永く続いた庶民の娯楽、暗闇祭りの真髄が在ったのかも知れない。

こうした乱交祭りの事例は、誓約(うけい)の国・日本に古くから存在して何も特段に珍しい事ではなく、日本全国の祭礼で普通に存在する事だった。
そこまで行かなくても、若い男女がめぐり合う数少ないチャンスが、「祭り」の闇で有った事は否定出来ない。


祭り事は統治の意味(政り)でもあり、「お祭りをする」は性交の隠語でもある。

祭らわぬ(マツラワヌ)とは「氏上(氏神/鎮守神)を祭らわぬ」と言う意味だが、つまりは「氏族に従わない」と言う事で、この辺りの民心を慮(おもんばか)ると、氏上(氏神/鎮守神)の祭りに事寄せ、神の前の暗闇で乱交を行なうそれ事態が、ある意味「民の反抗心が為せる事」と言う読み方も伺えるのである。

そうした性におおらかな風俗習慣は明治維新まで続き、維新後の急速な文明開化(欧米文化の導入)で政府が禁令を出して終焉を迎えている。
しかし、「何もわざわざそんな過去を蒸し返さなくても・・・」が本音で、 こうした過去は俗説扱いに成り、やがて消えて行くものである。

都合の悪い過去は「無かった事」にする為に、消極的な方法として「触れないで置く」と言う手法があり、積極的な方法としては文献内容の作文や改ざんが考えられる。

意図を持ってお膳立てをすれば、やがて時の流れと伴に既成事実化してしまうもので、留意すべきは、例え実在した事でも後に「有ってはならない」と判断されたものは、改ざんや隠蔽(いんぺい)が、権力者や所謂(いわゆる)常識派と言われる人々の常套手段である事実なのだ。


陰陽修験が、民衆を宗教的にリードした事は間違いがない。
勿論、初期の現実的な現象として武術を修めた「影の官憲」である修験道士を、村の恭順を示す為に歓待する村も多かった。

当然の事ながら、酒食に加え村娘を差し出してお相手に宛がうのは、当時の感覚では至極当り前だった。

そこを怠ると、無秩序に村娘に手を付けられる恐れがあるから、村側に最低限の選択権を確保するには、それも止む負えない処置だった。
或いはこの大神(狼)様相手の事を、「お祭り」と呼んだのかも知れない。

現代の日本では、しばしば政治に対するマスメディアの中立性が話題に成るが、過去の歴史に在っては官製メディアが統治に利用された歴史も存在する。

そうした歴史の一番初めに登場するのが、天孫・大和朝廷正統化の啓蒙を目的とした天孫光臨伝説を題材とする物語で構成された「神楽(神座/かみくら・かぐら)舞」である。

言わば周到に計算された官製メディアとして「天孫光臨伝説」を民に周知徹底させるこの物語・神楽舞を、全国津々浦々に指導・布教した組織が陰陽修験の修験導師達だった。


恐れを回避する為に「神とコンタクトする事」が、原始信仰である陰陽呪詛で、その為には人々を納得に導く道具立てが居る。
その形式として神楽舞、巫女舞が形成される。

「神楽人(かぐらびと)」とは、巫女舞の楽器演奏を担当する人達で、地方(ぢかた)とも言う。勿論、地方(ぢかた)は下級の神職がこれにあたっていたので、言わば陰陽修験クラスの者の仕事である。
その楽器演奏に乗って舞うのが「立方(たちかた)」で、巫女が担当する。

陰陽修験に於いて、巫女神楽の巫女の身体は、本来「依(うつ)りしろ」である。
交合に寄る「歓喜行(かんきぎょう)」は、日本の信仰史上に連綿と続いた呪詛巫女の神行(しんぎょう)に始まる由緒を持つ。

巫女神楽・巫女舞は、神楽の原形とも言えるもので、本来「神迎えの依(うつ)りしろ」としての巫女が、神掛かりの状態になる為に勤めるもので在った。

その神掛かりの状態が、「ベータ・エンドロフィン」と呼ばれる快感ホルモン物質を分泌させ快感を得て初めて呪詛の威力を発揮する理屈だった。

その最たるものが、天岩戸(あまのいわと)伝説の里神楽の原型、「天宇受売(あめのうずめ)の命(みこと)の胸も女陰も露わなストリップダンス」、と言われている。

そして猿田彦と天宇受売(あめのうずめ)の誓約(うけい)の交合儀式・・・。
つまり、岩戸伝説は原始呪詛の形式を踏襲(とうしゅう)した創作だった。

舞いの所作に関しても本来の原始的なものは、神態(かみわざ)、つまり神の憑依(ひょうい・光臨)した姿そのものであったから相当に激しかった。
ただし、今日の舞いの形式は雅楽のように優美に成って、その意義も「神慮を慰め、神意を和める」と言う様に変化してきている。

現存する巫女舞は昇華洗練され、鈴、榊、太刀、扇子などの採り物を手に、神前で静かに舞うものである。
しかし、原始的な形式では、巫女がトランス状態になる様な「激しい旋回運動が舞の所作に求められた」と考えられている。

つまり、トランス状態(ランナーズ・ハイ)に陥り易い状況を演出する事が要求されていた。
この最大限のものが、巫女舞の延長上にあった性交により快感を得て神掛かりの状態となる呪詛である。

楽器に関しては笛、太鼓、琴と言うのが主なものであるが、これも宮中の神楽として洗練されたものの影響であって、本来は、「杓拍子(杓杖を打ち鳴らして拍子を取る)程度の簡単なものであった」と考えられる。

囃子と共に歌われる歌は平安朝の宮廷の神楽では文学的で雅な、しかし舞とはまったく関係のない様なものが好まれたが、里神楽では直接神々の降臨を迎える意味を述べたものがしばしば歌われる。
つまりこちらが、帝の命で陰陽修験が真価を発揮した舞台だったのである。


ここからは、初期陰陽師が庶民とどう関わりを持ち、その影響がどう変化して行ったかを追って見たい。
ここで、序章で取り上げたテング(天狗・てんこう)の話を、念押しでして置く。

北斗・北辰の天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)を修した陰陽修験導師は、信仰上が「犬神の使い」で現実は帝の命を受けた「工作機関の官憲」であるなら、後に江戸期の幕府隠密が「幕府の犬」と呼ばれる事もそれなりに由緒がある。

まぁ、官憲には権力の手先と治安維持の二面性があるから仕方が無いが、「官憲の犬」には「犬神」の畏怖尊敬の意味もあり、つまり歴史を良く知らないと警察・検察を侮蔑(ぶべつ)の意味で「犬」と呼んでしまう間違いを犯す。

天狗(テング)は、「天(てん)の犬(狗・く・こう)」の意味である。
思い浮かべて欲しい。
その描かれている天狗の衣装は、天狗、からす天狗の別を問わず、正しく修験山伏の衣装姿である。

言うまでも無いが、これは、修験と犬神が同一である事を物語っているもので、当時の官憲=修験=犬神=天狗である。
そして天狗は、「人身御供伝説」にも絡む「恐れの象徴」でも在った。


奈良県明日香村・飛鳥坐神社には天狗とおかめの情事(ベッドシーン)を演じる「おんだ祭り」があるが、これも明治維新の文明開化前は、「日本全国で同じ様な祭礼をしていた」と言われる。

つまり、飛鳥坐神社の天狗とおかめの情事(ベッドシーン)を演じる里神楽を仕掛けたのは、修験山伏を於いて他に無いのである。


陰陽道のスーパースター泰澄(たいちょう)は、伝説の人物で有る。

この伝説の存在が、修験陰陽の本質を現している。
謎の大物修験者、泰澄(たいちょう)大師が、奈良時代初期に現れた事になって居る。
これが白山信仰の元になったのだが、どうも後の世の修験者達の創作らしい。

伝承に拠ると、越の大徳(こしのおおどこ)と言われる泰澄(たいちょう)大師は越前の麻生津、現在の福井市三八社町、県立音楽堂の近くで生まれた。

十四歳で織田町の越知山で修行し、七百二年(大宝二年)文武天皇から鎮護国家の法師に任じられ、その後七百十七年(養老元年)、三十五歳の時、美しく尊い女性の夢を見て加賀国白山に登り妙理大菩薩を感得した。

行動要因として女性の魅力が出て来る処が修験道らしいが、これが白山信仰の始まりで、「十一面観音が白山の神様になる」と言う下りまで来ると、この頃帰朝したばかりの弘法大師(空海)の持ち帰った密教の経典に辻褄を合わせた様な話だ。

大徳(おおどこ)は冠位十二階の最高位である。
その最高位の者が、「存在を確認できない」とはどう言う事だろうか?
つまり、「越の大徳」は存在しなかったのではないのか。

泰澄(たいちょう)は有名な「役(えん)の行者(小角・おずぬ)」に続く、山でのスーパーマンの様な修験者で、修行の傍ら全国に「泰澄が開いた」と言う神社や寺は「二府十七県にもなる」と言われ、更に白山神社と名の付いた神社は北海道、宮崎、沖縄をのぞく四十四県二千七百を越える。

泰澄(たいちょう)に関わらず、高僧と言われる者に奇跡伝説は多い。
これらの高僧に拠る奇蹟は、民衆の信仰を集める為、「陰陽修験が協力した」と考えられる。
しかしながら、泰澄(たいちょう)は伝説上の人物扱いで、正式な文献(正史)には、存在を確認するに足りる何の記載も無い。

修行をしながら全国に神社を開くは、通常なら「在り得ない事」である。
何故なら代理の者、修験山伏達の仕事でなければこんなに広域に足跡など残せない。

泰澄(たいちょう)は恐ろしく呪力が強く、様々な奇蹟を起こしているのだが、その内容がとても人間業とは思えないものである。

もっとも、当時最先端の科学知識を持った者が無知な民人を驚かすくらい、「造作がない」と、覚めた目で見るとそれなりの奇蹟は在ったのだろう。
果たしてそれほどの実力者が、当時の陰陽寮に関わりも無く、存在し得ただろうか?

泰澄(たいちょう)には現在でも実存説、神話的伝承説の両説があるが、修験山伏達の、庶民信仰の喚起を狙った「ヒーロー創りの流言」だったかも知れない。
よしんばそれらしき人物が居たとしても、凡そ聖者の類は相当誇張されて後の世に伝わりそれが信仰の対象になるのが常識的である。

江戸時代には、二千年近くも前の恐怖の征服大王の意図する事が完成しつつ在った。
物語がいよいよ近代に近付いて、葛城朝が仕組んだ驚くべき一大陰謀を暴く時がきた。

修験道師達が影の諜報機関だった事が、存在を隠す要因で有ったのには間違いは無い。
その隠れた目的の一つが、国家運営の最大テーマ「大王(おおきみ・天皇)の密命」の推進だった事に、気付くべきである。

影の国家組織「陰陽師・勘解由小路党」に命じられた密命が、何だったのかを?
それこそ、万世一系を具現化する為の「至って現実的かつ単純な手法」だったのである。


関東の狼神社を代表とするは、秩父三大神社のひとつ「三峯神社」である。
狼神社に於いて狼が「神の使い」であると言う思想はどこから来たか、どうも密教・修験道にその源が有る。

そして、修験者の行く所「人身御供伝説」の事例に事欠かない。
大猿、大蛇、狼、もろもろの化身が登場して村人を苦しめ、祟りを恐れた村人が「人身御供」を捧げ、それが「人身御供伝説」と成って後世に残った。

この国の河童その他の妖怪・お化けの類は、大概の所山岳信仰を応用した修験行者や後の僧侶が信仰の布教の手段として流布したもので、ある種教育的メッセージ、または何かの目的達成の為に出現している。

人身御供に関わる地方民話の内容については、「唯の民話、御伽噺」と片付けてしまえれば簡単であるが、それは我輩には出来そうも無い。

実は、民話に隠された真実には重大な意味がある。
何かを伝えたいから、民話は存在する。
「現実離れしているから」と言って、造り話とは限らない。
神秘的な民話には、実は難解な真実が隠されている。

勿論、文字を持たない身分の低い立場の者、ものをはっきり言えない弱い立場の者は、民話に隠して後世に託すしかない。
そうした先祖の切ない意思を、読み取ってやるのが、後世に生きる「人の道」である。



この物語の冒頭でも記述したが、真実の歴史を紐解くヒントは伝説の中に隠されて居る。
伝説の中に秘められたメッセージを、「謎解きの原資」としてその真実に近付かなければ歴史は語れない。

各地に伝わる「人身御供伝説」の多くには、犬神と天狗(てんぐ)が「善い方」として登場する。
天狗(てんぐ)も「天の犬の意味」であるから、言わば天狗(てんぐ)も犬神である。

犬神は日本狼(大神)と修験道師を重ね合わせた山岳信仰である所から、「人身御供伝説」が修験道及び修験道師と深く関わっている事は容易に想像出来る。

そして共通する多くは、うら若き女性が「人身御供」でありそれを救出するのが犬神(修験道師)の役回りである。

当時文盲だった大衆を信仰に導くのは、口伝に拠る啓蒙手段である。
つまり、この「人身御供伝説」そのものが修験道に民衆の信仰を集める効果を持っていた。

唯この伝説、単に「うわさの流布」と言った域ではない具体性を帯びていたからこそ、民衆に「現実の恐れ」として信じられた疑いが強い。

大阪府大阪市西淀川野里・住吉神社は、人身御供(ひとみごくう)の作法が神事と成ったもので、生身の女性を神に供える 「一夜官女祭り」である。
美しく飾られた御供物の桶七台と七人の少女が共に神前に進み、神に献じられる。

かつて、医学の発達していない時代、庶民の間では寺や神社(小祠)と同じくらい修験道師(山伏)の存在は重要だった。
昔、病や怪我は祟(たた)りと考えられ、信仰深く素朴な庶民は恐れていた。

つまり、山深い里にまで足を運ぶ修験の山伏は、庶民の頼り甲斐ある拠り所だった。
その修験道の山伏達は、渡来した様々な鉱物や植物の薬学知識、精神ケアに要する宗教知識を駆使して庶民の平穏を願い、神の使いとして信頼を勝ち得た。

そこでは、密教・修験道の「山伏」が、その山岳信仰から山岳の主「日本狼」と重ね合わせて「神の使い」と敬われて行った。
従って、その根底に流れている密教の北辰・北斗信仰の使いが狼信仰で、{狼=オオカミ=大神}と言う訓読みの意味合いもある。

「信頼を勝ち得る」と言う事は、裏を返せば「信じた者を操れる」と言う事である。

過去、陰陽寮を作ってまで宗教と占術を「国家がいじる」と言う歴史は、その目的があるからこそ存在した。
夢を壊して悪いが、各地の山里に語り継がれる「人身御供伝説」の仕掛け人はこの修験道の「山伏」と考えられる。


能登国(石川県)七尾の山王社(大地主神社)の猿神退治の人身御供伝説では、「しゅけん」と言う最も修験山伏(修験道師)を彷彿させる白い狼(犬神)が登場する。

昔ある村では、七尾の山王神社へ美しい娘一人を人身御供に差出すのが毎年の永く続く習わしであった。

或る年も、一本の白羽の矢が某家の屋根に立った。「娘を差出せ」とのお告げである。

白羽の矢が立った家では、七尾の山王神社へ毎年美しい娘一人を人身御供に差出ださねば、「村に災難が降り掛かる」と言うのだ

この人身御供、親子の情に於いては忍びないが、当時の社会は「村落共同体(村落共生主義)」で娘の貞操よりも地域の安全がより優先され、拒否すれば村八分物で親子共に生きては行けない。

永く続いた土地の習慣ではあり避けられない人身御供だが、とても諦めきれない。
その家の主は嘆き悲しんだが、「何とかして娘を助ける事が出来ないものか」、と思案の挙句、或る夜我身の危険も帰り見ず、山王神社の社殿に忍び入って様子を探って見た。

すると、草木も眠る丑三つ(うしみつ・深夜)の頃、社殿の奥から何やら声が聞こえる。
「あれは何じゃ?」
白羽の矢が立った家の主は気付かれない様に近付き、耳を澄ます。

すると、人身御供を要求している妖怪と思しき者がほの暗い社殿に寝転んで、「娘を喰う祭りの日が近づいたが、越後国(新潟県)のしゅけんは、よもやワシが能登の地に潜んでいる事は知るまい。」と呟いている。

「しめた。」と娘に矢を立てられた家の主は喜んだ。

どうやら妖怪は、「しゅけん」とやらが恐いらしい。
目に入れても痛く無いほどに可愛がり、手塩にかけて育てて来た大事な娘である。
娘を助ける為なら、どんな怪物にも縋(すが)りたい。

白羽の矢を射られた家の主は、娘を助けたい一心で、人身御供を要求している者が恐れている「しゅけん」とは、何者なのか、興味を抱いた。
妖怪と思しき者が恐れる「しゅけん」は、どうやら越後国(新潟県)に居るらしい。

娘の父は「しゅけん」を知る由もなかったが、妖怪が恐れるならば兎も角、「しゅけん」なる者の「助けを借りよう」と、藁をもすがる思いで越後へ出かけた。

「しゅけん様は何処においでかね?」
越後国(新潟県)に出かけた娘の父は、「しゅけん」の所在を八方尋(たずね)歩き、漸(ようや)く会う事ができた。

それは全身真白な毛で覆われた「狼」であったが、娘の父は怖さも忘れて必死で窮状を訴えた。

悲嘆にくれながらも遠路探しに来た父親の、娘を思う心情はしゅけんにも充分に伝わった。

娘の父が事情を話し、助けを求めるのに対し「しゅけん」は深くうなずき「ずい分以前に、他国から越後へ三匹の猿神が渡って来て人々に害を与えたので、そのうち二匹まで咬殺してやった。」と娘の父に告げた。

「しゅけん様ならその猿神を退治出来るかね?」
「あぁ、最後の一匹には逃げられてしまったが、能登の地に隠れておろうとは夢にも知らなかった。それでは、これから行って退治してやろう。」と、「しゅけん」は応えてくれた。

娘の父は「しゅけん」の言葉に安堵したが、ふと気が付くともう時間が無い。
「有難うございます。ただ、もう娘を人身御供に差出す刻限が迫っています。」

「それでは、能登国(石川県)七尾へ直ぐに出かけようぞ。」と、「しゅけん」は娘の父親に「背中に乗れ」と言った。

娘の父親が「しゅけん」の背中に乗ると、「しゅけん」は「フワリ」と浮き上がり、海に向かうと海上を恐ろしい速さで翔け始めた。

「しゅけん」は娘の父親を伴い、波の上を飛鳥のように翔けて、明くる日の夕方には七尾へ着いた。

「わしを、娘の身代わりに供えよ。」
祭りの日、「しゅけん」は娘の身代わりに唐櫃(からびつ)に潜み、夜に成ってから神前に供えられた。

その夜は暴風雨の夜であったが、妖怪としゅけんの争いは雨風の音までかき消すように音が物凄く、社殿も砕けてしまう程の激しさであった。

翌朝、町の人々は連れ立ってこわごわ社殿へ見に行くと、朱に染まって一匹の大猿が打倒れ妖怪の正体を知った。

「こりゃあたまげた。化け物は大猿じゃったか。」
「しゅけん様のおかげで、毎年の人身御供も免れる。ありがたい事じゃ。」
村人は「しゅけん」の猿神退治に喜んだ。

しかし傍(かたわ)らには、「狼=大神」の「しゅけん」もまた、力尽きて冷たい骸(むくろ)となって横たわっていた。
町の人々は、「しゅけん」を厚く葬り、後難を恐れて、人身御供の形代(かたしろ)に三匹の猿に因み、三台の山車を山王社に奉納する事になった。

この「しゅけん」の物語、実は渡来した物語を応用している疑いが強い。

中国の民話に、「カクエン」と言う「獲猿」とか「攫援」と書く猿の妖怪が居る。
それぞれ「(獲物を)獲る猿」、「援を攫(さら)う」の意味だ。
援は媛に通じ、要するに女性の事で、総合すると「女性を攫(さら)う猿の妖怪」と言った処である。

この妖怪、中国では子孫を残す為に人間の女を攫(さら)い、「自分の子供を孕ませる」と伝えられている。
一連の霊犬伝説に登場する怪猿が、人身御供に娘を要求したくだりを連想させる。

北陸三県の越中(富山県)、能登(石川県)、越前・若狭国(福井県)は、一向宗が盛んになるまでは泰澄(たいちょう)に代表される白山信仰(山岳修験道)の聖地だった。

つまり人身御供伝説の原典が中国にあり、それを学んだ修験山伏が、何らかの目的で「利用した」とするのが無理の無い解釈だろう。

それにしてもこの民話のヒーロー、白毛の狼「しゅけん」とは見え見え過ぎる。
修験(しゅげん)と「しゅけん」では濁点が足りないだけではないか?


「乙女を縛(しば)きて吊るし掛けに供し・・・」
男衆、老いも若きも列を成して豊作を祈願す。

鳥居内の神域(境内/けいだい)においては、性交そのものが「神とのコンタクト(交信)」であり、巫女或いはその年の生け贄はその神とのコンタクトの媒体である。

祭りに拠っては、その神とのコンタクトの媒体である巫女、或いはその年の生け贄の前に、「ご利益を得よう」と、神とのコンタクト(交信)の為の行列が出来るのである。

高千穂神楽(たかちほかぐら)と所謂(いわゆる)「日本神話」との関係については、誰も異論は無いだろう。
だが、高千穂神楽を語る時、避けて通れないもう一つの「神話」がある。それが高千穂に伝わる「鬼八伝説」である。

畿内への東征(神武大王の東征?)から帰郷したミケヌ(三毛入野命)は、後に神武大君(じんむおおきみ・神武大王・初代天皇)となるカムヤマトイワレヒコ(神倭伊波礼琵古命・神日本磐余彦尊)の兄で、高千穂神社の祭神である。

そのミケヌが、「アララギの里」に居を構えた同じ頃、二上山の洞窟に住んでいた荒ぶる神・鬼八(きはち・蝦夷族?)は山を下り、美しい姫・ウノメ(鵜目姫。祖母岳明神の孫娘)を攫(さら)ってアララギの里の洞窟に隠した。

或る時、ミケヌが水を飲もうと川岸に寄ると、川面に美しい娘が映って話し掛けた。
「ミケヌ様、鬼八に捕らえられているウノメをお助け下さい。」

水面に映し出されたウノメの姿に助けを求められたミケヌは、他にも悪行を繰り返す鬼八(蝦夷ゲリラ?)の討伐を決意する。
「心配には及ばぬ。私が必ず助け出す。」
ミケヌは、四十四人の家来を率いて鬼八を攻めた。

鬼八は各地を逃げ回った挙句、二上山に戻ろうとした処でミケヌらに追い詰められ、遂(つい)に退治された。

しかし、そこは妖怪である。
鬼八は何度も蘇生しようとした為、亡骸は三つに切り分けられ別々に埋葬された。

この鬼八伝説、単純に聞けばよく在り勝ちな「おとぎ噺」だが、一説には往古の先住民族と大陸系征服民族の抗争が描写されていて、その先住民族の末裔達がこの地方独特の「ある姓を名乗る人々ではないか?」とも言われて居る。

後日談では、救出されたウノメはミケヌの妻となり、「八人の子をもうけた」と言う。
その後末裔が「代々高千穂を治めた」とされている。

処が、ここからが問題で、死んだ鬼八の「祟り」によって早霜の被害が出る様に成った。
この為、「鬼八の祟り」を静める為に「毎年慰霊祭を行う様に成った」と言う下りである。

「乙女を縛(しば)きて吊るし、掛けに供し・・・」
【掛ける】は、古来より性交を意味する言葉である。
この慰霊祭の風習では、過って永い事生身の乙女を人身御供としていた。

だが、戦国時代になって、供される娘を不憫(ふびん)に思った城主・甲斐宗摂(かいそうせつ)の命により、イノシシを「乙女の代用とせよ」と、呪詛様式が改革されるように成った。

さて問題は、高千穂神楽には陰陽師の呪詛様式が色濃く残っている点である。
この伝説自体に高千穂神楽との結び付きが出て来る訳ではないが、慰霊祭「猪掛祭(ししかけまつり)」は注目に値するのだ。

いかにも修験者の仕事らしい伝説だからである。

まずこの「人身御供」は、神代の時代からの伝承に基づき、戦国時代の甲斐宗摂(そうせつ)の命令があるまで、生身の乙女を供する事が続けられて居た。

すると、何者かが鬼八伝説を利用して、「人身御供」のシステムを作り上げ、少なくとも数百年間は、それが継続していた事になる。

「この伝説の中で始まった」とされる鬼八の慰霊祭も今日に伝わっていて、高千穂神社で執り行われる「猪掛祭(ししかけまつり)」がそれである。

猪掛(ししかけ)の「掛け」の意味は、人架け(獲物縛りに吊るされてぶら下がった状態の人身御供)を指す。

代替として「人身御供」の乙女の代わりに、社殿に猪を縄で結わえて吊り下げるからで、単純に考えれば以前は「人身御供の娘を結わえて吊るしていた」と考えられ、陰陽呪詛的な匂いを感じるのである。


次に、中部地方に伝わる犬神の伝説(霊犬の伝説)を上げる。
意図して隠されているが、語り継がれて遺されている民話伝承の類には、後の世に伝えたい恐ろしい真実が隠されている事が多い。

この人身御供伝承に拠る生け贄は何故か村落の有力者の娘が限定で、まずこの条件に例外は無い。
ヒョットすると、これは神の使い「犬神」から新しい命を授かる為の儀式なのかも知れない。

その昔、花園天皇(第九十五代・後醍醐天皇の前の帝)の治世の話である。
信濃駒ケ岳のふもとにある光善寺で、何処からともなくやって来た一匹の「雌の山犬」が五匹の子犬を産んだ。

寺の和尚も、慈悲深い人柄で、この山犬の親子の暮らしぶりを見守っていたのだが、やがて子供達が母犬と区別出来ない程に育った頃、母親と四匹の子供は山へ忽然と帰って行った。

しかしどうした事なのか、五匹の中でもひときわたくましく利発だった子犬だけが一匹だけ寺に残っていた。
「おやおや、この子(犬)だけ置いて行かれたのか?」

何かと親子に目をかけていた和尚は、少し不思議に思ったものの、この一匹が寺に残った事をたいそう喜んで一緒に暮らす事にする。
光善寺の和尚は、その子(犬)を「しっぺい太郎(悉平太郎)」と名づけて慈しみ育てた。

一方、遠州地方(遠江国・静岡県)の見附宿辺りに、村人に娘の人身御供を要求し、これに従わなければ近隣の田畑を荒らして、凶作をもたらす恐ろしい神が居た。
秋祭りの頃に成ると、毎年の様に「娘の居る村の家」の戸口に、白羽の矢を立てるのである。

この白羽の矢の話し、同類と思えるものが結構広範囲に伝承されている所から、話の出る元は広範囲な活動をした組織の存在を窺わせる。
該当するとしたら、それはやはり陰陽寮の修験組織の「呪術目的」としか考え様がない。

矢を立てられた家は娘をこの悪神に差し出さなければならなかった。
地域の安全が個人よりも優先される当時の「村落共同体社会(村落共生主義)」では、親は泣く泣くでも人身御供を承服しなければ成らない。

村人達は、「背に腹は代えられぬ」と仕方なくこの悪神の要求に従ってはいたが、やはり娘を贄に差し出さなければならなくなった家の者の悲しみは言い様も無いほどだった。

この妖怪を相打ちで倒したのが「しっぺい太郎(悉平太郎)」と言う犬(神)だった。

たまたま遠江国・見附宿を通りかかった旅の修行僧がこの人身御供に同情し、先ずはその妖怪の正体を確かめるべく八月十日の祭りの夜に拝殿の下に忍び込み、「信濃の悉平太郎に知らせるな。」と言う妖怪の叫びを耳にする。

妖怪が「信濃の悉平太郎なる者を恐れている」と思った旅の修行僧は、この人身御供と言う哀れな慣わしに苦しんでいる見付の人々を救う為、早速、悉平太郎を捜す旅に出る。

旅の僧は信濃国中を捜し歩き、漸くある村で赤穂村(現駒ヶ根市)の「光善寺にいる犬が悉平太郎だ」と言う話を耳にした僧は、早速遠州見附の窮状を訴えて悉平太郎を借り受けるべく、意を決して光善寺を訪ねた。

光善寺を訪ねて見ると境内に立派な犬が居た。
光善寺の「しっぺい太郎(悉平太郎)」は成長し、やがてたくましい霊犬に成長していたのだ。

「なるほど、この霊犬なら妖怪が恐れるのもうなずける」と、旅の修行僧は確信した。
光善寺を訪ねた旅の修行僧は、光善寺の和尚に会って見付で見聞きした顛末を語り、悉平太郎の借り受けを懇願した。

事情を知った光善寺の和尚は、済民の為ならばと悉平太郎の遠州見付行きを快諾された。

旅の修行僧が「しっぺい太郎(悉平太郎)」を伴って遠州見付に戻ると、折りしも見附宿はその年の八月十日の祭りを迎えていた。

祭りの当日の夜、人身御供を食らおうとする妖怪に悉平太郎は猛然と怪物に襲いかかった。
この妖怪と悉平太郎との戦いは凄まじく、叫び声が「翌朝まで見付の町にまで響きわたった」と言う。

翌朝、境内には大きな年老いた狒狒(ヒヒ・猿科)の化け物が血まみれになって横たわっていた。
怪物は終(つ)いに悉平太郎により退治されたが、悉平太郎も深手を負い、境内の今の山神社の所で「息絶えた」と言う。

何やらこの話も、「能登のしゅけん伝説」と良く似た所があるが、何しろ信州は戸隠流修験道(戸隠流忍術とも呼ばれる)の本拠で、所謂(いわゆる)山伏信仰(犬神信仰)の聖地だった。

しっぺい太郎、或いは早太郎と呼ばれる霊犬の伝説は以上の様なものだが、信濃国(長野県伊那地方)から遠江国(静岡県遠州地方)にかけて、類似した多くの伝説が残されており、その一つ一つは他の類話と微妙に異なっている。



まだまだある、大神=狼=犬神信仰は、「陰陽修験の基本だ」と我輩は考えている。
まるで同一の組織が、違う土地で同じパターンを使用したように似ていて、そこに、陰陽修験の影が見え隠れしているのだ。

福知山線篠山口駅から西へ一キロメートル余り行った所に、犬飼村の大歳神社がある。

この神社にも、人身御供の伝説が残っている。
主役はこれまた「鎮平犬」と呼ばれる霊犬の話で、能登国(石川県)七尾の霊犬伝説「しゅけん」や遠江国(静岡県)見附宿の霊犬伝説「しっぺい太郎(悉平太郎)」と良く似た所がある。

こうした伝説は、笑えるほどパターンが似ている事から、この辺りの経緯(いきさつ)に修験山伏の影がチラつくのだ。

昔、或る年に、北近畿(丹波・丹後・但馬)地方の或る村で神隠し事件が起こった。
氏子の中に五人、七人と次々に行方不明者が出てきて村中総出で捜しても、行方不明者の消息は判らない。

消息の掴めない神隠しであるから、「これは神のお怒りの禍(わざわい)である」との結論になり、神の怒りを静める為に氏子の連中が相談して人身御供を供える事に決め、くじを引いて祭りの夜に供える事にした。

その村では、毎年祭りの夜に人身御供を供える神事は続いていた。
村の取り決めであるから否とは言えず、村人は例年泣く泣く人身御供を供えていた。

所が、或る年のくじを引きで犠牲者に当たった家では大変悲しみ、何とかこの災難を逃れようとただ一心に神にすがり、三七日の祈祷をした。

ここまで育てて来て、漸(ようや)く花も盛りの年頃を迎えたばかりの愛しい娘である。
娘は、親でさえ惚れ惚れするほど麗しく育っていて、とても人身御供などには出せる物ではない。

一生分を使い果たしたと思うくらい散々に泣いたが、勿論娘への思いは断ち切れない。

するとその祈祷の満願の明け方に一人の童子が現れ、「氏子の悲嘆を聞くに忍びず故、霊験を持って汝らに教えよう。」と、神の声をその村人に伝えた。

童子の話に拠ると、江州犬上郡にある江州多賀明神は伊裝冉尊を祀るが、この宮も元は人身御供の禍(わざわい)が在った。

しかし多賀明神宮の禍(わざわい)は、「鎮平犬と言う犬が化け物を退治し、この厄を逃れた。」と言い、「今もこの犬が犬上郡にいる。
借りて来て、例祭の時この犬を器に入れておけ。
神は不思議な力をこの犬に与えるであろう。」と伝えた。

これを聞いた村人は「これで村の禍(わざわい)は無く成る。」と大いに喜び、神のお告げの通り江州犬上郡から犬(鎮平犬)を借りて来た。
借りた犬をお告げ通りに箱に納めてしめ飾りを神前に供え、村人が木の陰に隠れ刀を構えて待っていた。

夜半になって、天地を揺るがす大音とともに恐ろしい怪物が現れて拝殿に躍り上がり、供え物の箱に手をかけるやいなや中に居た鎮平犬が凄い声を出しながら怪物に噛み付き、ともに縁から庭に落ちて行った。

上になり下になり、鎮平犬と激しく争う怪物を見た村人が、「これは大変」と怪物の隙を伺い、助太刀に入って怪物に数太刀切りつけて見事怪物を退治する事が出来、以来人身御供の神事は取り止めに成った。

この怪物は、「三眼の大狸だった」と言われ、丹波・丹後・但馬地方は、元々「化け狸伝説」の多い地方ではある。
その後、鎮平犬は大切に村で飼われ、村名もこの事から「犬飼村と改めえられた」と言う。



もう一つ、丹波国・篠山の池尻神社(いけじりじんじゃ)の伝承を挙げる。
それが、数ある伝承の中身を良く考えると、全てに共通する「まるでお決まりにパターン化された物」のように、これらの伝承は良く似ている。

昔、大山の或る里に年老いた両親と美しい娘が住んでいた。
その村では、秋祭りには、毎年十五歳になる前の少女を人身御供(ひとみごくう)に出さ無ければならなかった。

そのくじ引きにある美しい娘が当って、その両親はたいそう悲しみ、そろって氏神(うじがみ)様・池尻神社(いけじりじんじゃ)にお願いに行った。
娘は不幸を嘆(なげ)き、父母の気持ちを思って途方にくれ、深く神に祈りを捧げた。

或る日、池尻神社(いけじりじんじゃ)では、神主(かんぬし)が浮かぬ気持ちで秋祭りに備え、境内(けいだい)を掃き清めていた。
「今年も人身御供に娘を供する」と思うと、祭りとは言え痛ましい話で、神主の心は浮かなかった。

ちょうどそこへ、都から来た若い武士が参拝に立ち寄った。
実はこの武士、国の氏神のお告げで、西国の「桜の木の下に住む」と言う娘と、結婚する為の「相手探し旅」の途中だった。

武士は、「池尻神社の神様にも、お告げの相手を聞いてみよう」と思って、一心に神様にお祈りをした。
そのうち若い武士は、疲れてウトウトと夢を見た。夢の中では人身御供に代わって桜の木が現れ、神の声が聞こえた。

夢うつつの中で驚く若い武士に、神の声は続ける。
「邪心(じゃしん)を祓(はら)い、人身御供の娘と夫婦になり、神の恵みを伝えよ。智仁(ちじん)備えし勇者に宝剣(ほうけん)一振りを与える。」
その声とともに宝剣が桜の木の上に降りて来た。

ハッとして若い武士が目覚めると、何と夢の筈が桜の木の下には現実に宝剣が在った。
「目の前に御神刀(宝剣)がある」と言う事は、この夢が神のご託宣に違いない。都から来た若い武士は、その娘が「探していたわが嫁である」と確信した。

神が夢枕に告げるからには、嫁探しの旅の目的地はこの池尻神社(いけじりじんじゃ)だったのである。

確信をもった若い武士は、「これこそ神の恵み。」と言ってその宝剣をおし戴(いただ)いた。
若い武士は、嫁となる娘を怪しい物への人身御供から守る為に神に導かれたのである。

お祭の当日になって、若い武士は目を光らし、辺りを警戒していた。
人身御供の祭事も済んで娘を奉納し、村人も帰った後に成り不思議にも草木がザワザワと動揺し、星一つない真っ暗な夜に成ってしまった。

夜中になって雨も降り出した頃、目をギラギラさせ、炎を降らせながらこちらに近づいて来る異様なものがあった。
武士は、「池尻大明神(いけじりだいみょうじん)」と心に念じて剣を抜いて待っていた。

雨がさらに激しくなったその時、怪しい物が急に武士に襲いかかった。
武士が居る事に気付いていたのだ。
飛び違い、かいくぐって武士が斬(き)り付けると、流石に宝剣で、「ズン」と手ごたえがあり、怪しい物が「ギャー。」と悲鳴をあげた。

妖怪は傷つき、宝剣を恐れて岩に登って逃げとしたので、引き下ろし、「エィ。」と剣を刺し貫くと、怪しい物はのたうって暴れ、やがて大人しくなった。
若い武士は、その怪しい物を漸く退治した。
その瞬間、空は急に明るくなって、そこに十メートル余りの大蛇(だいじゃ)が死んでいた。

武士は、老夫婦の一人娘と結婚し、村に住みついて、「子孫が栄え、村もたいそう繁栄した」と伝えられている。
「沢田の大蛇退治 」と伝えられる、丹波国・篠山の伝承である。


これらの妖怪の人身御供話、当初の事例は蝦夷(えみし)ゲリラの犯行かも知れないが、後の仕事は修験山伏の自作自演の可能性が強い。
また、氏神は鎮守神であり、神官は氏族の支配者だったから、人身御供を要求した妖怪は、実は神官そのものだったのかも知れない。

民間の伝承には、「天狗や烏(からす)天狗」と言った妖怪も見受けられ、山伏の装束を身に纏(まと)って居る所から、或る一面民衆に恐れられる物が修験山伏に在った事も事実で有る。

反面、良く考えて見るとこの人身御供話、村人に「犠牲を伴っても平和を維持しょう」と言う村落共同体意識がないと成立しない話でもある。

後ほど明記するが、この「人身御供(ひとみごくう)」と言う現代ではまったく通用しない考え方の共生村社会に於ける自己犠牲の掟(おきて/ルール)の原点は、実に応用範囲の広い人類永遠のテーマと言うべき選択肢の問題で、囚人のジレンマと言う理論にその解説を求める事が出来る。

問題なのは、こうした伝承の影に隠れた「表沙汰に出来ない伝承意図」である。

なぜ、修験山伏が村人を騙し、素朴な村娘を「人身御供」にさせたのか、その目的は誰でも思い当たるであろう。
その目的が「密教の呪詛を為す為」なのか、個人的な欲望を癒す為なのかは、今になっては不明である。

ただし、それを解く鍵が、「修験道師の国家秘密機関」と言う特殊な成立ちにある。
統一の為の布教と、鵺(ぬえ)ゲリラ退治、鉱物探査、各種諜報活動など、その守備範囲は幅広い。

その中の一つに、何か特殊な目的が有ったのではないのだろうか?


シャーマニズムに於いて「神懸(かみがか)り」とは、巫女の身体に神が降臨し、巫女の行動や言葉を通して神が「御託宣(ごたくせん)」を下す事である。

当然、巫女が「神懸(かみがか)り」状態に成るには、相応の神が降臨する為の呪詛行為を行ない、神懸(かみがか)り状態を誘導しなければならない。

その最も初期に行なわれ、永く陰陽修験に伝え続けられた呪詛行為の術が、すなわち巫女に過激な性交をさせてドーパミンを発生させる。

脳内麻薬のベーター・エンドロフィンを大量に発生させる事で、巫女がオーガズム・ハイの状態(ラリル状態)に成れば、その巫女の異変(変異)した様子から周囲が神の降臨を認め、「神懸(かみがか)り」と成る。

浚(さら)って来た娘の、修験呪術に拠る呪詛巫女の仕込み方だが、これはもう方法が決まっている。
女体とは不思議なもので、縛り上げて三日ほど変わる変わる攻め立てれば、思う気持ちとは別に、身体が性交の快感を覚えて反応しまう。

そうなればしめたもので、自らから呪詛(性交)に応じる様になり、呪術性交を滞りなく行える呪詛巫女が完成する。

ここに到って確信したが、修験者はけして怪しげな術で生け贄と成った女達を操っていた訳ではない可能性もある。
修験者の施術は、彼女達の能力を引き出す「手助けをしたに過ぎない」と気が着いた。

巫女の「神懸り状態」も現代風の格好だけのものではなく、往時の陰陽修験の施術方法を正確に検証すれば、現代の人間科学的に可能性が推測出来るのである。

生き物の身体は、生きる為にあらゆる進化を遂げて、その為の備え調整装置を作り出している。

「女の感」とは良く言ったものだがそれはチョットした表面的なもので、女性(母性)にはもっと素晴らしい命を未来に繋ぐ為の潜在予知能力(危険予知)が未開発のまま存在する。

但しこの潜在予知能力(危険予知)何もせずに開発される筈がない。

古来より大和の国に伝わる呪詛巫女は、神楽巫女舞(実は輪姦巫女行)のトリップ現象に拠るドーパミンの過剰生成から発生する脳内麻薬(快感ホルモン)、ベーター・エンドロフィンの効果で、脳の予知能力の精度を高める事で能力を発揮し任じられた。

これは脳内麻薬(快感ホルモン)、ベーター・エンドロフィンの効果で巫女が「神懸り状態」に陥(おちい)る現象が、「神が巫女に降臨した」と信じられたからで、原始宗教の延長上の迷信かも知れない。

呪詛巫女の「修験の行」は読んで字の如しで、修験者との輪姦行に寄り「経験を修め」脳の予知能力の精度を高める事で修験が女達に施(ほどこ)した輪姦呪詛術は、それこそ多人数で強烈な輪姦(まわし)行をさせ、限界を超える過剰な性快感を持続的にもたらす為である。

つまり呪詛巫女は、「超臨界性感覚」に達すると「神懸り状態」に成り、未来予知が出来る「輪姦巫女行(修験の行)を積んで、呪詛巫女を任ずる」と言う事が、当時信じられた理屈だった。

これが単に修験者の性欲を満たす為だった可能性もあるが、ベーター・エンドロフィンの効果で巫女が「神懸り状態」に成る現象は事実だったようである。

何しろ、大人数に連続して犯されるのであるから、少なくとも「臨界点ギリギリ」だった筈(はず)で、それこそ「助けて、気持ちが良過ぎる」と思うほどの絶頂感が途切れずに連続して持続し、その連続する壮絶な絶頂の快感「超臨界性感覚」と伴に神懸り状態に陥(おちい)って「予知夢」を見る。

そこで得られる「超臨界性感覚」が、神懸かりの「憑依現象」と解され、潜在予知能力(危険予知)のオン・スイッチに成っていてその引き出された予知体験から、女達は神の御託宣を告げたのだ。

多分に非科学的な話で、現実にそんな事で御託宣が修験が得られるとは思えないが、性交が豊穣の祈りと同じ意味を持つ当時、人々には真面目に考えられて居たのかも知れない。

ただ、信じられるからには人々が納得する異変が本当に存在したのかも知れない。

女達に施(ほどこ)した輪姦呪詛は、過剰な性感を女達に施(ほどこ)す事で脳内麻薬(快感ホルモン)、ベーター・エンドロフィンの大量発生を促がすのが目的で、輪姦呪詛は潜在能力を引き出す手段でも在った可能性があるのだ。

こうした修験者の施術を、単純に「現代の常識」と言う物差しで計る事は簡単であるが、本来「命を繋ぐ」と言う「生殖行為/性交」は、信仰的に「尊いもの」と考えられていた時代が長かった事を考慮すると、神行としての巫女の輪姦呪詛術は充分考えられるのである。

また、この精神思考は鎌倉時代末期・南北朝並立期に儒教が仏教に取り入れるまでは根強く存在した為、それ以前の神行・仏行に修験の行である呪詛巫女の輪姦呪詛術(神懸り術)が形態を変えながらも残り、真言(密教)立川流に到ったとしても不思議はない。



この修験道師、実はもう一つ驚くべき重要な密命「大王(おおきみ・天皇)の密命」を帯びていた。
それは葛城氏族(賀茂氏)に拠る大胆な「民族同化政策」である。

神話にある誓約(うけい)がトップ同士の政略結婚の意味であるなら、その考え方が国家政策の根底に在っても不思議は無い。
万世一系を具現化するには、「民族同化政策」が必要で有る。

答えは簡単で、国内の諸民族(諸部族)を混血化すれば良い。
それも全ての民に、皇統・葛城氏族(賀茂氏)の血を注げば良い。
皇統の血を受け継ぐ賀茂一族がこの任に最も相応しいからこそ、修験者の長は「役小角(えんのおづぬ)」だったのである。

そうした修験の目的としての道具立て(環境作り)に、「妙見信仰・北辰信仰と密教の性的教えの習合がもってこい」だった。
つまり修験道師には、村々に分け入り、「村人の信仰心に乗じて」賀茂氏の子孫を村々の女性に植えつけて歩く究極の使命を負っていた。

役小角(えんのおずぬ)の呪術は、奇跡でも怪奇現象でもなく、もっと「論理的なもので在った」と考えられるのである。

辿り着いて見ると、この壮大な計画の筋書きを書いたのは桓武天皇だった。
そう、大和朝廷いまだ安定しない黎明期の飛鳥時代、役小角(えんのおずぬ)とその一党が桓武大王(おおきみ)から賜った密命が、この誓約の概念に拠るいささか強引な多民族同化策だったのである。

この「血の民族同化」と言う途方も無い目的の為に、密教の呪詛を為す為には、修験道師の相手をする「呪詛巫女」が必要だった。

村人が抵抗無く、進んで「呪詛巫女」を提供する環境を作る為に、修験道師はあらゆる「恐れの方策」を採った。
その為、村人は修験道師にお願いして、災いを回避する呪詛を行ってもらう事になる。

妖怪の怒りを静める為に少女が生贄にされる。
つまり人身御供に供された少女は、神の使い犬神様(大神/おおかみ様)に妖怪から助け出され、修験の呪術を十分施され「神の子を身ごもって戻って来る」と言う素朴な筋書きで有る。

しかしこの一連の伝説は、神の御落胤を量産して村長、庄屋を継がせる組織的陰謀だった。

「呪詛巫女」は修験道師を通して神仏と交わり、菩薩に生まれ変わって、神からの授かり者を産む事になる。
この賀茂の血を持った「授かり者」は、村長(むらおさ)の所で大事に育てられ、次代の村のリーダーになって行くのである。

恐怖の征服大王の血は、二千年の時を隔てて、あまねく日本列島に広がり、民族の統一はなされて行ったのだ。

事の良し・悪しや賛成・不賛成を別にした事実として、「誓約(うけい)」と言う形の性交は神代から存在した。
誓約(うけい)の性交は相手に対する服従を意味し、それを具体的に証明する手段である。

神前における巫女の性交は神との「誓約(うけい)」であり、「神の御託宣」を得る為の神聖な行為である。

従って「契(ちぎり)」も性交であるが、情を絡ませた同等の愛情によ拠る「契約(けいやく)」とは少し違い、「誓約(うけい)」の性交はあくまでも「服従的な行為」と言う事に成る。


これは極自然な事で、けして異様な事ではない。
初期修験道の呪術に於いて、性交により新しい命を創造する事は、すなわち「神の領域の範疇」だったのである。

従って修験道の「存在の歴史」の中に於いて、その精神は大王(おおきみ・天皇)の密命として生きていた。

明治維新直前の江戸末期でも日本の人口は三千万人が良い処で、おおまかな人口は「現在の四分の一」と言う処だ。
従って時代が遡るほど人口は少ない。

陰陽山伏(修験者)が命じられた「血の同化」の密命は、大和の国成立初期の段階では相当に有効な手段だった。
その血が時を経、代を重ねて、もくろみ通り「単一大和民族」が形成されて行ったのである。


人間は基本的に「群れ社会の生き物」であるから、「帰属意識(群れ)」を持たねば孤独感に押し潰されて生きて行くのが辛い。
その群れ意識の帰結する所が部族だったり民族だったりするのであるから、いかなる事象でもその「帰属意識的」な立場が変われば発想が変わり、争いが起きるのである。

その争いは「帰属意識(群れ)」を融合しない限り解決はしないから、誓約(うけい)の民族的(部族的)融合が唯一の平和的手段だった。

従って誓約(うけい)の性交が「呪詛的な神事」と解釈される様に成り、渡来した妙見信仰と習合して祭祀に性的な要素を含む巫女舞神楽の様式や人身御供伝説、神に豊穣(豊作)を祈る神事「豊年踊り」の乱交「暗闇祭り」が陰陽師に拠って全国に伝播醸成され、日本人のおおらかな「性に対する規範」が成立した。

明治帝(天皇)が詠んだ「皆同胞(みなはらから)」は、正しく同じ母から生まれた「腹から」の兄弟姉妹の意味で、「この上無く同じ民族」を意味している。

この大王(おおきみ・天皇)の密命こそ、わが国最高の国家的陰陽呪詛かも知れない。
勿論、此処で言う「血統の統一」は大枠(大勢)の話で、細かい事情のイレギラーは存在する。

日本と言う国では、はみ出し者は活躍するが出世は望めない。
それが世間と言うものである。

本能なのか、「皆で渡れば恐くない」の帰属意識、「出る杭は打たれる」の横並び意識、「口に出さずとも通じる」と言う暗黙の了解意識、他国では通用しない「はい」と表現するノー、「考えてみる」と表現するノーの原点が此処にある。

つまり、「大王(おおきみ)の密命」こそ、良くも悪くも大和民族を血統的に統一させ、単一民族意識に仕立て上げたのである。

現在の常識で、「そんな陰謀はありえない」と判断するのは、止めて欲しい。
そう言う方は、時代の環境が読めていない。
何故ならわずか六十年前、「特攻隊」と言う「ありえないもの」が、現実に常識として存在した。

それ故、こうした人身御供伝説に、関わっていたのが「修験山伏であるのは間違いない」と、我輩は確信する。


もうお判りだと思うが、陰陽師に始まる武術は武士・武門、果ては芸能にまで繋がり、一方で密教、妙見信仰と繋がって命のリレーを後世に繋げて行った。

中世の妙見信仰・北辰信仰の担い手といえば、西の長門の武将・大内氏と並んで東は房総の武将・千葉氏が有名で、幕末の千葉周作はその剣技の流名を北辰一刀流と称した。

千葉と言う事で、名作・里見八犬伝を紹介しよう。
これが真言密教を題材に、弁天様(伏姫)と犬(八房)の畜生道(獣姦)が発端の物語である。

古代インダス文明は、東方の国々に多くの影響を与えた。
インド・ヒンドゥー教の神や祭祀は、一部形を変えながらも日本の仏教や神仏習合の修験信仰に影響を与えている。

弘法大師・空海や伝教大師・最澄が日本に持ち帰った経典の中にも、ヒンドゥー教の教義や祭祀の信仰は含まれていた。
従って桓武天皇が設けた中務省・陰陽寮に於いても、ヒンドゥー教の統治に都合の良い部分は組み入れられていても不思議ではない。

実は北辰妙見信仰に於ける天地開開(てんちかいびゃく)神話に於ける世の最高神・天之御中主神(あめのみなかみぬしかみ)=陀羅尼神(だらにしん/全ての祈り神)もヒンドゥー教の三最高神の一柱・ヴィシュヌ神(天地創造神/見渡せる神)が妙見(見通す)に通じる所から、「同一の神である」と考えられるのだ。

神は恋人、神に捧げる踊りの原点は、インド・ヒンドゥー教のシヴァ神(破壊神)に在り、ヒンドゥー教は正直な神で、ヒンドゥー教の三最高神の一柱のシヴァ神(破壊神)の象徴はリンガ(男根)である。

つまりインドは、古代から人生の三大目的としてカーマ(性愛)、ダルマ(聖法)、アルタ(実利)が挙げられる国で、三大性典とされる「カーマ・スートラ」、「アナンガ・ランガ」、「ラティラハスヤ」と言った性典を生み出した愛と性技巧の国で、このヒンドゥー教の影響こそが、おおらかだった日本の性習俗の原点かも知れない。

例えばインドの土着信仰から始まったヒンドゥー教の女神・サラスヴァティーが、中国経由で日本に渡来した弁財天の原型である。 弁財天は原型であるインド土着の女神・サラスヴァティーの頃から、性の女神としての側面をもっていた様で、そのイメージは日本に入って来てからも健在だった。

女神・サラスヴァティーはヒンドゥー教の創造の神ブラフマーの妻(配偶神)であり、サンスクリット語(梵語)でサラスヴァティーとは水(湖)を持つものの意であり、水と豊穣の女神としてインドのもっとも古い聖典リグ・ベーダに於いて、始めは聖なる川、サラスヴァティー川(その実体については諸説ある)の神話である。

仏教に於ける婆達多品(デーヴァダッタボン、或いはダイバダッタ品)の観世音菩薩について、この両者(弁才天と観世音)は、「自らを犠牲に供する事によって男を救済する存在」と言う共通性を持っていて、日本の民衆の間では女性の事を指して「弁天様」或いは「観音様」と表現する所から弁財天が「観世音菩薩の応変」と見なされて居る。


真言宗の空海・天台宗の円珍の行く所には多く弁才天の伝承が残っているそうだ。

言わば,修行を積んだ徳の或る僧も、人の子で、尊い高僧が説法の道すがら接した娘達は、生身の人間(女性)ではなく「神仏と接した」とする立場上の便宜性だったのか?

それとも、彼らは特別な秘法(呪詛)によって、村娘や町娘を浄化し、その土地の為に、新たに「生きた弁天菩薩」を作り出したのかも知れないが、真相は判らない。

元々インド・ヒンドゥー教の神や祭祀にはカーマ(性愛)を生活の糧とする思想が在り、シヴァ神(破壊神)やダキニ天(荼枳尼天)、カーマ・スートラ(インド三大性典のひとつ)などを生み出した思想の国だったから、日本に持ち込まれた仏教や神仏習合の修験信仰にその影響を与えている。

なかでも江の島・弁財天は裸形弁財天で有名で、江の島の本宮とされる洞窟は弁財天信仰が持ち込まれる以前から、女性の性器や子宮に見たてられ「女陰信仰が盛んだった」と言う。

この辺りの下地が、「交わりによって相手を浄化する」と言うイメージを喚起したのかも知れない。
その根底にあったのが、「民族の血の同化」と言う国家プロジェクトと言う事になる。

インドの土着神話で、八歳の王の娘・娑竭羅龍(サラスヴァティー)が「男子に変じて成仏した」と言う内容の「提婆達多品(デーヴァダッタボン)」が〈つまり女でも、子供(八歳)でも獣(竜)でも成仏できる事を説いた経文〉として論じられる事が多い。

その土着神話で、八歳の娑竭羅龍(サラスヴァティー)王の娘が「男子に変じて成仏した」と言う内容の「提婆達多品(デーヴァダッタボン)」が〈つまり女でも、子供(八歳)でも獣(竜)でも成仏できる事を説いた経文〉として論じられる事が多い事からして、竜は獣と言う扱いらしい。

獣も仏法諸天の仲間で有り、獣(竜)でも成仏できるのなら、畜生道(獣姦)に落ちても成仏できる理屈である。

となると、「陰陽修験導師が暗躍した」と思われる人身御供伝説の原点がこのインド・ヒンドゥー教の女神・サラスヴァティーと仏法諸天の仲間・獣(竜)の畜生道(獣姦)の物語「提婆達多品(デーヴァダッタボン)」の竜を、犬や猿などに加工して応用したのではないかと推測されるのである。


ここに、象徴的な小説がある。
安房の国(今の千葉県の一部)里見家は清和源氏新田家流の系図である。

詳細は不明だが新田(源)家基の子息、里見義実が安房国に移って土地の領主安西氏を追放し安房の領主となる。

慶長十九年(千六百十四年)、里見忠義が舅である大久保忠隣失脚に連座して安房を没収され、鹿島の代替地として伯耆国倉吉三万石に転封となったが、実態は配流と同じ扱いであった。

そして元和八年(千六百二十二年)、忠義が病死すると、「跡継ぎが居ない」として里見は改易された。

曲亭(滝沢)馬琴(本名:滝沢興邦)の「南総里見八犬伝」はこの里見氏の遺臣達が活躍する「架空の物語」である。
この八房(犬)と里見家の伏姫、滝沢馬琴の筆によって彼女は自ら八房の妻となる事で八房の怒りを鎮め、やがては菩提心へと導く。

当初、八房と父の犬との戯れの約束、「敵将の安西の首を持ち帰れば伏姫をやる。」との約束に、八房が見事敵将安西の首を持ち帰る。

所が、「たかが犬との約束」とないがしろにし、約を破って八房の恨みを買い、里美家は次々に不幸に見舞われる。
伏せ姫が、父の落ち度に心を痛め、約束を果たし、八房の怒りを静める為に「八房の妻」となる決意をする。

それで、安西との戦の功により、八房は伏姫と富山の祠(ほこら)で同棲するに至る。実は、八房には伏せ姫のあずかり知らない過去の恨みによる陰謀が、怨念として付いていた。

それ故、伏せ姫を畜生道(獣姦)に導きて、この世からなる「煩悩の犬」となさんと、最初からの企みが背景にあった。
元々伏姫一人を畜生道(獣姦)に落とすのみならず、伏姫に「八房の子を孕ませよう。」と言う心づもりがあったのだ。

富山の祠(ほこら)で同棲した伏せ姫は、やがて懐妊し、八つの玉を産み落とす。
曲亭(滝沢)馬琴は情交なしの懐妊を書いているが、情欲によって伏姫を身ごもらせたなら、それはやはり畜生道(獣姦)の交わりなのではあるまいか。

「自らを犠牲に供する事によって男を救済する菩薩(弁才天)の慈悲」を、馬琴の筆により伏姫は、その物語において体現している。

八房の情欲を転化させるアイテムとして、「法華経」の獣姦の過ちをも赦す「提婆達多品」が登場する事となる。
馬琴にも、流石に人間、それも清浄の姫君と獣の交わりを書くのは多いに抵抗があったのだろう。

曲亭(滝沢)馬琴(本名:滝沢興邦)のこの筆の舞台が、妙見信仰の地を選んだ事、中にダキニ天(稲荷様・稲成り)と思われる狐の化身や北辰信仰(天一星信仰、北斗信仰、北極星信仰)など、明らかに密教から題材をとっているのだ。

この物語、近世(江戸期・文化・文政時代)に入ってから書かれているが、その原点は「昔話の伝承にあった」と見る。
馬琴が付けた「伏姫(ふせひめ)」の意味は、明らかに「山伏(修験者)の(所有する)姫」を意味している。

伏せ姫にあたる女性が何者かは思い至らなくても、八房はまさしく陰陽師勘解由小路党の「大神(おおかみ/狼)」であり、八つの玉(八人の子)は皇統・葛城氏族(賀茂氏)の血統を持つ「優秀な存在」と位置就けられていたのである。


北辰北斗星信仰が所謂妙見さんだけれど、その使いの神が居る。「使い」と言っても甘く見てはいけない。

妙見菩薩は宇宙を支配する最高神だ。
その使い神だから霊力が格段に強い。
それで、「狼(オオカミ)がその使い神だ」と言われている。

明治維新前は全国的に妙見宮と言う神社があったが、それが、夜との関わりが強い。
つまり「種の保存本能」を祈りの基本にした信仰だ。
その使いが、狼と梟(フクロウ)で、狼の方には「夜夫座神社」と言う意味深な名前が付いている。

狼神社として知られていた兵庫の養父神社筆頭に「夜夫座神社」が、その名もズバリ妙見山と言う山の麓にある。
所謂、山犬(狼)神社である。
この神社の狼は「北斗(妙見)の使い」と言う事になっている。

これが北辰信仰の中にあるヤマイヌ信仰である。
梟(フクロウ)の方は秩父神社で、創建は古く、知々夫国造・知々夫彦命が先祖の八意思兼命を祭ったのが始まりで、関東でも屈指の古社である。

「秩父妙見宮、妙見社」などと呼ばれてきたが、明治維新後の神仏分離期に、名称が秩父神社と定められ、それとともに祭神名も妙見大菩薩から天之御中主神(あめのみなかみぬしかみ)に改称された。

秩父神社の使いは「北辰の梟(ふくろう)」である。
フクロウが一晩中目を見開く姿を形取り、夜を制する「神の使い」である。

関東の狼神社を代表とするは、秩父三大神社のひとつ「三峯神社」である。
狼神社に於いて狼が「神の使い」であると言う思想はどこから来たか、どうも密教・修験道にその源が有る。
つまり伏姫を抱き、孕ましたのは妙見神の使い犬神(大神=狼)なのである。


八犬伝の里見家に戻る。
千葉県館山市上真倉に妙音院(安房高野山妙音院)がある。

天正年間に、安房の国の大名、里見義康公の発願により、紀州高野山の直轄別院・里見家の祈願寺として開山された南房総唯一の古義(高野山)真言宗の寺である。
つまり、里見家は真言宗との縁が強い。

妙音院も、紀州根来寺内の密教修験院の名を取った妙見信仰の証で、その妙音院からちょうど北東(鬼門)の方角に意味深な地名がある。
南房総市の一角に旧安房郡富山町があり、その富山町の平群地区にある地名が、「犬掛」と言う、まるで八犬伝が実際にあったがごとき地名である。

【掛ける】は、古来より性交を意味する言葉である。
我が国では、四足動物を人為的に交尾繁殖させる行為を【掛ける】と言う。
この【掛ける】の語源であるが、歌垣の語源は「歌掛け」であり、夜這いも「呼ばう(声掛け)」である。

また異説では、交尾を意味する「掛ける」の語源は、神懸(かみがか)りの「懸ける」から来ていると言う説もある。
つまり陰陽呪詛の信仰に於いて交尾や性交は生命を宿る為の呪詛儀式と捉えていて、その行為は「女性を神懸(かみがか)らせる事」と言う認識である。


こちらは滝沢馬琴の「南総里見八犬伝」の話であるが、「走る」の意味も「駆ける」であるが、当てる字が違う。

伏姫はフィクションで実在しないので、誰か女性が、忌み祓いの為に、犬を「掛けられた」と言う「昔話(伝承)が存在した」と解釈するのが妥当であり、そうなると昔話の方は修験山伏の仕事と解釈するのが妥当なのだ。

しかしこの獣姦、現代の感覚で考えてはいけない。
山犬は大神(狼)であり、犬公方と言われた五代将軍・徳川綱吉により、「生類哀れみの令」が発布される時代だった。

つまり、神の子を宿す神聖な呪詛である。
しかも「八っ房」と「伏姫」との「犬掛け」はあくまでも伝承であり、現実には天狗伝説に在るように天の狗(てんのこう/てんのいぬ)=修験山伏の行者の仕業なのである。

下総国(千葉県)に在る地名「犬掛」は当主・里見義豊が叔父(父の弟実堯)の長男里見義堯との家督相続の戦いに破れ、自刃した不吉な古戦場跡で、鬼門の方角に当る。

今以上に信心深い時代の事で、鬼門封じの呪詛を里見家が修験道に命じて、密かに執り行った可能性は棄て切れない。
或いは滝沢馬琴が、その土地に密かに伝わる「人身御供伝説の噂」を参考に、作品に取り入れた可能性も棄て切れないのである。

つまり、滝沢馬琴の南総里見八犬伝は、山犬(狼=大神)信仰と人身御供伝説を江戸時代の当世風にアレンジした小説である。

里見八犬伝のベースが陰陽修験道をモチーフにしているなら、主要登場人者・伏姫(ふせひめ)の名称にしても修験道師の別称・山伏(やまぶし)から取った山伏姫なのかも知れない。

滝沢馬琴の里見八犬伝の「八」は、日本古来の信仰から「八」を導いている。
八犬伝(八剣士)であり、犬の名は八房である。

日本の神話のキーワードは「八」と言う数字である。
また、犬に関わる人身御供伝説は、日本全国に数多く存在する。


神話の伝承によると、スサノオ(須佐王)には、八人の子がいる事に成っている。

大八州(おおやしま・日本列島)、八百万(やおよろず)の神、八頭(やあたま)のおろち、八幡(はちまん)神、そしてスサノオの八人の子、つまり、子が八人だったので「八」にこだわるのか、「八」が大事なので無理やり八人の子にしたのか。

恐らく、「八」と「犬」に特別な意味合いが有るから「八犬伝」であり、他の数字では在り得なかったのだ。

妙見信仰は伝来当初、渡来人の多い南河内など辺りでの信仰であったが、次第に畿内などに広まって行った。

しかしこの時朝廷は、この禁止された宗教をある遠大な計画に利用する事を考え付いていた。
民族同化を目的とした血統のコントロールである。

それには、まず無秩序な性行為は禁止しなければならない。
つまり民衆の性行為さえもコントロールする事を考えたのである。

七百九十六年(延暦十五年)に、妙見信仰最大の行事「北辰祭(妙見祭)」を朝廷の「統制下にない信仰である」として禁止した。
表だった理由は「風紀の乱れ」であった。

つまり全国にある妙見宮は、朝廷の禁止があるまで「性的なものを許容もしくは奨励する教義だった」と推測される。
処がこの建前禁止した禁止宗教の妙見信仰・密教は、矛盾を抱えながらも朝廷の秘密機関「陰陽師勘解由小路党」によって布教され、庶民の性意識として定着して行った。

この教義の元として取り上げ、利用したのが「真言密教」であり、その全国流布には修験者(山伏)があたり、辺境の漁村から山深い猟師村まで分け入って布教に努め、村人を導いていた。

表向き、中央の権力者の意向に添わない宗教は、いつの世も草深い野に身を隠す。まったく公式の建前と違う目的、労働力(庶民)の増加を目的とした隠れ妙見信仰は、修験者(山伏)とともに村々に散っていった。

全国の神社の脇に祠(ほこら)として祭られている神様に山ノ神がある。
山の神は、猟師、木こりの神様、子授けの神様として信仰されている。
この発想は「長く命を永らえた木に神が宿る」と言う考え方で、原型は巨木の主幹に空洞を持つものが選ばれた。

その空洞が「女陰の姿」を彷彿させるからで有る。
転じて、山の神を「古女房を呼ぶ時の呼び名」と成った。

この山ノ神、祖神と言われる民間信仰から派生したが、その後修験者(山伏)の活動と結び付き、より妙見信仰との関わりを強めて、各地の「人身御供伝説に結び付いた」と思われる。

土地に拠っては、「金精様」と呼ぶ男根の神様が山ノ神と一対を成し、「五穀豊穣、子授け祈願」とする祭りもある。
また、娼婦や水商売の女性に「性病避けや良客獲得」のご利益を願う神にもなっている。

アメリカ大陸の労働力不足に対応したのは、非人道的な奴隷貿易である。
それを、日本列島の大和朝廷は、生産力向上の為に、「産よ、増やせよ」でまかなう政策を取った。
まさに、その啓蒙手段に修験密教がある。

つまり、貴族社会とは正反対の「性的に積極的な教え」を庶民に植えつける事に、「陰陽師勘解由小路党」は、非公式に奔走したので有る。



歴史的に、町場に於ける専業の商家は後発の業種なので後述するが、まずここでは最後まで習慣が残った「農漁村部の夜這い」を考察してみた。

国家が平穏で有る為には、異民族意識は大敵で有る。
そこで民族の同化は緊急の課題だった。
庶民に性をタブー視されては、陰陽師の闇の仕事に差支えが出る。
従って意識改革には呪詛信仰と、「もののけ」の祟りは切り離せない。

マニュアルでも在ったのか、各地に存在する「人身御供伝説」、結構手口が良く似ているのはご愛嬌である。

大王(おおきみ・天皇)の密命は、ピタリと妙見信仰に嵌まっていた。
当然の事ながら庶民の性意識には、修験道師が、妙見信仰に拠る初期の「民族同化目的」の為に布教した名残が「意識」として残って、習慣化していた。

つまり「陰陽師勘解由小路党」に拠って布教された性意識は定着し、その後の村落経営に大きな影響を残しているのだ。


今に成っての現代人には実感が湧かないと思うが、この物語の冒頭で記述した様に氏姓の支配体制は明治維新まで続いていた。

千八百六十九年(明治二年)、旧藩主が自発的に版(土地)・籍を天皇に返上した事を「版籍奉還」と言うが、この版籍奉還よく見ると「籍」つまり「人民」を「旧藩主が天皇に返した」と言う意味で、概念上、人民は「藩主の持ち物」だった。

この考え方が、とりもなおさず征服、非征服時代の考え方がそのまま存在していた事実を示した事に成る。

日本人の多くの祖先が、実は「里山文化」の継承者、つまり、名も無き村人達である。

食糧生産に直接関わらない純粋氏族(征服部族)が占める相対的な割合は、本来さほど多く無いのが自然で有る。
これは現在でも理屈は同様で、議席や官僚、地方の役人の数ばかり増えれば、それを庶民が食わせては行けない。

千八百七十一年(明治四年)戸籍法が制定され、翌年この戸籍法に基づいて、日本で初めての本格的な戸籍制度が開始された。ここでようやく、平民その他が初めて氏名(苗字)を持ったのである。

この年の干支が壬申(みずのえさる)である事から、この制度に拠ってできた戸籍を壬申戸籍(じんしんこせき)と呼ぶ。

しかしこの壬申戸籍(じんしんこせき)に拠り古来より続いた身分制度が、完全に消滅したのは、昭和二十年の敗戦以後新憲法が制定されてからである。
それまでは、華族、氏族、平民などの、血の出自を表す呼称制度が残っていた。

こうした差別的身分制度が、およそ二千年間の永きに渡り存在した事を前提にすると、支配階級とはまったく違う庶民独自の生活や思想、人生が、息付いていても不思議は無い。


人類は基本的な本能として他の生物同様に「生存本能」を備えている。
この生存本能の発露が「食欲」であり「性欲(種の保存本能)」であり、二次的なものとして危険を避けたり危険に立ち向かう為の「恐怖心」や「闘争心」なども無視出来ない右脳的な生存本能である。

そうした右脳的な生存本能の一つとして、人類はその種としての生い立ちから、「恐怖心」や「闘争心」を共有する事で生存率を上げる為に「共に生きる(共生意識)」と言う強い「帰属本能(群れ意識)」を持ち合わせて生まれて来る。

つまり人類は、「帰属本能(群れ意識)」を満足させないと、精神的安定を得られない。
そしてその「帰属本能(群れ意識)」は価値判断や心(精神)の安定に影響を与え、良きに付け悪きに付け「人生」と言う固体の一生に影響する。


実は、「帰属本能(群れ意識)」を裏打ちして保障していたのが、同じく「生存本能」に関わる「性欲(種の保存本能)」の結果とも言うべき「性交」と言う行為だった。

「性交」と言う行為は、「恐怖心」や「闘争心」とは好対照に位置付けられる「癒し」や「信頼の」共有に繋がるからである。

こう言うエロチックな伝承を取り上げると、直ぐに良識派を気取る連中が希望的作文で対抗して来る。

彼らの言い分は、「先祖がそんなにふしだらの訳が無い。や、子供達に説明が出来ない。または外聞が悪い。」と言うもので、けして明確な根拠がある訳ではない。
それでは伝承風聞の類は最初から検証をしない事に成る。
所が、公式文献より伝承風聞の類の方が案外正直な場合がある。

はっきり言うが、「最初に結論有りき」の良識派を気取る人々の意見は、大衆受けはするかも知れないが信用は置けない。
つまり良識派の意見は真実の追究ではなく、「大衆受け」なのである。
そしてその証明の為には、意図的に改ざんされた後世の文献を、鬼の首を取ったがごとく取り上げる。



そもそも儒教が入る前の列島の国・大和(日本)は、元々、「歌垣(うたがき)」の風習に代表されるように性に対して開放的な習風俗の国だった。

歌垣(うたがき)は男女が集会し相互に自作の掛合歌を読み詠う事によって求愛し、或いは恋愛遊戯をする歌掛けの習俗の事である。

中国の南東部に住む少数民族「苗(ミャオ)族」の間では,「遊方(ユゥファン)」と言われているこの歌の掛け合いの儀礼は、既婚に拘らない自由な性的交わり、「目合(まぐわ)い」の許される南方渡来の習俗の場である。

「目合(まぐわ)い」とは古事記・日本書紀にも記される言葉で、男女の性行為(せいこうい)の事であり、男女が性的欲求に従いお互いの身体、特に性器(生殖器官)や性感帯などを手・指、唇や舌先にて愛撫刺激し、男性器(陰茎)を女性器(膣)に挿入し射精するなどの行為と、それを含む多様な行為がまぐあい(性交)である。

万葉集(巻九)の高橋虫麻呂が詠んだ歌に「率ひておとめおのこの行きつどひかがふ嬥歌」に 「他妻に吾も交はらむ 吾が妻に他も言問へ・・」は、「男女を率いて集い行き、自らが人妻と交わり、わが妻も他が言い寄っている」と歌垣(うたがき)の開放感を詠んでいる。

こうした現代では「世にはばかるスワッピング行為」として秘すべき内容の歌を、堂々と公に発表出来るほど、当時の性規範は自由で開放的だった。

この歌垣(うたがき)、春の予祝(実り・豊穣/生産祈願)及び、秋の実り(豊穣/生産)の感謝行事としての性格を持って始まり、春秋の特定の日時に若い男女が集まり相互に求愛の歌謡を掛け合い性愛の相手を選ぶ風習俗である。

どうやら歌垣(うたがき)の源は南方文化らしく、同様の風習は中国南部からインドシナ半島北部の山岳地帯に分布しているほか、フィリピンやインドネシアなどでも類似の風習が見られる所から、所謂原ポリネシア系縄文人か海人族(呉族)系氏族(征服部族)が持ち込んだ「南方文化」と考えられるのである。

古代日本における歌垣(うたがき)は山頂、海浜、川、そして市などの境界性を帯びた地が場所に選ばれ、特定の日時と場所に老若男女が集会し共同飲食しながら歌を掛け合う行事であり「性の解放を伴っていた」とされ、歌垣(うたがき)の風習が民衆の間で広く行われていた事が歌集「万葉集」などに拠り伺う事が出来る。

つまり古代日本において、万葉集の時代に歌垣(うたがき)の性風習が存在した訳であるが、この歌集・万葉集の時代とは仏教が伝来し蘇我氏と物部氏がその取り扱いを巡って争った五百二十年代から平城京遷都後十年ほど経た七百二十年の二百年間を言う。

歌垣(うたがき)は、儒教が入る前の列島の国・大和(日本)に広く永く存在した性風習で有った事は間違いない。


渡来部族が流入し続けていた黎明期の日本列島では、誓約(うけい)が群れ同士(部族同士)を平和的に合流させる手段としての性交で、それにより次世代は同一の「帰属本能(群れ意識)」を構成する事を意味していたのだが、実はこの誓約(うけい)の概念を踏襲した古代から今に伝わる言葉に「ねんごろ/(懇ん凝ろ)」がある。

親しい事を示す懇意(こんい)の「こん」はひと文字で「懇(ねんご)ろ」と読む。

懇(ねんご)ろは元々「懇(ね)ん凝(こ)ろ」で、凝(ころ)が 心(こころ)の語源である所から懇(ねんご)ろとは心がこもっている様を意味し、「心のこもった奉仕」の意味から「懇(ねんご)ろに弔(とむら)う」などの用法もあるが、特に男女の仲が親密である様を指して言う。

簡単に言うと「懇(ねんご)ろ」は男女の間柄が「心のこもった親密な奉仕の関係」の意味で、つまり懇(ねんご)ろの仲とは勿論性交を行う仲の事を言い、古代群れ社会から今日まで「懇(ねんご)ろに成れば群れ仲間」と言う事である。

従って懇(ねんご)ろの言葉の意味を正確に言えば、心がこもっている様は即ち性交を行う間柄と言う事に成る。

懇(ねんご)ろの古形読みは「ねもころ」で「ねもごろ」とも言い、万葉集に「我妹子(わぎもこ)が里にしあれば懇(ねもこ)ろに見まく欲しけど」、「足引きの山に生ひたる菅の根の懇(ねもこ)ろ見まく欲しき君 ・・・」、「菅(すが)の根の懇(ねもこ)ろごろ我(あ)が思へる妹によりては」などの恋愛歌がある。

これらの歌の内容が、歌垣(うたがき)と言う当時の性風俗の習俗を彷彿させるもので、そうした歌は現代では考えられないほど率直に「懇(ねんご)ろに成りたい」と口説いているのではないだろうか?


万葉の時代は同父母の兄妹は流石(さすが)に性愛対象外だったが、今と違って身内も性愛対象で、父母のどちらかが違えば性愛の対象としても余り問題視されなかった。

万葉の当時は「通い婚」の時代で、当時の社会では女性が家を持ち男性が通う婚姻形態から、その男女の間で産まれた子は母親の元で育つ事に成る。

育った家が身内感の中心に成る関係から、父親が同じでも母親が違えば別の家の子であり、兄弟姉妹の感覚はなかった為に「血の繋がりが特に問題にならなかった」と言う事であろう。

そうした環境下の当時の男女の性愛の倫理観から、「万葉集」の中には現代ではタブーとされる異母兄妹の関係での夫婦や恋人、そして同時に夫婦と恋人の乱倫関係にあるなど比較的自由な性愛関係がさして秘する事でもないとされて伸び伸びと詠まれている。

今でこそ「劣勢遺伝」の問題があるので考え難いが、現代では「タブー」とされる異母の間で生まれた兄妹や三親等間の性愛が、皇室や貴族も含めて当時は珍しい事ではなかった。

三親等とは父方と母方のおじ(伯父・叔父)やおば(伯母・叔母)、甥(おい)や姪(めい)、息子の嫁の祖父や兄弟などが該当するのだが、その三親等間の性愛や結婚、一夫多妻や所謂(いわゆる)スワッピング(夫婦交換)など、生殖行為として限定されていない自由で解放された多様で豊かな性や愛のありようを詠んだ歌が万葉集の中に多数散見されるのである。


歌垣(うたがき)の記述は、「万葉集」の他に「古事記」・「常陸国風土記」・「肥前国風土記」などにも見え、その習風俗は日本列島の広い範囲に分布していた痕跡があり、現代でも沖縄の毛遊び(もうあしび)に歌垣(うたがき)の要素が強く認められるほか、福島県会津地方のウタゲイや秋田県仙北地方の掛唄にも歌垣(うたがき)の遺風が見られる。

長く続いた歌垣(うたがき)の風習俗も、次第に流入する新しい大陸文化の影響で平安時代から鎌倉時代を経て消滅の過程を辿り、近世になって、儒教道徳が氏族社会(貴族・武士)の生活意識を支配し始める事になる

足利時代に成ると南北朝並立の経緯から北朝方と足利氏が勢力を増し、仏教に儒教が習合されて「氏族(貴族・武士)社会」は禁欲的な方向に傾倒して行くが、庶民社会(民の社会)は性に対して開放的な感覚を維持し続けて明治維新を迎える。

儒教精神を基とした「固定した身分制度・封建社会」に抗していた民衆の武器が、思想や道徳に囚われない人間の恋愛感情や男女の交情であったから、民衆の風俗思想は性に対しては寛大であったのである。



調和を好む民社会の村落に於いて、稲荷(稲成り)と子宝(授かり者)は、村落経営の柱で有る事を彼らは知っていた。

村社会における神聖な性行為は、恥じる物ではけしてなかった。
つまり、農漁村(猟村を含む)に於ける村落共同体の性意識は「とても解放的」で、一夫一婦制はあくまでも「建前的なもの」にしか過ぎなかった。

歴史と言うものを突き詰めて行くと、男女の交わりに辿り着く。
結び付く条件の形態はともかく、この男女の「性行為」と言う最小単位の生き物としての時間が、子を為す事で命を繋ぎ、次の時代を作り出して、連綿と歴史と言うものが作られてきた。

一旦信じられ、動き出した村社会の、「素朴で善良な合意」は止らない。それは、時を経るごとに庶民文化としての意味合いを形成して行くのである。それ故、「夜這い」と言う風習が、容認されていた。

従って、「結婚したから」と言って、その相手を性的に独占できる訳ではなく、元々当時の農民家には大した家財道具や財産など無いから男の家に転がり込めば結婚、風呂敷包み一つ持って家を出れば離婚も済むような、簡単で「極めておおらかな事」だったのだ。


まず、農漁村部における「夜這い」の前提をはっきりさせておきたい。
元々の百姓、漁師などの身分と生活環境を考えてみよう。

百姓や漁師の生活環境は村里集落であり、身分はその地名に住む誰々(山里村のゴンベイ)で苗字に当るものは無いので有る。
つまり公家や神官、武士、僧侶階級の家系単位と違い、村里集落が一つの共同体単位で、「**村のゴンベイの所の娘っ子のオサト」と言う表現の存在である。

日本の農村部の原風景は、鎮守の杜と辺り一面に広がる水田である。
正直言うと、余程酷い領主でなければ、農民にとって領主は誰がなろうとどうでも良い。
搾取する事に変わりは無いからだ。

どの領主も、後の世の者が考えるほど戦ばかりやっていたのではない。
戦をするにも財力がいるので、新田開墾を含め領地経営には熱心で働き手の農民も結構大事にした。

村人は、村の所属であり、村の名が一体化した村人の苗字の代わりだった。

つまり、民は領地を有した領主の所属で有り、村名は領主の名(地名)苗字(なえあざ・みょうじ)を使用した所属制度である。
従って所有する方とされる方では、明らかな利害関係が成立していた。

そこで村人は、生きる為に組織化する。
権力者の搾取、或いは隣村との土地や水利権の争いなどから彼らを守る「自治組織」としての村には、村人の団結が唯一の手段で有る。
従って村の団結を壊すルール違反があれば「村八分」と言う形で制裁を受けた。

と成ると、「夜這い」はルール違反ではなく、「積極的公認の事」と解釈するべきである。
これは、「集団婚、妻問婚」の名残とみる説が定説で有るが、陰陽修験の影響が根底にある事を考慮してはいない。

当然ながら、「郷に入れば郷に従え」の諺(ことわざ)の一部は、こうした地域ごとの「村社会(村落共同社会)の性風俗」にも従う事を意味している。


元々性交は「自然行為(繁殖行為)」であるから、ルールは後から付いて来た。その点では他の動物と余り変わりは無い。

例として挙げ易いので「おしどり」と言う鳥を揚げてみると、「つがい」の仲が非常に良いので、仲の良い夫婦を「おしどり夫婦」と形容するが、実際は大半の「つがい」は一繁殖シーズンだけの仲で、次のシーズンは別のペア(つがい)になるそうだ。

「集団婚」と言う婚姻形態は、一言で言えば「複数の男と女がグループ」で婚姻関係を結ぶもので、日本を含めて採取狩猟時代から歴史的に長く行われていた。

或いは、先住の日本列島の民、蝦夷族(エミシ族)に、この習慣があったのかも知れない。

「妻問婚(つまどいこん/つまどえこん)」とは、男が女性の下へ通う婚姻形を指している。

中国・雲南省の水耕稲作発祥の地は、未だにこの「妻問婚」が行われて居る土地だが、正月の風習などわが国の習慣に共通点が多いので、昔から初期日本民族(統一大和族)に於ける「習慣の遠いルーツでは無いか」と指摘されている。

正し言って置くが、記録に残っているのは相応の家柄を有する征服部族の末裔だけで、底辺の庶民の記録には残らない。


妻問婚(つまどいこん)・妻間婚(つままこん)は古代の結婚制度で婿入婚(むこいりこん)の一種で、招婿婚(しょうせいこん)とも言う。

この婚姻形態は、数年婚姻が続き関係が安定すると新しい屋敷を作って同居する事もあが、男性が三日夜続けて女性の下へ通うと成立する簡単な結婚制度で、総じて結び付きが弱く結構簡単にくっついたり離れたりする。

夫婦は別姓で、基本的に同居はせず妻の家に夫が通い、従って男性は複数と婚姻関係を結び、妻の方も気に入った男性を家に入れる事もある。
つまり夜這い(呼ばひ)が発展した婚姻形態で、複数の妻の間を夜這い(呼ばひ)歩く者も多かったので妻間婚と書いて(つままこん)とも読む。

所謂女系家長制で、子供は特別の事情がない限り母親の家で育てられ、父親との関係は薄い。

この「妻問婚(つまどいこん)」の別の呼び名が「夜這い」の語源で、動詞「呼ばふ」の連用形「呼ばひ、が名詞化した語」と言うのが定説で、「夜這い」と書くのは当て字である。

「呼ばひ」は上代から見られる語で、本来、男性が女性の許に通い、求婚の呼びかけをする「妻問婚」事を意味した。

この求婚の呼びかけ、今ほど厳密なものでなく、「唯の口説き」と区別は付き難い。
当時は男性側に、「多妻・重婚」が多かった。
そしてそれがさして批難されない社会風土だったのだ。

勿論、この「呼ばう」の場合、女性が呼ぶのであるからお相手の選択権は呼ぶ方の女性にあった。
そして、気分次第で呼ぶ相手が違っても、別段不思議な事では無かった。

つまり女系主体の子孫継続の形態である。
これはその時代の合意であり、現在の倫理観とは大きく違うが、現在の考え方はその形式の一つに過ぎず、絶対的なものではない。

やがて、後発で入ってきた渡来人や経典の影響で、父系の血筋を繋ぐ貴族社会から、徐々に「嫁入り婚」が支配的になり「妻問婚が、不道徳なもの」と考えられる様になった。

当時は照明が発達していないから昼間働き、「夜、性行為をする」イメージが定着していた為、「夜這い」の文字が当てられた。
時代が下がり、「夜這い」の字が当てられて以降、求婚の呼びかけの意味は忘れられ、「男が女の寝床に忍び込む意味」として用いられる様になった。

その性交習慣の名残が、つい五十〜八十年前まで密かに村里に生きていた。

調和を好む民社会の村落に於いて村人の結び付きの手段で有り、団結の象徴だが、価値観の違う為政者(支配階級)は認めない。
それで、建前は「一夫一妻制」を取ったが、現実には「夜這い」は、本音の部分で村内は公認だった。

「夜這い」は男が女の家に侵入して交わって帰る事である。
現実問題として、相手にも家人にも了解がなくては成功(性交?)は難しい。
夜這いだけは、年の上も下もない。
身分、家柄もへったくれも関係ないのが村の掟である。

そして、相手は頻繁に変わっても良い。
つまり、「夜這い」を仕掛ける相手も未婚の娘とは限らない「総当り制」で、婆、後家、嬶、嫁でも夜這いが許される村も多かった。

その場合は、永きに渡り守られて来た風習であるから、夫もそれを平然と受け入れなければならなかった。
妻や妹、そして娘を「夜這い」されても、夫や親兄弟は文句を言わない。
それが、村を挙げての合意された「掟」だからで有る。

「掟」である夜這いによって妊娠し、子供が生まれる事があっても、夫はその子供を「自分の子として育てる」のが当たり前だった。
確かに村落一体と成った乱倫では父性の位置は不確実で、実の父親が誰なのかは問題にされない。

しかしこの事は、血統至上主義を「拠り所」とする氏族とは対極の身分に位置した民人(非支配者下層階級/非良民・賤民)の「血統至上主義」へ対抗心が根底に在ったのかも知れない。

この風俗習慣は、遠い昔の修験山伏・陰陽師勘解由小路党の残した性と子作りの規範が、元になったのは言うまでも無い。

彼らは永い時代を超えてその風俗習慣を守って来た。
それが、永年の村のルールだからであると同時に、自分達にもその事に参加権がある「集団婚姻的な性規範」であったからだ。

誰の子か判らない子を自分の子として育てる事を奇異に感じる者は、感性に偏りがあるから深く考える必要がある。
これは人間性の問題で、「連れ子や養子を愛せるか」と言う事に共通している。

言わば考え方の問題だが、もし、私権である独占欲や血統主義が判断基準であれば、そんな自分勝っ手な奴に連れ子や養子は愛せない。
つまり日常生活を共有する連れ子や養子を愛せるならば、妻への愛情が本物であれば誰の種であろうとも妻の産んだ子を愛する事は、養子依りは更に容易な筈である。

その意味では、夜這いは村内に在って特殊な事ではなく頻繁・日常的だった。
何故なら、子供の親が特定されるより「誰の子か判らない」方が返って村は平和で良いのだ。

いずれにしても、永く続いた村の共生意識の中での価値観は、現在の物差しでは計れないのである。

目的は村の団結(全て身内の気分)で有り、人口の維持発展、治安維持である。
本来人間は、「共に生きる事で互いを理解し合うもの」で有る。
簡単に言えば、「村民皆兄弟」であり、これほどの身内意識は、他の方法では育たない。

小規模(少人数)の村では、男女の比率が平均化されない事態や少子化がしばしば発生したので、この手段の「総当り制の夜這い」が問題解決の最高手段だったので有ろう。

一夫一婦制で男女の比率が違うと、当然、あぶれる(相手に恵まれない)事態が起こる。
これを、手をこまねいて居ては村落が少子化に陥るから、救済手段が必要だった。

この考え方、今の日本ではまったく支持されないだろうが、人口バランスに起因する「少子化」に悩む当時の小部落の「有効な対策」だったので有る。
しかしながら、素朴に村の宝、国の宝だった子供を、現代日本では個人の自分の子供でさえ欲しがらない人が増えて、民族絶滅の危機さえ感じる。

村の人数が相対的に多く、若者と娘の員数が均衡している所では、若者仲間にのみ「夜這い」の権限が公認され、対象は「同世代の娘や後家に限られる」と定められていた村の事例もまた多い。

いずれにしても表向きは、一夫一婦制だが、実態的には皆が性的満足を得られる「夜這い」システムで補完されていたのだ。
つまり、おおらかに性を楽しんでいた。

こう言う村社会の「夜這い思想」を持ち出すと、直ぐに自分の尺度で「人間性を無視したありえない事」と結論を出したがる向きが多いが、チョット待って欲しい。

例えばであるが、高福祉で知られる性に比較的自由思想(フリーセックス)の国スェーデンでは、子供は国の宝で、若年出産の為に生活力の無い親の私生児など、国で引き受けて育てている。

この思想、「村の子供は村の宝」と言う過っての村社会の合意と同じである。
子供はイコール未来の国力で、現在の日本のように、「少子化問題と女性の社会進出」と言う矛盾した奇麗事を並べるより遥かに現実的である。

昔の村落共同体に於いても、連れ合いを失ったり容姿に問題が在ってもてなくて独り身の者も居た。
村落共生主義における村落へのロイヤリティ(忠誠)とも言うべき誓約(うけい)は、本来相手の「情」を求めない善意の性交である。

建前に囚われずに本質的な現実として来た村落共生主義であれば、誓約(うけい)の性交が有るのなら善意から発生する「思い遣りの性交」もあるのが「共生社会」である。

この調和を好む民社会の村落に於ける「思い遣りの性交」など、村落共生主義を棄てた現在の私権社会では、本質的問題でありながら建前で切り捨てて最初から対策思考の範疇(はんちゅう)に無い。

考えて見れば、この村社会ルールは好く出来ている。
契約書の無い世界は、「相手を許す」と言う究極の精神社会である。
つまり、許さなければ「他人同志の垣根」は越えられない。
その象徴が性交で、身内の気分に成れる唯一実体の手段である。

確かな信頼関係を互いに築くには、行動実体が伴う代償は必要で、古来から伝わる最善の手段に「誓約(うけい)」があり、「仲間内での性交は拒否は出来ない」と言うルールで互いが共有する秘密行為が、契約書の無い世界の合理的かつ確実な「究極の証明行為」なのである。

こう言う当時の村落共同体(村社会)に於ける性風俗事情を行き成り現代の性規範で判断すると理解し難いかも知れないが、これには群れ社会動物である人間の習性「集団同調性(多数派同調)バイアス」と言う行動現象がその疑問を解く鍵である。

此処で言うバイアスとは脳のメカニズムの問題だが、バイアスとは「特殊な、或いは特定の意見等で偏っている事」を意味する人間の行動学上の習性の一つで、こうした集団心理状態は宗教現場や閉鎖された村落部の掟(おきて)などに顕著に現れる。

つまり群れ社会を構成する人間に取って集団同調性(多数派同調)は、安心に生活する為の拠り所となる。

例として挙げるが、特に顕著に「集団同調性バイアス現象」が現れるのは災害時などの状況下で、周りの人々がどう対応しているかも個人の行動に影響し、つまりは本来向かうべき思考とは違う方向に偏る事である。

「集団心理」と言ってしまえばそれまでだが、一人でいる時には咄嗟に緊急事態に対応できても、集団で居ると「皆でいるから」という安心感で「緊急行動や緊急判断が遅れ勝ちになる」と言うのである。

これが「集団同調性バイアス」で、それは人数が多ければ多いほど他の人と違う行動を取り難くくなり、他の人が逃げていないのに自分一人が逃げる事は難しい心理状態になるのだ。

つまりは、その判断が正しいか正しくないかを周囲に求め、個人の判断を封じてしまうのが「集団同調性バイアス」と言う行動現象なのである。



このおおらかさを村々に植え付けたのが、修験山伏である。
「喜」を以って「楽」を為すのが、密教における性交呪詛「歓喜法」に拠る「極楽浄土」の境地である。

人間は、性行為や食事の際に「ベータ・エンドロフィン」と呼ばれる快感ホルモン物質を分泌させ快感を得る。

本来、「神が存在する」と言うなら、人間を創りし天地創造の神は、「人間に性交の快感を与える事」で、種の保存を促していたはずである。
それを認めないで建前を言い始めるから、人間は全ての本質から外れたのではないだろうか?

宗教に陶酔したり音楽に聞き惚れたり、視覚、嗅覚、五感の刺激がこの快感ホルモン物質の分泌を促すのなら、人は神の教えで救われても不思議はない。

それを経験的に学習しているから、いかなる宗教にも音楽や雰囲気は付き物で、そのトリップ状態は、けして否定すべき物でもない。
言わば、個人の「癒しの精神状態」である。

そしてこの村落ルールは、現在の様に身体的に婚姻が不利な者や、見てくれで「もてない者」も、見捨てられる事も無く救われ、その手のトラブルを起こす事もなかった。

現代の常識に囚われず視点を変えて見ると、別の真理が見えて来るものである。
つまり現代の考え方は、徹した個人主義に基づくもので、一事が万事この価値観で終始し親子間の殺人までが日常的に成っている。


「夜這い」を実践していた村には、「修験者(山伏)の指導」と考えられる性に関する様式がある。

勿論、村によりかなり多様な形態があり、アバウトなので、全てがこの様式ではないが、およその処を要約すると、村の男は数え年の十三歳で初めてフンドシを締める「フンドシ祝い」、数え年の十五歳で「若い衆入り」と言う通過儀礼があり、年齢が達すると成人と見做され、若い衆と言う成人男子の集団への参加が許される。

この若い衆入りを果たすと、「筆下し」と言って、村の女が性行為を教えてくれる。

その相手は、後家、嬶(かかあ)、娘、尼僧と様々で、くじ引きなどで決められる事が多かった為、場合によっては実の母親や肉親がその相手になる事もあった。

その場合でも、相手の変更は禁じられた。
それは、「筆下し」が情の絡まない宗教的儀礼だったからで、神社や寺院の堂がその舞台となった。

実は、神前で挙げる結婚の儀の意味合いも、その原点はこの儀礼習慣にある。
この辺りに、妙見信仰(真言密教)による「宗教的呪詛」の一端が垣間見える。

この「筆下し」が済むと、漸く公に「夜這い」をする事が許される。

女性の場合は初潮、或いは数え年の十三歳を節目として成人と見做され、おはぐろ(お歯黒)祝い、またはコシマキ(腰巻)祝いが開かれ、暫くすると「水揚げ」となる。

この「水揚げ」、親がその相手を探し、依頼する事が多かった。
「水揚げ」は村の年長者で、性行為の経験が豊富な事には勿論の事、人柄が良く、その後も娘の相談相手になれる後見人として、実力者の男性が選ばれた。

その水揚げを経る事によって、その娘に対する「夜這い」が解禁となる。
これらは、信仰深い人々にとって「神の計(はか)らい」だったので有る。


誓約(うけい)の信頼の下で群れ社会に生きようとするならば、それは虚飾を剥(は)ぎ取ったものでなければならない。

虚飾に色採られた綺麗事からは村仲間の信頼は得られないからこそ、自然体(ナチュラル)に身も心も曝(さら)け出しての和合の付き合いが、純粋(ピア)に生きる村社会の掟だった。

つまり村社会は長い事「群れ婚状態」で、「水揚げ」や「筆おろし」に始まり、「夜這い」や「寝屋子宿」と言った言わば村の存続と団結維持の為のボランテイア・セックス(機会の均等)の側面も有していた。

それでも村落に於ける夫婦間の愛情は成り立っていたが、それには「大信不約(たいしんふやく/五経の一つ礼記の中の一則)」と言う考え方が在り、「大信は約せず」と読み、ひとえに夫婦間の愛情に対する信頼の重みを大事にしていたからである。

つまり大きな信用に「ルール(約)は必要が無い」と言う事で、本当の理想の人間関係には個人の独占欲などを斟酌(しんしゃく)した改めての夫婦間の約束(ルール)は不要なのである。

例えて言えば、制限時速(倫理)は守るべきものだが人生には時としてそれを無視しなければ成らない場面もある事は、リアリスト(現実主義者)なら理解できる。

この五経の一つ礼記の中の一則である「大信不約(たいしんふやく)」を村落共同体の存続の為に教えたのは、当時リアリスティック(現実的)な教義を持つていた真言密教の初期修験道兼僧侶ではないだろうか?

密教とは、「深遠な秘密の教え」の意味で日本では主として真言宗(東密)、天台宗(台密)と結び付いて発展した。
東密と台密は、それぞれに初期修験道と習合した修験山伏兼僧侶である。

手に印を結び(手の指で種々の形をつくること)、口に真言・陀羅尼を唱え、心に本尊(大日如来)を念ずる事によって、仏の不思議な力により「煩悩にまみれた生身のまま成仏(即身成仏)できる」とされている救いの教義である。

つまり本能(煩悩)で汚れた人々を、「真言・陀羅尼を唱える事で救う」と言う教えである。


「夜這い」とは、村落共同体を維持する為の有用な慣習だった。
従って、現在の性に対する意識をそのまま当て嵌めて、「野蛮だ」と感情的に眉をひそめるほど単純な話ではない。

夜這いは村にとって重要な物であるから、その規則は住民達によって細かく決められていて、その取り決めは村ごとに異なる。
その差異は、「村の規模や性格によるもの」だとされている。

夜這いが解禁される基準も、村によって異なるが、数え年の十五歳と言う年齢が一つの目安となっている。
これは、武士社会の「元服式」にも通じるから、数え年の十五歳の身体は立派に大人なのである。

冷静に考えると、自然に成熟する若い男女に、大人としての自覚(社会的責任)を身体の成長に合わせて回りがきちんと教える「理に適った」習慣である。
女性の価値観の合意はその時々で違い、それがその時代の普通の性に関する考え方だった。

この「夜這いの習慣」、単純に女性が不幸とは言い切れない。
これはあくまでも価値観の問題で、公認で多くの男性と性交(まじあう)事が楽しみな女性であれば、現代より幸福かも知れない。
つまり個人差の或るもので、一概一律に判断すべきものでは無いのである。

女性の権利に於いて、SEXが嫌いな女性の言い分とSEXが好きな女性とでは同じ問題でも正反対の権利を主張する。
SEXをしない権利とする権利の相違で、個人の感性でどちらか一方を採用すべきものでもないのである。

村落共同体の民人は、学問は無かったが口先の建前よりも心服信頼の証である誓約(うけい)の性交が信用できる現実で有る事を素朴に知っていた。
つまり、ごく自然な本音で素朴に生きていた。
そして何よりも、当時の村落社会は共同生活体だったのである。


支配者の血統身分である氏族(武門)の間では、その価値観である支配権の為に親子兄弟でも「討つ討たない」の抗争が珍しくない時代が千五百年以上続いた。

支配権の為に、親子兄弟でも武力抗争をする氏族(武門)の精神が立派とは思えないが、それを見てくれだけの格好良さで手放しに「武士道の国」と胸を張るのはいかがなものか?

その一方で庶民(民人)は生きる為に「村社会」を形成し、独特の性習慣の元に村落の団結を図って生き長らえる方策を編み出している。

つまりこの国は、永い事「氏族」と「庶民(良民/常民)身分または賤民・せんみん/奴婢・ぬひ)身分」の二極文化の国で在った。
そうした現実がありながら、歴史的には「氏族文化」のみが日本の歴史がごとく伝えられている「オメデタイ国」である。

支配者である氏族(武門)と被支配者である庶民(民人)は「全く違う価値観と生活習慣でそれぞれが生きる」と言う特異な二重構造が形態化していて両者に武道精神的な統一性など無かった。

そして武士道など知った事ではない被支配者である庶民(民人)は「村社会」を形成し、あらゆる意味で融通し合い助け合い、共同で安全を確保して生活している。

拠って日本を「武士道の国」などと一括りに言う輩は、余りにも歴史を知らないか、何かの危険な目的を持っているかのどちらかである。
つまり、「血統主義」を貫く氏族の価値観と対極に在ったのが、庶民の価値観「村落共同体主義」の「夜這い文化」なのである。

しかしこの「村落共同体主義」は、果たして自然発生的に生まれたものなのだろうか?

「村落共同体主義」が、初期修験道の影響を受けた風俗であれば、その目的は他にある。
調べて見ると、この「村落共同体主義」は、列島の隅々にまで色濃く分布している。

それで、「何者かが画策したのではないだろうか」と気が付いた。
考えて見ればこの「夜這い文化」、実は対極に在る氏族の「血統主義」を際立たせ、子々孫々に到る氏族権力の維持に効果的な役割を担う事だからである。

陰陽修験を通して、古代大和朝廷の綿密周到な陰謀が「背後に存在した」と成れば・・・


人間には「意識と行動を一致させよう」と言う要求(一貫性行動理論)がある。
つまり、現代の物差しとは違う価値観が昔村落に存在した理由は、当時の女性は村落を基本にした考え方が「正しい」と育てられていた意識の違いである。

従って、現在の意識を基にした「一貫性行動理論」の物差しを現代に当て嵌めて、「そんな事は有り得ない」と過去を判断するのは危険な判断方法である。

村落共同体の存続を賭けた「少子化対策」のこうした様式は、広義に解釈すると国家にも通じる。
村民が減っていけば「村の力が落ちて行く」と同様、国民の居ない国家は成立たない。

従って、「夜這い」を現在の固定観念で安易に「低俗」と判断する人は「無知」な人と言わざるを得ない。
現在より余程実践的な性教育システムであり、健全な精神の若者を育てる「民の知恵だった」とも解釈できる。

「再開しろ」とは言わないが、先人の知恵に「教えられる所は多々ある」と言う事だ。

それを現在では、「十八歳までは子供」と法律で決め付けている。
この抑圧は、若者の思春期の精神生成に、害はないのだろうか?
つまり無責任な建前主義に陥って、成長期の大事な若者の精神を、無理解に捻じ曲げてはいないだろうか?

少なくとも、昭和の始め頃までは「夜這い」はほぼ全国で行われていた。
最後まで残ったのが昭和二十年の敗戦の頃までで、漁村を中心としてまだこの慣行が残されていたらしい。
しかし、高度経済成長期の集団就職、出稼ぎ、などの影響で村落共同体の崩壊と共に「夜這いは全滅した」とされている。


昭和二十年の初めまで、関東から以西の主に沿海部の漁村に分布する独特の風俗習慣に「寝宿(ねやど)」と言う制度が在った。

北日本、東日本ではその存在が希薄である「寝宿」は、地方により「泊り宿」や「遊び宿」とも言う。
若い衆には「若い衆宿」、娘衆には「娘衆宿」があるのが普通だが、男女別のものばかりではなく土地によって同宿のものもあった。

集会場や仕事場としてのみ用いられるものは「寝宿」とは呼ばない。
「寝宿」は文字通り寝泊宿で、男子の場合、若い衆へ加入と同時に「寝宿」へ参加するものと、「寝宿」へ加入する事が、逆に若い衆組への加入を意味する「形態」とがある。

娘衆の場合、集会としての娘宿は多いが、寝泊宿の例は比較的少なかった。
例え寝泊宿があったとしても、いずれにせよ一つの寝宿に兄弟姉妹が同宿する事は避けるものであった。
寝宿の機能は、「婚姻媒介目的」と「漁業目的」の二つに大別され、双方を兼ねる場合もある。

婚姻媒介目的の場合、若い衆は「寝宿」から娘衆の家・娘衆宿・娘の寝宿へ夜這い(よばい)に訪れ、おおらかに相性を確かめた上で将来の伴侶を選んだのであり、そのさい宿親と呼ばれる宿の主人夫婦や宿の若い衆仲間達が、助言や支援を行った。

つまり、明らかに村落共同体としての合意ルールによる「夜這い」であり、いずれにしても、この制度は「夜這いを容易にする手段でもあった」と言える。
従って結婚すれば寝宿から卒業する地方もあった。

一方、漁業目的の場合は、寝宿から夜間の漁に出るほか、寝宿に宿泊して遭難、災害、紛争(他の村落相手)等の非常時に備える現実的な目的が在った。

「寝宿」としては、一般に新婚夫婦のいる家屋の一部屋を利用するものが多いが、漁業に関係した「寝宿」は網元の家が用いられる事も在って、また寝宿専用の家屋が常設されている地方も在った。

こうした慣習が、関東以西の広範囲に大正末期までは顕著に続けられ、その名残は、地方によっては、村の青年団や消防団などが、こうした習慣を継承して、昭和の二十年代初めまで続いていたのである。


現代人には奇妙に思える「水揚げ」や「筆おろし」、「歌垣(うたがき)」や「暗闇祭り」の風習、「夜這い制度」や「寝宿制度」、現代では否定される性文化でも、その時代環境が今とは違う価値観を肯定し、それを誇りに思える場合がある。

これこそ誓約(うけい)精神の原点なのだが、群れを強く意識した村落共生社会では「囚人のジレンマ」と呼ばれる個人性と社会性のせめぎ合いの中から共に生きる為に生まれた協調性が、村の掟(ルール)として採られたのではないだろうか?

囚人のジレンマとは、群れ合意(社会性)と個人の意志が必ずしも一致しない為に、個人の意志を優先すると群れとしての利益を失い、結局個人も大局的には「利」を失う事を言う。

それ自体は応用範囲の広い人類永遠のテーマであるが、二人の隔離した囚人の自白ゲームがモデルとなっている為に「囚人のジレンマ」と呼ばれている。

自らを有利にする自白は、同時に友人を陥(おとしい)れて失う事である為、合理的な各個人が自分にとって「最適な選択(裏切り)」をする事と、全体として「最適な選択」をする事が同時に達成できない事が、ジレンマ(板挟み)なのである。

つまり個々の最適な選択が全体として最適な選択とは成らない状況が存在する事を指して「囚人のジレンマ」と言う。

しかしながら人間は独りでは生きられない動物であるから、結局個人は「群れ」と言う社会性に囚われているので、個人が確実に「利を得る方法」を選ぶなら群れに対する協調性が必要に成るのである。


現代日本の道徳観念には、儒教・儒学(朱子学)の精神思想が色濃く影響している。

しかし勘違いしてはこまる。
言わば、儒教・儒学(朱子学)の精神思想は永い事「氏族の精神思想」で、江戸期にはその「忠孝思想」が「武士道(さむらい道)」の手本に成ったが、けして庶民の物では無かった。

つまり、当時の支配者側と庶民側の「性に対する意識の違い」を理解せずに、現存する支配者側(氏族)の文献にばかり頼ると「暗闇祭り」や「夜這い」の意味が理解出来ないのである。

庶民側のそうした風俗習慣は明治維新まで続き、維新後の急速な文明開化(欧米文化の導入)で政府が「禁令」を出して終焉を迎えている。

明治新政府の政策に拠り、皇統の神格化が図られて廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)を行うまでは、日本(大和朝廷)の宗教政策は信仰に基付く争いを避ける知恵を働かせて、基本的に永い期間「神仏習合(しんぶつしゅうごう)」政策だった。

所が明治新政府は、文明開化(欧米文化の導入)で欧米列強と肩を並べるべく近代化を目指した。

一方で強引な皇統の神格化を図り、天皇に拠る王政復古に拠って、神道による国家の統一を目指し、それまでの神仏習合から仏教の分離を画策して、廃仏棄釈(はいぶつきしゃく)と銘銘し、仏教の排斥運動や像・仏具類の破壊活動が行われた。

同時に国家の統治の要として儒教・儒学(朱子学)の精神思想を採用、国家と天皇への忠誠を広く庶民に啓蒙したのである。

ここで問題なのは、古来の神道に儒教・儒学(朱子学)は無かった事で、廃仏棄釈(はいぶつきしゃく)とは言いながら、庶民生活に於いては政府の意向で「神仏習合」から「神儒習合」に変わったのが現実である。

明治維新以後、保守的な漢学者の影響によって教育勅語などに儒教の忠孝純潔思想が取り入れられ、この時代に成って初めて国民の統一した意識思想として奨励された。

つまり、過っての日本的儒教(朱子学)は、武士や一部の農民・町民など限られた範囲の道徳であったが、近代天皇制(明治以後)の下では国民全体に強要されたのである。

従って庶民の大半には、古くからの北斗妙見(明星)信仰や陰陽修験の犬神信仰、真言大覚寺派の教えも、明治維新まで或いは戦前までは根強く残っていたのは確かである。

実は、村社会・地域社会の絆とも言える身内感覚(共同体意識)を支えた「おおらかだった庶民の性意識思想」を代えたのは明治維新に拠る新政府が、近代化を図る為である。

その目途から「文明開化(欧米文化の導入)」を行い、キリスト教の教えを基にした欧米型の精神思想を啓蒙、また国家の統治の要として儒教・儒学(朱子学)の精神思想を採用、広く庶民に啓蒙した事に拠るものである。

この事が、徐々に庶民の村社会・地域社会の身内感覚(共同体意識)を失わせた。

大きなお世話だが、ぺりー提督の黒船の後に来日して初代駐日公使となり、日米修好通商条約を締結させたタウンゼント・ハリスが民衆の生活を見聞し、 日本の性規範の大らかさに驚き「軽蔑した」と言う。

これを持って明治維新政府は、「野蛮批判」を恐れて自国の性規範の欧米化に躍起になる。
「黄色い猿真似」と揶揄(やゆ)された鹿鳴館外交もそのひとつで、まずは形から入って欧米化を進めたのである。

勿論当時の世界情勢を見れば「植民地化」を恐れての事で、理解は出来るのだが・・。


タウンゼント・ハリスは初代の米国総領事として日本に来航、日米修好通商条約を結んだ人物である。

マシュー・ペリー提督の黒船来航で攘夷か開国かの窮地に立たされた江戸幕府は、とりあえず初代の米国総領事としてタウンゼント・ハリスを受け入れて伊豆国・下田(玉泉寺)に領事館を許し常駐させる。

ハリスは江戸出府を望むが、幕閣では水戸藩の徳川斉昭ら攘夷論者が反対し、幕府としてはこのハリスには江戸やその近くに来ては欲しくなかった為江戸出府は留保された。

結局開国派の大老・井伊直弼が京都の朝廷の勅許無しでの通商条約締結に踏み切り、幕府は条約を締結するのだが、幕府はハリスの江戸出府を引き止めさせる為、ハリスとヒュースケンに対して夜伽侍女の手配を行う。

斉藤きちは、十七歳の時に下田奉行所支配頭取・伊差新次郎に口説かれてハリスに献上される。

日本史に於いては、基本的に婚姻関係が神代から続く「誓約(うけい)の概念」をその基本と為していて、氏族社会(貴族・武家)では正妻・妾妻と言う変形多重婚社会の上、家門を守り隆盛に導く手段として「政略婚」や父親や夫からの「献上婚」などが当たり前だった。

おまけに主従関係を明確にする衆道(男色)も普通の習俗で、日本側にすれば他国の高級役人に夜伽女性を献上するのは当然の行為だった。

所が、敬虔(けいけん)なクリスチャンで生涯独身であったハリスはその事に驚き、直ぐにお吉は解雇されている。

この時のタウンゼント・ハリスが請けたカルチャーショックの衝撃が、民衆の生活を見聞し日本の性規範の大らかさに驚き「軽蔑した」と言う日本の性文化批判の根幹を成す出来事だった。

斉藤きち(唐人お吉)が仕えた期間はほんの僅かで、ハリスの敬虔(けいけん)な信仰から夜伽行為は実行されず、きち(唐人お吉)の身は綺麗なままだった。

だが、周囲は異人に身を汚された女性として「唐人」とののしられ、下田に居られなくなって横浜に流れ、後に戻って来て小料理屋「安直楼」を開くが、周囲の心無い仕打ちに酒に溺れて店を倒産させ、豪雨の夜に川へ身を投げて遂に自らの命を絶ってしまう。

言わせてもらえば、このハリスの日本文化批判は個人の思考に拠る極めて独善的なものである。

キリスト教徒の中にはフーリングが合えば「神の思(おぼ)し召し」で浮気不倫をする者も居る。
そしてそれが間違いなら、「懺悔(ざんげ)」をすれば赦される仕組みになっている。

キリスト教徒と言えども人間だから、時には悪魔に惑わされる事も有る訳である。
浮気不倫は存在し、勿論、合法非合法の別は国に拠って様々だが、現実に「売春・買春」もキリスト社会に存在する。

何だ「性に対する柔軟性は一緒じゃないか」と思うだろうが、実は大きな違いがある。
ここでキリスト教徒が日本の性規範(性意識)を批判したかった決定的な違いは、キリスト教徒の場合は「フーリングが合えば」と言う「個の感性」が基本と言う点である。

その「個の感性」を基本とする欧米個人主義に比べ、一方日本の明治維新当時のおおらかな性習俗は、「寝宿制度」、「夜這い制度」、「暗闇祭り」と、言わば群れ社会の性規範、「集団婚(群れ婚)」の名残である集団的性規範を、「民族性の違い」にも関わらず自分達の感覚と比べ「信じられない」と批判したのである。

人類は、文明の発達と共に生きる上で大事な事を忘れて来た。
忘れて来た大事な事とは、自然体(ナチュラル)の群れとして生きる近隣愛の共生であり自然種の動植物や環境との共生である。

人間には誰にでも自然体(ナチュラル)の性欲があり、性交の快感は極自然な「神の恵み」である。

国王だろうが奴隷だろうが、性行為はする。
そして最も重要な事だが、性欲を無くせば人類は滅びてしまう。
こんな簡単な事に気が付かずに「禁欲が尊い」とする歪(ゆが)んだ綺麗事だけの宗教は、それだけでもう胡散臭い。

およそ男女の間具合(まぐあい/性行為)に貴賎の別がなければ、「生命の営み」と言う重要な筈の性交を、何を持って「低俗なもの」と言わしめるのだろうか?

信じたく無いかも知れないが、皆んな総論では綺麗事を言い各論では自分だけは「コッソリ性交を犯って居る」と言うのが人間なのである。
それでも性欲を「罪だ」と言う歪(ゆが)んだ綺麗事の矛盾は、この世の中最大の理解に苦しむ謎である。


一方日本人は、全てに渡って集団共生社会(村社会)だった。
つまりこの「個」と「集団」の違いは民族性の違いで、実は基本的カップルの相手以外と性交する点では余り変わりは無い。

それを欧米諸国は、自分達の感性と違うから明治維新当時の日本は「性に乱れている」と批判し、その批判に文明開化を急いでいた明治政府がバカバカしい事に慌てて、「寝宿制度」、「夜這い制度」、「暗闇祭り」に禁令を出したのである。


この政府の禁令に宗教関係者は迎合し、直ぐにその教義を禁令に合わせている。

宗教上(信仰上)の本来不変である筈の正しい教えが、権力者の都合や宗教指導者の都合、歴史の変遷の中で変化して行く所に、宗教(信仰)の妖しさを感じるのは我輩だけだろうか?

物事を単純化しようとする安易な勢力がある、しかし本当の人間には様々な引出しがある。
つまり、脳の思考回路は一筋縄では行かないのである。
にも関わらず、丁寧な検証もせずに結論を出す。
理由は「それでは政策が進まない」と言う無責任な本音である。

戦後の私権教育に拠って、食べ物を分かち与える村落共生主義など、戦後第二世代以降には理解出来なく成ってしまった。
益してやその原点が、「夜這いに在る」などと言ったら、「嘘、信じられない。」と言われるだろう。

しかし近隣愛の原点が無く成れば、「誰でも良いから殺したい」と言う身勝手な発想が生まれる事に成る。


尚、性がおおらかだった時代の日本と欧米キリスト文化が流入して後からの日本では、明らかに「性の歪(ゆが)みが方」が違う。 これが時代の経過に拠る今日的なものでは無い証拠に、この現象は明らかに欧米キリスト文化では昔から存在した「性の歪(ゆが)みが方」なのである。

言って見れば、「良くも悪くも欧米化した」と言う事で、鍵を掛ける習慣がないほどの安定安全社会だった全て身内気分の村落・・「村社会」を破壊したのが米国を含む西洋文明である。

日本の庶民社会が「性に対しておおらか」だった事を米国を含む西洋文明が、性に対して自分達と考えが違うを持って「野蛮」と言うのであれば、この十八世紀から二十一世紀の今日までの米国を含む西洋文明が「野蛮な文明では無かった」と言うのか?

米国を含む西洋文明の歴史は、あれこれと理由を作り「戦争、侵略、暗殺、銃社会」と言う「犯った国(者)勝ち」の身勝手な発想を実行して来た「野蛮な文明」である。

それを真似した明治維新以後の日本政府は、「戦争、侵略」と言う強引な欧米化を推し進め、昭和前期の大戦に国民を巻き込んで甚大な人命被害と財産被害をもたらせた。

近頃苦悩している日本経済の再生は「過去の歴史から学ぶべきもの」で、「米国型経済化」と言う猿でもしない強引な猿真似で解決できる筈がないのである。


明治新政府の皇統の神格化が太平洋戦争(第二次世界大戦)の敗戦で代わり、国民主権の民主国家に変貌する。

敗戦後に影響を受けた米国型の個人主義偏重の自由思想は、人々を極端な個人主義に走らせ、遂には個人の主張が身内にまで向けられ、気に入らなければ親兄弟でも殺す人間が急増している。

この明治以後に初めて庶民にまで浸透した儒教的価値観と欧米型の精神思想を、まるで「二千年来の歴史的な意識思想」のごとくする所に、大いに妖しさを感じるのである。


誓約(うけい)に拠る身内感覚の村落共同体意識が在ったからこそ「田植え」には村人総出の相互協力体制が在った。
村八分に威力が在ったのは、この相互協力体制から外されるからである。

その相互協力体制が崩壊したのは、戦後の教育方針が集団から個に重点教育が為されて誓約(うけい)に拠る身内感覚の根幹である「群れ婚状態(寝宿制度や夜這い制度)」は消滅し、集団から個に意識が変わった事に拠るもので、村落内でさえも個の主張が幅を利かせている。

戦後、村人総出の「田植え」相互協力体制は壊滅に向っている。
この事は、単に「農業が機械化された事」とするのではなく、「身内感覚の村落共同体意識の喪失」と言う精神的な共生イデオロギーの崩壊を意味し、その事が他人を思い遣る事の無い「現代」と言う名の不毛な社会を醸成し続けている。

戦前の日本社会は子沢山が一般的で、親が余り一人の子に愛情を注げなかったが、それでも子供達は「まとも」に育った。
それに引き換え、戦後の日本社会は少子化で親はタップリ愛情を注げる筈なのに、子供達が「まとも」に育たない。

我輩に言わせれば、その「まとも」に育たない原因は、戦後日本が採用した米国型自由主義化に拠って「群れ社会」から「孤独社会」に悪変してしまったからに違いないのである。


近世から近代にかけて、為政者主導の社会制度に、民が「性的なものに対する嫌悪感」を植えつけられ、次第に性に対するおおらかさを失って行く。
しかし、為政者主導の「一夫一婦制」は庶民には押し付けたが、都合の良い事に権力者達は「血脈を途絶えさせない為」と称して、自分達だけは正妻以外に「妾」を多数囲っていた。

この、性への嫌悪感の流布には、「お定め。禁令」と言った法律の施行と伴に、中央政権に迎合した宗教の存在が、大きい力になって行く。

為政者側からすると、「そんな楽しい事にうつつを抜かさず、働いて我々に貢げ」と言う事で有る。
つまり、「民を働かせ、その成果を収奪する」為政者有利な論理に元付く「まやかしの制度」で有る。

その制度は、主として為政者の目が届き易い平野部から、序々に民衆(民人)もその制度に染められて行った。


一夫一婦制は、重大な別の効果をもたらせた。
庶民が異性に対する独占欲を、強く意識する第一歩となったのだ。
そして、民間で自然発生的に見事に成立されていた「性教育システム」を崩壊して、建前の中に蓋をしてしまった。

つまり、本来脳の別の部分で考えている「精神的愛情」と「性的衝動」を集合させ、「独占欲」と言う私権で括(くく)ってしまった。
その間(ハザマ)の中で、最近多発する「未成年にのみ性の興味が向けられる」歪んだ性を育てた可能性を否定できない。

しかしながら、未成熟な若い身体や同性に興味を抱くのは、生き物として正常ではなく病気で有る。
それらが徐々に進んで「私権(私欲的個人主義)」の意識だけが、性の意識に限らず、金品などあらゆる物に及んで行くのだ。

現実に存在する人間の性衝動を、建前主義の絵空事で覆い隠して・・・・・・現にこのギャップが、多くの事件の元に成っている。
しかし、山間部の民や漁場の民は、昔ながらの「未開」の領域を「その制度の中におおらかに残していた」と言う事だろう。

「夜這い」を持ち出したのには、我輩に「村社会と言う生活共同体があった事を伝えたい」と言う意図が在ったからで、安易に「夜這い社会に戻せ」と言うのではない。

そもそも、国際摩擦の際に都合良く顔を出す「我が国の独自文化」と言うものは、いったい如何なる物なのか?
それは、いつの時代の何を指しているのか?

一方で国民の価値観が大きく変遷して、生活に対する形態が激変しているのに、奇妙な「独自文化」を強弁に持ち出すのは、如何にも呪術的対応である。

村は、「生きる術(すべ)」の組織だった。
従って、村の宝である子供に村総掛りでルールを教え慈しんで育てた。
その精神は、先の大戦が終わる頃までは生き残っていて、村落に限らず町場の地域社会でも機能していた。

つまり長く続いた制度には、「たとえ一部でも学ぶべき所がある」と言う事を伝えたいのである。

それが近代になって学校任せになり、地域における素朴な教育は廃(すた)れ、挙句の果てに子供の為の教育から大人が安心する為の教育に歪んでしまっている。


深く考えれば、「夜這い」こそ、黒人社会のソウルミュージック的な日本の民にとって「魂を揺さぶるもの」で有ったのでないのか。
そうした魂の原典がごときものを自ら切り捨てた時に、日本人の魂は文明の中に消えた。

つまり、米、味噌、醤油を日常的に貸し借りしていた共同生活者の意識は無くなり、遂には夫婦親子に到るまで、共同生活者たり得なく成ってしまった。

良く観察してみると、穏やかでお人好しで素朴な人柄の村人が、一皮剥けば生き残る為のしたたかな鎧を、しっかり身に着けているである。
歴史ある海や里、山の小さな村落が、お上のお仕着せの定め(一夫一婦制)に逆らい、独力でルールを決める事で今日まで生き延びて来た。

つまり企業生き残りの身勝手な論理と同じように、「夜這い」と言う村の身勝手な論理が、村を支配する光と影に積み重なって営々と築き上がっているのかも知れない。

人間を除く動物は、自然の摂理で種の保存をする。
それ故、かならずカップリングからあぶれる者がでる。
つまり優れた種を残す為に、そのカップリングに残酷な優劣の選別がなされる事になる。

人間は、往々にして理屈より感情が先に立つ、それ故基本的に利己主義である。
しかし大和の国の民人(たみびと)には、知恵と「観音の慈悲」が在った。

あぶれる者を救済する地域社会の合意を構築したのである。
果たしてこの民人(たみびと)の知恵、単純に「異常な事」と言い切れるだろうか?

我輩は思う、「夜這い」に秘められた村人の思い・・・・それは素朴で優しく、隣人愛に富み、美しい。
その心情が失われて行く事を、文明の進歩とは「けして言わない」筈だ。

勝手に他家に上がり込んで飯びつの飯を家人の断り無く喰らっても、村内の者なら咎められる事のない「過って知ったる他人の家」は、この村落共同体社会の全村身内の気分が連携抑止力を生み、鍵を掛けない平穏な村落風土を育んだ土壌である。

つまり戦後の日本社会が私権を強調し過ぎて「隣りは何をする人ぞ」と失ってしまった隣人との連携は、犯罪抑止力の観点からすれば、隣家・隣室で幼児虐待や家庭内暴力、殺人強盗事件が起きても「そう言えば三日ほど前に異常な物音と叫び声が有った。」と言う他人事の証言になって、児童の通学まで危険に成ってしまった。


人は一人では生きては行けない。
しかしその現実は、隣人愛どころか家庭の崩壊さえ進んでいる。

後発で現れた商(あきない・商業)が、やがて大きく広域な経済活動になり、今では拝金主義のマネーゲームに明け暮れている。
日本の文明は、「私権的都会化物質文化」と伴に荒廃して行くのかも知れない。

間違えて貰っては困るのは、「共生主義」の根本精神は妥協や犠牲ではなく共同体としての「積極的な協調精神」である。

つまり、現在の欧米文化の影響を受けた私権的価値観では理解し難いだろうが、当時の村落共同体内での「夜這いや寝宿」などの制度に拠る「良い加減な性生活観」も、誓約(うけい)と言う考え方も、「積極的な協調精神として存在した」と考えれば、解釈が違って来る。

また、その「積極的な協調精神」を踏まえて「神は唯一無比の一体」と解釈すれば、釈迦もアッラーもキリストも、呼び名は違うが「同一の最高神」と協調的に解釈出来るのである。

歴史的変遷の中で多少捻じ曲げられる時期は在ったにせよ、それらこそが、大半の日本民族をして争い拠りも「積極的な強調の手段」を採って来た「良い加減な性生活観」であり「良い加減の宗教観」である。


人の気持ちを良好にさせるには、五感に訴える感性のコントロールが最適で、視覚、聴覚、触覚、味覚、嗅覚を一度に刺激し、興奮させるには、「音楽を聞きながらの性行為」が一番で有る。

次が「音楽を聞きながら食べる事」で、その次が「音楽を含む各種芸能」と言う事になる。
従って、宗教と性行為が合体するのは最強の組み合わせだった。
初期修験道から立川流までは、そうした事が充分活用されていた。

それは誰でも認識している事ではあるが、改まって考えてみると宗教行為は正しくその要素で構成されている。
つまり、人間の自然な感性を利用しているので有る。

しかしながら、何時の頃からか、本来最高の組み合わせで有る「音楽を聞きながらの性行為」を禁じる事が、返ってその宗教的神秘性を発揮できる事に気付いて行く。
つまり、最高の本能的欲求に制約を受ける事で、より「正しい」と感じる効果を狙ったのである。


世の中には愛情と独占欲を混同する人種が多過ぎる。

愛情と独占欲には微妙な違いがある。
処が、世の中の男女の殆どが愛情と独占欲を混同して「それが正しい」と勘違いしている。
それは思考が固まり過ぎてはいないか?

愛情は「性的繋がりでは無い」と理想を言いながら、パートナーが別に性的行為をする事を極端に恐れる。
実はパートナーを取られないかと不安なのである。

嫉妬は独占欲に起因し、それに気が付かないから望まない不慮の犯罪に合って強姦された相手(妻や恋人)が赦せなくなる。
本来、そうした精神的愛情を伴わない行為はただの事故で有るから、独占欲的な嫉妬心を持つべきではない。

本来、性交相手に老若美醜(ろうにゃくびしゅう)を選ばない事が、この国の観音菩薩や弁財天の「慈悲の心」である。
群れ社会(村落社会/共生社会)に於いては、この観音菩薩や弁財天がごろごろ居た事になる。

この素晴らしき考え方を、欧米文化の「罪の意識」に変えた事が、日本と言う国の村落社会から「共生社会」を取り上げ、群れ社会を消滅させて極端な私権社会に走り、「親子兄弟でさえも殺す」と言う殺伐とした社会を創造してしまった。

現に、日本独特の「共生社会」の性文化を批判した西欧文化も裏面では不倫と売春の文化で、その辺りを念頭に物事の発想を始めないと、思考の柔軟性を自(みずか)ら縛る事になる。
つまり、「現代のこの世の合意認識が、正しい生き方だ」と言う確信など無いのである。

夜這いを公認していた村落内には性的な事件は起き難かった。
元々昔の村落は娯楽に乏しい。唯一修験が布教した神事が楽しみなイベントだった。
だから全国的に性交を「お祭り」と表現する表現が残った。

性交は新しい命を生み出す「神事」なのである。
神事に独占欲や嫉妬心はありえない。

つまり日頃から精神と肉体に線引きをして自由な性生活が送られていた事が、この種のトラブルの芽を摘んでいた。
突き詰めて言えば、それは人間だからである。

あくびの同調一つ採っても、その共感性は霊長類にしか存在しない。
つまり、知能が発達して初めて複雑な感性が生まれる。
そうなってしまった事を、今までは倫理観や道徳観、宗教観で蓋をしてきた。

今は抑圧し過ぎた事に拠ってコントロールの尺度を失い、若年層が犠牲になる性犯罪が多発して、その手法が問われている。

このように考え方が違うと、また違う社会環境が出現する。
愛情を伴わない性行為は、「互いに大いに楽しめば良い。」と言う理解が成立していたので有る。

日本の古来からの庶民文化(夜這い文化)に置いては、異性に対する独占欲は「恥じるべきモノ」であり、非難されて当然の社会合意と言え、それが普通の村社会だった。

愛とは求めるものとばかりは限らない。
与える愛もあれば、受け入れる愛もある。

そして、本来無条件と思える愛が、実は条件付だったりするから、愛にすれ違いや誤解が生じる。
つまり愛の形態は一つではなく、あらゆる愛の形態が存在する。

違いがあるから、それぞれの人格が成立し、それぞれの人生に成る。
その場面に拠っては、精神的な愛に於いて性交は在っても無くても良いものかも知れない。

それを、型に嵌めようとするから矛盾が生ずる。
大方の所、そう都合の良い愛は存在しない。



かって村落共同体に於ける「夜這い」や「寝宿制度」の知恵は、基本的に経験学的な合理性を持って永く存続していた。

性本能は「理性で押さえ込めば良い」と言う安易な考え方は、そもそも「偏向傾向」の【建前】に傾倒した考え方で、複雑に発達した脳を持つ人間の人間性を否定するものである。

歴史を語る上で、統治や人々の生活に深く関わるものが信仰(宗教)であり、特に古代に於いては占術も盛んで、権威の付けや異論を抑える手段として国家の運営根幹を成していた。

感じる、考える、信じるは「脳」の役目で占術や信仰(宗教)は「脳」の働きに大きく関わっている。
そこでこの物語では、占術や信仰(宗教)に脳の働きがどう関わっているかも少し解説する。

人間の脳は、大別すると左右二つに分かれていて【右脳】は本能的無意識能力系統を司る役割で「無意識脳」と言われ、イメージ記憶・直感・ひらめき・芸術性・創造性・瞬間記憶・潜在意識・リラックス本能などの活動の機能をしている。

そうした意味で【右脳系】の職業人は、性に対しては開放的で奔放な心理の持ち主が多数であっても不思議は無いのである。

それに対し【左脳】は理性的意識能力系統を司る役割で「意識脳」と言われ、言語認識・論理的思考・計算・じっくり記憶・顕在意識・ストレス本能などの活動を機能をしているのだが、【左脳系】はその理性的意識から絶えずストレスに晒されているにも関わらず性に対しては禁欲的で、返って暴発の危険を抱えて生きている。


ちなみに男女の一般的な【右脳域】と【左脳域】の得意不得意を調べると、男性は【右脳域>】の活用が得意で、女性が【左脳域】の活用が得意と「男女綺麗に分かれる」と言われている。

つまり【左脳域】を活用する記憶力は女性が優れているが、【右脳域】の活用を必要とする方向(方位)や地図の読み取りなどは男性の得意分野で女性はまるで駄目と言うケースが多い。

買い物一つ取っても、男性の方が直感的で即決力があり、女性の方が最後まで選択をし続ける為に中々物事を決めかねる特性を持っている。

これは男女の特性であるから、互いにその「感性の違い」を理解しないと、すれ違いの感情が起きる事に成る。
夫婦の気持ちが離れて行くのは、この感性のすれ違いが増幅して行って「こんな相手ではなかった。」と、感情が抜差し成らない所に立ち至る為である。

女性は【左脳域的】な感性の為、肉体への直接的な「接触刺激が無いと興奮し難い資質」なのだが、その女性が、物事を「理性」で考えてしまうから、性を誤解して嫌悪感を抱く。
女性がその「理性」で完ぺきに生きようとすれば、自分も周囲も行き詰まってしまう。

そんな「理性」は女性の独り善がりのプライドを満足させるだけで、ろくな結果には到れない。
男性は【右脳域的】で本能の感性が強い為、夫の前では崩れて見せる位の利巧な女の方が、妻として可愛いのである。


固体としての人間に取っては、この【左右の脳】の活動バランスが問題である。
つまり、一方に傾倒したままの人生を送る事は余り得策とは言えない。

いずれにしても、【右脳系】【左脳系】に関わらず、「俺は・私は」こちらが得意だから、或いはこちらで成功しているのだから「そっちの方は知った事ではない。」と安易に考えていると、思わぬ落とし穴に遭う。

つまりバランスが悪い「偏向傾向人間」に成ると、その本人にとってはそれが弱点になる。

例を簡単に取り上げると、【右脳派人間】である芸能関係や芸術関係に「薬物常習者」が多いのは、【左脳】の理性的意識能力を発揮すべき問題に直面した時にその能力が不足している為に、より【右脳】に逃げ込もうとする所に有る。

反対に、オーム教団事件に見られるように教団幹部に科学者や医師が幹部として多数含まれていた謎は、【左脳派人間】は理性的意識能力が得意だけに、【右脳】の本能的無意識能力系統に対して劣等感的弱点があり、「何故あれほどの知識人が?」と言う結果を招いた。

【左脳】が悲鳴をあげるほど理性的意識に抑圧されるストレス職業に役人(官僚・公務員)、教職関係者、司法関係者(警察官を含む)、宗教指導者、科学者、医学関係者などがあり、本来最も理性的であるべき立場の者が痴漢行為や淫行などの事件を起こす。

つまり職業柄【左脳域】ばかりを使っているストレス職業に携わる人間ほどバランスの癒しを求めて【右脳域】に暴走する。

これは理性だけでは人間が生きて行けない事を意味している。
所が、この【左脳域】ばかりを使うストレス職業に対する世間の理解は不足していて、彼らに衝動的に【右脳域】のケアをしようと言う物が内在する風潮は周囲はもとより本人にさえない。


【右脳域】の活性で発生するアルファ波は、人間を含む動物が「リラックス状態で脳から発する電気的振動(脳波)」と定義されている。

一般的に未睡眠閉眼時、安静、覚醒した状態などの【右脳域】の活動でより多くのアルファ波が観察され、開眼や視覚刺激時、運動時、暗算などの精神活動時、緊張時、睡眠時(就寝中)には【左脳域】が活性化してアルファ波が減少しベーター波が増加する。

運動に先だってまずベーター波が増加し、運動終了後に反動的にアルファ波が増加を示すものであるが、【左脳域】が持ち堪(こた)えられなくなると例外的に運動量が突き抜けてハイ状態(ランナーズ・ハイやクライマーズ・ハイなどの過激な運動中)に成ってもアルファ波は発生する。

芸術関係(音楽・絵画・文章・映像など)の感性の部分や信仰(宗教)への陶酔時と性交時には【右脳域】の活動が主体であるが、運動関係は【左脳域】が主体となる。

固体が運動するに先だっては【左脳域】の理性的意識能力が活発化し、まずアルファ波は減少を示し、その後運動終了時にはリラックスな心理状態時に、スイッチが【右脳域】に振れて反動性にアルファ波が増加を示すものである。

それが、運動量が突き抜けてハイ状態(ランナーズ・ハイやクライマーズ・ハイなどの過激な運動中に起こる現象)に成っても発生する。



セロトニンは、「脳内快感物質ベータ・エンドロフィン」の発生に誘発されて送り出される伝達阻害物質である。

中枢神経系にあるセロトニンは、人間に存在する化学物質・セロトニン総量の僅(わずか)二%で、残りは血小板に八%は配されて必要に応じて血中で用いられ、また小腸の粘膜にあるクロム親和細胞内に九十%が存在して消化管の運動に深く関わっている。

中枢神経系に在るセロトニンの日常生活への影響が近年では注目され、うつ病や神経症などの精神疾患などの疾病を(再吸収を阻害法)に拠って治療、症状を改善する事が出来るように成った。

SMプレイに鞭(むち)打ちが成立するには、それ成りの根拠が存在する。
痛みは損傷部分から脳に伝達する信号で、これを抑えるには痛みを遮断する脳内物質・セロトニンを活生させブロックする事である。

脳には自然にフォローする調整機能があり、セロトニンは別の安心する刺激があれば脳内から神経遮断の為に送り出される。
つまり、「痛いの飛んで行け」と「痛みの気を紛らわせる」と言う手段は、安心に拠る脳内物質・セロトニンの活生に拠る「痛み伝達のブロック」と言う事に成る。

実は、SMプレイに於ける鞭(むち)打ちなどの痛みが大した事に感じ無い理由は、この「痛みの気を紛らわせる脳内でも使われる物質・セロトニンの活生」に拠る結果である。

つまり、M性が強い固体に於ては、被虐感自体が「脳内快感物質ベータ・エンドロフィン」の発生に誘発されてセロトニンを送り出す要素に成るのであるから、「痛みと快感」と言う合い矛盾した二つの感性がプレイとして成立するのである。

このM性、実はまともな女性なら誰でも持っている資質である。
女性には「出産」と言う痛みを伴う大役がある事から、基本的にはセロトニン拠る痛みの遮断機能は男性より優れていなければ成らない。

しかしながら、年齢を重ねると、誰でも身体的機能が低下し痛みを止めるセロトニンの調整機能も低下して行く。
「身体の節々が痛い」と訴える中高年女性は、恋愛感情や性的感情から縁遠く成って、脳にそう言うシグナルが行かなく成っているのと考えられる。

つまり、齢(よわい)を重ねると脳の自覚が「出産」の現実から縁遠く成ると伴にセロトニンに拠る痛みの遮断機能が衰退して行くのではないだろうか?

そう言う意味では、ヨン様ブームに代表される中高年女性の「フアン心理」と言う名の「擬似恋愛」も、「脳内快感物質ベータ・エンドロフィン」の発生を誘発し、若さを保つ一つの方法かも知れない。


良く、【右脳系】の性的な欲望を「スポーツをする事で静めよう」と教えるがその事自体は正しく、スポーツは【左脳系本能】であるから理性的な抑制効果は期待できる。

ただし運動時の興奮は【右脳系】の性交時のリラックス興奮とは質が違い、有名な興奮物質として【左脳系本能】のストレス興奮物質・アドレナリンがある。

アドレナリンはリラックス物質ではなく緊急時の感性に拠る興奮物質で、恐怖や身の危険を察知した時、あるいは争いを必要とする時に素早く対応する為のストレス脳神経系物質である。

このアドレナリンの放出状態から開放される表現が「安堵(あんど)する」で、一気に【左脳域】の思考から【右脳域】の本能的無意識リラックス状態に切り替わった事を意味している。

脳神経系に於ける神経伝達物質・アドレナリンはストレス反応の中心的役割を果たし、血中に放出されると一時的に心拍数や血圧を上げ、瞳孔を開きブドウ糖の血中濃度(血糖値)を上げる作用などがある。

「戦う(闘争)か逃げる(逃走)か」の判断を迫られる緊急時の【左脳系】の活性ホルモンと呼ばれ、人間を含む動物が「敵から身を守る。或いは獲物を捕食する必要にせまられる。」などと言う状態に相当するストレス応答を全身の器官に引き起こす交感神経が興奮した状態で血中に放出される脳神経系物質がアドレナリンである。

良いか悪いかの判断は個々の思考に任せるが、占いや信仰(宗教)などに於いては、当初【左脳域】の理性的意識の恐怖興奮物質・アドレナリンから入ってその後の演出効果から【右脳域】の本能的無意識リラックス興奮物質・ベーターエンドロフィンに入って陶酔状態に成るようにその儀式次第が完成されていて、【右脳域】の活動で「心の救いを感じる」仕組みに成っているのである。

一般的には【右脳派人間】も【左脳派人間】も、宗教のペテンに信者として引っ掛かってしまうと、そこから先は都合良く【右脳】ばかりを刺激・コントロールされて「盲信」に陥る事になる。

勿論、本能的無意識能力系統ばかりに傾倒した極端な【右脳派人間】も、社会性の部分では大いに問題が有るが、結論を言えば人間は適当に本能的であり適当に理性的でなければならない。

つまり【右脳】はリラックス本能的、【左脳】はストレス本能的に活動するものであるから、【左脳】のストレスと活動バランスを上手に取る為に【右脳】の信仰(宗教)や他の動物に無い「擬似生殖本能(性行為のみの欲求)」は生まれた。

人間は発達した脳の為に「擬似生殖行為」と言う生殖目的以外の性交を必要とする様になる。
そしてその「擬似生殖行為」の為に、人間の脳は益々発達して他の動物に例を見ない高知能生物になった。


誓約(うけい)に拠る「共生主義意識」について、「もう意識が変わってしまったのだから、今更そんな事を蒸し返しても仕方が無い」と言う意見もあるだろうが、実はこの意識変化はバランス良く変わったものではない。

矛盾する事に、日本人の意識の中に「共生主義社会時代」の思考価値が習慣的に随所に残っているからである。
例えばこれは対外国人には通用しない独自の欠点に成るのだが、よく外国人から「日本人はイエス・オァ・ノーをハッキリしない」と批判される。

その要因を考察するに、元々誓約(うけい)に拠る「共生主義」が日本民族の歴史だったから、感情摩擦を生まない為の習慣として「イエス・オァ・ノーをハッキリしない国」に成った。

これがかなり特異な例で、西欧はもとより隣国の中国や韓国にもそのイエス・オァ・ノーをハッキリしない習慣が無い。
従ってその辺りの認識の違いが付き合い辛さを感じさせ、日本人は自分の認識の方が特異な事を理解できず、相手にハッキリ言われて「カチン」と成り、見っとも無く怒って「あいつ等は変人だ」と判断する愚を犯す。

しかしながら日本民族の二千年は、誓約(うけい)に始まる「共生主義社会」の信頼関係で、村落共同体の根幹を成していた。
この「共生主義」は日本独特の文化だから、中々他国人には理解出来ない。

ハッキリしない事をズルイと指摘されればその通りだが、確かに「共生主義」を貫くのであれば、摩擦を避ける為に明確な「ノー」は面と向って言い難い。
つまり誓約(うけい)に拠る「共生主義」は日本の独自文化であるが、一方で国際化を目指すならそこに矛盾が生じるから明確な「ノー」は必要である。

ただ、「ノー」を面と向って言い難い意識を育てた要因が、当時村落全体が生きて行く為に助け合って暮らすには誓約(うけい)の「身内意識」が必要だったからである。

当時の村落同体に、誓約(うけい)の「共生主義」が成立したのには、村落内での「夜這い」や「根宿」、「暗闇祭り」と言った性行事に「ノー」は禁句のルールが在った。

これを「もう時代や価値観が変わった」と、現代の倫理観だけで単純に判断をしては成らない。
個人主義に徹した私権社会のこれだけ殺伐とした現状を見るにつけ、果たしてどちらの社会が良かったのか考えさせられるものである。


そしてここに、或る現実が存在する。
最近、不妊夫婦の家庭が増える傾向にある。

これも日本社会が欧米化されて増加した少子化の一因なのだが、現代社会では人類が未来に命を繋げる為の男性の精子が世界的に虚弱化していて、専門家の間では問題視されている。

つまり「群れ婚」や「真言密教立川流」を、安易に現在の性規範だけで判断する事は出来ないほろ苦い現実も存在していて、実はこの不妊家庭の増加は、専門家の間では「一夫一婦制が招いた」とする意見が主流である。

この場合の「一夫一婦制」は家族単位の堅持の為だが、ルール(決め事)が正しいのは或る一面を解決する為の物で万能ではない。

そもそも、現代社会のルール(決め事)は人間が都合で勝手に決めた物で、ルール(決め事)には必ず良い事(都合)がある分だけどこかに悪い事(不都合)も在って、だからこそバランスが成り立つ。
そして人間の良い事(都合)とは、往々にして自然を無視するものである。

人類の男性精子と同じ霊長類のゴリラやオラウータンの雄の精子を顕微鏡に拠る目視で比較すると両者には「量も活動性も極端に違いがある」と言う研究結果が出ている。

顕微鏡目視で明らかに量が多く活発なのはゴリラやオラウータンの雄の精子で、人類の男性精子は明らかにその目的である生殖能力が劣っているのだ。

詳細を研究して得た成果に拠ると、男性精子は虚弱化してしまい女性の体内を競争して子宮に辿り着き卵子と結び付くには量も活動性も極端に見劣りしているのである。

これを比較研究して出した結論が、男性精子と同じ霊長類の子孫繁殖に関しての比較結果、人間は「一夫一婦制」が弊害となって子宮側に精子選択の機会が無い為に自然淘汰が機能せず、それが何世代も続いて本来は自然淘汰で振るい落とされるべき虚弱精子の持ち主が子を為して子孫に受け継がれているのである。

対して、ゴリラやオラウータンなどの霊長類は「群れ婚」の為に、実際に生き残る精子は量も活動性も強い精子を持つ親の遺伝子の精子が選択されながら次代に受け継がれて行く。

この先端の研究を大胆に歴史にリンクすると判り易いのだが、例えば歴代の皇統や、江戸幕府・徳川家の場合は継嗣(世継ぎ)の男性精子に自然淘汰に拠る繁殖力を求めない独占的環境にあるから、代を重ねると当主の持つ精子は結果的に虚弱化してお世継ぎに困る事例は数多い。

現に現代日本の皇室ではお生まれになるのが女子ばかりで、男子の誕生が稀(まれ)なものになっている。

乱暴な意見かも知れないが、皇室典範で天皇の継承が「男系男子でなければならない」とするならば、その環境を整える意味で皇族男子に多妻を認めるのが合理的な筋論である。


血統至上主義の平安後期から江戸末期当時に在って、一族の棟梁(武家)が継子を得るのは命題であるから側室・妾は当然の時代で、それでも実子を為せない上杉謙信や豊臣秀吉は「男性精子に欠陥が在った」としか考えられない。

また、永く続いている殿上人(高級公家)を中心とする血統至上主義社会では、特に虚弱精子劣性遺伝が進んで逆に養子を遣り取りするのが結果的に普通の状態にまで成っていた。

同じ研究理由から永く続いた共生村落社会(村社会)では、永い事「夜這い制度」や「寝宿制度」、「暗闇祭り」などの「群れ婚状態」が続いて、そちらの方の男性精子は強者生き残りの競争が自然淘汰に拠る繁殖力を維持して来た。

つまり本来の自然側から言えば、一夫多妻ではなく卑弥呼のような女王蜂状態の一妻多夫が初めて強い精子の生き残り競争原理が働くのである。

だから、春日局(かすがのつぼね)の構築した大奥のシステム「多くの女性に将軍一人」と言う血統の保存継続は、あくまでも氏族の血統重視論理で在って人類の「種の保存」と言う自然の法則とは真逆であり合致しないものである。


実は、原日本人系縄文人(蝦夷族/被征服民)と比較的後期の渡来系(氏族/征服族)との同化二重構造社会が永く維持された日本の「村落社会(村社会)」では、実質的に「群れ婚状態」の習俗が続いていて、父親に拘らない自然淘汰に拠る子孫繁殖が公然と認められる事に拠って強い繁殖力を維持した男性精子が、保持されて来ていた。

その量も活動性も強力な村落部の男性精子の繁殖力は、終戦後の集団就職で「村落社会(村社会)」が崩壊するまで続いて、村落部では八人、十人と子沢山の家庭が普通だった。
これが、「貧乏人の子沢山」の正体だったのである。

近頃の不妊治療技術の発達で、子の為せない夫婦に医学的に子をもたらす技術が成果を挙げているが、その繁殖力の弱い男性精子が次代に引き継がれて、「虚弱精子劣性遺伝加速して行く」と言う一次凌ぎのジレンマを抱えたものなのだ。

何の事は無い、神(聖職者の見解)やお上(統治者の都合)が定めた戒律や法律が「虚弱精子劣性遺伝」を引き起こし、人類の繁殖能力を削いで滅亡へのカウントダウンをさせている事になる。

精子が女性の体内で過酷な生き残り競争の挙句卵子に辿り着く試練を与える自然淘汰原理は、子孫に強い精子のみの生き残りを図り、次代に優性な精子を選別して伝える為である。

現状を肯定すれば一夫一婦制の家族単位は社会生活の安定として正しいかも知れないが、角度を変えて人類の未来を見据えると、この「虚弱精子劣性遺伝」の婚姻関係を続ける事は賢明とは言えない。

この人類の危機を回避する為には自然淘汰原理からすれば、強い精子を女体が受け入れる機会は多いほど良い。
つまり、この虚弱精子劣性遺伝を回避するには「群れ婚乱交状態」が理想で、初めて種の優性遺伝が為される事になる。

日本の村落に於ける共生社会(村社会)に於いては、元々「夜這い」や「寝宿制度」の群れ婚習俗であり、子供は「授(さず)かり物」だからその家の女性から生まれた子はその家の子で「誰の種(父親は誰)」などとは詮索しないで育てるルールだった。


この「虚弱精子劣性遺伝」を科学的に説明する。

人間の遺伝情報を伝える染色体には召硲戮あり、女性の樟色体は二本在って障害に対するスペアー機能が利き新しい卵子に拠って生まれ変われるが、Y染色体は一本限りで生殖の過程でY染色体に遺伝情報的な欠陥が生じても修復される事なく男性に限り延々と子孫に受け継がれるものである。

人間の性染色体の形式は升抃燭任△蝓△海谿奮阿寮別決定機構もない為にY染色体の有無に拠って男女の性別が決定する。

つまり男性の場合は「樟色体とY染色体の二本」で構成され、女性は通常「樟色体のみが二本」で構成されるのだが、遺伝子異常などで一本になっても(ターナー症候群)女性として生まれる。

同様に、樟色体とY染色体を一つずつ持つ筈の男性が樟色体二本とY染色体を一本持っていても(クラインフェルター症候群)男性として生まれる事が判っている。

ここで問題なのが、男性に限り延々として子孫に受け継がれるY染色体である。
女性の場合は樟色体のみが二本受け継がれるので、染色体の内一本に損傷が出ても他の一本が正常に機能して正常な遺伝が子孫に受け継がれて行く。

所が、延々として男系子孫に受け継がれるY染色体は、何らかの欠陥が生まれても代替の染色体を持たないから欠陥を抱えたままのY染色体を持つ精子が延々と子孫に引き継がれる為、基本的にY染色体は劣化の道を歩んでいる。

Y染色体を持つ男性でなければ精子は造れない。
そこに現在の社会基盤である「一夫一婦制」に拠り、自然淘汰に拠る強い精子の選別(競争原理)が出来なくなって、殊更に劣化した精子に拠るY染色体が延々と引き継がれる事になる。

こう言う事を書くと現代の貞操観念で「大勢の男を性交相手に持つなどとんでもない」と言うだろうが、卑弥呼の女王国(邪馬台国)では多くの男性が取り巻く女王蜂状態だった。

時代が下がった平安期までは「妻問婚・妻間婚(呼ばう婚)」で、性交相手の決定権は女性に在り、言わば女性がその気に成れば何人でも寝屋に引き入れた。

Y染色体が正常再生が不可能なものなら、せめて自然淘汰に拠る強い精子の選別(競争原理)が可能となる群れ婚(乱交)状態が子孫の継承には理想的だが、人間は「生活基盤の安定」と言う社会性(男性のエゴかも知れない)を採って、女性にそうした機会を与えてはいない。

また近親婚に拠る劣勢遺伝も、或いは同一染色体の欠陥が増幅されて劣勢遺伝の確立が高まる事も一因かも知れない。


いずれにしても、自然科学の分野では「一夫一婦制が人類滅亡の危機を招くかも知れない」と、警告されているのである。


この虚弱精子劣性遺伝、現代の「一夫一婦制」での解消は理論的に難しいが、せめて精子に活力を与える食品の可能性はある。
それは、亜鉛パワーの事である。

天然亜鉛は現代の栄養学の中で、注目されている微量健康ミネラル(必須微量元素)である。
この天然亜鉛が「現代日本人が最も不足している微量健康ミネラル」だと言われて居る。

亜鉛(ジンク)は、たんぱく質の合成や骨の発育などに欠かす事の出来ない必須ミネラルで、新陳代謝を良くし、免疫力を高め、タンパク質やDNA、RNAの合成に関係し、マグネシウムと同様に百種類近くもの酵素に関与している。

亜鉛が体内で不足すると、「味覚障害や発育不全、機能性障害などを引き起こす」と言われれ、また有害物質を捕まえて毒性を抑え、排泄させるタンパク質の誘導役でもある。

天然亜鉛の一日の必要量は十五mgで、微量健康ミネラル(必須微量元素)であるこの重要な天然亜鉛が、近年の食生活様式では不足している可能性がある。

厄介な事に、この天然亜鉛は体内で合成する事が出来ず吸収され難い微量健康ミネラル(必須微量元素)で、体内の亜鉛が不足してしまうと、細胞分裂などがスムーズに進まなくなって新陳代謝が活発な器官ほど亜鉛不足の影響を受けてしまう。

人間の身体の中では筋肉や骨、肝臓、精巣や前立腺などの性腺にもかなりの量の天然亜鉛が含まれているのだが、これが加齢と伴に減少して肉体的な衰えを見せるのである。

天然亜鉛を摂取する食事のメインとしてのお勧めは、特に鰻(うなぎ)料理と生カキやカキフライなどのカキ料理である。

他に、その他に牛肉(もも肉)、チーズ、レバー(豚・鶏)、卵黄、大豆、納豆、きな粉、豆腐、そば、ゴマ、緑茶、抹茶、カシューナッツ、アーモンドなどが限定的に出て来る。
このメニューの狙いは強壮剤(若さの維持)として亜鉛の摂取である。

天然亜鉛は「性のミネラル」とも呼ばれており、前立腺で性ホルモンの合成に関わり、精子の生産を活発にする。
前立腺で合成された性ホルモンは男性器の勃起力を高め、精子の生産は性欲を増す為、体内の亜鉛が不足して来ると生殖能力(勃起能力)が衰えて子作りが出来難くなってしまう。

そればかりでなく、「生殖能力が衰えて子作りが出来難くなる」と言う事は男性機能の衰えに止まらず、性は生に通じる為にその男性の生活意慾(活力)や精神力まで奪ってしまうのである。

その辺りが日本の男性から男らしさを奪ったり、社会問題に成っている「直ぐ切れ易い人間」を出現させて、また自殺の多発を招いている「原因の一つ」である可能性が想定される。

当然ながら、肉体的衰えは生きる気力にも反映する。
年とともに減退していく精力は男性共通する大きな悩みのひとつで、この様な年とともに衰えて行く肉体的な特徴は避けられないものであるが、様々なミネラルが関係している精力減退要因の中でも天然亜鉛は深く関与しているのである。



ここで一度考えて欲しいものがある。

それは政治家が良く口にする「日本の独自文化」についてであるが、実はこうした事を言いながら、本来の日本と言う国家の基盤となるべき「日本の独自文化」は、良い所取りの都合の良い解釈で、この国の人間性を育んだ歴史的に大切な現実でありながら、性に関わる危ういものは触れずに居る。

祖先が築いた「独自文化の風習」には現実的な知恵が有った。
それをそのまま復活しろとは言わないが、古人(いにしえびと)の原点を素直に見詰る事は、この国の新しい基盤を作る参考くらいには成る。

現代に在って「限界集落」と言われる過疎の村落が、全国各地で消滅の危機に陥っている。
高齢者が僅かに残っているだけで、若者から壮年まで皆が村落を見捨てしまった。

江戸期に「所払い」と言う刑が重刑として通用したのは、生活の基盤が土地・地域に有ったからである。
それが劇的に変わったのは、戦後の集団就職が切欠(きっかけ)だった。
そしてそれは、今日の「限界集落に繋がった」と言って良い。

何も農村落から若者が消えた原因が、「喰って行けないから」ばかりではない。
戦後の日本復興の為に「集団就職」で農村落から若者が消え、永く農村落の若者達を繋ぎ止めていた楽しみ「夜這い文化」のシステムを崩壊させた所に、決定的な原因がある。

つまり、鹿鳴館外交に代表される欧米化の波の中に庶民の性文化は弾圧され政治的に洗脳されて、「足らぬを補う知恵」を「建前」と言う【左脳域】思考一辺倒の「机上の論理」だけで否定した所に、「限界集落を生み出す原因が在った」と言える。


人間誰しも少し不幸が重なると、「人生良い事は一つも無かった」と思い勝ちだが、誰にも楽しい時間はある筈で、庶民は自分達の生活の中で日々を楽しむ術(すべ)を編み出している。

もし人生に絶望している者が居るのなら、開き直って新しい楽しみを探せば良い。
村落には、「村落維持の為の知恵」とでも言うべき「夜這い」の習慣など村落生活の良さが在ったのだが、その良さを「建前論」で取り払った事から、村落生活の魅力の大半は無くなった。

若者の居ない村落は、消えて行く運命の「限界集落」であるが、少子高齢化時代を迎えた日本国そのものが、ヒョットしてこの限界集落に成っている可能性がある。


勿論、我輩が提唱したいのは「性を無秩序にしろ」と言う事では、けしてない。

現代社会に於いては生殖科学としての「近親生殖による劣性遺伝」の解明事実も存在を承知しているから、無条件・無秩序が良い訳ではけしてない。
ただ言いたいのは、性が嫌らしく不潔で淫蕩な物ではなく、「大切で素晴らしい物である」と定義付ける必要性である。

こんな自然と矛盾した間違いを、誰が教え始めたのだろうか?
或いはこの不自然な制約を、敢えてしなければならない「矛盾に満ちた社会を作り上げた人類の罪」かも知れない。

本能は、明らかに「抑制(よくせい)する思想から制御(せいぎょ)する思想」へ、思考の方向を変えるべきである。

今までは奇麗事の建前に拘わり、この思考の転換が出来なくて、いたずらに抑制(よくせい)を強いる愚を冒して来た。
この手法では、精神と本能は乖離(かいり)し、人の心を混乱させるだけである。


日本人の精神世界が充てども無く彷徨っている原因は、ひとえに氏族の発想である処の「個人利益主義に偏重した結果」に有る。
それが極まって、現在の社会的混乱がある。

「人間」と言う動物の種は、動物学上「特別な存在」である。
しかしながらその特別な存在は「良い意味で」として特別な存在とは限らない。

なまじ理性や計算を担当する【左脳域的知能】を発達させてしまった為に、【右脳域的本能】に拠る種の保存本能(生殖本能)や同種に対する共存意識が希薄に成ってしまった。

人間と言わず生き物全てであるが、本来生きる為に状況に応じて対応を柔軟に調整する【右脳域】の本能的な能力を持っている。

厄介な事に、その対応を調整する本能的な能力を、なまじ理性や計算を担当する【左脳域的知能】を発達させてしまった為に「アンカリング効果と一貫性行動理論」で捻じ曲げてしまうのが、人間と言う動物である。

同時に、【左脳域的理由】で同種に殺意を抱き実行してしまう数少ない「愚かな種」が人類である。

こんな事は他の動物種では滅多に無い事だが、【左脳域的知能】の発達に拠って共存意識が希薄に成り、同種で殺し合う永い歴史が人間の歴史である。

近頃では、その同種で殺し合う「特別な存在」が着き詰まる所までこうじて、親兄弟子供にさえ危害を及ぼす事例が増えている。
そして理性や計算を担当する【左脳域的知能】を価値観に「産まない権利」さえも言い出す「特別な存在」の種なのである。

時を経ると伴に文明が進み、都会の夜空から星の数が減り続けて、妙見北斗信仰はその呪力を失って行った。

台頭したのは、親子や伴侶の絆をも無視する「度を越した個人主義」の意識と価値観である。
ここで問題なのは、「理想の全てを満たす事は出来ない」と言う事である。

一方を手に入れるには必ず同じ位の比重のものを失う覚悟が要る。
この事を一口で表現すると、「子供は欲しいが、子育ては嫌」と言う身勝手な矛盾で有る。


大方の所、最近の思考の原点は、政府も民間も米国の表面的模倣である。
その何処に、「日本固有の文化がある」と言うのか?
多くの必須条件を無視した単純な米国の模倣を、ありがたがる政府首脳の稚拙さが、スローガンもどきの見てくれの格好良さで隠されてきたのである。


何度も言うが、「社会的現実」と言うものは、時代と伴に変遷するものであるから、現在の「社会的現実」を持ってその時代の庶民意識や価値観を判断すべきではない。

人間の判断の物差しの欠点は、どうしても現状(社会的現実)を基準にして思考してしまう事だ。

処が、その時代背景に遡ると、今では考えられない事が、至って普通に容認されている事も多い。
これはあくまでも「当時の朝鮮半島の文化」であるから誤解しては困るが、価値観が違う事を前提としての事例を挙げる。

世間で何か成果があると「胸を張ってうんぬん」と言う表現がある。
それが昔の朝鮮半島の文化としてズバリ表現されていた。

信じられないだろうが、日韓併合前の大韓帝国時代末期まで、朝鮮半島では女性が胸を張って両の乳房を露出して外を歩いていた。
つまり、民族衣装のチマチョゴリの上着が極端に小さく、袴(スカート)部分が胸まで届かない形で、乳房は完全に露出していた。

だだし、このファッション誰にでも出来る訳ではない。
それが出来る権利の女性は限定され、嫁いで「その家の跡取りを産んだ名誉」に対する印であった。
だから堂々と胸を張っていた。

この独特の習慣は、当時半島を訪れた欧米人の写真家に拠る写真が多数現存している。

しかし、韓国の映画やドラマの時代劇に、そうした文化習慣の描写は登場しない。
これらは独自文化だったとは言え、言わば触れられたくない過去なのだろう。


他国の独自文化事例ばかりではない。実は、こうした時代の変化はわが国でも幾つもある。
混浴禁止令が出るまで、わが国の銭湯は男女混浴だった。それが、風紀を乱すとして禁止される。

例えば戦後十年、昭和三十年位まで日本の母親は、バスや電車の中など人前で堂々と我が子に授乳させて居て、それが極普通の風景で周りも違和感が無かった。

それが、以後の母親は乳房を人前で晒す事が恥ずかしくなったのか、何時の間にか見かけなくなり、時代考証的には有ってしかるべきドラマからも、そうした風景はなくなった。

同じ肌を晒す事でも、目的が授乳だったり、入浴だったりと違う目的なら猥褻とは受け取らなかった文化が、何時の間にか欧米の文化の「裸すなわち猥褻(ひわい)」と言うストレートなものに代わったのである。

つまり、時代時代でどこの国にも独自文化はあるのに、無かった事かのようにそれを隠そうとする所が、何か後ろめたい不自然さを感じる。

日本の文化は、ノーパンティ文化である。
日本女性の性意識は、穿く下着(ショーツ・パンティ)の着用で大きく変化した。

勿論、明治新政府成立以後の急速な欧米化路線は、おおらかだった日本人の性意識を折に触れて変革させようと多くの禁令を乱発した事も事実で、性意識におおらかだった陰陽道や、暗闇祭りの性風俗の禁止などである。

しかしそれ以上に、穿く下着(ショーツ・パンティ)の着用でガードした事が、日本女性の性意識を劇的に変えたのである。

昭和の十五年頃まで、日本女性には永い事ショーツ・パンティ様式の「穿く下着」を身に着ける習慣は無かった。

下着(ショーツ・パンティ)の着用が普及した時期は、千九百三十二年(昭和七年)の白木屋の火事で、確かに新聞の論説では「下着未着用の恥じらいの余り多数の女性が焼死した」と評される例の事件は、話題には成ったが実際にはその事件は、日本の女性が一斉にパンツを穿く契機には成っていない。

時代的に一斉に穿く下着ショーツ・パンティ類を穿くのは先の大戦(太平洋戦争)の戦時中に、もんぺの下着として「ズロース」と呼ばれて普及した事が正解である。

劇的に変化したのは日本女性の性意識だけではない。
男性の性意識も、女性の穿く下着(ショーツ・パンティ)の着用で大きく変化した。

本末転倒な事に、中には女性の穿く下着(ショーツ・パンティ)の方に性的興味や性的興奮を覚える性としては邪道の感性を持った男性まで現れたのである。

本来日本の女性は、今で言うノーパンティが普通だった。
「呉服」に「腰巻」が普通の衣装だったからで、この着物は和服またはルーツを取って「呉服」と言う。

三国史時代の中国・呉の国(蘇州・杭州)で作られた服装様式が、呉人と伴に日本列島に移り住んでその服装様式が渡って来た。現在の 江蘇省(蘇州) 昆山市は呉の中心地で「日本の着物(呉服)のルーツ」と言われている。

その「腰巻」だが、厳密に言うと安土・桃山期〜江戸時代以前の高級武家女性の夏の正装として使用が始まり、江戸期〜明治維新以後昭和初期以前には、現在の穿く下着(ショーツ・パンティ)の代わりとして広く着用されていた。

気をつけて欲しいのは、高級武家女性の間で「腰巻」が使用され始めたのが安土・桃山期であり、それまでは存在すら無かった事で、「腰巻」が一般的に使用されるようになったのは江戸期以後である。

つまり庶民は、江戸期までは「腰巻」さえ着用しなかったし、農漁村では江戸期もかなり後になってから漸く普及したのが腰巻使用の実体である。

数え年の十三歳を迎えた正月に祝った「腰巻祝い」の風習が文献に残っているが、あくまでも武家や裕福な町家、裕福な豪農の娘達の祝い事だった。
従って町場ならともかく農漁村の村娘の腰巻着用場面のある時代劇は間違いである。

何もミニ丈ファッションは洋風が元祖ではない。
農漁村の娘は、ノーパンティの上に「腰巻」さえ着用して居ず、おまけに水田に入る事から丈が短い野良着姿が通常の服装で在った。

野良着姿は木綿紬(つむぎ)の一重(ひとえ)か二重合わせの着流しで、水田作業の時は膝ぐらいまで裾をショッ端折(パショ)りして作業をする。

普段でもそんな服装だから、野良着のすそが肌けて女陰が露出するケースが日常的で余り気にしては居ず、女陰が人目に晒される事に対する羞恥心は、当時の娘には「随分と薄かった」と考えられる。

股間が自由空間である開放的な服装は風俗に影響を与え、同時に日本では「女の性欲」が否定される事がなかったから奔放に性を楽しめた。

何しろ女神様が天の岩戸の前でストリップを踊る誓約(うけい)の国である。
日本人は歴史の大半を通じて性にたいへん寛大で、日本ほど性に開放的で、肯定的に「あけっぴろげ」な国はなかった。

不義密通は氏族の文化であり、卑猥な文化が繁栄した庶民には無縁のものだったのである。

こうした話をすると直ぐに「品が無い」とか「セクハラだ」とか言うが、この変革はあくまでも明治新政府主導の啓蒙に拠る対外的な世間体(欧米の対日評価)を慮(おもんばか)っての事だった。

鹿鳴館外交に代表される欧米化の波の中に、庶民の性文化は弾圧され政治的に洗脳されて行った。
しかし嘘も度重なると本当に思えて来るがごとく日本女性の意識が次第に変遷を遂げ、欧風化して行ったのである。



日本の文化は「恥の文化」と言うが、実はこの「恥の文化」の中身が問題なのである。

本来、自分に恥じる行いをしない事が「恥の文化」の筈であるが、もう一つの「建前文化」に拠ってそれが妖しくなり、自らの心に問う拠りも外聞に拘る事に重きが行き、「恥に蓋をする文化」に成ってしまっている。

「誇りを守りたい」と言う心境が働いての事だが、矛盾する事に「誇りを守りたい」が為に「無かった事」にする愚を犯し、誇りを傷つけている。

つまり日本文化は、余りにも恥を隠す事に心血を注ぐ文化に変遷してしまい。
「隠しおおせれば良い」と言う不道徳な「恥の文化?」が蔓延して、職業や地位に関わり無く悪事を働く「本音」が社会に露出して来るのである。

日本は「儒教の影響を受けた国だ」とひと括(くく)りにして、あたかも儒教道徳が日本人全般の生活意識をリードしていたかの様に言う学者がいるが、とんでもない浅知恵である。

歴史を動かしていたのが氏族(貴族及び武士)だったので、氏族中心に考え易いが、それは歴史の派手な方の一部に過ぎない。

儒教の影響を受けたのは、氏族社会(貴族及び武士社会)で在って、文盲時代が長かった庶民階級に儒教が浸透していた訳ではない。
庶民に於ける伝統的日本社会は、「性」に対し実におおらかで開放的だったのである。

その「性」におおらかな証拠は、各地の祭礼に残っている。
夜這い制度の在った村落と違い、街場に在った庶民の娯楽が「暗闇祭り」と言う無礼講の乱交祭り行事だった。

「時代が違う」と言われそうだが、そもそも「知らない相手となど性交は出来ない」は本人の気分の問題で、昔は親同士が決めた結婚で婚礼の夜が初対面でも夫婦の契り(性交)は出来た。

これはヨーロッパの王国同士の婚礼でも多々あった事だから、「愛情が無ければ・・・。」は、現代の御伽噺に過ぎないのかも知れない。

神社の祭礼での「乱交などふしだら」と言うけれど、特別な相手では無い性交は元々遊びなのだから、それこそ特定な相手との浮気よりは相手が特定出来ない乱交の方が結婚した相方は嫉妬もしないし後腐れはない。
その辺りに信仰として永く続いた庶民の娯楽、暗闇祭りの真髄が在ったのかも知れない。


静岡県の伊豆稲取・どんつく神社の奇祭「どんつく祭り」は「二千年間続いて来た」と言われ、御神体は大きさ三メートルの男根型で、その御神体を載せた神輿を女性が担ぎ、神社(女性)へ向かい、どーんと突くから「どんつく」なのだである。

夫婦和合、子孫繁栄を願うこのような祭りや御神体は全国各地にあり、愛知県は小牧、田懸(たがた)神社の豊年祭は、男達が男性器をかたどった神輿「大男茎形(おおおわせがた)」を担いで練り歩き、小ぶりな男性器をかたどったものを、巫女たちが抱えて練り歩く。

田懸(たがた)神社の創建の年代は不詳だが、延喜式神名帳に「尾張国丹羽郡 田縣神社」と有るからこちらもかなり古いものである。
また、大縣神社の「豊年祭(姫の宮祭り)」が対になっており、こちらは女性器を型取ったものを巫女達が抱えて練り歩く。

新潟県長岡の諏訪神社 ・奇祭「ほだれ祭」の御神体も男根型である。
「ほだれ」は「穂垂れ」と書き、五穀豊穣や子宝を授かるなどを祈願するもので、神輿に鎮座した重量六百キロもある男根御神体の上には、新婚のうら若い女性が数名、男根型御神体を跨いで乗り下来伝地区内を練り歩く。

長野県松本・美ヶ原温泉の薬師堂に男根型道祖神を祭り、祭礼には巨大な男根木像・御神体の御神輿を担いで練り歩「道祖神祭り」も有名である。
岩手県遠野の「金精様」とは豊饒と子孫繁栄のシンボルとして男性の性器をかたどった石や木を祀る民俗神で、この金勢様や金精様は全国に存在する。

神奈川県川崎市川崎区の若宮八幡宮境内に在る金山神社は鉱山や鍛冶の神である金山比古神(かなやまひこのかみ)と金山比売神(かなやまひめのかみ)の二柱を祭神として祀る神社だが、江戸時代川崎宿の飯盛女達の願掛けに端を発して奇祭「かなまら祭り」が行われるように成った。

金属製の巨大なの男根(男性外性器・張形)を御神体として商売繁盛・子孫繁栄(子授け)・安産・縁結び・夫婦和合のご利益があると言われ、近年ではエイズなどの性病除けの祭り(Iron Penis Festival)として国際的にも有名になっている。

この陽物信仰の原点はインド・ヒンドゥー教の「シヴァ神(破壊神)」と考えられる。
ヒンドゥー教の三最高神の一柱のシヴァ神(破壊神)は正直な神で、性愛の神・シヴァ神の象徴がリンガ(男根)だからである。

実は北辰妙見信仰に於ける天地開開(てんちかいびゃく)神話に於ける世の最高神・天之御中主神(あめのみなかみぬしかみ)=陀羅尼神(だらにしん/全ての祈り神)もヒンドゥー教の三最高神の一柱・ヴィシュヌ神(天地創造神/見渡せる神)が妙見(見通す)に通じる所から、「同一の神である」と考えられるのだ。

そのヒンドゥー教に於けるシヴァ神(破壊神)は災いと恩恵を共にもたらす神で、例えば洪水は大きな災いだが同時に「土地に水と肥沃をもたらして植物を育てる」と言う二面性がある。

神は生活を共にする恋人、神に捧げる踊りの原点はインド・ヒンドゥー教のシヴァ神(破壊神)に在り、シヴァ神(破壊神)の象徴はリンガ(男根)であるから、神楽(かぐら)・巫女舞の原点として、或いは陰陽修験道と人身御供伝説のカラクリとして時の統治政策に応用されたのではないだろうか?

リンガ(男根)の神・シヴァ神(破壊神)に「土地に水と肥沃をもたらして植物を育てる」と言う能力が有るのであれば、日本神道の主神でもある賀茂信仰・五穀豊穣神・事代主(ことしろぬし)の神を祀る祭祀に、子宝に恵まれる事と五穀豊穣を祈る事の共通性をもったエロチックな呪詛が存在しても不思議は無い。

日本の仏教や神仏習合の修験信仰には、弘法大師・空海や伝教大師・最澄が日本に持ち帰った経典が影響を与えて、インド・ヒンドゥー教の教義や祭祀が仏教や神仏習合の修験信仰や神社の祭祀に取り入れられているのである。



日本に西欧の文化が入る前は、張形(はりかた、はりがた)は性におおらかな日本の文化だった。

歴史的に見ると張形(はりかた)は信仰の対象とされ、日本の古代アニミズム(自然精霊信仰)にその源流を見出す事が出来、陽物崇拝で「子孫繁栄」を祈願や豊作祈願などその機能を霊的なものとしてシンボル化した。

または霊的な災い(祟り)による病気を代わりに引き受けてくれるものとして扱われ信仰の対象と成って、現代の日本でも木製の巨大なモノが神社に祭られている神社が多数残っている。

張形(はりかた、はりがた)とは人体の男性外性器の形の性器を擬した物の事を指す。

起源が不明なほど古く、記録に残る日本最古の張形は飛鳥時代に遣唐使が持ち帰った青銅製の物が「大和朝廷への献上品に含まれていた」と云う記述があり、奈良時代に入ると動物の角などで作られた張り形が記録に登場している。

紀元前より張形(はりかた、はりがた)と呼ばれる男性生殖器を模した「器具が存在していた」とみられ、張形は男性が自身の衰えた性機能(勃起力)の代用や性的技巧の補完として女性に用いるなど、勃起機能は男性アイデンティティの根底にある為、類似する物品は世界各地・様々な時代に存在した。

また習俗的なものとして、性交の予備段階または性的通過儀礼の道具として性交経験が無い女性(処女)には処女膜がある為、地域によっては処女が初めて性交する際に処女膜が裂けて出血する事を避ける為に、予め張形を性器に挿入し出血させ、実際の性交時には出血しないようにしていた性交の予備段階または性的通過儀礼の「道具として用いる」とされる。


江戸期に入ると木や陶器製の張り形が販売され一般にも使われ始め、女性が性的な欲求不満を慰める道具として用いられ、江戸時代に「大奥で使われていた」とされる鼈甲製(きっこうせい/亀の甲羅)の張形は、湯で柔らかくして綿を詰めて性的な道具として実用に供され、性交機会を奪われた大奥では女性自身が「求めて使用していた」と言われる。

一方で江戸期には陰間もしくは衆道と言う男色の性文化が存在し、キリスト教的文化圏と違って肛門性愛に対するタブーが存在しなかった為、張形は女性用だけでなく男性が自分の肛門に用いる事もあったほど性におおらかな日本の性習俗文化に密着していた。

それほど一般的性習俗だった張り形だが、明治期に入ると国際化の為に西欧の文化に合わせる事が急務となり、近代化を理由に取り締まり対象となり、多くの性具が没収され処分されたのだが、売春そのものは禁止されていなかったた為、性風俗店での使用を前提とした性具は幾度も取り締まられながらも生き残って行った。

現代の性具としては、千九百四十八年(昭和ん二十三年)の薬事法改正から、正式な市販品は厚生大臣の認可が必要となった為、認可されていない性具は販売が不可能となった。

そこで業者は張形に顔を彫り込んで「こけし」もしくは「人形」として薬事法を避けて販売を行なうようになった為、日本の性具は人、もしくは動物の顔が造形されるようになった。

その為、形状の似ている「こけし」という名称が使用され、また電動式のものは「マッサージ器」もしくは「可動人形」「玩具」として販売された。

それらはディルドーまたはコケシと呼ばれ、勃起した陰茎と同じか少し大きめの大きさの形をしたいわゆる大人の性玩具(おもちゃ)で、電動モータを内蔵し振動するものを「バイブレーター」(略してバイブ)、または「電動こけし」と呼ぶ。



日本の性文化の原点は、「誓約(うけい)神話 」の伝承から始まる神事である。

「誓約(うけい)神話 」は、桓武天皇の御世に編纂された「古事記・日本書紀」の根幹を為すもので、つまり性交は異部族を一つの群れに和合し、新たな命を生み出す神聖な行為と捉えられていて、けして憚(はばか)り秘するものではなかった。

元を正せば、集団婚(群れ婚)だった縄文人(蝦夷/えみし)の原始信仰に、渡来して来たエロチックな教義の妙見信仰が習合した物で、それを役小角(えんのおずぬ)が統一国家・大和国の「帝の工作機関」として全国に派遣した陰陽師の修験山伏が山奥まで入り込んで布教したのである。

それが平安時代以後徐々に花開いて、都市部では「妻問婚(つまどえこん)・妻間婚(つままこん) 」、「歌垣(うたがき)」や「暗闇祭り」の風習となり、村落部では、「夜這い(よばい)」や「寝宿(ねやど)制度」の風習となって、実質として村落部での日本の性文化は「おおらかな集団婚(群れ婚)状態」が永く続いたのである。

暗闇祭り(くらやみまつり)に於ける不特定多数の性交が可能だった背景には、それなりの庶民的な性規範の存在と同時に開放的なノーパン着物文化が大きく貢献したのかも知れない。

何しろ手探りで着物を捲くりあげれば事足りるのだから、相手の顔が見えない暗闇の方が後腐れがない一時の神の恵みの歓喜なのだから。

その庶民文化が、明治維新後の新政府の欧米化政策により都合が悪くなる。
対等に付き合いたい欧米の物差しで計られて「野蛮・卑猥」と評されかねないからである。

そこで、外聞に拘る「恥に蓋をする文化」が増長され、改ざんと隠匿が恒常的に為される社会が膨らんで、本来人の範たるべき政治家や官僚、検察・警察、学者・教師、宗教家に到るまで、「恥の文化」はなく「恥に蓋をする文化」が横行し、日本中がその妖しさの中に生きている。


こうして書くと庶民だけが性に開放的だったように受け取られかねないが、勿論の事、この事ばかりは氏族も庶民もさして違いはない。

日本人は歴史の大半を通じて「性」に大変寛大で肯定的だった為に、開国当時日本に来日したキリスト教国の欧米人が仰天したほどに性に開放的で「あけっぴろげ」な国だった。

しかしそれが永い歴史の有る我が国の伝統「性」文化なのだから、キリスト教国の欧米人の指摘は本来なら余計なお世話である。

この辺りの「性」に対する認識の違いは、日本建築にも如実に現れている。
元々日本家屋は、和室の仕切りに使う建具として「襖障子(ふすましょうじ)」を使う。

襖(ふすま)の語源であるが、寝所は「衾所(ふすまどころ)」と言われ、衾(きん)は元来「ふとん、寝具」の意であるが、「臥す間(ふすま)」から「衾(ふすま)」と呼ばれるようになり、言わば寝所の仕切りが襖障子(ふすましょうじ)と成った。

日本家屋は、窓は木製の組子格子で素透視で中を覗き見れるわ、声は素通ししで聞けるわで、御所を始め御殿の類と言えども造りが開放的である。
天皇を始め皇族貴族の寝所でさえそうだから、欧米のような気密性の高い性交の場の必要性は余り感じない文化だった事は間違いない。

この国の建物の建築技術から建具の技術までその洗練された匠(たくみ)の技巧をみれば、気密性を生み出す技術が無かったのでは無く、これは「性」に対する考え方の違いで、我が国の「性」に対する認識が衣装におけるノーパンティ文化同様に、然して秘するものでは無かった事は明らかである。

襖障子(ふすましょうじ)は木製の枠組みの両面に紙または布を張ったものであるから、あまり私生活(含む性生活)を秘するに有効な設計とは思えない。

武士、商家、庶民とどの階層においても、外と部屋との仕切りも部屋と部屋の仕切りも襖障子(ふすましょうじ)と「性生活」は開け広げで、親子間のプライベートも有ったものではない。

不都合があれば板張りにするなど、改善する能力が有りながら「それをしない」と言う事は、この襖障子(ふすましょうじ)の余りのプライバシーを守れない建築を、当時の人々がさして不都合と感じなかった訳である。

戦後の復興期にアメリカ型自由主義と欧米キリスト文明の性意識が流入して全てが私権的に成り、建物も欧米キリスト文明の考え方が主流に成ってプライベート重視の壁を多用する間取りに成った。
建物の構造が変わって、日本人の意識が変わってしまった。

性行為が未来に子孫を残すおおらか神事から、「秘すべき卑猥な行為」と極端に歪曲されて扱われ、蓋をして「存在しない事」で在るがごとく放置した為に逆に性的に正しい発育を阻害され、性行為の代替に殺人を犯すような人間がたくさん育つ社会に成ってしまった。

近頃騒がれているセックスハラスメント(セクハラ)にしても、パワーセックスハラスメント(パワセクハラ)にしても、要は立場の弱い方が「被害意識」として感じるかどうかの問題で、この国の氏族(貴族・武士)社会の価値観では「被害意識」よりも「幸運な成功のチャンス」と捕らえた時期が永かったのである。

セクハラは「被害意識」の問題だから勿論だが、相手が好ましい相手ならセックスハラスメント(セクハラ)は成立しない。
好ましいの中身でも、「好き嫌いから贅沢をさせてくれる」まで結構判断基準の範囲は広い。

また、パワーセックスハラスメント(パワセクハラ)に於いても、我が国の永い歴史で言えば実は「お手つき」は力の強い者から「声を掛けて貰った(チャンスを貰った)」と喜ぶに値する事で、パワーセックスハラスメント(パワセクハラ)が立場の弱い方に立場を好転させるチャンスだった時の方が遥かに長い。

つまり今では考えられないが、「誘いを待ち望んでいた」或いはそう言うチャンスを得た者を羨(うらや)んだ歴史がある。

正に当時は、性交は成功に通じ「お手付き」は出世であり、領主と家臣の主従関係においては「お召し上げ(妻の)」や「お下げ渡し(妾妻の)」、「稚児小姓(男色寵愛/衆道)務め」はどちらかと言うと出世に繋がる幸運だった。

この辺りが、見事に「武士道の精神」の建前の形骸化が証明されるのだが、氏族(武士)社会にはそれなりの別のいささか残酷で都合の良い制度が確立していた。

血筋がものを言う氏族(武士)社会では、血筋を残す事が最優先の了解事項だから言い分として妾は正当な存在で、正婦人は言うに及ばず妾に到るまで勢力維持・拡大の具として「閨閥(けいばつ)」の対象に成る。

領主同士の婚姻関係は軍事同盟を意味し、出世を望む部下は我娘を領主の妾に送り込み、領主は見込みのある部下に妹や娘を下し置いて頼りとする。

氏族(武士)社会の主従関係には特殊な家臣(部下)を試す制度が存在し、家臣(部下)に娘が居るなら「召し上げ」て妾にし、忠誠心を試す。

独身男性の場合は「お下げ渡し」と称してお上(殿)の手の付いたその女性を娶る事を求められ、その家臣(部下)の忠誠心が試される。

家臣(部下)が結婚していて妻がいるなら、「お召し上げ」と称してその妻を差し出させ、暫らく寝屋を伴にしてから「宿下がり」と称して夫に返し、夫が自分のお手付き後でもその女性を大事にするかどうか試される。

敵対危惧関係や敵対関係と目される相手との場合はまた別で、「人質」と言う事になる。

これらは全て古代に在った誓約(うけい)の進化系で、 家臣(部下)の忠誠度や敵対及び危惧関係相手との信頼関係を試す手っ取り早く具体的な手段だった。

お堅い筈の「儒教」についても、実は解釈上の扱い方次第である。

例としてあげれば、李氏朝鮮王朝は仏教を廃して儒教を採り、厳しく律して生活を送る忠孝精神を採って国家の思想とした。
しかし清廉を謳い文句に「儒教の国」と誇り高きお隣りの朝鮮半島においても、性的愛玩を含む身分階級制度は間違い無く存在していた。

朝鮮王朝(チョソンワンジョ)の身分制度は、上から王族、両班(ヤンバン・特権貴族階級)、中人(チュンイン・科挙に合格した役人)、良民(ヤンミン・常民と呼ぶ普通の身分)で、最下級は奴婢(ヌヒ・奴隷)である。

最下級は奴婢(ヌヒ・奴隷)は、公に王朝政府が抱える賤民(せんみん)を公奴婢(くぬひ)、地方の豪族が所有し、基本的に家畜と同じ所有物扱いの私奴婢(しぬひ)と呼ばれる身分の者が定められ、被差別階級に組み入れて隷属的に支配されていた。

つまり、公奴婢(くぬひ)と私奴婢(しぬひ)は非人(奴隷)であり、家畜同然だったから儒教の精神は都合良く及ばない理屈で、公奴婢(くぬひ)の遊技の妓生(キーセン)制度は公に存在し、私奴婢(しぬひ)は抱え主の両班(ヤンバン)の愛玩要素を含む慰め者だった。

この辺りの考え方は、ご多分に漏れず国家体制を維持する為に特権階級を設けて実力者を取り込み、王朝に忠誠心を持たせる狙いであるから、奇麗事の「儒教の精神」に組しない例外扱いだったのである。

また宮廷の医女(イニョ)も身分は公奴婢であり、遊技の妓生(キーセン)同様に両班(ヤンバン)のストレス解消の為の慰め者だったのが実情で、現代で言うヘルス嬢的な愛玩要素を含んでいた。

身分を示す帽子状の被り物の形状が、医女(イニョ)と妓生(キーセン)はまったく同じで、医女の身分は「奴婢(ヌヒ)」であった。

だから医女(イニョ)も、両班(ヤンバン)に取っては逆らえない性奴隷同然の存在で、医女を妓生(キーセン・日本で言う芸者)扱いする悪弊は、李氏朝鮮の燕山君の時代に生まれ、内医院(ネイオン・宮中の医局)の風紀が乱れ、「儒教の国」の精神も多分に統治上の権力的例外が存在したのである。
 

人類は、他の動物種では類を見ない脳の発達に拠って余分な事を思い過ぎる様になり、絶えず「思い通りに行かない」ジレンマを抱える様に成った。

生き物は自然則として、生き行く必要の為に自らを変身させて行く。
実は、この発達した脳の苦悩を緩和する(脳を納得させる)為の「擬似生殖行為」として、生殖を伴わないSEX行為の合意が、人間の意識の中に「必要な行為」として与えられた。

その為に、他の動物種では滅多に無い事だが、「擬似生殖行為」と言う生殖目的以外の「癒し目的」と言う性交を必要とする様に成なる。

自然界では例外的なものでは在るが、自然の与えた本能にはけして無駄はなくこの癒し目的の快感である「擬似生殖行為」も、生きて行く上で必要だから与えた筈で悪いものである訳がない。

そして人間は、その性交に到るまでのプロセスから技巧まで、あらゆる性文化を発展させて来た。

実の所、複雑な思考を持つまでに進化した人類が生きて行くには辛い事も多いから、神が人類の脳に与えた「擬似生殖行為」が快楽の性交ならば、社会的な慎みさえ考慮に入れればそれを素直に楽しんでも良いのかも知れない。

しかしその一方で、この「擬似生殖行為」の欲求が在るばかりに人間は、欲求を抑え切れずに運命を狂わす失敗行動に出たりするリスクも負った。
そしてその「擬似生殖行為」の為に、人類の脳は益々発達して他の動物に例を見ない高知能生物になった。

もっとも、性欲に限らず仏教用語で言う所の「煩悩」とされるあらゆる欲望も、動物種の中では類を見ないのが人類である。



都合の悪い過去は「無かった事」にする為に、消極的な方法として「触れないで置く」と言う手法があり、積極的な方法としては文献内容の作文や改ざんが考えられる。

意図をもってお膳立てをすればやがて時の流れと伴に既成事実化してしまうもので、留意すべきは、例え実在した事でも後に「有ってはならない」と判断されたものは、改ざんや隠蔽(いんぺい)が権力者や所謂(いわゆる)常識派と言われる人々の常套手段である事実なのだ。



僅(わず)か百年前の事でも、時代考証は現代の物差しに応じて調整する良い事例であるが、こうした行為は例え悪意は無くても後の人々に様々な誤解を生じるものである。
そうした積み重ねが、各々の国の歴史観として、「とんでもない物」に出来上がって居るのかも知れない。


今、日本のイデオロギーも地球上のイデオロギーも劇的な変革を必要とする時代に直面している。

千九百年代は資本自由主義と共産主義の争いの時代だった。
二千年代に入って共産主義は衰退し、資本自由主義も行く所まで行き着いて生き詰まりを見せている。

このまま資本自由主義の暴走を止めないでは、「投資マネー」と言う「バーチャル生産のマネーゲーム」の中に「リアルの生産」が翻弄(ほんろう)され埋没して、人類の糧(かて)となるべきリアル生産力が劣化消耗してしまう事だろう。

また、現在の地球環境の悪化(温暖化)は正しく「利の為に何でも有り」の資本自由主義の為せるものである。
実は過去の歴史が証明しているのだが、人間の浅はかな欲望が地球上を砂漠化して来た。

エジプト文明、メソポタミア(チグリス・ユーフラテス)文明、インダス文明、黄河(中華中国)文明はいずれも緑と水の豊かな大河のほとりで発生して自然を食い尽(つく)し、砂漠化と共に衰退した歴史を持っている。

近世から現代にかけては、緑豊かな熱帯林を持つインドシナ半島やインドネシア、ブラジル・アマゾン流域を焼畑や森林伐採して開墾を進め、貴重な森林の砂漠化の道を歩んでいる。

今の資本自由主義と言うイデオロギーの枠では解決しないこれらは地球規模で考えなければならない問題で、つまり「目先の個々の利、国家の利」を追えば、永いスタンスで見た地球は衰えて行く事になる。

にも関わらず、資本自由主義のイデオロギーの基本ベースを変えないまま地球環境の悪化(温暖化)対策を世界中が模索しているが、これでは各自・各国の「資本自由主義の利」が主張しあうだけで一向に埒(らち)が開かないであろう。

このまま資本自由主義の暴走が止まらなければ地球環境の悪化(温暖化)は更に進み、やがて人類の多くが住めないであろう地球に成る事は必至である。
つまり小手先の対策ではなく地球上のイデオロギーも劇的な変革を統一で行う時期に来ているのである。


それでは、その劇的な変革を可能にするイデオロギーはいったい何だろうか?

その課題は、日本の歴史が解いてくれる。
日本列島の歴史は、大和合の国(大和国/やまとのくに)の成り立ち方から始まり、世界でも珍しい「特異な文化」を結実させた。
そのひとつは今は失われた【日本人の性文化(誓約/うけい)】であり今ひとつは【日本人の宗教観】である。

地球を救うイデオロギーのヒントは、この二つを基本として組み合わせた日本の特異な文化【共生社会(村社会)】のイデオロギーの中にこそ隠されているのである。


ここに、日本列島の歴史と比較するに好対照の歴史が存在するので紹介する。

三千年前まで日本列島と同じ経緯を歩みながら、列島が明治期に入る頃までおおむね中華文明から置き忘れた大きな島・台湾島の存在である。

台湾島は、十八世紀から十九世紀頃に到って漢民族が移住して来るまで日本列島と同く黒潮に乗って移り住んだ原ポリネシア系の原住民の暮らす島だった。

中華文明から置き忘れた理由は、朝鮮半島から遠く離れ倭の国々に属さなかったからで、文明的進歩は二千年以上止まったままだった。

この中華文明から忘れ去られた台湾島は、日本列島の歴史のように「誓約(うけい)の概念による混血」と言う平和的な民族合流の手段を持たなかった。

その為に、頑(かたく)なに自分達の文化・習俗・信仰を守って他を排斥して三千年間からの対立の歴史を繰り返し、統一される事無く小民族乱立の中、言語の通じない人間の首を狩る出草(しゅっそう)と言う風習が根付いていた。

つまり、文化も言語も全く隔絶した十数もの原住民族がそれぞれ全く交流する事無く、首狩りそのものが「一人前の成人男子の通過儀礼」とされ、信仰的な意味合いも在って狩った首の数は同族社会集団内で誇示される風習が存在した為、異なる部族への警戒感が強かったのである。

台湾原住民(たいわんげんじゅうみん)は、台湾に十七世紀頃に漢民族が移民して来る以前から居住していた先住民族の呼称である。

日本が植民地支配を始めた明治期の頃の台湾には、平地に住み台湾原住民族と漢民族が混血同化した平埔族(へいほぞく)と高地(山岳地帯)に住み独自の言語・文化・習俗を守って暮らしている高砂族(たかさごぞく)が存在した。

多くの民族集団に分かれて並存し、十四民族(部族)を数える台湾原住民(たいわんげんじゅうみん)の内二民族が平埔族(へいほぞく)、十二民族が高砂族(たかさごぞく)とされた

台湾原住民の中で一番多い人口規模(総人口の37.5%)を持つ平地民族集団・アミ族と台湾原住民のなかで唯一台湾本島の南西沖の孤島・蘭嶼に居住する民族集団・タオ族を除くと、大半が好戦的民族だった。

そんな台湾原住民(たいわんげんじゅうみん)の中に在って、アミ族の家長は女性で優先順位は女性側にあり、家業・財産は長女が受け継ぎまた姓も母方の姓が引き継がれる母系社会である。

母系社会のアミ族は、アミ語で「シカワサイ」と呼ばれる女シャーマンが主催する二ヶ月に及ぶ秋祭りがおこなわれ、童女が集められて盛んに踊り、激しい踊りの中でトランス状態に陥った童女が次代のシャーマンに任命される。

台湾原住民(たいわんげんじゅうみん)十四民族(部族)に在って「強い母系社会はアミ族だけ」と言って良いアミ族は祭り好きで、豊年祭、播種祭、捕魚祭、海祭などがあり、毎年夏の七月から八月のいずれかに二週間ほど催される豊年祭は最も重要な祭祀儀式である。

歌や踊りを好み、平和で陽気な平地民族集団・アミ族が台湾原住民の中で一番多い人口規模を有し、後発で移民して来た漢民族とも平和に共存している事は偶然だろうか?

日本列島の歴史と重ね合わせる時、母系社会のアミ族は比較的「性におおらか」で、最も日本の先住民族・蝦夷族(えみしぞく)に近い平和的な村社会文化・習俗を持っていたような気がする。

つまり、頑(かたく)なに自分達の文化・習俗・信仰を守って好戦的では外部民族との交流も生まれず、人口も増えずに文明的進歩も止まってしまうのである。

ただ、台湾島に於ける最大勢力のアミ族が非好戦的な平和主義だった事と、日本列島のように中華文明の先進的な武器を携えた侵略部族(うじぞく/氏族)の襲来が無かった事が、台湾島の統一国家化が為されなかった事に繋がったのも事実である。


(江戸期と大日本史編纂)

◇◆◇◆(江戸期と大日本史編纂)◆◇◆◇◆

歴史の影に埋もれて名も残らない数十万、数百万の民人達に思いを馳せながら、我輩は、此処まで歴史の糸と言葉の糸を紡(つむ)いで来た。

江戸幕府の成立は、氏族の特権を温存しながらも永く続いた氏姓制度の調整的変革をもたらした。

その他、主な出来事として一つ。
徳川幕府の「鎖国政策」の原因と成った信仰に於ける禁令の背景と経緯を簡単に挙げる。

キリスト教(カトリック)が伝来し、宣教師が活動を開始したパターンは、古(いにしえ)の中華文明を駆使した「修験布教」と全く同じである。
つまり、新しい西洋文明の科学や医学を駆使して信頼を勝ち得ながら、併せて布教活動をする。

当然ながら、初めてその西洋文明の奇跡を目の当たりにした者は、畏怖の心を宿してその信仰に傾倒して行く。
やがて有馬、大友、細川などの戦国大名やその家族にも信徒に成る者が現れ、豊臣秀吉や徳川家康など、日本に覇を唱えた者のカトリックへの警戒感を呼ぶ事に成って行く。

カトリック教徒はイエズス会・宣教師の教えにより徒党を組んで神社仏閣を襲撃、弾圧・焼き討ちにする。
愛を奉じて布教をしながら、けして彼らは既存の異教徒を容認する事は無かった。

この指導の現実からして、当時のカトリック・ジエズ教会の宣教師の教えは、植民地化を狙う国策活動である。

イスパニアとポルトガルは改宗と武力蜂起による植民地化を狙ったのは事実で、将軍・徳川家光はそれを懸念、キリスト教禁教令を出すが、結局幕府成立の三十五年後(寛永十四年)に、天草四郎・時貞を担いで「島原の乱」を起こしている。

しかし「島原の乱」は、神の加護もなく試練だけを与えて、立て篭もった原城三万七千の信徒は女子供を含め全滅している。

反乱鎮圧後、カトリック教徒は「隠れキリシタン」として約二百二十年弾圧耐え忍び、明治維新を迎えて禁教は解禁され、教徒達は漸く教会・浦上天主堂を長崎の街に作る。

その八十年後の昭和二十年、敬けんな信徒と浦上天主堂の上に落ちて来たのは、同じキリスト教国・アメリカからの神の試練、「原子爆弾」だったのである。


江戸期の主な史実エピソードは、広く知られているので割愛して、崩れ行く氏姓制度と、どちらかと言うと歴史的事実で在りながら、現代の倫理観に当て嵌めて大きい声で認めたがらず、余り語られる事が少ない江戸期の「商家の風俗」と「大日本史編纂」の謎と「享保の改革」の成功要因を書き記す。


江戸期は、単独で取り上げると問題が無かった訳ではないが、総体的に言うと「安定した長期政権」と言える。
この礎を作ったのが、天海僧正の知略である。
官僚合議政治に移行した事で、封建政治の中にも、ある種の断衝材的な機能を持たせたのである。

安定した長期政権の下では文化が花開く。
江戸期に始まった町文化は、豊かで艶やかなものだった。
その一方、年貢米を財政の基礎とする形態の性質上、農村部では過酷な搾取が続いていた。

今でこそ百姓と言うと「農業従事者の事を指す」と理解されている様であるが、その生い立ちは違う。

氏姓制度の変革により、江戸期に入って武士と百姓は大きく身分が分類される様になるが、そもそもの「百姓」は、姓を有し家系がはっきりしている多くの下級氏族の総称から始まっている。
つまり氏族の出自であれば、携わる業務に関わり無く本来は百姓なのである。

当然氏族は、農園の経営のみならず、寺社の神官僧侶から鍛冶師、薬師、商業まで営みを手広く広げていた。
従って江戸期以前は、一つの業種を専業で生業(なりわい)としていても、それが身分を現すものでは無かったのである。

豊臣秀吉の「太閤刀狩り」以後、行政上の都合により兵農分離が始まり、新たな身分制度が確立する。

ここで問題なのが、元々その土地にあって力を有し、家系がはっきりしている下級氏族の「百姓」の新たな身分制度への組み込みである。

武家として取り上げられ、大名家に仕官する者、仕官せず土着・帰農しても刀を捨てずに郷士(半農の武士)と成る者、培った勢力を生かし、名字帯刀を許された特権の豪農・豪商に変身して行くものも現れる。

間違えてはいけないのは、百姓町人の中から頭角を現して「名字帯刀を許された者」も確かに居るには居たが、初期の段階では元々旧体制の下級氏族が、勢力を維持したまま、当初は豪農・豪商に変身して名字帯刀の特権も認められたのである。

従って、ここで言う百姓とは家系がはっきりしていて農業経営を専業で生業とする下級氏族の出自を持つ大庄屋、庄屋、村長、村役、などの特権豪農の事であり、農業経営者は所謂土地無しの農業従事者とは身分も違ったのである。

郷士は、江戸時代にあった階級の一つであり、大名家臣団の秩序の中に組入れられている者で「半農の武士」と言う定義がある武士の一種である。
これは歴史的に言うと「一所懸命時代」の名残であるが、名字帯刀を許されており、家系がはっきりしている者も多い。

かつて武家であり、かっての戦国大名の一族や家臣が敗戦などで主家を失い、仕官せず土着・帰農した者が、兵農分離時に在地を離れず、新たな領主から郷士とされた者で、在地における実力者であり、新たな領主がその懐柔策として取り立てたのが「郷士」と言う下級武士の身分である。

通常、江戸時代における武士は城下に集住する(こちらを城下士という)のに対し、在方(郷)に住む為にこう呼ばれた。
身分は概ね城下に住む武士より下、一般的な百姓(豪農・豪商を含む)より上と言う身分的中間層であるが、地方(各藩・各大名家)によって実態は千差万別で在った。


このように、日本の士農工商の成り立ちの経緯を勘案すると、江戸期以前は神仏の宮司・僧侶を含め、士農工商の全ては武人である氏族の兼業形態が普通だった。
つまり、畿内を中心に堺、浪速、近江等の大店(おおだな)の商家も、安土桃山期頃から武士兼業の商工氏族が商業に特化したものが多かった。

従って、名字帯刀の特権をもって始まった豪商の感覚は、御家大事の「一所懸命」を持ち合わせた氏族感覚を持ち合わせていた。


この豪商と結び付いた信仰に稲荷信仰がある。
印度の仏教の教えの中に、白い狐に乗り移った茶吉尼(だきに)天と言う魔女が、大日如来(だいにちにょらい)の教え(導き)で、「仏法諸天の仲間入りをした」と言うのがある。
これが日本では、後に稲荷神社(おきつねさん)に成る。

稲荷神社は「稲成り」の事で「実り」を意味する。
出自(しゅつじ)が仏教系(大元はインド・ヒンドゥー教)なのに、神社に化ける所が凡そ日本的知恵ではある。

実はこの稲荷神社、江戸幕府に拠る「神仏混合政策」の際に生きている間のご利益は「神社(神道)」、死後のご利益は「お寺(仏教)」と共存の為に役割分担を決められたので、「現世利益」を信奉する為に茶吉尼天(だきにてん)信仰は無理やり神社の様式に変えざるを得なかった。

稲荷神社(おきつねさん/茶吉尼天)は、財産や福徳をもたらすとして信仰され、老舗(しにせ)の商家の奥庭や繁華街の一郭に、商売繁盛(現世利益)の神様として祭られたりしていた。

この茶吉尼天(だきにてん/おきつねさん)と言う魔女は、所謂SEXシンボル的存在で、この場合の大商家や上級武家、豪農では、跡継(血筋)確保も含めて艶福である事が、家名繁栄の条件であったのは言うまでも無い。

つまり、一夫一妻制は明治維新まで、多分に怪しかった。
もっとも明治維新後も戦前まで、貴族や金持には妾(めかけ)は公然の秘密の形で存在したのである。


江戸期、日本の町屋社会(商家社会)には「おかみさん文化」と言うものが在った。
御上(おかみ)さんと書いて、人妻や主人筋の妻や女主人などを指す言葉だが、日本史的に上(かみ)は神(かみ)に通じる言葉である。

そもそも論で言えば、おかみさんは「お神さん」で、古い時代の呪詛巫女の慣習が変化しながら残っていた可能性が有る。
「おかみさん文化」は、武士兼業の商工氏族が多かった上方(関西地区)で始まったものだが、「商家特有の文化」として、江戸期には日本全国に広まった。

征服部族の末裔である氏族の基本的な感性は、「戦い取る」と言う戦闘的な【左脳域】思考が強いDNAを持ち合わせていて、厄介な事に【左脳域】は、論理・理性の他に原始本能として「闘争本能(戦うか逃げるかの判断)」の部分を受け持っている。

しかも氏族は、長い事「支配地(所領)の取り合い」と言うリアル(現実的)な世界で生まれ育って来ていた。
そうした環境下では、その権力に対する価値観が【左脳的】に最も重要で、「お家の為」と言う思考方向は氏族の女性にも確りと染み渡っていた。

日本史に於いては、基本的に婚姻関係が神代から続く「誓約(うけい)の概念」をその基本と為している。

氏族社会(貴族・武家)では正妻・妾妻と言う変形多重婚社会の上、家門を守り隆盛に導く手段として「政略婚」や父親や夫からの「献上婚」などが当たり前であり、おまけに主従関係を明確にする衆道(男色)も普通の習俗だった。

個人主義が蔓延している現代社会人には、個人の意志を無視する誓約(うけい)の概念を理解する事は難しい。
本音で言えば、自分が可愛いから他人(ひと)の愉快の為に性交を強いられて不愉快な思いをするのは御免(ごめん)である。

しかしそれも自分が可愛いからの気分の問題で、当時の「おかみさん」の思考にしてみれば、もしかしたらその不愉快はネガティブな思い込みに過ぎないのかも知れない。


昔の商家には一生を独身で済ませ、お店(たな)大事を貫く番頭の存在が落語や講談、読み本などで紹介されているが、あれには裏がある。
実はその番頭は、おかみさんの肉体で満足していた。
けして不義密通ではない。それが商家に嫁いだおかみさんの現実的な役目だった。

大店(おおだな)を内側から守るのがおかみさんの役目で、それには信用できる使用人の育成は欠かせない。

これは単(ひとえ)に考え方の問題である。
愛も情も許し合って初めて生まれるもので、イガミ合って居てはそこからは何も生まれない。
お店(たな)守る最良の方法が、使用人と誓約(うけい)に拠る性交を為す事だった。

肉体的繋がりほど強いものは無いので、丁稚(でっち)の内はともかく目端が利きそうな手代(てだい)辺りから、おかみさんが性欲の面倒を見て手懐ける習慣が、町屋社会(商家社会)では公然の秘密だった。

この関係、小使いは少なくても我慢させて忠誠を尽くすだけでなく、悪い遊びを覚えてお店(たな)の金に手を付けたり、悪い病気を拾って来るのを防ぐ役割も在って、当然お店(たな)の旦那公認の「面倒見の行為」だった。

旦那公認で、使用人の性欲の面倒見の行為が平然と行われていた。
すると不義密通話は何なのか?
あれは、情が通って駆け落ちなどをする場合いで、唯の性欲の面倒を見て、使用人を手懐けるのとは訳が違うのである。

正に肉体的繋がりの信頼関係を、昔の町屋社会(商家社会)のおかみさんが勤めていた事になる。
「情が通わない肉体のみの性行為と言う点では、昔の方が現実的な考え方で、今の上辺だけの考え方を「さも真実だ」とする主張の方が空虚なのである。

勿論、使用人に所帯を持たせて「のれんわけ}をする事も有るが、考えて見れば商売敵の同業者を増やす事になるのだから、理想はお店(たな)に縛り付けるに越した事は無いのである。


それにしても、大店(おおだな)の「おかみさん」も、「それを覚悟の嫁入り」と言う事になる。

当たり前ながら当時はそれが常識で、今の物差しで見るから読み間違う。
何しろ、大店(おおだな)の旦那には妾の二〜三人は居て、その妾にもおかみさんの方が「旦那が世話になる」と盆暮れに付け届けの挨拶をする文化だった。

自分も手代(てだい)や番頭の性欲の面倒を見てから、それで互いのバランスを取って居た訳である。
つまり、繁盛している商家程使用人の数が多く、おかみさんの身体は信用が置ける使用人の育成に忙しかった事になる。

そんなので旦那とおかみさんは、「上手く行っていたのか?」と言うのは、当時の事情を知らず、現代の倫理観に当て嵌めようとするからである。

その辺はお店(たな)の旦那は商いの為と割り切っていたし、おかみさんもそう言うものだと割り切っていた。

商家の奥座敷は奥が深かったらしいが、それにしてもそう言う事であれば内々に於いて公然の秘密でなければ、おかみさんも、とてもそんな事は秘密に出来ないであろうから、皆それと承知していた事になる。

情が通わない性的な奉仕は、「単なる手段」と割り切った所が、現在の世の中の常識より余程現実的な事は、我輩にも理解できる。
つまりは、わが国成立初期の昔から存在した「お家大事主義」の、肉体を使うお役目、閨閥構成社会(誓約・うけい)の正当性を、完全に認めるような話である。

この「おかみさん文化」の習慣は実に良く出来ている。

元々上方(当時の皇居所在地である京都近在の関西地区)で発生した商家の形態は、武家の感性を踏襲して「お店(たな)大事」が何よりも優先していた。
氏姓制度の名残を残す豪商の発想が、手本だったのである。

商売は商(あきない)と言うくらい永く続くのが信条で、後継ぎは絶やせない。

都合の良い事に、「使用人の性欲の面倒を見る」と言う、このおかみさん文化の習慣は、旦那が「種無し(子種が無く)」でも使用人が密かにカバーする。

嫁が「生まず女」なら妾がカバーする。
言わば商家存続の安全弁の役割も担っていて、「実は若旦那の実父は独身の大番頭だった。」などと言う人情話に、当時を伝えているのである。

まぁこの「若旦那の実父は独身の大番頭」を現代風の解釈で個人的な「おかみさんと番頭や手代の色恋沙汰」と解釈するか、その時代の「町屋商家の習俗」と捉えるかで随分当時のおかみさん文化の理解が違うものになる。

この物語ではもう毎度の事に成ってしまったが、この「おかみさん文化」を現代の倫理観や価値観の意識そのままに当て嵌(は)めては、到底信じられない事かも知れない。

現代風に考えれば、それこそ性に対する倫理観も女性個人の尊厳もあった物ではない。
良識派を自認する学者達には「無かった事にしたい過去」だろう。

しかしこの時代は、武家も豪商も、通常「お家の繁栄」が全てに優先する価値観であり、一般的に男も女もその「お家の為」にする犠牲行為は、不謹慎なものではなく「美徳」だった。

人間には「意識と行動を一致させよう」と言う要求(一貫性行動理論)がある。
つまり、現代の物差しとは違う価値観が昔存在した理由は、当時の女性は「お家大事を基本にした考え方が正しい」と考えていた意識の違いである。

従って、現在の意識を基にした「一貫性行動理論」の物差しを現代に当て嵌めて、「そんな事は有り得ない」と過去を判断するのは危険な判断方法である。


江戸期に於ける「おかみさん」のついでに、「商家の娘さん」についても少し書く。
「商家の娘さん」についても、修験道師絡みの、江戸期独特の風俗習慣が存在する。江戸時代から明治中期まで町屋(商家)を中心に流行した「狐つき祓い」が、まさしくこれである。

この時代、まだまだお店(たな)の娘としては自由恋愛とは行かず、親の都合の縁談が当たり前で、お店(たな)の示(しめ)しとしても親に逆らってもらっては困るのだ。
この辺りの厳しさが商家の習慣にあるから、心中事件などと言う手段も在った訳である。

実はこの「狐つき」、商家の娘が、都合の悪い恋愛や恋わずらいをした時に、便宜上付ける厄病で、修験者を呼んで「狐(恋愛感情)」を落としてもらう為の方便だった。

修験者の「お祓い」と称するものの実体が集中的輪姦で、娘を犯し倒す性感の波状攻撃に拠り娘の人生観さえも変えてしまう。

簡単に言えば、既成事実を作って諦めさせるのが目的だが、修験者の「お祓い」ならば神事で、世間も納得する。

つまり、娘から「狐着き」が落ちて親の薦める縁談がまとまり、経験を積んで性的に成熟しているから、嫁に行っても、婿を貰っても相手を飽きさせない。
これは、「性交による矯正」と言う事であり、昔からそう言う手段はあった訳である。

御祈祷の奇跡についてはこんな事例がある。
若い夫婦に中々子宝が授からなかった。

現代のように夫に子種が無いなどと言う科学的な思考の無い時代は、子宝が授からないのは何かの「呪い・因縁の類では無いか」と恐れを抱く。
それで評判高い陰陽修験の修行を修めた行者様に若妻を預け、加持祈祷をして頂く。

加持祈祷を済ませた若妻は家に帰り、そのご利益が薄くなる前に早速夫と同衾する。
陰陽修験の行者の祈祷は霊験あらたかで、「アァら不思議」と若妻に子宝が授かってメデタしメデタしとなる。

ただしこの御祈祷は秘伝中の秘伝であり、御祈祷中の行者様の気を乱してはいけないので、どんな御祈祷が為されるのかは行者様と若妻以外誰も知らない。
後はこれを読む方の御想像に任せるが、とにかく奇跡は起こるのである。

そんな馬鹿な事はない。
「真面目に祈祷をしている行者も居る筈だ。」とお叱りを受けるかも知れないが、あなたは祈祷のご利益が本当に信じられるのか?
この現代科学で考えれば、突然子宝が授かるには合理的な理由がある筈である。

こう言う裏話をすると、直ぐに理想論者の反論が湧き起こるが、現実に密教的修験の「お祓い」の常套手段が立ち入り禁止の非公開(呪術が効かなくなると言う理由)であり、酷い話になると、「覗けば目が潰れる」などの予防線が張られていたりする。

現実に、十一代将軍・徳川 家斉(とくがわ いえなりの側室・お美代の方(専行院)の父親、日啓が引き起こした大奥女中の醜聞、智泉院事件においては、「お祓い・祈祷」が名目だった。

そう言う部分は、現代の建前感覚より当時の現実感覚の方が、返って正直なのかも知れない。


これは余談に近いが、江戸期に入って盛んになった雛(ひな)祭り、子供は夢を託して無邪気な喜びの日である。
しかし、良く考えて見ると段飾り雛は、世界でも珍しい「身分制度を表したもの」で、上に上るほど高位の雛の居場所である。

これを平等の現代社会では「おかしい存在」とは誰も思わない所を見ると、およそ氏姓制度が「日本人の中に染み付いている」と言う事だろう。
一応「祭り」と言うからには信仰行事で、子供の健やかな成長を祈りながら、ついでに身分制度も学習させる寸法だったのではないか?

まぁ、目くじらを立てる程のものではないが、多神教の国で外来宗教も比較的安易に受け入れる気質である。
逆説的に言うと、存在するものは深く考えないで容認するのが日本人気質かも知れない。



人が事を起こす時には、相応の動機が必要である。
「二度と戦乱の世を作ってはならぬ。」
それが、神君・徳川家康公が、自らの血流子孫に託したメッセージである。

いよいよ駿府城本丸にて、大御所・家康、二代将軍秀忠(光忠)、二代目天海(光春)、春日の局(お福)四人だけの密談で決まった先代天海(光秀)の幕府としての諸国監視の奇想天外な「秘策」が明らかに成る。


水戸藩第二代藩主徳川光圀は、第三代藩主・綱條(つなえだ)に家督を譲っての隠居後、「大日本史編纂」に取り掛かる。
まず異母弟の重臣・鈴木重義を隠居所・西山荘に呼び、全面的協力を要請する。

「この事は、我水戸藩に託された神君(家康)様、二代(秀忠)様、天海殿の期待じゃで、予はいよいよこの事業を始める。」
「お待ちしておりました。いよいよでございますか。」

元より、雑賀(さいが)の鈴木家の名を継ぐ鈴木重義に異論など有る筈が無い。
永い事待ち望んでいたのである。

「万端怠り無く頼み入るぞ。」
「お任せください。承知致しましてござる。」
「宿願を果たす機は熟した。これは神君(家康)様からの我天命じゃ。」

光圀は藩内外に「大日本史編纂」を宣言すると、学問所(現在の研究所)「彰考館」を設置して藩内の優秀な人材を登用する。
そして、その人材の活動を裏面から支えたのが、雑賀衆の棟梁・鈴木重義だったのである。


徳川家康の十一男・徳川頼房が常陸国(茨城県)に入り、水戸藩として御三家としての水戸家が成立したのだが、実はこの水戸藩、表向きの理由以外に徳川家康の意向に拠り当初から容易ならぬ密命を帯びて設置されていた。

通称水戸黄門(徳川光圀)として庶民に親しまれている諸国漫遊記の物語の「現実の方」には、幾つかの裏事情が隠されているのだ。

「大日本史」は、千六百五十七年に、徳川光圀が「尊王の目的」で編纂を始めた事に成っているが、水戸藩は御三家とは言え公称三十五万石、実高は高々二十六万石の、中規模上位の構えである。

そこに藩の財政を逼迫(ひっぱく・非常に苦しく)させる程のこの大事業である。
それでも幕府はその事業を容認し、水戸藩内でも目立った反対もなしに幕末まで継続されている。


いくら建前の奇麗事を言っても、政権の本音には「諜報機関と工作機関は欠かせない」と言う矛盾がある。
江戸幕府に於いても、朝廷や公家、諸藩の動静を監視する事は統治の生命線だった。

幕府の中核を成す立場の武家、水戸藩のする事である。
「大日本史」編纂が唯の文化事業ではなく、他に表ざたには出来ない目的があっても不思議ではない。


水戸藩第二代藩主徳川光圀は、第三代藩主・綱條(つなえだ)に家督を譲っての隠居後、藩領内からほとんど出る事の無かったのだが、漫遊記では水戸光圀公が全国を歩いて悪役人を懲らしめ、世直しをして居る事に成っている。

これは架空(フィクション)の物語で、幕末になって、「講談師(氏名は不明)が創作した」とされている。

この水戸黄門漫遊記に登場する「助さん角さんに忍者役のサポートの一団」のモデルが、驚く事に「全て雑賀衆だ」と言ったら、どうだろうか?事実の方が、講談師の創作より意表をついている事になる。

水戸黄門慢遊記は、庶民のささやかな不満のはけ口として娯楽作品は出来上がっていて、悪い権力者を、正義の人が「やっけて」くれる。
その夢物語とは違う、生々しい権力の知略が、大日本史編纂には潜んでいるのである。

諸国漫遊記創作のヒントは、水戸公が編纂を始めた歴史書・「大日本史」の現地調査を名目に、全国に調査役(家臣の儒学者ら)を日本各地へ派遣した事にある。

所が、この派遣された調査員(家臣の儒学者ら)が、明らかに雑賀衆の可能性が濃いのである。
この唐突に始まった水戸家の大事業、或いは天海僧正(明智光秀)の知略の実践だったのかも知れない。


「大日本史」編纂目的の目指すもののひとつは、「南朝を正統」とした歴史書で、当時の北朝系図の朝廷をけん制し、徳川幕府を磐石なものにする所に主眼がある。

この尊王思想、その先に存在するのが朝廷から賜った「源氏の長者」の位であり、「征夷大将軍」の位である。
つまり「大日本史」編纂は、将軍家の正当性を証明する目的にも、合致するのである。

そもそも、「大日本史」編纂に徳川本家(幕府)が認め、水戸徳川家が力を尽くすには、多くの歴代権力者が手掛けたように、歴史書の編纂を契機に、いささか後ろめたい徳川家の出自を、改めて磐石にする目的をも重ね持っていた。

賀茂氏庶流の枝の枝である筈の松平家・松平元康が、源家の新田氏支流・世良田流の得川氏の子孫と称して「徳川」を名乗って、三河の守・徳川家康とした。

この時点で、源氏出身でないと叙任の慣習に添わない事を逆手に取り、朝廷より「三河の守・徳川家康」を認められた事により、武門の統領としての源の血流を、形式的資格として手に入れた事になる。


光圀は、多くの武士に共通した認識と同様、天皇による普遍的な統治が続けられた日本こそが「正統な国家形態である」と言う意識を持っていた。

この意識が、明智光秀に「本能寺の変」を起こさせた原点であり、氏族の国家観の原点であるから、徳川政権はその上に立脚して各藩に私兵を置く幕藩体制を引いている。

つまりは皇帝が居て各国王の国々が存在する中華思想を踏襲した「天皇制と藩主(直臣)」の形態を形式上認めながらの幕府政治(幕藩体制)なのである。

この為大日本史は天皇の治世を紀伝体で記してある歴史書であり、全体的に大義名分論の尊皇思想で貫かれていた事から、この思想が、天皇を尊ぶ「尊王思想」の気風を植え付ける「水戸学」として水戸藩に受け継がれ、後に明治維新に大きく影響する事になる。

明治維新の指導原理はこの水戸学で、水戸勤皇党を生み出し、江戸幕末の尊王攘夷運動に強い影響を与え、明治維新の原動力の一つにもなったのである。

徳川幕府最期の将軍(十五代・慶喜)が、水戸藩から登用されたのも、「水戸学・尊王思想」と関わりが深い事の意味が理解できる。
つまり、水戸藩出身の将軍なら、尊王派(勤皇の志士)を懐柔できる僅かな可能性を秘めていたので、幕府存続の為、最期の切り札として担ぎ出したのだ。

所が、それが裏目に出て徳川第十五代・慶喜は「大政奉還」をして政権を放り出してしまった。

今ひとつ、「大日本史」の現地調査の名目は、情報活動(諜報)の表向きの隠れ蓑の一面がある。
この情報活動(諜報)、素人では中々出来ない代物で、案の定と言うか、実は雑賀(さいが)の鈴木家が二代将軍・秀忠の命を受け、この企みに主導的に噛んでいる。

幕藩体制が確立してからは、諸大名は幕府の情報活動(諜報)には特に神経を使った。

当然ながら、藩の失態が幕府に知れたら、取り潰しなどの存続の危機に陥る。
如何なる難癖を付けられないとも限らないから、密かに入国する公儀隠密(お庭番)との暗闘は続いていたのだ。

制度上私兵を保有する大名諸侯の動静監視は、徳川幕府の政権維持には欠かせない戦略である。
推測するに、この「大日本史」編纂名目、各藩諸侯(諸大名)には「良く考えられた」厄介な入国の口実である。

公儀隠密(お庭番)などが身分詐称で入国したのであれば、露見次第で闇から闇に葬る事も可能だが、幕府「将軍補佐職」の水戸家から「大日本史」の現地調査として正式に堂々と乗り込んで来られては入国を拒めず、余程の事が証明出来ないと、行動の制約も出来ないのが狙い目である。

つまりは、幕府にとって非常に効果的な各藩諸侯(諸大名)の制御・けん制策だった。

以前序章で述べた様に、古(いにしえ)の昔より犬神は修験であり、犬は由緒正しく官憲を現す俗語である。
従って幕府隠密を、当時「幕府の犬」と呼んだ。

現代人は、簡単に「侮蔑(ぶべつ)した言葉」と誤解している様だが、他の動物と違い、当時の「犬」には畏怖の念があった事を付け加えておく。
水戸藩の「大日本史」編纂の為の現地調査も、各藩諸侯(諸大名)から見れば充分に幕府の犬だったのである。


大日本史編纂には隠された真実があった。
水戸光圀の大日本史編纂には、「影の目的があった」のだが、この疑い、果たして世間が言うように「有り得ない事」なのだろうか?

それは、編纂の為の現地調査を名目とした諸国大名家監視体制だった。
活躍したのは、雑賀党当主・鈴木孫三郎重朝(しげとも)と雑賀衆の一団だったのである。

この意表を突いた諸大名制御・けん制策、誰かの用意周到な知略の賜物で、段取りも時間も念が入っている。

徳川家康の十一男・徳川頼房が常陸国(茨城県)に入り、水戸藩として御三家としての水戸家が成立したのだが、実はこの水戸藩、表向きの理由以外に徳川家康の意向に拠り当初から容易ならぬ密命を帯びて設置されていた。

水戸藩は将軍の補佐(副将軍と言う官職は無い)を務める事を任とし、江戸定府(参勤交代なしの江戸在住)で在った。
しかし実務は老中・大老などが仕切るので水戸徳川家の「将軍補佐」と言うその権限や役割は、何をするものか明確ではない。

「大日本史」は、徳川頼房(正三位権中納言)の三男、従三位中納言・徳川光圀(みつくに) によって編纂された歴史書である。
神武天皇より後小松天皇まで紀伝体によって述べ、本紀・列伝・志・表からなっている。

歴代皇位から神功(じんぐう)皇后を除き、弘文天皇を加えた他、南朝を正統とした点が「大日本史」の特色で、この編纂作業は、実に明治の中頃まで続いて居る。


水戸家に於ける雑賀の立場は、並の家臣ではない。

雑賀鉄砲衆の鉄砲頭として孫市の兄弟とも子ともいわれる鈴木孫三郎重朝(しげとも)は、千六百六年になって徳川家康に召抱えられて徳川氏に仕え、後に二代将軍・秀忠の命により、家康の末子・頼房に附属されて水戸藩に移り、水戸藩士・鈴木家となる。

鈴木孫三郎重朝(しげとも)は、幼名を鈴木一蔵と言い、重康の名をさずかった「松平元康(徳川家康)の庶長子ではないか?」と噂される人物である。

但しこの鈴木(一蔵)重康の父・松平元康は双子の隠し子の方で、織田家の人質になった時に織田信長の傅役(お守り役)・平手政秀の手元で信長とは竹馬の友として処遇され、その後、一時元康は平手家の養子と成って河内源氏流新田氏・世良田・得川(徳川)氏系庶流平手家を名乗る家格を得ている。

その隠し長子として生まれた平手(松平)一蔵は、三河鈴木家から依頼を受けた雑賀孫市に育てられ、雑賀党の棟梁に成っていたのである。
この噂が本当なら、「家康の庶長子と知っての水戸家入り」と言う事になる。

水戸藩士・鈴木家は、主家である水戸徳川家から養子を迎えてい居る。

重朝の子の代・重次の時に、神君・家康の落胤・鈴木孫三郎重朝(鈴木一蔵)の家系が四代目に女児ばかりだったのを契機に、後継ぎとして主君・徳川頼房と側室寿光院(藤原氏)の子(光圀とは腹違いの兄弟)を養子に迎えて「鈴木重義」と名乗らせ、「大日本史」編纂作業の始まる頃には、完全に正式な水戸藩親族系家臣の家と成っている。


ここにもう一つ、水戸徳川家には雑賀鈴木家絡みの疑惑が在る。
正式記録では、松平頼重(まつだいらよりしげ)はご存知二代水戸徳川家藩主・水戸黄門(徳川光圀)の同母兄で、初代水戸徳川家藩主・徳川頼房(徳川家康十一男)の「長男」と言う事に成っている。

あくまでも水戸家家臣・三木之次の孫・三木之幹が主に成って千七百一年(元禄十四年)に編纂された「桃源遺事」を信じればであるが、頼重(よりしげ)の母は、家臣・谷重則の娘・久子である。
頼重(よりしげ)出生の経緯は大藩の当主の長子としては妙にややこしい。

松平頼重(まつだいらよりしげ)は水戸城下柵町(茨城県水戸市宮町)の家臣・三木之次(仁兵衛)屋敷で生まれた事に成っている。

母の久子は奥付きの老女の娘で頼房の寵を得て懐妊するが、頼重(よりしげ)出生の時点でまだ正室を持ってはいなかった徳川頼房が側室であるお勝(円理院、佐々木氏の娘)の機嫌を損ねた為に頼房は三木之次夫妻に対して久子の堕胎を命じた。

だが、奥付老女として仕えていた三木之次の妻・武佐が頼房の准母であるお梶の方(お勝、英勝院)と相談し、「主命に背いて密かに自邸で出産させた」としている。

同母弟の二代水戸徳川家藩主・水戸黄門(徳川光圀)についても同様の経緯があり、長男・松平頼重(まつだいらよりしげ)と三男・徳川光圀(とくがわみつくに)は幼少期の数年をそれぞれ三木竹丸(頼重)、三木長丸(光圀)を名乗って水戸城下で隠し育てられた事に成っている。

ここからがこの水戸家の物語のいかにも筋書きがあるような奇妙な点でもある。

主命に背いて密かに出産させた頼重(よりしげ)と光圀(みつくに)の存在が明らかに成ると、すぐさま水戸城に入城を許し、翌年には頼房の付家老・中山信吉(備前守)が水戸へ下向して世子を光圀(みつくに)と決定、光圀は江戸小石川藩邸に入り世子教育を受け始めている。

世子内定の翌年になると光圀(みつくに)は英勝院に伴われて江戸城で将軍・家光に拝謁、二年後の千六百三十六年(寛永十三年)には元服し、この時に将軍・家光から与えられた偏諱が「光圀(みつくに)」である。

長子の頼重(よりしげ)が水戸藩を継承する事が出来なかった理由は何故だろうか?
思い当たるのが、頼重(よりしげ)の「重(しげ)」の文字である。

「重(しげ)」の文字は、代々雑賀鈴木家が用いて来た文字で、源義経の郎党・鈴木重家(すずきしげいえ)や戦国期〜安土桃山期に活躍した雑賀党・鈴木重意(しげおき/雑賀孫市)、そして徳川家康の庶長子と噂が高い鈴木(一蔵)重康(すずき(いちぞう)しげやす)も「重(しげ)」の文字を用いている。

そこで憶測される事だが、頼重(よりしげ)が家康の隠し庶長子である鈴木重康(すずきしげやす)の継子であり、光圀(みつくに)の頼房世子認定のドサクサに紛れて頼房の子として水戸城に入城させ、その後に「一族として処遇する道を作ったのではないか」と言う疑惑である。

何しろ、それを疑わせるほど水戸徳川家は雑賀鈴木家と余りにも深い縁が在るのだ。

松平頼重(まつだいらよりしげ)は、常陸下館五万石を経て四国の要地である讃岐高松で十二万石を与えられ高松藩々主となる処遇を受けている。

その後ややこしい事に、何故か頼重(よりしげ)実子の徳川綱方と徳川綱條が光圀の養子となり御三家水戸藩の家督を綱條が継ぎ、また高松藩の家督を光圀(みつくに)の実子・松平頼常を養子に迎えて継がせる養子交換をしている。

この養子交換を、光圀(みつくに)が「長子の頼重(よりしげ)を差し置いて家督を継いだ後悔からだ」と言うが、他に隠された理由が在ったのでは無いだろうか?


水戸藩親族の鈴木家の方は、後に雑賀家を名乗り水戸藩の重臣として幕末まで続いた。

つまり水戸藩鈴木家(雑賀)は、光圀の「大日本史」編纂事業の裏表に深く関わって不思議は無く、隠密系の武門の家である事から返ってこの符合が納得出来るひとつの方向を暗示していたのである。

水戸藩鈴木家は後に名字を雑賀と改め、代々の当主は「孫市を通称とした」と言う。
徳川家一門の並々ならぬ支援を受け、あの影人の大名跡「雑賀孫市」を晴れて復活させてのだから裏に何か在ったと考えても不思議は無い。

水戸雑賀(鈴木)家は、表向き水戸藩砲術指南役として天下に名声を博し、けして闇の存在ではないが、実は江戸幕府二百五十年の体制維持に大きく貢献した。
つまり水戸雑賀(鈴木)家は、言わば「幕府系隠密」と言う別の顔を密かに持っていたのである。

この水戸徳川家と雑賀鈴木家の重い経緯に加え、御三家とは言え、水戸三十五万石(実質二十六万石とも言われる)の一藩が手掛けるには余りにも大事業の「大日本史」の編纂とくれば、その目的に表向き以外の幕府公認の「何かが隠されている」と考えざるを得ない。

架空(フィクション)の物語「水戸黄門漫遊記」であるが、忍びの術者が暗躍した部分は、案外本当かも知れないのである。
それにしてもこの「大日本史」の尊王思想が、遥か二百数十年後、明治維新の尊王派(勤皇の志士)に少なからぬ影響を与える所が、歴史の面白い所である。

江戸幕府において水戸藩主は御三家の内、唯一江戸定府(常駐)の将軍補佐役(注、副将軍と言う役職は正式には無い)と言う特殊な立場である。
そして幕府・幕閣に於いては老中職(特設・大老職有り)などの協議を将軍が裁可するので、水戸藩主・江戸定府(常駐)の職務上の真の役割が判らない。

しかも「近代兵器である鉄砲・大砲の扱いと諜報能力に優れていた」とする雑賀党を召抱えの上、更に藩主の異母弟を婿に入れて雑賀党の統領に据えている。

ヒヨットすると公には出来ないが、水戸藩主は幕府の影の部分を受け持ち、大日本史編纂の為の水戸藩・歴史調査使(役)と称する派遣要員は、日本版CIA、KGB・・「裏陰陽寮の再現」の大名領内派遣の口実なのかも知れない。

余談で根拠は無いが、仮に講釈師の作り話の佐々木助(介)三郎のモデルが、鈴木介三郎重義(すけさぶろうしげよし)だとしたら、痛快な話である。

もっとも、モデルとされる人物は他に存在する。
水戸黄門万遊記に登場する「挌さん」は、安積澹泊(あさかたんぱく・通称、覚兵衛)と言う祖父の代から水戸家に仕える「水戸藩の学者がモデル」と言われている。

祖父・正信の時初代藩主徳川頼房に仕え、水戸藩士の家と成る。
父・貞吉は儒学を好み、詩文を得意とした学者の家である。

安積覚兵衛は朱舜水に師事。大番組、小納戸役と進み、彰考館編修、元禄六年には、彰考館総裁に任ぜられ、藩主・徳川光圀を助けて「大日本史の編纂」に主導的役割を果たした。

同じく「助さん」は佐々 宗淳(さっさむねあつ・通称、介三郎)と言う「徳川光圀の側近がモデル」と言われている。
京都の臨済宗妙心寺の僧侶だったが、還俗して水戸藩に仕える。
光圀の下(もと)で彰考館に加わり、「大日本史の編纂」に携わっている。

戦国武将佐々成政の実姉の末裔(曾孫)であり、その縁から佐々姓を名乗っていた。
双方とも大日本史編纂には重要な役割を果たしたが、光圀側近で「光圀と諸国を旅した」と言う事実は無い。



五代将軍徳川綱吉の治世時の天皇は、第百十二代天皇・霊元天皇(れいげんてんのう)で、皇室再興と独自の政策展開を目指した為に幕府と距離をとる事が多く、本来の序列を無視して関白に腹心である右大臣の一条冬経(兼輝)を越任させる離れ業を行っている。

霊元天皇(れいげんてんのう)は野心家だったが天皇家には武力が無く、時の将軍・徳川綱吉は朝廷尊重を掲げて御料(皇室領)を一万石から三万石に増額し献上し、公家達の所領についても概ね綱吉時代に倍増していた為、霊元天皇(れいげんてんのう)と将軍・徳川綱吉とは当初比較的安定した朝幕関係を構築していた。

所が、霊元天皇(れいげんてんのう)が皇位を譲って院政を始め「仙洞様」と呼ばれるようになる頃、将軍・徳川綱吉はその治世の後半、「生類哀れみの令」など後世に悪政と言われる政治を次々と行うようになって仙洞様の朝廷側も幕府の将来を案ずるようになる。

院(仙洞様)は、譲位した帝(東山天皇)に対して「何か策を講じよ」と命ずる。

国中に不満が溢(あふれ)れていた。

元禄大地震(げんろくだいじしん)、宝永大地震(ほうえいだいじしん)、富士山宝永の・大噴火と、度重なる天変地異の恐れをなした将軍・綱吉が、生類憐れみの令を始めとする後世に「悪政」と言われる政治を次々と行い、誰の目にも徳川政権が心もとなく成っていた。

有る日の事、政務所と内裏の間に在る隠し部屋で、帝(東山天皇)と幸子皇后父の有栖川宮幸仁親王がこんな会話を交わしていた。

「さて、院(仙洞様)に申し付けられて困っておじゃる。どこぞの方に徳川はんと代わって貰うにしても血がぎょうさん流れますなぁ。」
「お上(東山天皇)の仰せの通りでおじゃります。」

「戦がまずぃなら、たれぞを徳川はんに押し込んでたもれ。」
「ほな、七代生母の月光院(げっこういん)を通じて紀州の里者がお上のおぼしめしに適いましょう。」


紀伊半島の、山深い里で修行を積んでいた由利を、お頭が呼び出した。
由利が数え歳で「十七歳に成ろうか」と言う春先の事で、お頭が、里一番の美形を誇る由利に白羽の矢を立てたのである。

「すると、わたくしに紀州(徳川光貞)様のお子を為せと仰(おっしゃ)るのですか?」
「如何にも。既に手筈は整えておる。」
「我一族は、紀州様に仕官のお望みでもあるのですか?」

「いや、然(さ)るお方のたってのご所望でな、このお役目はお由利を持って他に代え難しじゃ。」
「然(さ)るお方様とは・・・」
「この事他言無用ぞ。七代将軍家御生母・月光院(げっこういん)様じゃ」

「良くお頭のお話に出てくる勝田の喜世(月光院)様の仰(おお)せでしたか。」
由利にも、浪々の加賀前田藩士をこの里で一時世話した話は聞いていた。何しろその浪人の娘が将軍家の生母に成ったのだから、お頭も里人も鼻が高い。

六代将軍徳川家宣の側室から七代将軍徳川家継の生母に成った月光院の実父は、元加賀藩士(前田家浪人)で浅草唯念寺の住職・勝田玄哲(かつたげんてつ)と言い、五摂家のひとつ近衛家の関白・近衛 基熙(このえ もとひろ)の姫から嫁いで来た第六代将軍正室の天英院とは出自の格が違った。

生まれは天英院の方が上だが、月光院は将軍生母である。
本人達にさほどその気が無くとも、江戸城の内(大奥)も外(表御殿)も「利用しょう」と言う周囲の者が放っては置かない。
天英院と月光院は、「大奥の主導権を握ろう」と確執する。

「お頭の下知なれば、月光院のご所望に由利も従いまする。」
「それがな、言って置くが天英院様の兄・近衛家熙(このえいえひろ)様からも同様のお話がわしに有ってな。」
「何と、わたしには偉い方々の事は判りませんが、確か天英院と月光院は仲がお悪いのでは?」

「皆思いは同じじゃ。将軍家乱れるは戦乱を招く故、後白河天子様の御世の源義経様の古事に習って然るべき方をお育てしたいと言う目論みじゃで、このお役目心してな。」
「されど、為したるわ子が将軍家を継がれるとは限りませんが・・・・」

「心配無用じゃ。多くの者がこの企てに加担しておる。手筈は全て整っている。」
「判りました。光貞様のお子を為しますが、如何にしてお近くに寄りましょうや?」

「案ずるな、湯殿でお仕えするように段取りは着いておる。後はお由利のその美形が役に立つわ。何より湯殿なれば、光貞様とも互いに裸の仕儀故、話は早いわ。精々勤めてくれい。」
「そこまで皆様の御手配が・・・承知いたしました。」


徳川家の将軍の中でも、「暴れん坊将軍」と言うテレビドラマまで出来て、水戸黄門と双璧の人気を誇るのが、徳川八代将軍・徳川吉宗である。

徳川吉宗は、「享保の改革(今で言う政治の構造改革)」を行なった人物で、幕府の構造改革に唯一成功した将軍である。

興味深いのは徳川幕府で始めて「宗家」の伝統が途切れた将軍と言う事で、つまり、それまでは二代将軍で在った秀忠の息子の血統が代々将軍職を勤めてい所、その血筋が途絶え、御三家の中から後釜を据える事になった事である。

しかしこの代変わり、吉宗が並みのお坊ちゃん将軍でない庶民派育ちであった所に、改革成功の秘密がある。


紀州藩主・徳川光貞は、湯殿に控えていた女中(湯殿番)に興味を持った。
上半身裸で乳房は露(あらわ)、下半身は湯文字(腰巻)一枚が湯殿に仕える女中の姿で有るが、見ると飛び抜けて美形だった。
湯殿で、女中(湯殿番)が光貞の身体を清めるのは別に変わった事ではない。

歳の頃十七〜八の、一見純朴そうなその女中(湯殿番)は、恐る恐る光貞に手を伸ばし、背中から垢を落し始めた。
光貞は、「ハッ」とした。
その、背中を擦(こす)る手が意外と力強く、気持ちが良かったのだ。

「そちの名は、何と申す?」
思わず、光貞は女中の名を問うた。本来なら、藩主が湯殿で女中(湯殿番)の名を問うなど先例が無い。
「恐れながら、於由利と申します。」

そそと裸身をにじり、光貞の背中から左腕に清める場所を移動しながら、恥じらいを浮かべてその美形の女中が答えた。
光貞は「於由利か・・・」と、独り言のようにその名を反復すると、そのまま黙り込んだ。

黙って身を委ねていた光貞は、ハッとした。
普段の女中(湯殿番)なら腕から胸と清め進んで、股間も糸瓜(へちま)か布で遠慮勝ちに清めるのだが、そのお由利と名乗る女中は、両手で包み込むように光貞の一物(いちもつ)を握って扱(しご)き始めたのだ。

一瞬、「この娘、作法を知らないのか、思惑有っての仕儀か。」と光貞はいぶかったが、それは刺激に圧し潰されていた。
柔らかい於由利の手で扱(しご)かれた光貞の男の物は、力をみなぎらせて不覚にも臨戦大勢に入っていたのだ。

光貞は於由利の手を掴んで立ち上がらせ、「予の情けを受けよ」と命じ、有無を言わさず湯船の縁(へり)に両手を着かせた。
観念したようにジッとしている於由利の湯文字を捲り下げると、白い尻肉が踊り出て、尚更光貞の欲情を高まらせる。

後ろから於由利に入って行ったが、於由利は光貞に身を任せて、為すがままだった。
光貞としても寝所以外での戯れは刺激的だった。
大いに満足して、光貞は於由利を愛妾に加える事にした。

やがて、於由利と言うその愛妾が目論見通りに男児を身ごもり、千六百八十四年(貞享元年)紀州吹上の若山吹上屋敷(御誕生長屋)にて出産する。

男児は源六(吉宗・幼名)と名付けられ、生まれると直ぐに 刺田比古神社(岡の宮)の神主の手を経て家臣である加納(五郎左衛門)久通の屋敷へ送り届けられ、この屋敷で五歳まで育てられた。
つまり幼年期の源六(吉宗)は家老の元で育てられ、城内では育っていない。

新之助、頼方と名前を変えた「源六(当時は新之助と呼ばれていた)」は、十四歳の時(千六百九十七年・元禄十年)に、将軍・綱吉(五代将軍)に越前国(福井県)丹生三万石を与えられ、和歌山城に引き取られ部屋住みのまま紀州支藩・葛野藩(丹生松平藩)藩主と成って松平頼方を名乗る。

二代藩主父・光貞が隠居し、家督を長兄・徳川綱教(紀州藩第三代藩主)継いだ頃から、何か、闇の大きな力が働いていた。
千七百五年(宝永二年)長兄・徳川綱教(紀州藩第三代藩主)が僅か八年の治政で急死する。

次兄の徳川頼職(紀州藩第四代藩主)が急遽後を継ぐのだが、同年(宝永二年)のうちに隠居していた父・光貞、やがて頼職までが半年のうち(百日足らず)に病死した。

その不幸続きの為に、紀州和歌山城に在って部屋住み庶子の四男坊、葛野藩のお情け不在藩主だった松平頼方(吉宗)は二十二歳で紀州藩第五代藩主に就任する。

松平頼方は、藩主就任時に五代将軍・徳川綱吉から一字を貰い、名を吉宗と改めて徳川吉宗を名乗り、朝廷より左近衛権中将に任じられて従三位に叙せられる。

吉宗は翌年(千七百六年・宝永三年)には二品親王・伏見宮貞到親王の王女・理子(真宮理子姫)を正室として迎えている。
それにしても、紀州藩主・徳川綱教(三代藩主)が亡く成ると前藩主・光貞(二代藩主)、頼職(四代藩主)が「相次いで亡く成る」と言うのは如何にも不自然な謎である。

徳川吉宗が紀州藩主に就任すると、今度は徳川本家で代替わりが始まる。
千七百九年(宝永六年)五代将軍・徳川綱吉が六十四歳で亡く成り、六代将軍・家宣が宣下を受ける。

五代・綱吉の後を継いだ六代将軍・家宣が将軍就任僅か三年目の千七百十二年(正徳二年)に死去し、嫡子・家継が七代将軍を継ぐ。
所が、その僅か四年後の千七百十六年(正徳六年)その七代将軍・家継が八歳の幼さで病死する。

吉宗三十三歳の時、徳川将軍家の血筋途絶えたのを期に、吉宗は将軍候補に浮上八代将軍推挙の話が廻って来る。
そしてその頃、ライバル尾張藩では五代藩主徳川五郎太(幼名)が三歳にして家督を相続したものの、間もなく突然死で亡く成り、毒殺説が囁かれたりした。

尾張藩・五代藩主徳川五郎太の後を、徳川継友(尾張藩・五代藩主)が継いで将軍ライバル候補に浮上していたが、第六代将軍・徳川家宣の正室・天英院(熙子)の最終的な判断で幕閣合議の上、紀州藩主・徳川吉宗が徳川将軍家(本家)を継ぐ事になったのである。

この経緯が「唯の運命だ」とすれば、吉宗は驚異的な強運の持ち主である。
この時代、藩主や将軍が次々に死ぬのは珍しい事では無いのかも知れないが、それにしても吉宗の将軍就任に取って邪魔な存在が余りにも都合良く亡く成っている。

そこで吉宗の改革の成果裏に、「何かあるのではないか?」と推測出来るのである。

吉宗は、紀州藩士の内から名も無い軽輩者をばかり二十数名(加納久通・有馬氏倫ら)選び、側役として従えただけで江戸城に入城した。

この軽輩紀州藩士とされる側役達が吉宗改革の手足として活躍するのだが、余所者が突然やって来て既得権益でガチガチに固まっていた幕府体制を洗い出して改革するには、軽輩者の側役が実は表面に出ない「相応の諜報能力を備えていた」と言う推測が成り立つのである。

この筋書きを描いたのは、並大抵の者ではない。
相応の地位を持ち、闇の力を動かす人物であるのは想像に硬くない。
この物語を最初からお読みの方にはお判りだが、徳川家康が漢方薬に優れていたのは、松平家(徳川)が代々賀茂流(陰陽師)の血筋である事を物語っている。

恐らく家臣の加納家も加茂郷の出であるから、賀茂流(陰陽師)の血筋である可能性が高い。

吉宗の傅役(おもりやく)加納(五郎左衛門)久通は、賀茂流・松平氏(徳川氏)の影人ではないだろうか?
そして恐れ多くも、朝廷からの何らかの働きかけで動いていた可能性がある。

吉宗幼年時の「源六」が育てられた加納氏は、三河国加茂郡加納村出身である。

加納久直の時に徳川氏に仕えて代々紀州藩に属し、孫の加納(五郎左衛門)久通の代に「源六(後の徳川吉宗)」の傅役(おもりやく)と成り、主君「源六(後の徳川吉宗)」の出世に伴って久通も出世をする。

加納(五郎左衛門)久通は、紀州藩主・徳川吉宗の将軍就任に従って江戸城に入り、伊勢国内で領地千石の直参旗本、翌年下総国相馬郡内で千石加増され計二千石となる。

千七百二十六年 (享保十一年)に伊勢国内と上野国内で八千石を与えられ、伊勢八田で合計一万石を領する江戸定府(参勤交代を行なわない)の陣屋大名(城を持たない小大名)に出世する。

加納(五郎左衛門)久通は、千七百四十五年(延享二年)の吉宗隠居の際に若年寄に任じられている。


見る角度を変えておさらいをする。
吉宗は、徳川御三家の紀州藩第二代藩主・徳川光貞の四男として、側室・於由利の方との間に生まれる。

母は巨勢六左衛門利清の娘・浄円院(於由利の方)である。母の実家は、紀州の地主で、古代の名族・巨勢(こせ)氏の末裔を称する素封家であった。

巨勢(こせ)氏は、大和国高市郡巨勢郷を本拠とした古代豪族・巨勢臣(飛鳥時代の有力氏族)で、許勢、居勢とも書く。
天智天皇御崩御の後起こった「壬申の乱」で大友皇子側に付き、大海人皇子に敗れ、乱後、刑死するまでは朝廷に大きな勢力を持つ名家だった。

しかし、この吉宗の生母・於由利の方は、巨勢(こせ)氏の出自に疑問がある。
何よりも不思議なのは、江戸幕府安定期の将軍生母でありながら、その於由利の方の墓が何処にも存在しないからである。

墓が存在しない事から推測されるのは、「巨勢六左衛門利清の娘」は、世間体の為の「便宜上の親子関係ではなかったのか?」と言う疑問である。
なぜなら、実家の巨勢(こせ)氏は、紀州の大地主で、立派な墓の一つも作れない訳は無い。

ましてや、紀州藩が墓を作らないのはそれこそ罰当たりのはずである。
それが無い所に、将軍生母として「何か秘すべき物があった」と考えざるを得ない。

現実には、紀州藩主の母・側室の実家としては、身分が違い過ぎた(百姓の娘であった。流浪者の連れた娘だった。)とも言われる。
和歌山城の大奥の湯殿番であった於由利の方は、徳川光貞の目に止まり、「湯殿に於いて手がついた」と言う伝説は有名である。

母の身分に問題があった為か、幼年は家老の元で育てられ、やがて城中へ引き取られたが、その後も部屋住みの身分だった。
この境遇が、後の名将軍の「素養を育てた」と庶民が認め、この辺りが、吉宗将軍庶民派育ちの大衆人気の一つではある。


これには最初から大きな影の力が働いている。

加納(五郎左衛門)久通の屋敷から家老に預けられた新之助(吉宗)には、城に引き取られるまでの幼年期の九年間(五歳から十四歳まで)、傅役(おもりやく)加納(五郎左衛門)久通を初め、まるで一挙手一投足をも見逃さない影の教育係が付き纏(まと)っていた。

新之助(吉宗)が彼らに教えられたのは、正統派の帝王学である。

当時誰もが無条件で納得出来るのは「血統」で、由利が紀州藩主・徳川光貞の種を宿す所から周到綿密に練られた計画は実行され、着々と邪魔者が消され、吉宗が将軍に上り詰めた後の治世方法まで若き日々より伝授していた。

それで無ければ、部屋住みとは言え将軍家に繋がる若君(新之助)は甘やかされて育つ筈で、若君(新之助)が名君足り得るのは難しい事である。

この部屋住みの四男坊が、「運命の悪戯(いたずら)」とも言うべき強運(幸運?)の連続(本人に幸運だったかは判らないが)で、「わらしべ長者」のごとく、紀州支藩・葛野藩(丹生松平藩)藩主から御三家・紀州藩徳川家、徳川本家・徳川将軍家と周囲から次々に上位の立場に押し上げられて行く。


吉宗十四歳の時、徳川綱吉(五代将軍)より越前国(福井県)丹生三万石の藩主(葛野藩主・松平を名乗る)を賜り、そのままでは小藩主で終わる運命だった。

所が、父・光貞と兄二人の死後、紀州本家に呼び戻されて(と言っても現実には紀州在住で、越前には赴任しては居ない)紀州藩主を継いだ。

紀州藩主と成った吉宗は、表には出ない影人の協力の下で既存利権勢力を排除しながら大胆な藩政改革に乗り出す。
この辺り、現在のどこぞの国でも最も必要な事であるが、トップが既存利権勢力側ではいかんともし難い。

吉宗は紀州藩主時代の十一年間を藩財政の再建に努め、苦労の末に大成果を挙げて藩の財政を立て直した。



吉宗をスペアーとして分家温存した徳川綱吉(五代将軍)は、三代将軍家光の四男として生まれたが、分家して上野国館林藩主(所領は二十五万石)として松平姓を名乗っていた。

兄・家綱(五代将軍)に世嗣の子供が無かったので、家綱が四十歳で死去すると、綱吉は将軍宣下を受け五代将軍となる。
綱吉が、吉宗十四歳の時に越前国(福井県)丹生三万石の藩主に据えた理由は、自らのスペアーとしての将軍への経緯経験が有ったからではないだろうか?

少し前の時代に遡るが、この五代将軍徳川綱吉の治世に徳川幕府としては最大の好景気時代・元禄を迎えている。
しかし未曾有の好景気は、後の時代の浪費や不正を育てる温床でもある。
その浪費や不正は、綱吉以後の幕府財政悪化に成って現れ、新井白石の「正徳の治」の失敗を招いている。

何故なら、「朱子学(儒教)」は己を律する抑制的な教えであるが、言わば建前で、本音を別に持った人間は利害を突き詰めると「本音で行動するから」である。

第五代将軍徳川綱吉(とくがわつなよし)の治世の前半は、基本的には善政として「天和の治」と称えられている。
しかし治世の後半は、悪名高い「生類憐みの令」など、迷信深い悪政を次々と敷き、「犬公方(いぬくぼう)」綱吉に対する後世の評判は悪い。

実は、第五代将軍徳川綱吉は、天変地異に見舞われた不運の将軍である。

千七百三年(元禄年間)に、突如、相模国から関八州(江戸府内/関東域)に掛けて大地震に襲われ、甚大な被害を出している。
この関東地方を襲った大地震は、「元禄大地震」と呼ばれ、マグニチュードは八・一と推定推定される大地震だった。

元禄大地震(げんろくだいじしん)は、後の、千九百二十三年(大正十二年)に発生した「関東大震災とは同型である」と解明されている。
甚大な被害を出したこの大地震で、元禄の好景気に沸いていた江戸府内周辺は、陰りを見せ始める。

所が、一度の大地震でも大変な事なのに、徳川綱吉の不運は元禄大地震(げんろくだいじしん)だけでは終らなかった。
僅か三年後の千七百七年(宝永年間)、今度は東海道が我が国最大級の大地震「宝永大地震」に見舞われる。

宝永大地震は、現代に大警戒されている関東・東海・南海・東南海連動型地震で、遠州灘・紀州灘でマグニチュード八・四の「史上最大」と言われる巨大地震だった。

そして、だめ押しするように宝永大地震から四十五日目、今度は活火山・富士山の「宝永の大噴火」が始まり、山腹に宝永山と火口が出現した。
「宝永の大噴火」は、数日間江戸の街を薄暗く覆い、「市民の人心をも震撼せしめた」と伝えられている。

犬は神の使い(狼=大神)であり、確かに「生類憐みの令」は悪法だが、将軍在位中に次々と天変地異に見舞われれば、「何かの因果か?」と、徳川綱吉が迷信深くなるのも頷ける話しでは在る。

勿論、この時代の日本に「地殻変動」などと言う地勢学の概念などないから、「神がお怒りに成っている」と、綱吉が不吉がっても無理は無い。

関東・東海・南海・東南海連動型地震は、今でこそ百年〜百五十年周期で連動発生する事で知られているが、元禄・宝永の江戸期に生きた第五代将軍・綱吉には「何かに祟(たた)られている」としか考えられなかったのである。

話を判り易くする為に、将軍・綱吉を襲った治世上の不幸(天災)を考慮せず、理不尽な法律で庶民を苦しめた事だけ後の世に描かれる不幸な将軍でもある。

第五代将軍徳川綱吉の代に側用人から老中格側用人、大老格(左近衛権少将)側用人として権勢を振るった柳沢 吉保(やなぎさわ よしやす)は、上野国館林藩士・柳沢安忠の長男として生まれている。

当初、館林藩主をつとめていた綱吉に小姓として仕え寵愛を受け、藩主・徳川綱吉が第五代将軍となるに随って当時柳沢保明(やなぎさわやすあき)を名乗っていた吉保(よしやす)も幕臣となり小納戸役に任ぜられる。

この綱吉の柳沢保明(やなぎさわやすあき)の寵愛振りから、当時の慣習に拠る近習(稚児小姓)の男色(衆道)関係も疑える。

綱吉の寵愛により柳沢保明(やなぎさわやすあき)は、頻繁に加増され千六百八十八年、大老に拠る合議制から将軍親政をもくろむ綱吉に引き立てられて、新設された側用人に就任し禄高も一万二千石と加増されて大名に昇る。

二年後に二万石加増して三万二千石、その四年後には四万石加増されて七万二千石・老中格の武蔵国・川越藩主(埼玉県川越市)となる。

その後柳沢吉保(やなぎさわよしやす)は、綱吉の諱の一字を与えられ、それまで名乗っていた柳沢保明(やすあき)から柳沢吉保(やなぎさわよしやす)と名乗っている。

俗説によれば、側室の染子はかつて綱吉の愛妾であり綱吉から吉保にお下げ渡しされた「拝領妻である」とも、懐妊した側室・染子を護る為に柳沢吉保が「母子の身柄を預かった」とも言われている。

事の真相は定かではないが、柳沢家が異例の松平の姓を綱吉から許され、柳沢家を「連枝(将軍家血筋)の待遇」とした為に、柳沢家の家督を譲った長男の柳沢吉里(やなぎさわよしさと)は「綱吉の隠し子である」とも言われている。

染子が吉保の側室になってからも息子・柳沢吉里(やなぎさわよしさと)の顔を見に柳沢私邸を訪れる将軍・綱吉は、側室・染子を「綱吉の寝所に召される事が多かった」とされている。

綱吉と吉保(よしやす)が男色(衆道)関係であれば、一人の女性(にょしょう)を共有しても然したる抵抗は無いかも知れない。

その側室・染子の閨房(けいぼう/性行為)での睦言が、将軍・綱吉を側用人柳沢吉保(やなぎさわよしやす)が「操っていた」とされ問題に成る。

その為に将軍が大奥に泊まる際には、同衾する女性とは別に大奥の女性を二名、「御添い寝」として将軍の寝所に泊まらせて寝ずの番をさせ、その夜に何が起こったのかを「尽く報告させる事とした」と伝えられている。

この「御添い寝」は、明治維新で「江戸幕府が滅亡するまで続けられた」と言う。


徳川綱吉は、ちょうど徳川光圀とほぼ同時代を生きた将軍で、治世中に有名な忠臣蔵(元禄・赤穂事件)が発生し、「片手落ちの裁可を下した」と批判された。

ご存知赤穂義士の討ち入りの顛末は、毎年の様に十二月十四日前後にテレビ放映されるので経緯及び詳細は割愛する。

大まかに言うと、高家筆頭・三州(三河国)・吉良家の吉良上野介(きらこうずけのすけ)義央(よしひさ)と播州(播磨国)赤穂・浅野家の浅野長矩(あさのながのり)の間で、儀典の指導に関して浅野長矩との間に確執を生じ、江戸城内で刃傷(にんじょう)に及んだ事件が発端である。

吉良家は名門清和源氏足利氏の末裔であり、鎌倉幕府の有力御家人から南北朝並立時代は北朝・足利方に在って室町期は小領主ながら足利将軍家の近臣として仕えて生き延び、戦国期は同門でもある今川氏や同じ三河の松平氏に翻弄され盛衰を繰り返しながら江戸期を迎える。

千五百九十二年(天正二十年)、格式高きを持って徳川家康に取り立てられ徳川家旗本に列した吉良氏は、江戸幕府の儀典関係を取り仕切る家として高家筆頭の家格を与えられ、赤穂義士の討ち入り時の当主・上野介(こうずけのすけ)義央(よしひさ)は、三河国吉良庄内三千石の領主だった。

一方の浅野内匠頭(あさのたくみのかみ)長矩(ながのり)は、浅野長政を始祖とする安芸広島藩四十二万石・浅野家の傍流の一つで赤穂・浅野家五万石の藩主だった。

播州(播磨国)・浅野家は、浅野内匠頭(あさのたくみのかみ)の曽祖父・浅野長重(あさのながしげ)は浅野長政の三男でる。

第二代将軍・徳川秀忠の小姓として仕え、家康、秀忠の二代の将軍の信任を得て下野国真岡藩二万石を与えられ、その後父・浅野長政が隠居料として与えられていた常陸真壁藩五万石を相続した後、その嫡男・長直の代に赤穂藩主へ転封されていた。

この吉良上野介義央(きらこうずけのすけよしひさ)と浅野内匠頭長矩(あさのたくみのかみながのり)の刃傷(にんじょう)事件が、ご存知主君仇討ちの美談、赤穂義士四十七名の吉良邸討ち入りに発展したのだ。


年の暮れも押し迫った旧暦の元禄十二月十四日(新暦では翌一月末頃)の雪の降りしきる日、元家老・大石内蔵助良雄以下赤穂義士四十数名(連絡係りなどで討ち入り参加しない者在り)が吉良邸へ討ち入り、吉良上野介義央を討ち果たす。

その吉良の首を泉岳寺の主君・浅野内匠頭長矩の墓前に捧げた後、大目付の下に出頭、口上書を提出し幕府の裁定に委ね、細川越中守、松平隠岐守、毛利甲斐守、水野監物の四大名諸侯の屋敷へお預かりとなり、五十日に及ぶ議論の末に幕命により切腹した。

元禄赤穂事件は「義挙」と称えられている。
しかしながら、正直この美談の吉良邸討ち入りは、我輩に言わせば当時の仇討ち作法としては「武士として尋常な勝負」とは言い難い矛盾を感じる。

「それも兵法の内」と言えばそれまでだが、不意討ちの討ち入りの上に一方は頭巾に兜や鎖帷子(くさりかたびら)を着した戦(いくさ)支度の武装に対して、不意討ちされた吉良方は武器を手取るのに精一杯で、それが死傷者に大差がつく結果となって勝負は着いている。



徳川吉宗は、第七代将軍・家継の死により徳川将軍家の血筋が途絶えると、先々代の六代将軍家宣の正室である天英院に、思っても見なかった将軍職就任を指名される。

表向きは「最も神君に血統が近い」と言う理由だが、紀州藩の財政建て直しの手腕を買われての事だろう。
それほど幕府の財政は逼迫(ひっぱく)していたのである。

吉宗は江戸幕府八代将軍に就任すると、紀州藩主時代の経験を活かし、自ら質素倹約、新田の開発、公事方御定書の制定、目安箱の設置などの「享保の改革」を行った。


権力を掌握するには、「権謀術策」つまり手段を選んでいては中々達成出来ないのは事実である。

徳川吉宗は「わらしべ長者」のごとく、紀州支藩・葛野藩(丹生松平藩)藩主から御三家・紀州藩徳川家、徳川本家・徳川将軍家と出世を重ねる徳川吉宗に、強運だけが有ったとは到底考えがたい。

紀州藩の妾腹の三男坊・徳川吉宗の生母は何故か謎に満ちた存在で、その出自は「作文」と言われて居る。

ここまで読み進めば、ご存知のように紀伊半島随一の大藩・徳川御三家紀州藩はその支配地領域を、古くからの影人達の里領域を重ねて(雑賀)居るか、近接(伊賀)している。

長期政権化して膿が溜まった徳川幕府を、戦乱を避ける形で浄化する為の陰謀工作を、「影人達が企んだ」とすれば、「見事な成功」と言えるのではないだろうか?

証拠は存在しないが、将軍職就任後の「吉宗の治世の成功」を考えれば、出現すべき将軍が出現したように思えるのである。

「天下を掌握する」と言うこの壮大な陰謀が、吉宗の生母が紀州藩主の「妾に収まる以前から始まった」としたら脅威では有るが、それが有り得るのだ。

吉宗の将軍職就任までの経緯を考えれば、父や二人の兄を始めライバルの尾張藩主など、不可解な連続死に拠って吉宗が浮上してきた事は事実である。
そこに、「彼らの仕事ではないか」と疑う影人達の暗躍の可能性が、ジワリと滲んで来るのである。

それであれば徳川吉宗は、強力な闇の手勢を引き連れて、江戸城に入った事になる。
対外的には、将軍交代時の幕閣の混乱を防ぐ為、吉宗は僅かな軽輩を伴って江戸城に乗り込んで来た。

ここの辺りが目の付け所で、吉宗が身一つで将軍に据えられたのであれば、お飾りにされるのが当然である。

所が、一見無力に見えた吉宗は、幕閣重臣のお飾りには成らなかった。
紀州藩(紀州徳川家)から連れて来た既得権益に縁が無い者を公儀隠密探索方(秘密警察)に活用、幕閣の不正を暴き出し構造改革に成功する図式である。

この吉宗配下の紀州以来の公儀隠密探索方存在説は、推測に拠る状況証拠では有るが、既存勢力で固まった幕閣重臣に対抗する為に、吉宗が何らかの「影の力」を持って臨まなければ「改革など出来ない筈」だからである。

現代に於ける各省庁官僚に対しても、この公儀隠密探索方(秘密警察)構想が有って然るべきで、我輩は国会議員の国政調査権の強化と議員配下の議員国政調査官を議員一人に二人位は国費設置しないと、数千人を抱える省庁の牙城に「国会議員は歯が立たない」と思うが、いかがだろうか?

吉宗は、奇跡的な経緯で将軍職に就き、破綻しかけていた幕府財政を見事に再建した事から「江戸幕府中興の祖」と呼ばれる。
また米相場の安定に苦心した事から、米将軍(八木将軍とも呼ばれる)とも言われる。


江戸期に於ける政治改革は、徳川幕府の政権維持の為に、何度もリセット改革をしているので列挙しておくが、政権内部からの改革は、「常に失敗が多い」と言う事実がある事も判る。

最初は朱子学者・新井白石の千七百九年〜十六年の「正徳の治」で、新井白石/新井君美(あらいはくせき/あらいきんみ)は、江戸時代中期の知行千石の旗本で、朱子学、歴史学、地理学、言語学、文学を修めた学者である。

白石の幕閤内での身分は「本丸寄合の無役」で、その進言は一々側用人の間部詮房が取り次いでいた。

朱子学を重んじる「文治主義」が役職者の乱発で失敗し、幕府財政が極端に逼迫(ひっぱく)する。

「文治主義政策」とは官僚に拠る統治運営策で、官僚の権限が増すと同時にその人数が膨大に成る為、「官僚人件費の負担が増大する」と言うまるで近頃どこかで聞いた財政食い尽くしの「天下りシステム」のような状況だった。

これは、学者の新井白石が自分と肌の合う官僚的な思考者を重用して幕政を改革しようとした事が裏目に出たのだ。

何故なら、一度浪費癖の着いた官僚達にその既得権を手放す気が無いのだから、幕府の財政が困窮しても自分達の「利」だけは必死に守る。
まるで現代日本の官僚政治と批判される政治構造と酷似しているではないか?

新井白石がその治世の拠り所とした「朱子学(儒教)」は己を律する抑制的な教えであるが、それは言わば建前で、本音を別に持った人間は利害を突き詰めると「本音で行動する」からで、儒学者としての「学者のべき論」など通用しないのである。

日本人の理念では、政治を司る事を「祭り事(政り事)」と呼び、治世は神に代わって行う神事だった。

世間ではその時代の治世を評して「**治政の光と影」と評するが、日本人の心を映す坪庭の文化では、植栽木々や石組に「間(ま)」を設けて「影を創らない事」が絶妙の匠(たくみ)の技である。

「間(ま)」とは空(くう)を意味し、一見無駄な様だが「間(ま)」が在ってこそ調和が生まれて全体が生きて来る。

元々日本人の優秀な所は、細部まで神経を行き届かせる心配りの「物創りの才能」で、つまり名人の仕事はそうした影を創らず「調和を為す事」でなければならない。
ましてや祭り事(政り事)は尚の事、全体の調和を重んじ影を創っては成らないものである。

所が、片寄った思考の学者や権力者(政治家)が偏重した「祭り事(政り事)」をすれば、その政策仕事は調和に欠け、乱暴に「影ばかり」を創った駄作となる。

こうした「間(ま)」を持たない治世は僅(わず)かな勝ち組には光をあてるが、多くの人々から光を奪った悪政で、言うなれば「間抜けの不始末」と言うのが実態なのである。

勿論、世の中には学問の真髄を追及する学者は大いに必要で、そこから進歩は生まれる。
しかしながら的(まと)を絞って学問を狭義で深く追及して行く学者が、全体のバランスや世間の実態に目もくれず、己の学説だけで政治を行う愚を犯しては政治改革など成功する訳が無いのである。

それでは、「間(ま)」とは何だろうか?
人間の脳の働きは、大別すると左右二つに分かれている。
【左脳】は「意識脳」と呼ばれ、理性や計算を担当して「利」を重んじるのに対して、【右脳】は「無意識脳」と呼ばれて本能や感性に関わる言わば「情」を重んじる活動を担当している。

つまり「間(ま)」とは【右脳・無意識脳域】の本能や感性の領域に存在するもので、理性や計算ばかりで「情」の無い治世は「間抜け」なのである。


「正徳の治」に拠り幕府財政が逼迫(ひっぱく)した為、八代将軍・徳川吉宗による「享保の改革」に移行し、千七百十六年〜四十五年の享保の改革は新田の開発・目安箱・公事方御定書制(幕府の改革新法)などを行い、江戸期で唯一改革が成功する。

八代将軍吉宗による「享保の改革」が唯一成功した訳は、本書で吉宗将軍就任の事の次第の真相を述べている通り、一見内部改革に見える「享保の改革」の改革は、実質的にリーダーとその一派が外部から幕府中枢に乗り込んで来て既得権益を駆逐して初めて成し遂げた革命だった。


千七百六十七年〜八十六年の「田沼意次の政治」では商業の発展に力を入れたが、賄賂をさかんにさせる結果になった。

何やらこの田沼時代、現代のどこぞの政権の「IT企業だの、何とかファンド、偽装に条例違犯、儲けさえすれば手段は構わない」と言う風潮を増長させた「規制緩和」と言う名の「平成の失政に良く似ている」と思うが、いかがか?

田沼意次はその父・田沼意行(おきゆき/もとゆき)と親子に第二に渡っての成り上がりで、最後は老中職まで上り詰めた男である。
父・田沼意行は紀州藩の足軽だったが、第八代将軍の徳川吉宗に登用され六百石の小身旗本となる。

田沼意次(たぬまおきつぐ)は、父・田沼意行(おきゆき/もとゆき)が小身旗本だった為に徳川家重の西丸小姓として抜擢され、その主君・家重の第九代将軍就任に伴って本丸に仕え、余程寵愛されたのか千四百石を加増されて計二千石を領する。

その後三千石を加増されて計五千石の大身旗本に出世、更に美濃国郡上藩の百姓一揆(郡上一揆)の裁定に関わって、御側御用取次から一万石の大名に取り立てられる。

主君・徳川家重は千七百六十一年に死去するが、世子の徳川家治が第十代将軍を継いだ後も田沼意次への信任は厚く、昇進を重ねて五千石の加増を賜って一万五千石、更に御用人から側用人へと出世し従四位下に進み二万石の相良城主、千七百六十九年には老中格の侍従に昇進する。

力を着けた意次は、老中首座である松平武元などと連携して所謂「田沼時代」と言われる幕政改革を推し進め、田沼時代と呼ばれる権勢を握るに到る。

意次はその三年後の千七百七十二年には、相良藩五万七千石の大名に取り立てられ将軍侍従と老中を兼任している。

この「田沼時代」の施策が、商工業を活発にさせて「景気浮揚をさせよう」と言う、言わば日本にとって「初期資本主義」とも言うべきもので、幕府の財政は改善に向かい、景気も良く成っだ。

だが、都市部で町人の文化が発展する一方、益の薄い農業で困窮した農民が田畑を放棄して都市部へ流れ込んだ為に農村の荒廃が生じてバランスが崩れてしまう。

それは、さながら現代日本で「大問題」とされている地域格差や限界集落的な様相を呈し、なお世の中が金銭中心主義に成って贈収賄が横行する結果と成って田沼政治への批判が高まって「一揆・打ちこわしの激化」と成って行ったのである。

田沼意次の施策評価も立場が違えば評価は分かれる所で、ハーバード大学のジョン・ホイットニー・ホールが、その著書「tanuma Okitsugu」に於いて「田沼意次は近代日本の先駆者」と高評価している。

だが、これを逆説的に読むと、田沼意次が「市場原理主義」の「米国型勝った者勝ち」の近代経済手法の「さきがけ」と言えるのかも知れない。

つまり田沼意次の施策評価は、米国の「市場原理主義」の評価と重なって来るのだが、その米国型市場原理主義を「優」と評するか「不可」と評するかの結果は、そう遠くない時期に出そうである。


「田沼政治」が、行き過ぎた市場原理政策を採って数々の格差現象が生じ、幕府官僚の腐敗に非難が集中した反省から、千七百八十七年〜九十三年の松平定信による「寛政の改革」では、「質素倹約」と朱子学以外は禁止の思想統一である「寛政異学の禁止」を押し進めた大変厳しい改革をした。

所が、この政策で消費経済が落ち込んで大不況を招き、庶民は朱子学の思想だけでは食べて行けず庶民の生活が困窮して大失敗する。
これは長期政策ビジョンが無く、もぐら叩き的な安易な目先政策の感が強く、大いに稚拙さを感じる。


千七百四十一年〜四十四年の老中水野忠邦の「天保の改革」では、田沼時代の不の遺産を改善し、行き過ぎた市場原理主義の修正為に「株仲間の解散」や都会に片寄った労働力の強制的な帰農政策(強引な過疎対策)である「人返し令」を行うが、都会に定着した人々には既に帰農すべき故郷の地盤を失っていて不評を買い失敗している。

そして、一旦動き出した市場原理主義を沈静化させる為の「株仲間の解散」についても、危なげな投機ブームは有ったものの、バブル経済時代の大蔵省銀行局長 から通達された「土地関連融資の抑制について」に拠る「総量規制」と同様だった。

つまり、人為的な急ブレーキが本来自然に起きる筈の景気後退を不適切に加速させ、終(つい)には日本の経済の根幹を支えて来た長期信用全体を崩壊させてしまった事と酷似している。

江戸期に於ける改革は、唯一成功した八代将軍吉宗による「享保の改革」以外は、いずれも庶民に一方的な負担を掛ける改革は結果的に失敗している。
政権維持が唯一の目的だったから、「徴税を強化する策に終始」し、結果的に庶民の力を削いでしまったのだ。


過去に民力を削いで成功した政治改革は無い。

まぁ、他の改革と唯一成功した八代将軍・吉宗の「享保の改革」との根本的な違いは、庶民を安心させる事に心を砕いた施策で在ったかどうかで、役人や政治家は上から目線で庶民から絞り取ろうとするのは「持っての外」で、痛みを伴うのが役人や政治家からでは無いから失敗するのである。

国家経済力の基礎は民衆の経済力で、民が貧しい国は、強権政治以外に成り立たない。
まず庶民の「生活の安定」を心掛けた徳川吉宗の改革だけが、唯一成功した事例である。

つまり、田沼政治や現代の小泉改革のように一部に富が偏る強権政治は、間違いなく恨みだけが残る政治手法である。

日本人は、過去の歴史から学ぶ事を知らない。
近頃の政治の失敗は、江戸期の改革失敗を寄せ集めたような稚拙なものである。

どんな政治体制も政治制度も、四十年〜五十年間で腐ってしまう。
何故なら、五十年〜六十年間もすると世代交代が進み当初の理念は忘れ去られ、権力のみが後継者(二世・三世〜と)に継承されて政治体制も政治制度そのものが腐敗して行く。

厄介な事に、この腐敗した政治体制も政治制度も内部から改革し得た試しがない。
革命程度のエネルギーがないと、金輪際改革は達成出来ないのである。

実は、水戸黄門万遊記や徳川吉宗のドラマの大衆受けについて、我輩には日本人の歪みとずるさを感じる。

他国の名も無い庶民が変身するヒーロー物と違う所は、この日本的ヒーロー、「実は偉い人(身分が高い)だった」と言う所である。

つまり、相手が偉い人(身分が高い)であればヘイヘイし、偉くなければ虫けら扱いする「氏族文化」が浸透し、現代でもこの身分が高い者が根拠も無く威張っても「仕方が無い」と許容する傾向は顕著に表れている。

それでいてずるい事に、自分達の不満や苦しみは自分(民衆)では解決しようとせず、「誰か偉い人が解決して助けてくれる」と言う有りもしない事に夢を掛けて、行動は起こさないのが日本の民衆である。

これぞ我が国の「氏神様の成立の成果」と言うもので、つまり本書の第一巻から読み進めた方には直ぐに理解出来るが、氏上=氏神の経緯から「神頼み」も「お上頼み」も同様な感覚で、何かあったら「お上頼み」で「上の者がやってくれる」と、永い歴史の中で感覚的に滲み付いた性(さが)なのかも知れない。



幕府は、苦悩しながら政権を維持して来た。
それも今は、終焉を迎えつつ在った。
官僚合議政治に移行した江戸幕府は、様々な施策を通して何度か改革を繰り返し、二百五十年も政権を維持して来た。

しかし既にその威光は色あせ、人々の不満に影を落として、正に滅びの道を辿りつつ在った。
その弱体化は覆い様も無く、誰の目にも幕府は弱って見えていたのである。
それに勢いついた不満分子に、反幕府・尊王派の火が沸々とたぎり始めていたのである。


(陰陽占術)

◇◆◇◆(陰陽占術)◆◇◆◇◆

維新の動乱はもう直ぐそこまで来ていたが、この動乱が終息した時、実は国家権力が陰陽占術を否定する歴史が存在する。
つまり永く続いた決め事も、統治の都合でアッサリと禁令が出されるのが現実である。

本書の冒頭でも記述したが、何事にも始まりはある。
だが、宗教関係者や占術師には「昔から決まっている」と非常にインテリジェンスが無い強情を張る者が多い。

つまり決まり事には必ず「何時頃から何故に」が存在し、それを突き詰めて行かないと本当の歴史は見えて来ない。

元々信仰は、大いなるフィクション(奇跡)の上に成り立っている。
本来、聖書や経典の類は「如何に生きるべきか」の哲学書だった物が、それを信じさせる為にフィクション(奇跡)の味付けが為され、仕舞いには「唱えるだけでご利益がある」となって今日に到っている。

「唱えるだけでご利益がある」は凡そ現実的ではなく、「在り得ないフィクション(奇跡)」が信仰の根幹を為すのであるから、それを信じるかどうかは個人の勝手である。

大いにフィクション(奇跡)の娯楽を愉しむも良し、その娯楽に金を注ぎ込むも良いが、妄信して他人に主張する事や押し付ける愚は止めて貰いたい。

しかしそこを突き詰められると全てが「御仕舞い」になってしまう決まり事も多いから、「昔から決まっている」と強情を張る以外に無いのが宗教や占術なのである。


世の中には、仕掛けられてから永く永く伝わって、もう誰が仕掛けたのかさえ忘れられた陰謀もある。
つまり信じられ積み重ねられた伝統や風習、信仰も最初は誰かが仕掛けたもので、それが永く伝わるとまるで疑いも無く信じられる「常識」に成るのが「世間」と言うものである。

実は人間社会に於いて、信仰や占術は個人の精神世界の心情が基本に成るものだけに「或る種の聖域」に成っていて、歴史の真実には絡み難いものである。

つまり余分な争いを避けるには「触れてはならないもの」として信仰や占術が聖域化され、歴史を歪めて来た部分も多い。
そこに敢えて踏み込み、日本人が心の指標として来た神仏・呪術、占術についても、検証して置きたい。

人間誰しも先の事は闇で、人生多かれ少なかれ思いも拠らぬ事その一瞬で人生は変わる。
そこに運命的なものを感じるから、人は占術に凝り神頼みになる。

本当の事を言うと、「奇跡」なんてそうめずらしいものではない。
人が産まれ、生きているだけで充分奇跡なのである。
人間は、そこに気が付かないから欲に走り、思い通りにならないと神に頼る。

欲に走れば思い遣りが無くなり、心は修羅になる。
それに、神の役目は見守るだけだから、過分な期待で頼られたら迷惑なのだ。


人間は普段、基本的に論理的な左脳と感性的な右脳を使い分けて生活している。
しかし、論理的でない偶然との出会いには感性的な解釈をし、論理的でない事象には言い知れない不安と恐怖を覚える。

その論理的でないものの解決には右脳域の感性を用いて、神仏信仰・呪術、占術を頼る事に拠って解決しようとする。
そしてそれを信じ込んだ時から、アンカリング効果と一貫性行動理論の虜になる。

人間は、ものを考える(思考する)から苦悩する。
実はこの思考を、停止させ(ゆだねる)る事で、苦悩から精神的に開放されるのが信仰に於ける救いである。

勿論、苦悩から救われる事は大事な事で、大いに結構である。
それを「無我の境地」と言うらしい。

しかし気を付けないと、思考を停止する事により邪(よこしま)な教義に操られる事例も多い。

凡(およ)そ占いや宗教はそうした心理的な物が、不安の中で生きる人間に安心感を与える形で迷信的に進入して来た。
その心理的安心感が、少しずつ支配を司る為の呪術信仰に近い物に大成して行く。

そこでまず、朝廷が推進した「陰陽寮」の賀茂忠行・賀茂保憲父子、安倍晴明が残した現代の陰陽道の吉凶占術と方位学、暦、そして呪術に対する解説を冷静に付け加えておく。
占いフアンの「期待には添えない」と思うが、今後の参考にして欲しい。

実は、占術も剣術も忍術も各種の演芸も、そのルーツが一様に陰陽修験道に見るのは否定できない事実である。

その後の歴史の変遷の中で独自のものに変化を遂げては行くものの、当初の目的が治世の安定の為に原始信仰から渡来神道や仏教の経典まで習合させて採用された所から始まった事である。

今日の現代人が神官や僧侶に対する既成概念で間違い易いのは、主として江戸期以降の分業化した身分制度の神官や僧侶を想定する所である。

本書で何度も記述している通り、室町期の末期までは公家や武士は言うに及ばず神官や僧侶も氏族の特権的な身分で、公家や武士とは兼業みたいなものである。

だから修験道師、東蜜・台蜜の両修験坊も氏族の出自で、祝詞(のりと)や経(きょう)を読みながら京八流の流儀を基本として派生した剣術武術の鍛錬にも余念が無かった。

つまり神官や僧侶も利の為には殺生もするし、信仰そのものも己の「利」の目的の為に利用するものだった。

我輩があえて言うならば、占い師が言う事の意図的な大きな間違いは、占いの結果「ああしろこうしろ」と以後の対策をアドバイスする事である。
しかし運命は「小細工で変わるものではない」と言う事が現実で、「運命は不変」であり何か変えれば変わるものではない。

信じない者には「当たらない」と言う占い(占術)ほど、都合が良く出来ているものはない。
話を良く聞いていると九十%以上は常識的な事を言っていて、当たっても不思議ではない。

心理テストや調査の効く過去はトリックで依頼者にも符合(ふごう/一致)確認が出来るが、未来はその時が来るまで誰にも判らない。
従って心理トリックで過去を言い当てて依頼者の思い込みに成功すれば、占い(占術)は成功し出鱈目な未来予測も信用される。

つまり占いで判るのは運命予測だけで、金儲け占い師のアドバイスに従っても運命は変えられず、言わば無駄な努力である。
現に占い師の言う事を聞いても、好結果など得られない。

しかし運命が判っても、変えられないのでは相談料を払う者が居なく成るから占い師は適当なアドバイスを言うのだが、その見料は宝くじを買う程度の「夢を買う代金」くらいに思うしかないのである。


よく占術師が口にする手口で、「先祖の霊が寂しがってうんぬん」と言うのがある。
人間の心得として説くのならともかく、占術師がそれを指摘するなど、そんな馬鹿げた事は在り得ない。

通常の人間の心情を考えて欲しい。
祖先にとって、「子孫は無条件に可愛い」のが人情で有って、「蔑(ないがし)ろにしたから呪う」などと言う事はない。

そんなものは身内が言うのはともかく、占術師か宗教家が言うには飯の種にする為の脅しで、死者を含め人の心を弄(もてあそ)ぶ者こそ罰(バチ)が当たるべきである。

不思議な事に、占い師や宗教家は「地震」を予測出来ないが、起きた地震の原因が「為政者の信仰の無さだ」と言う事は、いとも簡単に判るのだ。
同様に「個人の不幸」も、占い師や宗教家は前もって予測出来ないが、起きた不幸の原因が「墓や先祖を大事にしない事だ」とは、直ぐに判るらしい。

貴方は内心、この矛盾に気が付いている筈である。
にも関わらず、騙されたがっている貴方がそこに居る。
わざわざ自分を騙す必要があるのだろうか?
およそ信仰とはそう言うもので、非論理的な精神世界のものである。

この占術を称して、良く「中国四千年の重み」などと言うが、四千年が五千年になろうと、嘘は嘘である。

つまり、長い事信じられていた事が翻されるから科学や文明は発展した。
昔から「言い伝えられているから」と言って「正しい」と言う証明にはけして成らない。
それを恥ずかしげも無く主張する所に、占術の本質がある。


正直、幸運の神様として占術に使われているのが真言・吉祥天(きっしょうてん)である。

吉祥天(きっしょうてん)は、我が国では毘沙門天(びしゃもんてん/梵名・ヴァイシュラヴァナ)の妻として幸福の女神とされる女神・シュリー.ラクシュミーで、真言・吉祥天に於いては、唱える呪文は「オン・マカシリ・エイ・ソワカ」であるが、ご利益が在るかどうかは信じる者次第で保障の限りでは無い。

吉祥天(きっしょうてん)の由来であり、「乳海攪拌の際に誕生した」とされる女神・ラクシュミー神(吉祥天)はヒンドゥー教の女神の一柱で、美と豊穣と幸運を司る神である。

ラクシュミー神(吉祥天)は、ヒンドゥー教の最高神の一人で宇宙の維持を司るヴィシュヌ神(ヴァイシュラヴァナ/毘沙門天)の妻とされており、数多くあるヴィシュヌ神の化身と共にラクシュミー神も対応する姿と別名を持っている。

愛神・カーマの母とされる女神・ラクシュミー神(吉祥天)は、幸運を司る為に移り気な性格であるとも言われる。

日本に於いては仏教にも取り込まれて吉祥天と呼ばれていて、仏教では福徳安楽を恵み仏法を護持する天女とされ、毘沙門天の妃また妹ともされ、更に神社でも信仰の対象として吉祥天は神道の神でもあるが、弁財天(サラスヴァティー)と混同される場合がある。

なお、女神・ラクシュミー神(吉祥天)にはア.ラクシュミー神(不吉祥天)と言う不幸を司る女神を姉に持つともされ、ヴィシュヌ神の妻になる際に「私があなたの妻になる条件として姉にも配偶者を付けるように」とヴィシュヌ神に請願している。

ヴィシュヌ神は条件を呑み、ヨーガの修行を積んだ苦行者で聖者或いは賢者達の一人である聖仙(仙人)・リシと姉神・ア.ラクシュミー神(不吉祥天)を結婚させ、晴れてヴィシュヌ神とラ.クシュミー神は「一緒に成った」と言うう神話も残っている。


まず悪夢を見る事や、凶兆とされる出来事が起きた場合、或いは陰陽師の占いによって凶事が予知された場合に行われるのが「物忌み」である。
そこで、「物忌み祓い」が必要になる。

元々「物忌み祓い」は、神官が神々の祭祀にあたって心身の清浄を保つ為に飲食や行動の規制(斎戒)の意味だった。

具体的には一定の期間外出を控え、同時に「物忌み」と書きつけた柳の枝の小片や紙片をしのぶ草と言う植物の茎に結い着けて冠や髪、御簾などに差して凶兆を避ける呪法を意味する。

物忌みの最中はどんな事が起こっても大声で話をせず、絶対に「他所(よそ)の人に会わない」と言った事が行われていて、物忌みの日数は暦や式占によって決められる事が多かった。

その物忌みに使われる柳や「鬼門の方に植えた」とされる桃の木は陰陽道では魔除けの木として珍重された。

物忌みよりも更に積極的に、凶兆や魔を退ける為に行われたのが「祓い」の儀である。
陰陽道が盛んな頃には月のうちに日を定めて「一ノ祓」、「八ノ祓」、「望月ノ祓」、「晦(みそか)ノ祓」などが行われ、常にまがまがしいしいものを寄せつけない様にしていた。

他には「鳴弦(めいげん)」や豆撒きのルーツである「追儺(ついな)え」と言ったものがあった。
今日でも行われている「名越(夏越/なごし)の祓え」も陰陽道の代表的な祓いである。

「撫物(なでもの)」はその名の通り、撫でる事によってその人の穢(けが)れをすっかり移してそれを川へ流す、もしくは焼くなどの処分をして穢(けが)れを他世界へ送り出す呪物の事を意味する。
今日でも「大祓の神事」などで見受けられる紙の人形が撫物(なでもの)に相当する。

人形は人形呪術と言う視点から見ると本来の撫物(なでもの)の域を越えて呪殺で使用される様になった。
呪術的方法で怨敵の魂を人形に入れ込み、これを焼いたり切ったり釘を打ったり辻に埋めたりした様である。

また、人形も単に人の形をしたものばかりではなく、いっそう効果を高める為に呪文や九字を書いたりして工夫された。

「式神(しきがみ)」とは陰陽師が使役する鬼神を意味し、「識神」と書く場合もある。
「式」という字には「用いる」と言う意味があり、「式神」と言う神が居る訳ではない。

有名な式神としては「安倍晴明が使役した」とされる十二神将(青龍、勾陳、六合、朱雀、騰蛇、貴人、天后、大陰、玄武、大裳、白虎、天空)が上げられる。

仏教にも十二神将の名が見られるが、まったく別のものである。
「符呪」とは陰陽道の呪文を書きつけた霊符呪術の事を意味する。
「お札やお守りの原形」と考える事ができる。

陰陽道で常用する呪文に「急急如律令」があり、これは物事の成就を早める符呪である。

符呪は初期には感じと組み合わせて用いる事が多かった様だが、密教や修験道と融合すると梵字を加えたものや神仏の名を記したもの、絵を加えたもの、九字や五芒星を加えたものなど沢山の符呪が編み出された。


本来、風水学は中華思想に基づいた皇帝の為の学問で有る。
形法は自然を観察し、自然を理解することを重視する。
この理論自体は、実際の調査考察の結果から生み出されたものが多く、きわめて合理的なものを含んでいる。

中華王朝の古代都市の宮殿などは、みんな「龍穴」と言うエネルギースポットに建てられていて、この場所は三方を山脈に囲まれ風を制御でき、平地には豊かな水に恵まれている。

つまり、風水を当て嵌めなくても、都市を建設するには、うってつけの場所なのである。

その立地が、抽象的な「気」と自然環境における具体的な形態との関係を示している。
従って、深く真剣に自然の形態を観察しさえすれば、気の吉凶順逆を知る事ができ、それによって建築物の禍福を推測し、良地を選び出せるのである。

元を正せば、支配者の住居の選定の為の自然を考慮した環境学、健康学、と言う観点からの立地工学だった。
しかしながら、中華思想の立場を考察すると、中華王城の鬼門の方位、東北の方角(艮)は万里の長城で解る通り、外敵(異民族)の侵入ルートである。

裏鬼門、南西(坤)の方位は、台風の進入してくる方位である。
従って、本来の成立ちを勘案すると、日本の古都(王城)や江戸(東京)に中華王城の鬼門の方位が宛て嵌まる物ではない。

言わしてもらえば、当時の大和朝廷が文明の進んだ中華の文化文明を手放しで有り難がり模倣した結果である。
その、中国の皇帝の鬼門の方位が、何故に日本の家庭の鬼門に通用するのか大疑問で有る。

基本的には、生活の知恵的地理学で在った筈の風水学が、信仰や政治に利用され、その時点で「人為的な都合が混ざっている」にも関わらず、構わずにそれを金儲けに利用する輩が後を絶たない。

かれらは、何を当て嵌めて人々を迷わそうとするのか?
およそ気分的な域を脱せず、物笑いの種である。
本来、皇帝の居城位置を基本にした中国四千年の風水と、日本のそれぞれの土地や個人の家、それぞれの風水の龍穴は、それぞれに違って当たり前である。

それを一定の方位ルールに基ずいて他人にものを言い始めたら、それは暴挙だから疑って構わないだろう。



明治維新後の千八百七十二年に至り、新政府は陰陽道を「迷信」として廃止させた。

現代には土御門家の開いた天社土御門神道と、高知県物部村に伝わるいざなぎ流を除けば、ほとんど暦などに残滓を残すのみであるが、神道や新宗教などに取り入れられた陰陽道の影響は宗教として存続している。

この庶民に関わりが無い風水学を庶民に売り込んでいる風水師は、中華王城の鬼門の方位を庶民の住居に「どう使おう」と言うのか?


ついでだから、暦についても書こう。
ここは重要なのだが、暦は・神道のもので本来は仏教には関係なく、中国の暦には「仏滅」は無い。

つまり、日本の暦は「宗教がごっちゃ混ぜ」なのである。
従って例え隣国でも日本人以外の東洋人相手には「仏滅」は通じない。
それで、不思議に思って今の日本の暦の事を調べると、暦その物の原点は確かに中国に在った。

古来の占術暦は「太陰暦(旧暦)」から来ている。
近頃、映画「陰陽師シリーズ」や「風水ブーム」で、忘れかけた太陰暦(旧暦)も少しは復活の兆(きざ)しがある。

だが、「仏滅」や「友引」は陰陽師にも風水にも関係が無い。
それでは、「仏滅」や「友引」が日本の暦に登場したのは、何時の頃なのか・・・・・。

それは明治時代の初期の頃だった。
日本の近代化を急ぐ明治政府は、暦も欧米式の「太陽暦」に無理やり変え様とし、旧来使っていた「太陰暦(旧暦)」の使用を禁止にした。
時は、文明開化の世であり、新政府は何が何でも西洋式にする事で欧米に近付こうとした。

勿論、通商行為などの為の日付の共通性も必要であったし、国力を向上させ植民地化を避け不平等条約を改正させる為だった。

しかし、長い間「太陰暦(旧暦)」に慣れ親しんだ庶民にしてみれば、急に暦と季節感が違い、土地の氏神様の祭り事にも支障を感じる。
故にそれを受け入れる事に抵抗して、密かに密造された旧暦(太陰暦)の暦を流通させていた。

彼らにとって、当時は太陰暦(旧暦)が「普通」なのである。
明治十二〜三年頃その暦の密造ブームは頂天に達し、暦屋にとって結構な儲け商売になった。
今でも、旧暦の「何々に当たる」と言った話は時折聞く。

味を占めた儲け主義の暦屋が、政府が進める新暦(太陽暦)化に旧暦の「何々に当たる」と言った事を紛れ込ませて売れ行きを伸ばし、ついでに依り売れる様に易学とやらに「仏滅」や「友引」などを「勝手に創り出して」印刷し、いっそう暦に重みを付けたのだが、庶民はそれに見事に嵌まった。

人間は国籍を問わず、結構そうした「縁起かつぎ」みたいなものが本質的に好きだ。

それに暦屋が勝手に創っても、日本には占術的な物をすんなり受け入れられる信仰土壌が、しっかりと出来きていた。

そして急速に欧米化を強いる政府への反抗心も手伝って、返って庶民の間に暦占い人気が出てしまったのだ。
そこで、迷信じみた日本式「普通」が生まれた。

暦屋が勝手に創り出した「仏滅」でも、数十年も時を経るとそれが庶民には「普通」になる。
そして、その暦を頼りに生活のリズムを刻んで疑わない。
「それが、時として事を進める妨げになろうとも」である。

もっとも世の中には、「信じたがる人間」や「支配されたがる人間」も居るから、まんざえら信じさせる人間や支配する人間ばかりが悪いとは限らない事も事実である。


この物語、第一巻の第一章から読み進めた方にはもうお判りだが、そもそも信仰や占術が始まったのは群れのリーダーが「人々の脅迫観念」を自らの権威付けに利用した事から始まっている。
故に信仰には、科学的根拠は一切存在しない。

従って神仏や占術に過大な期待をするのは根本的に間違いで、つまり信仰は「心の安定を得られる為のもの」であって、欲の深い者に都合の良い幸運の奇跡など起こらないのである。

政治経済のリーダーも宗教家も本質は役者で、役者で居無ければ大衆に信用されないから力を見せつけたり信じさせる為に衣装や舞台装置(建造物)と演出、そして評判には拘(こだわ)る事になる。

まぁ、それらは全て指導者としての力を心理的に補完する為のものだから衣装を脱げば只の人で、評判を壊して支持者や信者が居なければ個人の力など知れたものである。


確かに、自分の力の及ばない物に翻弄(ほんろう)されるのが人生だから、神仏や占術に頼りたくなる心情は理解できる。

しかし残酷な事に、「信仰をしたから」と言って貴方に都合の良い奇跡など起こらないし、祈祷料や賽銭を供えた位で貴方に都合の良い奇跡など、「どんなに信仰をしようと起きない」と知るべきである。

但し、人間の生き行く在り方などの「教え」としては学ぶべきものが多いのが信仰であるから、神仏に過大な期待をするのでは無く教えを請う存在と位置付ければ良いのである。


占術や宗教の教義をもって人を脅し、「金品を巻き上げよう」と言うのは、我輩に言わせれば最も卑劣な行為である。
何故なら、その占術や宗教の教義の成立ちに遡ると、全て誰かの都合により出来上がった物である。

そう言う金目当ての輩(やから)に限って、他人を脅して自分は贅沢三昧、けして「世の範」となるような生活はしていない。
しかしながらそれに乗る人々も、もっぱら労せずに「金で幸運を呼び込もう」と言う「よこしまな心」の発露であるから、五十歩百歩なのかも知れない。

しかしその不本意も含めて、「その全てが自分の人生だ」と自覚して初めて神は自分の中に宿るもので、「賽銭をあげたから」と言って、神は安易に助けてくれるものではない。


冷静に信心の本質を考えて見れば、世の中にこれほど矛盾したものは無い。
間違えてもらっては困るが、「現世利益」にしても「来世利益」にしても、詰まる所は「自らの利」である。

ご利益にしても、心の平穏にしても、他人より多くをもたらせて欲しいから信心をする。
つまり、信心深い人間は「欲が深い」のである。

信仰にしても占いにしても、夢中になる事は最も人間らしい行為であるが、それは「煩悩(欲が深い)が深い」と言う事で、その信仰集団内部での事はともかく、実は、外部に対して自慢できた話しではないのである。

或る一人の人物が、生涯不幸な生活に苦しみ、何も良い事無く人生を終えた。

生前、誰しもが認める不幸な人生だったが、死後に彼の生き方は評価され、「偉人」と称えられ歴史に残った。
不幸な人生に苦しみ抜いて死んで行った彼は、死後、遅ればせに評価される。
これは果たして幸せだったのか不幸だったのか?

死んでから評価されても、「彼自身が幸せ」とは言い切れない。
「現世利益」とはそう言うもので、「楽に幸せに暮らしたい」と言う、利己的な欲望である。

その「楽に、幸せに暮らしたい」と言う欲望は、清く真面目に生きる事とは最初から矛盾が有る。
清く真面目に生きて財を成す者など、芸術やスポーツの分野を除けば、確率からして皆無に等しい。

その芸術やスポーツの分野の者も、政治や経済に転身すると「現世利益」に塗(まみ)れるのが世の常で、欲の深い人間で無ければ、世の中は渡り辛いものである。
つまり、神仏を信じ清く真面目に生きれば、「楽に、幸せに暮らせる」と言う信仰上の教えは、成り立たないのだ。

内容に若干の違いがあったとしても、信仰の本質は欲である。
たとえ他人の幸せを願う事でも、願望を叶えるように神仏に祈る事は一種の「欲求」である。
信心深い事を誇りにして居る事自体、その者の「欲が深い」事に気が付いていないのである。

それ故物欲や色欲を封じ込めても、その先に目指すものが自らの「あの世での幸せ」だったり「来世利益」だったりであるから、質は違っても欲の一種には変わりは無い。

そう考えれば、貢がせる教祖と貢ぐ信者の間に在るのは、「現世利益や来世利益」の「欲(煩悩)の掛け合い」と言う事になり、至極判り易い話ではある。

断言するが、姓名学や印章学は人の弱みに付け込んだ言わば「脅し商法」である。
こんな漢字圏内しか通用しない姓名学や印章学の話を、飯の種にする輩こそ地獄に落ちるべきで、その他壷などの物品を売りつけるなど「何おか言わんや」である。

しかし、そう言う事がお好きな方が居られるので、どうしょうも無くなって「騙された」と言うのは虫が良すぎるのではないだろうか?

勿論、世の中の人の個性に拠っては「現実逃避の需要」があるから、占術の存在も完全に否定する気はない。他人の心に踏み込む事など、我輩には出来ないからだ。それと同様に、それを職業にする人物を、我輩は信用できない。

我輩に言わせれば、占術家も宗教家も、本物なら「地球温暖化」、「飢餓地域」と言った地球規模の問題や、「少子高齢化」などの国家的危機に立ち上がっても良さそうで有るが、そうした納得できる行動は余り見られず金儲けになる個人を心理的に脅すだけである。

それで方向に間違いは無いのであれば、彼らの存在が「眉唾」と言われても仕方が無い。

もっともこの占術、良くしたもので、当らない時の為に奥が深くなっている。

つまり、家相は良くなったが方位が悪い、方位は良くなったが先祖の霊が悲しんでいる。
次々に違う占術の分野が問題になり、それが達せられても、法律の解釈と同じで解釈上の幅があるから、今度は「まだ量や質が足りない」と、怪しい改善を求める事が出来る。

「自分で見たものしか信じない」と言う人間が居るが、堅実のようで実は一番危なっかしく、騙され易い人種である。

何故なら、手品を考えて見れば判る。
視覚は、時にその人間を騙す為の有力な手段に成るからで、いかがわしい信仰にもこの手品もどきの視覚の思い込みが使われている事が多い。

不思議な事に、「自分で見たものしか信じない」のまやかしに、理数系に得ている人物が懸かり易い事から、答えがハッキリする事を扱う人種の方が、基本的に素直なのかも知れない。

洋の東西を問わず、凡(お)よそ信仰上のいかがわしい点は、「奇蹟」と称するまやかしで有る。

これは一例に挙げるもので、特定の宗教を攻撃する積りでは無いが、「法力で温泉を掘り当てる」と言う「でっち上げの奇蹟」は、一人の高僧が、寺での勤めの傍らで起こすには、とても手が廻らないくらい広範囲に多数、日本中に存在する。

それでも善男善女は、「仏の徳の体現者」と信じて信仰した。
つまり宗教の説得力には不思議な力が根本にあり、哲学は装飾に過ぎない。
しかしこの奇蹟の部分を真っ向から問い質すと、およそ論理的でない過剰防衛的な答えが返って来る。

人間は、往々にして理屈より感情が先に立つ、それ故に占術や宗教が入り込む余地が出来る。遂には、冷静に考えるとありえない奇蹟が容認される様になる。

ここで我輩が問題にするのは、信仰や占術に頼る人達の多くが、そう多くの財には恵まれていない「比較的困窮層や平均的庶民層」と言う事である。
だからこそ、少しでも幸運を求めて奇蹟や現世利益を願う。

所が神や仏の使いは、その僅かな希望を利用して、本来の神や仏の教えではない集金活動をする。
その的(まと)になってしまうのが、矛盾する事に富裕階級ではなく、「比較的困窮層や平均的庶民層」と言う所が、何とも痛ましい。

本来、占いは「日々の良し悪しを楽しむ位」がちょうど良いものである。


神仏と呪術や占術は元々かかわりが深く、重複する場合も多々ある。
つまり「祈り」の先にある占術、呪術、信仰などは、ある種不思議な神秘性が売り物である。
不思議と言えば、元々人が命を繋ぐこと自体が、考えてみれば素直に不思議である。

「輪廻転生」と言うが、生物には遺伝子がある。
人には誰しも祖先がある事を、普段の生活に於いて忘れているから、一見脈略が無い出来事には運命的なものに感じ、「神に祈りたくなる」が、実はこうした現象には伏線があり、正体はDNA遺伝子レベルの記憶である。

いかに伝達するかのメカニズムは解明出来ていないが、かなりの情報量が潜在能力として伝達されて行く。
単純に言えば、教えなくても人間は二足歩行をする。

それ故、人間の受け継いだ個性によっては、前世の記憶を鮮明に再生できる人間が居ても、何も不思議は無いのかも知れない。
つまり、無意識に受け継いだ先祖の遺伝情報が細胞を形作り、能力を伝えたり顔が似たり、性格や考え方が似てきても不思議は無い。

その遺伝子レベルの遠い記憶が、時を隔ててよみがえってくる。
後世に、他人の空似や、まるで生まれ変わりの様な行動をする人物が現れるのは、そう言う事かも知れない。

たとえば同じ哺乳類でも、イルカや鯨は人間とは違う伝達能力で「遠方の仲間と会話する」と言われている。
枝分かれする進化の過程で人間が失ってしまった能力が、ヒヨッコリ顔を出す超能力者が存在しても否定はしない。

それを周りが神と崇める事はまだしも、その能力を持たない並みの人間の後継者が、他の宗教を否定し、既得権益と化した「利の為」に信者の不安を煽り続けるから、「哲学とは認め難いもの」になってしまう。

欲をかく人間は心まで貧しくなり、傍目見苦しい事を恥ずかしげもなくしてしまう。

本来、「教えが立派なら、建物を立派にする必要はない」と思うが、何の能力も無い人間が教団を維持しようとするから、現代では流行らない「こけおどしの建物」を未だに建てたがる。

案外、その宗教を冒涜しているのはその教団自身かも知れない。
まぁ、急増している高齢者世帯やホームレスの支援を、「利にならないから」と見て見ぬ振りで放置している宗教団体が、見てくれだけ立派にして、どんな教えを説いても空しいだけである。

人間の心理は複雑で、自らが安心する為に信仰や常識に縛られたがる者が多い。
端的に言うと、「皆で渡れば恐くない式」の真理で、そこにさえ逃げ込めば平穏に暮らして行ける。

それが悪いとは言わないが、案外本人はそれと気が付いていない。
勘違いで立派な事をしていると思い込むから、他人にまでそれを強いる様になる。

過去、信仰に於いて、それを信じさせるには奇跡が必要だった。
民の得心の為に必要な、現世御利益の具現化である。

この奇跡には、種々の化学現象に拠るこけ脅し的パホーマンスを始め、特に、現在は周知の事実となっている東洋医学の身体の壷刺激による治療効果、針灸治療、などが含まれが、予備知識に乏しい当時の民としては、劇的な回復効果を「奇跡」と取る向きも多かった。

つまり修験(山伏)道師は、映画「ブッシュマン」のごとき無知の衝撃を、奇跡として信仰に結びつける誘導をした。

当然ながら、人間は無知の現象に畏怖を感じる。
事実、こうした治療術は、大陸から密教系仏教と伴にもたらされた修験道師、修験僧(山伏)の独占する術であり、当初は、「だれだれ様は、体に触れただけで病を治した」と大げさに喧伝され、信仰の対象となった。

それが、何代かの時を経ると、民衆の心の中で一人歩きし、現在では東洋医学の身体の壷刺激による治療効果、針灸治療とはその存在を知りつつも、結びつける事は無い。

何と成れば、営々と築いた信仰対象を、神秘な存在で維持しなければ、心の拠り所がなくなるからである。

しかし、我輩に言わせれば、「教えそのものが良いのであれば」、無理に「眉唾の奇跡」などに固執する方が「余程嘘っぽい」し、この先の時代、若者達には矛盾と成り、折角の「良い思想的教えさえ、疑われるのではないか」と危惧している。

人間には動物としての「本能」と、脳が発達したが為の思考力の「理性」が混在していて、その双方が人間の固体の意識を構成している。
本来、「価値観」何んてものは人間の固体に拠って千差万別で、別に唯一絶対な訳ではない。

所が、一旦一つの価値観を「受け入れる」と、人間の固体はそれに執着し「頑な(かたくな/強情)」に成る。

人間の固体には「意識と行動を一致させよう」と言う潜在的要求(一貫性行動理論)が理性としてある為に、意識と行動に「整合性が取れない」と不安になるのが人間で、これが人間の固体意識を「頑な(かたくな/強情)」にする要素である。


人間は煩悩の塊(かたまり)で欲の深い生き物だから、自分の得に成らない事は、基本的に「やろう」とはしない。

信仰を大衆に広めるには、テクニック(技術)として、教えを「俗」にまで降ろして行かねば、中々理解されない。
そこで、「俗」な現世利益の「ご利益」が、大衆を引き付ける為に必要だった。

つまり、「自分だけでも良い思いをしたい」と言う人の心の「卑しさ」が、信仰の原点である。
所が、建前「俗」な現世利益の追求では外聞が悪いから、仮想現実(バーチャル・リアリティ)のオブラート(教え/教義)に包んで刺激を少なくする。

実は、「悟(さと)りを開いた」と言う事は、言い方を変えれば自分をも「騙し果(おお)せた」と言う事である。

つまり、人間の固体に存在する「意識と行動を一致させよう」と言う潜在的要求(一貫性行動理論)において、何かを出来る出来ないは、意識と一致していないから「出来ない」と言う事で、裏を返して、「意識を変えてしまえば、今まで出来ない」と思っている事が、出来る様に成るのだ。

その「出来ない事」が出来る様に成ると、それが「信仰のご利益になる」と思った方が正しいのである。

一方の「本能」において、人間は群れ社会の生き物である。
群れ社会にはリーダーが必要で、それ故人間には、支配欲や被支配欲(支配されたがる)が、深層心理に強く存在する。

これも人間の本質である群れ社会を、「無意識に構成し様」とする本能に起因するものだ。

だが、深層心理の世界の現実として信仰が存在するのは、実は「優劣主従の関係」を確認する本能的欲求を補完する擬似行為として、支配欲や被支配欲を満足させる為に、仮想現実(バーチャル・リアリティ)の信仰は、教団(教祖)と信者の関係として成立している。


利巧な人間ほど好奇心が強く、何か思い付けば「試そう」と努力する。
そうした人間が進歩するのだが、そこを否定して自ら進歩の芽を摘んでしまう人間が大半である。

錨(いかり)は流されない為に降ろす物だが、反面自らの動きを封じる物である。
大概の人間には思考範囲に於いて錨(いかり)を降ろして既成概念化する「アンカリング効果(行動形態学上の基点)」と言う習性が存在し、中々既成概念(錨/いかりの範囲)から抜け出せないので進歩が無いのである。

また、人間には「意識と行動を一致させよう」と言う要求(一貫性行動理論)がある。
つまり、アンカリング効果(思い込み)と一貫性行動理論(思い込みを基に行動する)と言う習性が個体の思考の発露の大半を占めているのである。

「私には出来ない」の大半は「出来ない」のではなく、思い込みで「やりたくない」と言う事に成る。

何かを出来る出来ないは、意識と一致していないから「出来ない」と言う事で、裏を返して意識を変えてしまえば今まで「出来ない」と思っている事が出来る様に成る。

アンカリング効果(行動形態学上の基点)と一貫性行動理論(思い込みを基に行動する)を別の側面で見ると、「思い込みに拠る頑固者」と言う事に成る。
時には手の着けられない困った存在ではあるが、小さな頑固者は正直でお人好しである。

つまり相手からすると一見付き合い辛そうだが、一度理解してしまえば何を考えているか直ぐに見当が付く「安全パイ」と言う訳で、実は扱い易く付き合い易いのである。
それ故安心出来る愛すべき人物が小さな頑固者である。

反面、常に新しい発想をする人間は「何を思い付き、何を言い出すか判らない」ので、周囲にとっては不気味な存在である。
当然ながら、周囲は「非常識」の落印を押す。

永い事工場の外に佇(たたず)み、輸入自動織機の音だけを聞いて「国産の自動織機を音だけで作った」と言われるトヨタグループ(自動車・自動織機の創始者・豊田佐吉も、最初周囲は「あの若者、働きもせずあんな所で一日ボーッとして気味が悪い」と見ていた。

ホンダ自動車の本田総一郎は、若い時代、試作の為に昼夜を問わず働き、小さな町工場で真夜中まで構わずガンガンと音を立てる「非常識で近所迷惑な存在だった」と言われている。

まぁ、平凡に生きるか非凡に生きるかは本人の自由だが、周囲の冷たい圧力に負けない「非常識」を持たないと何か大きな事は成し遂げられないかも知れない。


信仰とは信心とも言い、何かを信じる心から始まっている。
アンカリング効果一貫性行動理論」の習性を最も上手く取り入れているのが実は信仰・宗教の類で、一度信じてしまった個体の思考は正しくアンカリング効果と一貫性行動理論に拠る生活から抜け出せない事になる。

「アンカリング効果(行動形態学上の基点)」は、人間の潜在意識にまで影響を与える「思い込み」だから、実は「手品の奇跡(錯覚だが・・)」や「占術(うらない)」、夢や催眠術、宗教上の集団催眠などもアンカリング効果(行動形態学上の基点)の原理効用が基本になる。

例えば、信仰の場で信者の無意識行動が見られるが、それは奇跡ではなくアンカリング効果(行動形態学上の基点)の「思い込み」が催眠術的な効果で「神掛かり的」な無意識行動をさせるのである。

宗教や信仰、政治思想などは、永い事民衆のコントロール(制御)に利用されて来た。

その信じ込まされたアンカリング効果(思い込み)と一貫性行動理論(思い込みを基に行動する)から、異端者は弾圧され、自爆や特攻の殉教や殉国の悲劇にまで及んでいる。

それは、どう生きようと個人の勝手で、アンカリング効果(行動形態学上の基点)や一貫性行動理論(意識と行動を一致させよう)の範囲で判断した価値観の幸せも、自己満足では在るが本人は充分幸せを感じるかも知れない。

信心深く、社会の既成概念に従って平凡無難な人生を送り、「一生真面目に生きた」と思うのも本人がそれで良ければ自己満足の幸せではある。
信仰・宗教の類は、固体の【右脳域】に働きかけ癒しを図るものであるから、それに救いを求める固体には必要かも知れないので、一概に批難や批判は出来ない。

しかしこの「アンカリング効果(行動形態学上の基点)」は、安全ではあるが別の側面から見れば「平凡で詰まらない人生」と言う淋しいものに成る。
考えてみるべきは、人生の質を向上させるには「果たしてアンカリング効果(行動形態学上の基点)と一貫性行動理論(思い込みを基に行動する)は必要なのだろうか?」と言う事である。

過去の歴史を見ても、化学や物理学、生命(生体)科学などは次々と定説がひるがえされて来た。

それは、既成概念に囚われずに一貫して意識改革をし続けた研究者に拠って新たな発見や発明がもたらされたのであって、アンカリング効果と一貫性行動理論に囚われていてはこうした偉業はなされなかった筈である。

本来、価値観何てものは別に唯一絶対な訳ではない。
このアンカリング効果(行動形態学上の基点)は、錨(いかり)を上げて自由な思考にしまえば価値判断の範囲も変わるもので、全く違う発想が持てるのである。

一貫性行動理論(意識と行動を一致させよう)においても頑固に既存意識を守ろうとせず、一貫して意識改革をし続ける事自体に行動の基点を置けば良い訳だ。

こう考えると、本来は異質な発想を持つ者との交流こそが、発見や発明の貴重なヒントをもたらす相手なのだが、それを己のアンカリング効果(行動形態学上の基点)と一貫性行動理論(意識と行動を一致させよう)に縛られて排除してしまうのが愚かな人間の狭い考え方である。

例えばであるが、学校で教わった学問は基本の定説で、実は教わった者にとってはスタート台である。

その定説を単に知識としてひけらかすか、新たな発見や発明の土台にするかが固体の資質問題であるが、「それではあなた独自の考察は?」と問うと、他人の説を引用するだけで、何も出て来ないでは「何もやっていない」と同じ事なのである。

そしてそう言う者の特徴は、「異質な者に憎悪を抱き、その同類しか近付けない」と言うアンカリング効果(行動形態学上の基点)と一貫性行動理論(意識と行動を一致させよう)に縛られた典型的特長の持ち主である。
同類だけで認め合っていては、進歩など期待出来ない。

そこで異質な者の意見を聞き、一貫して意識改革をし続ける事自体に行動の基点を置く事が求められるのである。

所が、何時の時代の人間も「普通はこうだ。普通はそうじゃない。」とアンカリング効果(行動形態学上の基点)と一貫性行動理論(意識と行動を一致させよう)に縛られて新たな発想をしようとしない。

本来新たな発想をすべき研究者の大半も、実は定説に拘ってそこから抜け出せないのが現実である。

実は「教えを守れ」と説く信仰においても、教主や開祖は盲信する事無く学識を積んだ上で、新しい発想をこめて新たな宗教思想を成立させ新宗派を起こしている。

確かに「有能な人物に導かれる」と言う発想も否定は出来ないが、言い方を変えると、「アンカリング効果一貫性行動理論を実践する」と言う事は、決まりに頼り「何も考えずに済む横着な生き方を選択した」と言う事に成る。

その辺りの微妙な発想に柔軟性が欠けると、「信仰や信念」を理由に小さな自己満足に埋没する事になる。



悪意を懲らしめる「地獄」は確実に存在する。
しかし「地獄」は、精神世界に存在するものだから現実世界には存在しない。

つまり神の力が及ぼせるのは個の心の中だけであり、「地獄」はバーチャル(仮想現実)の世界の事である。
従って、神が存在するならば善意の者に利する筈の事が、残念ながら善意よりも悪意に利するのが現実社会である。

信仰の上での問題点は、歴史観に対して信仰上の理由で心を閉ざす所にある。
信仰に於いては、少なくとも「客観的視点」が重要であり、それを怠ると盲信に立ち至る事になる。


誤解されると困るので念を押して置くが、我輩は寺や神社を全て否定している訳ではない。

埋葬場所は必要であるし、祭りはイベントとして庶民のかけがえの無い娯楽の場を提供している。
特に、一部の神社を除き、歳月の経過とともに宗教色が薄れた神社の存在は、地域の交流の場として存在意義は大きい。

何故なら現代に於いて、お祭り好きが「熱心な神社の信者とは言えない程変質して、明らかに祭りのイベントを楽しんでいる」からである。
宗教(信仰)の中に哲学はあるが、哲学の中に宗教(信仰)は存在しない。
貴方にこの意味が判るか?

人間にはそれぞれに「思い」が有る。
「思い」は個人のものだから、その内容についてトヤカク言うものではない。

しかしながら人間には、「個人の思い」を、「誰でもが受け入れる」と誤解し、それが受け入れられないと、相手が間違っているがごときに考える独善的な所がある。

信仰も一種の「思い」であるから、個人が「思う」のは自由だが、相手に「思わせよう」と言う姿勢は、傲慢な事である。

本来、信仰は理屈を超越した精神世界のものである。
また、本来信仰は「如何に生きるべきか」の示針である。
しかし矛盾する事に、最も感情とは一線を画すべき信仰が原因で、信者が一番感情を露(あらわ)にする局面が多いのは何故だろうか?

これは、信仰をする者も司る者も人間だからである。
つまり信仰は、個人的な尺度に拠る「感情が支配している」からではないのだろうか。


洋の東西を問わず、神仏は本来裸形である。
これは女神も菩薩も同じ事で、精神世界に在る神に、羞恥心は存在しないからである。

古代ギリシャのオリンポス競技が、男女ともに全裸で行われたのは、神に捧げる崇高な儀式競技だったからである。
同様に、日本の神楽に於ける「巫女舞」が、裸形だったからからと言って、恥ずべき事でも否定すべき事でもない。

もっとも神に近付く為の崇高な行為であるから、本来それが正しいのである。

原点に立ち返ると、裸を「猥褻」と言い出したのは文明が進んだからで、未開の裸族は、裸を見ただけでは勿論発情しない。
言い換えれば、米国のポルノ映画産業は、解禁とともに衰退した。

性行為は「好きで当たり前」なのが人間である。
それが基本に無ければ、子孫は未来に繋げない。
所が、性に関した事を言おうものなら「やれセクハラだ。」と、露骨に嫌な顔をする。

つまり偏見を持って、いたずらに「猥褻」を言い立てている人間こそ、現在の性的倫理感の荒廃に関しての元凶である。

それでも「私はそうは思わない。」と、理屈ではなく、誰かに植え付けられた感情でものを言う方も居られるだろうが、「貴方の思う事は全て正しい」と言う論理は、それこそ思い上がりである。

言わば「畏怖の念」や「未知への恐怖」などの【右脳域の感性】の裏返しに「占い」や「信仰(宗教)」は存在する。

占いも信仰(宗教)も性行為も【右脳域での思考】で、本能的無意識能力系統を司(つかさど)る役割で「無意識脳」と言われ、イメージ記憶・直感・ひらめき・芸術性・創造性・瞬間記憶・潜在意識・リラックス本能などの感性が、人間としての固体に影響を与えている。

従って、理性的意識能力系統を司る役割で「意識脳」と言われ、言語認識・論理的思考・計算・じっくり記憶・顕在意識・ストレス本能などの活動を機能をしている【左脳域での思考】とは相反する「論理的ではないもの」が、「占い」や「信仰(宗教)」そして「性行為」などの範疇である。


人間の本能行動には、実は「左脳域」だけではなく「前頭極」に拠る極限行動も存在する。
脳の「前頭極」と言う部分は、極限状態に遭遇した時には理性を瞬時に抑える働きがある。

理由は、生き物には持って生まれた情況対応本能を兼ね備えていて、考える暇(いとま)の無い瞬時の危機に遭遇した時に、理性で論理的に思考して行動を起こしては間に合わないから、身を守る為に論理的な思考回路を遮断して咄嗟に本能的判断して行動するのである。

この「前頭極」の働きは、理性拠りは本能で対応しないと間に合わない非常時の場合の緊急的な保身の脳作用であるのだが、極度の不安(恐怖)状態の場合もこの「前頭極」は作用して思考回路を咄嗟に遮断し頭の中を真っ白にする。

これが厄介な事に、本来必要としない時でも本人の思い込みで極限状態に遭遇した時、頭の中を真っ白にした人間は理性のコントロールを失っているから本能で思わぬ行動をする。

「考える前に行動しろ」と言う信号が脳から肉体(からだ)に配信される事で、所謂「火事場の馬鹿力」や「無我無中」と表現される行動で、思考回路を遮断して理性を失っての行動であるから本人に行動そのものにまったく自覚が無い場合も有る。

自分では「大丈夫」と思っていた「振り込め詐欺」に警戒しながらも引っ掛かる事なども、この身を守る為に論理的な思考回路を遮断する「前頭極」の活性状態に電話口で相手の「脅迫観念」を利用した話術で誘導されてしまうからである。

信仰上でも、極度の不安(恐怖)状態に拠る「脅迫観念」から「前頭極」の活性に至って本人にまったく自覚が無い行動現象が起こり、周囲の者からすれば憑依(ひょうい)現象に見えるなどの奇跡の正体でもある。

つまり信仰上でも「振り込め詐欺紛(まが)い」の極限状態の演出に拠り、信心深いほど本人の思い込みで「前頭極の活性現象」は起こり得るもので、それを目の当たりにした周囲の者が、いっそうその信仰を深めるのである。


人は、水が無ければ生きては行けない。
しかし、まったくのH2O(純粋な水)では、1800ccも飲めば死んでしまう。(LD50)
不純物が入っているからこそ、飲料水になる。

水だけでなく、人間が無菌室で育てば、病弱で抵抗力の無い人になる。
適度な汚染の中で、「その汚染と向き合い、どう生きて行くか」を教えるべき所、現在では親も教育機関も、「建前だけの無菌室」で育てようとする。

それでは精神的に脆い身勝手な子供が出来上がり、「その子が既に親になる」と言う悪循環のサイクルに、現在がある。

彼らは、思い通り成らない現実に直面すると、為す術を失い、暴発する。
その部分だけを取り上げるとトラウマと思われる事例でも、遡って遠因を探ると、いま少し基本的な人の「生き方・育て方」の間違いが見えてくる。


人間は、ものを考える(思考する)から苦悩する。
実はこの思考を、停止させ(ゆだねる)る事で、苦悩から開放されるのが、信仰における救いである。

勿論、苦悩から救われる事は大事な事で、大いに結構である。
「無我の境地」と言うらしい。
しかし気を付けないと、思考を停止する事により、邪(よこしま)な教義に操られる事例も多い。

思想と信仰の自由は、わが国の法律で保障されているが、安易な奇麗事で教えを済まそうとし、現実を隠した理想論ばかりで、現実の役には立たない。

思想も信仰も人が生きて行く為の指針であるから、全てを否定する積りは無い。
唯、思想や信仰を盲信せず、それが本当に「良質なもの」なのかを、判断する力は、個人各々に必要である。

気を付けて欲しいのは指導者の質である。
思想も信仰も、ともすれば「僅かな指導者の利の為」に悪用される事が多い。

不安を煽って、教義や思想を無理やり押し付けたり、強引な「入信勧誘や資金集め」をする所は、まず怪しい。
それでも信じたい方は、せめて周りに迷惑を掛けないで居て欲しい。


人間、なまじ高度な知能を持った為に、自然に逆らい勝手に生き始めた。
困った事に、発達した脳は分裂して、思考回路が幾つも出来、矛盾した種類の思考を同時に幾つも持ち合わす様になった。

一人の人間が、善意も悪意も持ち合わせ、愛情も非情も持ち合わせる。
勿論、純愛的純情も、酷く身勝手なスケベ心も、時と場合に拠って持ち合わせている。
そこに自然との違和感が発生して、原始信仰や占術が生まれた。

性善説も性悪説も安易な線引きで、実は両方持ち合わせているのが人間であり、それを「一方に収めよう」とする所に無理がある。

本来、それだけ複雑で矛盾した種類の思考がある以上、強制行為、犯罪行為を別にすれば、「誰の思考が正しい」と結論付ける方こそ、「思い上がり」と言うものである。

ましてや他人に自分の信仰を強制するのは、「強制行為」と言う犯罪であるが、盲信者の論理は「良い事を教えて何が悪い。」と、メチャメチャであり、その自覚がない。

信仰に熱心な人物は、何処か心の奥底に存在する「不安感や依頼心」が根強く、基本的に精神力が弱い人間で、それを塗布しようとする気持ちが信仰を支えている。

否定するかも知れないが、信仰の基本が、理解し難い恐怖「畏怖」である以上、それから逃れる為に「信じ仰ぐ事」が信仰である。

それは心の問題だから、まったく理屈は通用しなくなり、一部の思考回路を遮断して、不自然な事柄も鵜呑みに盲信して、信仰への「依頼心」が益々強くなる。
また、自分で考えるより楽だから、自分の意志を信仰に預けてしまう愚行も犯す。


ここまでこの物語を読み進めた貴方、もうお気付きだとは思うが、念押しに解説して置く。

ご覧の通り、主だった寺社(総本山、総本宮)の最高位に就くのは、無名・無血統の人間が、「長い修行と英知で上り詰めたえらい人物だから」ではけしてない。
ほとんどが、「元々血統がえらい人物」が居場所を求めて就任したに過ぎなく、またはその子孫だったりする。

それも記録を調べてみると酷いもので、中にはその位に就く為に修行したのが「代理の者」だった事例も少なくない。
つまり修行や教義ではなく血統が問題で、それが「人を教え導く」と言うのが、この国の「固有の文化」らしい。

現代の主だった寺社にも、この元々「血統がえらい人物(皇胤貴族・氏神の血統)」の要件が生きていて、独占しているからお調べあれ。

もっとも、座主や宮司が血統がえらい人物(皇胤貴族・氏神の血統)だと、彼らが教義を何年学んで居ようが関わり無く、それだけでありがたがる者も未だに多いから、信仰心に微妙な懐疑心が生じる。

血統が即ち教義であれば、「古代の氏上(神)」の発想が変わらない事になる。
新興宗教の中にはこの心理を利用して、皇胤、落胤、を名乗る教祖も存在する。


どうも人間は基本的に横着者で、人生楽に生きたいらしく、その目標には熱心である。
不思議な矛盾として、楽になる為の出世競争や発明を、苦労しながら成し遂げようとする。

言い分は「いつか楽になる為の苦労」と言うのだが、お察しの通り、本当の所は人間のあらゆる欲求が「ない交ぜ」の事に拠る行動だから、簡単な答えなど最初から無いのである。
それを否定してしまうと、全てはそこで止まってしまう。

ものの考え方も同様で、欲求が「ない交ぜ」の問題を、一言で解決しようとする所に矛盾がある。

「先祖を大切にしろ」は、教えとして悪いものではない。
だが、宗教家や占い師が金儲け目当てに操ると、それはフィクションでしかない。
現世に起こりし我が身に降りかかる悪しき事象を自らの不徳とせず、霊界に或る「親兄弟や先祖の霊の所業」と疑うはそれこそ罰当たりである。

つまり先祖は、子孫に仇もなさないし繁栄も約束などしない。
それでも宗教や占いを信じたいなら個人の勝手で、止めはしない。
本来、先祖に対する思いは個人の精神の鏡だからで、他人が「どうこう言うべきものでない」のである。

そもそも、「先祖を大切にする」と言う思いは、感謝の念から始まった氏族の思いである。
日本の歴史に物を言ったのは、「お血筋」である。個人の能力に関係なく、「お血筋」さえ良ければ、世間はその存在を認めた。

その延長線上に、感謝の念を持って先祖を敬い祭る氏族の風土が出来、段々に一般化して行き宗教家や占い師が便乗した。
つまり圧政の苦しみにあえぐ庶民にとって、その身分の低い血筋の生まれは先祖を敬い祭るほどの「感謝の念が有った」とは思えないのである。

元々少しくらい矛盾が在っても、自己否定に繋がるから、強情を張るのが信仰の悪い所である。
信仰に頼るのもその「簡単な答えを導き出したい」と言う欲求の発露であるが、実の所受け取り方は取り方は何通りもあり、別解釈が出来るから結構都合が良い。

元々人間の心理は、法律も戒律も「他人や多民族に厳しい」と言う結構都合が良い建前のもので、本人の中には「少しくらいは大丈夫」と言う甘えがあっても、事他人や多民族に対しては、容赦はしないのが人間である。

神仏への信仰の拠り所は、幸福への願いである。
裏返して信仰の本音を言えば、自分の不幸を「神仏への信仰心に転化する事で逃れ様」と言う都合の良い逃れの安らぎではないのか?

人生の幸不幸を信仰に逃げ込む心理は判らないでもないが、幸福に成れない事を「神仏や先祖の霊のせいにするのは卑怯」と言うもので、本来はあくまでも現世を生きる者の責任である。


ここまで来れば、もう「判ってもらえる」と思うが、神は安全・安寧を願って「ひれ伏す対象」であり、仏は「生き行く為の悟りを導くもの」であって、両者共に精神世界の存在であるから、強欲に物理的利益を求めても叶える力は最初から無い。

つまり間違っているのは人間で、神や仏ではないのである。
占術・呪術に至っては、相手が信じて初めて効果をあげる物で、信じなければ何の力も無い。


人間が支配出来るのは人間だけで、大自然など、人間が支配できる訳が無い。
それを、信仰で支配しようとする所に、「信仰のおごり」がある。
とどのつまり、信仰は無力なのに、絶対視するから厄介な事になる。

所が日本人は、一般論的に他国人と違う宗教観の側面も持ち合わせている。
一般的に日本人の宗教に対する姿勢は、良く言えば「寛容」、悪く言えば「好い加減」である。

何故なら他国から見れば信じられない事だが、日本人は異宗教の神社とお寺を同時に信仰し、キリスト教徒の祭りであるクリスマスを楽しみ、最近ではラテン・カーニバルの模倣も町単位で始めてしまった。

判り易く言えば、クリスマスを楽しみ初詣に神社に行き寺もお参りもして一人の人間が異なった宗教の祭りを同時に違和感無く楽しむ。
それ故外国人に言わせると、日本人の宗教観は「えらく好い加減な信仰だ」と言われている。

これは、古(いにしえ)より長い歴史に培われた多神教社会の民族的間性で、一神教の国々では理解し難い事である。

こんな信仰の混在生活は他国では赦されない行為で、一神教のキリスト教国、イスラム教国、ユダヤ教国のみならず、同じ多神教の隣国・中国でもそれぞれの信仰はそれを信じる人は一筋で、国や地域で混在していても一人の人間の中での混在生活は在り得ない。

つまり日本人は信仰に対する「貞操観念が希薄」と映るらしい。

しかし、この日本人的寛容の感性、悪い意味で「好い加減」とばかりは言い切れない。

長い間多神教社会であったからこその「受け入れの良さ」もある。
それが証拠に、ユダヤ教徒だろうが、イスラム教徒、キリスト教徒、ヒンズー教徒、仏教徒に対峙しても、日本人は原則敵意を抱かない。
互いの宗教感を曖昧ながらも容認して一緒に楽しむ感性は、正に言葉通り「好い加減」な社会性かも知れない。

この事は「日本」と言う国家の成り立ちにその特異な宗教観の源が在る。
日本列島の歴史は、大和合(大和/やまと)の国の成り立ち方から始まり、世界でも珍しい「特異な文化」を結実させた。

黎明期の日本列島は、縄文人(先住蝦夷族/せんじゅうえみしぞく)の土地へ多くの渡来部族(征服部族)が進入して各々が土地を占拠、都市国家もどきの小国家群「倭の国々」を造り、やがてその「倭の国々」が大和合して大和朝廷を成立させるのだが、その過程で和合の為に宗教観に拠る紛争を排除する知恵を働かせた。

元々の先住蝦夷族(せんじゅうえみしぞく/縄文人)は調和主義の自然神崇拝で、万物が神だった。

そこに宗教が異なる各渡来部族(征服部族)が各々の神を持ち込んだのだが、大和朝廷は統合当地の為にそれらを争う事無く全て容認する八百万(やおよろず)の神の国を成立させ、縄文人(先住蝦夷族/せんじゅうえみしぞく)と渡来部族(征服部族)各部族が誓約(うけい)の混血を進めて弥生人を生み出したのである。

確かに一つの宗教に一筋の信心深い人にして見れば、日本人の宗教観は「貞操観念が希薄」と批判されるかも知れないが、一つの宗教に一筋の信心深い人達がその宗教観で相手を否定し紛争や戦争まで起こすと成ると、日本人の「えらく好い加減」な宗教観は、世界平和な良い物ではないだろうか?

実はこの宗教に対する日本人の「貞操観念が希薄」と同じように、今は失われた【日本人の性文化(誓約/うけい)】に於いても同様に大和合(大和/やまと)の国の成立の為に誓約(うけい)の混血を進める知恵を働かせ、性に於いても「貞操観念が希薄」な「特異な性文化」を結実させた。

その「特異な性文化」は、明治維新の文明開化まで村社会の中で「夜這い」や「寝宿」、「暗闇祭り」として生き続け、欧米の個人競争資本主義とはまったく違うイデオロギーの「共生社会」を成立させていた。

考えるに、或いはこの二つの「貞操観念の希薄」が世界平和と人類共生に通じ、地球危機を救うヒントになるかも知れない。


信仰が解決出来るのは、人間の弱い心の補完作用であるから、過大な期待をしてはいけない。
この心理を見失うから、多くの軋轢を信仰がもたらす。
釈迦も、キリストも、アッラーも、そんな事は純粋に望んでは居無い筈で、後世の指導者が己の利害を計算しているに過ぎない。

注意しなければいけないのは、「新しいから、或いは古いから正しい」と言う判断基準である。そんなものは、存在しない。
古いものは科学的に否定され、新しいものは立証が間に合わない。

こんな事を言うと、商売で信仰や占術をする方に非難されそうだが、つまりは、そんな状況の中で、「確定的な事を他人に言う事」事態が決定的且つ高度に怪しいのだ。

彼らの言い分の多くが、「古くから存在するから正しい。」と言うものだが、それなら、地動説(キリストは天動説)や種の起源は、世界最大の宗教であるキリストの教義に反する。

つまり、古くからの存在に魅力は感じても、「四千年も一万年も存在するから」と言って、けして正しさの判断基準には成らないのだ。


質濃いようだが信仰(宗教)は個々の精神世界のもので、憲法に保障されている信教の自由であるから他人がどうこう言うものではないし、他人に無理に押し付けるものでもない。

そもそも信仰(宗教)や占いは、「恐れ」や「現世利益への欲望」から成り立っている。
「恐れ」であるが、一例を挙げると自分に自信が無い人間ほど虐(いじ)められっ子で、虐(いじ)められても反発は出来ないし直面にする問題の解決が出来ない。

本来こうした事象は本人がアグレシブ(攻撃的)に立ち向かうべきだが、そう言う弱い人間は逃げに走り自傷行為や自殺に走ったり問題の解決を信仰(宗教)や占いに頼りたがる。

つまりあれこれ理屈を付けても答えは一つで、自分に自信があれば強く生きて行ける訳で、問題の解決を他に頼る事は深層心理において自身の能力に「自信が無い」と自覚すべきである。


信仰(宗教)や占いについては、利用する側と利用される側の二種類しかない。

自身の能力に「自信が無い」部分を信仰(宗教)や占いに頼っても奇跡は起こらないし、益してや「現世利益」を願ってその奇跡を「金で買おう」と言う邪(よこしま)な考えで、本人が努力もせずに信仰(宗教)や占いに金を積んでも「横着」と言うものである。
そう言う方は、利用する側の餌食に成るだけである。

自分に自信が有る者は信仰(宗教)や占いを信じないで利用しに掛かるが、自分に自信が無い者は信仰(宗教)に救いを求める。
そして困った事に、信仰(宗教)に救いを求める「自分に自信が無い者」こそ、「その事実を指摘される」と、「自分を否定された」と烈火のごとく怒り出す。

しかし良く考えた方が良い。
そう言う方は全てを「自分以外の他者のせい」にして逃げているのである。

訪れる不幸が「自分のせい」では無く「天からの授かり物」と考えるならば、全ての不幸が「神仏のせい、先祖のせい」にする事から始まってしまい、その信仰(宗教)や占いの矛盾に気が着くべきである。


元々の信仰の為の舞台では、「不気味さや怪しさの演出」が信仰を集める手段だった。
大概の所、人間は「恐怖心」を自分で作り出す。
それを助長するのが、宗教的演出である。

所が、人間の精神的頼りなさは、素地的にそこに共鳴してしまう。
それ故、本来なら充分な知性で乗り切るべき所を、手っ取り早く信仰に頼ってしまうのである。

人間は、常に自分だけ安全な「善意の側に居たがる卑怯者」である。
割の良い儲け話に欲を出して「騙された」と善意を振りかざすが、そんなに簡単に儲かる訳が無い。
欲を出した時点で、立派な共犯者ではないのか?

信仰も政治も似たようなもので、自分に利がないと「騙された」と善意を振りかざす。
つまり、信仰や政治に託す前に「まやかし」を見破れる知性が必要である。

本音で言えば、欲が深いのが人間の本性で、これを抑制するのもまた知性である。
つまり、重要なのは知性に基付いた理念である。
しかし多くの人々は理論や技術は学んでも知性は学ぼうとしない。
知性は金に成らないからである。

心理と言ってしまえばそれまでだが、この金に成らない知性を学ばなかったばかりに、人生を失う者が多い事に気が付くべきである。

元々人間の二面性は本性で、建前の優しさを持ち合わせながら本性では自分が一番大事である。
たとえ否定しょうが、自分の行動を省みれば、この点を認めざるを得ないのではないだろうか?


信仰や占術に於いて、その権威付けに利用されるのが未知なるものへの恐怖心理を巧みに利用し、そこから逃れる「心理的効果の演出」である。

最初から科学的だったのではなく、経験的学習の積み重ねがそれを完成させたのだが、心理的演出効果の応用で人間の感情のコントロールと上手にシンクロして居る。

その秘密の鍵が、「ベータ・エンドロフィン」と言う脳内分泌ホルモンの存在である。

ベータ・エンドロフィンは脳内麻薬(快感ホルモン)であるが、アルコールや、麻薬を含む薬剤と違い、体内で生成される無害の分泌ホルモンである。

最も身体に安全なだけでなく、体調や精神を整える効果がある良質な脳内麻薬で、老化と伴に訪れる体の痛みをそれと知らずに緩和する鎮痛作用の働きや不安心理を安心に変える効果もある。

鍼灸のツボ治療も、刺激によって脳の受け持ち部分を、ピック・アップ・ワンポイントでベータ・エンドロフィンを分泌させる為の行為である。
ベータ・エンドロフィンには痛みの緩和に止まらず、細胞の活性効果による自然治癒効果や、精神を安定させる効果もある。

つまり、泣いたり笑ったりの感情の発露は、ベータ・エンドロフィンを発生させ、精神バランスを取る為の「興奮」である。


興奮(こふうん)の要因は、「喜怒哀楽(きどあいらく)」と言われる四種類の感情の高まりに拠るものである。

先に「喜と楽」を取り上げるが、「喜と楽」は五感(視覚、聴覚、触覚、味覚、嗅覚)による刺激から起こるものである。

その五感の要因を多く含むもの、例えば、食事(食べ物には舌ざわりなど含めて視覚、聴覚、触覚、味覚、嗅覚全ての要素がある)や性的行為(多岐に輪たる性癖も含め五感を刺激する要因がある。)その他としては芸術的・信仰的・運動的な刺激を受けて発する感情の一つが、興奮(こふうん・ハイテンション)である。

裏返すと、これらは人間の「本能的な欲求(欲望)」であり、人間は五感を満たす為に行動している事になる。

興奮した状態になると、真っ先に心臓の鼓動が早まり血液の循環が早くなり、同時に血管が膨張して体温が上昇するが、発汗する事によって一定の体温に保たれようとする。

体質にもよるが興奮すると体全体に赤みを帯びる人もいる。
興奮から冷める事で興奮の状態から開放され、通常の状態へと戻るが、開放感などの快感を伴い、精神的バランスを取る上で効果が期待できる。

興奮した状態でいる間は通常に比べ大きなエネルギーを消費する為、長時間興奮している事は体力を浪費するが、この興奮状態が、快楽系快感ホルモン物質ベータ・エンドロフィンが脳内に分泌放出される事に拠って快感を感じるのである。

マラソンなどでの極限の運動でも、「ランナーズ・ハイ(テンション)」に拠る同等の快感を得る場合がある。
人間は性行為で快感を得れば、ベータ・エンドロフィンが脳内に分泌され放出される 。

快感から導かれる分泌ホルモンの効果「脳内物質ベータ・エンドロフィン」について説明と、人間が笑ったっり、興奮して快感を感じると、脳内物質のベータエンドロフィンが分泌される。

その「ベータ・エンドロフィン」というホルモンは、笑う事や、マイナスイオンを浴びる事でも同様に分泌され、食事や性行為の際、脳内で快楽系快感ホルモン物質が分泌放出される事で快感を感じるのである。

つまりあらゆる快感で分泌されるホルモンであるが、当然快感にはその内容に拠って、及び個の個性に拠って各々に程度がある。

実はこの快感から導かれる分泌ホルモンの効果は、鍼灸に於ける痛みを和らげる効果に始まり、精神安定(脳内ベータエンドロフィンを活性化させます) 自律神経の調整作用(自律神経の機能回復)を図るなどの治療効果にも生かされている。

ベータ・エンドルフィンと言うホルモンには、痛みをやわらげる作用があり、「脳内麻薬」とも言われていて、その効果は「麻酔に使われるモルヒネの数倍だ」と言われている。

脳内モルヒネなどとも言われ、快楽系ホルモンで満足感・幸福感により脳内に分泌される脳内麻薬の事である。

食事に於ける満足感・幸福感を得るには、五感(視覚、聴覚、触覚、味覚、嗅覚)刺激する要素が多いほど良いので、高級な食事の場所では、そうした要素を特に考慮したもてなしが為される事になる。

この物質、ベータ・エンドロフィンは、ガン細胞をもやっつける良質な力を持っている。
良い音楽は、脳に優しかったり過激だったりする。
しかし、優しかろうが過激だろうが、脳に「一方は精神的安定、一方は精神的興奮」と言う、質の違う快感をもたらす。

そのいずれもが、脳内麻薬のベーターエンドロフェンを生成させ、脳から不安感や痛みなどを緩和する役割を果たしている。
これは美しい物に癒されたり、荘厳な物に圧倒されたりの、視覚によるディスプレイ効果も同じである。

近代医学で直る見込みの無い者が、宗教で一定の改善効果を得る症例は正にこの応用で、けして信仰(宗教)上の奇跡ではない立派な理由がある。

音楽や、その音楽を併用した信仰(宗教儀式)のトリップ状態やスポーツに於ける極限状態「ランナーズ・ハイ」の快感で、この作用で分泌される脳内物質ベータ・エンドロフィンが効果を上げているのであり、実は特定の信仰の教義が、そのご利益をもたらした訳ではないのである。

つまり、外傷性の疾患に対する自然治癒能力と同様に、自ら脳の負担を緩和する機能をも、人間は有しているのである。

しかしながら、こうした人間の能力を「信仰に拠って強く引き出す」と言う観点から見れば、全面的に信仰が否定されるものではない。

「信じる者が救われる」は、このメカニズムからすれば、当然で、アフリカなどに於ける原始宗教の音楽や踊りのトリップも理に適っている。
つまり、悪魔(痛みによる苦しみ)を追い払う効果が、ベータ・エンドロフィンにはある。



自信を持った人間は、本人さえ思わぬ能力を発揮する。
その自信が、信仰をもった事をきっかけに発揮したものだと、たとえ本人の能力によるものでも「信仰の効果」だと錯覚する。
確かにそれは、「信仰のご利益」と言えない事も無い。


信仰(宗教儀式)のトリップ状態に関して補足すると、例えばであるが、信仰の派に拠って行われる一見、「御香を焚く」と言う行為は「安らぎを与える」と解されるか、実は五感の内の臭覚を満足させ、「ベーターエンドルフィンを脳内に発生させる」と言う静かな興奮の快感目的を持っている。

荘厳な賛美歌も、お経の読経も、神楽音楽も、コーラン(クルアーン)の祈りも、全て聴覚を刺激する事で、静かな興奮の快感をもたらす効果がある。

つまり、信仰の上で行われる「儀式めいたもの」は、五感を複合的に利用した経験学的な快感にもと付くもので、信者の共感を呼び込む科学的トリップ効果を演出しているのである。

「けして騙されている」と言いたいのではなく、その結果として心理的に好結果をもたらすなら、信じている信仰にその個人として間違いは無い。

芸術的要素には五感(視覚、聴覚、触覚、味覚、嗅覚)刺激するものが含まれて、成立している。
つまり芸術的人気は、人の五感を如何に刺激するかに掛って来るのである。

例えば音楽芸術に共感して、興奮するのはこの要素を満たされた場合である。
反対に五感の要因を取り入れて、興奮をコントロールする事で信者の欲求を満たし、共感を呼ぶ事で、信仰的なものは成り立っている。

運動的な刺激についても、運動する者だけでなくそれを見る立場(応援者)をも含めて、五感の要因が相互に働くから、プロ・アマを問わず存在が成り立って居るのである。

阿波踊りやよさこいソーラン、サンバなどの踊り狂う(トリップ状態)事も、実はランナーズハイに似た「心地良い疲れ」のベータ・エンドロフィン効果で、原型は信仰に結び付いた盆踊り(魂とのコンタクト)やカーニバル(お祭り)なのである。

良く考えると、それらには多くの要素が含まれて、よりトリップし易いものである事が判る。

さて、もう一方の「怒と哀」であるが、これは簡単に説明がつく。
簡単な話し、「喜と楽」を失う、または否定された時、即ち「本能的な欲求(欲望)」が満たされない時に起こる感情が「怒と哀」であるが、厄介な事にこの感情は、一時的にコントロールがむずかしい状態に陥る事である。

自身で「怒と哀」の感情を抑えるには、「喜と楽」に感情や環境を、素早く切り替える事が肝心である。
そう言う意味で、「喜と楽」には信仰や芸術など、別の興奮で心を慰める目的のものが存在する。

当然ながら、「怒と哀」を抑止する最大の効果は、性行為の「喜と楽の興奮」であるが、是非とも合法の範囲内で願いたい。


「病は気から」の例えがある通り、気の持ち様で治る病もある。
それには信仰による精神的安定は効果がある。
それが、信仰の奇跡である事は、否定しない。


昔の事だが、丸(がん)はクレオソート(つまり石炭酸)、丹(たん)は、紗砂(水銀)だった。
現在の仁丹は水銀とは関係ないが、丸(がん)と丹(たん)は、古くからの高貴薬の基本的名称だった。

勿論、丹(たん・水銀)の防腐効果を「不老不死」と誤解した事から端を発しているのだが、高貴薬として位置付けられ、当初は秘薬として一部の高位の者だけが密かに服用していた。

そして当時の丹(たん・水銀)は、服用すると「現在で言うラリル」の効果があり、そのトリップ状態が「降神(降釈迦)状態」であり、移り代(しろ)と言われるトリップ状態に成る為の、神懸り現象を生む為の「秘薬」だった。

弘法大師(空海)に拠る生き仏(即身仏)について、ミイラ化した大師のお体から丹(たん・水銀)服用が科学的に証明されつつある。
だからと言って、その時代、身を呈して真理を追究し、布教に努めた弘法大師(空海)を、現在の物差しで、水銀中毒患者と計るのは、時代考が出来ない人間の、安易な考えである事に変わりは無い。

信仰には奇跡が伴なうもので、丹(たん・水銀)の服用による大師(空海)様のトリップ状態の神懸り現象は、信者にすれば「仏が降臨するお姿」と解される説得力のある状態だった。

つまり、即身仏と成られた弘法大師(空海)のお体から大量の丹(たん・水銀)が検出された時、当初は「防腐剤を施したもの」と解釈されたが、内臓からも丹(たん・水銀)が大量に発見されるに及んで、ある疑問が浮上する。

大師(空海)様は生き仏として生きたまま即身仏に成られたのであるから、即身入場後に誰かが内臓にまで丹(たん・水銀)を施す事は理屈が合わない。生前から「ご自分でお飲みになった筈である。」と言う疑問である。



賀茂神社の大祭は、鎌倉時代の権中納言・勘解由小路(かでのこうじ)兼仲(かねなか)が書いた日記「勘仲記」によると、氏子らが木綿のたすきをかけ、「風俗歌を唱えて歩いた」と言う。
応仁・文明の乱による京都の荒廃で、約二百年間も中断された。

一度存在意義を失い、すっかり公家の名跡化した勘解由小路(かでのこうじ)家は、江戸初期に公家の烏丸家、烏丸光広の二男勘解由小路資忠(かでのこうじすけただ・参議正三位)を祖としてよみがえったのを期に、賀茂神社の大祭は、江戸期に復興をとげて、ようやくにぎわいを取り戻した。

勘解由小路(かでのこうじ)家は、江戸期を通じて家格を維持し、維新後も子爵、貴族院議員、元老院御用掛兼宮内省御用掛として終戦まで続いた。


(明治維新)

◇◆◇◆(明治維新)◆◇◆◇◆

やれやれ、我輩の歴史の旅も、漸く近代に差し掛かって来た。

鎌倉、室町、江戸と三度目の幕末が迫っていた。
お決まりの政権末期の大乱が、ユックリとしかし確実に忍び寄っていた。
不安感と不満感の、落着かないざわめきの中に、人心は在ったのである。
その落ち着かない世情が、後醍醐帝の魂を、覚醒させてしまったのかも知れない。

気が付くと、帝の奇蹟は、既に起こっていた。
それは大きな渦となって、当事者さえそれと知らないうちに、・・・・・・

何か重大な事が起こる時は、それなりの背景が存在するものである。
実は明治維新にも、人為的ではない「奇跡」が後押しをして居る。


幕末の機運が高まった安政年間(江戸時代後期)、世情不安をもたらす「天変地異」が立て続けに起こる。

千八百五十四年(嘉永七年/安政元年)、東海道地区で安政東海地震(マグニチュード八・四の巨大地震)、その僅か三十二時間後には安政南海地震(これもマグニチュード八・四の巨大地震)と、立て続けに発生して居る。

その翌年の千八百五十五年、今度は江戸府内および関八州一帯に被害をもたらした安政の関東大地震(マグニチュード六・九)が起きている。

この大地震を安政三大地震と言い、関東地震(関東)、東海(静岡県)、東南海(中京〜南紀)、南海(南紀〜四国)と、巨大地震がしばしば連動する。

この巨大地震、「同時期または二〜三年後に発生する」と言われ、「約百年〜百五十年の周期で活動期に入る」とされている。

安政三大地震は、関東・東海の各地に甚大な被害をもたらせる。
まだまだ文明開化以前の事で、日本に「地殻変動」などと言う地勢学の概念などまだ無いから、「神様がお怒りに成っている」と、民心は素朴に不吉がって、騒然としていた。

地震を科学的に理解する時代ではない江戸末期、天変地異は民心を不安ならしめ、幕府の権威失墜に、大きな力に成って作用しても不思議ではない。

ちょうど、黒船でぺりーが来航した時期(千八百五十三年〜四年の二回)と、この安政三大地震が重なるなど、幕府にとっては泣きっ面に蜂である。
そして詳しくは後述するが、「エエジャナイカ騒動」が起こって不安を煽り立てたのもこの時期だった。

ペリー艦隊に武力で威嚇された幕府は、当然ながら攘夷派と開国・通商派の間でその対応に紛糾する。

この幕府が混乱した時に、登場した幕府の大老が井伊直弼(いいなおすけ)で、彼は狂人的な開国論者だった。
マシュー・ペリー提督によって米大統領国書が江戸幕府に渡され、日米和親条約締結に至って、「幕末」の機運が盛り上がって行く。


ペリーの黒船来航(くろふねらいこう)とは、千八百五十三年(嘉永六年)に米国海軍東インド艦隊が、日本の江戸湾浦賀に来航した事件である。

今から百五十二年前(千八百五十三年)、東京湾の奥深く、江戸に近い浦賀にペリー艦隊がやって来る。

明治維新のきっかけとなった黒船来航についても、正しい見方が必要で、その目的は鎖国していた日本への「開国の要求」であるが、裏にあるのは「日本からの富の収奪」である。

ぺりー来航は、百五十年前の日米和親条約は極端な不平等条約で知られる「日米修好条約」の為であった。

通貨の「為替レートの比率が半分(1:2)」に決められ、米国の通貨二十ドル金貨=二十円金貨(当時世界的に金本位制だった)で金の目方(量)を合わせた単位で始めた通商は、決済には倍の四十円支払う事になり、大量の金銀を日本から米国へ流出する事と成った。

これで当初の目的、日本からの「富の収奪」は長期的に果たされる事に成るのである。

実はこのマシュー・ペリー提督との「日米和親条約」は酷い不平等条約で、その後の日本の未来に大きく暗い影を落とすものだった。

この権威失墜に乗じて、反幕派による「尊皇攘夷運動」を引き起こし、千八百五十八年頃の「安政の大獄事件」にと、歴史の場面が移り行く事になる。
日本史では一般に、このペリーの黒船来航事件から明治維新の新政府成立までを「幕末」と呼んでいる。


ペリーの来航に伴い幕府が孝明天皇の勅許無しで米国と日米修好通商条約を調印、開国に踏み切る前後の江戸幕府は、幕府の内部でも開国派と攘夷派の間で暗闘が始まっていた。

嘉永から安政年間に渡る幕政は、老中首座の阿部正弘によってリードされていて、ペリーの来航時の阿部は幕政を従来の譜代大名中心から雄藩(徳川斉昭、松平慶永ら)との連携方式に移行させ、徳川斉昭(なりあき/水戸藩・第九代藩主)を海防掛顧問(外交顧問)として幕政に参与させた。

所がこの徳川斉昭(とくがわなりあき)は度々攘夷を強く唱え、開国派の井伊直弼(いいなおすけ)と対立している。

井伊直弼(いいなおすけ)は、第十一代藩主・井伊直中の十四男として近江国犬上郡の彦根城(現在の滋賀県彦根市)で生まれ、幼名は鉄之介と名付けられたが、子沢山の藩主の庶子で養子の口も無く元服成人後も三百俵の捨扶持の部屋住みとして三十二歳まで過ごした。

所が、第十二代藩主・直亮(なおあき/直中三男)に実子が無かった為に世継ぎと決められていた直元(直中十一男)が死去した事により藩主・直亮(なおあき)より彦根藩の後継者に指名されて運命が変わった。

井伊家は、あの徳川家康が寵愛して大名にまで取り立てられた稚児上がりの武将・井伊直政(いいなおまさ)を祖に持つ近江国・彦根藩三十五万石の大藩である。


千八百五十年(嘉永三年)、兄で養父の第十二代藩主・井伊直亮(いいなおあき)の死去に伴い家督を継いで掃部頭(かもんのかみ)に遷任、第十三代藩主・井伊掃部頭直弼(かもんのかみなおすけ)となる。

井伊直弼(いいなおすけ)が第十三代の井伊藩主として幕府に出仕して三年、千八百五十三年(嘉永六年)に米国ペリー艦隊が来航、直弼(なおすけ)は江戸湾防備にあたったが、老中首座の阿部正弘の諮問には「政治的方便で臨機応変に対応すべきで、この際開国して交易すべし」と開国論を主張したとされている。

千八百五十五年(安政二年)になると、攘夷を強く唱える徳川斉昭(とくがわなりあき)と井伊直弼(いいなおすけ)ら溜間詰(たまりのまづめ/江戸城で名門譜代大名が詰める席)諸侯の対立は、日米和親条約の締結をめぐる江戸城西湖の間での討議で頂点に達した。

同年、斉昭(なりあき)は開国・通商派の老中・松平乗全と老中・松平忠固の更迭を要求、老中首座の阿部正弘は止む無く両名を老中から退けた。

老中首座の阿部が松平乗全と松平忠固を退けたのだが、掃部頭(かもんのかみ)兼任のまま左近衛権中将に遷任して溜間筆頭(江戸城で名門譜代大名が詰める席の最上位)に居た直弼(なおすけ)はそれでも猛烈に抗議し、溜間の意向を酌(く)んだ者を速やかに老中に補充するよう阿部に迫る。

井伊直弼(いいなおすけ)と溜間詰(たまりのまづめ)諸侯の猛抗議に、阿部は止む無く溜間(たまりのま)の堀田正睦(開国派、下総佐倉藩主)を老中首座に起用し、対立の収束を図る。

千八百五十七年(安政四年)、直弼(なおすけ)が従四位上に昇叙される頃阿部正弘が死去すると堀田正睦は直ちに松平忠固を老中に再任し、幕政は溜間(たまりのま)の意向を反映した堀田・松平の連立幕閣を形成した。

所が、徳川家定(第十三代将軍)の継嗣問題が起こり、堀田・松平の連立幕閣が紀伊藩主の徳川慶福を推挙すると一橋慶喜を推す一橋派の徳川斉昭との対立を深めて行く。

国論が開国派と攘夷派に、幕府が将軍継嗣問題で徳川慶福派と一橋慶喜派に割れる千八百五十八年(安政五年)、老中・松平忠固や紀州藩付家老職・水野忠央ら南紀派の政治工作により、井伊直弼(いいなおすけ)は江戸幕府の大老に就任した。

この直弼(なおすけ)の大老就任は、異常事態に人選に困った幕閣が、本来なら現在で言う派閥の領袖(りょうしゅう)クラスの老中ではなく、溜間詰(たまりのまづめ)と言う現在で言う派閥の番頭クラスからいきなり総理大臣になった様なもので、この事が既に江戸幕府の弱体を曝け出した結果である。

この大老に就任した井伊直弼(いいなおすけ)、権力を握ると独裁者に変身する。

就任直後に米国との日米修好通商条約を孝明天皇の勅許を受ける事無く調印し、その無断調印の責任を自派の堀田正睦、松平忠固に着せて閣外に逐い、かわりに太田資始、間部詮勝、松平乗全を老中に起用し、尊皇攘夷派が活動する騒擾の世中にあって、強権をもって治安を回復しようと独裁体制を築きあげる。

独裁体制を築いた井伊直弼(いいなおすけ)は将軍後継問題に着手、強引に徳川慶福を第十四代将軍・徳川家茂(いえもち)とすると、一橋慶喜を推薦していた水戸徳川家の徳川斉昭や松平慶永らを蟄居させ、川路聖謨、水野忠徳、岩瀬忠震、永井尚志らの有能な吏僚らを左遷する強引な手法で権力を集中させていく。

その後も直弼(なおすけ)の方針に反目する老中・久世広周、寺社奉行・板倉勝静らを免職にし、その独裁振りに内外の批判の矢面に立つ。

孝明天皇は、こうした井伊直弼(いいなおすけ)の独裁強権に憤って井伊の排斥を呼びかける「戊午の密勅」を水戸藩に発している。

武家の秩序を無視して大名に井伊の排斥を呼びかける前代未聞の朝廷の政治関与に対して直弼(なおすけ)は態度を硬化させ、直弼は水戸藩に密勅の返納を命じる。

一方、間部詮勝を京に派遣し、密勅に関与した人物の摘発を命じ、後に「安政の大獄」と呼ばれる多数の志士(吉田松陰などの活動家)や公卿(中川宮朝彦親王)らの粛清が開始される。



物事の大事に出会った時、それを奇跡と判断するか、必然と判断するかは、その人の感性による。

信仰に厚い者は「奇跡」と判断し、論理的な者は「必然」と判断する。
その辺りが、人間の人間たる由縁(ゆえん)で、どちらも「間違い」とは安易に言い難い。
しかしながら、信仰にのめり込むばかりに理屈に合わない事ばかり言い出すと、それは無茶な事を押し付ける事になる。

この物語における「明治維新」は、正に「奇跡」と「必然」の成せる業だったのである。


江戸時代末期になると、思わぬ形で陰陽師勘解由小路党の亡霊がよみがえる。
維新に於ける倒幕派の陰謀である。

吉田松陰、坂本竜馬、高杉晋作、桂小五郎、久坂玄瑞、西郷隆盛、大久保利通、井上馨、伊藤博文など維新の立役者を数え上げたらきりが無い。
この維新の本拠地になったのは、薩摩、長州、土佐、肥前、の各藩である。

後の維新政府高官に、この四藩の出身者が群を抜いて多く居たのは言うまでも無い。

明治維新の立役者である勤皇の志士は、果たして英雄だったのだろうか?
織田信長と比べると、彼らは明らかに「小粒」と言わざるを得ない。
信長は皇統その物の簒奪(さんだつ)を狙ったが、勤皇の志士の考えていた事はせいぜい藩主止まりの「形を変えた下克上」の範疇だった。

彼らは永い事最下級の氏(うじ)、つまり下士だったから、「そこから這い上がろう」と言う志はあった。
その固定された血の身分を呪ってはいたが、その目標は幕府止まりで、根本にある皇統まで「どうにかしよう」とは思い至らない。
それでも現状打破の為に、活路を尊皇攘夷に求めた。

彼らは、外様の悲哀と下士の身分の悲哀を先祖代々受け継いで、骨身に沁み、向上心に燃えていた。
そこに黒船騒ぎで、頭角を現す為の「良いきっかけとなった。」のが偽らざる処だった。

それ故、彼らは長年の思いも、激しく倒幕の運動にぶつけた。
中核になったのは松下村塾である。
本音で言えば、現状を変える事が彼らの最大の目標で、攘夷など、途中から吹っ飛んでしまっている。

素顔の彼らは、野心に満ちていた。
ただしそれは、自分の国を「理想的な近代国家に生まれ変わらせる」と言う青臭い理想に燃えていたからで、吉田松蔭の教えの存在が大きかったのである。

体制派は保身に走り、どうしても現状維持に走る。
しかしながら、既にそれでは乗り越えられない国際情勢だった。
外からの情報を遮断して、国家体制の維持を図ってきた藩幕鎖国体制は、外圧で行き詰まっていたのである。

結論から言うと、勤皇の志士は「看板の通り」皇統を大事にする根っからの大和民族(日本人)である。
若く純真な彼らは、二千年に及ぶわが国の血のブランドを素直に信じただけで、彼らの国際感覚は、当初けして新しくは無かった。
しかし攘夷運動の中で、欧米列強との力の差を学習する。

元々攘夷は口実で有るから、攘夷に関しては簡単に看板を下している。
しかしながらこの尊王運動が、最終的に形骸化しつつあった氏姓制度に引導を渡す事になった。

その尊王運動も、本音で言うと多分にスローガン的要素が強い。
近頃のどこぞの国の「民営化一辺倒の選挙」と同じで、建前を利用して本命は他に在った。

過去の歴史を見てもそうだが、個々の帝(天皇)を必ずしも尊敬している訳では無い所が、この天皇の「制度としての存在」である。

ところが藩主諸侯も、建前で行くと天皇から官位を授けられている朝臣であるから、正論のスローガンに面と向かって異議は唱え難い。
この辺りが、日本的と言えば至極日本的である。


そもそも徳川幕府自身が、血統を拠り所にした統治体制である。
それ故制度としての天皇の存在(皇統)は否定出来ない。
つまり血統を拠り所に統治体制が維持されて来た。
従って幕藩体制が続く限り、自分達の固定化した血統の身分は変わらない。

当時先端の学問だった蘭学(西洋文明)を学ぶ聡明な下級武士が、この不条理に何も思わない訳が無い。
彼らは、先祖から永く続いていたどうにも成らない下級武士の境遇から抜け出す為に、倒幕に賭けたのである。



明治維新を迎える少し前、日本は欧米列強各国から開国を迫られ歴史的大変換期を迎えていた。
黒船騒ぎである。

これに危機感を感じた若い有志の人材が立ち上がったのは事実で、当然の事ながら、既得権益を持つ者は変化を求めないから現状維持に動く。
本来、既得権益を持たざるものでなければ、根本からの改革など問題意識も意欲もある訳が無い。

従って、「政権内部から改革が起こる」などと思うのは夢物語で、現実にある訳も無く、精々形を変えた権力闘争が関の山で、それに気が付いた頃には、「時既に遅し」が現実で、旨い事組み込まれた既得権益に「搾取され続ける」と言う事である。

黒船騒ぎは決定的だった。
ろくに機会も与えられないまま、身分の閉塞状態が二百五十年も続いていた。
度重なる騒然とした世相に拠る幕府の権威の失墜が、多くの下士(下級武士)に希望の火を灯させてしまったのだ。

動乱の兆しだった。
もしかしたら、この先祖代代続いた「下士(下級武士)」の身分から「脱出できるかも知れない。」
その意気込みは幕府や藩主、つまり既得権者の想像より遥かにに強く、一途だった。


幕府の力が弱まって、下級武士どころか公家にも「好機(チャンス)」が生まれた。

当時の公家が受領していた知行は、百五十石から多くて六百石くらいが普通で、下級武士と大差が無い。
その扱いに、公家は当然ながら徳川幕府に不満を持ち、下級武士と同じ様に現状打破を画策する。

幕府転覆に活路を見い出さないと、彼らもまた、閉塞感に苛まれる現状がこの先続く事になる。

とどのつまりは、「閉塞状態に置かれた自分達の立場を脱却する」と言う共通した思いが、公家と下級武士両者に在った。
「尊皇攘夷」はスローガンに過ぎないのだ。



この、日本の存続も危ぶまれる大変な時に、朝廷と徳川政権は、「古い思想の保守的な考えを守ろう」としていた。

守旧派のトップは、北朝系「孝明天皇」と徳川第十四代将軍「家持」で、二人の思想は、「公武合体、鎖国攘夷」である。
二人は和宮(孝明天皇の妹、家持の妻)を通じて義兄弟で、旧体制の維持を謀っていた。

その二人が、相次いで亡くなった。
その死が不自然で、今でも、根強く「暗殺説」が囁かれている。
この時明治維新の大業がなされなければ、日本の運命は何処かの植民地に、変わっていたかも知れない。

しかし、孝明天皇は病死した。
その跡を継いだ睦仁親王(明治天皇)が、途中で「誰かと入れ替わった」と言う噂が存在する。

その勤皇の志士の中心となったのが、長州藩と薩摩藩だった。
勿論両藩には、永年の外様の悲哀を感じていた大藩故の条件環境の整いが、藩論を倒幕に到らしめる要素では在った。

中でも長州藩には、吉田松陰が見出して育んでいた陰謀とも言うべき恐るべき隠し玉が存在していた。
幕末(江戸時代末期)には、長州藩はその隠し玉故に「公武合体論や尊皇攘夷」を主張して京都の政局へ積極的に関わり、詰まる所は倒幕に持ち込んだ。

長州・毛利藩(ちょうしゅうもうりはん)は、江戸時代に周防国と長門国の二ヵ国を領国とした有力外様大名・毛利氏を藩主とする藩で、居城を萩に構えた事から萩藩・萩侯毛利氏とも呼ばれ、幕藩体制での家格は国主・大広間詰である。

藩主・毛利氏は、鎌倉幕府の初期に源頼朝の側近実務官僚として活躍した政所初代別当(長官)・大江広元の四男・大江季光を祖とする一族である。

鎌倉時代末期から南北朝時代初期にかけては越後国佐橋庄南条(現在の新潟県柏崎市)に在ったが、その後安芸国高田郡吉田(現在の広島県安芸高田市)へ移って国人小領主として毛利氏を名乗り戦国時代を迎える。

名字の「毛利」は、大江季光が父・広元から受け継いだ所領の相模国愛甲郡毛利庄(もりのしょう、現在の神奈川県厚木市周辺)に由来し、「毛利」の元来の読みは「もり」だが、後に「もうり」と読まれるようになった。

その後、毛利元就が出て、琳聖(りんしょう)太子の末裔を名乗る大内氏の所領を下克上で横領した陶(すえ)氏を破り大内氏の所領の大部分を領して戦国大名に脱皮、尼子氏を破って尼子氏の所領を併せ、最盛期には中国地方十ヵ国と北九州の一部を領国に置く最大級の大名に成長した。

毛利元就の継子・毛利輝元は織田信長の標的にされて配下の豊臣秀吉に攻められ、本能寺の変で信長が明智光秀に討たれた後、秀吉が光秀を破って天下を取ると、争いを避けて豊臣秀吉に臣従した。

豊臣政権下では安藝・周防・長門・備中半国・備後・伯耆半国・出雲・石見・隠岐の百二十万石強(実高は二百万石を超える)を安堵され、秀吉の晩年には五大老に推されてこれを任じている。

豊臣秀吉没後の関ヶ原の合戦では西軍・豊臣方の名目上の総大将として石田三成に担ぎ出され、輝元は大坂城西の丸に入った。
だが、主家を裏切り東軍に内通していた一族の吉川広家により徳川家康に対しては敵意がない事を確認、毛利家の所領は安泰との約束を家康の側近から得ていた。

それが、関ヶ原戦後家康は輝元が西軍に積極的に関与していた書状を大坂城で押収した事を根拠に、一転して輝元の戦争責任を問い、所領安堵の約束を反故にして毛利家を減封処分の仕置きとして輝元は隠居となし、継子・秀就に周防・長門国の二ヵ国を与える事として江戸期の長州・毛利藩(萩藩)となった。

この時の家康の仕置きが長州・毛利藩(萩藩)の怨念となって、江戸幕府末期に到って倒幕派有力大名として幕末を主導する要因とも言われている。

ただ、家康側にして見れば、天下を治めるにあたり毛利家を豊臣政権下そのままの所領安泰とするには余りにも大藩だった事は事実で、止む負えない仕儀だったのであろう。

江戸期を通じての長州・毛利藩(萩藩)の公認表高は三十七万石弱だが、関ヶ原戦直後の慶長年代でも実高は五十万石を越える検地の記録があり、幕末期にはその藩力から「実高(裏高)百万石を超えていた」と考えられている。


明治維新史に燦然と輝く吉田松陰/吉田矩方(よしだしょういん/よしだのりかた)の幼名は、杉虎之助または杉大次郎と言い、杉家は「大内家の傍流」と言われて居る。

つまり事の真贋はともかく、言い伝えに拠れば杉家は百済国・聖明(さいめい)王の第三王子・琳聖太子の末裔と言う事に成る。

家禄二十六石の萩藩士の子として生まれたが、次男だったので父の弟である家禄五十七石余、毛利氏に山鹿流兵学師範として仕える吉田家の養子となり、吉田姓を名乗る。


倒幕のリーダー的役わりを担ったのが、長州藩士、藤原氏の末裔を称する吉田松陰の私塾・松下村塾(しょうかそんじゅく)である。

実は、長州藩に於いて松下村塾の熟生が台頭するには周布政之助(すふまさのすけ)の存在が大きい。

周布兼翼・政之助(すふかねすけ・まさのすけ)、通称・周布政之助(すふまさのすけ)は、長州藩に於いての松下村塾(所謂松陰派)出身者の登用に熱心な理解者だった。

長州藩士(大組二百十九石)・周布吉左衛門の五男として生まれた周布政之助(すふまさのすけ)は、僅か生後六ヶ月の時に父と長兄が相次いで歿した事に拠る末期養子として家禄を六十八石に減ぜられて家督を相続した。

周布政之助が長州藩で頭角を現したのは遅く、千八百四十七年(弘化四年)の二十四歳の時に祐筆・椋梨藤太(むくなしとうた)の添役として抜擢され藩政に参画を始めた。

藩政の実権を掌握して長州藩・天保の改革に取り組んでいた家老・村田清風の後ろ盾を得て頭角を現した周布は、村田清風の病没後に改革派の村田清風の路線を継ぎ政務役筆頭として藩財政の再建、軍制改革、殖産興業等の藩政改革に尽力し、また桂小五郎・高杉晋作ら、吉田松陰の教えを受けた若い人材の登用に熱心で在った。

所が周布政之助は、天保の藩政改革を行った家老・村田清風の影響を受けた人脈として村田の政敵で在った保守佐幕派(俗論派)の坪井九右衛門派の藤太椋梨らと対立する事になり、藩内の派閥争いに敗れて、周布は一時失脚した。

しかし実直な性格の周布は、多くの人望を集め再度藩政に復帰し、尊皇攘夷を掲げて藩政の陣頭に立つ。

周布政之助は本来、攘夷の愚を知る開国論者だった。

千八百六十二年(文久二年)頃に長州藩論の主流となった長井雅楽の航海遠略策にも一時同調したが、久坂玄瑞ら松下村塾系の攘夷派若手藩士らに説得され、藩論統一の為にあえて攘夷を唱える事で守旧派に対抗して藩政改革の起爆剤とする策に出る。

周布政之助(すふまさのすけ)は、高杉晋作ら長州藩の若い藩士達の良き理解者として、藩政改革を目的に尊皇攘夷を推進し倒幕のきっかけを創った。

「酒癖が悪かった」とも「愚直なほど一途な性格だった」とも言われる周布は、多くの舌禍事件を起こし、度々に逼塞処分(ひっそく/閉門より軽いおとなしくしている処分)を受けたが、その有能さから復活を果たし、その都度長州藩々政へ復帰している。

千八百六十四年の禁門の変や第一次長州征伐に際して周布政之助は、事態の収拾に奔走したが、藩政の実権を次第に椋梨藤太ら保守佐幕派(俗論派)へ奪われる事となり、その責任を感じた周布は山口矢原(現・山口市幸町)の地で切腹を遂げた。

いずれにしても、明治維新に到る歴史的過程で周布政之助が果たした役割と影響は少なくはない。

元々松下村塾(しょうかそんじゅく)は松陰の叔父である玉木文之進が長州萩城下の松本村(現在の山口県萩市)に設立したもので、若き吉田虎之助(松陰)もそこで学んだ。

頭脳明せきだった吉田虎之助(松陰)は直ぐに頭角を現し、十歳の時には既に藩主・毛利敬親の御前で「武教全書」戦法篇を講義し、藩校明倫館の兵学教授として出仕する。

そんな吉田虎之助(松陰)に転機が訪れる。
折から西欧植民地主義が直ぐ近くまでヒタヒタと迫っていて、松陰は隣国の大国・清がアヘン戦争で大敗した事を伝え知って、己が学んだ山鹿流兵学が世界列強相手に通用しない事を知った。

松陰は西洋兵学を学ぶ志を立て、千八百五十年(嘉永三年)に当時唯一窓口(長崎出島)の在る九州に遊学、その後江戸に出て佐久間象山の師事をして蘭学を学んだ。

この吉田虎之助(松陰)、頭は良かったが「こうする」と決めたら後先を考えないで突き進む頑固な所が在り、身内はその度に振り回されている。
江戸遊学中の千八百五十二年(嘉永五年)最初の事件を仕出かす。

友人・尊皇攘夷派の熊本藩士・宮部鼎蔵(みやべていぞう)らと藩(長州藩)の許可を得る事無く東北の会津藩などを旅行した為、これを脱藩行為とされ藩(長州藩)から罪に問われて士籍剥奪・世禄没収の処分を受けた。

所が、ここからが吉田松蔭の真骨頂で、翌年(嘉永六年)に米国のマシュー・ペリーが艦隊を率いて浦賀に来航すると、師の佐久間象山と浦賀に同行して黒船を視察し、その西洋の先進文明に心を打たれ、翌千八百五十四年、再来日したペリーの艦隊に対して米国密航を望んで、直接交渉すべく小船で近寄りその密航を拒絶されて送還された。

松蔭は米国蜜航の夢破れると奉行所に自首して伝馬町の牢屋敷に送られ、師匠の佐久間象山もこの密航事件に連座して入牢されている。
この密航事件の仕置き、幕府の一部には死罪の意見も在ったが、時の老中首座の阿部正弘が反対して助命され、松蔭は藩(長州藩)に送られ長州の野山獄に繋がれる。


翌千八百五十五年(安政二年)、吉田松蔭は杉家に幽閉の身分に処され蟄居する事で出獄を許された。
その二年後の千八百五十七年(安政四年)叔父・玉木文之進が主宰していた松下村塾の名を引き継ぎ、杉家の敷地に母屋を増築して松下村塾を開塾する。

吉田松陰は、松下村塾を叔父である玉木文之進から引継ぎ、僅か三年の間に桂小五郎(木戸孝允)、高杉晋作、久坂玄瑞、伊藤俊輔(博文)、井上馨、山県有朋、吉田稔麿、前原一誠など維新の指導者となる人材を教えてる。

そして幸運と言うべきか歴史の必然だったのか、長州藩内に在って倒幕運動の指導的役割を果たした松下村塾出身者は、先進感覚に優れた政務役筆頭の周布政之助(すふまさのすけ)に登用されて藩政に参画して行く。


実は、吉田松陰の生家である杉家には代々語り継がれている南朝・後醍醐帝の皇子・良光(ながみつ)親王の末裔の容易ならぬ言い伝えがあった。

在る日松陰は、周防国佐波郡相畑から学びにやって来た長州藩の下級武士である伊藤直右衛門(伊藤博文)と意見を交わしていて伊藤からその南朝・後醍醐帝の皇子末裔の事を確かめた。
すると伊藤から、「確かにそう言う家が存在する」と回答が得られた。

伊藤直右衛門(伊藤博文)の父・十蔵が水井家に養子に入り、その水井家当主・武兵衛(義理の祖父)が長州藩士・伊藤家に養子に入ると言う三段跳びで士分になる。

伊藤十蔵は、前は周防国熊毛郡束荷村字野尻で農家を営んでいたのだが、その周防国熊毛郡に南朝の親王の血筋を引く者が居て、永い事長州藩の秘せる隠し玉として「当地の士分の者(佐藤家)」が、藩命を得て「代々養育している」と言うのである。

杉家の言い伝えに符合するこの話し、松陰には脳に灯明が灯るほどの案が浮かんだ。

長門国萩から周防国熊毛までは二十里ほどの距離だが、吉田松陰は久坂玄瑞、高杉晋作、井上馨、伊藤博文、等を引き連れて会いに行く。
松陰一行が誰と会い、どんな話をしたのかは定かでないが、尊王思想家の松陰にはある計画が浮かんでいた。

「これなら、上手く行くだろう。」
そして松陰は、井上馨、伊藤博文の両君にこの良光(ながみつ)親王の末裔の世話を頼むとともに、久坂玄瑞、高杉晋作、等にある構想を伝えている。


千八百五十八年(安政五年)、尊王思想だった吉田松陰は幕府が朝廷の勅許を受けずに日米修好通商条約を締結した事を知って激怒し、討幕を表明して老中首座である間部詮勝の暗殺を計画する。

所が、西洋文明を受け入れたい開国思想を持つ弟子の久坂玄瑞、高杉晋作や桂小五郎(木戸孝允)らは反対して同調しなかった為に倒幕計画は頓挫し、松陰は長州藩に自首して老中暗殺計画を自供し、また野山獄に送られた。

翌千九百五十九年(安政六年)、幕府の体制が変わり大老に井伊直弼(いいなおすけ)が就任して「安政の大獄」を始め、野山獄に在った松陰も江戸の伝馬町牢屋敷に送られる。

井伊直弼(いいなおすけ)は権威を失いつつある幕府を立て直す為に躍起で、幕閣の大半が妥当と考えていた「遠島」を翻して「死罪」を命じた為、この年(千九百五十九年/安政六年)の十月に斬刑に処されている。

師と言う者は、良くも悪くも教え子に一生に影響を与えるものである。
松下村塾の吉田松陰は教え子から多くの明治維新の英雄を輩出させたが、反体制思想を教えたのであるから事の是非を勘案しなければ体制側の江戸徳川幕府から見れば体制崩壊の危険思想を植え付けた事になる。

当然ながら、危険分子を育成する吉田松陰は粛清しなければ成らない。
吉田松陰自身は、安政の大獄に連座して刑死するが、この松下村塾出身の藩士の多くは尊皇攘夷を掲げて倒幕運動を主導して明治維新の原動力となった。

その中心人物が、高杉晋作だった。
高杉晋作は、政務役筆頭・周布政之助(すふまさのすけ)の後援を受け、長州藩の若手藩士達のリーダーとして共に尊皇攘夷を推進した。

松下村塾に「秀才が集まった」と言うが、向き不向きの選択を間違えずに、人間やる気に成れば、大抵の人間が途轍もない事を遣りおおせるものである。

吉田松陰の下に、やる気の若者が集まった事は、時代の要請とは言えその指導力は大したものである。


大老に就任した井伊直弼(いいなおすけ)は、朝廷の勅許が得られないまま独断で安政の五ヶ国条約に調印し、一橋派・南紀派の将軍継嗣問題を強行に裁決し、「安政の大獄」に拠る強権政治で尊攘派の怨嗟をうける。

特に藩主の父・徳川斉昭への謹慎処分などで特に反発の多かった水戸藩では、高橋多一郎や金子孫二郎などの過激浪士が脱藩して薩摩藩の有村次左衛門などと連絡し、薩摩の率兵上京による義軍及び孝明天皇の勅書をもってのクーデター計画を企てていた。

しかし薩摩藩内の情勢が変わり、止む無く薩摩から有村次左衛門のみが加わって水戸の激派が独自に大老襲撃を断行する。
この大老襲撃計画の警告は井伊家に届いていたが、直弼(なおすけ)は大老職に在る者として臆病の批判を恐れ、あえて護衛を強化しなかった。


千八百六十年(安政七年)、直弼(なおすけ)が幕府大老に就任して二年が経っていた。
そこで世に言う「桜田門外の変(さくらだもんがいのへん)」が起こる。
「桜田門外の変」は、江戸城桜田門外(東京都千代田区)にて尊攘派の水戸藩の浪士らが大老・井伊直弼の行列を襲撃し暗殺した事件である。

大老襲撃隊は東海道品川宿(東京都品川区)の旅籠で決行前の宴を催し一晩過ごし、当日朝品川宿を出発して東海道を進み、大木戸を経て札ノ辻を曲がり、網坂、神明坂、中之橋を過ぎて桜田通りへ抜け、愛宕神社(港区)で待ち合わせたうえで外桜田門へ向かい、大名駕籠見物を装って登城する直弼(なおすけ)の行列を待つ。

三月三日の当日朝は生憎の気象で江戸市中は季節外れの雪で視界は悪く、井伊藩邸上屋敷(現在憲政記念館の地)から登城する直弼(なおすけ)の護衛の供侍たちは雨合羽を羽織り、刀の柄に袋をかけていた。

その登城途中の直弼(なおすけ)を、大老襲撃隊の水戸藩過激派浪士は江戸城外桜田門外(現在の桜田門交差点)で襲撃する。

その襲撃の端緒から直弼(なおすけ)は不運だった。
駕籠にめがけて発射した襲撃隊の合図のピストルの弾丸によって直弼(なおすけ)は腰部から太腿にかけて銃創を負い、雪の上に放置された駕籠の中で動けなくな成っていた。

供周りも不運である。

大老の体裁を整えた雪中の行列の為、襲撃を受けた」彦根藩士は柄袋が邪魔して咄嗟に抜刀できなかった為、鞘で抵抗したり素手で刀を掴んで指を切り落とされるなど不利な形勢で、抗しきれず斬り伏せられてしまう。

護る者の居なく成った直弼(なおすけ)の駕籠に次々に刀が突き立てられ、有村次左衛門に駕籠から引きずり出されて首を撥ねられて止めを刺され、直弼(なおすけ)は絶命した。

この独裁者として評判が悪かった井伊直弼(いいなおすけ)であるが、米国のペリーが来航して「開国・通商を迫る」と言う予想外の事態(特殊な事情)がきっかけで台頭しなければチャンスが無かった。

そして周囲の実力者に担ぎ上げられて権力を掌握すると独裁者に変身し、自分を推した味方した者まで切って棄てる冷酷な所は、誰とは言わないが、たまたま派閥の番頭で金集めは派閥の領袖がしていた為に、金銭的に身綺麗だっただけで、派閥の部屋住みの身から総理の座を手に入れて独裁者に変身した近頃の総理大臣に酷似している。

但し井伊直弼(いいなおすけ)の暗殺の頃から尊攘派の知識人が外国の圧倒的な先進国力を学んで攘夷を棄て、尊王開国派に転進して倒幕に向かったのは実に皮肉な結果で、直弼(なおすけ)の開国の決断は結果的に歴史が肯定する結果と成っている。

ただ井伊直弼(いいなおすけ)は、既に命運尽きる落日の江戸幕府に在って、強引な政策をして最後の炎を一瞬たぎらせた事は確かである。


元々野心満々に、王になる為に列島に渡り来た氏族の血統を受け継ぐのが彼らで、時の温くもりの中に抱かれて生きる幸せは、彼らの生き方にはない。
つまり、列島に動乱を引起すのは、皇統の影人達の氏族の思い、悲しくもその血だった。

吉田松蔭の志を継いでリーダー的な役割を果たしたのが高杉晋作である。

ここでも皇統の影人の末裔が現れる。

高杉晋作の高杉家は、元は清和源氏・武田姓で、清和(河内)源氏の一族の源義光(新羅三郎義光)の子・源義清が常陸国武田郷(現:茨城県ひたちなか市)から甲斐国に配流されて武田氏を名乗った事に始まる武田氏の支流で、高杉はその系図からして、正統な尊皇派なのは当り前の事だった。

その武田氏は、嫡流が甲斐国守護に任命された他、安芸国・若狭国・上総国に庶流があり、その内の安芸国武田氏の末裔が、戦国時代には出雲の尼子氏に仕えた。

その後、始祖となる高杉春時の代に毛利氏に仕えて備前国三谿郡高杉村を領し、武田姓より高杉姓に改める。つまり、安芸国武田氏の枝の末裔が、毛利家歴代藩士(家臣)・家禄百五十石〜二百石の高杉家と言う事になるのである。


高杉晋作も稀代の天才の部類であるが、どうもこの天才と言われる人種、最後まで生き残って、自分の手がけた仕事の行く末を見る運には恵まれないらしい。
長州藩で倒幕を主導した晋作もその口で、倒幕を見る事無く肺結核の為に死去している。

晋作には時間が無かった。
彼は本来、保守的な意見に迎合するのが苦手で、その事には自信がない。
それでも、こんどばかりは、自説を曲げても藩論を統一させた。
この遠大なシナリオを書いたのが、自分だからである。

自らの体の変調に気付いてから、もうだいぶ時間が経過している。
日に日に体が衰弱するのが判る。
しかし、自分の目的を達するには、走り続けるしかない。
時期を逸すれば、事は頓挫する。病を隠してがむしゃらに事を運んだ。


薩摩藩から頭角を現した西郷吉之助・隆永、後の西郷武雄・隆盛(たかもり)は、明治維新の立役者の一人である。

千八百二十八年(文政十年)鹿児島城下の下加治屋町山之口馬場で、御勘定方小頭の西郷九郎隆盛(のち吉兵衛隆盛に改名、禄四十七石余)の第一子として生まれ十三歳で元服、十六歳で藩に出仕している。

西郷氏は藤原氏流の肥後(熊本県)菊池氏の分家、増水西郷氏の末裔を名乗っている。肥後・菊池氏は建武の親政から南北朝並立期にかけて、一貫して後醍醐天皇(南朝方)に与力した有力豪族である。

そう、西郷吉之助は、まさしくあの「菊池千本槍(きくちせんぼんやり)」の血筋を受け継ぐ南朝の影人だったのである。

六代前の西郷九郎兵衛から薩摩藩の記録所にその名が見える処から、島津氏に仕えたのはこの頃からと思われる。

薩摩(島津)藩における西郷家の家格は御小姓与であり下から二番目の身分である下級藩士で在った。
しかしながら、肥後(熊本県)菊池氏の血脈を継いでいた。

西郷隆盛は、一見豪放に見えて繊細緻密な名将である。
良く観察して見ると、実は勤皇の志士の中でも、大軍の指揮を任せられる将の器だった者は、意外と少なかったような気がする。

西郷隆盛はしぶといのが身上である。
西郷が政局に関わり実力を発揮し始めたのは、沖永良部島の流罪から復帰し、千八百六十四年(元治元年)西郷三十六歳に起こったの禁門の変以降の事である。

何度も遠島(流刑)と言う目に遭いながら、あたかも後醍醐帝の怨念にでも後押しされるかのごとく不死鳥の様によみがえり、薩摩藩をリードして行く。

確かに彼に相応の資質があったのだろうが、長州藩が、かなり孤軍奮闘した後で薩摩藩が倒幕に加わった事など「あらゆる条件が揃う」と言う見えない幸運にも恵まれている。運も実力のうちではあるが、隆盛の場合は、人格が周りを引き付けていたのである。

我輩が、西郷隆盛にワクワクする魅力を感じるのは、権力に固執せず、純粋でクールな信念の美学に生きる熱血漢な男達で、この時代に我輩にとって最高に魅力的生き方をしたのがこの男、西郷隆盛である。
坂本竜馬も捨て難い人物だが、西郷の私心を捨てる生き様には少し及ばない。

少し横道にそれるが、西郷隆盛が仕官していた薩摩・島津家には囁かれる初代・薩摩領守護職・島津忠久の出生の秘密がある。
薩摩島津家の祖・島津忠久の「源頼朝公落胤説」である。

秦氏の子孫・惟宗(これむね)氏の流れを汲む惟宗基言(これむねもとこと)の子で平安末期の官僚兼武士・惟宗広言(これむねひろこと)が、主筋である藤原摂関家筆頭の近衛家の日向国島津庄(現宮崎県都城市)の荘官(下司)として九州に下る。

その子の惟宗(島津)忠久が、鎌倉幕府を打ち立てた源頼朝から同地の地頭に任じられ島津氏を称したのが「島津家の始まり」とされる。

しかし、源頼朝による抜擢の背景がはっきりせず、惟宗(これむね・島津)忠久が惟宗(これむね)広言の子であるかどうかも疑問で、摂津大阪の住吉大社境内で忠久を生んだ丹後局が源頼朝の側室で、「忠久は頼朝の落胤」とする説が「島津国史」や「島津氏正統系図」などに記されている。

これは伝承であるが、妻・北条政子の激しい気性を恐れた源頼朝が落胤・忠久の将来を案じて藤原摂関家筆頭の近衛家に依頼、「惟宗(これむね)氏の系図に紛れ込ませた。」と言うものである。

島津氏の「頼朝ご胤説」は、偽源氏説として否定する意見の方が圧倒的に強いが、現在も島津氏の忠久以前の系譜については定説が無い。

同じく九州の守護に任じられた大友能直と島津忠久に共通している事は、共に後の九州を代表する武門一族の祖でありながら、「彼らの出自がはっきりしない」と言われ、いずれも「母親が頼朝の妾で在った事から、頼朝の引き立てを受けた」と伝承されている事である。

実は伊豆国から相模国にかけての氏族の古い姓には、何故か九州の氏族と同じものが多い。
島津氏が使っている丸に十文字の旗印も、伊豆国から相模国にかけての氏族に十文字を使ったものが多く、それが九州の在地の豪族にも同じように多かった。

薩摩・島津家の旧姓・惟宗(これむね)は日向国・南の名族だったから、東に日が昇る日向と伊豆国・東〜相模国にかけての土地柄が似ているので、九州の氏族が移り住んで定住したのではないだろうか?

と成れば、惟宗(これむね)氏が島津庄(現宮崎県都城市)の荘官(下司)に赴任し、鎌倉殿(将軍・源頼朝)に地頭職を任じられても氏族の血統としては故郷に帰るだけの事である。

いずれにしても、島津氏も大友氏も平家方だった九州の武家に対する鎌倉方の抑えとして九州に下っている。
その意味では、頼朝が信頼するに足りる「何か」が在ったのではないだろうか?

確実なのは、島津忠久の出とされる惟宗氏も、大友能直の出とされる近藤氏も元々九州の名族ながら、当時の彼らの勢力ではさしたる評価の一族ではない。
頼朝による抜擢がなければ、戦国大名として歴史に登場する事無く埋もれていた筈である。

その島津家は、鎌倉期、南北朝期、室町期を通じての薩摩守護を勤め、戦国期には一時期は九州全土を席巻する勢いの勢力を誇った。

豊臣家の天下を迎える安土桃山期と関が原合戦の難局を生き抜いて、江戸期には外様大名の薩摩・島津藩として薩摩・大隅の二ヶ国、日向国諸県(もろあがた)郡、南西諸島(大東諸島及び尖閣諸島を除く)を領有し、石高九十万石を数えた江戸期有数の大藩のまま倒幕勢力の鍵を握る立場で明治維新を迎えるのである。

そんな薩摩・島津藩が「西郷隆盛」と言う人材を得て、歴史の転換期に勝ち組みに成ったのは歴史の皮肉なのかも知れない。


事のついでだが、九州・豊後国(現大分県)を本拠とした大友氏(おおともし)は、元は相模の国に在って近藤氏を名乗っていた。

その近藤氏が、鎌倉幕府が成立すると源頼朝の妾であった初代・大友能直の母(利根局)の縁で源頼朝の寵愛を受け、平家方が多かった九州の抑えに豊後国(現大分県)の守護職に任じられ、戦国時代には大友義鎮(大友宗麟・二十一代当主)が活躍して豊後・筑前・筑後など北九州を支配した戦国大名に成長している。

その後の大友氏(おおともし)は、宗麟の死後に息子の義統が文禄の役(朝鮮出兵)における敵前逃亡を咎められ豊臣秀吉に改易され、関ヶ原の戦いで、西軍に挙兵して豊後に侵攻し浪人ながら復興を目指したが敗れて降伏している。


坂本竜馬の才能は、機会(チャンス)に恵まれて開花した。
土佐藩下士(郷士)の軽輩・坂本竜馬は、岩の僅かなひび割れから滲(にじ)み出るように表舞台に姿を現したのだ。
もし、この事を「神の意志だ」と言うのなら、我輩も同意せざるを得無い。

運も実力の内だが、坂本竜馬のデビューは言わば幸運の連続だった。
土佐藩下士(郷士)で在りながら商家(才谷屋)も営んで居て裕福だった坂本家の次男・竜馬は、剣術修行に江戸に出て北辰一刀流剣術開祖千葉周作の弟の通称・小千葉道場(千葉定吉道場)に入門した。

その後千葉定吉の息子・千葉重太郎と友人関係、また重太郎の妹・千葉さな子は龍馬の婚約者とも妻とも言われて居る。

竜馬が幕府政事総裁職の松平春嶽に面会出来たのはこの「千葉重太郎の紹介」と言われ、そこからまるで「わらしべ長者」のように春嶽の紹介状を携えて、勝海舟に弟子入りしている。


江戸幕府幕末前後の松平春嶽/慶永(まつだいらしゅんがく/よしなが)は、御三卿・田安家から養子に入った越前・松平藩の第十六代藩主である。
その越前・松平藩の幕末までの道程には数奇な歴史が繰り返されている。

徳川家康の次男・秀康が豊臣秀吉の養子となり、その後結城家に養子に入って結城秀康(結城秀康)を名乗る。
この結城秀康が千六百一年(慶長六年)に関ヶ原の戦いの功により父・家康から越前一国六十八万石を与えられ、国持ち大名と成る。

所が、秀康の嫡男・松平忠直は大坂の陣で戦功を立てながらも二代将軍・徳川秀忠に認められなかった事から次第に幕府に反抗的態度を取るようになった。
千六百二十三年(元和九年)越前国々主・松平忠直は乱行を理由に廃されて豊後大分に配流される。

この二代将軍・秀忠の松平忠直に対する仕置きには、徳川本家と越前・松平藩とに関わる或る疑惑が付きまとっている。

この疑惑は、明智光秀=天海僧正説や三代将軍・家光の乳母・春日局が明智光秀の従姉妹だっ事と関連がある。
二代将軍・徳川秀忠の、実は明智光秀の従兄弟・明智光忠だった説である。

本来、結城(ゆうき)秀康は徳川家康(とくがわいえやす)二男で、長男・松平信康切腹の後は徳川家の跡取りにもなれる血筋である。
その結城(ゆうき)秀康が徳川家に復さず越前松平家を起こす経緯には、織田信長(おだのぶなが)の隠された構想に拠る意志が働いていた。

本章・第三話の本能寺の記述で揚げた様に、「地味温厚で、父・家康に忠実律儀なだった」と言う徳川秀忠評の裏に隠された家康への思いは、織田信長の「織田家以外の血筋を途切らせる」と言う奇想天外な織田帝国構想の陰謀に端を発していたのである。

松平忠直配流の翌千六百二十四年(寛永元年)、忠直嫡男・松平光長は越後高田藩二十六万石弱に移され、入れ替わりに英勝院の縁によって越後高田藩で別家二十六万石弱を与えられていた忠直弟(秀康の次男)の松平忠昌が五十万石で後釜に移封され、福井藩の主な家臣、藩領を継承する。

しかし親藩・御家門(ごかもん)の家格ながら越前・松平藩(福井藩)への幕府の監視が続き、その後、福井藩は支藩の分封と相続の混乱から所領を大幅に減らし、千六百八十六年(貞享三年)第六代藩主・綱昌は発狂を理由に領地没収され、前藩主(第五代)昌親が領地半減(二十五万石)の上で再襲した。

その後の越前・松平藩(福井藩)は、支藩松岡藩の再併合により三十万石、千八百十九年(文政二年)の加増に拠り二万石を増やして三十二万石、家格は親藩・御家門(ごかもん)の越前・松平藩(福井藩)が落ち着いた。


坂本龍馬(さかもとりょうま)は、江戸時代末期の土佐藩士である。

千八百五十三(嘉永六年)に江戸(東京都)に出て、桶町の北辰一刀流剣術開祖千葉周作の弟の千葉定吉道でも剣を学んだとされ、十二月には佐久間象山の私塾にも通っている。千八百五十四年(安政元年)に土佐に戻った後、千八百五十六年(安政三年)に再び遊学している。

坂本竜馬は、千八百五十七年(安政五年)に二度目の江戸での剣術修行を終えて土佐に帰国、楠山塾で学ぶほか城下の日根野弁治の道場へ入門し、下士の習う小栗流和兵法を学ぶ。
この二度目の竜馬・江戸修行、修行では無く小千葉道場の「千葉さな子が目当てだった」と言う説もある。

龍馬は通称で、本名は坂本直陰(なおかげ)のち直柔(なおなり)他に才谷梅太郎などの変名がある。

その出自であるが、坂本家が主君に差し出した「先祖書指出控」には、「先祖、坂本太郎五郎、生国は山城国、郡村未だ詳らかならず、「仕声弓戦之難を避け、長岡郡才谷村に来住致す」とある。

この仕声弓戦之難が、千五百八十五年(天正十三)の秀吉に拠る紀州(根来衆・雑賀衆)征伐であり、長岡郡才谷村が、雑賀、伊賀、根来、の落人達が住み着いた所である。

勿論、山崎の合戦に敗れた明智一族の一部が共通の敵を持つ根来衆・雑賀衆と同じ才谷村(高知県南国市才谷)に隠れ住み着いても不思議は無い。

しかし、土佐才谷村での坂本家は、千五百八十八年(天正十六年)才谷村の検地では「坂本」の名は見えず、村の三番目の百姓として登録されているに過ぎない。

二代目彦三郎、三代目太郎左衛門まで才谷村で農業を営んだ。
従って三代目太郎左衛門までは、公認の名字をもたぬ有姓階層の百姓身分と考えられる。

有姓階層としての百姓家が、坂本龍馬の先祖・才谷家である。
四代目守之、五代目正禎は才谷村の字(あざ・地名)の一つである「大浜」を家名として名乗り始める。

千六百六十六年(寛文六年)三代目太郎左衛門の次男・才谷八兵衛は高知城下に出て、屋号を「才谷屋」と言う質屋を開業して次第に力を着け、酒屋、呉服等を扱う豪商となる。

その後才谷(大浜)家は、千七百三十(享保十五年)ころ本町筋の年寄役となり、藩主に拝謁を許されるに到った。

龍馬の五代前、商家・才谷屋(才谷六代目・大浜姓)直益は、千七百七十年(明和七年)に郷士の株を買い長男の大浜直海に坂本姓を名乗らせている。
明智氏傍流を名乗り、「明智氏所縁の坂本を姓とした」と言う。
これで漸く、土佐才谷郷にたどり着いた百姓家が、名字帯刀、即ち公認の名字を名乗り身分表象として二本差す身分に成ったのである。

その後の、坂本直海の孫の代に白札郷士山本覚右衛門の次男を坂本家の養子に迎え、坂本直足(さかもとなおたり)とした。
坂本直足(なおたり・八平)の次男が坂本直陰(なおかげ・龍馬)である。
なお、坂本直足は土佐屈指の豪商の側面も持ち合わせている。

坂本家は桔梗紋を家紋として用いており、明智氏の一族で「明智秀満(明智光秀の重臣・三宅秀朝の子で光秀の次女と婚姻、義理の息子にあたる)」の末裔であると坂本家(才谷家)には伝えられているが真贋の程は不明である。

唯一明智氏の居城が坂本城である事から、この坂本家の伝に僅かな関わりを感じるだけである。
しかしながら坂本家の精神として、坂本龍馬に明智氏の思いを抱かせていた事は否定出来ない。

父は土佐藩郷士・坂本八平(直陰)で龍馬はその次男、そして母は幸と言う。
兄は権平、姉は千鶴、栄、坂本乙女(おとめ)が居る。
妻は「おりょう(本名は楢崎龍子)」、故郷の土佐(高知県)には「婚約者の千葉さな子も居た」とされる。

直ぐ上の姉・乙女(おとめ)は「男勝りの気性だった」と言われ、反対に優男だった龍馬を「いつも叱咤していた」と伝えられている。

優男の龍馬だが、面影があの護良親王(もりながしんのう)に良く似ていた。
護良親王(もりながしんのう)の遣り残した思いを抱いて輪廻転生を起こしたのか?

それは再び、スロットルマシーンの絵柄が揃うようにDNA遺伝子的な配列が揃って、新たなる「護良親王(もりながしんのう)」が龍馬の命に生まれ出たのかも知れない。

龍馬の心根の優しさこそ、その時代に生きた護良親王(もりながしんのう)同様に、薄命の革命児だったのだろうか?

本命の、「おりょう」こと龍子は、幕府の詮議で竜馬が危ない時、たまたま湯を使っていたが、戸惑う事無く急を知らせに全裸で部屋まで走ったそうである。
気性は激しいが、その激しさで、「竜馬を愛していた」と言う事で有ろう。


岩倉具視(いわくらともみ)は、江戸末期の倒幕派の公家(くげ)で、維新以後の新政府の要人である。
この岩倉具視(いわらともみ)、藤原朝臣(ふじわらあそん)高倉家系の公卿・堀河家・康親の次男として幕末期の京都に公卿として生まれて居る。
従って、元は堀河具視(ほりかわともみ)を名乗って居た。

朝廷では、天子(天皇家)様も公卿もこの二百五十年間、格式の高に合わない少ない俸禄を捨扶持のように宛がわれて、耐えて来た。
「貧乏公家」と武家に馬鹿にされ、専権の官位叙任の礼が「余禄の収入」と言う有様である。

千八百三十八年(天保九年)に具視(ともみ)は岩倉具康の養子となる。
公卿・岩倉家は、 源朝臣(みなもとあそん)村上源氏の家柄で、僅(わずか)百五十石の貧乏公家だった。

注目に値するのはこの岩倉家、鎌倉初期に活躍した土御門(源)通親(つちみかど・みなもとの・みちちか)の後裔、村上源氏の支流であり、武系の流れも有する公家だった事である。

岩倉具視(いわくらともみ)には旺盛な野心があった。
岩倉家の養子と成った事で、岩倉具視(いわくらともみ)は関白であった鷹司政通の門流となり、朝廷での発言力を得て朝廷改革の意見書を提出した。

岩倉具視(いわくらともみ)は、千八百五十四年(安政元年)に孝明天皇の侍従となり、以後活発に活動を始める。

千八百五十八年(安政五年)に老中の堀田正睦が日米修好通商条約の勅許を得る為に上京した時に、岩倉具視は反対派の公卿を集めて阻止行動を起こし、中心的な役割をした。


外は、春の嵐に見舞われていた。
言わばこの嵐は大気の胎動で、この嵐が通り過ぎてこそ季節は初夏を迎える。
風の音を聞きながら、岩倉卿(具視/ともみ)の心にフツフツと高揚感が湧き上がって来ていた。

岩倉卿(具視/ともみ)には、公家らしからぬ時代を読む嗅覚(きゅうかく)があった。
もはや徳川幕府は、統治能力を失っている。
今こそ、またと無い倒幕の機会だった。

雷鳴激しく風強き春雷に鼓舞されて岩倉卿(具視/ともみ)は、幕藩体制を見限って自ら嵐を迎えようとしている。

「面白い。這い上がるには、超えねば成らぬ良い機会じゃ。」
この世を変えるのなら、倒幕をする事で根底から変えねば成らない。
産まれ付いての貧乏公家の手酷い憔悴感は、洋々たる希望に変わっていた。

徳川政権に全てを握られて、家格だけを頼りに二百数十年を耐えて来た貧乏公家にとって、この機会を逃す訳には行かなかったのである。


勝海舟(かつかいしゅう)は、幕臣でありながら、結果的に明治維新に重要な役目を果たしている。
ただし幕臣とは言え、勝家は小身無役の貧乏旗本である。
勝海舟(かつかいしゅう)の本名は勝義邦(かつよしくに)、幼名は麟太郎(りんたろう)と言う。

盲人であった越後国の住人の曽祖父・銀一は江戸へ出て高利貸し(盲人に許されていた)で成功する。

その曽祖父・銀一の巨万の富を使って御家人株を入手して男谷家を興した父・男谷平蔵の三男・小吉が、小普請組と言う小身無役の旗本・勝家に養子に出され、勝麟太郎(海舟)の父・勝小吉が誕生した。

幕府から安房守に任ぜられた事から勝安房(かつあわ)と呼ばれた為、安房(あほう)と同じ音の安芳と、維新後改名して勝安芳(やすよし)とした。

海舟は号である。
この号、佐久間象山よりもらった「海舟書屋より取った」と言う。父は旗本小普請組の勝小吉、母は信と言う。

幼少時の麟太郎(りんたろう)は、十一代将軍徳川家斉の孫・初之丞(後の一橋慶昌)の遊び相手として江戸城へ召され、勝麟太郎(りんたろう/海舟)に出世の道が開けたかに見えたが、慶昌が早世した為その望みは消えている。

この辺りに人の世の無常を悟って、結構「聡明な皮肉屋の勝海舟」と言う人柄が生まれたのかも知れない。

その後、勝麟太郎(りんたろう)は赤坂溜池の福岡藩屋敷内に住む永井青崖に弟子入りして蘭学を学び、蘭学者・佐久間象山の知遇も得ている。

佐久間象山の知遇を得た勝海舟(かつかいしゅう)の妹の順子は、象山に嫁している。
勝は象山の薦めもあり西洋兵学を修め、田町に蘭学塾を開く。
後に日本統計学の祖となる杉亨二が塾頭となる。

勝の信条は「物分りの良い事」である。
この信条は情勢分析を正確なものにし、幕臣と言う立場に拘らない判断をする事になる。

勝海舟(かつかいしゅう)の出世の糸口は、ペリーが黒船船団を率いて来航し、「開国」を要求した事にある。

「開国」の問題は内政と違う深刻な外交問題で、老中首座・阿部正弘は幕府の決断のみで鎖国を破る事に慎重になり、海防に関する意見書を広く募集した。

海防意見書を提出した勝海舟(かつかいしゅう)の意見書は阿部正弘の目にとまり、幕府海防掛だった大久保忠寛(一翁)の知遇を得て念願の役入りを果たした。

幕府が洋式海軍技術・操練術移入の目的でオランダ人を招き長崎に「海軍伝習所(海軍学校)」を開いた為、勝海舟(かつかいしゅう)はその「海軍伝習所(海軍学校)」に入門する。

海舟(かいしゅう)はその蘭語が良く出来た為に教監も兼ね、オランダ人教官と伝習生の連絡役も果たす内に海軍伝習所での指導者的地位を確立して、足掛け五年間を長崎で過ごしている。

勝海舟(かつかいしゅう)がこの間に学んだ洋式海軍技術・操練術は、幕府随一のものと成って居た。

幸運な事に、千八百六十年、勝海舟(かつかいしゅう)は、咸臨丸で太平洋を横断しアメリカへ渡る。

実際にこの計画を立ち上げたのは、岩瀬忠震ら一橋派の幕臣であったが、安政の大獄で引退を余儀なくされた為、「計画だけが遂行される」と言う幸運に恵まれ、木村摂津守喜毅が軍艦奉行並となり、勝は遣米使節の補充員として「教授方取り扱い」と言う立場で咸臨丸に乗船した。

この一行には、米海軍測量船フェニモア・クーパー号船長のジョン・ブルック大尉も同乗し、他に通訳として漂流帰還民のジョン万次郎、木村摂津守の従者として後に慶応義塾を興す福沢諭吉も乗り込んでいる。


千八百六十年(万延元年)に桜田門外の変で井伊直弼が暗殺された後、岩倉具視は「公武合体(朝廷と幕府の一体化)」を薦め、和宮(皇女・孝明天皇の妹)の降嫁を推進した。

この為、尊王攘夷派の志士達は岩倉具視を佐幕派として排斥しようと朝廷に圧力をかけ、岩倉具視はその風あたりを避けて、京都洛北の地「岩倉」に幽居した。

しかし、幽居中も意見書を書いて朝廷や薩摩藩の同志に送るなどの活動を続け、この間に薩摩藩の動向に呼応する形で「倒幕派へと路線を変更」させた。

岩倉具視のこの変わり身の早さは、流石先祖に鎌倉初期の英傑である土御門(源)通親(つちみかど・みなもとの・みちちか)を持つ血筋の、先祖譲りの政治処世術で有る。

悪く言えば政治的信念ではなく旗色を窺って勝ちに乗る手法で、余り上等とは言えない。
しかしいつの世も、勝ち残るのはこのタイプである。

千八百六十一年(文久元年)、西郷吉之助に出番が廻ってくる。
薩摩藩主島津久光は公武周旋に乗り出す決意をし、重臣の更迭を行ったが、京都での手づるがなく、小納戸役の大久保・堀仲左衛門らの進言で西郷吉之助に召還状を出した。

二月、西郷吉之助は主君・島津久光に召されたが、久光が無官で先代の斉彬ほどの人望が無い事を理由に「上京すべきでない」と主張したので、久光の不興を買った。

西郷は、一旦主君島津久光の上洛の同行を断ったが、大久保の説得で上京を承諾し、旧役に復した。
三月、下関で待機する命を受けて、村田新八を伴って先発した。

坂本竜馬は、千八百六十一年(文久元年)に武市瑞山らの土佐勤王党結成に参画するが、翌年の勤王党による吉田東洋の暗殺には参加せず、千八百六十二年三月に沢村惣之丞とともに脱藩した。

長州藩では、高杉の渡航中に守旧派の長井雅楽らが失脚、尊皇攘夷(尊攘)派が台頭し、幕府が朝廷から要請されて制定した攘夷期限が過ぎると、関門海峡に於いて外国船砲撃を行う。

高杉も尊攘運動に加わり、千八百六十二年の末には同志とともに品川御殿山に建設中のイギリス公使館焼き討ちを行う。
また、五十九年に処刑された松蔭の遺骨を小塚原から世田谷に移して会葬する。

下関の白石正一郎宅で平野国臣から京大坂の緊迫した情勢を聞いた西郷吉之助は、千八百六十二年(文久二年)三月、村田・森山新蔵を伴い大坂へ向けて出航、伏見に着き、激派志士達の京都焼き討ち・挙兵の企てを止め様と試みた。

しかし、四月に姫路に着いた久光は、西郷が待機命令を破った事、堀仲左衛門・有村俊斎から西郷が「志士を煽動している」と報告を受けた事から激怒し、西郷・村田・森山に捕縛命令を出した。捕縛された西郷らは十日、鹿児島へ向けて船で護送されて行く。


この頃京都では、薩摩の意見も取り入れ、千八百六十二年(文久二年)七月に松平春嶽 (まつだいらしゅんがく/慶永・よしなが)が政事総裁職、徳川慶喜が将軍後見職となり(文久の幕政改革)、閏八月に会津藩主松平容保が京都守護職、桑名藩主松平定敬が京都所司代となって、幕権に僅かながら回復傾向が見られていた。

松平春嶽 (まつだいらしゅんがく/慶永・よしなが)は、公武合体派ながら幕府親藩の藩主としては珍しく尊攘派勢力にも理解を示し、幕府に拠る長州征討に反対するなど、討幕軍からも一定の評価を得た人物である。

松平春嶽 (まつだいらしゅんがく) は明治維新動乱期の越前(福井)藩主だったが、生まれは徳川御三卿・田安家の八男坊として江戸城内・田安邸に産まれている。

十一歳の時、越前(福井)藩主・松平斉喜(まつだいらなりさわ)の養嗣子となり、斉喜(なりさわ)の死去によって越前(福井)藩主に就任した。

ペリーが浦賀に来航した頃(千八百五十三年/嘉永六年)、二十六歳になっていた春嶽は強硬な鎖国攘夷論者で、海防強化を主張し水戸藩主徳川斉昭の海防参与任命を薩摩藩世子島津斉彬とともに働きかけて実現させている。

その後春嶽 (しゅんがく)は、総領事ハリスが下田に着任(千八百五十七年/安政三年)して通商開国を迫った時に鎖国攘夷では国際的に通用しないとして開国通商論者に転じている。

将軍継嗣問題では一橋慶喜を推していたが、千八百五十八年に幕府が朝廷の勅許なしで条約に調印(違勅調印)すると、定められた登城日ではないにも関らず、斉昭らと登城して大老・井伊直弼(いいなおすけ/彦根藩主)を詰問した。

所が井伊直弼の反撃に合い、その不時(勝手)登城を理由に、春嶽 (しゅんがく)は僅か三十一歳で隠居・謹慎に処せられた。

藩主を退(しりぞ)かされ江戸霊岸島に幽閉された春嶽 (しゅんがく)だったが、「桜田門外の変」で井伊直弼(いいなおすけ)が暗殺されると謹慎を免除され、その後幕政参与を命じられている。

春嶽は参与に任じられると、公武間の対立を解消する為の将軍・家茂の上洛を進言し、京都の尊攘派勢力対処策として、武力制圧ではなく公武合体派連合(薩摩藩ら公武合体派大名・公家が連携して公武一和の国是を決定する)策を主張し幕府にその意見を認めさせている。

千八百六十三年、春嶽三十六歳の時に将軍に先発して入京し、先に上京していた将軍後見職・一橋慶喜や守護職・松平容保とともに公武合体派勢力挽回に務めたが、京都の情勢は尊攘派に有利で、公武合体派連合策は挫折した。

同じ年に起こった「禁門の政変」に拠って攘派が失脚して公武合体派が政権を握ると、春嶽 (しゅんがく)は再び上洛し、慶喜・容保ら公武合体派諸侯とともに朝廷参与に任命される。

その後、朝廷参与を辞任、長州征討をにらんで陸軍総裁職に転出した松平容保に代って京都守護職に就いたりしたが、その間役職を引き受けたり離れたりの出入りが激しく、長州征討策に関しては最後まで反対だった阻止できず、幕府軍不利の戦況の最中に将軍家茂が大坂城で病没し休戦と成っている。

慶喜の大政奉還、王政復古後は、明治新政府の議定、大蔵卿など要職を担う一方幕府と朝廷の間に立って慶喜の政権参加に尽力して、明治維新後の初期にも重要な役割を果たしている。


一方、浪士鎮撫の朝旨を受けた島津久光は、伏見の寺田屋に集結している真木和泉・有馬新七らの激派志士を鎮撫する為、千八百六十二年(文久二年)四月に奈良原繁・大山格之助(大山綱良)らを寺田屋に派遣した。

奈良原らは激派を説得したが聞かれず、止むなく有馬新七ら八名を上意討ちにした(寺田屋騒動)。
この時に挙兵を企て、寺田屋、その他に分宿していた激派の中には吉之助三弟の信吾、従弟の大山巌(弥助)の外に篠原国幹・永山弥一郎なども含まれていた。

千八百六十三年(文久三年)五月に長州藩の米艦砲撃事件、七月、前年の生麦事件を契機に起きた薩英戦争の情報が入ると、西郷吉之助は処罰覚悟で鹿児島へ帰り、参戦し様とし、十月、土持が造ってくれた船に乗り、鹿児島へ出発し様としていた時、英艦を撃退したとの情報を得て、祝宴を催し喜んだ。

世間では、開港に反対する攘夷急進派が、八月に奈良五条の天誅組の乱と長州への七卿落ち、十月に生野の変など、種々の抵抗をして、幕権の失墜をはかっていた。

元々公武合体派とは言っても、天皇の下に賢侯を集めての中央集権をめざす薩摩の思惑と将軍中心の中央集権をめざす幕府の思惑は違っていた。

所が、薩英戦争で活躍した旧精忠組の発言力の増大と守旧派の失脚を背景に、薩摩流の公武周旋をやり直そうとした久光にとっては、京大坂での薩摩藩の世評の悪化と公武周旋に動く人材の不足が最大の問題であった。

この苦境を打開する為に大久保利通(一蔵)や小松帯刀らの勧めも在って、西郷を赦免召還する事にした。

千八百六十四年(元治元年)二月、吉井友実・西郷従道(信吾)らを乗せた蒸気船胡蝶丸が沖永良部島和泊に西郷吉之助を迎えに来たので、喜界島遠島中の村田新八を伴って帰還の途についた。


高杉晋作は、千八百六十三年(文久三年)には廻船問屋の白石正一郎邸に於いて奇兵隊を結成、赤間神宮を本拠とする。
その後、教法寺事件で総監を罷免されている。

この年、尊攘派の長州藩と過激派公卿は、天皇の大和行幸の機会に攘夷の実行を徳川将軍及び諸大名に命ずる計画が取り決められ、徳川幕府が命令に従わなければ長州藩は錦の御旗を関東に進めて徳川政権を一挙に葬る陰謀があった。

この陰謀が事前に薩摩藩に漏れ、長州藩と対立していた薩摩藩と藩主松平容保が京都守護職を務める会津藩、尊攘派に反感を持つ孝明天皇や公武合体派の公家が大結託して、この陰謀を潰してしまった。


過激攘夷派の長州藩による攘夷親征の動きに対抗して、千八百六十三年(文久三年)公武合体派の会薩・中川宮らが提携して、孝明天皇の承認の下、「八月十八日の変」と名付けられた朝廷政変を決行した。

この政変に於いて、薩摩藩・会津藩などの公武合体派に敗れて失脚した尊皇攘夷派の公卿の三条実美・三条西季知・四条隆謌・東久世通禧・壬生基修・錦小路頼徳・澤宣嘉ら七人の公卿が宮中参内を拒否(追放)され、進退窮まっていた。

急進派の七卿には不運だったが、抗争に破れて京都を追われて長州の国許に落ち延びる長州藩兵には絶好のチャンスだった。
何はともあれ、公卿には天子の傍近くに仕える「血脈の資格」がある。

長州藩士・久坂玄瑞(くさかげんずい)が決断を下す。
「三条公ら七公様には、わしら長州にご案内いしようる(いたそう)。」
長州の国許には、練りに練った計画が存在した。
七卿をその計画に引き入れる絶好のチャンスで、撤退を指揮していた久坂玄瑞はその計画遂行の首謀者の一人だった。

長州藩士の久坂玄瑞が案内して従者数十人と共に長州藩へと逃れ、俗に「七卿落ち」と称された。

長州藩士・久坂玄瑞(くさかげんずい)は萩藩医・久坂良迪の二男として生まれる。
藩校明倫館に入って医学および洋書を学んだ後、吉田松陰の名を耳にして松下村塾に入熟、村塾の三秀(久坂玄瑞、高杉晋作、吉田稔麿)の一人と言われた。

久坂玄瑞が余程優秀だったのか、吉田松陰は長州第一の俊才であると認め自分の妹・文と娶(めあわ/結婚)わせている。
久坂玄瑞は、安政の大獄によって義兄の吉田松陰が刑死すると、長州藩における過激な尊皇攘夷派の中心人物と成って行く。

倒幕派の公家三条実美や姉小路公知らとは、久坂玄瑞はその尊皇攘夷運動を通じて七卿落ち以前から旧知の中だった。

久坂玄瑞の案内で長州に下向した三条(実美・さねとみ)卿ら七卿は、真っ直ぐ萩(長州藩藩都)には向かわなかった。
向かったのは、長州二ヶ国の内、周防国熊毛郡田布施の高松八幡宮だった。

七卿は逃れた長州周防の地・田布施で松陰派に「ある人物」と引き合わされて、そのまま滞在している。

伝えられる所に拠ると、一行を田布施で待ち受けてその「ある人物」人物を七卿に引き合わせたのが、それが吉田松陰門下の伊藤博文(いとうひろぶみ)と井上聞多(いのうえたもん・井上馨/いのうえかおる)だった。


和暦・文久三年八月の変(千八百六十三年)で尊皇攘夷派の長州藩は抗争に破れ、京都を追われ、薩摩・会津の連合軍が代わって警備についた。

会津・薩摩の藩兵が皇居九門の警護を行う中、中川宮や公武合体派の近衛忠熙、近衛忠房を参内させて尊攘派の公家(三条実美以下十九人)は朝廷から追放され、長州藩は京都堺町門の警備を免ぜられて毛利敬親・定広親子は国許に謹慎を命じられた。

都に居た長州藩の藩兵は本拠の長州国表に落ち延びる。
この撤退を指揮した秀才「久坂玄瑞(くさかげんずい)」と伴に、同じく尊皇攘夷派の為、長州に流れ下った公家が七人居た。
これを、「七卿落ち」(八月十八日の政変)と言う。

この、落ち延びた七卿の行く先に、吉田松蔭の描いたシナリオが待っていたのである。


薩摩藩・会津藩の公武合体派が尊皇攘夷派の長州藩などを京都から追放した朝廷に於けるクーデターである。
この八月十八日の政変で長州藩と過激派公卿は京都から追放され、京都に於ける尊攘過激派は一掃される事になり、後の池田屋事件、禁門の変の遠因となった。

この長州に落ちた七卿の存在が、倒幕派の長州集合を招き、密談の中で、松陰派がかねて関心を寄せていた「南朝末裔の存在」と結び付いたのである。
その南朝の末裔が、長州の吉田松陰が目をつけ「密かに親交を結んでいた」と言われる南朝の系図を有する「大室家」と言う家の存在であった。

実はこれにはカラクリがある。
吉田松陰が隠し玉として南朝の末裔を把握していたのには、合理的な裏付けがあるのだ。

彼(吉田松陰)の幼時の名字は杉であり、幼名は大次郎または虎之助で杉大次郎または杉虎之助と称する。

この杉氏には、多々良氏族大内氏支流説があり、長い事、大内氏及びその後の領主毛利氏に仕えた名門武将の家柄で、密かに南朝の末裔の守護(守役)も兼ねていた可能性が伺える。

杉虎之助(吉田松陰)は、長じて吉田家に養子に入る。
吉田家の本姓は藤原を称し、養子後の通称は吉田寅次郎である。
つまり吉田松陰の倒幕計画の原点に、南朝末裔の存在は当初から組み込まれていた。

そこに、中央の尊王攘夷派公家が落ち延びて来て、挽回の策を画策した事が、謀議に因る南朝末裔擁立を決定付けた。
「大室家」は、吉野から防周(山口県)に逃れた南朝方後醍醐天皇の皇子、懐良(かねなが)親王の皇子「良光(ながみつ)親王の末裔だ」と言うのである。

明治維新の折、この南朝「大室・某」が、ひょっこり顔を出す、「奇妙な噂話」がある。

それは、「睦仁親王(明治天皇)」別人説である。
つまり病弱だった明治天皇が、維新のどさくさの折に屈強な「誰か」と「入れ替わった」とする、とんでもない話が有るのだ。

ご丁寧な事に、この「誰か」は、密かに「正統な、南朝の皇位継承者だ」と言うのである。


蛤御門の変(はまぐりごもんのへん)とも呼ばれる禁門の変(きんもんのへん)は、幕末動乱期に孝明天皇をめぐる守護(陣営抱え込み)で対立した尊攘派の長州藩々兵と佐幕派の会津・桑名・薩摩各藩の禁裏(御所/皇居)守備隊が武力衝突した事を指して呼ぶ。

尊皇攘夷論を掲げて京都での政局に関わっていた長州藩は、前年の千八百六十三年(文久三年)に会津藩と薩摩藩が協力した「八月十八日の政変(七卿落ち)」で京都を追放され、藩主の毛利敬親と子の毛利定広は国許へ謹慎を命じられて政治主導権を失っていた。

そして巻き返しを図る長州尊攘派は京や大坂に潜伏し、密かに復権工作の行動を続けていた。

元治元年に入ると、来島又兵衛、久坂玄瑞(くさかげんずい)等に拠って孝明天皇を再び長州陣営のものとする為、京都に乗り込もうとする積極策が長州で論じられ、それに反対及び慎重派の桂小五郎や高杉晋作などと対立、長州藩内も藩論が割れていた。

千八百六十四年(元治元年)の初夏の頃、池田屋事件で新選組に藩士を殺された変報が長州にもたらされる。

来島又兵衛、久坂玄瑞(くさかげんずい)等積極派が勢い付き、慎重派の周布政之助、高杉晋作や宍戸左馬之助らは藩論の沈静化に努め、高杉晋作は京都進発を主張する急進派の来島又兵衛を説得するが容れられず脱藩して京都へ潜伏する。

  脱藩した高杉晋作は、桂小五郎(木戸孝允)の説得で二月には帰郷するが脱藩の罪で野山獄に投獄され、六月には出所を赦されて謹慎処分となる。


一方西郷吉之助は、千八百六十四年(元治元年)三月、村田新八を伴って鹿児島を出帆し、京都に到着して薩摩藩兵・軍賦役(軍司令官)に任命される。

京都に着いた西郷は薩摩が佐幕・攘夷派双方から非難されており、攘夷派志士だけではなく、世評も極めて悪いのに驚いた。
そこで藩の行動原則を朝旨に遵(したが)った行動と単純化し、攘夷派と悪評への緩和策を採る事で、この難局を乗り越え様とした。

この当時、攘夷派および世人から最も悪評を浴びていたのが、薩摩藩と外夷との密貿易であった。

攘夷派は攘夷と唱えながら、二枚舌で外夷と通商している事自体を怒ったのである。
その結果、長州藩による薩摩藩傭船長崎丸撃沈事件、加徳丸事件が相次いで起きている。

千八百六十四年(元治元年)四月、藩政改革派の西郷吉之助は小納戸頭取・一代小番に任命された。
池田屋事件からまもない六月、強硬派の長州懐柔の為朝議で七卿赦免の請願を名目とする長州兵の入京が許可された。


高杉晋作が投獄されている間も急進派の勢いは止まらず、積極派の三家老(福原越後・益田右衛門介・国司信濃)派は、討薩賊会奸(とう・さつぞく・あいかん/薩摩と会津)を掲げて挙兵してしまう。

家老・益田右衛門介や久坂玄瑞(くさかげんずい)等は山崎天王山宝山に、家老・国司信濃や来島又兵衛らは嵯峨天龍寺に、家老・福原越後は伏見長州屋敷に兵を集めてそれぞれに陣営を構える。

しかし迎え撃つ会津藩と薩摩藩もこの事有るを想定し、京都守護職で在った会津藩主・松平容保は薩摩藩・西郷隆盛等と連携して、長州の尊攘急進派を弾圧する体制を既に整えていた。

この長州藩の行動に、朝廷内部では長州勢の駆逐を求める強硬派と宥和派が対立し、禁裏御守衛総督を勤める一橋慶喜(後の十五代将軍・徳川慶喜)は長州勢に退兵を呼びかけるが、京都蛤御門(京都市上京区)付近で長州藩兵が会津・桑名・薩摩各藩の諸隊と衝突「禁門の変」が起こる。

これに対し、西郷吉之助も一時は「薩摩が長州ば相手に兵を出すんは、よろしくありもはん。」と、薩摩は中立して皇居守護に専念すべしとし、七月の徳川慶喜の出兵命令を小松帯刀と相談の上で断った。

しかし、長州勢(長州・因州・備前・浪人志士)が伏見・嵯峨・山崎の三方から京都に押し寄せ、皇居諸門で幕軍と衝突すると、「天子様お守りのこっは、おいが引き受けもす。」と、西郷・伊地知正治らは乾御門で長州勢を撃退したばかりでなく、諸所の救援に薩摩兵を派遣して、長州勢を撃退した。

この時、西郷吉之助は銃弾を受けて軽傷を負っている。

この事変で西郷らが取った中立の方針は、長州や幕府のいずれかが朝廷を独占するのを防ぎ、朝廷をも中立の立場に導いたのであるが、長州勢からは来島又兵衛・久坂玄瑞・真木和泉ら多く犠牲者が出て、長州の薩摩嫌いを助長し、「薩賊会奸(さつぞく・あいかん)」の思いが強くなった。

結果、尊皇攘夷を唱える長州勢は大敗を喫して壊滅、来島又兵衛、久坂玄瑞、寺島忠三郎ら尊攘派の主力は戦死した。

この変事の由来となった「禁門」とは「禁裏(御所/皇居)の御門」の略した呼び方である。

蛤御門の変とも呼ばれるのは蛤御門付近が激戦区であった為で、蛤(はまぐり)御門の名前の由来は、「天明の大火」の際にそれまで閉じられていた門が初めて開門されたので、焼けて口を開ける蛤(はまぐり)に例えられた為である。

禁門の変(きんもんのへん)の戦闘後、京都市街は「どんどん焼け」と呼ばれる大火に見舞われる。

落ち延びる長州勢は長州藩屋敷に火を放ち、会津勢も長州藩士の潜伏を理由に中立売御門付近の家屋を攻撃し、二ヵ所から上がった火が京都市街に広がって北は一条通から南は七条の東本願寺に至る広範囲の街区や社寺が焼失している。

この禁門の変が、「御所へ向けて発砲した朝敵」として第一次長州征伐を行う切欠になる。



尊王攘夷を唱える長州勢は敗北して壊滅、朝敵となり、来島又兵衛、久坂玄瑞、寺島忠三郎らが戦死、自害してしまう。

八月にはイギリス、フランス、アメリカ、オランダの四カ国連合艦隊が下関砲撃、砲台占拠を行い、晋作は赦免されて、和議交渉を任される。
当時、京都守護職であった会津藩主・松平容保は薩摩藩と連携して、長州の尊攘急進派を弾圧する体制を整えて居たのである。


翌千八百六十三年(元治元年)の池田屋事件、禁門の変で打撃を受けた長州藩に対し、禁門の変に於いて長州藩兵が御所へ向けて発砲した事などを理由に、幕府は長州藩を朝敵として、幕府は尾張藩主徳川慶勝を総督とした第一次長州征伐軍を送った。

坂本竜馬は、千八百六十三年(文久三年)の八月の政変で幕政が反動化すると、勝海舟の紹介で西郷吉之助(西郷隆盛)を頼って薩摩藩に保護される。

千八百六十四年(元治元年)七月に長州藩追討の朝命(第一次長州征伐)が出、徳川慶喜が西国二十一藩に出兵を命じると、この機に乗じて薩摩藩勢力の伸張をはかるべく、それに応じた。

その八月、四国連合艦隊下関砲撃事件が起き、次いで長州と四国連合艦隊の講和条約が結ばれ、幕府と四国代表との間にも賠償約定調印が交わされた。

この間の九月中旬、西郷は大坂で勝海舟と初めて会い、勝の意見を参考にして、長州に対して強硬策をとるのを止め、緩和策で臨む事にした。
十月初旬、西郷吉之助は御側役・代々小番となる。

幕府の長州征伐が迫る中、長州藩では俗論派が台頭し、高杉晋作は福岡へ逃れる。
長州藩では椋梨ら幕府恭順派が実権を握り、周布や家老・益田右衛門介らの主戦派は失脚して粛清され、藩庁を再び萩へ移し、藩主敬親父子は謹慎し、幕府へ降伏した。

千八百六十四年(元治元年)十月、西郷は征長軍参謀に任命され、大坂で征長総督徳川慶勝にお目見えし、意見を具申した処、長州処分を委任された。
そこで、吉井友実・税所篤を伴い、岩国で長州方代表吉川監物と会い、長州藩三家老の処分を申し入れた。

西郷は引き返して徳川慶勝に経過報告をしたのち、小倉に赴き、副総督松平茂昭に長州処分案と経過を述べ、薩摩藩総督島津久明にも経過を報告した。
結局、西郷の妥協案に沿って収拾がはかられ、十二月、征長総督が出兵諸軍に撤兵を命じ、この度の征討行動は終わった。

収拾案中に含まれていた五卿処分も、中岡慎太郎らの奔走で、西郷の妥協案に従い、千八百六十五年(慶応元年)初頭に福岡藩の周旋で九州五藩に分移させるまで福岡で預かる事で一応決着した。


人と人の出会いは、ある種奇蹟に近い。
しかし、それは歴史の必然かも知れない。

坂本竜馬は、西郷吉之助(西郷隆盛)の援助により、千八百六十五年(慶応元年)、土佐脱藩の仲間と共に長崎で社中(亀山社中・のちに海援隊)を組織し、物産・武器の貿易を行った。

千八百六十五年(慶応元年)五月に西郷は坂本龍馬を同行して鹿児島に帰り、京都情勢を藩首脳に報告した。
その後、「幕府の征長出兵命令を拒否すべし」と説いて藩論をまとめ、大番頭・一身家老組に任命された。

この頃、将軍徳川家茂は、勅書を無視して、総督紀州藩主徳川家承以下十六藩の兵約六万を率いて西下を開始し、兵を大坂に駐屯させた後、閏五月に京都に入った。
家茂は参内して武力を背景に長州再征を奏上したが、許可されなかった。

六月、鹿児島入りした中岡慎太郎は、西郷に薩長の協力と和親を説き、下関で桂小五郎(木戸孝允)と会う事を約束させた。
しかし、西郷は大久保から緊迫した書簡を受け取ったので、下関寄港を取り止め、急ぎ上京した。

坂本竜馬は、越前(福井県)藩主松平春嶽にも謁見し勝海舟の運動で土佐藩主山内容堂から脱藩の罪を許され、横井小楠とも対面する。

千八百六十六年(慶応二年)、坂本龍馬の斡旋により、京都で長州の桂小五郎(木戸孝允)と薩摩の西郷隆盛が会見し、薩長同盟が結ばれた。

龍馬最大の功績と言われるが、実際には西郷や小松帯刀ら薩摩藩の「指示を受けて動いていた」と言う説もあり、薩長連合に果たした役割の重要性に付いては評価が分かれている。

しかしながら、坂本竜馬の人間性を評価していない。
坂本竜馬は、基本的に根が優しく、底抜けに信じ易い性格だった。
その信じ易さは一種の魅力となって、自分の夢にも、薩長連合にも遺憾なく発揮されている。

残酷ではあるが、夢を持った者だけがこの競技(出世のチャンス)に参加する事が出来た。
「維新の大乱」とは、そう言うものだった。
しかし、夢が大きければ大きいほど、リスクも大きかった。

この騒乱は多くの「有意の志士」を失って、少しずつ事が進んでいた。

しかし竜馬の志は、他の志士達とは一風変わっていた。
体制を代えるのはあくまでも夢の一歩だった。
それでも、この危急の時に「無傷で通る訳が無い」と言う覚悟は出来ていた。
いや、まかり間違えれば、この世ともお別れだった。

だとしても、自由な通商が出来る新しい世の中は、座していてはやって来ない。
彼の純真な心根が、周りを巻き込む特異な存在だった点で、彼が明治維新を回転させた「動力源」となり得たのでは無いだろうか?

同年(千八百六十六年・慶応二年)、第二次長州征伐で、坂本は亀山社中の船・乙丑丸で長州藩海軍を支援する。

千八百六十七年(慶応三年)、土佐藩との関係を修復して海援隊を創設した。
後藤象二郎と共に船中八策を策定し、後藤象二郎が山内豊信を説いて土佐藩の進言による大政奉還を実現させるきっかけを作ったのである。

恭順派の追手から逃れていた主戦派の藩士高杉晋作は、平尾山荘に匿われた後、下関へ帰還し、伊藤俊輔(博文)や山県狂介(有朋)らと共に、農民や町民を中心とした奇兵隊を率いてクーデターを決行した。

初めは功山寺で僅七十人にて挙兵した奇兵隊は、各所で長州藩諸隊を加え、勢力を増やして萩城へ攻め上り、恭順派を倒し六十五年には椋梨藤太らを排斥して藩論を統一する。

この後、潜伏先より帰って来た桂小五郎(木戸孝允)を加え、再び主戦派が実権を握った長州藩は、奇兵隊を中心とした諸隊を正規軍に抜擢し、更に、千八百六十六年(慶応二年)には、土佐藩の坂本龍馬を仲介とした薩摩藩との軍事同盟である薩長盟約を結ぶ。

この頃坂本竜馬は、長州と薩摩の確執を憂いて長州の説得に赴いていた。
会合の趣旨は伝えてある。
高杉晋作、伊藤俊輔(博文)、井上馨、山県有朋などが居並んでいた。

「高杉君、おんしら薩賊・会奸(薩摩賊・会津奸)ちゅうとるが、薩摩ば味方に付けにゃあ、こん国にの明日は無かぞ。」
龍馬がもどかし気に高杉ををうながす。
ここで薩長が手を結ばなければ、事態が動かない事は双方承知で来ている。

「いけん(いかん)竜馬ん、来島又兵衛、久坂玄瑞、真木和泉、寺島忠三郎ら命ば落とし取るで、わや(無茶)や、国許の連中は薩摩に憎しで固まっとる。」
「そげん事言うとるけに、長州は孤立しとるんじゃ。感情でものを言う場じゃなかけん、諸君良〜考えてみんしゃい。」

「はあ(もう)、判った。判った。竜馬ん話もじらを言っちょる(だだをこねる)て放たり投げる(放り投げる)訳にいかんじゃけー(から)国許の感情を抑えれば出来ん事なかろう。」
「所で竜馬、実はわしらえらい(きつい)玉を握っとる。」

「玉?・・そりゃ何かこつか?」
「やし(いんちき)やなか、こん事を西郷氏にしゃべれ(聞かせ)ば、あ奴はすどい(抜け目が無い)けに向こうから折れて来る。」

「高杉君、こまい(小さい)事言わんとわしに言うてみい。」
「実はな竜馬、*****・・・・・・・・。」
「うぅ〜む。まっこっか。」。



勝海舟(かつかいしゅう)は、アメリカから帰国後、蕃書調所頭取・講武所砲術師範等を回っていたが、文久二年の幕政改革で海軍に復帰し、軍艦操練所頭取を経て軍艦奉行に就任。
この間、神戸海軍操練所では「坂本龍馬らを入門させて教授した」とされる。

千八百六十六年、勝海舟は軍艦奉行に復帰、徳川慶喜に第二次長州征伐の停戦交渉を任される。
勝は単身宮島の談判に臨み長州の説得に成功したが、慶喜は停戦の勅命引き出しに成功。

言わば勝は時間稼ぎに利用され、裏切られた為、勝は自らお役ごめんを願い出て江戸に帰って居る。

この間、京大坂滞在中の幕府幹部は兵六万の武力を背景に一層強気になり、長州再征等のことを朝廷へ迫った。

これに対し、西郷は幕府の脅しに屈せず、六月、幕府の長州再征に協力しない様に大久保に伝え、その為の朝廷工作を進めさせた。
それに加え、京都で坂本龍馬と会い、長州が欲している武器・艦船の購入を薩摩名義で行う事を承諾し、薩長和親の実績をつくった。

また、西郷は幕府の兵力に対抗する必要を感じ、十月初旬に鹿児島へ帰り小松とともに兵を率いて上京した。

この頃長州から兵糧米を購入する事を龍馬に依頼したが、これもまた薩長和親の実績づくりであった。この間、黒田清隆(了介)を長州へ往還させ薩長同盟の工作も重ねさせた。


千八百六十五年(慶応元年)九月、英・仏・米・蘭四国の軍艦九隻が兵庫沖に碇泊し、兵庫開港を迫った。
一方、京都では、武力を背景にした脅迫にひるみ、朝廷は幕府に長州再征の勅許を下した。

また、尾張藩前藩主徳川慶勝から出された条約の勅許と兵庫開港勅許の奏請も、一旦は拒否したが、将軍辞職をほのめかし、朝廷への武力行使も辞さないとの幕府及び徳川慶喜の脅迫に屈して、条約は勅許するが、兵庫開港は不許可という内容の勅書を下した。

これは強制されたもので在ったとは言え、安政以来の幕府の念願の実現であり、国是の変更と言う意味でも歴史上の大きな決定であった。

「八月十八日の政変」の一件で、朝廷を「どちらが取り込むか」が重要な事を、尊王派も公武合体派(佐幕派)も学習してしまった。
そうなると、尊王派にとって邪魔なのは、公武合体を象徴する孝明天皇と将軍家茂の義兄弟の存在だった。

尊王・倒幕派にシフト変更したその後の岩倉具視(いわくらともみ)には、奇妙な噂が付きまとう様になる。

千八百六十六年年(慶応二年)岩倉は、徳川家茂の死を機会に朝廷の名において列藩招集を行おうとするが失敗する。
孝明天皇の死の際には毒殺説が流れ、岩倉が首謀者として疑われた。


桂小五郎(かつらこごろう)は江戸末期(幕末)の長州藩士で、吉田松陰の弟子として尊皇攘夷派の中心人物である。
西郷隆盛、大久保利通とともに維新の三傑として並び称せられ、倒幕後は木戸 孝允(きど たかよし・きどこういん)を名乗り長州閥を代表する政治家と成った。

小五郎の生家は、藩祖・毛利元就(もうりもとなり)の七男毛利元政の血を引く名家の藩医だったが、士分(武士の身分)と秩禄を得る為に家禄百五十石の桂家の末期養子となり桂姓を名乗る。

五郎(こごろう)は当時としては長身の大男で、神道無念流剣術の免許皆伝を得て剣豪と称されたが、一方で武力闘争を避け「逃げの小五郎」と呼ばれた。

藩政府中枢で頭角を現し始めていた小五郎は、藩命により江戸から京都に上る。
京都で久坂玄瑞、真木和泉たちとともに破約攘夷活動を行い、新選組の池田屋襲撃事件では、運良く外出していて奇跡的に難を逃れている。

八月十八日の政変(七卿落ち)が起こり、長州藩と長州派公卿が京都から追放されるが、小五郎は危険を顧みず京都に潜伏し続け、長州および長州派公卿たちの復権の為に久坂らと伴になおも活動をし続けている。

桂小五郎と龍馬とは、慶応元年から慶応三年にかけて頻繁に会談していた桂小五郎は、薩長同盟の長州代表としてこれに関わり、倒幕の立役者に名を連ねて維新を迎えている。


第二次長州征伐が、目前に迫っている時だった。
土佐勤皇党の仲介で、密かに薩長の和睦と連合の話し合いが、京に於いて為された。
長州藩の代表・桂小五郎と西郷を中心とした薩摩藩首脳部との会見の場である。

しかしこの会談は不調だった。
会談場所の座敷きは緊張感に包まれていた。
何しろ今日が今日まで敵対していた相手で、この会談自体が双方の藩論からすれば奇跡に近く、この場に至っても双方無言で睨み合って居るばかりである。

遅れて来た坂本竜馬が、話の進展の無さに激怒するほど、過去の経緯から会見内容は互いに進展していなかった。
まるで、地球温暖化対策会議(京都議定書の批准)で、各国の利害主張ばかりが際立っていたようなものである。

そこで坂本竜馬が、西郷説得の秘策に出る。

だから人生と言うものが面白いのかも知れないが、人間誰しも先の事は闇で、人の生き方は多かれ少なかれその一瞬の思いも拠らぬ事で変わる。

竜馬が西郷の説得を試みる。
「西郷どん、チクッとおいが話しば、聞いてやんせ。」
「何でごわそう。」

龍馬に誘われて西郷が別室へ同道すると、座するもそこそこに「実はの。」と長州の切り札を耳打ちをした。
西郷が、「なんちゅうこっを・・・・」と驚嘆の声を上げた。

それは、西郷にとっては想定外の長州の計画だった。
西郷は執念とも言える長州の倒幕の意志を見た。
そしてそれは、長州の並々ならない周到な計画を意味していた。

「おはん、そんこっは、ほんでごわっか?」
「ほんじゃとも、岩倉(具視・ともみ)公さも、三条(実美・さねとみ)公さも長州に乗っとるぜ(是)よ。」

瞳は澄んでいたが、正面から西郷を見据える龍馬の表情が何時もの屈託の無い笑顔を押し殺していた。

この尊皇攘夷騒動の中で、西郷隆盛は何度も決断を迫られる場面に遭遇している。
それにしても、南朝の末裔とは驚きの事態である。
「これは正しい選択だろうか?」

この話、本来ならライバル関係でもある長州にみすみす主導権を握られる話である。
しかし西郷家は、最後まで南朝方に与力して戦った九州の名門・菊地家の由緒正しい分家で、「南朝再興の画策」と聞かされれば無気(むげ)には出来ない。

「そげな手がごわったか・・・」
薩摩藩を背負う身で迂闊な話しには乗れないから、ここは西郷にとって集中力を必要とする場面である。
無言の時が流れた後、西郷は「フゥー」と大きな溜息を付いた。
落着くには息を吐き出す事が一番で、冷静さを取り戻す。

西郷は熟考し、慎重に自問自答した上で「公家衆が乗っているなら、この計画は間違いでは無い」と決断した。

西郷は、竜馬から容易成らない陰謀を聞き、「正に天命」と薩摩藩内を説得しても長州と組む決意を固める。
「判りもした。薩摩藩内のこっは、おいが引き受けもす。」
「西郷さ、これで日本の未来は決まったぜ(是)よ。」

西郷隆盛が長州の隠し玉「南朝の末裔」に飛び着いたのには無理からぬ理由があった。
実は「倒幕後の国のあり方」に、西郷隆盛は悩んでいた。
倒幕後の国家体制について、隆盛は今が今まで青写真が描けないでいたのである。

今更いずれかの藩侯(大名)に新たに幕府を開かせる気はない。それでは旧体制の振(ぶ)り返しになる。

薩摩藩としては痛い所を突かれた格好だが、良く良く考えれば今の帝(孝明天皇)も皇子も公武合体派で、現在のお上(帝)が倒幕に組する事は無い。
一気に倒幕を果たし、新たな政権を打ち立てる上で親・薩長のお上(天皇)を据えるには、この「南朝再興の画策」を密かに成す事は、最善の策に違い無かった。

つい最近に成るまで、つまり彼らの親の代までは思っても見なかった倒幕の機運が、今は全国に盛り上がりを見せていた。
そして倒幕後の国の在り方も、「帝の親政(直接統治)」と、尊皇攘夷(勤皇倒幕)派は思い描いていた。

それには公武合体(親徳川)意識の強い帝・孝明天皇が邪魔だった事は確かだ。
極めて状況証拠的な発想であるが、その邪魔な孝明天皇は不自然な病死で崩御され根強く「暗殺説」が囁かれている。

そうなると大儀の為には「帝さえ誅する」と言う事になり、純粋な尊皇思想ではなく「制度としての帝を必要」とする事で、尊皇は「制度上の建前」と言うのが「倒幕派の本音」と言う事に成る。

その倒幕派の本音「制度上の帝の存在」が優先される必要であれば、吉田松陰が見出して育んでいた陰謀とも言うべき恐るべき長州藩の隠し玉「南朝の末裔」は、倒幕後の国のあり方を設計する上で周囲を納得させ得る好都合な存在だった。



大内氏を頼った良光(ながみつ)親王は、懐良(かねなが)親王の忘れ形見である。

後醍醐天皇の十一番目の皇子・懐良(かねなが)親王は、父帝・後醍醐の命により、僅(わずか)七〜八歳と幼いながらも征西大将軍に任命され、千三百三十六年(建武三年/延元元年)頃に「吉野を出立、九州を目指した」と言われて居るが、目的は九州の地に南朝の地盤を築く事だった。

千三百六十一年(正平十六年)には一時九州を制圧、懐良(かねなが)親王は大宰府 に入って征西府 (征西大将軍の政務機関)が誕生、その後十一年間に渡って九州南朝勢力の全盛時代を築いたが、その後九州は北朝方に平定され、懐良は征西将軍の職を甥にあたる良成(ながなり)親王(後村上天皇の皇子)に譲り「筑後矢部で病没した」と伝えられる。

懐良(かねなが)親王は、幼くして九州制圧に任じたが、九州に十九年間在って、その内十一年間も九州を制圧、安定した出先行政府まで置いている。二十歳代半ばに達したその皇子が、我が子を為さないとは考え難い。

懐良(かねなが)親王の皇子・良光(ながみつ)親王は、吉野朝・後村上天皇に預けられ、その後北朝方室町幕府管領の細川頼之が九州探題として派遣した今川貞世(了俊)に圧されて劣勢となった九州の南朝方征西軍の援護を要請する為に中国地方の有力者・大内家に下向している。

大内家では、良光(ながみつ)親王こそ受け入れたが、「時期を見る」と動かず、親王を匿ったままに北朝方の九州平定を迎えていた。

この良光(ながみつ)親王の末裔が、明治維新の折りに密かに後醍醐帝と懐良親王(かねながしんのう)の怨念を晴らすかの様によみがえったのでなければその疑惑は説明が着か無いのである。

大室家の出自に疑いを持ち「調べた結果百姓の出」など非難する者が居るが、それは余りにも歴史に未熟な証である。

そもそも論から言えば本姓の百姓は氏族であり、ましてや毛利家長州藩に在って維新以前より立派に「大室と言う氏姓(しせい)を永く名乗って居る」と言う事は、長州藩が認める家系を大室家が有していた事になる。

この大室の意味だが、後醍醐帝の南朝を退けて足利尊氏が起こした「室町幕府拠りも大なりの意味」と穿(うが)って見たが、我輩のこじ付けだろうか?


肥後菊地氏はその九州における有力な南朝支持者で、九州南朝軍の主力として活躍した。
つまり西郷隆盛にとって良光(ながみつ)親王は、先祖(菊地氏)が祭り上げて九州を制圧する為に戦った皇子の直径の血筋で、思案などする理由も無い事態だったのである。

西郷隆盛が竜馬の説得に乗り、「コロリ」と態度を変えるに、南朝・懐良(かねなが)親王の末裔は、充分すぎる存在だったのである。

土佐藩士中岡慎太郎(なかおかしんたろう)の画策、坂本竜馬の仲介で長州藩士の桂小五郎(木戸孝允 ・きどたかよし/きどこういん)と対峙した西郷が聞いたのは、薩長同盟の密約とともに提示された容易ならぬ策だった。

「幕府は、もうあかんぜよ。西郷さも腹ば括りんしゃい。」
薩摩藩は密貿易もして居るくらいで、近隣諸国の植民地化情勢にも詳しい。

言われてみれば、今の幕府では外圧に対処し切れるものではない。
特に将軍家持と義兄弟だった孝明天皇は、極端な守旧派、公武合体論者で、その感情だけでは、害にこそなれ、国の為にはならない。
「判り申した。おいどんから頭バ下げ、桂どんに密約ば申し込むばい。」

西郷が聞いたのは岩倉具視(いわくらともみ)を通した朝廷工作で、それも公武合体派の「徳川家茂と孝明天皇を始末し、新帝を立てる」と言う奇想天外な陰謀を含んでいた。

「長州藩に、戦で幕府に勝ってもらぜよ。西郷さ、薩摩ん名義で武器ば買いんしゃい。」
長州救済の為に、坂本が設立していた貿易会社の「亀山社中(かめやましゃちゅう)」が薩摩と長州の間に入り、薩摩藩名義で外国から武器を買い、それを「幕府に内密で長州藩に売る」と言う策である。

「良か、良か、坂本どんば好きんこっやんが良かばい。」


千八百六十六年(慶応二年)一月、西郷は村田新八・大山彦八(成実、大山巌の兄)を伴って、上京してきた桂小五郎を伏見に出迎え、京都に帰って二本松藩邸に入った。
西郷は小松帯刀邸で桂小五郎(木戸孝允)と薩長提携六ヶ条を密約し、坂本龍馬がその提携書に裏書きをした(薩長同盟)。

その直後、坂本龍馬が京都の寺田屋で幕吏に襲撃されると、西郷の指示で、薩摩藩邸が龍馬を保護する。
その後、三月に小松帯刀・桂久武・吉井友実・坂本龍馬夫妻(西郷が仲人をした)らと大坂を出航して鹿児島へ向かい、鹿児島藩に落ち着いた。

四月、藩政改革と陸海軍の拡張を進言し、それが入れられると五月から小松・桂らと藩政改革にあたった。


将軍家茂は、千八百六十六年(慶応二年)第二次長州征伐(幕長戦争)の最中、六月に大坂城滞在中急死する。
二十一才の若さだった。
死因は病死とされたが、毒殺の噂が絶えない。

孝明天皇は、千八百六十六年(慶応二年年)十二月に三十六才で急に崩御された。
死因は疱瘡による病死と言われているが、毒殺説と刺殺説が付きまとっている。


上野山(寛永寺)にある筈の天海(光秀)が封印した「賀茂の錫杖と空海の独鈷杵(とっこしょ)」が、何故か吉田松陰の手中に在った。
その錫杖が高杉晋作に渡り、坂本竜馬を経て、西郷隆盛の手元に落ち着いた時、薩長連合が完成する。

我輩には、「賀茂の錫杖と空海の独鈷杵(とっこしょ)」の妖力が皇統所縁の血統を呼び寄せ、倒幕の機運を盛り上げて行った様な気がする。

実はこの賀茂の錫杖と空海の独鈷杵(とっこしょ)、お福(春日の局)の手により密かに婚家の稲葉家で保管していた。

お福が何故、光秀が二代目天海僧正に命じて封印した賀茂の錫杖と空海の独鈷杵(とっこしょ)の封印を、密かに解いたのかは未だに判らないが、その後代々山城国淀藩稲葉家に受け継がれ、幕末期に稲葉家城代家老田辺家から、公家の三条実美を介して吉田松陰に渡っていた。

何しろこの錫杖と独鈷杵(とっこしょ)は皇統を守護する者の証であり、お福(春日の局)に何らかの心境をもたらせる妖力くらいは、持ち合わせていても不思議はない。


林政秀の子、林正成(はやしまさなり)は、戦国時代、江戸時代の武将で、はじめ豊臣秀吉に仕えたが、秀吉の命を受けて小早川氏に入った小早川秀秋の家臣となり、秀秋を補佐した。

千六百年の関ヶ原の戦いでは、平岡頼勝と共に徳川家康と内通し、秀秋を東軍に寝返らせさせる事に成功し、東軍(家康方)勝利に貢献した。
しかし、千六百二年、秀秋が死去して小早川氏が断絶すると、林正成(はやしまさなり)は浪人となって不遇を囲っていた。

関が原で大勝し徳川の天下が固まると、斎藤利三の娘お福は家康の勧めで嫁に行く事になる。

家康が選んだ相手は、林正成(はやしまさなり)だった。
お福は美濃の稲葉重通の養女となって、正成を稲葉家の婿に迎える。
美濃国の稲葉氏と林氏は元々同族で、伊予国(愛媛県)の河野水軍の一族である。

河野水軍は源平合戦においては河内源氏の流れを汲む源頼朝の挙兵に協力して西国の伊勢平氏勢力と戦った。
鎌倉時代になり承久の乱のとき、反幕府側の後鳥羽上皇に味方した為に一時的に衰退した。

その後、南北朝時代には九州の南朝勢力で在った懐良親王に従い南朝に属したが、幕府に帰服している。

林正成(はやしまさなり)は稲葉姓を名乗り、後に家康に召し出され、以後は徳川氏の家臣として仕えた。
稲葉 正成(いなば まさなり)は、千六百七年に家康の命により旧領の美濃国内に一万石の領地を与えられ大名に列した。

お福の方は、一万石の小領主の妻の立場で推されて三代将軍家光の乳母となり、「春日の局」と呼ばれて大奥はおろか、幕政にも影響を与え得る立場に昇格する。

余りにも出来過ぎた話で、これは間違い無く家康に引かれたレールの上を乗って行った結果としか考えられず、正成とお福に対する家康流の処遇だった。

この一連の動きは、当然のごとく二代将軍秀忠、天海僧正の言わば明智閥(あけちばつ)形成への画策の要素も多分にあった。

お福(春日局)には稲葉正成との間に正勝、正利の二男があったが、彼女が正成と離婚した形を取り、三代将軍家光の乳母となった時に正勝は家光の小姓に登用され、長じて老中に昇進、千六百三十三年に加増を得て小田原八万五千石を所領し、小田原城主となっている。

この時の小田原藩領は相模の足柄上、足柄下、淘綾(ゆるぎ)、大住、三浦郡で、約五万石、駿河の駿東郡一万三千石、伊豆の賀茂郡三千石、下野芳賀郡に二万一千石、常陸新治郡五千石、武蔵豊島郡、新座郡に二千石、などであった。

しかし、翌年に三十八歳で死去した時嫡子の正則はわずか十一歳だったが、春日局の計らいで、特例の斎藤利宗(春日局の兄)を後見人として相続が許された。

相続した正則は四歳で生母に死別した為にお福(春日局)に育てられたので、孫と言うよりは実子も同然で、家光にも可愛がられ四代将軍家綱には老中として仕え、千六百八十年には十一万石の増石を見、都合十九万五千石まで膨れ上がった。

三代将軍家光の乳母、大奥総取り締まり「春日局」の子であるから、子供の稲葉正勝が家光の小姓に登用され、三代将軍家光の代に老中に登用されても不思議ではない。

しかし、一時期家康の寵愛を受けたお福(春日局)である。
穿(うが)った考えだが、林(稲葉)正成と婚儀を結びし時、既に「お福(春日局)の胎が膨らんでいた」と言う事なら、稲葉正勝は徳川家康のご落胤である。

親藩として八万五千石を所領し、その次の代には十一万石へ加増されてもそれこそ違和感が無い。

三代続いた稲葉小田原藩は、稲葉正通(まさみち・正往)の代も京都所司代の幕職を務めた。
正通(まさみち)は、その後政争に敗れて越後高田領に移されが、後に復活して下総佐倉を領し、父の正則同様に老中職を勤めている。

この末裔が淀藩稲葉家で、幕府内では代々京都所司代や老中職と言った要職を歴任している。

幕末時の藩主稲葉正邦(いなばまさくに)は、山城国に移封された淀藩稲葉家十二代目当主であり、最後の藩主であるが、稲葉正誼の元へ養子入りした。

正邦(まさくに)は、二本松藩主丹羽長富の次男で、幕府内では京都所司代・老中職も務めたが、譜代の城代家老田辺家などの藩重役首脳部とはうまく行かず、京都朝廷と譜代重臣達との「賀茂の錫杖密約」の成立により勝手に朝廷に恭順されてしまう。

この時、江戸で将軍の留守政権の首脳として活動していた稲葉正邦は、自らの藩が「自らの決定無くして幕府に反旗を翻す」と言う事態に遭遇、結局淀へ退去する事となる。

稲葉家はその後も新政府に対する恭順の姿勢を貫き、正邦は子爵に叙任され、千八百八十五年には神道本局(神道大教・しんとうたいきょう)初代管長となっている。


第二次長州征伐は、千八百六十六年(慶応二年)六月の幕府軍艦による上ノ関砲撃から始まった。

大島口・芸州口・山陰口・小倉口の四方面で戦闘が行われ、芸州口は膠着したが、大村益次郎が指揮した山陰口は奇兵隊を中心とする諸隊の活躍で連戦連勝し、大島口・小倉口も高杉晋作の電撃作戦で勝利し、幕府軍は惨敗続きであった。

鹿児島に居た西郷は七月に朝廷に出す長州再征反対の建白を起草し、藩主名で幕府へ出兵を断る文書を提出させた。

長州藩は、第二次幕長戦争(四境戦争)に勝利する。

高杉晋作は、第二次長州征伐(四境戦争)では海軍総督として小倉方面の戦闘指揮、幕府の第二次長州征伐軍と戦ったが、高杉と村田蔵六(大村益次郎)の軍略により、長州藩は四方から押し寄せる幕府軍を打ち破っている。

幕府軍は各地で敗退し、その間に江戸から出陣して大坂城に入り、「長州征伐」の戦況を見守っていた第十四代将軍・徳川家茂が突然病死し、長州征伐の休戦命令を出すに至る。

将軍家茂の死去の報を受け、事実上「長州征伐」は幕府軍の敗北に終わり、幕府の権威は大きく失墜する。
長州一藩を押さえられなく成った幕府は、求心力を失い権威は格段に落ちる事になる。

しかも頼みの朝廷工作は、巻き返しつつあった岩倉具視(いわくらともみ)ら、強行尊王派公家達に握られていた。
しかしその戦いの最中、高杉晋作は無理が祟ったのか肺結核発症の為桜山で療養し、商家の林算九郎邸で惜しくも二十七歳の時に死去する。


一方、幕府は、七月に将軍徳川家茂が大坂城中で病死したので、喪を秘し、八月の小倉口での敗北を機に、敗戦処理と将軍継嗣問題をかたづけるべく、朝廷に願い出て、休戦の御沙汰書を出してもらった。

将軍の遺骸を海路江戸へ運んだ幕府は、十二月の孝明天皇の崩御を機に解兵の御沙汰書を得て公布し、この戦役を終わらせた。
この間、西郷は、九月に大目付・陸軍掛・家老座出席に任命され、大目付役は返上した。

長州藩に敗北した幕府の力は急速に弱まった。
都の朝廷、皇居内裏では岩倉具視(いわくらともみ)ら過激派公家が実権を握り、穏健派を取り込んで何やら画策し、佐幕派公家を粛清して内裏内は女官に至るまで一掃され入れ代わっている。


徳川慶喜(とくがわよしのぶ)は、江戸・徳川幕府最後の征夷大将軍で、水戸徳川藩出身の江戸幕府第十五代征夷大将軍である。

十四代将軍・徳川家茂の将軍後見職として後見を務めていた徳川慶喜(とくがわよしのぶ)は、千八百六十六年(慶応二年・年末)将軍家茂の死去後江戸幕府第十五代将軍に就任する。

千八百六十七年には、薩長による討幕運動の推進によって幕府は権威を失い事態収拾に苦慮するが、有力藩侯の心も幕府から離れる動きを露にし始めていた。

十五代将軍徳川慶喜が、この年の十一月九日に突然二条城で大政奉還を宣言する。
将軍・慶喜は明治天皇に「大政奉還(政権返上)」を行なった上で、徳川家首班に拠る合議制の公武合体政権を目指す。

しかし大政奉還により江戸幕府は発言権を弱体化させ、有力藩侯の賛同も得られずに事実上滅亡の経緯をたどり、翌年の王政復古の大号令と、なだれ的に明治維新に繋がって行くのである。


翌千八百六十八年(慶応四年正月)岩倉具視(いわくらともみ)が王政復古の大号令と徳川慶喜の「辞官納地発令」実現に漕ぎ着け、「鳥羽・伏見の戦い」が起こり、旧幕府軍を残したまま徳川慶喜が大坂城から海路江戸城へ逃げ戻る。

徳川慶喜は朝廷から追討令を受けて謹慎し、勝海舟の進言を受け入れて江戸城を無血開城し、戊辰戦争へと導いて江戸幕府は滅んだのである。

徳川慶喜(とくがわよしのぶ)の将軍在位は、王政復古の大号令までの僅か一年ので在ったが、折からの動乱の中、在京在阪(京都・大阪)に終始する生活で江戸城で執務を行なえなかった唯一の将軍である。

維新後徳川慶喜は、駿府(静岡県静岡市)で謹慎生活を送っていたが、勝海舟の復権運動もあり明治天皇に謹慎を解かれると公爵として大正時代まで生きた。



千八百六十七年(慶応三年)三月上旬、西郷は村田新八・中岡慎太郎らを先発させ、大村藩・平戸藩などを遊説させた。
三月、西郷は主君・島津久光を奉じ、薩摩の精鋭七百名を率いて上京する。

その後も西郷は精力的に動き、五月には京都の薩摩藩邸と土佐藩邸で相次いで開催された四侯会議の下準備をした。

六月、西郷は山県有朋を訪問し、初めて倒幕の決意を告げ、小松帯刀・西郷隆盛・大久保利通・伊地知正治・山県有朋・品川弥二郎らが会し、改めて薩長同盟の誓約をし、西郷が坂本龍馬・後藤象二郎・福岡孝弟らと会し、薩土盟約が成立した。

千八百六十七年(慶応三年)九月、島津珍彦が兵約千名を率いて大坂に着いた。
その九月、後藤が来訪して坂本龍馬案にもとづく大政奉還建白書を提出するので、挙兵を延期する様に求めたが、西郷は一旦拒否し、後日了承している。

土佐藩(前藩主山内容堂)から提出された建白書を見た将軍徳川慶喜は、十月に大政奉還の上奏を朝廷に提出させた。
処が、同じ日に、討幕と会津・桑名誅伐の密勅が下り、西郷・小松・大久保・品川らはその請書を出していて、後日朝廷から大政奉還を勅許する旨の御沙汰書が出されたのである。

遂に維新革命の密勅が下った。

密勅を持ち帰った西郷は、桂久武らの協力で藩論をまとめ、千八百六十七年(慶応三年)十一月、藩主忠義を奉じ、兵約三千名を率いて鹿児島を発した。
途中で長州と出兵時期を調整し、三田尻を発して京都に着いた。

長州兵約七百名も摂津打出浜に上陸して、西宮に進出した。
また、この頃芸州藩も出兵を決めた。

諸藩と出兵交渉をしながら、西郷は、十一月下旬頃から有志に王政復古の大号令発布の為の工作を始めさせた。
十二月、薩摩・安芸・尾張・越前に宮中警護の為の出兵命令が出され、会津・桑名兵とこれら四藩兵が宮中警護を交替すると、王政復古の大号令が発布された。


不思議な事に、血の記憶が呼び寄せるのか、後醍醐帝の怨念が呼び寄せるのか、集った志士はいずれも南朝所縁(ゆかり)のものだった。
何故かDNA的な潜在意識が、彼らを揺り動かしているような気が、我輩には感じられた。

維新の裏側を追っていた呪詛など信じない筈の我輩は、この現実の前に戦慄した。

調べてみると、維新に参加した主な者が全て南朝方の出自で有る。
あたかも後醍醐帝の呪詛の前に操られるかのように、この因縁じみた歴史の大業が実現した。
その因縁は、謎で有る。

前述したが、長州藩にとんでもない「隠し玉」が用意されていた。
その隠し玉が、かねて用意の南朝・良光(ながみつ)親王の末裔で、維新のドサクサに紛れて睦仁親王と入れ替わり、「皇統が南朝に戻った」と言う噂で有る。

維新の大業の前と、後では、睦仁親王がまったくの別人に比較される事柄が、「多い」と言う。
それを裏付ける様な資料を、提示する研究者も数多い。

その「誰か」は古くから長州に住み、「南朝の系図を保持していた者であった」と、真しやかに言われている。
この話、地元・田布施の古老達の間では、未だに語り継がれていて、「公然の秘密」と言っても過言ではない。

薩長を中心した討幕派が、維新に利用するには、確かに都合の良い話だった。
長州に流されていた七卿の筆頭は、三条実美(さんじょうさねとみ)であり、公家一番の過激派であった。

南朝方良光(ながみつ)親王の系図を有する「大室・某」を天皇に擁立する計画は、長州討幕派と公家の討幕派の共同謀議として長州の一角・田布施でなされた事になる。


あくまでも伝聞に過ぎないが、この伝聞、言わば倒幕派の意のままに成らない玉(ぎよく/天皇)を、意のままに成る皇統の有資格者(系図保持者)に密かに入れ替えた陰謀の疑いが強い。

この話、現在の皇室環境を元にした先入観で判断してはいけない。
江戸末期当時は、元々天皇への拝謁(はいえつ)には、将軍でも簾(すだれ)越しだったくらいで、一般の人間はまともに天皇の御尊顔を拝する機会は少ない。
それに、写真や肖像画の類(たぐい)も一般に公開されて居る訳ではない。

帝は天子様であるから朝廷内で傍(そば)近くに仕える者も、恐れ多くて正面からジックリ顔を見る機会が無いのだから、ほんの一部の公家衆と女官を除いて、天皇が入れ替わっても、真贋が判らなくて不思議は無いのが実情だった。

その一部の、天皇陛下傍(そば)近くに仕える公家衆が、岩倉卿や三条卿と結託しては、誰も「天皇入れ替わり」など指摘出来るものではなかったのだ。


後醍醐天皇ほど、不利をも省みず「親政(直接統治)」に信念を燃やした帝は史上類を見ない。
何が帝を駆り立てたのか?

その凄まじい怨念と執念は、挫折を繰り返しながらも信念を捨てる事は最後まで無く、吉野にあっても衰える事は無かった。
或いはこの後醍醐帝の怨念と執念がよみがえって、皇統の影人の末裔を中心とした尊皇攘夷(勤皇倒幕)派を動かしているのかも知れない。

やれやれ、後醍醐天皇(第九十六代)が、花園天皇(第九十五代)から皇位を譲位されたのが千三百十七年、建武親政が千三百三十三年である。

千八百六十四年(元治元年)七月に長州藩追討、千八百六十六年(慶応二年)が第二次長州征伐だから、「南朝の系図を保持していた者」は、この建武親政後五百〜五百五十年に及ぶ時代の変遷の中を生き長らえ、皇統の血脈を守った事になる。



山口県(周防)南東部瀬戸内海沿いに熊毛郡・田布施町はある。
現在でも人口一万七千人ほどの小さな町だが、此処から日本の近代化は密かに始まった。

実はこの町の高松八幡宮が、七卿が逗留し松陰派の長州若手指導者達と皇政復古の産声を上げた所である。
この高松八幡宮の僅か北東に浄土宗の西円寺と言う寺があり、その傍らにこの大室家はあった。

七卿が逗留した高松八幡宮と、良光(ながみつ)親王の末裔を名乗る「大室・某」の住まいが至近距離にあった事実に、偶然はありえない。

七卿落ちの公家達が長州の地で滞在した高松八幡宮は、田布施町大字麻郷に在る。

いずれの歴史の区切りにも顔を出すのは賀茂神社である。
三井(みい)賀茂神社は、田布施町に隣接する光市の三井に在る。

賀茂の祭神・八咫烏(ヤタガラス)は太陽の表面に現れる神である。

だから、神武東遷記における「八咫烏神話(賀茂・葛城)」に、神武大王(じんむおおきみ)の先導役として登場する八咫烏(ヤタガラス・賀茂・葛城)の伝承が、この三井(みい)賀茂神社にも存在する所から、賀茂・葛城が太陽(神武大王)の東遷随行者として「大和朝廷成立に貢献した有力一族」と考えられる。

熊毛郡田布施町大字宿井に、天然記念物の「宿井はぜの木」の大木がある。
この宿井(宿居)の字名の意味する所は、仮の居場所(仮御所)の事ではないだろうか?

明治政府が廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)を行なって、根強く信仰されていた全国の妙見系の神社を抹殺した事は、単に神仏混合策を改め、天皇神格化を狙ったものだろうか?

長州が妙見信仰の聖地であり、同時に皇統の或る疑惑の地でもある事から、廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)に絡め、何らかの証拠隠滅を図った疑いも浮上して来るのである。

明治天皇は孝明天皇の第二皇子である。
父・孝明天皇から親王宣下を受け立太子を宣明し、幕末の動乱期に皇太子・睦仁親王を名乗り、後に若くして皇位について居る。

所がこの明治帝(睦仁親王)、明治維新の前後では「全くの別人だった」と言う証言が存在する。


この親王入れ替わりの疑惑に、現在の当局としては「相手にするに値しない」と言う判断なのか、徹底的に無視した状態で、否定も勿論肯定もしていない。

現在の位置付けでは、この疑惑は単に巷の噂に過ぎないが、睦仁親王(京都明治天皇)には無かった「あばた」が、明治天皇には「あばた」が有り、右利きだった睦仁親王(京都明治天皇)に対し、明治天皇は左利きであるとその違いが指摘されている。

こうした話は事実ではないかも知れないが、その噂話が存在する事は事実である。

また、このとんでもない噂が本当なら、七卿筆頭の三条実美と長州藩の描いた陰謀に、同じく過激派公家の岩倉具視(いわくらともみ)が参画、朝廷での「迎え入れ工作を担当した」ものと思える。

そして、後に明治の元勲と言われる維新の立役者は、大方この事実を知っていた事になる。
そして、彼らにはそれが正義だった。


吉田松蔭に大室家の存在を教えたのは、田布施町出身の総理経験者、佐藤栄作氏の曾父・佐藤 信寛(さとう のぶひろ )氏との接点が有望である。
岸、佐藤、両首相経験者の曾父・佐藤 信寛(さとう のぶひろ )は、山口県熊毛郡田布施町に長州藩士・佐藤源右衛門の嫡男として生まれている。

佐藤 信寛(さとう のぶひろ )氏は藩校・明倫館にて山県太華に学び、江戸に出て清水赤城に長沼流兵学を修め、吉田松陰に兵要禄を授けていて学問的には松蔭の恩師筋にあたる。
維新時の長州藩士であり、維新後は知事、県令の官職にも着いていた。

こうした権力の裏側を勘繰れば、維新政府の有力者に南朝大室家の地元有力者が抜擢され、後に「何名もの首相や首相候補を輩出したのではないか」と、疑えるのである。

つまり南朝大室家は、多くの野望をも集めて中央に担ぎ出され、「それに上手く乗って栄えた家が在った」と言う事に成るのだ。

勿論、むしろ「南朝の方が正統だ」と言う思いが強い我輩としては、北朝天皇から南朝天皇の入れ替わったとしても正統な皇統であるから、今の皇統が偽者だと言う気は更々に無い。


この陰謀、吉田松蔭が画策して松陰刑死後は義弟の久坂玄瑞(くさかげんずい)が引継ぎ、玄瑞の討ち死に以後は伊藤博、文井上馨等が引き継いで事を進めた。

これは表ざたには出来ない世紀の大陰謀で、徳川家の新政府入りを画策した坂本竜馬は、この入れ替わりの秘密を守る為に倒幕派に暗殺された可能性を棄て切れない。
同じく松平春嶽は、その事を知るが故に、維新の功労者で有りながら維新後の表舞台から退いているのかも知れない。

その長州の倒幕資金に、「南朝の隠し軍資金が使われた」と言う噂もある。

もしこの南朝の隠し軍資金話、後醍醐天皇と醍醐寺文観僧正の怨念が、「時を越えて為したる業」と考えると、真言密教恐るべしである。
八咫烏(ヤタガラス)の化身「かもたけつのみの命」は、それさえ見抜いて、落ち延びる親王に「軍資金のありかを書いた書状を託した」と言うのか。

この疑い、果たして世間が言うように「有り得ない事」なのだろうか?
歴史と言うものは都合良く脚色されるもので、もし明治新政府の勤皇の志士達が国家単位でトリックを構成されれば、例え創り事でもそれを解く事はほとんど出来ない。

事の真贋は定かではないが、明治維新以後急に南朝の正当性も認められ、楠正成や新田義貞が天皇を助けた英雄として祭られたのは、動かす事の出来無い事実である。

この二人は神社になり、戦前、戦中は忠義の臣として、学校で「歌」も歌われていた。

楠木正成(湊川神社・明治五年)、新田義貞(藤島神社・明治九年)、北畠顕家(阿倍野神社・明治十五年)・・・・・・後醍醐天皇(吉野神宮)を始め護良親王(鎌倉宮)、尊良親王(金崎宮)など後醍醐天皇皇子の神社は四社を数える。

つまり、維新以後南朝方の神社は急激に建立され十四社に及ぶ。

この維新の陰謀説、皇統に陰謀など「有っては成らない事」と思う心情も判らないではないが、大きな政変に皇統が少しだけ揺らぐのは良く有る事である。
室町期の北朝の皇統に「足利の血が入れ替わった」と囁かれても、足利氏自身が源氏の皇胤貴族の出自であるから、あながち「偽者」とは言い難い。

明治維新に於ける大室某も、系図通りの南朝の末裔であれば、やはり「偽者」とは言い難い。

実は周囲の多くが、この難局を前にすれば「この際、止む負えない」と思った節(ふし)が有る。
それ故この政変、思った以上にスムースに事が運んだ。
つまりは周囲が、この政変ストーリーを「容認または積極的に賛同した」と考えられる話で、それで無ければここまで隠し果せる話では無いのである。

明治天皇にはこうした疑惑が囁かれていた。
しかし、この「明治天皇挿(す)げ替え説」に確たる証拠は無く、状況証拠を積み重ねるのみであり、既に解明される事無く歴史の闇に消えつつある。



誤解してもらっては困るので明言するが、けして現天皇の正当性を問う積りは無い。
世界の歴史を見ても、凡(おおよ)そ国家元首を決める原理原則は、シンプルに考察すれば国家を統合する人物を選任する必要性が生じた時に、その周囲の推薦を得て任ずるものである。

そう言う意味では、当時の今後新生国家の政権運営を担う人物を「明治維新の関係者に推された」と言う厳然たる事実だけでも、充分に資格要件を満たしているのである。
要は視点の置き方が肝心で、余りにも固定した概念でその資格を問うものではないのである。


それにしても、政権を守ろうとして「鎖国」をした徳川政権は二百六拾年後に、見事「開国の決断と、ともに倒れた。」これは因果か、たたりか、・・・・。
その倒幕劇に、遠く二千年前の葛城朝の仕掛けが機能するとは、真言立川の呪詛、今に及ぶと言うのか?

面白いもので、この南朝末裔の「皇統復帰説」だが、少なくとも安土時代に織田信長が新王朝を確立していれば他国の王朝の度重なる変遷と同様になり、どうなっていたかは判らない。
そう言う意味からすると、明智光秀の「本能寺の変」は、重い意味を持つものかも知れないのだ。


坂本竜馬は生まれ付き気が優しく、本来争いは好まなかった。
優しすぎて姉の乙女(おとめ)などは竜馬を弱虫呼ばわりして、剣術を教え込んだ逸話が残っている。

坂本龍馬に関しては千葉道場の免許を得ている所から剣術の達人と描かれる事が多いが、実は「さほど剣の腕は立た無かった」と言われている。
剣は江戸で北辰一刀流を修めたが「一番低い目録」でたいして腕は立たず、短銃を常に携帯して斬り合いは避けていた。

しかし交渉能力は高く、政情が落ち着いたらその能力を生かして通商で国を支える積りだった。
だが、そんな龍馬の気持ちは周囲には受け入れられないほど、龍馬の影響力は膨らんでいた。

横着な者は、「言わなくても判る筈だ」とその努力をせずに敵を造る。
面白いもので、坂本竜馬には持って生まれたネゴシェーター(交渉人)の才能が在ったらしく、竜馬は源頼朝や徳川家康同様に手紙魔で見方の獲得の為にセッセと手紙を書いて居た。

それが裏目に出て、竜馬は維新を主導した志士の一人に目されてしまって居た。
もっとも、維新の中心人物の大半が筆マメだった事は事実で、つまり信頼の獲得にはいかに「コミニケーションが大事」と言う事である。


坂本竜馬は土佐の貧乏郷士だが、その出自は秀吉の紀州(根来衆・雑賀衆)征伐のおりに土佐に逃れた「根来衆の末裔」と伝えられている。
人懐こさが信条の坂本竜馬には、持ち前の斡旋交渉能力があり、その能力は勘解由小路(賀茂)の血を彷彿させるものだった。

堺の根来・雑賀衆の自由自主独立精神が、竜馬の血には流れていたから、事が成就しても新政府に参加する意志はなかった。
新政府の援助で貿易船団を仕立てて、商業活動で国力をサポートする積りでいた。

しかしながら竜馬には、功績を背景とした彼の新政権構想に徳川家の参加案があった為に、守旧派(親幕府派)ばかりでなく革新派(倒幕派)にも存在を疎む勢力があった。
強烈な個性は諸刃の剣で、竜馬にはいかなる相手でも説得が通じない事くらい、志士達は先刻承知だった。

千八百六十七年(慶応三年)の年末、坂本竜馬は京都の旅寓・近江屋(京都市中京区)で何者かに中岡慎太郎と共に暗殺された。

この暗殺、一応佐幕派の犯人とされる者の自白も取れているが、その暗殺犯人がさしたる罪を問われて居ない為、実は「倒幕側(新政府勢力)の暗殺陰謀ではないか?」と、維新の謎とされている。

暗殺犯は「京都見廻組」と言う説が一般的であるが、近頃では別の説も浮上している。

簡単に表現してしまうと、坂本竜馬の考え方は徳川家を残す有力大名の合議制で、公卿の三条実美、岩倉具視、薩長を代表する西郷隆盛、桂小五郎(木戸 孝允)らの完全倒幕派には相容れない所が在った。

そこで、薩長同盟(薩長盟約)締結の功労者の龍馬では在ったが、その後の状況変化では竜馬の考え方(龍馬案・大政奉還建白書)は完全倒幕派の邪魔になる為、竜馬の暗殺は「完全倒幕派の手に拠るもの」との見方も有力である。

竜馬の目当ては、伸び伸びとした自由貿易だった。
その精神は、先祖の血のなせる堺商人(氏族・根来衆・雑賀衆出自の堺豪商)の独立自由思想そのもので、けして奇をてらったものではない。
だが竜馬の彼なりの存在は、彼の意思とは別に、重いもの成っていた。

竜馬もまた、他の多くの志士達同様に志半ばで倒れてしまった。
彼の望みは、遥か昔の先祖が活躍した自由都市「堺」の、自由交易精神の再現だったので有る。


千八百六十八年(明治元年)一月、大坂の旧幕軍が上京を開始し、幕府の先鋒隊と薩長の守備隊が衝突し、鳥羽・伏見の戦いが始まった(戊辰戦争開始)。
西郷は伏見の戦線、八幡の戦線を視察し、戦況が有利になりつつあるのを確認する。

徳川慶喜は松平容保・松平定敬以下、老中・大目付・外国奉行ら少数を伴い、大坂城を脱出して、軍艦開陽に搭乗して江戸へ退去した。
新政府は「慶喜追討令」を出し、有栖川宮熾仁親王を東征大総督(征討大総督)に任じ、東海・東山・北陸三道の軍を指揮させ、東国経略に乗り出した。

勝海舟(かつかいしゅう)は、千八百六十八年(慶応四年)戊辰戦争時には陸軍総裁として、後に軍事総裁として旧幕府の代表となる。

西郷は二月に東海道先鋒軍の薩摩諸隊差引(司令官)、東征大総督府下参謀(参謀は公家が任命され、下参謀が実質上の参謀)に任じられると、独断で先鋒軍(薩軍)を率いて先発し、二月には東海道の要衝箱根を占領した。

占領後、三島を本陣とした後に静岡に引き返し、三月、静岡で徳川慶喜の使者山岡鉄舟と会見し、徳川処分案七ヶ条を示した。
その後、大総督府からの江戸総攻撃の命令を受け取ると静岡を発し、江戸に着き池上本門寺の本陣に入った。

西郷隆盛は、高輪の薩摩藩邸で勝海舟と会談し、江戸城無血開城についての交渉をした。
「勝先生、おはん、この錫杖の謂れば知っチョるでごわか?」
「西郷さん、そりゃ、噂の賀茂の錫杖と見たが・・・」

「流石、勝先生でごわす。おいどん、勝先生の博識バ、敬服もぅす。なら、これもしっちょり申そう。」
隆盛が袱紗(ふくさ)を開いて見せたのは青銅製の独鈷杵(とっこしょ)だった。

「賀茂の錫杖が在る所を見ると、おいら、そりゃ空海の独鈷杵(とっこしょ)と見た。」
「勝先生、そう言う訳でごわす。」
「コリャ幕府は勝てんわな。」

弘法大師・空海が日本にもたらした仏法の法具(密教法具)独鈷(とっこ)は、日本の密教がインド・ヒンドゥー教の聖典に大きく影響を受けている証(あかし)であり、正式には独鈷杵(とっこしょ)と言う。

「ところで勝先生、徳川を残すなら江戸城ば開けもし、ひたすら恭順ばして徳川の家ば残すが良か。後のこっバ、おいが引き受けもす。」
「良ぃんですかい西郷さん?なら判ったよ、おいらの命棄ててでも、そうするぜ。」

三月に官軍が江戸に迫ると、徹底抗戦を主張する小栗忠順(おぐり ただまさ)に対し、勝海舟(かつかいしゅう)は、西郷の提案する早期停戦と江戸城の無血開城を主張する。

勝海舟は江戸市中を戦火から救う為に、官軍の本陣が置かれていた池上本門寺の庭園(松涛園)内の四阿にて、西郷隆盛との交渉に挑む。

交渉は難航ししたが、橋本屋での二回目の会談で勝が西郷を説得に成功、西郷隆盛は、勝から徳川処分案を預かると、総攻撃中止を東海道軍・東山道軍に伝えるように命令し、自らは江戸を発して静岡に向かう。

西郷は静岡に出赴き、大総督有栖川宮熾仁親王に謁見して勝案を示し、更に静岡を発して京都に赴き、朝議にかけて江戸城の無血開城の了承を得た。

四月になって急ぎ江戸へ立ち帰った西郷は、勅使・橋本実梁(はしもとさねやな/西園寺流・閑院家の公家)鎮撫将軍らと江戸城に乗り込み、田安慶頼(たやすよしより/徳川御三卿)に勅書を伝え、ここに漸く江戸城開城が成った。

勝海舟の早期停戦と江戸城の無血開城案が江戸市中を戦火から救い、これは勝の行った最も大きな仕事の一つと後の世に賞されている。

賀茂の錫杖は西郷隆盛に携えられ、勅使・先鋒総督・橋本実梁(はしもとさねなや・閑院家・和宮の伯父さん)東海道鎮撫将軍とともに開城された江戸城に入城する。
これにより徳川幕府は名実ともに倒れたのである。

それでも、江戸城開城の後に起こった上野山(寛永寺)の彰義隊の上野戦争、及び奥州諸藩(奥羽列藩同盟)の抵抗、幕軍五稜郭の最後の戦いは賀茂の錫杖が乱を呼び寄せたものかも知れない。

西郷隆盛は、五月上旬、上野の彰義隊の打破と東山軍の奥羽白河城攻防戦の救援のどちらを優先するかに悩み、江戸守備を他藩にまかせて配下の薩摩兵を率いて白河応援に赴こうとした。

だが、それは大村益次郎の猛反対に合い、上野攻撃を優先する事にした。
五月中旬上野戦争が始まり、西郷は正面の黒門口攻撃を指揮しこれを破った。


この明治維新、最初の京でのイザコザはかなり皮肉な現象で幕を上げた。
勤皇(当初は攘夷派)倒幕派は、曲りなりにも氏族だった。
彼らは正式な影人の血統と言えない事も無い。
勿論、幕府側も氏族の出自である。

しかし幕府に付いて勤皇浪士と戦ったのは、どちらかと言うと武士(氏族)になりたい百姓上がりの浪士に拠る見廻り隊(後の新撰組)などだった。

本職の幕臣達は、元を正せば正式な影人の血統だから、帝の軍隊「錦の御旗」には精神意識において弱かった。
それで、賊軍になった途端に腰が折れている。

つまり、常に最前に在って幕府を守ろうとしたのは、皮肉な事に幕府の統治に武士道を啓蒙された百姓・町人、民人(たみびと)の血統だったのである。


「サリトテ恐ロシキ年ウチワスレテ、神ノオカゲデ踊リ、エエジャナイカ、日本ノヨナオリハ、エエジャナイカ、豊年踊リハオメデタイ、日本国ヘハ神ガ降ル、唐人ヤシキニャ石ガ降ル、エエジャナイカ、エエジャナイカ」

阿波踊りの原型は、「ええじゃないか騒動にある。」と言われている。
この騒動は、或る目的を持った者達の、神仏を利用した典型的な「大衆誘導」と言える。

ええじゃないか騒動は、日本の江戸時代の後期の千八百六十七年七月から翌年四月にかけて江戸より西の東海、近畿、四国に広がった大衆狂乱現象である。

仮装して囃子言葉の「ええじゃないか」を連呼しながら町々を巡った「ええじゃないか」騒動は都市に生活をしはじめている民衆に動揺が大きく波紋を描き、外国貿易の物価の高騰、 米価高騰など様々な生活不安から、「世直しへの期待とともに広がったのではないか」と思われる。

この騒ぎの発端を見ると、江戸幕府が滅亡した千八百六十七年(慶応三年)の夏、東海道三河国吉田宿(現在の豊橋市)で 伊勢神宮の神符が降った。
これが発端で、諸国に次々と神符降臨が巻き起こった。

降下物は寺社のお札に限らず、仏像、貨幣 など多様で、折からの政情不安も重なって「生首、手、足も降った」と噂され、「ええじゃないか」の熱狂が始まった「一種の終末思想」と考えられる。

また、最初の札の降下は、千八百六十七年八月四日(七月十四日説あり)東海道の三河国「御油宿」に秋葉神社の「火防の札が 降下したのが始まりだ」とも言われている。

神符の降下は人為的なものであり、その影には「討幕派が居たのではないか」と言われるが証拠がない。

ただ、徳川家発祥の地、三河国からこの騒動が始まった事実は、否定できない。
そこに倒幕目的の「陽動作戦」と言う作為を感じるのは当然の事ではある。

お札は伊勢だけでなく、八幡、天神、住吉、稲荷、淡島、水天宮、春日、秋葉大権現、牛頭天王、大黒天などの様々な神仏のお札が舞った。

そのお札に「懐疑的態度をとった人の家族が急死する」と村人は非常に恐れ、お札を三河国牟呂八幡宮(豊橋市)に奉納、この事件は近隣の村々にも波及した。

この熱狂は三河から東西に広がり、関東、中国、四国地方に達した。
特に東海地方では ペリー来航の黒船騒ぎ以来、大地震、津波、大雨が相次いで起き、唯念行者の除災儀礼が各地で 行われ安政五年にはコレラが流行し、人々は恐慌状態に陥っていた。

そうした中で民衆は敏感に世の変革の兆しを感じ、重く延しかかり社会不安に耐え切れず、新しい世への世直しに熱狂した。

農村にあった御蔭参り(伊勢皇大神宮の神恩即ち御蔭を感謝する参宮)を基盤として、「ええじゃないか」のはやしをもった唄を高唱しながら集団で乱舞した。
いわゆる大衆的終末思想の狂乱である。

以後、東海道や畿内を主力に、三河、遠江、駿河、伊豆、相模、武蔵、尾張、美濃、信濃、伊勢、近江、大和、山城、丹後、但馬、因幡、摂津、河内、和泉、紀伊、播磨、備中、備後、美作、安芸、淡路、阿波、土佐、讃岐、伊予の 三十ヵ国での事例があり、大衆の終末思想への影響は大きかった。

勿論ええじゃないか騒動で、幕府の威信が低下し、騒動が幕藩体制を弱体化するのに大きく寄与している。

この騒ぎの終焉は、翌年千八百六十八年四月二十二日「丹後国加佐郡野村、寺村を最後になくなった」と言われる。

この年の十一月九日に徳川慶喜(十五代将軍)の大政奉還、これにより江戸幕府は事実上滅亡、翌年千八百六十八年一月三日王政復古の大号令と、なだれ的に明治維新に繋がって行くのである。

言わば大衆の信仰心を「革命に利用した事例」と言えないだろうか?
幕藩体制の崩壊は、徳川政権の経済政策の失敗に、所謂外圧(開国の要求)が加わった結果である。


そう言えば、日本近代史の、ターニングポイントにはかならず米国が絡んでくる。
黒船から明治維新、敗戦から戦後復興、そして、今度は「軍事鎖国」から、自衛隊の海外派遣と言う名の「開国」・・・、そこに奇妙な一致を見る。
だからこそ、「大きな歴史の変わり目が、今始まった」と思えて来るのだ。

明治維新のきっかけとなった黒船来航についても、正しい見方が必要である。
今から百五十二年前(千八百五十三年)、東京湾の奥深く、江戸に近い浦賀にペリー艦隊がやってくる。

その目的は鎖国していた日本への「開国の要求」であるが、裏にあるのは「日本からの富の収奪」である。

結果的には日本の近代化を促す事になるが、この時の武力を背景とした「相手の国法をも無視した交渉方法」は、正しく「こちらの言う通りに成らないと武力を使う」と言う、イラクにとった同じ手法だった。

この時点で、日本の存在は米国の脅威でもなければ、他国を侵略する国家でもなかった。
つまり、富の収奪が米国の目的だったのである。

石油利権を狙った今回のイラクも、正しく同じで有る。
イラクも石油がなければ、米国の態度は北朝鮮と同じで武力行使は極力避けたのではないか?

つまり今の所、北朝鮮には「富の収奪について何の旨味も無い」のだ。
ただ米国の軍事産業の為に、「みなし敵国」の存在は必要で有る。

百五十年前の日米和親条約は極端な不平等条約で知られる「日米修好条約」の為で在った。

通貨の「為替レートの比率が半分(1:2)」に決められ、米国の通貨二十ドル金貨=二十円金貨(当時世界的に金本位制だった)で金の目方(量)を合わせた単位で始めた通商は、決済には倍の四十円支払う事になり、大量の金銀を日本から米国へ流出させる事と成った。

これで当初の目的、日本からの「富の収奪」は長期的に果たされたのである。

所が、米国はその後国力を増した日本に対し、一転して批判を始め、国際的に孤立させて行く。
富の収奪どころか、ライバルに成長したからである。

最近、政治家や評論家などの口から良く「国益」と言う言葉を耳にする、つまり米国との親密な国際共同歩調は、日本国の利益になると言うのだ。
しかし、経済と同じで利益を追えば必ずリスクもついてくる、その辺りの事を故意に論議を避けてはならない。

そして、中東の国の「復興支援」の美名の影に、国の損得が見え隠れしているのが「自衛隊の海外派遣」と言う事になる。

「国益」は日本国民在っての事ではないのか?
それならば、今は正に日本を再生する為の大きな決断の時であり、それが今最優先すべき「国益」ではないだろうか。


慶応三年に徳川慶喜より大政奉還された時、新しく下士の身分から中央政治の実権を握った維新の志士達の間で都(新しい政治の中心地)を「そのまま京都に置くのかどうか」が論議になる。

意見としては大久保利通の浪速(大阪)、前島密の江戸(東京)、江藤新平の京都(西京)江戸(東京)東西二京論などが在ったが、彼等の一致する所は京都以外に遷都案である。

京都から遷都する事の意味は、古い政治体質を引きずる公卿達の「新政治に対する妨害を嫌った為」だと言われているが、本当にそれだけだろうか?

明治帝が睦仁親王で在ったなら京都は千有余年の帝城であり生まれ育った土地で、果たしてその明治帝(睦仁親王)が如何に「周囲から口説かれた」と言え京都から江戸(東京)への遷都に易々と同意するだろうか?

憶測の域を出ない話だが、もし明治帝が京都帝城に何の未練も無い人物だったら、この謎解きは簡単である。
三条実美ら七公卿落ちのメンバーや岩倉具視はともかく、明治帝を早期に京都の公家衆から引き離すのっぴきならない事情が隠されていた可能性もあるのだ。


千八百六十八年(慶応四年/明治元年)、維新中心人物達の奏上(そうじょう)により江戸(東京)遷都の意志を示す天皇の詔書がなされる。
「江戸ハ東国第一ノ大鎮、宜シク親臨ヲ以テ其政ヲ視ルベシ、因テ自今江戸ヲ称シテ東京トセン。東西同視スル所以ナリ」

千八百六十八年(明治元年)の八月、明治帝は政治的混乱で遅れていた即位の礼を執り行なう。

その後明治帝は、維新中心公卿の岩倉具視、議定職の中山忠能、外国官知事を任じていた伊達宗城らをともない、警護の長州藩、土佐藩、備前藩、大洲藩の四藩の兵隊など総数三千数百を持って同年九月に京都を出発して江戸(東京)に初めての行幸(東幸)をする。

旧東海道を東に進み、駿河国の東の国境を流れる木瀬川を越えると伊豆国に入る。
その国境を守る社が、大塔宮護良(おおとうのみやもりなが)親王に所縁の智方(地方)神社である。

その智方(地方)神社の傍らに広がっていたのが、窪地(くぼち)に設えて在った窪田(くぼんだ)と呼ぶ水田だった。

窪田(くぼんだ)と呼ぶ水田の先には、源頼朝が腹違いの弟・九郎(源)義経と「初めて対面した」とされる八幡神社がある。
この智方(地方)神社と八幡神社の正面に面して旧東海道が設けられているのだが、明治帝の一行が江戸(東京)遷都の為に東幸したのがこの道だった。

明治帝の一行は、木瀬川を越え駿河国境を越え伊豆国に入った所で休息を取る予定を決め、先触れが当地の世話役達に届いていた。

先触れを受けた当地の世話役は、ちょうど智方(地方)神社と八幡神社の中間地点にあたる広々とした窪田(くぼんだ)の水田に板囲いの仮御所を急遽造営して明治帝の一行を迎え御休息頂いた。

行程二十日間を余す帝の行幸では道中も帝の威信を高めながらの大変大仰な旅で、その仮御所は恐れ多い物だから直ぐに取り壊され、元の水田の戻されて今は遊技場の建物が建っている。

この東幸は旧幕勢力に対するけん制のデモンストレーションの意味合いが強く、また東京と京都(西京)の両京の間で天皇御座(都名乗り)の綱引きもあり、一旦先帝(孝明天皇)の三年祭と立后の礼を理由に、同年十二月には再び京都へ還幸を実地している。

その三っ月後の千八百六十九年三月、明治帝は三条実美らを従えて再び東幸を慣行、行幸二十日余りを持って東京城(旧江戸城)に入り、ここに滞在するため東京城を「皇城」と称する事とし、「天皇の東京滞在中」とした上で太政官が東京に移され、京都には留守官が設置された。

この江戸(東京)遷都の背景に、帝を京都御所から引き離したい「何か特殊な事情が在った」とは考えられないだろうか?

当初の発表では、あくまでも京都と東京は二元首都だった。
そして睦仁親王(明治帝)のご尊顔を拝していた女官の大多数は、京都御所に置き去りに成っている。

ついで同年十月には皇后や大臣諸卿も東京に呼び寄せ、着々と既成事実を積み上げる形で完全に天皇御座が東京に移って、これ以降明治帝は東京を拠点に活動する事になり、遷都が完成するのである。


明治維新が成功し、明治新政府が成立して江戸に明治帝が入城して遷都は成った。
その為の倒幕だったから、ここからは近代的な日本を創造すべく新しい政治をしなければならない。

後醍醐天皇の「建武の親政」以来の天皇親政に拠る政治形態を明治維新政府は採って、新生日本国は大日本帝国として出発する。

明治維新政府の形としては、後醍醐天皇が目指した天皇親政である。
しかし現実は、倒幕に功績のあった「薩長土肥と倒幕派公家」の連合政権である。
そして徳川二百六十年の後始末は、江戸城開城後も内乱の形で北陸、東北、北海道と続いていた。

それでも急速に改革は進んで近代化を目指す明治政府は、まず身分制度が改める。


氏族(皇族や有姓身分の公家や武士)や平民、その下に非人(賎民)と言う扱いの差別が存在した江戸幕府の身分制度は、千八百七十一年(明治四年)明治新政府発布の戸籍法に基づいて、翌明治五年に編製された壬申戸籍 (じんしんこせき)が発効され、これに拠り被差別部落民は賎民解放令に基づき平民として編入された。

この戸籍法に拠る編製戸籍を、明治五年の干支からとって「壬申戸籍」と慣習的に名付けている。

その五年後、明治政府は千八百七十六年(明治九年)三月に廃刀令、同年八月に金禄公債証書発行条例を発布した。
この発布された二つは帯刀・禄の支給(知行地召し上げ)と言う旧武士最後の特権を奪うものであり、士族に精神的かつ経済的なダメージを負わせた。

簡単に言えば、各藩諸侯の独立地域支配に拠る「収石に拠る藩運営」及び武士としての「禄・知行」を中央が取り上げて「財源」とする事である。

即ち、既成概念に囚われていては「財源の捻出など出来ない」と相場は決まっているが、革命であれば今までの制度を代えて、「財源」はひねり出せるものなのである。

そしてもう一つの目的は、皇族、貴族、士族、平民と言う身分制度が成立して一連の身分制度の改正と共に武士の専業だった「武(兵役)」を男子国民全てに負わせる徴兵制度の確立だった。
何よりも維新の新体制で、藩制が廃され、「武士」と言う身分が無くなった。

この「帯刀と禄の支給(知行地)召し上げ」は、永い事幕藩体制の既得権益の中でノウノウとしていた士族は、一気に無職・無収入の身分に落とされ、特権階級としての誇りも傷付けられる言になる。

この制度改革には「財源の捻出」と言う切羽詰った維新政府の事情があるから、流血を伴っても断行した。


アジア地域の植民地化が進んでいる中、欧米列強と伍して国家を存続させる為には、近代化を急がなければならない。

しかし旧体制の利権を奪われた士族(旧武士階級)の不満は、専業軍人(武士)だっただけに、国家の根幹に関わる重大懸念だった。
その事に憤慨した熊本県士族の神風連の乱、福岡県士族の秋月の乱、山口県氏族の萩の乱が立て続けに起こっている。

各地で反乱が頻発したが、「西南戦争がその総決算」と言って良い。
とにかく士族不満の帰結先が西郷軍(鹿児島士族)に拠る反乱が「西南戦争」と言う訳だが、陰陽師(修験山伏)から始まった武術を継承した武士が、その役目を閉じる時が来たのだ。

熊本城や薩摩(鹿児島)の城山での激戦は有名だが、修験武術が歴史的に最後の敗北を確認したのはあの神話の世界、日向(ひゅうが)の国・県(あがた)の庄(延岡市)「無鹿(むしか)」だった。

つまり、天孫に繋がる神の末裔(征服部族)が、民の兵に敗れた瞬間で有る。そして、民はすべからく「臣民に代わって」戦いの当事者として靖国への道を歩み始めたのである。


明治政府が行った制度改革で、廃藩置県及び帯刀禁止・禄の支給(知行地召し上げ)と双璧を為すのが官吏制度(かんりせいど)と言う役人の登用方法である。

維新政府を成立為し得た下級武士達の真っ先に臨んだ改革対象が役人の登用方法で、維新前の上級役人の登用は江戸幕府成立時点での氏族の家格が連綿と続く家柄と言う理不尽な制度だったからである。

我が国の「国家公務員上級職試験」は、明治維新政府が永く続いた氏族の血統支配体制を変え新しく公務職員を広く人材を登用する為、官吏制度(かんりせいど)を制定した事に始まっている。

維新政府で権力を握った勤皇の志士が氏族の血統支配体制に辛酸を舐めて来た下級武士だった事から「在野に優秀な人材が居る」と言う思いが強かった。

明治維新後に成立した戦前の公務員制度は「官吏制度(かんりせいど)」と呼ばれ、官吏(かんり)は武官と文官に分類される。

武官の大半は旧倒幕軍の中心だった薩長土肥の四藩出身者が多く、文官は帝国大学令を定めて東京大学を帝国大学とし、官吏養成機関(主として文官の養成機関)とした。

その後「文官試験試補及見習規則」を定め、これに基づく試補試験を実施して各省は試補として採用するべく、一応この試験は専門学校(後の私立大学)出身者にも受験資格を付与したしたのだが、帝国大学の法科大学・文科大学の卒業者はこの試験を経(へ)ずに各省の試補として採用されこちらの方が採用人数は多かった。

それらも在って、入省後は学士試補(帝国大学卒業者)が主流で試験試補(私学出身者)は傍流と言う実質的な差別待遇も行われ、後の官学・私学による待遇格差の遠因となる。

まぁ帝国大学(後の国立一期校)は最初から官吏(かんり)養成学校だった訳で、その流れが現在まで続いて居て、教える教官(教授)も採用する省庁担当者も採用される方も東京大学卒業者が圧倒的に多いのである。

ここで言って置きたいのだが、それでも旧帝国の入学試験及び入学後の教育には哲学思想を含む言わば人間としての資質に重点を置いていたのだが、戦後から現在の日本の「国家公務員上級職試験」は、どうも学力に偏重している感がある。

また、焼け跡から立ち上がった戦後の親は「勉強すれば金持ちになれる」と育てて来た。

とにかく明治新政府の在野の優秀な人材登用は、この官吏制度(かんりせいど)に依って確かに血統支配体制を破壊させ新しい時代の担い手を育成登用する事には成功した。

だが、一方で「帝大学閥(現東京大学)」と言う新たな利権と既得権益を独占する継承行為が歴然と続いていて、歴代国民の常識とは懸け離れた考え方を醸成しているから内部からの自浄能力に欠如している。

世の中には「官僚にも良い人は居る」と仰(おっしゃ)る方も居られ、確かに人間のひとりひとりは会えば皆良い人の側面は持っている。

しかしそれは綺麗事で、官僚と言う職責に関しては組織としての自浄能力が欠如している以上は全員同罪で、国民への行政サービスや無駄な予算削減よりも既得権益の確保が最優先の東大閥(旧帝大学閥)のDNAを受け継ぎ続けている官僚に良い人間など一人も居ない。

ところが困った事に「お上のする事に失敗は無い」と言う明治政府以来の建前の考え方が公務員制度には存在し、例え人命に関わる公務上の失敗でも直接的な違法行為で無い限り罪には問われない。
民間会社ではクビの失敗でも減給処分程度で済ませてしまう。

つまり公務員は、クビにも降格にも出来ない「身分保障制度」が制定されて守られているのである。
勿論彼らは、自らの襟は正す事無く民間での失敗に関しては省庁の職務権限で厳しく取り締まり厳しく処分する。



通常の理屈ではどうしても理解出来ないのが、西郷隆盛の薩摩挙兵(西南戦争)である。

まさか薩摩私学校の軍勢が、東京に攻め上れるとは西郷も最初から考えている訳が無い。

何故、西郷隆盛ほどの男が負け戦を承知で維新政府と事を構えたのだろうか?
結論は一つ、西郷隆盛は自分が魂を吹き込んだ新政府の為ならどんな事でもやる男だったのだ。


無鹿(むしか)は百年ほど前、日本最後の内戦(西南戦争)の主戦場だった。

天孫降(光)臨の伝説の地であり、あの大友宗麟が異教(キリスト教)の「理想郷にしよう」とした地が無鹿(むしか)である。

この無鹿(むしか)の地、今訪れると川に沿った水田に囲まれる静かな住宅街で、激しい戦乱の地と成った歴史の舞台とは思えないのどかな佇(たたず)まいである。

明治時代初期に起こった「征韓論」では、竹馬の友であり同志であった西郷隆盛と大久保利通が対立し、内乱(西南の役)に発展、維新の英雄「西郷隆盛」は、城山で非業の死を迎えている。
或いはスサノウが「大久保利通」に宿り、無二の親友を殺させても、「倭人相打つ」を阻止したのかも知れない。


千八百七十一年(明治四年)条約改正の為に、明治新政府の要人(岩倉具視、大久保利通、木戸孝允、伊藤博文ら)から成る「外交使節」を欧米各国へ派遣する。

その留守の間は留守政府(三条実美、西郷隆盛、井上馨、大隈重信、板垣退助、江藤新平ら)が新政府の運営を担い、主なものとしては府県の統廃合(三府七十二県)、陸軍省・海軍省の設置 、学制の制定 、国立銀行条例公布 、太陽暦の採用 、徴兵令の布告 、キリスト教禁制の高札の撤廃 、地租改正条例の布告 などの政策が施行されている。


実はこの頃、南朝方(後醍醐帝方)に与力した楠木正成、新田義貞、北畠顕家らが忠臣として復権され、明治五年の楠木正成(湊川神社)、明治九年新田義貞(藤島神社)、明治十五年北畠顕家(阿倍野神社)と次々に神社が建てられて祀られている。

更に明治天皇の特旨により新田家(新田義貞の子孫、男爵)、名和家(名和長年の子孫、男爵)、菊池家(菊池武光の子孫、男爵)など、南北朝時代に南朝方忠臣であった子孫が、特別の計らいで華族に叙せられている。


維新政府成立直後の未だ新政府の足元も固まらない時に、この力の入れようは何だったのか?
つまり明治維新政府は、南朝方(後醍醐帝方)の復権をかなりの優先事項として取り組んでいた。
この謎は大きい・・・・。

明治維新成立と同時に突然浮上した、江戸期の北朝系天皇の下では賊軍だった南北朝期の南朝方忠義の臣達の物語に、いったい何が込められていたのか?
この事は、明治帝入れ替わり説の一つの検証になるのかも知れない。


千八百七十三年(明治六年)、大久保利通ら外交使節団組(外に岩倉具視、木戸孝允・伊藤博文ら)が帰国すると、世に言う「征韓論」で留守政府(三条実美、西郷隆盛、井上馨、大隈重信、板垣退助、江藤新平ら)と意見対立、陸軍大将・参議・西郷隆盛は下野して故郷の薩摩(鹿児島)に帰省してしまう。

「征韓論」の端緒と成った対朝鮮問題は、千八百六十八年(明治元年)に当時の李氏・朝鮮王朝が維新政府の国書の受け取りを拒絶した事に端を発している。
明治新政府としては最隣国の李氏・朝鮮王朝が「国書の受け取りを拒絶した」と成ると、当然ながら放置しておく訳には行かない。

李氏・朝鮮王朝に新政府が侮辱された訳だが、西郷隆盛の真意が行き成りの「征韓」に在ったかどうかは学者の意見が分かれ、現在では「征韓」では無く「国交樹立使節派遣の意志だった」と言う説が有力である。

但しこの李氏・朝鮮王朝に対する「国交樹立使節派遣」は、相手の出方に拠っては交戦の事態を招く危険が大きかったのは事実で、見聞を広めて帰国したばかりの外交使節団組の危惧も当然の意見だった。
下野した西郷隆盛は四年後の明治十年、青年氏族に押されて薩摩にて挙兵する。


ご存知の通り、大久保利通は西郷隆盛と同じ薩摩藩士で、明治維新の立役者の一人である。西郷の盟友としてともに維新に尽力したが、維新政府設立後は、その国家運営(征韓論/異説あり)で西郷と対立し、袂(たもと)を分けた事に成っている。

明治新政府に叛旗をひるがえした薩摩西郷軍が熊本で敗れた後、官軍との勝敗の行方を決める「最後の決戦」をして、無残に破れた所が「無鹿(むしか)の地」だった。
そんな昔の話は、その無鹿(むしか)に住む若い人達にも、もう知らない歴史になってしまった。

無鹿(むしか)の地に沿って流れている川がある。
川の名を「北川」と言う。
この北川沿いの山道を遡って行くと、延岡市を外れ北川町に入る。
遠藤周作先生の「無鹿」では、俵野、長井、可愛(えの)などの、北川町の「大字、小字の名」が登場する。

山間の町北川は、「無鹿(むしか)、和田越え」の戦で破れた西郷隆盛が、大将の軍服を焼き自軍の将兵に解散を布告した地である。

思えば西郷隆盛は、何に引き寄せられてこの無鹿(むしか)の地に至ったのか。
出来過ぎた話しと言えばそれまでだが、ある意味無鹿(むしか)は特別な因縁の地かも知れない。

この無鹿(むしか)の決戦に敗れたのを境に西郷軍は敗走を始め、天孫降臨伝説の地を転戦しながら、追われるように可愛(えの)岳を越え、苦難のすえに薩摩(鹿児島県)に押し戻され、残兵四百足らずで城山の地にこもる。


風にザワザワとざわめく原生林の下を、西郷隊の敗走行軍がトボトボと続いている。

「百姓町人の軍隊などに負ける訳がない」と意気込んでいた薩摩・熊本・日向の武士達が、気力も失せる手酷い憔悴感に襲われて、時折漏れる穏やかな陽光とは裏腹の絶望に満ちた空気が彼等を覆っていた。

参たる情況の行軍の夢にうなされていた西郷は、砲声で目を覚ました。
ここは、城山だった。
強行軍で疲れ果て、不覚にも寝入って夢を見ていたのだ。
忘れられるものではない。
西郷が夢に見るのは、あの屈託無い坂本竜馬だった。

不思議な事に、夢の中の竜馬はいつも上機嫌で笑っていた。
過ぎし時の、見る夢は熱く愛しい日々だった。
夢の中で自分は、竜馬の奇想天外な申し出に、「またで、ごわすか?」と、苦く笑っていた。

ハッと目が覚めると、嘘であって欲しい埋め合わす事の出来ない現実が、西郷の胸を過ぎる。西郷は竜馬の死を、心底惜しんでいた。

西郷には、自分が生き方を変え違う世界に生きる事は卑怯に思え、赦される選択ではなかった。
「維新の大望の為」とは言え、西郷が生き方を変えるには、余りにも多くの死と引き換えに此処まで来ていたのだ。

「坂本竜馬・・・あげな良か男ば死なせ申した。まっこと惜しかでごわす。」
西郷は死を賭(と)して、夢の続きに幕を閉じる決意をしていたのである。


自分の役目が終わった西郷は、自らも数箇所傷つきながら、心静かな安らぎの中に、最期を迎えようとしていた。
死を目の前に、心穏やかな気分に成ったのは、久しぶりだった。

「わー」と言う辺りを威圧する時の声。時折響く「ど〜ん」と言う不気味な砲声。「どし〜ん」着弾の音、舞い上がる砂埃。
「だぁ〜ん」銃声の先で「バタッ」と倒れる兵の姿。
乱れ飛ぶ怒号や気合と斬り合いの響き。

西郷隆盛は傍らの別府晋介に声をかけ、「晋どん(別府晋介)、もうここいらで良かでごわはんか。」と介錯を頼み、自刃する。

西郷が自軍の将兵に解散を布告した北川の地から可愛岳(えのだけ)越えを敢行して終焉の地城山まで従った四百名の中には薩軍幹部・村田新八(むらたしんぱち)、篠原国幹(しのはらくにもと)、桐野利秋(きりのとしあき)、池上四郎(いけのうえしろう)等四十数名が残っていた。

その残っていた四十数名が、城山陥落時は西郷隆盛の自決を見守った後に岩崎口の塁をめざして進撃、途中、弾雨の中で自刃、刺し違え、或いは戦死した。


この西南戦争、巷に溢れる諸説は本当なのか、「この戦役は、西郷隆盛の死を覚悟した計画的出来レースで有った。」と言ったら、貴方は信じるか。
実は、そう読めない事も無いのだ。

もしも、西郷隆盛が新政府の政務に自分の身の置き所が見出せず、引き際を考えて居たとしたら・・・・。
また、明治維新の大業を為したとは言え、多くの血を流した将として燃え尽き、死を望んで居たとしても、心情的には無い訳では無い。
西郷は、自らの役目が「終わった」と感じていたのだ。

何時の時代でもそうだが、政権交代は武力の素養に勝る者で成されても、混乱が収まると次は官僚の素養に長ける者の出番である。
つまり、必ずしも同じ者に継続してこの二つの役割を勤める資質が有る訳ではない。

この両者の軋轢は、その節目の過渡期には必ず現れるものだった。
その時点で、身の置き所を失う名将を、歴史は「嫌」と言うほど見詰て来て居た。
その内の一つが、まさに西郷の始末の付け方だったのである。


近代化を進める明治政府は千八百七十六年(明治九年)三月に廃刀令、同年八月に金禄公債証書発行条例を発布した。
この発布された二つは帯刀・禄の支給(知行地召し上げ)と言う旧武士最後の特権を奪うものであり、士族に精神的かつ経済的なダメージを負わせた。

簡単に言えば、各藩諸侯の独立地域支配に拠る「収石に拠る藩運営」及び武士としての「禄・知行」を中央が取り上げて「財源」とする事である。

「帯刀と禄の支給(知行地)召し上げ」は、永い事幕藩体制の既得権益の中でノウノウとしていた士族は、一気に無職・無収入の身分に落とされ、特権階級としての誇りも傷付けられる言になる。

その事に憤慨した熊本県士族の神風連の乱、福岡県士族の秋月の乱、山口県氏族の萩の乱が立て続けに起こっている。

その士族不満の帰結先が西郷軍(鹿児島士族)に拠る反乱が「西南戦争」と言う訳だが、この制度改革には「財源の捻出」と言う切羽詰った維新政府の事情があるから、流血を伴っても断行した。

即ち、既成概念に囚われていては「財源の捻出など出来ない」と相場は決まっているが、革命であれば今までの制度を代えて、「財源」はひねり出せるものなのである。


実は西郷自身が四民平等・廃藩置県に反発する旧薩摩藩士族の中に、禁門の変から戊辰戦争まで西郷指揮下で戦った心情的に心痛める部下が数多く居た。

「あん無骨者等は根からの武士で、新かごたる事バ言うても通じ無か。」
村田新八(むらたしんぱち/元宮内大丞)、篠原国幹(しのはらくにもと/元帝国陸軍少将)、桐野利秋(きりのとしあき/元帝国陸軍少将)、別府晋介(べっぷしんすけ/元帝国陸軍少佐)、池上四郎(いけのうえしろう/元帝国陸軍少佐)等である。

「おいどんが一緒にあの世に付き合うが、一等良かたい。」
もう充分に生き、本懐は遂げて新政府の樹立まで漕ぎ着けたのだから西郷に死は恐ろしくはない。
西郷は密かに、生きる場を失った彼等と共に死ぬ事を考えていた。


西郷の手に握られていたのは、あの「賀茂の錫杖」だった。
「こげな物騒なもんば、もう良か、おいどんが冥土ばお連れするでごわしょう。」
乱世に咲く花は、乱世にしか咲く場所がない。西郷は、確信をもって自らの運命を決した。

西郷は、賀茂の錫杖を自分が道連れにして、武士の時代の終焉を図る事にした。
そして、明治政府の権威確立の為に、特権と俸禄を取り上げられた「不平士族」を納得させる為に、命をかけた大芝居を打った。

西郷隆盛には、薩摩藩以来の盟友がいる。
大久保家の家格は、御小姓与と呼ばれる身分である下級藩士であった。

利通は千八百三十年(文政十三)に薩摩国鹿児島城下高麗町(現・鹿児島県鹿児島市高麗町)に生まれた後、幼少期に「西郷が住む加治屋町に引っ越した」として「幼少期に西郷隆盛と共に学問を学び親友となる」と言う記述が多いが、幼馴染説の辻褄合わせでその事実はない。

加治屋町郷中時代の西郷の記録には大久保に関する記述はなく、また大久保側にも加治屋町郷中時代の記録も幼少期に西郷と接触した記録もないのである。

例え引っ越しが事実としても、文政十年生まれの西郷隆盛と文政十三年生まれの大久保利通では、ほぼ三歳の年の差(二年十ヶ月)があり、事実西郷は十三歳で元服、十六歳で藩に出仕している。
凡そ十四歳位で元服する時代に幼馴染みとしての接点は互いの幼少期の時期的に見出せない。

生まれた場所も育った環境も大きく違い、大久保と西郷は青年期に成るまで「ろくな面識は無かった」と言う地元の研究者の成果が事実である。

大久保利通は千八百四十六年(弘化三年)から藩の記録所書役助として十六歳で出仕、薩摩藩内の出世に注力して藩内での力を着け、千八百六十二年(文久二年)利通が三十二歳に成って初めて島津久光を擁立して岩倉具視らと京都の政局に関わりを持ち始めている。

つまり大久保と西郷の間柄は、たまたま激動の時期に薩摩藩に二人の秀才が同時に現れ、途中から倒幕の志を同じくして協力し合うように成っただけの事だった。

大久保と西郷は幕末の動乱期に同じ藩に在して同じ志であったから、倒幕の為に活躍する様になって力を合わせた盟友には違いないが、幼い頃からの「竹馬の友」は酷い誤報である。

大久保利通は、元服時に通称を正助、「諱」は利済(としさだ)と名乗るが、後に藩主の父・島津久光から異例の抜擢を享け、一蔵の名を賜りこれを通称する。

その後時期は不明だが「諱」を利済(としさだ)から利通(としみち)に改名する。
この利通、人情派の西郷隆盛とは正反対の秀才肌・理論派のキツイ性格で、余り周囲の人気は無かったが、とにかく「権力欲と実行力は強かった」と評されている。

思うに「秀才肌・理論派」と言う大久保利通は、タイプとしては石田三成型かも知れない。


実は、西郷隆盛の「征韓論」の頑なな主張と参議を辞しての下野、薩摩(鹿児島)への帰省そして挙兵には、真相が外に有った。

西郷隆盛の屋敷に、外交使節から帰国したばかりの大久保利通が、内密に尋ねて来た。
「一どん(一蔵)、異国で骨バ折っての無事なお帰り良かでごわす。」
西郷は利通の事を、通称の一蔵を略して「一どん」と呼んでいた。
西郷は、決意を秘めて大久保と対峙していた。

西郷のねぎらいに、大久保は開口一番悩みを口にした。
「西郷ドン、朝鮮国の相手どころではナカぞ、日本中のさむらいば、不平不満が出ちょるバイ。」
不平士族の不満や反乱が全国各地で騒動を引き起こしていた。

これは大久保から留守を預かっていた西郷達留守政府(三条実美、西郷隆盛、井上馨、大隈重信、板垣退助、江藤新平ら)の責任である。

「面目無か、良〜知っちょるでごわす。」
「欧米は実に進んじょるけに、こんままでは立ち遅れて飲み込まれるでごわ。国内バ早うまとめにゃならんバイ。」

「朝鮮国のコツは後回しでごわっか?」
「今、朝鮮国と事を構える余裕は無かバッテン、西郷サーもおたの申すバイ。」

眼前のこの男、何しろ理論家のクールな交渉役が得意で、事を冷静に処理するから、こちらの真意を告げても取り乱す事はない。

「そげんならば、一どん(一蔵)、知恵ば使い申して武士の葬式ごたるもんば、出さんと遺憾バイ。」
「そん武士の葬式ば、おはんはどげんしたら、良かとか?」

「一どん(一蔵)が帰ったバッテン安心じゃけ、以前から考えちょった事を実行バするけに。」
「しっかし、そいは難題でごわすぞ。」
「良か、良か、おいどんがそん葬式ば出しちょるけん、おんしらには新政府ばしっかとおたの申すバイ。」

「何か、策が有りもうすか?」
「容易(たやす)か、おいが薩摩ば帰って賊徒に成りもっそう。」
「西郷サー、賊徒バ言い出しちょって、それはいったいどげんこつでごわっか?」

「謀じゃけに、こん事は一どん(一蔵)だけの腹に仕舞ってたもせ。」
西郷から「賊徒に成る」と聞いて、流石の大久保もたじろいだ。
「おいが西郷サーにそげんこつばさせられんでごわ。」
「一どん(一蔵)、オィが捨石に成りもはん。囲碁バ打つんでも捨石バせんと良か上がりには成りもさん。」

「バッテン西郷どん。オィはオハンを捨石バできもさん。」
「なぁ〜が一どん(一蔵)、承知のごたるおいどんが持病、どうもかんばしゅうは無かでごわ、天子様ばご奉公はこれが最後でごわ。」

話を聞いて、利通は全てを悟った。
「聞かんお人でごわ、どうやら、止めても無駄なごたる・・・」

「おいどんは、遠(とお)に命バ捨てて居り申す、この上は・・・お上への最後のご奉公に、ガス抜きばして行きもうさんと思うごわす。おいどんが指揮バする士族相手に、新政府の〜民兵の強かごタルを天下に知らしめるが良かですたい。」

世間を欺(あざむ)かねば、事は成らない。
参議・西郷隆盛は一計を案じて一芝居打ち、「征韓論」を強行に主張して下野して見せた。


西郷は、欧米列強に伍する国家体制を確立する為に、血統のみを頼りにした旧来からの特権階級・武士の特権を、「無し」と改める必要を強く感じていた。
その為には、古い「武士」と言う階級の存在が、「不要なもの(役に立たない)」として終わった事を示さなければ成らない。

当時最強と謳われた「薩摩藩兵」が、明治政府の民兵に敗れなければ各藩の不平士族は納まりそうも無かったのである。

すなわち西郷は、改革に伴なう痛みとして西南戦争を引き起こした。
しかし最近の小泉総理とは違い、痛みを伴なったのは庶民ではなく、既得権にしがみ付く特権階級の方だった所が、西郷の英雄たる由縁である。

西郷が、私心を捨てられる人物だったからこその、維新の偉業である。
元々西郷の心に在ったのは、純真に「西欧列強から国を守る為の思い」であり、自らの出世欲ではない。

その私欲の無さが認められていたからこそ、西郷は維新の中心人物足りえた。
政権の中心に座っても、その西郷の気持ちにブレはない。

新政府の目先の難題は、失業し、特権も取り上げられた不満士族(氏族)だった。
今、不満氏族に圧されて振り子が旧来の封建社会の世に振れ戻ったら、維新は文字どうり水泡に帰す。
「彼らを黙らせなければ成らない。」


西郷は新しい考え方が出来る人間だったが、自らの生き方の基本には武士の思想をも大事にしていて、自分は武士として死ぬ事を望んでいた。

日頃、「新か国バ成し申したが、武士としてのおいドンは、主家の島津ば潰してしもうた。公にはお詫びせねバならんでごわす。」と言っていた西郷の鬼気迫る決意に、周りは押し留める事も出来ない。

どんな人物の人生でも、得る物があれば失う物もある。
英雄と言われた男の得た物の大きさだけ、西郷の失った物も大きかったのかも知れない。
西郷隆盛が栄光の果てに見た物は、いったい何んだったのか?


実弟の西郷従道は、兄・西郷隆盛下野後も維新政府に留まり、近衛都督として政府軍の要職に在った。
「諸国の不平士族がごたる輩ば、おいどんの体一つと交換で済めば、安いモンでごわす。」

西郷隆盛が、薩摩藩の盟友・大久保利通、実弟の西郷従道らに、「事前に指示していた」とすれば、見事な本物の武士である。
肝の据わった西郷の高笑いが、聞こえて来るようである。


千八百七十七年(明治十年)鹿児島を発した薩軍(西郷軍)三万は北上し熊本城を包囲して攻めたのだが、平民主体の軍と侮った薩軍(西郷軍)は、加藤清正の築城した名城の攻略に思わぬ苦戦を強いられる。

薩軍の総司令を兼ねる指揮官として熊本鎮台を包囲攻撃した桐野利秋(きりのとしあき/元帝国陸軍少将)は池上四郎(いけのうえしろう/元帝国陸軍少佐)と共に正面軍を指揮したが、熊本城は堅城ですぐには陥ちなかった。

熊本城を包囲して攻め、手間取っている間に官軍が南下、官軍小倉連隊の援軍がやって来た為、薩軍はこれを阻止せんと植木町・田原坂に陣を張り迎え撃つ事にした。

熊本城の包囲戦にそれを迎え撃つ田原坂の戦い他で敗れた薩軍が熊本城の囲みを解いて木山に退却した時、桐野利秋は殿(しんが)りとなり二本木で退却軍を指揮した。


官軍と薩軍が田原坂に対峙した時、田原坂は激しい雨に見舞われていた。
「晋どん、雨でごわんな。」
西郷は傍らの別府晋介(べっぷしんすけ/元帝国陸軍少佐)に声を掛けた。
「運が無か、先込め銃が使えんでごわ。」

田原坂は標高差六十mのゆるやかな坂で、一の坂、二の坂、三の坂と頂まで長さ一.五kmの曲がりくねった道が続く。
この道だけが唯一大砲をひいて通れる二間(三〜四m)ほどの道路幅であり、この坂を越えなければ官軍の砲兵隊は薩軍(西郷軍)に包囲された熊本城まで進めなかった。

明治十年三月四日、薩軍(西郷軍)に取っては進軍の、官軍にとっては熊本城篭城軍の生死を制する道であり、ともに戦略上の重要地でこの在ったが為に南下して熊本城を目指す官軍小倉連隊とこれを阻止せんとする薩軍(西郷軍)がこの平凡な坂道を激戦の舞台とした。

この田原坂の攻防が、三月四日〜二十日までの十七昼夜に及び、一進一退の攻防を繰り返し両軍合わせて一万人余の戦死者を出した西南の役最大の激戦地と成った。

三月二十日に到って官軍は総攻撃をかけ薩軍の防衛陣はついに陥落、薩軍は田原坂の激戦に敗れて熊本城の包囲を解き、矢部(熊本県)に退き、人吉・宮崎・都農(つの)を経て五ヶ月、八月二日、薩軍(西郷軍)は宮崎県延岡に転戦する。

西南戦争最後の激戦は延岡・無鹿近くの「和田越の決戦」で、その和田越の決戦に敗れた薩軍は長井村に包囲され、俵野の児玉熊四郎宅に本営を置き、西郷は解軍の令を出す。
その後薩軍(西郷軍)は官軍包囲を可愛岳(えのだけ)越えで突破、九州山地を敗走して山岳逃避行は故郷・鹿児島城山まで半月近く続く。

いずれにしても西郷隆盛は、最初からこの「西南の役」で薩軍が勝てるなど思ってはいなかった。
つい先程まで、「西洋の列強国に負けじ」と、日本の軍に最新式の装備を急いでいた、その張本人が他ならぬ西郷隆盛その人で有る。

つまり、帝国軍全軍の総指揮を執るべき立場にあったのが、只一人の軍最高位、陸軍大将・西郷隆盛である。
薩摩軍の装備の大幅な見劣りなどは、先刻承知の事であった。

政府軍と薩摩軍では、使用した銃一丁取っても格段の差があった。
政府軍で使用したのは最新鋭のスナイドル銃で元込め式である。

対する薩摩軍は、旧式の先込め銃のエンペール銃で、発射後、筒先に玉を込めなければならず、次の発射準備の手間にロスが大きい。大砲なども政府軍とは数や性能に大差が有った。

この戦、戦場では薩軍が決定的に不利で有ったのだ。

田原坂と言う歌の「雨は降る〜降る〜人馬は濡れる」の一節「人馬」は実は間違いで、「陣場」が正解であり、「先込め銃が濡れて役に立たない薩摩軍の悲哀を歌っている。」と言う説が有る。

この「西南の役」薩摩軍の敗北を境に、不平士族は武力抗争をあきらめ、言論による民権運動の方向に、不平を転換して行ったのだ。

新生政府軍は、この「西南の役」の経験で新式兵器の「使用要領」も格段の進歩をした事を考えれば、西郷隆盛の最後のご奉公も、真実味を帯びて来る。
あの思慮深い西郷で有るからこその、「捨て身の謀略で有った」と言う疑惑で有る。


この西郷隆盛の家は、薩摩島津家に使える小禄の下士ではあるが、藤原則隆を祖とする九州の菊池氏の分家で、肥後国・熊本菊池郡の増水城に在した西郷氏に枝に繋がる処に、運命的なものを感じる。

そぅ、西郷家は、あの鎌倉末期から南北朝期に活躍した「菊池千本槍(きくちせんぼんやり)」の南朝方の武将、菊池武重の末裔と言う事だ。

不思議な事だが、菊池の血がよみがえり「南朝復興の維新に繋がった」と思うと、西郷隆盛に課せられた何か運命的なものを、我輩は殊更に感じるのである。
正に、後醍醐天皇や文観弘真僧正の高笑いが、聞こえてきそうな縁ではある。

源平の以前から、日本中の海岸線の到る所に隼人族は分布していた。
特に伊豆、紀伊などの入り組んだ地形、つまり豊後半島と似た地形の場所は、好んで隼人族の棲み家となった。

薩摩の郷士(下級武士)西郷隆盛は、隼人族の末裔である。
徳川家を倒す為に、スサノオの命(隼人族)はよみがえり、維新を成し遂げたのか知れない。

惜しくも維新前に暗殺されたが、土佐の郷士坂本竜馬も隼人族だからこそ海と船に最後までこだわり、海洋貿易に、自分の未来を夢見て居たのかも知れない。

その翌年、同じく隼人族の末裔で新政府の高官、かつての西郷隆盛の盟友、大久保利通(おおくぼとしみち)も、西郷軍を鎮圧して、権力を掌握したにもかかわらず、暗殺されている。れは、反隼人(反スサノオ)の巻き返しか・・・・。


氏族の終焉は、西郷隆盛率いる明治新政府への最後の氏族の抵抗・「西南戦争」の敗戦である。
その西郷軍が、北川から薩摩に向けて落ち延びたルートが、古代史に名高い、可愛岳(えのだけ)越えの獣道だった。

この可愛岳(えのだけ)だが、神代の時代からの伝説の山である。
宮崎県東臼杵郡北川町もまた、北浦町と同じ、高千穂町、北浦町のスサノオの通り道のライン上、つまり高千穂の真東に在る。
北浦町より直線で真西に一里(四キロメートル)ほど高千穂町に近い所に、北川町がある。

実際には山塊が北浦、北川両町の間にあるので、人間達にはそう近くは感じないが、神々にとってはこの山塊は行き来の障害には成らない。
その北川町に、標高七百二十七メートルの可愛岳(えのだけ)がある。
この山が、神話の山なのだ。

まず不思議な事に、高い岩山ならともかく、この高さの土に覆われた山では、けして説明が付かない多くの巨石がこの山には在る。

山頂の鉾岩や三本岩などは、考古学者によると弥生時代に建造された人工的立石で、他にも石組と考えられる多くの巨石が点在している。
人間の手が、加わっているとしか考えられない可愛岳(えのだけ)は、神秘的で謎の多い山である。

そして記・紀(古事記や日本書紀)の記述に符合しそうな、伝説がある。
古事記によると、神武(じんむ)天皇に始まる皇室の五代前に、高天原から光臨したニニギノ命(みこと)が、「日向の高千穂のくしふる峰に降りた」と記されている。

これをもって、高千穂の天孫降臨とする解釈も多い。
すると、それ以前は神ばかりいて、人はこの世に居なかった事になる。

我輩は、この地に降(光)臨したのが天照大神なら、「判り易い」と思っている。
日本書紀によると、ニニギの命が亡くなられた時、「日向の可愛(えの)の山陵に葬り祭る」と記されている。

学術的証明(確証)までは至らないとの事だが、ニニギノ命の御陵墓伝説は、地元で数百年も続く「御陵墓祭り」と伴に受け継がれて居て、これは「重みの有る伝承」と言える。

そして因果な事に、この天孫族所縁の愛岳(えのだけ)を、最後の氏族軍「西郷敗残軍」が越えた時、「氏と民の時代」が終わった。

同時に、中華皇帝と対等な存在に成る為に多くの国々を支配する天皇(大王/おおきみ)の統一国家としてとして倭の国々時代からの習慣として表記、呼び続けられた地方の国名が県の表記呼称に変わったのである。


新政権が樹立すると、西郷の周りの同志が急速に変化を始める。
彼らは政権を手中にして欲も出、各々の考え方に微妙な変化が生じて新たな合意が形成されつつあった。
早急に中央政権化を図り、欧米列強に伍せる国家体勢を整えねばならない。

西郷にも、そうした状況の変化は理屈で充分に理解できる。
しかし、西郷は根っからの武士だった。主君島津公に対しても、多くの武士(士族) に対しても、時の要請とは言え裏切る結果になった。

西郷は、結果的に武士のまま死ぬ事を選択した。
大西郷と薩摩氏族が、政府の民兵軍に敗れる事こそが、新政権の確立を確かなものにしたのである。

西郷隆盛のリーダーとしての素養は、徳川家康に近いのではないだろうか?
実は、変革後や急成長後の政財界に於いて、「最も求められるリーダー」がこのタイプである。

ふたりに共通するのは、強烈に他人を引っ張って行く個性ではなく周りを受け入れる調整能力を持ち、そして、「手に入れた権力を子孫に残そう」などと言う未練がましい野心が無かったからこその、有能な人達から御輿に担ぎ上げられる才能である。


過去の歴史に於いて、真の英雄は権力者にのし上がった男ではない。
本当の英雄は、新しい時代の道筋をつけて、消えて行った確率が遥かに高い。
西郷隆盛は、死に場所を得て、壮絶な死を遂げた。
人は、思いを持ってその時代を駆け抜け、思いを残して死んで行くものかも知れない。

民族意識の高揚の為に英雄礼賛も良いが、大方の所、その英雄に酷い目に合わされた方こそが、貴方の祖先である確率は遥かに高い。
格好の良い一面だけを捉えて、「民族の誇り」とするのは簡単だが、それでは英雄に踏みつけにされた大多数の人々の真実は、忘れ去られてしまう。
そう言うお人好しが、権力者にとって「一番扱い易い庶民」である事を肝に念じるべきである。


何か企んでも、中々思う様には行かないのが人間で有る。
しかしながら、己の権力の為には、過去の歴史さえ嘘をつくのが人間で有る。

我輩に言わせれば、権力者ほど、どう言う訳か共通して面の皮が厚く「罪の大きい嘘」を付く。

矛盾する事に、庶民の小さな嘘を咎めるのが権力者で有る。
恥ずかし気も無く後ろめたさも感じないから、権力者に成れるのかも知れない。
生き残るのはそんな輩(やから)で有る。

元々庶民の理屈や感情と、為政者の考え方は違う。
彼らの基本は統治であって、庶民の事など考えてはいない。
つまり、国家が大事であって国民が大事なのではない。

従って個人の事など、思いやる気持ちなどない。
統治の都合では、平気で犠牲を出し続ける。
その為政者に期待をする所に、「庶民の幻想」が存在する。

いかに崇高な理想に燃えた人物でも、統治権を手に入れた途端、「鵺(ぬえ)」に変身するのが、人間で有る。
維新後の経緯を見る限り、薩長維新政府は極端な天皇親政政策を隠れ蓑に、強引な神国政策を強行し、「日本を駄目にした」と考えられる。

明治新政府は、王政復古によって神道による国家の統一を目指し、それまでの神仏習合から仏教の分離を画策して、廃仏棄釈(はいぶつきしゃく)と銘銘し、仏教の排斥運動や像、仏具類の破壊活動が行われた。
つまり、強引に皇統の神格化を図ったのである。

明治政府の行き過ぎた天皇の神格化は、握った権力を離したくない欲心が、成せるもので有った筈で有る。


長州に落ち延びた七卿の内、錦小路頼徳は病没したが、三条実美は維新後に太政大臣や内大臣、澤宣嘉は外務卿、東久世道禧は枢密院副議長や貴族院副議長に成るなど、皆、明治政府の要職に就いている。

三条家は、太政大臣まで昇任できる藤原北家閑院流の嫡流の名門で、江戸期の扶持米は四百五十石の公家としては中の上の公卿だった。
その家に生まれた三条 実美(さんじょう さねとみ)は、尊攘派の公家として活動する一面、極めて公家風の雰囲気を持つ温和な人物であった。

三条実美(さんじょう さねとみ)は、明治政府成立後にはその温和な性格から、千八百六十九年(明治二年)には右大臣、千八百七十一年(同四年)に太政大臣、内大臣として生涯、政権の中枢にあり続け、個性派が多い政府内の対立を調停する役割も果たした。

しかしそこは尊攘派公家、相応に「したたか」であった事には変わりは無い。
実美(さねとみ)は、押し寄せる欧米勢力の植民地化を阻止する為に長州・毛利藩討幕派(吉田松陰派)の陰謀に乗って、明治維新にこぎつける重要な役目を果たしている。

実美(さねとみ)の母は、土佐藩山内家の出である。
土佐藩が倒幕四藩連合の一郭で在り得たには、三条実美(さんじょうさねとみ)の血縁もその要素だったのではないだろうか?

優秀な公家は、武力を持たず知恵だけで朝廷を護持して来ただけあって、流石に老獪である。

特に岩倉具視(いわくらともみは、鎌倉初期に鎌倉幕府相手に知力で活躍した老獪な土御門(源)通親(つちみかど・みなもとの・みちちか)の後裔で、その辺りは十分心得て居た筈である。

新政府樹立と共にほとんどの公卿が序々に閑職に追いやられて行った事実の中、二人の公家の出世だけが際立っていた。

つまり、岩倉具視(いわくらともみ)卿が天皇入れ替わりの実行犯として関わった可能性と三条実美(さんじょうさねとみ)卿が七卿落ちの最上級位の公家として周防国熊毛郷田布施の八幡神社で南朝の末裔と会った事が、二人の旧体制の公家が、異例とも言える地位を得て新政府に生き残って行く事と関連付けられて成らないのである。

この時代、岩倉具視(いわくらともみ)にしても三条(実美・さねとみ)にしても、彼らなりの公家の論理でこの激動期に存在感を示す働きをした。
彼らの心中に、南朝復帰の思いが生きていたのかも知れない。


下松(くだまつ)市、光市、田布施町などの小さな町々から、伊藤博文を始めとして三人もの総理大臣を輩出している。

この熊毛郡・田布施町に隣接する現在の光市の前身に古い地名として光井村や室積村が在ったのだが、これが良光(ながみつ)親王や大室家と関わりが在る地名の可能性がある。

また、田布施町を根元として瀬戸内海に突出した半島・熊毛(くまげ)半島は、古くは室津半島とも言う。
これらの地名、やはり偶然の一致と言うには出来過ぎの感が在るのだ。

不思議な事に、岩徳線と言うJR線は直線的近道を走っているのに対し、山陽本線は遠回りに海岸沿いに大きく迂回、複線電化のメインルートになって人口の少ない田布施町を停車駅にしている。

この田布施町、文献によると、南朝の系図を有する「大室家」が、数百年に渡って、大内家とその後の毛利家から庇護され居住していた土地である。
この小さな田布施町から、戦後ふたりの総理大臣が輩出されている。
岸信介氏と佐藤栄作氏で、今に繋がる後裔が、言わずと知れた山口県の名門世襲代議士家の安倍家である。橋本竜太郎氏も「二代遡ると大室家と縁がある」と言われている。

つまり、玉(ぎょく)を握っていた長州が、他の維新三藩を大きく引き離し、維新以後の政治に大きな勢力を持ち、政権担当者(総理大臣)を多数排出する事になる。
巷に流れる噂話が真実なら、南朝こそ正統な皇統であり、今の皇室も「密か」に正統と言える。

岸家は江戸時代、熊毛郡一帯の代官を務めた毛利藩毛利(長州)藩士の名家で、その支配領域に田布施があり、佐藤家も、毛利(長州)藩士として、七卿落ちの滞在地・田布施に在地している。

その両家が、同じ田布施の大室家と、永い歳月の間に婚姻関係を含む「接点が無い」とは考えられず、隣接する光市(熊毛郡束荷村字野尻・現山口県光市束荷字野尻)出身の、総理大臣を四回も勤めた伊藤博文元首相を含め、少なくとも「縁戚関係の可能性がある」と考えられる。

伊藤博文(いとうひろぶみ)は、農家・林十蔵の長男として周防国・熊毛郡束荷村字野尻(現・山口県光市束荷字野尻)に生まれて、六歳まで過ごした生家は熊毛郡田布施町に残っている。

つまり元は農家の家で士分では無く、家は貧乏だったのだが父・十蔵が萩藩の中間・水井武兵衛の養子と成った事がきっかけで、父・十蔵の道が開ける。

父・十蔵は余程運が良かったのか、養子と成った養父の中間・水井武兵衛がさらに周防国佐波郡相畑の武士伊藤氏の養子となって伊藤直右衛門と名乗ったので、父・十蔵も幼き頃の利助(伊藤博文)も士分・伊藤氏を名乗り長州・萩藩下級武士に列する道が開けたのである。

その後利助(伊藤博文)は伊藤俊輔(いとうしゅんすけ)を名乗り吉田松陰の松下村塾に学び、高杉晋作や井上聞多らと倒幕運動に加わるようになる。

伊藤達長州藩倒幕派は、先進感覚に優れた政務役筆頭の周布政之助(すふまさのすけ)に登用され、長州藩の藩政に参画して指導的役割を果たした。


伊藤俊輔(いとうしゅんすけ)は、仲間と共に公武合体論を主張する長井雅楽の暗殺を画策したり、塙次郎・加藤甲次郎を暗殺し、イギリス公使館焼き討ちに参加するなど尊王攘夷の志士として活躍した。

伊藤俊輔(いとうしゅんすけ)は、千八百六十三年(文久三年)井上聞多、遠藤謹助、山尾庸三、野村弥吉らと共に長州五傑の一人としてイギリスに渡航するが、留学中に余りにも圧倒的なイギリスとの差を目の当たりにして開国論に転じている。

そのイギリス留学中に四国連合艦隊による長州藩攻撃の機運を知り、伊藤俊輔(いとうしゅんすけ)は急遽井上聞多と帰国し四国連合艦隊との戦争回避に奔走するも藩論をまとめ切れず下関戦争(馬関戦争)が勃発する。

朝廷をめぐる主導権争いから長州藩と幕府の間は不穏な状態となり、幕府軍に拠る第一次長州征伐(幕長戦争)が始まり、長州藩の藩論が幕府に恭順の姿勢を見せると、伊藤俊輔(いとうしゅんすけ)は高杉晋作らに従い力士隊を率いて挙兵する。

力士隊は勢いを得て奇兵隊も加わるなど各所で勢力を増やして俗論派を倒し、高杉や伊藤達の正義派(革新派)が藩政を握った。

維新後、この伊藤俊輔(いとうしゅんすけ)は伊藤博文と改名し、長州閥の有力者として明治政府参与、岩倉使節団参加、西南戦争に於ける西郷隆盛の敗死を経て、大久保利通が暗殺された後の内務卿、初代枢密院議長として大日本帝国憲法の起草・制定、初代・第五代・第七代・第十代の内閣総理大臣を歴任している明治期の元勲である。

伊藤博文(いとうひろぶみ)は、拡大主義を取る政府内に在って数少ない国際協調重視派で、日露戦争では日露協商論・満韓交換論を主張してロシアとの不戦を説き、同時に日英同盟に反対している。

第二次日韓協約(韓国側では乙巳保護条約と呼ぶ)に拠って大韓帝国が日本の保護国となり、日本が実質的な朝鮮の支配権を掌握すると、伊藤博文(いとうひろぶみ)は設置され韓国統監府の初代統監に就任する。

伊藤博文(いとうひろぶみ)は、日韓併合について、保護国化による実質的な統治で充分であるとの考えから、併合反対の立場を取っていた。

韓国統監府統監を辞任し、枢密院議長に復帰した千九百九年(明治四十二年)、伊藤博文(いとうひろぶみ)はロシア蔵相ウラジーミル・ココツェフ(ココフツォフ)と満州・朝鮮問題について非公式に話し合う為訪れたハルビン駅で韓国の民族運動家・安重根(あんじゅんこん)によって狙撃され死亡し、日比谷公園で国葬が営まれた。

この暗殺事件がきっかけとなり、また日韓合邦推進派の口実とされ、伊藤博文(いとうひろぶみ)が意図しなかった日本による韓国併合は急速に進んだのである。

伊藤の生まれ育った山口県光市束荷字野尻は、良光(ながみつ)親王の末裔を名乗る「大室・某」の住まい、山口県熊毛郡田布施町とは隣接地である。

伊藤が、四度(四回)も内閣総理大臣を勤めた他、新政府の要職に在り続けた理由の一つに、吉田松陰の命を受けた桂小五郎(木戸孝允)と伊藤博文が「大室某を養育していた」と言う彼の経歴にあるのではないか?
そう考えれば、合点が行く事が在るのだ。

伊藤博文は国家の重鎮として四度も内閣総理大臣を勤めた。
ただ、宮中側近の元田永孚や佐々木高行等は保守的で、それを信任した天皇に立憲君主制に対する理解を深め、日本の政治体制の近代化を進めて貰うに伊藤は苦慮した。

そうした環境下に在って、伊藤が政党(立憲政友会)を結成出来たのは、明治天皇と伊藤博文の強い信頼関係に特別なものが在ったのではないだろうか?
つまり他の者にあらず、明治天皇と伊藤博文の強く特別な信頼関係無くして日本の政党政治は幕をあげる事はできなかった。


伊藤博文と行動を共にする事が多かった井上馨(いのうえかおる/井上聞多)は、理想主義が先行していた尊王攘夷派の若者達の中に在って、根は現実主義者である。

生家の井上家は清和源氏系の河内源氏の流れを汲む土着の安芸国人として毛利氏家臣であった。
勿論この井上家も、清和源氏系の河内源氏流となれば立派な影人の家系である。

井上聞多(馨)は、毛利長州藩士・井上五郎三郎光享(大組・百石)の次男、幼名・勇吉として、周防国湯田村に生まれる。

聞多は長州藩主毛利敬親から拝受した通称で、一旦は同じ長州藩士・志道家(大組・二百五十石)の養嗣子となり志道姓を名乗るも、後に井上家に復籍して小姓役などを勤めた。

藩校明倫館に入学した後、江戸で岩屋玄蔵や江川太郎左衛門に師事して蘭学を学び、当時蘭学を学ぶ者たちの間で次第に勃興した尊皇攘夷運動に共鳴、江戸遊学中の千八百六十二年(文久二年)には高杉晋作や久坂玄瑞らとともにイギリス公使館の焼討ちに参加するなどの過激な行動を実践する。

翌文久三年には、井上聞多(馨)は長州藩執政・周布政之助を通じて洋行を藩に嘆願、受け入れられて伊藤博文・山尾庸三・井上勝らとともに長州五傑の一人としてイギリスへ密航する。

井上聞多(馨)は、そのイギリス留学中に国力の違いを目の当たりにして開国論に転じていたが、その最中に長州藩の下関に於ける外国船砲撃事件を聞き伊藤博文とともに急遽帰国して事態収拾の和平交渉に尽力した。

第一次長州征伐では武備恭順を主張した為に、井上聞多(馨)は「袖解橋の変」と呼ばれる襲撃事件で俗論党に襲われ瀕死の重傷を負うが、美濃の浪人で医師の所郁太郎の手術を受け一命を取り留めている。

その後井上聞多(馨)は、藩論を開国攘夷に統一する為に高杉晋作らと協調して長府功山寺で決起、藩論統一に成功する。

千八百六十五年(慶応元年)、幕府の第二次長州征討機運が高まる中、坂本龍馬の仲介で薩摩藩との同盟(薩長同盟)にこぎつけ、幕府軍に勝利する。
この「薩長同盟」が倒幕の引き金となり、徳川慶喜の大政奉還へと到るのである。

伊藤博文と聞多(馨)は盟友で、維新後の太政官制時代に外務卿、参議、黒田内閣で農商務大臣、第二次伊藤内閣では内務大臣など数々の要職を歴任した元老だが、現実主義者であった為に事業欲もおおせいで、財閥との癒着や汚職の醜聞も多く聞かれた人物だった。


戦後政治に大きな足跡を残した元首相の岸信介氏は旧姓佐藤で、同じく元首相の佐藤栄作氏の兄である。

岸信介・佐藤栄作両元首相を輩出したのがこの山口県熊毛郡田布施町で、父・秀助、母・茂世の次男として生まれた。
佐藤家は士族であり、維新後は酒造業を家業としていた名家だった。

曽祖父・信寛は長州藩士として長沼流軍学を修め、明治になると浜田県知事、島根県・県令等を務め、祖父・信彦は漢学者で在った。
父・秀助は、元山口県庁官吏であり、岸家より佐藤家に婿養子として入り、その次の代に次男信介を岸家に養子として戻した事になる。

佐藤家から岸信介氏が養子に行った岸家は江戸時代、熊毛郡一帯の代官を務めた名家である 。
元首相の佐藤栄作氏は実弟、兄の佐藤市郎氏は海軍中将である。
長男の岸信和氏の妻仲子は元山口県議会議長で山口県政界の大物田辺護の次女で、まさに政界一家である。

岸信介氏娘婿の安倍晋太郎氏は岸氏と同じく自民党幹事長を務め、その息子で岸の外孫に当たる安倍晋三氏も、現在有力な首相候補である。
ちなみに安倍晋三氏の弟岸信夫氏(参議院議員)は、岸信和の養子となって岸家の方を継いでいる。

この安倍氏の出自がこの物語の面白い処で、前九年の役にて源頼義、源義家率いる軍勢に厨川柵(くりやがわのさく・岩手県盛岡市)で破れ、「降伏して四国配流、後に九州に配流された安倍宗任(あべのむねとう)の子孫」と言われてる。

安倍宗任(あべのむねとう)は奥州・鳥海柵(とりみのさく)の主で、鳥海三郎とも呼ばれていた。

宗任(むねとう)は娘をひとり奥州藤原氏二代・藤原(清原)基衡の妻に嫁して居たが、前九年の役にて源頼義、源義家率いる軍勢に厨川柵(くりやがわのさく・岩手県盛岡市)で兄・貞任(さだとう)と共に戦って破れ、難攻不落を誇っていた鳥海柵(とりみのさく)も源氏・清原連合軍に攻められ落柵、降服し一命を取り留め、源義家に都へ連行された。

降伏して四国配流、後に九州に配流された安倍宗任は、そこに生活の基盤を築き定住している。

その安倍宗任の三男に安倍季任がいて、季任は肥前国の松浦に行き、嵯峨源氏の流れを汲む源久(みなもとのひさし)を祖とする 松浦 (まつら)水軍大名の松浦氏・松浦党に婿入りして娘婿となり松浦(まつらさねとう・三郎大夫実任)と名乗り、その子孫は北部九州の水軍「松浦(まつら)党を構成する一族になった」とも言われ北部九州で勢力を拡大して行く。

つまり、平安時代に陸奥国(陸奥六郡)の「俘囚の長」とされる豪族の「安倍宗任(蝦夷系棟梁安倍貞任の弟)の末裔」と言う不思議なめぐり合わせである。

その松浦実任(安倍季任)の子孫の松浦高俊は、平清盛の側近で平家方の水軍として活躍し、その為、治承・寿永の乱(一般的には源平合戦と呼ばれる内乱)により、現在の山口県長門市油谷(周防国日置郷・藩政時代は大津郡)に流罪となった。

その後、高俊の娘が平知貞に嫁ぎ、源氏の迫害から逃れる為に「安倍姓に戻して名乗った」と言うのである。

土御門安倍家を十四代、東北(陸奥)安倍家を七代遡ると先祖は兄弟になる。
古代東北の覇者・東北(陸奥)安倍家を更に七代下がると、十四代目が安倍貞任で、藤原(清原)秀衡の父基衡には貞任の兄弟・宗任の娘が嫁いでいる。

松浦(まつら・安倍)高俊は、三代遡ると安倍宗任であり、長州(山口県)・安倍家はその末孫にあたる。

この安倍系図、基は、孝元大王(おおきみ・第八代天皇)に繋がっているが、何しろ欠史八代の一人であり、孝元大王(おおきみ)の記載されている「日本書紀」の編纂よりはるか昔の事で、真贋の程においてはいかんともしがたい。

皇統のすき間を繕い、有力王族(部族王)の符系を政治的にまとめた疑いが強い。我輩の、安倍氏・先住民族々長説がまんざらでもないと思うが、いかがか?


この東北(陸奥)安倍氏と関わりが深い平戸(長崎県)松浦 (まつら)水軍は、平安時代後期の千六十九年(延久元年)、源氏(嵯峨源氏)の流れを汲む源久が松浦郡宇野御厨の検校となり、現在の市域にあたる梶谷に住み松浦久と名乗り、太夫判官と称して松浦(まつら)郡・彼杵郡の一部及び壱岐郡を治めた。
この松浦久のもとで松浦党と呼ばれる武士団が結成され、中世初頭には松浦地方に一応の海上勢力が成立していたと考えられている。

松浦(まつら)党は、大名に匹敵する勢力を有する水軍(海軍・海賊)として有名で、鎌倉期の元寇戦でも活躍している。
壇ノ浦の戦い、元寇、倭寇活動おける松浦地方の海上勢力は、つとに知られている所である。

その松浦党の最後の大仕事が、千五百九十八年(慶長三年)の「慶長の役」で、日本の豊臣秀吉が主導する遠征軍と李氏朝鮮および明の援軍との間で朝鮮半島を戦場にして行われた戦闘での遠征軍撤退戦を最後に、水軍としての松浦党の出番は終了した。


長州(山口県)安倍家は、山口県大津郡日置村(現長門市)で代々大地主であり、醤油醸造業を営んでいた名家である。

当然ながら、祖先は日本史のそこかしこに登場する言わば安倍御門(あべみかど)一族の子孫で、長い事その氏素性だけでもリーダーとしての地位を得る大看板の一族だったのが、名家の所以(ゆえん)である。

だからと言って、それだけで批判する気は無い。
要はその血筋より人柄で、安倍晋三氏の父方の祖父になる安倍 寛(あべ かん)氏(母方は岸信介氏)は、大政党の金権腐敗を糾弾するなど、清廉潔白な人物として知られ、大変に人気が高かった。

安倍 寛(あべ かん)氏は、「大津聖人、今松陰、昭和の吉田松陰、今高杉(高杉晋作)と呼ばれて、地元や政界から尊敬されいた」と言う。

寛氏はいわゆる“ハト派”であり、第二次世界大戦中(千九百四十二年)の翼賛選挙に際しても、自身の政治信条から翼賛会の非推薦で出馬し、当選した清廉反骨の政治家である。

安倍晋三氏に祖父の安倍 寛(あべ かん)氏のDNAが少しでも残っているなら、選挙対策の為に郵政民営化造反組を復帰させるなどのパワーゲームに執着した愚を犯さず、小泉純一郎氏の国民不在政策を改め、堂々と国民の信を問うべきである。


明治維新で勤皇派(尊王派)が最初に倒幕の運動を始めた時、各藩の重役連中は「とんでもない事を言い出した」と言った。
しかし、その後の結果はともかく当時の現実は、あの時点ではその「とんでもない事」が最良の選択だった。

そして勤皇派(尊王派)が維新に成功すると、廃仏毀釈で信仰まで変えようとした。
つまり、既成概念を持つと「進歩が無い」と言う事なのだが、現在のかなりの既成概念には明治維新の勤皇派(尊王派)が制定したものを「盲目的に引き摺っている」傾向にある。



維新の英雄達は、いかに評価したら良いのだろうか?
賀茂の錫杖の妖力か、確かに欧米列強の植民地拡大主義から、維新がギリギリ間に合って国を守った。
しかし或る一面では、ただの権力者交代の側面も見え隠れする。

明治維新は「革命」だったから、新しい理念が必要だった。
彼らの最大の罪は、天皇の神格化と、靖国神社の創設で有る。
この行為は、「二千年前の征服部族の発想」とたいした変わりはない。

つまり、文明開化も近代化も対外的なもので、「本質的国家運営の手法」は、何も変わらなかった事に成る。
この新・南朝政権、明治新政府が目指したのは「天皇集権」であり、正に後醍醐帝の「建武の親政」だったのである。

維新の志士達は、下級氏族の出とは言え彼らの血の遺伝子は征服部族のもので、「戦って勝ち取る」のが、氏族の本能的なものだった。
それらが、国家の膨張政策となって軍部の暴走を招き、強引なアジア進行を許す事になった。

どうやら有名無名に関わらず、定説の影になった事実の具現者こそ、「皇統の影人」なのかも知れない。

日韓併合については、単純に侵略とは言い切れない事実が存在する。

しかしながら、軍事力を背景に他国の領土を分離独立させ、傀儡国家・満州国を作ったのは、相手国からすれば侵略以外の何ものでもない。
満州移民団(屯墾軍)は、現地人の耕作地をただ同然に取り上げて、入植させた。
当然、現地人の恨みを買う。

この辺りが問題で、害した方は忘れても害された方は中々忘れられるもではない。
本来なら、こうした小さな事の積み重ねにも、応分の配慮が必要だった。
所が戦後の日本は、官僚的「お上意識の発想」を持って対処した為、その辺りのフォローを蔑(ないがし)ろにして来たのである。

屯墾軍(とんこんぐん)は、満蒙開拓の為に、ロシア帝国のコザック兵(武装農民軍事組織)を参考に作られた言わば防人(さきもり)である。

当時の軍事国家、大日本帝国は、傀儡国家・満州国に、家族もろともの二十七万人の移民(満蒙開拓団)を行い、昭和二十年八月九日、ロシア参戦とともに本来守るべき関東軍は、まともな交戦をせず真っ先に後退し、その移民(満蒙開拓団)は国家に見捨てられた。


この荒廃した平成の世に在って、近頃、妖しげな回帰主義者が台頭し、表面的な愛国心或いは家族愛の犠牲的精神美を謳っている。

純粋に生きる若者は美しい。
「表面的な格好良さ、美しさ」は、大衆受けするだろう。
しかし、それを殊更「美」と捉える所にこそ本質を失う危険がある。

先の大戦時、異論を唱えた多くの知識人は、実質軍政を敷いた政府の酷い弾圧に晒され、「非国民」のレッテルを貼られて沈黙を余儀なくされた。
利己的な個人主義と知識に裏付けされた少数意見を混同し、国家の進むべき方向を違(たが)えた悪しき事例である。


入り口で間違えたものは、最後まで間違いである。
純粋は美しいが「罪」である。
純粋ゆえに否定された不純なものも、また真実だからである。

凡その所、表現の美しさに誤魔化されて真実を見たがらない者は、本質的に「愚か者」である。

戦地に駆りだされた者の死を「家族を護る為に」などと純粋美化して、「魂が救われる」などと思うのは、生き残った者が納得する為の傲慢な自我である。
彼らは「恨みを残して死んで行った」と思えば全く違う扉が開かれるのだ。

そうした背景を背負って、多くの善良な民が戦場に駆り出されて行った。
彼らが純粋に「肉親を護ろう」と戦ったのか、強制的に戦わされる事を「納得する」為に、自らの死を「家族や国の為」と思い込もうとしたのかは、永遠に不明である。

戦死を「無駄死に」と言うのは、亡くなった方に対して「余りにも忍びない」と言う論議もあるが、それを主張してしまうと当時の戦争遂行者の責任もあやふやに成ってしまう。

これは単(ひとえ)に考え方の問題で、人間は何かに拘(こだわ)るとそれ以外の物が見えなくなる生き物である。

個人の生き方に格好をつけて夢を見るのは勝手だが、凡(およ)そ現実的でない建前ばかり言われても「はぃ、そうですか」とは行かないのである。

いずれにしても、本来、格好が良く見えるのは「上面(うわっうら)」だけで、人間の「内面の格好良さ」は、表面には出ない。
しかし、美しく死んで行ったのは名も無く立場の弱い兵士達であり、最高責任者の東條は何故か生き残って処刑された。

つまり軍神と言う神様を乱発して、戦争の具としたのは事実である。
それを言うと、亡くなった人が犬死になるから「余りにも可愛そうだ」と、本質ではない感情論を持ち出して、本質への追求を潰してしまう。

現在中東で頻発している自爆テロも、当事者はジハード(聖戦)と呼び、宗教上の教えと、国と家族を守る「美しい行為」としている。
これをお読みのあなたは、自らを犠牲にして神に殉じるこの主張を「異様なもの」と受け止める方が多いと思う。


それでは、靖国神社の問題を考えて欲しい。
国の為に戦った尊い戦争犠牲者を「大切に祭って何が悪い」と言う論調で、事の本質、つまり「権力者の邪(よこしま)な欲望の犠牲者に成った」と言う事を摩り替えていまいか?

皆、自爆テロと戦争犠牲者を「別のもの」と勘違いさせられているようだが、「本質が同じ」と思われるのである。
確かに角度を変えて見れば、国と家族を守る為の立派な犠牲行為であるが、そこばかりを強調して「美談に摩り替える」のはいかがなものであろうか?

ここで問題なのは、戦争犠牲者を「立派な行為」と祭り上げる事が、自爆テロのジハード(聖戦)を奨励する宗教指導者と同じ影響をもたらす事である。

つまり、この手の美談は「権力者に利用され易い」と言う事で、靖国神社は歴史的に元々その為の施設である。
申し添えて置くが、庶民の戦争犠牲者を弔い祭る方法は別に幾らでもある。
それを敢えて靖国神社に祭り、「神に成った」と言う事に「権力者の政治的意図がある」と解釈すると、ジハード(聖戦)と「どれだけの差がある」と言うのであろうか?


この国民合意が葛城朝の陰謀、陰陽寮の密命、「民人の民族同化政策」に拠る血の単一民族意識の発露とすれば、たとえ意図的に作られたものでも、間違いなく大和民族の単一民族論が証明された事になる。

それにしても、靖国神社は利用され、多くの戦死者が祭られている。
官僚化した維新の英雄達の、民意誘導の陰謀で有る。
まったく、頭の良い官僚は自分だけは特別だと思っているから、他人の痛みに心が無い。

この発想、英霊には申し訳ないが、腹の中はそんな純粋なものでは無い輩が、靖国を利用している気がして成らない。

A級戦犯の合祀に疑問を挟まず、「国の為に亡くなった尊い御霊」と美化する輩は多いが、そう言う人間に限って、自分は安全圏に居て、今後も「国の為に」と、国民に犠牲を強いる目論見が、発想の中に在る指導者である。

敗戦の折、切腹にて自決した阿南陸軍大臣の潔さに比べ、逮捕にやって来た進駐軍の目前で、短銃自殺に失敗、女々しく法廷に立った東条英機に、靖国合祀の資格ありや?

切腹も出来ず、拳銃で死に切れない
。彼はまさしく陸軍の官僚だった。
そんな情けない者が、他人には「国の為に死んで来い。」なんて平気で演説していた。


近頃「日本は武士道の国だ」とやたらに強調する連中が居るが、それは本当だろうか?

我輩の解釈では、武士道の真髄は「自らを律し、時に責任に対して潔(いさぎよ)い事だ」と解釈しているがそれは権力者が下位の者に要求する幻想的な綺麗事であり、つい最近の政治家を含め過去の歴史上で権力者が自ら潔(いさぎよ)かった事など過って全く思い当たらない。

貴方は武士道の国らしく潔(いさぎよ)かった人物を、この二千年を越える歴史の上で何人知っているのか?
詰まり我輩に言わせれば、「武士道とは、権力者に踊らされる事と見つけたり」と言う事である。

上位者が金輪際律しない「武士道の国の綺麗事」を「混乱する現代社会を律しよう」とする試みを声高に言う連中は、格好は良いかも知れないが歴史的現実を無視した理想主義者の建前に終始した「たわ言」である。


例え米国に追い込まれた結果の開戦とは言え、戦陣訓を想起し、「生きて俘虜の辱めを・・・」と退路を断ち、九割が戦闘ではなく「病死、餓死、自刃、特攻」と言う過酷な死を兵に課した責任を、そして敗戦責任を、何故「靖国A級戦犯合祀問題」の論議から外す。

圧倒的に劣る軍装備、補給体勢、前線に届くのは「精神論ばかり」で、戦わされたのが過酷な前線だった。

それを今更、奇麗事で、「靖国が戦死者の魂の拠り所だ」と言う。死者は語らないが、その靖国に、A級戦犯たる戦争指導者と、「合祀されるのは無念」と思う英霊は多い筈である。

果たして英霊が、この事実を美談の影に隠されて本当にA級戦犯合祀の状態で安らかに眠れるのだろうか?
つまり合祀問題は、外圧論議や条約論議などと言う次元の話ではなく、純粋に日本国内問題である。


現在、靖国神社のA級戦犯合祀問題で、合祀当時の第六代靖国社宮司・松平永芳氏は元福井藩主・松平春嶽の子、宮内大臣松平慶民子爵の長男で終戦時海軍少佐だった。

戦後は陸上自衛隊に入隊し、昭和四十三年、一等陸佐で定年退官、福井市立郷土歴史博物館長を務めた後、昭和五十三年に第六代靖国社宮司に就任、同年十月、A級戦犯十四柱を合祀する。

松平永芳氏が、元福井藩主松平春嶽(明治維新時の幕府側主役の一人)の孫にあたる所から、遡れば福井藩々主・結城(ゆうき)秀康の子孫にあたり徳川家康の子孫でもある。

何故、神職の経験のない元軍人の松平永芳氏が、社格の高い靖国社宮司に成れたのか、それは靖国社が神社本庁に属していない特別な存在で、戦前は軍の管轄に在った別格の神社だったからである。

この松平永芳氏がいきなり靖国社の宮司に就任できた事こそ、我輩が本書で記述している通り神社の歴史的本質が信仰では無く、「氏の支配」の発想である事が如実に反映されたものの照明だった。

つまり血統が良ければ、「神職の経験(僧の修行)が無くても高位の神官、高位の僧侶に成れる」と言う日本の古来からの独自の氏文化、「氏と信仰の関わり」が、未だに続いているのである。

信仰の奥深い所を知らなくても、血統が良ければ人を導く事が出来るのは、過去、信仰が統治の具、馬鹿げた虚構で在った間違いない証拠である。

靖国社は、その成り立ちからして特殊な運命を背負っており、当然ながら、今後も軍や当時の指導者の立場を代弁し続けるであろう。
しかしながら、お国の為に散って行った「尊い英霊の御霊(みたま)」をやすんじる為の宮司が、「神職末経験の素人」とは、英霊遺族の思いをも踏みにじる「笑止噴飯物」と思うのは我輩だけだろうか?


日米開戦について、米国の強行な経済封鎖の為に開戦に追い込まれた「自衛の為の止む負えないものだった」と言う論議があり、その部分は我輩も事実として同意する。

しかし、その事をもって時の戦争指導者(A級戦犯)を擁護する意見もあるが、ならば、日米開戦以前に事実上属国として中国から強引に独立させ、大量の開拓民を送り込んだ満州国成立は、「日本が食えなかったから止む負えないものだった」とでも言う積りか?

満州国独立後も、中国々内に進軍して戦闘占領を拡大して行ったのは、「相手が交戦抵抗するから、止むを得無いものだった」と、まるで言い掛かりみたいな事を言い張るつもりなのか?

それらの事実を無視して「自衛の為の止む負えないものだった」と強情を張るのは、「泥棒にも三分の利」のごときもので、生きていく為ならばどこかの半島の赤い国のごとく、一方的な言い分で相手に被害を与えて良い事になる。

つまり同質の主張をするのであれば、半島の赤い国の悪行を批難出来なくなるから、恥かし気も無く、この矛盾に満ちた言い分を言い張るのは、見っとも無いので「もうそろそろ止めて欲しい」と我輩は切に願っている。


A級戦犯合祀に反対しているのは中国なのに、日米開戦の責任論に争点をもって行って、別に米国が強く抗議をしている訳でもないのに、戦争責任の全てがそれであるかのごとく、もっともらしく言うのは意図を持ったごまかしである。

また、A級戦犯に対する裁判の正当性についての論議は確かにあり、個々の評価についても東京裁判が必ずしも正しいとは限らないが、それをもって靖国合祀の正当性を関連付けて論じるのは、矛盾に満ちた「こじつけ」である。

つまり、一方では個々の評価を要求しながら、一方ではひと括りに「お国の為に亡くなったのは皆同じだ」と都合の良い事を言う。

この合祀問題を他国の圧力として物を言う方も居るが、他国に言われるからではなく、その本質に於いてA級戦犯は分祀すべきである。
なぜなら、たとえ言い分は有っても、国民をミスリードした戦争指導者の罪は消えるものではない。

戦犯合祀問題は、民間の失敗責任や結果責任は徹底的に追及しても、官僚や役人の失敗責任や結果責任には甘い「わが国の体質」を象徴しているのではないか?

例え国の為を思って成した事でも結果責任を取らすべきで、その点この問題は「加害者と被害者を一緒に祭る」と言う、恐らく一般の英霊には納得の行かない状態にある。

公務の失敗は「その罪を問わない」と言う馬鹿げた考え方は世界広しと言えど、「お上(神)意識・(氏族優位)」で固まった歴史観を持つ日本だけで、その延長戦上に、官僚の特権意識、役人の責任のなさ、戦争指導者(A級戦犯)の失敗責任論への甘さがある。

旧南部盛岡藩士から陸軍大学校首席卒業の陸軍中将東條英教(ひでのり)の三男として生まれた東條英機は、父親と同じく陸軍大学校を卒業した秀才で、親子二代に渡る軍人である。

因果な事で有るが、この東條家は勘解由小路党の末裔である。
東條家は、武士と言っても江戸時代、能楽をもって南部盛岡藩に仕えた家でありその家系は観阿弥の長兄宝生大夫の末裔を称し、伊賀・服部氏族の上嶋元成の三男が猿楽(能)者の観阿弥と言う所から、「伊賀・服部の血筋」と言う訳である。

もっとも東條家は、諜報機関としての武門が化け世を忍ぶ為の表芸から芸能門に特化したのが日本の古典芸能であるから特化して軟弱化し、武人と言うより文化人の家系で、武士の心を忘れていたのかも知れない。

事の是非を超越して、多くの善良なる庶民を自身が指揮して死に行かせながら、自分や家族の安全を謀るなど、戦場で散った英霊に対し申し開きが有る筈が無い。

しかし、それが「権力者の正体」と言うものである。
表向きの建前は、常に権力者の利の為であり、権力者は本音でとんでもない事を考えている。

維新以後の歴代政府は、儒教を道徳の柱にして国家の統制を図った。
当然ながら「嘘はいけない事。」と散々教えた。

その政府が、「国民に不安を与えたくない」の理由で、負け戦を「勝った勝った」と発表した。
東条英機氏が首相を勤めた戦時中の「大本営発表」である。

すると、「嘘はいけない事。」と言うのは国民限定の戒め、道徳的教えらしい。
それが証拠に、戦後六十年間を経た現在でも政治に嘘が蔓延している。

「武士道の国・日本」と「大本営発表」、この矛盾を解消しない限り、日本の政治家の言う事は建前以外の何物でもない。

維新政府が採用した儒教の悪しき面は、精神論の極端な傾倒にある。
勿論節度を持つ事は良い事で、儒教が悪い訳ではなく、それを曲解した形で権力が極端な精神論として利用する事が問題である。


戦(いくさ)は、引き際(撤退時期)が大切である。
第二次世界大戦(太平洋戦争)では、負け戦(いくさ)を止めなかったのは国家国民の為ではなく、理不尽な事に「己の保身の為」で、その為に将兵の犠牲は膨らんで行った。

第二次世界大戦(太平洋戦争)の各方面作戦でも、この「己の保身の弊害」が現地部隊将兵に悲惨な現実を押し付けたのである。
検証を進めると東条英機氏を始め赦すべきでない人間が多数居た。

織田信長が越前朝倉攻めの際、浅井長政の裏切りに合い窮地に陥った時、或いは信長が古いタイプの武将だったら、「撤退は武門の恥じだ」と意地を張って全滅したかも知れない。

この辺りから武門を中心に儒教の悪しき面、精神論の極端な傾倒が見みられ始めているのだ。

信長は即断で撤退を決め、美濃国・岐阜の居城に逃げ帰り、態勢を立て直して反撃に出ている。
味方に利有らずなら、躊躇(ちゅちょ)無く撤退するのが織田信長の才である。

引き際(撤退時期)の良さと言えば本能寺の変の後、その後の主導権を取る為の羽柴秀吉(豊臣)と柴田勝家の決断の違いが、この引き際(撤退時期)の見極めだった。

毛利勢と対峙して引き際(撤退時期)に躊躇(ちゅちょ)しなかった羽柴秀吉(豊臣)と上杉勢と対峙して引き際(撤退時期)に躊躇(ちゅちょ)した柴田勝家との両者の結果は誰でも承知している。

本能寺の変の後に羽柴秀吉(豊臣)に遅れを取り織田家臣団の主導権を失った柴田勝家は、肝心な時に上杉謙信と対峙して北陸路に釘着(くぎづ)けだったのである。

柴田勝家は古いタイプの武将だけに、撤退に際し「武士の体面(面子)・武門の恥じ」などのべき論に拘ったのかも知れない。
何しろ勝家は、「やぁやぁ我こそは〜」の古い既成概念の塊(かたまり)のような律儀な男だった。

その点、羽柴秀吉(豊臣)の方は生まれからして氏族の生まれではなく、古いタイプの武将には最も遠い男だった。
鎌倉期から始まった儒教の極端な精神論の傾倒「氏族の古い既成概念」など、その出自からして羽柴秀吉(豊臣)には最初から無かったのである。

この「引く事(撤退)の勇気」は現代の官僚政治でも企業経営でも必要なものであるが、不祥事を起こす省庁や企業は、大抵の場合「縄張り意識や己の保身」の為に自己の誤りや不正を認めず、引き際(撤退時期)を誤って放置され、最後は抜き挿し成らない事態に陥ってしまう。

つまり口では偉そうな「建前」を言い、裏で自己の誤りや不正に蓋をし続けるのが日本の官僚政治や企業経営なのである。


覇権本能は男の性(さが)であるから、一概に悪とは言い切れないが、それが大量殺戮や一般市民を巻き込む悲劇を生む所に、良識ある者には違和感を感じる。

所が、当の覇権主義者(統治者)は、思考がその延長線上にあるから、「統治者の論理」で押し通し庶民の苦しみなど意に介しない。

器量のある者には、黙っていても人が付いて来る。
しかしこの場合、都合が悪くなると離れて行く者が多いのも世の中で有る。

古今東西、人が付いて来ない奴に限って恐怖政治をする。
処が、その人間性を突き破った奴ほど大きく成功するから、世の中矛盾だらけである。
恐怖が神になる図式は「二千年変わらない」と言うのか?

「人間的愚かさ」と言えばその通りだが、村落共同体(村社会)とその性規範の記述部分でも取り上げた集団環境に影響される群れ社会の「集団同調性バイアス」が、明治中期(明治二十七年)頃から国民総意のごとき行動現象を引き起こす。

此処で言うバイアスとは脳のメカニズムの問題だが、バイアスとは「特殊な、或いは特定の意見等で偏っている事」を意味する人間の行動学上の習性の一つで、こうした集団心理状態は宗教現場や閉鎖された村落部の掟(おきて)などに顕著に現れる。

特に顕著に「集団同調性バイアス」現象が現れるのは災害時や戦争時などの状況下で、周りの人々がどう対応しているかも個人の行動に影響し、つまりは本来向かうべき思考とは違う方向に偏る事である。

「集団心理」と言ってしまえばそれまでだが、一人でいる時には咄嗟に緊急事態に対応できても、集団で居ると「皆の総意だから」という安心感で「緊急行動や独自判断が遅れがちになる」と言う。

これが「集団同調性バイアス」で、それは人数が多ければ多いほど他の人と違う行動を取り難くくなり、他の人が逃げていないのに自分一人が逃げる事は難しい心理状態になるのだ。

つまりは、その判断が正しいか正しくないかを周囲に求め、個人の判断を封じてしまうのが「集団同調性バイアス」と言う行動現象なのである。

日清戦争から昭和二十年八月の太平洋戦争敗戦まで、全ての日本人は極端な皇民教育の中「神風の不敗」を信じて「集団同調性バイアス」の中に在った。

つまり戦争をしでかしたのは当時の指導者だが、「国が富めば生活が向上する」と熱に浮かれた様に戦争に同調性した一般市民が日本国民の大半だった。

元を正せば明治政府が、民族統一の為に皇室を神格化したからこそ「神風の不敗」がまかり通り、敗戦を前提にする議論に踏み込めずに決定的な所まで戦い続ける愚を犯したのである。



そして、今また終戦時の「玉音放送」の音声が、時を超えて鮮やかによみがえる。

あの時(昭和二十年八月十五日)、昭和天皇の玉音が流れなかったら、日本人は、あの戦いを「ピタリ」と止める事が出来たのか、大いに疑問ではないか。
玉音がなかったら、本土決戦という泥沼に嵌まっていたかも知しれない。

それこそ葛城朝が二千年前に画策した血の民族同化の目論みは見事成功して、「大和単一民族」が完成していた証拠だ。

皇室は、日本の守り神として、間違いなく機能したのである。

余談ながら、敗戦後「熊沢天皇」なる人物が現れた。
彼は、自分こそ、「正統な南朝の後継者」と占領軍や国民にアピールした。

それが返って、「日本の占領軍統治には皇室が必要である」と判断される材料になり、戦争責任を問われない形で皇室の存続は決まった。

つまり皇統が危ない時、南朝は現れる。
或る種、皇室の存続を助けている結果が、何を意味するのか・・・・、神の意志かも知れない。


吉野宮陥落後も南朝は吉野山中にあって、四十五年、一旦和解の後、更に五十有余年と言う長い歳月をかけ、抵抗が続けられ、室町時代末期まで生き残って来たのには、「神の意志が働いていた」としか考えられない。
その間に吉野を離れ、全国各地に影宮家を起こし、事有る時にそなえた皇子の存在が、在ったとしても、違和感は無い。

あれからもう、六百七十有余年になる。
そして、未だに南朝の子孫を名乗る者も数多い。

天界(高天原)の神々は、この大仕事の為にあらゆる準備をした。
その時代の人々はまだ信心深く、神様は何処にでも居た。
経典が信じられ、呪法が信じられる時代だからこそ茶吉尼(だきに)天や八咫烏(ヤタガラス)、巳(みい)様たちが現れ活躍した。

何時の頃からか神も仏も忘れられ、現代と言う暗黒の時代に、人々は生きている。
村祭りもイベント化し、神事よりも人々の楽しみの場としての性格が強い。

国が乱れし時、絶えず英雄が現れ、見事な働きをする。
源頼朝・源義経、後醍醐天皇・大塔宮護良親王・足利尊氏、織田信長・明智光秀、明治天皇・西郷隆盛、坂本竜馬、高杉晋作悲運の男達である。

彼らが隼人族の末裔、スサノオの化身達と思うのは無理な事だろうか。
しかし、彼らは新しい歴史の幕開けとともに、表舞台から消えていく。
新しい時代に、居場所が無いのだ。
そして何時の時代でも、生き残るのは野望に溢れる鵺(ぬえ)だけである。

明智光秀が皇統を救ったにも関わらず、後の世まで「裏切り者」で居る訳は、彼が救った皇統が北朝で有り、維新後の皇統が南朝に変わっていたからに他ならない。
従って、南朝方の諸将の様に歌や教科書に載るような賛美は、今日までない。


今から六十年ほど前、天皇は神だった。
苦い想い出だからもう忘れてしまったのか、戦後生まれの若い方は知らないが、戦前の国家体制では確かに天皇は現人神(あらひとがみ)だった。
敗戦後「人間宣言」をして神から人間になった。民主国家の今では触れたくない、尊王派の維新政府が画策した過去の事柄で有る。

個人的に、いかなる信心をするのも勝手だが、或る意図をもってそれを強制する所に信仰の危(あやうさ)がある。
祭り上げられた天皇も被害者であろう。
あんな不自由なお立場を本人が願うとは思えない。

しかし身近に、未だ「神のごとく」を要求する取り巻きがいるらしく、民間から入内した現皇后、現皇太子妃が二代に渡り体調を崩して居られる。
皇室の常識を強要する愚を犯し、「人間性を否定している」と推察する。

側室システムも、男子禁制の内裏(だいり)の定めや男子禁制の大奥、御三家御三卿も、その成立要件は、言わば「血統至上主義」の産物である。

口に出しては言い難い現実論だが、矛盾する事に、事の賛否はともかく、現代の皇室においてはこの「血統至上主義」が求められながら、それに対応する妾腹システムの合意は、現代の社会通念では認められない。

現代の皇室における皇位継承問題も、正に建前だけを押し付けた「矛盾の迷路」とも思え、その無理を押し付けているのが、「周囲の無責任な輩である」と言えるのではないか?


神の杜には、桜の古木が良く似合う。花見の春祭りが終ると、満開の桜が散り始め、舞い落ちた境内に花びらのジュータンが優しく足跡を包み込む。

古(いにしえ)の男達の生き様を、見つめ続けた葉桜交じりの境内は、静寂(しじま)を取り戻し、社(やしろ)がひっそりと佇(たたず)んでいる。
この神の領域は、「今、何を末裔達に告げようと言うのか?」
世の中、どうやら遅れて来た者が良い思いをする事になっているらしい。

思い起こして欲しい。
どの時代でも、最初に歴史の扉を開いた者が成し遂げた事例はない。
不条理な事に、大概の所、知恵と勇気で困難を切り開いた者よりも、三番手くらいで追いかけていた奴が、「棚ボタ式」に天下を取る。

何故なら、目の前でケーススタディを学習するからで、傍目で見ればずるい話だ。しかし、事を起こす者が居ないと、新たな扉は開くきっかけがない。この事を貴方は如何(どう)理解するであろうか?


明治維新から百四十年、今日本経済の春は、先が見えない。
景気回復の報道をよそに、小、零細企業の閉店、倒産は続いている。
少子高齢化が進み、貧困にあえぎ、路頭に迷う人が増え続けている。
彼らは、政治に見捨てられたのか?

この少子化時代に、国を見捨て海外移住する若者は男女とも確実に増え続けている。
国民の居ない国家は成立たない。
人口が減り、総合力が落ちれば国は衰退する。

氏と民の血が混じり合い、この国の民は一斉に同じ方向を向く民族に仕上がった。
それが民族の力とも言えるので、「悪い」とばかりは言えないが、現代の日本人は、猫も杓子(しゃくし)も「ブランド品好き」で、横並びの安心感を求めている。

この横並びの安心感、永い混血の歴史を持つ日本人の血統的な要因の成せるものである。

大王(おおきみ)の密命は、この誓約(うけい)の概念を持って「新たなる大部族を成す事」に有った。
しかし国際化時代の今日、一歩他国と対峙した時には、国内の常識が通じない事を肝に命ずべきである。


本当の影人は、余り歴史に現れない女性である。
古来より女性は、命を繋ぐ実りの大地だった。
その大地の心が痩せ、命の実りを遠ざける様に成ったのは、「男と女の役わりの壁を取り除こう」と言うばかげた発想のおかげだ。

いったい何十億年かけて、人間は「自然のどれだけをコントロールできる様になった」と言うのだ。
うぬぼれて、最もシンプルな自然の摂理さえ忘れてしまっている。

命の誕生は奇蹟である。
命を繋がなければ、歴史は紡げない。
真言密教の奥義では、「命を繋ぐ事」そのものが繁栄をもたらす呪術だったのかも知れない。

女性がその呪縛から解き放たれ、子を産まぬと言う「選択の権利」を主張し始め、男性はパワーを失って、神の国は根底から崩れ、確実に滅びの道を歩み始めている。

人間の命の巡環は大切なもので、過っては「それを拒否する」など考えられなかった。
そこから、人間の「人間らしさが失われた」と、考えらざるを得ない。

人間は自分の子供の「親になる為に生まれて来た。」それが、自然の摂理である。
処が、その真理を無視し始めたから、全ての歯車が狂い始めた。

時代に拠って、必要な精神は必ずしも同じではない。
確かに、それが必要な時期が在ったかも知れないが、今が同じ精神で通るものでも無い。
しかしながら、行過ぎた反省で次の精神を構築するのは正に病的なもので、「危険」としか言えない。

日本の建前主義の悪い所は、「建前を決める」と「もう通達したのだから」とそれで「終った気に成る事」である。

この建前主義の弊害を、先の第二次大戦を「例に取る」と良く判る。
当時のリーダーは、一旦、建前上有っては成らない事を決め、それの履行を前提として「起こり得る問題」を、建前で簡単に切り捨ててしまった。

兵に教育したのは、「生きて虜囚(捕虜)の辱めは受けるな(捕虜に成るなら死ね)」だったから、建前、降伏して捕虜に成る者はいない。
捕虜に成る者が居ないのだから、降伏兵から「敵に情報が流れる事はない。」と言う論法で、本来危惧すべき事項(情報管理)を放置した。

こんな建前主義で、戦争に勝てる訳が無い。
せめて、「あれは建前だから」と言う「本音」が有れば良いのだが、「官僚主義(軍指導部も官僚である)」は前提を動かさないから、米国の尋問所に連れて行かれた日本軍の降伏兵から、あらゆる情報が尋問を通して相手国に伝わった。

暗号から装備兵器、軍艦や飛行機の見取り図、軍需工場の所在地など、あらゆる情報が流れる危惧を「無いものは無い」と建前に固執して放置し、なんら対策を取らなかった。

現在、行政の指導不足で起こる数々の不祥事の根底にあるのが、この終った気に成る「日本の建前主義」である。

日本の行政に於いて、「在ってはならない事」と言う建前表現をした途端、以後その事は「無い事」として対策も採らずに処理してしまうのが無責任な日本式行政処理である。
つまり公務員の失敗や犯罪については、建前上在っては成らないから「想定すら」していない。

この「建前主義」は、官僚が手抜き(仕事をしない)をする為の「絶好の言い分」に使われている。

学習機会が過去に数多く在ったにも関わらず、この国は未だに「建前主義の官僚の国」で、一旦決めた建前を前提に、強引に事を進め、「起こり得る危惧」は、「有ってはならない事だから検討をしない」と、為すべき義務を放置して押し通すのである。


「建前と本音のかい離」は、庶民に取って「相当」に胡散臭い。
しかし、そんなばかげた事を押し通しているのが、未だに神のごとき「高みに身を置いている」官僚と政権政党の責任である。

歴史や性の事を都合に拠って蓋をし、奇麗事に誤魔化して隠してしまうやり方は、後に混乱をもたらす。
これらは、言わば触れられたくない過去、触れて欲しくない事柄の類だろう。

はっきり言うと、最近事件が多発する「性の事」一つとっても建前ばかりを連呼するばかりで、本音とのすり合わせが出来ていない。
近頃起こっている事件は、正面で向き合わず、奇麗事で蓋をし「建前に終始した弊害が噴出している」と捉えるべきである。

ただ「蓋をして隠せば良い」と言う安易な発想は、基本的に間違いで有る。
物事の本質を真剣に考えれば、奇麗事の建前は矛盾に満ちており、内心そんな者を信用する人間はいない。

取り組むべきは闇雲に蓋をする事ではなく、正面から向き合って「何を成すべきか」の答えを出す事である。

しかし彼らは、無能なのではない。
有能な詐欺師なのだ。
面倒な事は建前に逃げ、自らの利のみに走っている。


明治政府は、西洋式に民兵を招集する事には参議一同賛成していた。
しかし発想は氏族の発想だった。

その発想の元に明治政府の官が形成されて、官の立場が「お上の命令」になり、その亡霊が官僚の意識となって今日に及んでいる。
官僚が「民僚」に変わらなければ、百年経っても変わるものではない。
民主国家なら、意識変革ばかり言わないで文字(肩書き)も帰るべきである。


近頃のこの国は、上辺だけの調子の良い精神論の意見が持て囃(はや)される様で残念で成らない。

人類ほど矛盾した生き物は居ない。
その中でも日本人ほど矛盾が多い人種は少ない方で、勘違いしているかも知れないが品格が在ったら指導者など成れない。

現実の所、競争相手を権謀術策で退(しりぞ)け、勝ち組みとして伸し上がるには品格も何もあったものではないのである。
それを奇麗事にしてしまい、ウッカリすると神社に祭られて神様に成る。

多神教の国・日本人の「良い加減(イイカゲン)」を妥協と見るかバランス感覚と見るか、難しい所である。
これは一神教を信ずる人種には信じ難い事だが、少なくとも、正月に宮参りをし盆には寺に参りクリスマスも大して意義を知らなくても祝う人種で、宗教的な対立感情は薄い。

良い悪いを別にして、いずれにしても極限まで強情を張らず「良い加減(イイカゲン)」で妥協を模索する人種である。


「国家の品格」に武士道を持ち出すのは大間違いで、まるで歴史的事実を知らない性もない精神論者である。
長い歴史の中で、血統(産まれ)だけを根拠に「搾取を生業(なりわい)」としていた武士道に「品格」などある訳が無い。

そうした事実を建前に隠して憧れ沁みた格好が良い事を言うから、日本人は逆上(のぼ)せ上がる。

日本の武士道が、世間で言われて居るような精神的(君命なら切腹もする)なものに成ったのは、江戸期に入ってからで、その後の僅(わずか)二百五十年間の事である。

当然ながら、武士道は国民の数パーセントを占めるだけの特権階級、武士(サムライ)の精神的な思想だった。

我輩に言わせれば、「武士(サムライ)」と言う名の世襲特権階級の、実に滑稽な主君に対する忠勤思想が武士道である。

その滑稽な忠勤思想は自虐的であり、滅びの美学を含んでいたから見た目感動を呼ぶのだろうが、現実にはそんな思想を建前でなく本音で守った武士(サムライ)は、もっと少ないウエイトだった事で在ろう。

歴史的に見ると江戸期の一般の大衆はむしろ平和主義者で、武士道などは他人事だった。
つまり、大概の国民にはフィクションに近いのが、建前論の「武士道の国日本」である。

それを、明治政府は「国民皆兵政策(徴兵制)」の為に利用して、「日本は武士道の国だ。」と言い出した。

国民は「格好の良い事」に騙され易いが、つまりは、国家体制の為に利用した精神で、今日またぞろ「武士道の国」が言い出される環境は、実は危険性を孕んでいる。
耳障りの良い言葉やムードに酔わないで、真実を考察して欲しいものである。


国家の品格」と言うと非常に聞き耳良く聞えるが、良く考えて欲しいのは「国家」と「国民」が必ずしも一致しない事である。

政治家と官僚はふた言目には「国家の為」と言うが、それは時に国家の為に「国民」を犠牲にする事を含んでいる。
その覚悟と理解が、「現在の日本国民に在る」とは思えない。

「家」の概念は時代と伴に変わる。
氏族は、古(いにしえ)より血統を基本とした「家」を大事にした。
それが江戸幕府(徳川政権)の忠勤思想(儒教・儒学/朱子学の精神思想)武士道に拠って「仕えるお家の為」に成り、維新後の明治政府に拠って「国家の為」へと変貌して行く。

その「国家の為」と言う掛け声の奇麗事で、多くの民に犠牲を強いたのが先の世界大戦(太平洋戦争)だったのである。



だが、やがて新しい制度の中で新たな権力が育って富が一部に集中し、その財力が日本を戦争への道へ進ませ、悲惨な歴史を刻み始めるのに五十年とは要さなかったのである。

「財閥と軍部の台頭」がそれで、つまり、近、現代における政治・経済の構造は、漏れ無く「四、五十年」で体制疲労してしまうのだ。

明治維新に拠って士族社会と言う特権枠が取り除かれ、庶民も学問次第で「為し得る地位の権利」を平等に保有するように成ったが、それは永く続いた村社会(共生社会)の崩壊の序章であり、それと同時に新しい形の格差が始まった時代でも在る。

この希望に燃えた夢の時代は、はかなくも「軍閥と財閥」と言うモンスター(怪物)を生み出し、やがて「軍閥と財閥」の利の為に政治が動かされて国家国民が戦争へと駆りだされて行くのである。


先の大戦に至る日清戦争、日露戦争、朝鮮半島併合、満州国建国、など近隣国を巻き込む「不幸な歴史」も、その背景には「日本国内の不況」と言う事情が在った。

昭和初期、日本は金融を主体とした経済恐慌に見舞われる。

昭和に入った頃、日本経済は第一次世界大戦時の好況から一転して不況となり、さらに関東大震災の処理のための震災手形が膨大な不良債権と化していた。
一方で、中小の銀行は折からの不況を受けて経営状態が悪化し、社会全般に金融不安が生じていた。

千九百二十七年(昭和二年)三月十四日の衆議院予算委員会の中での片岡直温蔵相の「失言」をきっかけとして金融不安が表面化する。

中小銀行を中心として取り付け騒ぎ(預金・貯金・掛け金等を取戻そうとして預金者が一時に金融機関の店頭に殺到して混乱をきたす事。)が発生し、昭和金融恐慌(しようわきんゆうきょうこう)と言う事態と成った。

昭和金融恐慌(しようわきんゆうきょうこう)は、日本で千九百二十七年(昭和二年)三月から発生した経済恐慌で、単に金融恐慌(きんゆうきょうこう)と呼ばれる事もあり、金融恐慌は本来は抽象的に経済的現象を指す言葉だが、日本に於いて特に断らない場合は千九百二十七年(昭和二年)の経済恐慌を指す事が通例である。

この経済恐慌の兆候は、一旦は収束するものの四月に財閥の一郭・鈴木商店(現在の双日のルーツの一つ)が倒産し、その煽りを受けた台湾銀行が休業に追い込まれた事から金融不安が再燃した。

これに対して高橋是清蔵相は、戦争・恐慌・天災などの非常時に、社会的混乱を避けるため法令により金銭債務の支払いを一定期間猶予するモラトリアム(返済猶予制度)を実地する一方、片面印刷の二百円券を臨時に増刷して現金の供給に手を尽くして現金の流通を増やし、銀行もこれを店頭に積み上げるなどして不安の解消に努めて金融不安は収まった。

昭和金融恐慌は、二年後に起きた昭和農業恐慌(千九百二十九年の世界恐慌の影響を受けて主に農業に経済的打撃を受けた)と合わせて「昭和恐慌」と言われる事もある。


千九百三十六年(昭和十一年)、民間人を含む皇道の派の二十歳代の隊付の青年将校のリーダー達十七名(大尉から少尉が中心)とその指揮下にある兵約千五百名に拠る「昭和維新・尊皇討奸」を目指す二・二六事件が勃発する。

斎藤内大臣、高橋蔵相、及び渡辺教育総監その他警備の警察官などを殺害したこの動乱も、皇道の派と統制派の権力争いの側面を持ちながらも、不況の中、陸軍士官学校出の青年将校が立ち上がった改革クーデターである。

維新の制度改革に拠って初めて氏族ではない将校が誕生するに至り、見捨てられた農村部の苦境が実感として判る様になったからである。
一部の金持ちと、多くの貧乏人と言う構図が出来上がっていた。

その背景には、財閥と軍の結び付きによる「富の集中」があり、暴力を肯定するものではないが、彼らの心情は察する所余りある。

その青年将校達の改革クーデターの試みが失敗すると、東条英機ら統制派の政治的発言力がますます強くなり、返って軍部の力が強まってしまい、経済問題までもが「武力解決が主流」になってしまった。